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M-Tea*4_29-南島の黥/琉球女人の被服 伊波普猷

2012.2.11 第四巻 第二九号

南島の黥
琉球女人の被服
伊波普猷

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【週刊ミルクティー*第四巻 第二九号】
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定価:200円 p.158 / *99 出版
付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(48項目)p.272
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※ オリジナル版に加えて、ミルクティー*現代表記版を同時収録。
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わがはげにほえろー! 週刊わがはげは猫である、ニャーっ*

 南島のもやはり宗教的意義を有していたようである。琉球の漢詩人喜舎場朝賢翁の『続東汀随筆』にこういうことが見えている。

女子すでに人に嫁すれば、すなわち左右の手指表面に墨黥す。これを波津幾(はづき)という。鍼衝(はりつき)の中略なり。婦女もっとも愛好す。もし久しく白指なる者は、※(ちくり)これを笑う。ゆえに、二十一、二をすぎて墨黥せざる者なし。『隋書』「流求伝」に、婦人手に墨黥して梅花の形をなすと。上古の遺風なり。すでに黥して数年を経れば、墨色淡薄になる。ふたたび黥して新鮮ならしむ。すでに黥して五、六回におよぶときは終身淡薄になる憂いなし。置県の今日にいたり、人身墨黥するを許さざる法律を発せらる。もしこれを犯しおよびこれを業となす者あらば、捕えられて処刑せらるるにつき、ついにその悪弊を止めたり。

 はじめて黥するときは、閑静な別荘などを借り、親戚縁者を招待してごちそうしながらおこなったものであるが、このとき十二、三歳ぐらいの少女たちは、図のごとき黥をしてもらい、黥の色のあせた人たちもその上に黥をしてもらうのであった。歌などを謡っていたところから見ると、古くはオモロなどを謡って、宗教的儀式をおこなっていたことが推測される。すでに嫁した者が黥をしないうちに死ぬことがあったら、そのままであの世に行くと、葦のイモを掘らせられるというので、手の甲にその紋様を描いてやって、野辺送りをすることになっていた。ついでにいうが、葦のイモを掘ることは、あの世での最も苦しい労働だと信じられている。

※[#「女+由」、U+59AF]※[#「女+里」、第4水準2-5-56] ちくり 兄弟の妻どうしが互いに呼びあうことば。

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milk_tea_4_29.html
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伊波普猷 いは ふゆう
1876-1947(明治9.3.15-昭和22.8.13)
言語学者・民俗学者。沖縄生れ。東大卒。琉球の言語・歴史・民俗を研究。編著「南島方言史攷」「校訂おもろさうし」など。

◇参照:Wikipedia 伊波普猷、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。

南島の黥
底本:『沖縄女性史』平凡社ライブラリー 371
   2000(平成12)年11月10日初版第1刷
初出:「琉球婦人の黥」『日本地理風俗大系 第十二巻』新光社
   1930(昭和5)年3月28日

琉球女人の被服
底本:『沖縄女性史』平凡社ライブラリー 371
   2000(平成12)年11月10日初版第1刷
初出:『被服』第十四巻第五号
   1943(昭和18)年9月1日


NDC 分類:383(風俗習慣.民俗学.民族学 / 衣食住の習俗)
http://yozora.kazumi386.org/3/8/ndc383.html
NDC 分類:387(風俗習慣.民俗学.民族学 / 民間信仰.迷信[俗信])
http://yozora.kazumi386.org/3/8/ndc387.html

年表


南島の黥

十四世紀中葉 中山王察度のときに、中山最高の神官聞得大君が久高島参詣の途中、暴風にあって日本に漂流した話。(『遺老説伝』ほか)

洪武五(一三七二) 以来、シナ・琉球間の交通はようやくさかんになって、このときまでに七回も冊封使を派遣し、また琉球の官生らも国子監に入学。
天順五(一四六一) 『大明一統志』編纂の琉球国の条に「黥手」。「婦人以墨黥手。為飛蛇文」。
成化一五(一四七九) 朝鮮済州島の人数名が与那国島に漂流し、一年有半かけて、西表・波照間・新城・黒島・多良間・伊良部・宮古・沖縄を経由して帰国。彼らの見聞談を朝鮮の史官が書き取ったのが『李朝実録』中に載っている。
嘉靖一一(一五三二) 琉球に使いした明人陳侃の『使琉球録』は『大明一統志』の文句を引用、「婦人以墨黥手、為飛虎文」「其婦人真以墨黥、花草鳥獣之形」。
慶長年間(一五九六〜一六一五) 琉球をおとずれた浄土宗の碩学袋中の『琉球神道記』おそらく琉球婦人の黥のことが、日本の文献に現われた最古のもの。
康煕五八(一七一九) 琉球をおとずれた冊封副使徐葆光、『中山伝信録』中に、婦人の黥について記す。
宝暦一二(一七六二)夏 琉球国の楷船が土佐の大島に漂流したとき、土佐の学者の戸部良熙が、琉蔵役の潮平親雲上に琉球の事情を聞いて『大島筆記』を物したが、その中にも琉球婦人の黥に関することが見えている。
明治二七(一八九四) 笹森儀助『南島探験』出版。
一九一三 Edmund M. H. Simon "Beitra:ge zur Kenntnis der Riukiu Inseln. " 沖縄諸島および奄美大島諸島の婦人の黥。
一九二五 W. D. Hambly "The History of Tattooing and its Significance. " サモア島婦人の黥。
一九二五、六ごろ 伊波、鬼界島を訪れる。その婦人の黥が十人十色で、技術者により、部落により、家筋により、個人によって、趣きを異にしているのを見聞。
昭和五(一九三〇)年三月二八日 伊波「琉球婦人の黥」『日本地理風俗大系 第十二巻』新光社。


琉球女人の被服

成化一三/文明九(一四七七) 朝鮮の済州島の人民が、琉球群島の西南端の与那国島に漂流し、八重山および宮古の島々をへて沖縄に送られたことがあり、その見聞談が『李朝実録』に採録。
嘉靖一一/天文元(一五三二) 渡琉した冊封使陳侃の『使琉球記』〔使琉球録〕中にも、婦人の服装について、「上衣之外、更用幅如一レ帷。蒙之背上。見人則以手下之。而蔽其面。下裳如裙。而倍其幅。褶細而制長。覆其足也。其貴家大族之妻。出入則戴※[#「竹/若」]笠。坐於馬上。女僕三四従之。但無布帽毛衣螺佩之飾」と記してある。
慶長一四(一六〇九) 島津氏の琉球入り以後、制度の変遷につれて神人の服装にも変遷おこる。
康煕五八/享保四(一七一九) 『伝信録』の著者徐葆光は、琉球国王尚敬を冊封するために渡島した副使で、八か月間滞在。
寛保二(一七四二)一一月 寺社座から那覇横目に「かつぎ」に関する達し。(『親見世旧記』)
宝暦一二(一七六二) 土佐の学者・戸部良熙『大島筆記』、琉球の人物風俗の条衣服の項。
嘉永・安政(一八四八〜一八六〇)ごろ 薩摩の藩士名越左源太『南島雑話』、当時、大島にいた琉球遊女の図。
安政十一〔「安政十一」は底本のまま〕三月六日 伊波の祖父、大和横目職に任ぜられ、在職の三年二か月間これを有す。
明治四〇(一九〇七)春 伊波、八重山・宮良の小学校の卒業式に列席して、来賓中の婦人たちが一人も残らず第七図〔割愛〕のような「どじんかかん」を纏うているのを目撃したが、上衣が長すぎて下裳は容易に見えなかった。
大正元(一九一二)一一月 喜舎場朝賢『東汀随筆』第二巻「国人男女衣帯の事」。
大正二(一九一三)夏 伊波、はじめて久米島を訪れる。島の女にハカマをつけない者のかなり多いのを見る。
大正七〜昭和四(一九一八〜一九二九) 伊波、大島諸島に三度採訪。古俗の忠実に保存されていることを知る。
昭和一八(一九四三)九月一日 伊波「琉球女人の被服」『被服』第十四巻第五号。

難字、求めよ

墨黥
タジュク 魚の名。
侍女 アガマー
南米 「南米の雁までも恋て含墨を加祢と名く」袋中琉球神道記』。
形印
明初
琉蔵役 → 琉球蔵役か
胴衣裙 ドジンカカン
単衣 チーヂン 冬の上衣。
娼児
弄悩 わにやく
茶帳 ちゃちょう? 薩摩の在番奉行所から交付された免許状。
紫長巾
取裙 とりかかむ
蛇祭
寺社座
前佩 まえはき?
御印加那志 おいんがなし
首里之印
阿良不利 あらふり
円筐子 「女冠如本国円筐子」『琉球風土記』。
棕葉 椶葉 しゅば? そうば?
直領 直垂(ひたたれ)か?
衣褌 いこん?
襦襖 じゅおう?
児襦
斑染?
?帛 かいはく 「そうはく」か? 「?」はソウ、シュウ。
?帛 そうはく 絹地。
苧布 ちょふ?
生苧 なまからむし?
胡蝶形 はべるがた
蜻蛉御衣 あけづ みそ
外間祝女 ほかま のろ
ウシンチー 上前を右脇に引きまわして、着物の上からハカマの細帯に差し込んで止める。
絵がき御羽 えがきみはね 北部地方の神女の首里王府から交付される。
場天祝女 ばてん のろ
シーモン博士 → Edmund M. H. Simon か
Edmund M. H. Simon
W. D. Hambly
M. Guillemard
岩倉市郎 いわくら? 著『加無波良夜譚』。
島袋 しまぶくろ? 画家。
通考 つうこう 馬端臨撰『文献通考』(1307年成立)、新井白石著『同文通考』(1760年刊)、張廷玉等編『続文献通考』(1784年完成)、劉錦藻撰『清朝続文献通考』(1912年完成)。戸部『大島筆記』「通考などに文身のことあるはこれゆえにや」。
『江戸立之時仰渡並応答之条々之写』
『琉球古今記』
「旅ぐわいにや」
『琉球風土記』 朝鮮の刊行か。

むしとりホイホイ

琉蔵役 → 琉球蔵役 【球?】
親見世旧記 → 親見世日記 【日?】
使琉球記 → 使琉球録 【録】
安政十一年 → ?

以上4件。底本は左辺のとおり。

スリーパーズ日記

 Wikipedia「入れ墨」の「江戸時代の入れ墨」の項にもあるとおり、「漁民が出漁中に遭難死した場合の身元確認用に用いられていた」という説を、以前どこかで読んだ記憶がある。出身の漁村ごとに若干のちがいがあるので、こんどの土左衛門や恵比寿さまはどこぞの村出身だとおおよその見当がついたらしく、ていねいに葬っておいて、後日その村へ連絡したというような内容だったと思う。
 ざんねんながら、今回の伊波普猷「南島の黥」には該当する記述はなかった。興味深かったのは、琉球では女性にかぎられていたということと、どうやら両手の甲と指に場所が限定していたということ。おなじ入れ墨でも、アイヌ女性のばあい、口のまわりにほどこしたのと大きく異なる。

魏志倭人伝
「自郡至女王國萬二千餘里、男子無大小、皆黥面文身、自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫、夏后少康之子、封於會稽、斷髮文身、以避蛟龍之害、今倭水人、好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾、諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。」

後漢書倭伝
男子皆黥面文身、以其文左右大小、別尊卑之差。」

隋書倭国伝
男女多黥臂、點面文身、沒水捕魚。」

古事記
「あめつゝちとりましとゝ 何故(など) 黥(さ)ける 利目(とめ)——お前の目は、なぜそんなに黥(いれずみ)がしてあるのか」
「をとめに たゞにあはむと わが黥(さ)ける 利目(とめ)——あなたのような美しい、若いお媛(ひめ)さまに会うために、私が黥(いれずみ)をしておいた、この眦(めじり)の黥です」(いすけより媛とおおくめの命の会話、折口信夫「歌の話」より)

日本紀
武内宿禰自東国還之。奏言、東夷之中有日高見国。其国人、男女並椎結文身、為人勇悍。是総曰蝦夷。亦土地沃壌而曠之。撃可取也。」(景行天皇二十七年二月条)

 入れ墨をはじめ、身体欠損をタブーとするようになったのは仏教伝来後というのが通説。「身体髪膚(はっぷ)、之を父母に受く、敢て毀傷せざるは、孝の始め也」(孝経開宗明義章)。ん? “孝経”だから儒教伝来後か。

 松岡正剛『法然の編集力』(NHK出版、2011.10)読了。



2.14 12:29 天童、弱震。
2012.2.14:公開 玲瓏迷人。
2012.2.15:更新
つけまづらる、づらまつけま。ひとのづら見て、わがづらなおせ。
七曲がりにほえろ、ニャーっ! どんとこい、ネコですたいづら。
目くそ鼻くそ。しだひろし/PoorBook G3'99
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最終更新:2012年02月15日 22:29