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anko3106 学校:冬(後編)
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ankoss
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『学校:冬(後編)』 35KB
いじめ 虐待 飼いゆ 現代 完結編です。春からずっと読んでくださった方に多大な感謝を 以下:余白
『学校:冬(後編)』
十二、
れいむは事態を飲み込めていないようだった。あの上白沢先生の爆弾発言以来、れいむに対する集団リンチの回数が目に見え
て減ってきている。すぐに回復する単純生物であるとはいえ、万が一加減を誤って重大な損傷を与えてしまったら、五年生に渡
すことができなくなってしまう。それを恐れて三日間、れいむは暴力を振るわれていない。それはこの一年間のサイクルを思い
返せば奇跡にも等しい事だった。
それから更に数日後。
れいむに変化が現れ始めた。稗田さんとさとりちゃんと徐々にではあるが“会話”を交わすようになってきたのである。会話
と呼べるほど長い言葉でやり取りをしているわけではないが、諦めずにずっと話しかけていた二人にとってはこの上ない喜びだ
ったのだろう。
二人にとってこの出来事は心を大きく成長させた。どんなに心を閉ざしている相手でも分かり合おうという意思がこちらにあ
る限り、必ず心を開いてくれる。れいむとの触れ合いが二人にそう教えてくれたのだ。
この一件。一見すれば稗田さんとさとりちゃんの粘り勝ちのようにも見えなくない。だが実際はそういうわけでもなかったの
だ。教室内におけるれいむへの扱いに関する比率の変化が、そうさせたのである。これまで一方的な暴力を受け続けていたれい
むは心を閉ざすことで自身を保とうとしていた。それがここ最近はそうする必要がなかったのだ。心を閉ざさなくとも生きてい
ることのできるれいむにとって、稗田さんとさとりちゃんという自分に話しかけてくれる存在が新たな心の支えとなりつつあっ
たのだ。故に、クラス一同のれいむに対する扱いが変わらなければ、れいむが二人に心を開くこともなかっただろう。
「むーしゃ、むーしゃ……おねーさん、ゆっくり……ありがとう」
「どういたしまして。でも、ごめんね? 今日はマヨネーズパンだったから、皆たくさん食べちゃって……」
稗田さんがパンを水槽の中に入れながら苦笑いする。マヨネーズパンのマヨネーズ部分だけ綺麗に食べて残している猛者もい
たのか、パンの中央部分が抉れた形をしている物もあった。さとりちゃんがクスクス笑う。
「でも、大丈夫だよ。稗田さんは小食だから、あんまり給食たくさん食べれないもの」
「えへへ……。先生には怒られるんだけどね。れいむちゃんの所に持っていけば、ばれないんだ~」
「ゆ……? そうなの……?」
「うん。だからね、私としては助かってるんだ~。ありがとうね、れいむちゃん」
「ゆ……? ゆゆ? ゆっくり、どういたしまして、だよ……?」
二人の言っている意味が今ひとつ理解できないのか、小首を傾げるような仕草で戸惑い混じりの返事をするれいむ。それを見
てさとりちゃんが小さく笑った。それにつられたのか、れいむも静かに笑ってみせた。
教室の隅。集まった数人の女子が小声で井戸端会議を行っている。その表情は決して穏やかではない。
「……ねぇ。最近れいむさ……調子に乗ってきてるよね……?」
「うん。何笑ってんの、って感じだよ。あれだけ私たちに痛めつけられたくせに、まだあんな顔する余裕があったんだね」
「上白沢先生にあんな事言われてなければ、またれいむに“躾”をしてやれるのに……」
凍てつくような瞳でれいむを睨みつける女子。その憎悪たるや凄まじいの一言に尽きる。一年間かけて壊したはずのれいむの
心が短期間で修復されたのが腹立たしい。そして、下級生に“自分たちの玩具を取られたのが気に食わない”。
クラス一同は、れいむに対して肉体的な虐待を行ってストレス発散をしていただけではなかった。れいむの心の管理。理不尽
な暴力を与え続ける事でれいむの精神を管理することに、この上ない優越感を覚えていたのだ。すなわち、泣かせたいときに泣
かせて、ギリギリのところで“救ってやる”。れいむに関する精神管理の選択権を常にクラス一同が所有することで、大きな連
帯感を生み出しここまで長期間に渡る“集団いじめ”へと発展してきたのだ。
更にれいむに防衛手段はない。これが同級生に対するいじめであれば、いじめの対象になった生徒は両親や教師に相談をする
ことができるだろう。自己防衛の為の不登校という措置を講じることもできる。しかし、れいむは天涯孤独のゆっくりで、居場
所は唯一水槽の中のみだ。どこにも逃げることはできない。
やがて心が腐食し、朽ちていく。それがれいむの運命のはずだった。クラス一同が描いたシナリオのはずだった。しかし、や
はり小学生の描くシナリオなど三文芝居に過ぎない。自分たちが卒業した後のことなど、誰も考えていなかったのだ。
その日の放課後、数人の男子を中心に久しぶりにれいむに対して“躾”を行った。相変わらず「痛い」、「やめて」、「許し
て」を繰り返すのみである。しかし、男子たちは見逃していなかった。これまで廃ゆの様になっていたれいむの表情に、少しば
かりの生気が宿っているのを。
「この糞ゆっくりが!!」
「ゆ゛ぎぃッ!? ゆ゛ぶぇっ!! ゆ゛ぼお゛ぉ゛?!! い゛だい゛……よ゛ぉ……やべで……や゛べで……」
「ちょっと話し相手ができたからって調子に乗ってんじゃねぇよ」
「お前はゴミなんだよ。喋るゴミなんてないだろ? だから、黙ってろ……よっ!!!!」
「ゆ゛げぇ゛ッ!!???」
男子の拳が、脚が、れいむの柔らかい顔にめり込む。机の脚に叩きつけられたれいむの顔の中心がべっこりと凹んでいた。
「……それくらいにしておきなさい」
教室の後ろから紫ちゃんが声をかける。男子は心臓が口から飛び出さんばかりの勢いで体全体を跳ね上げた。紫ちゃんの
存在に全く気がつかなかったのである。これが上白沢先生か五年生の二人だったらと思うと身も凍る思いがした。男子の一
人が心底ほっとした様子で紫ちゃんへと向き直る。
「驚かせるなよ……。紫も意地が悪いぜ……」
「あなたたちが無防備すぎるのよ。少し夢中になりすぎだわ」
「悪かったよ。久しぶりの“躾”だったから、つい気合いが入り過ぎちゃって……」
「ゆっ、ゆっ、ゆっ、ゆっ……いたい……よ……たす……けて……。たす、けて……」
「…………」
蠢くれいむを紫ちゃんが見下ろす。れいむは床に自分の顔をこすりつけて痛みを紛らわそうとしていた。
「たすけ……て……。たすけ、て……。いたいよぅ……」
「…………」
「紫?」
「え?」
「え、じゃないだろ。どうしたんだよ。ボーッとして。お前らしくもない」
男子の一人に言われて紫ちゃんがハッとした表情を浮かべた。いつの間にれいむの傍らにまで移動していたのだろうか。それ
を紫ちゃん自身が気づいていなかった。紫ちゃんが溜息をつく。男子が「本当に大丈夫か?」と紫ちゃんの顔を覗き込んだ。紫
ちゃんは「大丈夫よ」と言って、れいむに背を向ける。男子も興を削がれた気分になったのか、ズタボロのれいむを水槽の中に
戻した。
「気分悪いんなら、お前も早く帰れよ? それか八意先生の所に行って看てもらえよ……」
「……そうね。そうするわ。ありがとう」
「じゃーな。無理すんなよ」
「うん。また明日ね」
男子が教室の外へと出て行く。紫ちゃんはしばらく教室の真ん中で立ち尽くしていた。誰もいなくなった教室で、一人自分の
席へと歩いて行き、横にかけてあったランドセルの中から一枚の手紙を取り出す。封筒には差出人の名前。切手には一昨日の消
印が記されていた。カサカサと封筒の中から真新しい便箋を抜き出す。それを黙読した。読み終えた後、れいむの入った水槽へ
と視線を移した。
(自分で招いた事とは言え……どうしたものかしらね……。あんな死にかけのゆっくりなんて写真に撮っても、“あの子”が納
得してくれるはずなんてないわ……。学校行事の事を手紙に書いても、去年の事を思い出せてしまうだろうからと思って、れい
むの事を手紙に書いたのは失敗だったわね……)
紫ちゃんが親指と人差し指に力をかけると、便箋がクシャッという音を立ててその形を崩す。れいむは呻き声を上げたまま、
微動だにしなかった。紫ちゃんがそこへ足を向ける。水槽の壁一枚隔てて、紫ちゃんとれいむが対峙する。ここに立つと、東風
谷さんを泣かされたときの事を思い出してしまう。れいむを見下ろした紫ちゃんが心の中で呟いた。
(……今更、無理よ。れいむの笑顔を取り戻すなんて……。もう、遅すぎるわ……)
過去の記憶が蘇る。
紫ちゃんは五年生の副委員長。そして学級委員長を任されていた、綺麗な長い黒髪に鮮やかな赤いリボンを結っていたあの少
女。その少女が座っていたはずの席。その少女はクラスの一部の女子からいじめを受けていた。誰もが見て見ぬフリをした。紫
ちゃんもその一人だった。不登校に陥ってしまったその少女に対して、プリントや時間割を持っていくのは副委員長である紫ち
ゃんの役目だったのである。そのときの教師は言った。「なんとかして、あの子を学校に来るよう説得してほしい」、と。
――今更、無理です!! “あの子”の笑顔を取り戻すなんて……っ。……手遅れですよ……。どうして、私にそんなことを押
しつけるんですか……。
紫ちゃんが目を閉じる。
(変わってない……。結局、私は一年前と同じなんだ……。あの場所から少しも進んでいない)
それからもう一度、うずくまるれいむを見た。
(……“れいむ”に、“あの子”を重ねるなんて……皮肉もいいところだわ……)
紫ちゃんが無言のまま教室を出て行く。
風が乾いていた。通い慣れた双葉小学校の校庭をゆっくりと歩いていく。それから、通学路に出る。空き家になった“あの子”
の家の前を足早に通り過ぎた。
もう、時間がない。今のままでも十分に手遅れだと言うのに、時間だけがどんどん過ぎていく。心が空虚になっていくのを感
じた。
「ゆわぁぁぁ!! まりさたち、なんにもわるいことしてないのぜぇぇぇ!!!」
「ゆっくち! ゆっくち!!」
「ゆんやぁぁぁ!!! れいむのかわいいちびちゃんがぁぁぁぁぁ!!!」
「……!!」
紫ちゃんが前方に視線を向ける。そこには道路を横切る形でぴょんぴょんと跳ねていく薄汚い野良ゆっくりの親子がいた。そ
れを追いかけるように保健所の職員がゴミ袋を片手にゆっくりたちへと迫る。野良ゆっくりの駆除風景だ。黒い三角帽子の横を
赤いリボンが跳ねていく。既に“かわいいちびちゃん”は見限ってしまったらしい。保健所の職員に捕まった赤ゆが大声で泣き
叫んだ。
「ゆんやあぁぁ! おきゃーしゃんのばきゃあぁぁ!!! れーみゅのこちょ、きらいになっちゃったにょぉぉぉ!??」
「ゆっくりごめんね!! ゆっくりごめんね!!!」
「れいむ! なにやってるのぜ!! はやくにげないと、まりさたちまでえいえんにゆっくりさせられぼふぉあ゛ぁ゛ぁ゛ッ!!???」
二人目の保健所職員によって金属バットで叩き潰される野良まりさ。その残骸を手早く回収してゴミ袋の中に投げ入れる。そ
れを見た野良れいむはおそろしーしーを噴射しながら、ずりずりと後ずさり始めた。やがて塀に後頭部を打ち付けて止まった。
ガタガタ震えながら「いやいや」をするように顔を横に振る。その表情は怯えきっていた。
「だずげでぐだざい……れ゛い゛む゛だぢ……ふゆざんがぎで……ざむ゛い゛ざむ゛ぃで……ゆっぐり、でぎなくで……。ごみ
さんをちらがじだのはあ゛やばりま゛ず……。ごべんな゛ざい、ごべんな゛ざい……もう、じまぜん……。だがら、ごろざない
でくだざい……おでがいじば……――――」
問答無用で振り下ろされる金属バット。野良れいむの頭は変形して二方向に弾け飛んだ。中身の餡子がボトボトとアスファル
トに叩きつけられる。飛び出した目玉は側溝の中に転がっていった。
紫ちゃんが目を伏せる。
(……れいむは“幸せ者”か……)
紫ちゃんは家に帰るまでその事を考え続けていた。
三月も二週目に入ると卒業式練習などが全校一斉に行われ始めた。卒業証書の受け取り方から送辞と答辞。送辞は稗田さんが。
答辞は紫ちゃんが行う手筈になっている。それから卒業式の歌の全体練習。また、慌ただしい時期がやってきた。だからという
わけではないが、授業時間がごっそり減ってしまい勉強嫌いな一部の児童はむしろこの状況を喜んでいた。
反面、紫ちゃんたちのクラスには弊害も生まれている。授業が終わる時間が早くなったせいで、いつまでも教室に残っている
と先生たちから早く下校するようにと促されるのだ。だから三月に入ってかられいむに対する“躾”が滞ってしまっている。
「れいむちゃん! 今日はジャムがついてたから、ジャムも一緒に持ってきたよ」
「ゆゆ? なんだか、あまあまなにおいがするよ? は、はやくたべさせてね!」
「ふふふ。ちょっと待っててね」
稗田さんとさとりちゃんが教室に現れるとれいむは嬉しそうに笑うようになった。それを見て腸が煮えくりかえる思いをする
クラス一同だが、下級生二人の行動を咎めることもできなければそれをする理由すらない。
そんなある日。恐れていた事件がついに起こった。聞き耳を立てていた女子の表情が一瞬で青ざめる。
「ここのおへやにいる、おにーさんたちやおねーさんたちは、れいむにいたいいたいをするんだよ……っ!」
「え……?」
「――――!!!!」
執拗なまでに繰り返されていた日々の暴力。それが終わりを告げた。その事についてれいむはこう解釈したのである。クラス
の男子と女子は、どういうわけか自分に手を上げることができなくなった。暴力を振るわれさえしなければ、クラスの男女など
怖い存在ではない。その無謀な考えを加速させていくのが、まるで奴隷のようにかいがいしく自分の元へと現れ、食料を献上し
ていく稗田さんとさとりちゃんの存在。
究極の話、これが“ゆっくり”という生き物の思考回路なのだ。幸せをちらつかせれば過去の出来事など一瞬にして忘却の彼
方へと消し去ってしまう。そして、れいむは新しくできた“味方”に“敵”の事を語り出したというわけだ。
「れいむはね……っ! このくそじじいとくそばばあたちに……まいにち、まいにち、ひどいことをされてたんだよっ! れい
むが“やめてね”っていっても、ぜんぜんきいてくれないんだよっ!」
「あ……」
「ちょ、ちょっと……!!」
諏訪子ちゃんが両者の間に割って入る。紫ちゃんも既にカットの体勢に入っていた。しかし、一度放出が始まったれいむの恨
み言は止まらない。
「れいむはまいにちないてたんだよっ! だれもたすけてくれなかったんだよっ!! おねーさんたちは、れいむにやさしくし
てくれるんだよねっ? だったら、くそじじいとくそばばあをみんなやっつけてね! すぐでいいよっ!!!」
「え……と……?」
稗田さんとさとりちゃんは訳が分からないと言った様子でうろたえている。無理もないだろう。二人にとって六年生のこのク
ラスは、突然「ゆっくりと遊ばせてほしい」というお願いをしたにも関わらず、それを快く了解してくれた優しいお兄さん、お
姉さんのクラスなのである。れいむの言葉を信じることができない。
「ほんとうだよっ! れいむをしんじてね! れいむは……――」
刹那、激しくガラスの割れる音が響いた。教室内全ての視線が一点に注がれる。砕け散った窓ガラス。床に転がる移植ごて。
ガラスの向こう側に佇む風見さん。全員、言葉を失った様子でその異様な光景を見つめていた。無表情の風見さんが教室の中に
ゆっくりと入ってくる。れいむも音に驚いたのかフリーズしてしまっていた。
「ごめんなさい。手が滑ったわ」
「そ、そうなの……」
「稗田さん、さとりちゃん。今からお姉ちゃんたち、ガラスの片付けをしないといけないから。危ないから二人とも今日は教室
に帰ってて。ね?」
優しい笑顔でそう言う紫ちゃんを見て、二人が顔を見合わせる。それから「わかりました!」と元気よく返事をして教室を出
て行った。
それから、無言で割れた窓ガラスの片付けを始める男子たち。紫ちゃんと風見さんが互いに目配せする。
「ありがとう、風見さん」
「こちらこそ。私の考えに貴女が気づいてくれなかったらどうしようかと思っていたわ」
「……ガラス割って、怒られ損になるもんね」
「何言ってるのよ。ガラスを割ったのはあそこの男子たち」
「――えっ!?」
「え?」
「何でもないです。僕たちが割りました」
「ね?」
「そ、そうね……」
気の毒な男子たちがエクトプラズムを吐き出しながら無言で掃除を続ける。風見さんが溜息をついた。
「まぁ、後のことは貴女に任せるから」
そう言って花壇へと戻っていく風見さん。
「てめぇ、何調子乗ってんだよっ!!」
水槽の前から怒号が響いた。紫ちゃんも慌ててそちらに駆け寄る。れいむは真っ直ぐに集まったクラス一同を見上げていた。
涙も流していない。勝ち誇ったような顔で周囲をぐるりと見渡す。
「ゆふふ……っ。れいむ、もう、わかっちゃったよ。くそじじいとくそばばあは、あのおねーさんたちがいると、れいむにいた
いいたいをできないんだねっ!!」
れいむが嬉々とした様子で言葉を続ける。
「それに……もうすぐ、くそじじいとくそばばあは、このおへやをみんなでていくんだよね! おねーさんたちがいっていたよ!
それから、れいむは、あのやさしいおねーさんたちとあそんでもらえるんだよね! もう、れいむは、ぜんぶわかってるんだよ!
おしえてもらったんだよ!!」
「この……っ」
「だから、くそじじいとくそばばあは、ゆっくりしないでどこかにいってね!!!」
「何言ってんのよ、この糞ゆっくり……っ!!!!」
「きょうからここはれいむのゆっくりぷれいすだよっ!!! じゃまなくそじじいとくそばばあは、さっさとどこかにきえてね!
すぐでいいよっ!!!!」
怒りが頂点に達するものの、その怒りを直接目の前の下等生物にぶつけることができない。皆、一様に拳を握り締めていた。
れいむは「言ってやった、言ってやった」とニヤニヤ笑いながら、集まるクラス一同に視線を送っている。それから、その視線
を紫ちゃんへと移した。それに気づいた紫ちゃんも、れいむを睨みつける。
「そこのくそばばあ! れいむのことを“たすけてあげる”なんていって、いちどもたすけてくれなかったね!! おまえはな
んなの!? じぶんでいったこともまもれないばかなのっ!? しぬのっ!?」
「………………」
紫ちゃんが拳を握り締めた。男子の一人が身を乗り出す。
「ゆひぃっ!?」
拳を振り上げた男子の腕を紫ちゃんが掴む。物凄い力だった。男子の動きが押さえ込まれる。男子の腕を押さえながら、紫ち
ゃんは凄まじい形相でれいむのことを睨みつけていた。このまま睨み続けていれば、れいむが突然爆発して死んでしまうのでは
ないかと思うほどの形相である。
「ゆ、ふふ……。どうしたの? れいむにいたいいたいをしないの? できないんでしょ?」
「何なのコイツ……っ!!! もういいよ、紫ちゃん! コイツ殺そう!!!!」
諏訪子ちゃんもこれまで見せたことのないような表情で激昂する。その迫力たるや、れいむを祟り殺そうとせんばかりの勢い
だ。諏訪子ちゃんの“殺そう発言”に我に返った一部の女子が慌てて諏訪子ちゃんをなだめ始める。東風谷さんはどうしていい
か分からずに涙を浮かべていた。
「……掃除の時間になったわ。皆、掃除場所に向かって。六年生が遅れるわけにはいかないから……」
紫ちゃんの一言にクラス一同が渋々教室を出て行く。れいむは紫ちゃんに向かって言った。
「れいむはね。かわいそうなんだよ……」
「…………」
「れいむはね、ひとりぼっちだったんだよ」
「…………」
「れいむがないてても、だれもたすけてくれなかったんだよ!」
「…………」
「れいむはずっと……くそじじいとくそばばあにいじめられてたんだよっ!!」
「…………喋るな、糞饅頭」
紫ちゃんの口から発せられた冷たい空気の振動が水槽のガラス壁に当たって跳ね返る。近くでその声を聞いていた女子の数人
が怯えた様子で紫ちゃんを見つめていた。普段と違う紫ちゃんの口調。鬼のような形相。握りしめた拳。
「れいむは……」
「“お前”如きが……っ!!! 自分のことを“れいむ”なんて呼ぶなッ!!!!!!!!!!!」
紫ちゃんが叫び声を上げた。教室内の児童が一斉に紫ちゃんの元へ集まってくる。紫ちゃんは全身を強く震わせていた。涙目
になってれいむを見下ろしている。肩で呼吸をしていた。
れいむは水槽の中で絶句している。強烈な恐怖が心を支配していた。全ての思考回路が止まる。それは、誰もがゆっくりには
持ち合わせていないと考えていた、絶対的な強者に対する“本能による警鐘”。れいむは何も言われずとも理解していた。この
ままでは間違いなく自分は殺される。つい最近までそれを望んでいたはずなのに、既に五年生二人との幸せな日々がその考えを
上書きして消してしまっているのだ。それ故の恐怖。圧倒的なまでの畏怖。
「ゆ……ひ……あ……」
「ゆ、紫ちゃん落ち着いて!!!」
数名の男女が紫ちゃんを水槽の前から引き剥がした。今、止めなければ取り返しのつかないことになる。誰もがそう判断した。
今の紫ちゃんはれいむを躊躇いなく殺すだろう。言葉では上手く説明できなかったが、紫ちゃんを止めに入った児童たちはそれ
を理解できた。
れいむは水槽の真ん中で固まったまま、おそろしーしーをちょろちょろと漏らしていた。額からだらだらと汗が流れる。動く
ことができなかった。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。
「紫。お前、保健室行ってこい」
「…………」
男子の一人が紫ちゃんの肩を掴んで強い口調で言う。紫ちゃんは肩で呼吸をしたまま、れいむを睨み続けていた。先ほどから
れいむが一歩も動けないでいるのは、紫ちゃんの視線を外せないでいるからだ。男子が「おい」と声をかけても、紫ちゃんはれ
いむを睨み付けて離さない。女子は顔面蒼白でその異様な紫ちゃんの姿を見つめていた。
「紫!」
乾いた音がして紫ちゃんの左頬にじん……と痛みが広がる。そうして、ようやく紫ちゃんは正気を取り戻したようだった。思
わず紫ちゃんの頬を叩いてしまった男子が心配そうに紫ちゃんを見上げた。
「その……悪い。い、痛かっただろ……?」
「……平気よ……」
絶対零度のような口調はそのままに、紫ちゃんがようやくれいむから視線を外した。れいむは金縛りから解けたように全身の
力を失い、仰向けに倒れてしまった。れいむが荒い息づかいで水槽の向こう側を見る。何だったのだろう、今のは。まるで水槽
の壁……いや、自分の皮など全ての物理法則を無視して、れいむの心の深い所までやって来たかのような感覚。紫ちゃんの殺意
が体内に残っているのをれいむは確かに感じていた。紫ちゃんはあらゆる境界線を破壊して、れいむの心を握り潰そうとしてい
たのだ。
「ゆっ、ゆっ、……ゆはっ、はぁっ……」
呼吸が定まらない。れいむが喘ぐように必死に呼吸を整えようとするが上手くはいかないようだ。
「…………ごめんなさい。ちょっと保健室に行ってくるわ……」
「上白沢先生に言っておこうか?」
「お願いしていい?」
「うん」
「ありがとう」
紫ちゃんが教室を出て行く。静まりかえった教室の中で教室掃除担当メンバーがれいむの水槽へと目を向けた。
「あ…………」
男子の一人が目を丸くした。あれだけ大きな態度を取っていたれいむが、また数週間前のように廃ゆの様な表情をしている。
紫ちゃんとれいむとのやり取りは何分……いや、何秒くらいだっただろうか。紫ちゃんのれいむに対する殺意は、このクラスが
一年間れいむに対して行った仕打ちと同程度の恐怖だったというのか。普段、れいむを叩く為の武器にしている箒を握り締めて、
その場にいた全員が思わず身震いした。
紫ちゃんは保健室のベッドに腰掛けていた。頭が痛い。目の周りも痛い。あんなに“何か”に対して殺意を向けたのは初めて
の事だ。あの時は気がつかなかったが、背中にもびっしょりと汗をかいていた。紫ちゃんは白いカーテンに仕切られた空間の中
で、八意先生に渡されたタオルを使い体を拭いていた。それから思わずベッドの上に仰向けに倒れる。見上げた天井は真っ白で
それが紫ちゃんを少しずつ落ち着かせてくれた。もそもそと掛け布団の中に潜り込む。
――いい? あなたはひとりぼっちなんかじゃない! だって私がいるでしょ!
――…………。
――だから、私はあなたを可哀想だなんて思ってあげない!
――…………。
――あなたが、泣いてたら、絶対に私が助けに行くわ!!
――……紫、ちゃん……。……ありがとう……。
目を閉じ、唇を噛み締める。
そんなとき、周囲を覆う白いカーテンの一部に薄いシルエットが映し出された。紫ちゃんが訝しげな表情でそちらに目を向け
る。
「紫ちゃん……大丈夫ですか?」
「東風谷さん……?」
「……入っても、いいですか?」
「大丈夫よ」
「失礼します」
白いカーテンを引いて東風谷さんが紫ちゃんの前にやって来た。何か言いかけては口を噤む東風谷さんを見かねて、紫ちゃん
が先に声を掛けた。
「れいむ……どうしてる?」
「あれから、一言も喋っていません……」
「……そう」
「勘違いでしたら、すみません……。紫ちゃん、もしかして……れいむに……あの時の事を重ねているんですか……?」
東風谷さんの質問に紫ちゃんは答えなかった。紫ちゃんの呼吸に合わせて掛け布団が上下に動く。東風谷さんは、紫ちゃんの
沈黙を肯定の意として受け取った。それから、一呼吸置いて東風谷さんが口を開く。
「あの時の事は……紫ちゃんだけのせいじゃありません。……私だって、見て見ぬフリをしていました。他の皆だって、そうで
す」
「…………」
「だから、紫ちゃん一人が抱え込む事じゃないと……思います。ごめんなさい。上手く、言えなくて……」
「……すごく、いい子だったのよ」
「……はい」
「守ってあげられなかったのが悔しかった……。私の言葉なんて何一つ届いてなかったんだ、ていうのが悲しかった」
「…………」
「だから……叶えてあげたっかたのよ……。“あの子”が私にした唯一のお願いを……」
「……れいむの事、なんですね」
初めて打ち明けた。打ち明けなければ今度こそ自分がどうにかなってしまいそうだったからだ。東風谷さんは全てを理解して
くれたのだろう。それ以上は何も聞かなかった。
疲れてしまったのか紫ちゃんはそれ以上何も喋ろうとはしなかった。東風谷さんも「お大事に……」とだけ告げて保健室を出
て行った。
(……れいむの一年間の記憶を……都合の悪い部分だけ消すなんて、どう考えても無理よね……。あんな表情のれいむを写真に
撮ったとしても、意味がない……)
紫ちゃんが暗記した手紙の一文を心の中で呟く。
(……「“れいむ”の笑った顔が見たいです。あの教室の中で笑っている“れいむ”を見れば私もそこに一緒に居られるような
気がするから」……――か)
最近、何度ついたか分からない溜め息をまた吐いた。卒業まで時間がない。この短期間でれいむの笑った写真を撮るなど不可
能だ。それどころか、今のれいむは紫ちゃんを見れば怯えて泣き出したとしてもおかしくない。
紫ちゃんが目を開く。
「待って……」
それから上半身を起こした。
(……まだ、策はあるかも…………)
紫ちゃんが最近のゆっくりに関係する記憶を掘り起こしていく。越冬に失敗した野良ゆっくりの大量死。野良ゆっくりの駆除。
まるでパズルのピースを一つずつ嵌めていくように、紫ちゃんのシナリオが少しずつ描かれていく。紫ちゃんが掛け布団を握り
しめた。
シナリオを書き上げた紫ちゃんが無表情のままクスリと笑う。「きっと穴だらけの計画だ」と。そして、「それでも何もしな
いよりはマシだ」と続けた。紫ちゃんが窓の向こうに視線を移す。それから、覚悟を決めた。
ガラス窓にうっすらと映った紫ちゃんの顔。それがどんな表情をしていたのかは、誰も……本人さえも知らなかった。
平成二十三年三月二十一日。
この日は双葉小学校の卒業式だった。スーツや着物姿の父兄が体育館へと集まっていく。
紫ちゃんたちのクラスもこのメンバーで行う最後の「朝の会」を行っていた。とは言っても、上白沢先生による卒業式の段取
りの再確認が口頭で伝えられるだけの簡単なものだった。この日のために予行練習も行っている。準備万端と言っても良かった。
既にしんみりしている教室の中で、れいむも水槽の隅に顔を寄せて大人しくしていた。上白沢先生が教室中を見回して誰にも気
づかれないように苦笑する。
(こんな大人しいクラスだったかしらね。このクラスは)
流石に、皆それぞれ思うところがあるのだろう。普段鳴り終らない爆竹のような学級がしんと静まり返っている。下手に上白
沢先生が何か言えばそれだけで泣き出してしまう女子もいるかも知れないほどだった。
チャイムが鳴る。既に五年生のクラスまでは全員が体育館に移動を終えていた。上白沢先生が廊下に出ると、同じタイミング
で森近先生が隣のクラスから出てきた。
「そろそろ行きましょうか」
「そうですね」
二人の先生のやり取りを見て、紫ちゃんと西行寺さんがそれぞれのクラスに号令をかける。それから、体育館まで一歩一歩を
踏み締めるようにして歩いて行った。
体育館の中は厳かなは雰囲気に包まれていた。六年一組は西行寺さんたちのクラスだったので、そちらが先に体育館の中に入
る段取りになっている。それから、体育館の外まで卒業式進行役の教頭先生の声が届いた。
「平成二十三年度……第三十六回双葉小学校卒業生……入場」
体育館の扉が開け放たれる。それと同時に拍手の波が六年生一同を迎えた。全校生徒が。教師陣が。父兄が。今日と言う卒業
の日を祝福してくれている。十二歳とは言え、その意味の重さを少しは理解しているのかそれぞれの表情は固い。その顔には、
これから中学生になるのだという自覚がうっすらと映し出されていた。六年生一同が全員着席すると同時に拍手の音が止む。
それから、卒業式は滞りなく進んでいった。卒業証書授与。皆、壇上に上がり教えられた通りに卒業証書を受け取っていく。
それが終わると、稗田さんによる在校生送辞が始まった。流石に六年生の輝夜ちゃんと百人一首で張り合うだけの文化系少女に
よる、端麗な言葉遣いと流暢な語り口は見事と言う他なく教師陣だけでなく来賓や父兄も心の中で感心させられた。続いて、紫
ちゃんによる卒業生答辞。稗田さんの送辞を聞きながら、既に涙を流す女子も何人かいた。紫ちゃんは凛とした表情のまま、壇
上に上がると、稗田さんに負けず劣らずの澄み切った声で手元にある文章を読み上げた。この時点で、女子を中心に卒業生の三
分の一は泣いている。紫ちゃんは一度も言葉に詰まることなく最後まで答辞を読み上げ、美しい姿勢で一礼をした。
「卒業式の歌」
教頭の声が館内に響く。それから、卒業生と在校生が向かい合った。ピアノの伴奏。その旋律の一つ一つが……口から発する
歌詞の一つ一つが……長いのか短いのか良く分からなかった六年間の記憶を鮮やかに呼び覚ましていく。館内ですすり泣く声が
徐々に増えていった。ボロボロと涙を流しながら必死になって最後の歌を歌い続ける生徒たち。それを見て上白沢先生も泣いて
いた。森近先生も涙を人差し指でそっと拭う。
そのまま、泣き続けて一部の生徒は卒業式どころではない状態で式を過ごし、気付けば卒業式は閉会を迎えていた。それぞれ
の教室に戻って行く六年生。五年生以下はそのまま体育館内の片づけがあるのだ。教室に向かって歩きながら、東風谷さんと諏
訪子ちゃんは二人で大泣きしていた。文ちゃんと霧雨さんは泣きながら「中学校でも絶対に負けないから」と言い合っていた。
余談だが二人は陸上部に入る予定らしい。紫ちゃんと西行寺さんはそんなお互いのクラスを少し離れた位置から見つめていた。
「貴女も泣いてもいいのよ……? 貴女が泣いてくれないと、私もなんだか泣きづらいわ」
「泣きたいなら泣けばいいじゃないの……。どうせ一週間くらい経った後に再会するメンバーの前でボロ泣きしたいとは思わな
いわ……」
「そう……。じゃあ、中学校の卒業式の時は私も泣かせて貰えるのかしら?」
「だから、泣けばいいじゃないの……」
「ふふ……。私一人で泣くなんて厭よ」
「一緒に泣いてあげるから」
「ありがとう、紫」
風見さんは用務員の先生を捕まえて「あの花壇の花を枯らしたら殺す」と泣きながら脅していた。
教室に戻って、泣きながら話をする上白沢先生の言葉を聞いてまた泣いた。紫ちゃんを中心に用意した、クラス一同から上白
沢先生への寄せ書きを渡すと、上白沢先生は更に号泣した。
れいむは、そんな両者を虚ろな目で見つめていた。同時にれいむは理解していた。今日が、待ち望んでいた“その日”だとい
うことを。このいつもと違う雰囲気。稗田さんとさとりちゃんが言っていた「くそじじいとくそばばあがいなくなる」のは今日
に違いない。今日一日、これからどんな痛い目に遭わされても、それを耐えれば全てが終わる。幸せな日々がやってくる。れい
むはそう信じて疑わなかった。それを心の支えにして水槽の中で今日まで大人しく過ごしてきたのだ。この地獄のような一年間
から解放されると思うと、れいむも静かに涙を流していた。
最後の帰りの会。最後の帰りの挨拶。紫ちゃんが号令をかけた。
「起立」
同時に立ち上がるクラス一同。涙目の上白沢先生とこのメンバーで向かい合う最後の時。
「上白沢先生。……一年間、ありがとうございました」
「ありがとうございました!」×42
その言葉を聞いてまた上白沢先生が泣いた。女子の数名がそれを見て貰い泣きした。
涙、涙の卒業式はこうして幕を閉じたのである。クラス一同はそのまま父兄と一緒に合同の食事会に向かう手はずになってい
た。そのため、すぐに教室を移動してしまう。
教室の中には上白沢先生とれいむだけが取り残されていた。上白沢先生がれいむの水槽の前へと移動する。
「……稗田さんとさとりちゃんは、きっとあなたを可愛がってくれるわ」
「ゆ……?」
「嫌な思いばかりさせてごめんなさい。私のことを嫌ってくれても構わないわ」
「れいむは……だいじょうぶだよ……? なんにもされてないよ……?」
「……そう」
いつもと同じ調子で応えるれいむ。上白沢先生は一年間、れいむにこうして話をはぐらかされてきた。「駄目な教師だ」と自
分に言い聞かせながら、れいむの頭にそっと自分の手を乗せた。
「私が言えた義理ではないけれど……。ゆっくりしていってね」
「!! ……も、もういちど……」
「え?」
「もういちど、きかせてね……っ!!」
れいむが必死になって上白沢先生に声をかけた。うっすらと目に涙を浮かべている。上白沢先生はれいむに向き直ると、深呼
吸してから言った。
「れいむ。ゆっくりしていってね」
「ゆ……ゆぁ……。ゆっくりしていってね! ゆっくりしていってね!! ゆっくりしていってね!!!」
ボロボロ泣きながら「ゆっくりしていってね」を繰り返すれいむ。その涙が全ての“答え”だった。上白沢先生はれいむの頭
を撫でると、泣き続けるれいむにもう一度だけ「ゆっくりしていってね」と告げると、教室を出て行った。
全てが終わったのだ。何か月ぶりだろうか。挨拶を他者と交わしたのは。それはこの上ない喜びとなってれいむの全身を駆け
抜けていった。体の内側から、忘れかけていた「ゆっくり」が溢れて行くのが自分でわかる。
「れいむ……ゆっくり、できるんだね……! うれしいよぅ……っ! うれしいよぅ……っ!!!」
涙で視界が滲む。れいむはこの日、約一年ぶりに「痛い」とか「苦しい」とかの理由以外で涙を流した。
「れいむ……しあわせー!になるよ……っ」
十三、
その日の夜。
れいむは水槽の中で寝息を立てていた。何か月ぶりに見たか分からない楽しい夢を見ていた。そんなれいむの元へと近づく影。
その影はれいむの頭を考えなしに掴んでそのままれいむをゴミ袋の中に投げ入れた。
「ゆわぁぁぁ!? な、なんなゆ゛ぶべぇぇぇ゛ッ!??」
そのゴミ袋を力任せに壁に叩きつける。れいむは汚い呻きを一瞬だけ上げて静かになった。気を失ったか、或いは既に死んで
しまったのかも知れない。ゴミ袋にそっと耳を当てる。
「ゆ゛っ、ゆ゛っ、ゆ゛っ、ゆ゛っ……」
「……しぶといわね」
紫ちゃんはゴミ袋を抱えたまま、真っ暗闇の校舎裏へと歩いて行った。生暖かい風が木々をざわめかせている。月の綺麗な夜
だった。紫ちゃんは懐中電灯の光を頼りに一点を目指し歩を進めて行く。目的の場所にたどり着いた紫ちゃんは木材などの廃材
をガタガタと音を立ててどかしはじめた。そこには紫ちゃんが前もって掘っていた穴が口を開いている。
「や、やめてね……? いたい、いたいよ……。れいむ、なんにもわるいことしてないのにぃぃ……」
騒ぎ始めたれいむを思い切り踏みつける紫ちゃん。ゴミ袋の中でれいむが餡子を勢いよく吐き出した。汗がだらだらと流れる。
忘れかけていた強烈な痛みが無理矢理に思い出させられる。紫ちゃんはれいむを踏みつけたまま、ゴミ袋の上から先の尖った鉄
筋を思い切り突き刺した。
「ゆ゛ぎゃああ゛ぁ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛あ゛あ゛ッ??!!!」
「今のは、東風谷さんを泣かされた時の分よ」
「ゆぎっ、ひっ……? い゛だい゛……よ゛ぉ゛……」
突き刺さった鉄筋を力任せに引き抜く。その際にまたれいむが絶叫を上げた。今度はカサカサと音を立てるゴミ袋の膨らみの
中央に向けて、全霊の力を込めて鉄筋を垂直に振り下ろした。バァンッ!!!という激しい音がして、れいむの頭の一部が弾け
飛んだ。
「ゆ゛ぎっ、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!!!!!」
「今のは運動会が終わった後に、一生懸命頑張ったクラスの皆を馬鹿にした時の分」
「れ゛い゛む゛のお゛べべがぁぁぁぁ!!!!」
先ほどの一撃でれいむの目玉も一緒に外れてしまったらしい。突き刺された箇所と壊された部分から餡子が流れ出していく。
「れ゛い゛む……じぬ……じんじゃう゛よ゛ぉ゛ぉ゛……」
紫ちゃんは最後の最後まで情けない声を発し続ける饅頭に数発蹴りを入れた。傷口に障るのかゴミ袋の中で暴れ回っているら
しい。ゴミ袋がガサガサと音を立てながら蠢いている。紫ちゃんはあらかじめ用意していた中型のゴミバケツの中にれいむの入
ったゴミ袋を放り込んだ。そのとき、ゴミ袋の一部が裂けてしまったようである。れいむは、ゴミ袋の隙間から月明かりに照ら
された紫ちゃんを見た。
「くそ……ばばぁ……っ!!!!!! どぼじでごんな゛ごどずる゛の゛ぉ゛ぉ゛ぉ゛ぉ゛!!???」
紫ちゃんが懐中電灯の光をれいむに向けた。頭頂部の左半分が抉れている。飛び出したのは左目のようだった。紫ちゃんがク
スリ笑う。それを見たれいむが咆哮を上げた。
「れ゛い゛む゛にごんな゛ごどじで、お゛でーざんがだま゛っでるわ゛がないだろおぉぉ゛ぉ゛ぉ゛ッ!!!! れ゛いむ゛は
おでーざんだぢど……じあ゛わ゛ぜにな゛る゛ん゛だあ゛あ゛あ゛!!!! じゃまを゛……ずるな゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛!!!!!」
「れいむ。“お前”はここで死ぬのよ。だから、あの“お姉さん”たちと幸せになる“れいむ”は“お前”じゃないの」
「わ゛げの゛わ゛がら゛な゛いごどをい゛う゛なあぁぁぁぁぁ!!!!!」
「何も訳の分からないことなんてないわよ。今まで“お前”が入っていた水槽の中には別のれいむを入れてあるから」
「ゆ゛っ…………!?」
紫ちゃんはこの時のために野良ゆっくりのれいむを捕まえていた。そして、この日、そのれいむとこれまで水槽の中で飼われ
ていたれいむを取り替えたのである。今はラムネで眠らされた野良ゆっくりのれいむが水槽の中で眠っているだろう。故に、ゴ
ミ袋の中のれいむには、もう居場所などない。
「れ、れいむは……」
「だから言ったでしょう? “お前”はこれから死ぬの。誰にも気づいてもらえずに、この土の中でね」
「ま……まっでぐだ……」
「ねぇ? 私は、こう呼ばれるのは好きじゃないんだけど……。皆につけられたあだ名みたいなものがあるのよ。最期だし、そ
れを特別に“お前”に教えてあげるわ」
「ゆ……?」
「私はね。……“神隠しの紫”と呼ばれているのよ」
それだけ言って、何か喋りかけようとしたれいむを無視してゴミバケツの蓋を閉める。それを穴の中に投げ込むと、傍らに置
いてあったスコップで土を埋め始めた。穴が土で埋まっていくにつれてれいむの声が聞こえなくなっていく。
水槽の中で眠る野良れいむに稗田さんとさとりちゃんは気付くだろうか。少なくとも、あの野良れいむは二人の事は知らない
だろう。しかし、それがどうしたと言うのだろうか。ゆっくりの記憶などについて誰も介入などできやしない。明日、その野良
れいむを稗田さんとさとりちゃんに引き渡す予定になっている。その時に写真を撮って貰おう。嘘で塗り固めた偽りの写真だっ
たとしても、“あの子”は決して気付かない。
紫ちゃんが泣きながら笑った。
「ずっと、嘘をつき続けてきたんだもの……。嘘は、最後までつき続けるから……“嘘”なのよ」
淡々と作業を続ける紫ちゃん。かつて守ってあげられなかった友達の願いを叶えるために、一つの命を奪おうとしている自分
がうすら寒かった。それでも、土をかぶせていく手は止まる気配がない。
「決して掘り返されることのない、私がついた嘘の答えだけが入ったタイムカプセル……。その中で……ずっと、ゆっくりして
いればいいわ」
穴を埋め終えた紫ちゃんがスコップを地面に置く。
「……死ぬまでね」
――あのね……
水槽の中に小さな赤ちゃんゆっくりがいたかと思います。
その子はね、私が忘れ物を取りに学校に行ったとき、怪我をしていたから助けてあげた子です。
それで……怪我が治るまで紫ちゃんにその子の世話をお願いしてもいいかな……?
もう一ヶ月も経つから、とっくに怪我は治っちゃってるのかも知れないけれど。
家に帰ってからその赤ちゃんゆっくりの名前を調べたらね……。
なんと!
その子の名前は“れいむ”って言うんだって!
偶然もあるものだよね。
同じ名前の私が“れいむ”を助けてあげられたなんて……っ。
ちょっと勘違いし過ぎかな……?
紫ちゃん、呆れちゃってたらごめんね。
でも、なんだか嬉しかったんだ。
小さな命を助けてあげられたことが……凄く。
もし……もしね。
紫ちゃんたちのクラス皆が「いい」って言ってくれればなんだけど……。
“れいむ”が元気になっても、余裕があればその子を飼ってあげてくれませんか……?
そうしたら……私も、紫ちゃんや皆と一緒に居ることができるような気になれるから……。
あ、でもね。
無理だったらいいんだよ。
その時は、逃がしてあげてね。
“れいむ”は教室の中に迷い込んできたみたいだったから……。
それでは、お手紙に書くことがなくなってしまったのでこの辺りでやめておきます。
紫ちゃん。
体に気を付けて、双葉小学校での最後の一年間を元気に過ごしてください。
私がかなり遅くなっちゃったから、返事はいつでも構いません。
大人になったら、またいつか会ってお話をしましょう。
紫ちゃんに会えるのを楽しみにしています。
それじゃあ、またね。
――博麗 霊夢
おわり
いじめ 虐待 飼いゆ 現代 完結編です。春からずっと読んでくださった方に多大な感謝を 以下:余白
『学校:冬(後編)』
十二、
れいむは事態を飲み込めていないようだった。あの上白沢先生の爆弾発言以来、れいむに対する集団リンチの回数が目に見え
て減ってきている。すぐに回復する単純生物であるとはいえ、万が一加減を誤って重大な損傷を与えてしまったら、五年生に渡
すことができなくなってしまう。それを恐れて三日間、れいむは暴力を振るわれていない。それはこの一年間のサイクルを思い
返せば奇跡にも等しい事だった。
それから更に数日後。
れいむに変化が現れ始めた。稗田さんとさとりちゃんと徐々にではあるが“会話”を交わすようになってきたのである。会話
と呼べるほど長い言葉でやり取りをしているわけではないが、諦めずにずっと話しかけていた二人にとってはこの上ない喜びだ
ったのだろう。
二人にとってこの出来事は心を大きく成長させた。どんなに心を閉ざしている相手でも分かり合おうという意思がこちらにあ
る限り、必ず心を開いてくれる。れいむとの触れ合いが二人にそう教えてくれたのだ。
この一件。一見すれば稗田さんとさとりちゃんの粘り勝ちのようにも見えなくない。だが実際はそういうわけでもなかったの
だ。教室内におけるれいむへの扱いに関する比率の変化が、そうさせたのである。これまで一方的な暴力を受け続けていたれい
むは心を閉ざすことで自身を保とうとしていた。それがここ最近はそうする必要がなかったのだ。心を閉ざさなくとも生きてい
ることのできるれいむにとって、稗田さんとさとりちゃんという自分に話しかけてくれる存在が新たな心の支えとなりつつあっ
たのだ。故に、クラス一同のれいむに対する扱いが変わらなければ、れいむが二人に心を開くこともなかっただろう。
「むーしゃ、むーしゃ……おねーさん、ゆっくり……ありがとう」
「どういたしまして。でも、ごめんね? 今日はマヨネーズパンだったから、皆たくさん食べちゃって……」
稗田さんがパンを水槽の中に入れながら苦笑いする。マヨネーズパンのマヨネーズ部分だけ綺麗に食べて残している猛者もい
たのか、パンの中央部分が抉れた形をしている物もあった。さとりちゃんがクスクス笑う。
「でも、大丈夫だよ。稗田さんは小食だから、あんまり給食たくさん食べれないもの」
「えへへ……。先生には怒られるんだけどね。れいむちゃんの所に持っていけば、ばれないんだ~」
「ゆ……? そうなの……?」
「うん。だからね、私としては助かってるんだ~。ありがとうね、れいむちゃん」
「ゆ……? ゆゆ? ゆっくり、どういたしまして、だよ……?」
二人の言っている意味が今ひとつ理解できないのか、小首を傾げるような仕草で戸惑い混じりの返事をするれいむ。それを見
てさとりちゃんが小さく笑った。それにつられたのか、れいむも静かに笑ってみせた。
教室の隅。集まった数人の女子が小声で井戸端会議を行っている。その表情は決して穏やかではない。
「……ねぇ。最近れいむさ……調子に乗ってきてるよね……?」
「うん。何笑ってんの、って感じだよ。あれだけ私たちに痛めつけられたくせに、まだあんな顔する余裕があったんだね」
「上白沢先生にあんな事言われてなければ、またれいむに“躾”をしてやれるのに……」
凍てつくような瞳でれいむを睨みつける女子。その憎悪たるや凄まじいの一言に尽きる。一年間かけて壊したはずのれいむの
心が短期間で修復されたのが腹立たしい。そして、下級生に“自分たちの玩具を取られたのが気に食わない”。
クラス一同は、れいむに対して肉体的な虐待を行ってストレス発散をしていただけではなかった。れいむの心の管理。理不尽
な暴力を与え続ける事でれいむの精神を管理することに、この上ない優越感を覚えていたのだ。すなわち、泣かせたいときに泣
かせて、ギリギリのところで“救ってやる”。れいむに関する精神管理の選択権を常にクラス一同が所有することで、大きな連
帯感を生み出しここまで長期間に渡る“集団いじめ”へと発展してきたのだ。
更にれいむに防衛手段はない。これが同級生に対するいじめであれば、いじめの対象になった生徒は両親や教師に相談をする
ことができるだろう。自己防衛の為の不登校という措置を講じることもできる。しかし、れいむは天涯孤独のゆっくりで、居場
所は唯一水槽の中のみだ。どこにも逃げることはできない。
やがて心が腐食し、朽ちていく。それがれいむの運命のはずだった。クラス一同が描いたシナリオのはずだった。しかし、や
はり小学生の描くシナリオなど三文芝居に過ぎない。自分たちが卒業した後のことなど、誰も考えていなかったのだ。
その日の放課後、数人の男子を中心に久しぶりにれいむに対して“躾”を行った。相変わらず「痛い」、「やめて」、「許し
て」を繰り返すのみである。しかし、男子たちは見逃していなかった。これまで廃ゆの様になっていたれいむの表情に、少しば
かりの生気が宿っているのを。
「この糞ゆっくりが!!」
「ゆ゛ぎぃッ!? ゆ゛ぶぇっ!! ゆ゛ぼお゛ぉ゛?!! い゛だい゛……よ゛ぉ……やべで……や゛べで……」
「ちょっと話し相手ができたからって調子に乗ってんじゃねぇよ」
「お前はゴミなんだよ。喋るゴミなんてないだろ? だから、黙ってろ……よっ!!!!」
「ゆ゛げぇ゛ッ!!???」
男子の拳が、脚が、れいむの柔らかい顔にめり込む。机の脚に叩きつけられたれいむの顔の中心がべっこりと凹んでいた。
「……それくらいにしておきなさい」
教室の後ろから紫ちゃんが声をかける。男子は心臓が口から飛び出さんばかりの勢いで体全体を跳ね上げた。紫ちゃんの
存在に全く気がつかなかったのである。これが上白沢先生か五年生の二人だったらと思うと身も凍る思いがした。男子の一
人が心底ほっとした様子で紫ちゃんへと向き直る。
「驚かせるなよ……。紫も意地が悪いぜ……」
「あなたたちが無防備すぎるのよ。少し夢中になりすぎだわ」
「悪かったよ。久しぶりの“躾”だったから、つい気合いが入り過ぎちゃって……」
「ゆっ、ゆっ、ゆっ、ゆっ……いたい……よ……たす……けて……。たす、けて……」
「…………」
蠢くれいむを紫ちゃんが見下ろす。れいむは床に自分の顔をこすりつけて痛みを紛らわそうとしていた。
「たすけ……て……。たすけ、て……。いたいよぅ……」
「…………」
「紫?」
「え?」
「え、じゃないだろ。どうしたんだよ。ボーッとして。お前らしくもない」
男子の一人に言われて紫ちゃんがハッとした表情を浮かべた。いつの間にれいむの傍らにまで移動していたのだろうか。それ
を紫ちゃん自身が気づいていなかった。紫ちゃんが溜息をつく。男子が「本当に大丈夫か?」と紫ちゃんの顔を覗き込んだ。紫
ちゃんは「大丈夫よ」と言って、れいむに背を向ける。男子も興を削がれた気分になったのか、ズタボロのれいむを水槽の中に
戻した。
「気分悪いんなら、お前も早く帰れよ? それか八意先生の所に行って看てもらえよ……」
「……そうね。そうするわ。ありがとう」
「じゃーな。無理すんなよ」
「うん。また明日ね」
男子が教室の外へと出て行く。紫ちゃんはしばらく教室の真ん中で立ち尽くしていた。誰もいなくなった教室で、一人自分の
席へと歩いて行き、横にかけてあったランドセルの中から一枚の手紙を取り出す。封筒には差出人の名前。切手には一昨日の消
印が記されていた。カサカサと封筒の中から真新しい便箋を抜き出す。それを黙読した。読み終えた後、れいむの入った水槽へ
と視線を移した。
(自分で招いた事とは言え……どうしたものかしらね……。あんな死にかけのゆっくりなんて写真に撮っても、“あの子”が納
得してくれるはずなんてないわ……。学校行事の事を手紙に書いても、去年の事を思い出せてしまうだろうからと思って、れい
むの事を手紙に書いたのは失敗だったわね……)
紫ちゃんが親指と人差し指に力をかけると、便箋がクシャッという音を立ててその形を崩す。れいむは呻き声を上げたまま、
微動だにしなかった。紫ちゃんがそこへ足を向ける。水槽の壁一枚隔てて、紫ちゃんとれいむが対峙する。ここに立つと、東風
谷さんを泣かされたときの事を思い出してしまう。れいむを見下ろした紫ちゃんが心の中で呟いた。
(……今更、無理よ。れいむの笑顔を取り戻すなんて……。もう、遅すぎるわ……)
過去の記憶が蘇る。
紫ちゃんは五年生の副委員長。そして学級委員長を任されていた、綺麗な長い黒髪に鮮やかな赤いリボンを結っていたあの少
女。その少女が座っていたはずの席。その少女はクラスの一部の女子からいじめを受けていた。誰もが見て見ぬフリをした。紫
ちゃんもその一人だった。不登校に陥ってしまったその少女に対して、プリントや時間割を持っていくのは副委員長である紫ち
ゃんの役目だったのである。そのときの教師は言った。「なんとかして、あの子を学校に来るよう説得してほしい」、と。
――今更、無理です!! “あの子”の笑顔を取り戻すなんて……っ。……手遅れですよ……。どうして、私にそんなことを押
しつけるんですか……。
紫ちゃんが目を閉じる。
(変わってない……。結局、私は一年前と同じなんだ……。あの場所から少しも進んでいない)
それからもう一度、うずくまるれいむを見た。
(……“れいむ”に、“あの子”を重ねるなんて……皮肉もいいところだわ……)
紫ちゃんが無言のまま教室を出て行く。
風が乾いていた。通い慣れた双葉小学校の校庭をゆっくりと歩いていく。それから、通学路に出る。空き家になった“あの子”
の家の前を足早に通り過ぎた。
もう、時間がない。今のままでも十分に手遅れだと言うのに、時間だけがどんどん過ぎていく。心が空虚になっていくのを感
じた。
「ゆわぁぁぁ!! まりさたち、なんにもわるいことしてないのぜぇぇぇ!!!」
「ゆっくち! ゆっくち!!」
「ゆんやぁぁぁ!!! れいむのかわいいちびちゃんがぁぁぁぁぁ!!!」
「……!!」
紫ちゃんが前方に視線を向ける。そこには道路を横切る形でぴょんぴょんと跳ねていく薄汚い野良ゆっくりの親子がいた。そ
れを追いかけるように保健所の職員がゴミ袋を片手にゆっくりたちへと迫る。野良ゆっくりの駆除風景だ。黒い三角帽子の横を
赤いリボンが跳ねていく。既に“かわいいちびちゃん”は見限ってしまったらしい。保健所の職員に捕まった赤ゆが大声で泣き
叫んだ。
「ゆんやあぁぁ! おきゃーしゃんのばきゃあぁぁ!!! れーみゅのこちょ、きらいになっちゃったにょぉぉぉ!??」
「ゆっくりごめんね!! ゆっくりごめんね!!!」
「れいむ! なにやってるのぜ!! はやくにげないと、まりさたちまでえいえんにゆっくりさせられぼふぉあ゛ぁ゛ぁ゛ッ!!???」
二人目の保健所職員によって金属バットで叩き潰される野良まりさ。その残骸を手早く回収してゴミ袋の中に投げ入れる。そ
れを見た野良れいむはおそろしーしーを噴射しながら、ずりずりと後ずさり始めた。やがて塀に後頭部を打ち付けて止まった。
ガタガタ震えながら「いやいや」をするように顔を横に振る。その表情は怯えきっていた。
「だずげでぐだざい……れ゛い゛む゛だぢ……ふゆざんがぎで……ざむ゛い゛ざむ゛ぃで……ゆっぐり、でぎなくで……。ごみ
さんをちらがじだのはあ゛やばりま゛ず……。ごべんな゛ざい、ごべんな゛ざい……もう、じまぜん……。だがら、ごろざない
でくだざい……おでがいじば……――――」
問答無用で振り下ろされる金属バット。野良れいむの頭は変形して二方向に弾け飛んだ。中身の餡子がボトボトとアスファル
トに叩きつけられる。飛び出した目玉は側溝の中に転がっていった。
紫ちゃんが目を伏せる。
(……れいむは“幸せ者”か……)
紫ちゃんは家に帰るまでその事を考え続けていた。
三月も二週目に入ると卒業式練習などが全校一斉に行われ始めた。卒業証書の受け取り方から送辞と答辞。送辞は稗田さんが。
答辞は紫ちゃんが行う手筈になっている。それから卒業式の歌の全体練習。また、慌ただしい時期がやってきた。だからという
わけではないが、授業時間がごっそり減ってしまい勉強嫌いな一部の児童はむしろこの状況を喜んでいた。
反面、紫ちゃんたちのクラスには弊害も生まれている。授業が終わる時間が早くなったせいで、いつまでも教室に残っている
と先生たちから早く下校するようにと促されるのだ。だから三月に入ってかられいむに対する“躾”が滞ってしまっている。
「れいむちゃん! 今日はジャムがついてたから、ジャムも一緒に持ってきたよ」
「ゆゆ? なんだか、あまあまなにおいがするよ? は、はやくたべさせてね!」
「ふふふ。ちょっと待っててね」
稗田さんとさとりちゃんが教室に現れるとれいむは嬉しそうに笑うようになった。それを見て腸が煮えくりかえる思いをする
クラス一同だが、下級生二人の行動を咎めることもできなければそれをする理由すらない。
そんなある日。恐れていた事件がついに起こった。聞き耳を立てていた女子の表情が一瞬で青ざめる。
「ここのおへやにいる、おにーさんたちやおねーさんたちは、れいむにいたいいたいをするんだよ……っ!」
「え……?」
「――――!!!!」
執拗なまでに繰り返されていた日々の暴力。それが終わりを告げた。その事についてれいむはこう解釈したのである。クラス
の男子と女子は、どういうわけか自分に手を上げることができなくなった。暴力を振るわれさえしなければ、クラスの男女など
怖い存在ではない。その無謀な考えを加速させていくのが、まるで奴隷のようにかいがいしく自分の元へと現れ、食料を献上し
ていく稗田さんとさとりちゃんの存在。
究極の話、これが“ゆっくり”という生き物の思考回路なのだ。幸せをちらつかせれば過去の出来事など一瞬にして忘却の彼
方へと消し去ってしまう。そして、れいむは新しくできた“味方”に“敵”の事を語り出したというわけだ。
「れいむはね……っ! このくそじじいとくそばばあたちに……まいにち、まいにち、ひどいことをされてたんだよっ! れい
むが“やめてね”っていっても、ぜんぜんきいてくれないんだよっ!」
「あ……」
「ちょ、ちょっと……!!」
諏訪子ちゃんが両者の間に割って入る。紫ちゃんも既にカットの体勢に入っていた。しかし、一度放出が始まったれいむの恨
み言は止まらない。
「れいむはまいにちないてたんだよっ! だれもたすけてくれなかったんだよっ!! おねーさんたちは、れいむにやさしくし
てくれるんだよねっ? だったら、くそじじいとくそばばあをみんなやっつけてね! すぐでいいよっ!!!」
「え……と……?」
稗田さんとさとりちゃんは訳が分からないと言った様子でうろたえている。無理もないだろう。二人にとって六年生のこのク
ラスは、突然「ゆっくりと遊ばせてほしい」というお願いをしたにも関わらず、それを快く了解してくれた優しいお兄さん、お
姉さんのクラスなのである。れいむの言葉を信じることができない。
「ほんとうだよっ! れいむをしんじてね! れいむは……――」
刹那、激しくガラスの割れる音が響いた。教室内全ての視線が一点に注がれる。砕け散った窓ガラス。床に転がる移植ごて。
ガラスの向こう側に佇む風見さん。全員、言葉を失った様子でその異様な光景を見つめていた。無表情の風見さんが教室の中に
ゆっくりと入ってくる。れいむも音に驚いたのかフリーズしてしまっていた。
「ごめんなさい。手が滑ったわ」
「そ、そうなの……」
「稗田さん、さとりちゃん。今からお姉ちゃんたち、ガラスの片付けをしないといけないから。危ないから二人とも今日は教室
に帰ってて。ね?」
優しい笑顔でそう言う紫ちゃんを見て、二人が顔を見合わせる。それから「わかりました!」と元気よく返事をして教室を出
て行った。
それから、無言で割れた窓ガラスの片付けを始める男子たち。紫ちゃんと風見さんが互いに目配せする。
「ありがとう、風見さん」
「こちらこそ。私の考えに貴女が気づいてくれなかったらどうしようかと思っていたわ」
「……ガラス割って、怒られ損になるもんね」
「何言ってるのよ。ガラスを割ったのはあそこの男子たち」
「――えっ!?」
「え?」
「何でもないです。僕たちが割りました」
「ね?」
「そ、そうね……」
気の毒な男子たちがエクトプラズムを吐き出しながら無言で掃除を続ける。風見さんが溜息をついた。
「まぁ、後のことは貴女に任せるから」
そう言って花壇へと戻っていく風見さん。
「てめぇ、何調子乗ってんだよっ!!」
水槽の前から怒号が響いた。紫ちゃんも慌ててそちらに駆け寄る。れいむは真っ直ぐに集まったクラス一同を見上げていた。
涙も流していない。勝ち誇ったような顔で周囲をぐるりと見渡す。
「ゆふふ……っ。れいむ、もう、わかっちゃったよ。くそじじいとくそばばあは、あのおねーさんたちがいると、れいむにいた
いいたいをできないんだねっ!!」
れいむが嬉々とした様子で言葉を続ける。
「それに……もうすぐ、くそじじいとくそばばあは、このおへやをみんなでていくんだよね! おねーさんたちがいっていたよ!
それから、れいむは、あのやさしいおねーさんたちとあそんでもらえるんだよね! もう、れいむは、ぜんぶわかってるんだよ!
おしえてもらったんだよ!!」
「この……っ」
「だから、くそじじいとくそばばあは、ゆっくりしないでどこかにいってね!!!」
「何言ってんのよ、この糞ゆっくり……っ!!!!」
「きょうからここはれいむのゆっくりぷれいすだよっ!!! じゃまなくそじじいとくそばばあは、さっさとどこかにきえてね!
すぐでいいよっ!!!!」
怒りが頂点に達するものの、その怒りを直接目の前の下等生物にぶつけることができない。皆、一様に拳を握り締めていた。
れいむは「言ってやった、言ってやった」とニヤニヤ笑いながら、集まるクラス一同に視線を送っている。それから、その視線
を紫ちゃんへと移した。それに気づいた紫ちゃんも、れいむを睨みつける。
「そこのくそばばあ! れいむのことを“たすけてあげる”なんていって、いちどもたすけてくれなかったね!! おまえはな
んなの!? じぶんでいったこともまもれないばかなのっ!? しぬのっ!?」
「………………」
紫ちゃんが拳を握り締めた。男子の一人が身を乗り出す。
「ゆひぃっ!?」
拳を振り上げた男子の腕を紫ちゃんが掴む。物凄い力だった。男子の動きが押さえ込まれる。男子の腕を押さえながら、紫ち
ゃんは凄まじい形相でれいむのことを睨みつけていた。このまま睨み続けていれば、れいむが突然爆発して死んでしまうのでは
ないかと思うほどの形相である。
「ゆ、ふふ……。どうしたの? れいむにいたいいたいをしないの? できないんでしょ?」
「何なのコイツ……っ!!! もういいよ、紫ちゃん! コイツ殺そう!!!!」
諏訪子ちゃんもこれまで見せたことのないような表情で激昂する。その迫力たるや、れいむを祟り殺そうとせんばかりの勢い
だ。諏訪子ちゃんの“殺そう発言”に我に返った一部の女子が慌てて諏訪子ちゃんをなだめ始める。東風谷さんはどうしていい
か分からずに涙を浮かべていた。
「……掃除の時間になったわ。皆、掃除場所に向かって。六年生が遅れるわけにはいかないから……」
紫ちゃんの一言にクラス一同が渋々教室を出て行く。れいむは紫ちゃんに向かって言った。
「れいむはね。かわいそうなんだよ……」
「…………」
「れいむはね、ひとりぼっちだったんだよ」
「…………」
「れいむがないてても、だれもたすけてくれなかったんだよ!」
「…………」
「れいむはずっと……くそじじいとくそばばあにいじめられてたんだよっ!!」
「…………喋るな、糞饅頭」
紫ちゃんの口から発せられた冷たい空気の振動が水槽のガラス壁に当たって跳ね返る。近くでその声を聞いていた女子の数人
が怯えた様子で紫ちゃんを見つめていた。普段と違う紫ちゃんの口調。鬼のような形相。握りしめた拳。
「れいむは……」
「“お前”如きが……っ!!! 自分のことを“れいむ”なんて呼ぶなッ!!!!!!!!!!!」
紫ちゃんが叫び声を上げた。教室内の児童が一斉に紫ちゃんの元へ集まってくる。紫ちゃんは全身を強く震わせていた。涙目
になってれいむを見下ろしている。肩で呼吸をしていた。
れいむは水槽の中で絶句している。強烈な恐怖が心を支配していた。全ての思考回路が止まる。それは、誰もがゆっくりには
持ち合わせていないと考えていた、絶対的な強者に対する“本能による警鐘”。れいむは何も言われずとも理解していた。この
ままでは間違いなく自分は殺される。つい最近までそれを望んでいたはずなのに、既に五年生二人との幸せな日々がその考えを
上書きして消してしまっているのだ。それ故の恐怖。圧倒的なまでの畏怖。
「ゆ……ひ……あ……」
「ゆ、紫ちゃん落ち着いて!!!」
数名の男女が紫ちゃんを水槽の前から引き剥がした。今、止めなければ取り返しのつかないことになる。誰もがそう判断した。
今の紫ちゃんはれいむを躊躇いなく殺すだろう。言葉では上手く説明できなかったが、紫ちゃんを止めに入った児童たちはそれ
を理解できた。
れいむは水槽の真ん中で固まったまま、おそろしーしーをちょろちょろと漏らしていた。額からだらだらと汗が流れる。動く
ことができなかった。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。
「紫。お前、保健室行ってこい」
「…………」
男子の一人が紫ちゃんの肩を掴んで強い口調で言う。紫ちゃんは肩で呼吸をしたまま、れいむを睨み続けていた。先ほどから
れいむが一歩も動けないでいるのは、紫ちゃんの視線を外せないでいるからだ。男子が「おい」と声をかけても、紫ちゃんはれ
いむを睨み付けて離さない。女子は顔面蒼白でその異様な紫ちゃんの姿を見つめていた。
「紫!」
乾いた音がして紫ちゃんの左頬にじん……と痛みが広がる。そうして、ようやく紫ちゃんは正気を取り戻したようだった。思
わず紫ちゃんの頬を叩いてしまった男子が心配そうに紫ちゃんを見上げた。
「その……悪い。い、痛かっただろ……?」
「……平気よ……」
絶対零度のような口調はそのままに、紫ちゃんがようやくれいむから視線を外した。れいむは金縛りから解けたように全身の
力を失い、仰向けに倒れてしまった。れいむが荒い息づかいで水槽の向こう側を見る。何だったのだろう、今のは。まるで水槽
の壁……いや、自分の皮など全ての物理法則を無視して、れいむの心の深い所までやって来たかのような感覚。紫ちゃんの殺意
が体内に残っているのをれいむは確かに感じていた。紫ちゃんはあらゆる境界線を破壊して、れいむの心を握り潰そうとしてい
たのだ。
「ゆっ、ゆっ、……ゆはっ、はぁっ……」
呼吸が定まらない。れいむが喘ぐように必死に呼吸を整えようとするが上手くはいかないようだ。
「…………ごめんなさい。ちょっと保健室に行ってくるわ……」
「上白沢先生に言っておこうか?」
「お願いしていい?」
「うん」
「ありがとう」
紫ちゃんが教室を出て行く。静まりかえった教室の中で教室掃除担当メンバーがれいむの水槽へと目を向けた。
「あ…………」
男子の一人が目を丸くした。あれだけ大きな態度を取っていたれいむが、また数週間前のように廃ゆの様な表情をしている。
紫ちゃんとれいむとのやり取りは何分……いや、何秒くらいだっただろうか。紫ちゃんのれいむに対する殺意は、このクラスが
一年間れいむに対して行った仕打ちと同程度の恐怖だったというのか。普段、れいむを叩く為の武器にしている箒を握り締めて、
その場にいた全員が思わず身震いした。
紫ちゃんは保健室のベッドに腰掛けていた。頭が痛い。目の周りも痛い。あんなに“何か”に対して殺意を向けたのは初めて
の事だ。あの時は気がつかなかったが、背中にもびっしょりと汗をかいていた。紫ちゃんは白いカーテンに仕切られた空間の中
で、八意先生に渡されたタオルを使い体を拭いていた。それから思わずベッドの上に仰向けに倒れる。見上げた天井は真っ白で
それが紫ちゃんを少しずつ落ち着かせてくれた。もそもそと掛け布団の中に潜り込む。
――いい? あなたはひとりぼっちなんかじゃない! だって私がいるでしょ!
――…………。
――だから、私はあなたを可哀想だなんて思ってあげない!
――…………。
――あなたが、泣いてたら、絶対に私が助けに行くわ!!
――……紫、ちゃん……。……ありがとう……。
目を閉じ、唇を噛み締める。
そんなとき、周囲を覆う白いカーテンの一部に薄いシルエットが映し出された。紫ちゃんが訝しげな表情でそちらに目を向け
る。
「紫ちゃん……大丈夫ですか?」
「東風谷さん……?」
「……入っても、いいですか?」
「大丈夫よ」
「失礼します」
白いカーテンを引いて東風谷さんが紫ちゃんの前にやって来た。何か言いかけては口を噤む東風谷さんを見かねて、紫ちゃん
が先に声を掛けた。
「れいむ……どうしてる?」
「あれから、一言も喋っていません……」
「……そう」
「勘違いでしたら、すみません……。紫ちゃん、もしかして……れいむに……あの時の事を重ねているんですか……?」
東風谷さんの質問に紫ちゃんは答えなかった。紫ちゃんの呼吸に合わせて掛け布団が上下に動く。東風谷さんは、紫ちゃんの
沈黙を肯定の意として受け取った。それから、一呼吸置いて東風谷さんが口を開く。
「あの時の事は……紫ちゃんだけのせいじゃありません。……私だって、見て見ぬフリをしていました。他の皆だって、そうで
す」
「…………」
「だから、紫ちゃん一人が抱え込む事じゃないと……思います。ごめんなさい。上手く、言えなくて……」
「……すごく、いい子だったのよ」
「……はい」
「守ってあげられなかったのが悔しかった……。私の言葉なんて何一つ届いてなかったんだ、ていうのが悲しかった」
「…………」
「だから……叶えてあげたっかたのよ……。“あの子”が私にした唯一のお願いを……」
「……れいむの事、なんですね」
初めて打ち明けた。打ち明けなければ今度こそ自分がどうにかなってしまいそうだったからだ。東風谷さんは全てを理解して
くれたのだろう。それ以上は何も聞かなかった。
疲れてしまったのか紫ちゃんはそれ以上何も喋ろうとはしなかった。東風谷さんも「お大事に……」とだけ告げて保健室を出
て行った。
(……れいむの一年間の記憶を……都合の悪い部分だけ消すなんて、どう考えても無理よね……。あんな表情のれいむを写真に
撮ったとしても、意味がない……)
紫ちゃんが暗記した手紙の一文を心の中で呟く。
(……「“れいむ”の笑った顔が見たいです。あの教室の中で笑っている“れいむ”を見れば私もそこに一緒に居られるような
気がするから」……――か)
最近、何度ついたか分からない溜め息をまた吐いた。卒業まで時間がない。この短期間でれいむの笑った写真を撮るなど不可
能だ。それどころか、今のれいむは紫ちゃんを見れば怯えて泣き出したとしてもおかしくない。
紫ちゃんが目を開く。
「待って……」
それから上半身を起こした。
(……まだ、策はあるかも…………)
紫ちゃんが最近のゆっくりに関係する記憶を掘り起こしていく。越冬に失敗した野良ゆっくりの大量死。野良ゆっくりの駆除。
まるでパズルのピースを一つずつ嵌めていくように、紫ちゃんのシナリオが少しずつ描かれていく。紫ちゃんが掛け布団を握り
しめた。
シナリオを書き上げた紫ちゃんが無表情のままクスリと笑う。「きっと穴だらけの計画だ」と。そして、「それでも何もしな
いよりはマシだ」と続けた。紫ちゃんが窓の向こうに視線を移す。それから、覚悟を決めた。
ガラス窓にうっすらと映った紫ちゃんの顔。それがどんな表情をしていたのかは、誰も……本人さえも知らなかった。
平成二十三年三月二十一日。
この日は双葉小学校の卒業式だった。スーツや着物姿の父兄が体育館へと集まっていく。
紫ちゃんたちのクラスもこのメンバーで行う最後の「朝の会」を行っていた。とは言っても、上白沢先生による卒業式の段取
りの再確認が口頭で伝えられるだけの簡単なものだった。この日のために予行練習も行っている。準備万端と言っても良かった。
既にしんみりしている教室の中で、れいむも水槽の隅に顔を寄せて大人しくしていた。上白沢先生が教室中を見回して誰にも気
づかれないように苦笑する。
(こんな大人しいクラスだったかしらね。このクラスは)
流石に、皆それぞれ思うところがあるのだろう。普段鳴り終らない爆竹のような学級がしんと静まり返っている。下手に上白
沢先生が何か言えばそれだけで泣き出してしまう女子もいるかも知れないほどだった。
チャイムが鳴る。既に五年生のクラスまでは全員が体育館に移動を終えていた。上白沢先生が廊下に出ると、同じタイミング
で森近先生が隣のクラスから出てきた。
「そろそろ行きましょうか」
「そうですね」
二人の先生のやり取りを見て、紫ちゃんと西行寺さんがそれぞれのクラスに号令をかける。それから、体育館まで一歩一歩を
踏み締めるようにして歩いて行った。
体育館の中は厳かなは雰囲気に包まれていた。六年一組は西行寺さんたちのクラスだったので、そちらが先に体育館の中に入
る段取りになっている。それから、体育館の外まで卒業式進行役の教頭先生の声が届いた。
「平成二十三年度……第三十六回双葉小学校卒業生……入場」
体育館の扉が開け放たれる。それと同時に拍手の波が六年生一同を迎えた。全校生徒が。教師陣が。父兄が。今日と言う卒業
の日を祝福してくれている。十二歳とは言え、その意味の重さを少しは理解しているのかそれぞれの表情は固い。その顔には、
これから中学生になるのだという自覚がうっすらと映し出されていた。六年生一同が全員着席すると同時に拍手の音が止む。
それから、卒業式は滞りなく進んでいった。卒業証書授与。皆、壇上に上がり教えられた通りに卒業証書を受け取っていく。
それが終わると、稗田さんによる在校生送辞が始まった。流石に六年生の輝夜ちゃんと百人一首で張り合うだけの文化系少女に
よる、端麗な言葉遣いと流暢な語り口は見事と言う他なく教師陣だけでなく来賓や父兄も心の中で感心させられた。続いて、紫
ちゃんによる卒業生答辞。稗田さんの送辞を聞きながら、既に涙を流す女子も何人かいた。紫ちゃんは凛とした表情のまま、壇
上に上がると、稗田さんに負けず劣らずの澄み切った声で手元にある文章を読み上げた。この時点で、女子を中心に卒業生の三
分の一は泣いている。紫ちゃんは一度も言葉に詰まることなく最後まで答辞を読み上げ、美しい姿勢で一礼をした。
「卒業式の歌」
教頭の声が館内に響く。それから、卒業生と在校生が向かい合った。ピアノの伴奏。その旋律の一つ一つが……口から発する
歌詞の一つ一つが……長いのか短いのか良く分からなかった六年間の記憶を鮮やかに呼び覚ましていく。館内ですすり泣く声が
徐々に増えていった。ボロボロと涙を流しながら必死になって最後の歌を歌い続ける生徒たち。それを見て上白沢先生も泣いて
いた。森近先生も涙を人差し指でそっと拭う。
そのまま、泣き続けて一部の生徒は卒業式どころではない状態で式を過ごし、気付けば卒業式は閉会を迎えていた。それぞれ
の教室に戻って行く六年生。五年生以下はそのまま体育館内の片づけがあるのだ。教室に向かって歩きながら、東風谷さんと諏
訪子ちゃんは二人で大泣きしていた。文ちゃんと霧雨さんは泣きながら「中学校でも絶対に負けないから」と言い合っていた。
余談だが二人は陸上部に入る予定らしい。紫ちゃんと西行寺さんはそんなお互いのクラスを少し離れた位置から見つめていた。
「貴女も泣いてもいいのよ……? 貴女が泣いてくれないと、私もなんだか泣きづらいわ」
「泣きたいなら泣けばいいじゃないの……。どうせ一週間くらい経った後に再会するメンバーの前でボロ泣きしたいとは思わな
いわ……」
「そう……。じゃあ、中学校の卒業式の時は私も泣かせて貰えるのかしら?」
「だから、泣けばいいじゃないの……」
「ふふ……。私一人で泣くなんて厭よ」
「一緒に泣いてあげるから」
「ありがとう、紫」
風見さんは用務員の先生を捕まえて「あの花壇の花を枯らしたら殺す」と泣きながら脅していた。
教室に戻って、泣きながら話をする上白沢先生の言葉を聞いてまた泣いた。紫ちゃんを中心に用意した、クラス一同から上白
沢先生への寄せ書きを渡すと、上白沢先生は更に号泣した。
れいむは、そんな両者を虚ろな目で見つめていた。同時にれいむは理解していた。今日が、待ち望んでいた“その日”だとい
うことを。このいつもと違う雰囲気。稗田さんとさとりちゃんが言っていた「くそじじいとくそばばあがいなくなる」のは今日
に違いない。今日一日、これからどんな痛い目に遭わされても、それを耐えれば全てが終わる。幸せな日々がやってくる。れい
むはそう信じて疑わなかった。それを心の支えにして水槽の中で今日まで大人しく過ごしてきたのだ。この地獄のような一年間
から解放されると思うと、れいむも静かに涙を流していた。
最後の帰りの会。最後の帰りの挨拶。紫ちゃんが号令をかけた。
「起立」
同時に立ち上がるクラス一同。涙目の上白沢先生とこのメンバーで向かい合う最後の時。
「上白沢先生。……一年間、ありがとうございました」
「ありがとうございました!」×42
その言葉を聞いてまた上白沢先生が泣いた。女子の数名がそれを見て貰い泣きした。
涙、涙の卒業式はこうして幕を閉じたのである。クラス一同はそのまま父兄と一緒に合同の食事会に向かう手はずになってい
た。そのため、すぐに教室を移動してしまう。
教室の中には上白沢先生とれいむだけが取り残されていた。上白沢先生がれいむの水槽の前へと移動する。
「……稗田さんとさとりちゃんは、きっとあなたを可愛がってくれるわ」
「ゆ……?」
「嫌な思いばかりさせてごめんなさい。私のことを嫌ってくれても構わないわ」
「れいむは……だいじょうぶだよ……? なんにもされてないよ……?」
「……そう」
いつもと同じ調子で応えるれいむ。上白沢先生は一年間、れいむにこうして話をはぐらかされてきた。「駄目な教師だ」と自
分に言い聞かせながら、れいむの頭にそっと自分の手を乗せた。
「私が言えた義理ではないけれど……。ゆっくりしていってね」
「!! ……も、もういちど……」
「え?」
「もういちど、きかせてね……っ!!」
れいむが必死になって上白沢先生に声をかけた。うっすらと目に涙を浮かべている。上白沢先生はれいむに向き直ると、深呼
吸してから言った。
「れいむ。ゆっくりしていってね」
「ゆ……ゆぁ……。ゆっくりしていってね! ゆっくりしていってね!! ゆっくりしていってね!!!」
ボロボロ泣きながら「ゆっくりしていってね」を繰り返すれいむ。その涙が全ての“答え”だった。上白沢先生はれいむの頭
を撫でると、泣き続けるれいむにもう一度だけ「ゆっくりしていってね」と告げると、教室を出て行った。
全てが終わったのだ。何か月ぶりだろうか。挨拶を他者と交わしたのは。それはこの上ない喜びとなってれいむの全身を駆け
抜けていった。体の内側から、忘れかけていた「ゆっくり」が溢れて行くのが自分でわかる。
「れいむ……ゆっくり、できるんだね……! うれしいよぅ……っ! うれしいよぅ……っ!!!」
涙で視界が滲む。れいむはこの日、約一年ぶりに「痛い」とか「苦しい」とかの理由以外で涙を流した。
「れいむ……しあわせー!になるよ……っ」
十三、
その日の夜。
れいむは水槽の中で寝息を立てていた。何か月ぶりに見たか分からない楽しい夢を見ていた。そんなれいむの元へと近づく影。
その影はれいむの頭を考えなしに掴んでそのままれいむをゴミ袋の中に投げ入れた。
「ゆわぁぁぁ!? な、なんなゆ゛ぶべぇぇぇ゛ッ!??」
そのゴミ袋を力任せに壁に叩きつける。れいむは汚い呻きを一瞬だけ上げて静かになった。気を失ったか、或いは既に死んで
しまったのかも知れない。ゴミ袋にそっと耳を当てる。
「ゆ゛っ、ゆ゛っ、ゆ゛っ、ゆ゛っ……」
「……しぶといわね」
紫ちゃんはゴミ袋を抱えたまま、真っ暗闇の校舎裏へと歩いて行った。生暖かい風が木々をざわめかせている。月の綺麗な夜
だった。紫ちゃんは懐中電灯の光を頼りに一点を目指し歩を進めて行く。目的の場所にたどり着いた紫ちゃんは木材などの廃材
をガタガタと音を立ててどかしはじめた。そこには紫ちゃんが前もって掘っていた穴が口を開いている。
「や、やめてね……? いたい、いたいよ……。れいむ、なんにもわるいことしてないのにぃぃ……」
騒ぎ始めたれいむを思い切り踏みつける紫ちゃん。ゴミ袋の中でれいむが餡子を勢いよく吐き出した。汗がだらだらと流れる。
忘れかけていた強烈な痛みが無理矢理に思い出させられる。紫ちゃんはれいむを踏みつけたまま、ゴミ袋の上から先の尖った鉄
筋を思い切り突き刺した。
「ゆ゛ぎゃああ゛ぁ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛あ゛あ゛ッ??!!!」
「今のは、東風谷さんを泣かされた時の分よ」
「ゆぎっ、ひっ……? い゛だい゛……よ゛ぉ゛……」
突き刺さった鉄筋を力任せに引き抜く。その際にまたれいむが絶叫を上げた。今度はカサカサと音を立てるゴミ袋の膨らみの
中央に向けて、全霊の力を込めて鉄筋を垂直に振り下ろした。バァンッ!!!という激しい音がして、れいむの頭の一部が弾け
飛んだ。
「ゆ゛ぎっ、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!!!!!」
「今のは運動会が終わった後に、一生懸命頑張ったクラスの皆を馬鹿にした時の分」
「れ゛い゛む゛のお゛べべがぁぁぁぁ!!!!」
先ほどの一撃でれいむの目玉も一緒に外れてしまったらしい。突き刺された箇所と壊された部分から餡子が流れ出していく。
「れ゛い゛む……じぬ……じんじゃう゛よ゛ぉ゛ぉ゛……」
紫ちゃんは最後の最後まで情けない声を発し続ける饅頭に数発蹴りを入れた。傷口に障るのかゴミ袋の中で暴れ回っているら
しい。ゴミ袋がガサガサと音を立てながら蠢いている。紫ちゃんはあらかじめ用意していた中型のゴミバケツの中にれいむの入
ったゴミ袋を放り込んだ。そのとき、ゴミ袋の一部が裂けてしまったようである。れいむは、ゴミ袋の隙間から月明かりに照ら
された紫ちゃんを見た。
「くそ……ばばぁ……っ!!!!!! どぼじでごんな゛ごどずる゛の゛ぉ゛ぉ゛ぉ゛ぉ゛!!???」
紫ちゃんが懐中電灯の光をれいむに向けた。頭頂部の左半分が抉れている。飛び出したのは左目のようだった。紫ちゃんがク
スリ笑う。それを見たれいむが咆哮を上げた。
「れ゛い゛む゛にごんな゛ごどじで、お゛でーざんがだま゛っでるわ゛がないだろおぉぉ゛ぉ゛ぉ゛ッ!!!! れ゛いむ゛は
おでーざんだぢど……じあ゛わ゛ぜにな゛る゛ん゛だあ゛あ゛あ゛!!!! じゃまを゛……ずるな゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛!!!!!」
「れいむ。“お前”はここで死ぬのよ。だから、あの“お姉さん”たちと幸せになる“れいむ”は“お前”じゃないの」
「わ゛げの゛わ゛がら゛な゛いごどをい゛う゛なあぁぁぁぁぁ!!!!!」
「何も訳の分からないことなんてないわよ。今まで“お前”が入っていた水槽の中には別のれいむを入れてあるから」
「ゆ゛っ…………!?」
紫ちゃんはこの時のために野良ゆっくりのれいむを捕まえていた。そして、この日、そのれいむとこれまで水槽の中で飼われ
ていたれいむを取り替えたのである。今はラムネで眠らされた野良ゆっくりのれいむが水槽の中で眠っているだろう。故に、ゴ
ミ袋の中のれいむには、もう居場所などない。
「れ、れいむは……」
「だから言ったでしょう? “お前”はこれから死ぬの。誰にも気づいてもらえずに、この土の中でね」
「ま……まっでぐだ……」
「ねぇ? 私は、こう呼ばれるのは好きじゃないんだけど……。皆につけられたあだ名みたいなものがあるのよ。最期だし、そ
れを特別に“お前”に教えてあげるわ」
「ゆ……?」
「私はね。……“神隠しの紫”と呼ばれているのよ」
それだけ言って、何か喋りかけようとしたれいむを無視してゴミバケツの蓋を閉める。それを穴の中に投げ込むと、傍らに置
いてあったスコップで土を埋め始めた。穴が土で埋まっていくにつれてれいむの声が聞こえなくなっていく。
水槽の中で眠る野良れいむに稗田さんとさとりちゃんは気付くだろうか。少なくとも、あの野良れいむは二人の事は知らない
だろう。しかし、それがどうしたと言うのだろうか。ゆっくりの記憶などについて誰も介入などできやしない。明日、その野良
れいむを稗田さんとさとりちゃんに引き渡す予定になっている。その時に写真を撮って貰おう。嘘で塗り固めた偽りの写真だっ
たとしても、“あの子”は決して気付かない。
紫ちゃんが泣きながら笑った。
「ずっと、嘘をつき続けてきたんだもの……。嘘は、最後までつき続けるから……“嘘”なのよ」
淡々と作業を続ける紫ちゃん。かつて守ってあげられなかった友達の願いを叶えるために、一つの命を奪おうとしている自分
がうすら寒かった。それでも、土をかぶせていく手は止まる気配がない。
「決して掘り返されることのない、私がついた嘘の答えだけが入ったタイムカプセル……。その中で……ずっと、ゆっくりして
いればいいわ」
穴を埋め終えた紫ちゃんがスコップを地面に置く。
「……死ぬまでね」
――あのね……
水槽の中に小さな赤ちゃんゆっくりがいたかと思います。
その子はね、私が忘れ物を取りに学校に行ったとき、怪我をしていたから助けてあげた子です。
それで……怪我が治るまで紫ちゃんにその子の世話をお願いしてもいいかな……?
もう一ヶ月も経つから、とっくに怪我は治っちゃってるのかも知れないけれど。
家に帰ってからその赤ちゃんゆっくりの名前を調べたらね……。
なんと!
その子の名前は“れいむ”って言うんだって!
偶然もあるものだよね。
同じ名前の私が“れいむ”を助けてあげられたなんて……っ。
ちょっと勘違いし過ぎかな……?
紫ちゃん、呆れちゃってたらごめんね。
でも、なんだか嬉しかったんだ。
小さな命を助けてあげられたことが……凄く。
もし……もしね。
紫ちゃんたちのクラス皆が「いい」って言ってくれればなんだけど……。
“れいむ”が元気になっても、余裕があればその子を飼ってあげてくれませんか……?
そうしたら……私も、紫ちゃんや皆と一緒に居ることができるような気になれるから……。
あ、でもね。
無理だったらいいんだよ。
その時は、逃がしてあげてね。
“れいむ”は教室の中に迷い込んできたみたいだったから……。
それでは、お手紙に書くことがなくなってしまったのでこの辺りでやめておきます。
紫ちゃん。
体に気を付けて、双葉小学校での最後の一年間を元気に過ごしてください。
私がかなり遅くなっちゃったから、返事はいつでも構いません。
大人になったら、またいつか会ってお話をしましょう。
紫ちゃんに会えるのを楽しみにしています。
それじゃあ、またね。
――博麗 霊夢
おわり