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工部省(明治3年) - (2015/01/03 (土) 23:00:08) の編集履歴(バックアップ)


工部省(明治3年)


明治3年にエドモンド・モレル(英)の建策にて作られる。
他の説もあったようですが、こっちのがそもそも旧来説だよね。

ここの沿革史が大蔵省から出てるんだけど、なんか複雑な事情があるらしいですよ…。
正直複雑すぎて知らん!!
内務省のほうがあとに作られてるんですが、内務省の指揮下にあるんじゃないのかなぁ、多分。
(しかし内務省の土木寮も大蔵省から内務省に移されたらしいしもうわからん。)

大雑把に民部省の鉄道掛が移管されて事実上の鉄道建設を請け負いまして。
というより、鉄道が大規模だったために独立したほうが都合よかったみたいです。
明治18年に廃止されて、主に逓信省と農商務省に分割されたってあるよ(Wiki先生とこに)。
ていうかやってることが実務に近いので結構あちこちと管轄がぶつかるっぽい。
どちらかというと明治初期の頃に数少なかった建設がわかる専門家を一時的に一箇所に集中させておく必要があったって認識すべきなんじゃないかなと。ただ、初期の頃はやっぱりレベル高くないかも。

鉄道寮、鉱山寮、灯台寮、電信寮、造船寮、だったかな? 確か5寮あるんだよね。
土木全般というわけでもなくて港湾とか道路は別扱いなんだよね、予算の問題なのかしら…。
「寮」ってたまに出てくるんだけどどういう機関なんだろこれ、「局」みたいなものかなぁ。
(局は省の下部機関だよね、たまに局だけが独立してたり別の省に貰われてったりはするけど、寮はなんとなくだけど単独では存在してなさそうだし移管される時は上部機関ごとって気がする。)
(そんなこともなかった、土木寮とか明らかに独立してるわ。)

大蔵省の造幣局もここに属するって話があったようですがこっちは取り止め。
政治的な問題で語られてますが、少なくともあっちは技術的な意味で自前でやってけたって前提はあると思うよ。

ここから明治4年に工部大学校が作られてこれは現在も東京大学工学部として残ってるみたい。

んーと、明治4年に技術見習生の制度を決め、同年9月に工学寮を作り、翌年明治5年に工学校を設立。
工学校は大学が明治6年8月に開校。
大学に入るための予備講義を行う前提の小学校が明治5年2月に開校(明治8年6月に廃校)。
これはどっちかというと別の教育機関がそのあとを負ったんでしょうね。
大学は就学6年間で、土木、機械、造家、電信、化学、治金、鉱山の7科。
明治8年1月工学寮廃止によって工部大学校と改称、そこからさらに「帝国工科大学」となったようで。
これが文部省に引き取られた時の状態だろうな、工学寮とは両立してた時期もあったのか。

あと、大蔵省と民部省の権限争いみたいなところから、とりあえず技術部門は独立させておこうみたいなのもあったっぽい。
独立前後には長州派vs薩摩派って認識していいのかなぁ…。
このあとくらいから、結構ごたごた関係が錯綜してくからわかりにくくなります。
で、この工部省もどっち派とも関わるし、案外どっちとも揉める時は揉める。
創設時点では長州寄りではあるみたい。まあ開明派って呼ばれてたのがそっちみたいだしね。

鉄道掛


ちょっと上手く情報が統合出来ないので別けて書きます。

明治2年(1869年)11月10日の廟議決定にて。
「幹線ハ東西両京ヲ連絡シ、枝線ハ東京ヨリ横浜ニ至リ、又琵琶湖辺ヨリ敦賀ニ達シ、別ニ一線は京都ヨリ神戸ニ至ルヘシ」
という決定がされた、とあるんですが、んー?

明治3年(1870年)3月1日に民部・大蔵両省に鉄道掛が設置されまして。
事務局は東京築地の旧尾張藩邸。
同じ年の10月に殖産興業の中枢機関として新設された工部省にこの鉄道掛が移管。
で、翌年明治4年8月に鉄道寮へと改称されて初代鉄道頭として井上勝が任命される。
あとで上の内容と統合予定。