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*フランク族 ローマ帝国の崩壊の折に北フランスに来てパリを象徴的な地位に定めて。 すごーく大雑把に今のフランスの元に元になったみたいな騎馬遊牧民です(多分)。 多分っていうか、鐙(あぶみ)が出来るまで馬に乗るのってのが特殊技能だったらしく。 馬に乗れる民族ってだけでどうも無条件で強かったっぽい。 遊牧民ってのは特にそう言われてるわけでもないんですが、分割相続(だいたい遊牧民は土地単位じゃないのでその伝統があるよ)だとか、実際に本拠地決めてないとか外見からはそんな感じなんだよね。 えーとね、まず「フランク王国」ってのを北フランスの地で作りまして。 それが王家が交代していく間に「フランセーズ=フランク王国領」になったのがフランスの元です。 一旦フランク王国が膨らんで分割したみたいな感じかなぁ。 「イタリア・ドイツ・フランスがかつて一つの国だった」と言われてるシャルルマーニュ(カール大帝)時代がこのフランク王国だよー。一旦拡大したので首都をドイツ寄りに移しまして。 それから分割したから、文化的には連続性があるともないとも言えますね。 シャルルマーニュは実際に皇帝位を得ていたんですが、この皇帝位を継いでいったのが「神聖ローマ帝国」ね。 (皇帝位と領土が別に存在していたっていう、ちょっと珍しいスタイルなんだよねこれ。) パリの地位は結構微妙なところがあって、「王家の居場所」ではないんだよね。 最前言ってますように遊牧民だった名残なのかあちこちの領土を転々とすることで統括してたみたいだし。 ただ、ここを取ったところが王の地位を手に入れるって仕組みだったみたいです。 皇帝位を別に取得しちゃったんであんまり意味がなくなっちゃったんだけどね。 パリが実際にはどんな感じで運営されていたのかはあんまり研究がない、もしくは私が読める体裁ではないようで私の手には余る感じ。どうもそこに住んでいた人たちが特殊な王位に付随する存在として扱われていたらしいのはたまに見るんだけどね(でもどんな人が住んでるとかそういうのがわかるわけでもないのよ、代々? 神官みたいな??)。 フランク王国の初代の王はクローヴィスという人物。 この父親、もしくは祖父の時代から王としてカウントされることもあるんですが、「王位を得た」のはクローヴィスの時代だったのではないか、というのが定説寄りですね。 ただ、祖父もしくは父親の時代から当時フランスの地にいたカソリックとの関係があったみたいです。 当時、ローマ帝国の国教の地位はあったものの、その難解な教義のために各国の王の庇護を失いつつあり。 少なくとも「フランク王国ありがとう!」ってカソリック側は言ってるみたいなんですけどねー。 で、まあ、要するにその時代のフランク族は強かった、と端的に認識し。 王の地位というのは元来ローマ皇帝から与えられるものだったんですが、当時はローマ帝国の弱体化が激しく、あんまり意味がないなー、と無視されていた模様。 クローヴィスが特にメリットがなかっただろうカソリックに庇護を与え。 片割れ(西ローマ皇帝)を廃されていた東ローマ皇帝の意を汲んでその西ローマ帝国の仇を討った理由も地味に不明。 それで王の地位を貰いまして、それでフランク王国が成立した、みたいな順序なんですけどねー。 このフランク王国がまずクーヴィスのメロヴィング家からカロリング家へと王朝交代し。 このカロリング王国からシャルルマーニュ(orカール大帝、同じ人の別読み)が排出されまして。 イタリア・フランス・ドイツを含んだ大帝国が作られた、というのがそのシャルルマーニュ時代。 そいでパリという大概北もいいところに首都があったんでドイツ寄りに中心地を移しまして、移したあとに分割したのでドイツの辺りに皇帝位が残っちゃったのはそれでですね。 フランスの地は頑張ってカペー家が防衛したけど非常に領土が縮小してしまい。 この「フランク王国領=フランセーズ」と呼ばれたのが要するに今のフランスに直接つながる国です。 まあ、連続性があるともないとも言えると思います。 ドイツ側に皇帝位が持ってかれたせいかドイツはフランク→フランスを非連続って言ってるし。 もともとパリと北フランスの地を中心に王位で統治してた時期が長いからフランス側は連続って言ってます。 どっちもありっちゃあありだと思います。立場によって違うって覚えたほうがわかりやすいかもってくらい。
*フランク族 まあ、すごく大雑把にフランスという国の元になった民族です。 初代の「王」はクローヴィスという人物だと言われてまして、当時はローマ帝国がちょうど崩壊していく時代。 それこそ西ローマ皇帝が廃位になった時点でこのクローヴィスがその仇取ってますので中心人物ですね。 この当時の王位はローマ皇帝が周辺民族に与えるものだったんですが、当時はすでに分割していた東・西ローマ帝国の秩序そのものが低下しつつあったので特に王位に拘るということもなく。 どうも西ローマ帝国の国教になっていたカソリックの存在からローマ帝国とフランク族が結び付いたのではないか、ということは言われているものの、その意図するところはよくわからない、というのが定説です。 (研究者の人で意見はあるのかもしれないけどねー、とりあえずカソリックの洗礼受けたのも晩年なんだよね。) で、上でも言っているようにどうも北フランスの辺りにいたカソリックと結び付き。 東ローマ皇帝の意を受けてランゴバルト王国を滅ぼしまして。 まあそんなこんなで「王位」を得まして[[フランク王国>http://www46.atwiki.jp/aosasa/pages/39.html]]が形成された、というのがその大雑把な流れ。 とはいえ、これはあくまで地位だけで領土なんかはもともとの自前なんですけどねー。 力(と多分知恵)のあるクローヴィスが王位を得たことで王国という秩序は作りやすくなっていたようです。 個人的にはカソリックの司祭が彼の知恵袋だったんじゃないかな、と思っています。 実際そうやって行動する宗教関係者って時々歴史にいるしね。 このフランク族というのは今の「フランク」と意味はあまり変わらず、まあ自由気ままみたいな意味。 自称でもあったようなんですが、蔑称に近い他称のようなところから転用された形跡も。 血族としてのつながりをあまり重視せず、外からの民族流入を歓迎しており、クローヴィスも複数の集団の中で暫定的にリーダーの位置に付いているだけだった、ということが言われています。 ていうか、どうも父親や、祖父の時代からなんらかのローマもしくはカソリックとの関係あったらしいんだけどね。 なので、王位も彼らからカウントすることもあるんですが、王位を受けに東ローマまで行ったのはクローヴィスなので、まあその辺を頭の隅に置いておけばいいかもしれません。 このフランク王国クローヴィスからの家をメロヴィング王朝と呼ぶんですが。 ここから禅譲(殺さずに王位を継ぐ)したのがカロリング王朝です。 カロリング王朝の時代にシャルルマーニュ、もしくはドイツ読みでカール大帝という人物が出て「イタリア/ドイツ/フランスを含む大帝国が作られた」という出来事もあるんですが、まあそれはまた今度!

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