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井上勝(明治) - (2014/07/11 (金) 00:47:14) の1つ前との変更点

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*井上勝(明治) 鉄道の父ちゃん。 (と呼ばれているけど私鉄反対派だったじゃねぇか的な異論もあるよ)(それにも再異論があるけど。) 東京駅の改装? もしくは復原にて広場にあったはずの彫像が消える。 鉄道遺産系の方によると仕舞われたらしい。 終わったんでそろそろ戻ってくるかなー、と一部心配されていたりしますね| ゚д゚) なんでもJRの人でも特に知ってるとは限らないんだって。 確かに「郵便の父」みたいな一般知名度はないけど、資料読んでると普通に出てくるんだけどねー、不思議。 個人的には東海道線の父ちゃんって呼んでます、明治5年、初期開業。明治22年に全通。 だいたいここと鉄道人生が連動してますし。 友人に説明する時に長州ファイブって属性を忘れ去ってたごめん。 (ぽくないね? と言われたせいかもしれないけど。) ***東海道線(官設鉄道)に関して 明治6年に井上馨氏と連座して下野してる。 明治9年に復帰してるのかな? 井上馨氏はこの時点ですね。 これ以前にそれほど特に鉄道についての文言はないみたいですし、この時点での「東西幹線」の中山道ルート推しは明治6年の時点での政府見解の一つと被ってるような。あれですね、東海道にはすでに水運があり発展していて、山間部を通すことよってその周辺部の発展を促そうみたいなやつ。 陸軍の意向ではないです、と言下に言ってるという見方もされてましたが。 これだけだと専門家っていうよりはいずれかの意見を採るかどうかの立場の人っぽいかなぁ。 明治19年に東西幹線を東海道ルートにするって時点ではこの人が宣言出してます。 そこまで異様に難航してたのに3年で作っちゃったっていう。明治22年に全通。 まあ「技能的に無理っぽ」みたいな意味合いらしいので、ただの総論の代弁だったかもしれないけど。 あと日本の鉄道が世界標準の標準軌よりも狭い狭軌でいいって判断にも預かってたらしい。 これは最初の路線敷く時点でエドモンド・モレルさん(英人)に質問されてたって話だよね。 この人の人生の中で「あれで良かったんだよ計画通り!」と言ってる時期と、「金なかったし仕方なかったろ」って言ってる時期、「…痛恨のミスだったと、今は、思ってる」って時期とがあるので、まあまあなんか関わってたって見ていいんじゃないかな。 ちなみにこれ年齢順です、一人の著者さんが並べてらして読みましたww 歳取って本音出た系かしら。 実際のところ狭軌のほうが有利な点もあるらしく(カーブ的な意味で)、建設費が安く済んだ結果、日本に鉄道網が張り巡らされる結果になったという見方もあるみたいです。 で、その間には日本鉄道株式会社の「東京-高崎」間(駅名ではないです地名)で接続するってことになってたっぽい。 高崎は通運会社の時点でも馬車会社の時点でも名前が上位に出てくる一大拠点だったらしいですが。 大まかに中山道ルートで通ってるよね。 日本鉄道KKは結局金録公債で作られたって見ていいんだろうか…。 井上勝さんが時々「新橋-横浜」間とつなげ馬鹿逃げるなー、みたいなこと言ってらっしゃいます。 東側の歓楽街なんて鉄道敷くの大変だったじゃん…。 (だから今の山手線で西側をつないだんだって、当時の名前は「品川線」、近隣でまともな町は新宿のみっていう☆)

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