あれから1ヶ月が過ぎた、バトロイスタジアム。ドッチャーが帰ってきた。
「ご覧下さい、あの赤いバトルコスチュームのドッチャー・アルフェンスが1ヶ月ぶりに戻ってきました!」
ドッチャー、颯爽とリングに上がり、声援を送る観客に手を振る。
それから試合が始まった。だが、この日はファンの期待を裏切り、白星を掴むことなく敗れ去った。
その3日後、彼は本調子を取り戻した。4つの白星を掴み、その後は毎回白星を一つは取るという安定したファイティングを続け、そして5月16日、感激の時はやってきた。
「試合終了!ドッチャー・アルフェンス、547回ぶりのD-BR杯優勝であります!」
このときのスタジアムは大歓声にわき、リングに紙テープや紙吹雪が飛んだ。
翌日、またもD-BR杯を制覇。その後中一日、彼は大戦果を上げた。
「ドッチャー・アルフェンス、何とD-BR杯V3達成!」
V3、すなわちD-BR杯3連覇。これは決して並大抵ではない記録である。
その時のヒーローインタビューである。
「放送席、放送席、見事V3を成し遂げたドッチャー・アルフェンス選手であります!」と、リポーターが言うと大歓声があがった。
「ありがとうございます」と、ドッチャーはいう。
「この5月は非常にいいファイティングを見せてくれていますけど」
「はい、まさに好成績の連続ですね」
30分後、インタビューを終え、ロッカールームから出たドッチャーには大勢のファンが待ち受けていた。彼はファンが握手とサインを求めるのを快く応じた。
翌日は未勝利で敗れたが、3日後の23日、ドッチャーはまたD-BR杯で優勝した。しかし、その翌日の黒星が彼の暗黒時代の始まりということを誰も知るよしもなかった。
5月30日、未勝利。6月4日、12日、彼は優勝にありつけなかった。そして15日、またも未勝利を喫した。ファンからの「どうしたドッチャー」「どうした星川」の声がしだいに高まっていった。18日は4勝と健闘しながら、その翌日はまたも黒星に終わった。そして1週間ほどブランクが空き、28日、やはり彼は優勝にありつけず、6月は無冠に終わった。
彼のライバルであった吉田健次はこう語る。
「誰もが『星川、もうお前の時代は終わりや』と思っていた。あれはドッチャー時代の終焉だ。しかし、彼はそれだけでは終わりませんでしたよ。未勝利で負けても彼には闘志がやどってるんですよ。ただ悔しさがそのままエネルギーに変換されたわけでもなく、しかもそれは負けるたびに」
7月、彼は3回未勝利で敗れ、D-BR杯優勝はなかった。ファンは彼が負けるたびにため息をつき、時には怒りをあらわにして彼を罵倒したりもした。
彼の幼なじみであった高野優美はこう語る。
「もう、彼は全然ダメでした、攻めるも守も避けるも運も、全てにおいてダメでした。」
8月4日、夏の暑い日に、ドッチャーはやってきた。しかし、一部のファンにとっては招かざる客のようだった。彼がリングに上がるとき、そこにはブーイングがあった。しかし、熱い声援もあった。ドッチャーは後者の声にだけ耳を傾けた。
彼は1勝して、迎えた試合。彼は勝ち、D-BR杯へと駒を進めた。
そして
「やったー!ドッチャー・アルフェンス、2ヶ月半ぶりの優勝!」
彼は最後の一人を倒した瞬間、拳を高く上げた。最初は彼に対して冷酷な態度を取ったサポーターも、彼の本当の力を見直すようになった。
しかし、その後はパットせず、未勝利や凡退を繰り返し、10月の始め、バトロイ本家は突然堕ちた。そして枦軍は冬を越すまで地方のバトロイ会場で細々と活動するようになった。
本家が突然廃れてから半年、一冬越して、ようやく本家が甦った、その本家のバトロイスタジアムに、一人の男が入場した。そう、ドッチャー・アルフェンスである。
「半年もの間、本家のバトロイスタジアムは突然閉鎖され、各バトラーはそれぞれ別の会場でプレイし、一冬を越しました。そして今、あの稗田軍のエースが今ここ本家のリングに上がろうとしています!」
ドッチャーがリングに上がると客席からはたちまち大歓声。
そして他の3者もリングに上がり、試合開始。ドッチャーは序盤から軽快なファイティングを見せ、白星を重ね、D-BR杯へと駒を進めた。そして、13時39分、スタジアムに地響きが起こった。
「やりました!ドッチャー・アルフェンス!本家復帰早々V達成!」
本家と共に、ドッチャーは甦った。その後ドッチャーはD-BR杯の王座を2度も防衛し、V3を達成した。
V3を達成したヒーローインタビューのこと
「ファンの皆さん、そして他のバトラー及びプレイヤーの皆さんに支えられ、ここまで来れました。」
「では、ドッチャー選手、最後に一言」
「では歌いましょう、『名古屋はええよ!やっとかめ』」と、ドッチャーが言うと、サポーターからは失笑。しかし、その曲が流れ、ドッチャーは高らかに歌った。
それから、D-BR杯で優勝したら、彼はヒーローインタビューで『名古屋はええよ!やっとかめ』を歌うようになった。
一方で、稗田軍は何度も活動休止になり、ドッチャーの活躍の機会は大幅に減ってしまった。だが、彼は登録名を本名である星川弘に変え、各地のバトロイのリングに上がり、細々と活動を続けた。それから2年の月日がながれ、鉄道に就いていた彼はこう話していた。
「赤い電車に赤いボール、そして赤いバトルコスチューム、身の回りのあらゆるものが赤で埋め尽くされている。一部の人間からは共産主義だの血の色だのたわけにするも、自分は何も思わない。何せ、自分のイメージカラーは赤だから。」
しかし、その年の2月、彼に試練が降り注いだ。
「確か、あれは積冨海という音に聞こえてないファイターと、手山三郎がいたときでした。僕は彼らに滅多打ちにされるなんて考えてもいませんでした。」と、星川は語る。
序盤から出遅れ、苦しいファイティングを強いられる星川、だが、巻き返すことは出来ず、未勝利で散った。
ロッカールームには、しょんぼりとしていた彼の姿が映えていた。続くタケちゃんマンも未勝利で敗れ、稗田軍は3タテの危機に瀕していた。そして3番手は稗田軍の希望の星、相本由香。
「相本さん、頑張れ!と、ひたすら祈ってました。でも彼女は1年半前と比べて調子が落ちていました。何度も黒星を喫していて、正直半分は覚悟してました。」と、星川
結果、相本は未勝利で散った。そう、稗田軍は3タテを喫したのである。その3タテという花の種をまいた重い責任に心を押しつぶされ、彼は家に帰るまで落ち込みっぱなしだった、
それから、彼は栄冠を掴むことはなく、本家は再び、突然の閉鎖を迎えることとなり、稗田軍は解散した。
最終更新:2009年03月30日 09:12