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*『blue serenade』
歌には、感情が宿ると言います。
歌い手が秘めた想いを。
或いは、込めずにはいられない想いを。
喜怒哀楽、そのいずれであろうと。
多かれ少なかれ、程度の差こそあれ。
奥底から湧き上がるものは、到底隠しきれるものではありません。
もしもそれがなかったとしたら。
いくら美しい旋律であろうとも。
雅やかに飾られた詞であろうとも。
それは決して歌とは呼べないもの──────────私はそう思っています。
そして、その意味で言うならば。
その時の私の歌は、この上なく歌でありました。
憂鬱な小夜曲でありました。
事の起こりを語る前に、少しだけ私自身について話をいたします。
私の名はセイレーン。人間の言葉で言うなら、人魚と呼ばれる存在です。
陸に根を下ろさず広い海原を住処とし、時に人前に姿を現してはその歌声で聴く者を惑わし、或いは死に至らしめる。
そうした伝承を持つ、人とは異なるもの。
およそ人とは相容れぬ、海と陸に分かたれた存在。
深海に到る海溝よりもなお深い断絶が、両者の間には横たわっていました。
そんな私でしたが、かつて一度だけ。
たった、一人だけ。
人との間に、絆を結んだ事がありました。
それは、絆と言うにはあまりにも不確かで。
それは、絆と言うにはあまりにも儚くて。
それでも、私にとっては確かにそこにあったものでした。
彼は海の無法者──────────所謂海賊でした。
血気盛んな手下を率いては商船を襲い、人を殺め、財を奪う非道の徒。
人に恐れられる海の魔物と。
人に忌み嫌われる無情の海賊。
思えば、私と彼は何処か似ていたのかもしれません。
共に過ごした時間はほんの僅かでしたが、共有した時は決して忘れられるものではありませんでした。
別れ際の彼の言葉は。
──────────必ず戻る。
明日をも知れぬ危険な航海と、戦いに身を置きながら。
随分と自分勝手な宣言だと、抗議した私に彼は。
白い海の宝石を。大粒の真珠を握らせて言いました。
──────────だから、待っていろ。
約束が果たされるその日まで。
彼の姿を映す鏡であるかのように、私はそれを握り締めていました。
そんな子供騙しの約束を信じてしまうような私は。
愚かでした。
愚かでありました。
想い人の品があれば、再び相見える事が叶う。まじない師と称した男の甘言に容易く乗せられてしまう程に。
赤子の手を捻るよりも労なく、詐術と欺きに長けた男は私から彼との繋がりの証を奪い去ってしまいました。
それからの日々を、泣き暮らして。
月に懇願を。
星に祈りを。
彼に会えずとも、せめて胸に抱く温もりの拠り所がこの手に戻るようにと。
願うだけで、何も行動を起こさぬ私はやはり、愚かでありました。
「なるほどねっ、悪いやつに騙されちゃったんだねっ」
騙されて以来、人間不信に陥っていた私が何故、彼女に事情を話してしまったのか。
そもそも人の目から隠れるように暮らしていた私をどうやって見つけたのか。
問い掛ける私の眼差しに、彼女は笑って言いました。
「そりゃあだって、隠された宝物を見つけ出すのは怪盗の得意技だからねっ!」
分かったような分からないような。
少年のように屈託の無い満面の笑顔は、何処か彼が纏っていた自由の風に似ていて。
「よーしっ、じゃあここはひとつ私が一肌脱いであげますかっ!」
腕まくりするような仕草で細腕を誇示した彼女は、現れた時と同じように唐突に、前触れもなく。
煙のように泡のように、消えてしまいました。
翌日、再び私の前に現れた彼女がもたらしたものに。
取り戻された何よりも大切な、かけがえの無い約束に。
涙と。
嗚咽が溢れました。
彼女とはそれきり会えていません。
何処の誰かさえ、知らないままで。
もしかすると私の見た蜃気楼だったのでは、と思うほどに彼女は不確かな存在でした。
それでも私は思い出すのです。
空のように澄みきった瞳を。
海のように鮮やかな髪を。
そして今、私は静かに歌い奏でるのです。
穏やかな青に包まれた、ささやかで優しい小夜曲を。
<了>