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メモ/演劇 - (2011/12/04 (日) 21:44:42) の編集履歴(バックアップ)


 しかし、劇場はしょせん劇場で、演劇は、「虚構=フィクション」でしかありません。童話『裸の王様』と同じで、私たちがいくらしゃかりきになって素晴らしい舞台を創り上げても、子どもがトコトコとやってきて、
 「なんだか、おじさんたちは一生懸命やっているけど、ここは劇場じゃないか」
 と一言言ってしまえば、それで積み上げてきた虚構も夢も崩れていくはかない仕事です。
 けれども、それでも私たちは、たまさか優れた演劇作品に出会うと、そこが本物の砂漠以上の砂漠に見えたり、見たこともないくせに、「あぁ、大宇宙とは、きっとこのようなものだなぁ」と納得してしまったりします。
 それが芸術の力というものでしょう。

演技と演出?, pp.32-33

 ただし、演劇では、そのようなリアルの感覚をもたらすためには、まず舞台上で「イメージの共有」が行われていなければなりません。演劇は集団で行う芸術なので、そこが難しいところです。


 こう書くと、「でも、それは、演出ではなくて、『演技』でしょう」と考える人が多いと思います。たしかに、俳優は自分自身を演出し演技をします。ですから、俳優にとっては、この二つの境界線は曖昧です。では、自己を演出することと、他者を演出することには、はっきりとした違いがあるのでしょうか?


 私があえて、この本はハウ・ツー本だと言いきるのは、演劇を技術として語る習慣が少ない日本の演劇界の現状に対して、多少なりとも異を唱えたいという気持ちがあるからだ。だから、ここで言うハウ・ツー本とは、すなわち隠されてきた技術の蓄積の言語化という意味だ。

演劇入門, p. 4

 おそらく、私のこの戯曲創作作法も、「ダメな戯曲」の理由を検証するのには、適した方法なのだろうと思う。こうして、ダメな戯曲を書かないための基本的な概念を系統立てて学ぶことによって、「いい戯曲」を書ける確率を高めていこうというのが、私の講座の基本的な考え方だ。戯曲の書き方を教えるというのは、本質的にこのような方向でしか考えられないものなのではないだろうか。いい戯曲の書き方は教えられないかもしれないが、悪い戯曲を書かない方法は教えられるはずだ。

演劇入門, p. 81

 だが本書の目的は、あくまで、多くの観客(それが仮想のものであっても)が、「リアル」と感じるものは何かを探り当てる点にある。
「リアル」は人それぞれだと漠然と言い放つのは、たやすい。だが、それでもより普遍に近い「リアル」はあるのだ。少なくとも、多くの人がAよりBをリアルと感じる、その差異は明確にできるはずなのだ。私がいま見極めたいと思うのは、その差異の根拠である。

演劇入門, p. 24

 プロットを作る時には、まず最初に誰がその場にいれば面白いかを考える。次に誰が入ってくれば楽しいか、あるいは、誰がその場にいると都合が悪いか。それらの点だけを考えて、人の出入りの順番を決めていく。

演劇入門, p. 90

 演劇作品を創るという作業は、化学や物理学の実験に似ている。この喩えに従えば、私にとって演劇における戯曲の役割は、実験を行うための作業仮説にあたる。
 戯曲には、劇作家の見ている世界の見取り図が描かれている。「おそらく私はこのように世界を見ているのだろう」「おそらく私は、このように人間というものを捉えているのだろう」という、劇作家にとっての概念図のようなものだと言ってもいい。
 Aという人間がいる。そこにBという人間が入ってくる。Bが入ってきたことによって、Aはどのように変化するか。BはAと出会ってどのような反応を示すか。その変化や反応の過程についての仮説を書き記していくのが劇作家の仕事である。私がここまで記した戯曲創作の過程も、そのような筋道をたどってきたのではないかと思う。

演劇入門, p. 170