3月、アメリカ軍はいよいよ鹿児島より南東200キロ沖に到達。デイン軍による哨戒に警戒しつつ、九州と沖縄の上陸できるチャンスをつかむべく、待機している。空母や揚陸艦ではすでに上陸部隊や護衛部隊がいつでも出撃できる態勢にあった。
一方デイン軍も、アメリカ軍が日本近海に到達したという情報を入手し、索敵に入っている。
そのころロシアからオビ川沿いの国境を越え、デイン領内に侵入した中ロ合同軍は、ついに東経100度線を突破。さすがの軍事大国デインも世界を敵に回せば劣勢となるのか。
そして3月7日朝、アメリカはついに鹿児島と沖縄への上陸作戦を断行した。
「それーっ!デインに遅れるな!」
と、兵士が叫びつつ、上陸用のホバークラフトで岸に向かう。
沖縄を追われ、極東の大基地を失ったアメリカ、なんとかして奪還したいところである。特にその周辺の制空権を握るべく嘉手納の飛行場は意地でも制圧したいくらいである。
米兵の最初の上陸と共に、待ち受けていたデイン兵が姿を現した。程なくして銃撃戦に入る。
ダダダッ、ダダダッ
最初はほぼ互角だったが、10分ほどしてアメリカが優位に立つ。徐々に押されていくデイン軍、そこからさらにアメリカの攻撃機が現れ、デイン軍はさらに劣勢になる。
パパパパパパパパパーン
「ぐはぁっ」
「うわぁっ」
攻撃機からのガトリング砲で、次から次へとデイン兵は倒されていく。
その日の夕方のうちに、アメリカ軍はついに上陸を完了し進撃を開始した。デイン軍が去った地域の住民らは明るく歓迎した。開戦前は沖縄人にとって憎き存在だった米軍も、デインの圧政から救ったとして、今や正義のヒーローの扱いを受けている。
14日、名護ほか本島北部を奪還。そして19日、念願の嘉手納奪還を果たす。
一方中ロ連合軍も引き続き快進撃を続けていた。
3月22日、日本人民軍の訓練はいよいよ最終段階に入った。元は素人の兵士たちも今では一流の戦士である。ただ、残念ながら途中でリタイアする者も何十人はいた。
都会でフリーランニングができるほどの機動力に、針の穴を通す射撃力、そして個人の役割を迅速に果たす連携力、辛い特訓を乗り越えて彼らはスペツナズに匹敵するほどの戦闘力を手にしつつある。
その日の19時、夕食時に、上官が兵士達が食事をとっている食堂へとやってくる。
「朗報が入った。」と、上官が言う。
「なんですか」と、兵が訊く。
「たった今、アメリカ軍が那覇を奪還し、デイン軍は沖縄本島、南西諸島、奄美諸島から撤退した。そして九州方面は今や熊本まで進んでいる。」
そう、思えばデインの日本侵略は熊本から始まった。真北は、まだ日本全土が解放されたわけではないが、若干振り出しに戻ったという感じだけはした。
すると真北は歌い始めた。蛍の光の譜で「思えば師走の阿蘇の地に 襲いかかるは斧十字 熊本空港火の海に 響くは市民の断末魔」
30日、中国軍も日本解放作戦に乗り出す。アメリカ軍はすでに福岡を目前にしていた。
31日、中国軍が日本に向けて出発。アメリカ軍とデイン軍が福岡で戦闘を開始。
4月1日、福岡解放。福岡市内は米軍のパレードと地元日本人の歓喜の声で盛り上がる。まるでどんたく祭りのようだ。
「いいぞアメリカ、これからもがんばれ!」
「Thank you」
4月2日、中国軍、福岡到着。陸上部隊揚陸完了。アメリカ軍と合流。
「次は岩国だな」と、アメリカ兵。
4月5日、デイン兵は防衛ラインを立て直すも、米中連合軍に下関陥落を許す。8日にはいよいよ岩国に迫りつつあった。沖縄に続く基地奪還に向けて米兵たちは意気揚々の模様。
4月7日、真北の元に一通の手紙が届いた。
「島田、手紙が届いてるぞ」と、上官が真北を呼ぶ。
「はい、差出人は誰でしょうか」
「相本っていう人からだ」
「相本!?」
真北は封筒を開ける、すると手紙の内容は以下の通りだった。
「親愛なる島田真北さんへ、訓練お疲れ様です。私もクリミアの難民向け日本人学校に通って元気に過ごしています。出撃の日も近いですね。早くデインを倒して一刻も早く私たちを日本に帰らせてください。平盛20年4月3日 相本由香」
真北はこの手紙を読むと、一刻も早い祖国解放を望んでいる多くの日本人がいることを改めて感じ、翌日からの訓練にますます気合いが入った。
続く
最終更新:2009年01月10日 19:06