名鉄の車掌・江藤小百合に誘われ、名鉄完乗の旅にやってきた島田真北。
「さて、再び津島に着きました。これから尾西線で一宮へと向かいます」と、津島の駅名標を前にカメラのムービーで自分を撮り、話しかける真北。
次の一宮に向かう電車に乗り込む。車両はまた鉄仮面だ。
森上までは複線、そこから一宮までは単線である。
町方、六輪、渕高、丸渕、上丸渕を過ぎ、10分ほどで森上に到着。真北、車内から窓越しで駅名標を撮る。
「でも、降りて1本待たなきゃだめなのかなぁ・・・・」
森上を発車し、いよいよ単線区間に突入。
「あーあ、退屈な単線区間だぜ」
山崎を過ぎ、玉野へ。この駅のホームはカーブに建てたため、電車との隙間が大きい。
「うわっ、京阪膳所級やな」
次は荻原、もとは2面3線だったが無人駅化とともに2線に減らされた。
二子を過ぎ、苅安賀で対向列車との行き違いを行う。真北、前方に見える対向列車を見つめる。
行き違いも終わり、残りは2駅、観音寺を過ぎていよいよ一宮へと続く高架を上ると、一宮に到着。隣はJRの尾張一宮。そして駅は駐車場のような雰囲気である。
真北、名鉄一宮の駅名標を撮り終えると、すぐさま玉ノ井行きの電車に乗る。尾西線の輸送体系は一宮で分断されていて、玉ノ井方面は本数が半減するのである。
「一宮といえば、あのつボイノリオの出身地、あかん、金太の大冒険を思い出してしまう。玉という文字から」
玉ノ井行きの電車が発車。次の西一宮はかなり近い。西一宮までが高架である。西一宮を過ぎると地上に降り、開明、奥町を過ぎ、玉ノ井へと電車は到着する。玉ノ井から先はかつて、木曽川港という駅まで線路が延びていたが、太平洋戦争中、不要不急路線に指定され休止、そして営業再開にはならずそのまま廃止となった。
真北、駅名標と駅舎を撮る。尾西線の駅舎は似たもの同士である。というのはトランパスという乗車カードに対応すべく、券売機と自動改札機を導入するため、もともと駅舎のなかった尾西線の多くの駅に駅舎が新築されたのである。
時刻は11時半。とっくに昼前である。真北は折り返しの電車に乗り、一宮へと戻る。
一宮で真北は昼食をとる。そして次の須ヶ口方面への急行の待ち時間を利用して、ホームで電車の撮影を行う。
そして豊川稲荷行きの急行電車が到着。車両は銀色の3300系で、4両編成である。3300系はロングシートと転換クロスシートが混在する奇抜な車両である。当駅始発だったので、ぞうさなくクロスシートに座ることが出来た。
「しかし、最近の名鉄は混雑緩和とかいってオールロングの一般車を作る傾向がある。かつては特急も鈍行も2扉車が大多数だったが」
電車は一宮を発ち、最初の通過駅妙興寺へと向かう。妙興寺というお寺が近くにあるらしい。妙興寺を通過して、次は島氏永。駅近くは田園で、撮り鉄にとっては有名な撮影地がある。島氏永を通過すれば国府宮。ここは特急も停車する規模の大きい駅で、近くには尾張大国霊神社があり、毎年3月に裸祭りが行われる。でも真北にとって、裸祭りといえば岡山の西大寺のほうを連想していた。
「やっぱ裸祭りといえば西大寺でしょう」
国府宮に停車し、真北は窓越しから駅名標を撮る。しかし江藤の指令書には当駅の名はない。
国府宮を出ると、次は奥田を通過する。奥田の近くにはヨーグルトの工場がある。奥田を通過すると次は大里、大里は無人駅で、管理している駅は近くにある国府宮や新清洲ではなく、なぜか須ヶ口。大里を通過すれば新清洲に停車、この駅の特徴はホームが狭いことである。新清洲を出ると次は丸ノ内を通過。この駅からかつて支線が出ていたが、尾西線の玉ノ井以北同様、戦時中のあおりで消え去ってしまった。丸ノ内の次はいよいよ須ヶ口。この駅を降りてUターンして次は笠松へと向かう。
「ああ須ヶ口か」
15分後、岐阜行きの急行が到着。車両は5000系、あの車体だけがおニューの酷評車両である。
「出た、新古車や」
真北、その『新古車』こと5000系に乗り込み、笠松へ。まず一宮まで戻る。その後今伊勢という駅を通過。次に石刀(いわと)という読みづらい駅を通過。ここも戦時中は営業休止になっていたという。石刀を通過すると次は新木曽川に停車。待避線には普通電車がいる。新木曽川の駅ビルはマンションになっている。それゆえ電車が来ると騒音がうるさいだろう。新木曽川を出ると次は黒田を通過、この駅の近くには大型のショッピングモールがある、とはいえこの駅は普通しか停まらない。黒田の次は木曽川堤。名古屋本線で最後にトランパスが導入された駅である。ホームの有効長は4両しかなく、6両の電車は後ろ2両をドアカットする。木曽川堤を通過して、木曽川橋梁を渡る。
「ああ、あれね、糞しながらいびる。」
糞しながらいびる、それは木曽川、長良川、揖斐川と濃尾平野にある3つの川をさす語呂合わせである。
木曽川橋梁を渡りきると旧東笠松駅の跡地が見える。平盛の世まで存在したが利用客が少なく、廃止になってしまった。進行方向右手にはあのオグリキャップを輩出した笠松競馬場のトラックが見える。やがて坂を下って、笠松に到着。真北は笠松の駅名標をカメラに収め、竹鼻線に乗り換える。とはいっても、発車まで時間が空いているので、改札を通り、駅舎も撮る。
それからホームに戻り、新羽島行きの電車に乗る。車両は特急の増結用車両の1800系。2両編成で1200系と大体似ているが、前面の「パノラマsuper」の幕がない。
「パノスパそっくりだな」
車内は補助席付きの転換クロスシート。
そして電車は笠松を発ち、西笠松へ。単線なので列車行き違いもあり、西笠松でまず1回目の行き違いを行う。そして西笠松を発車し、柳津(やないづ)へ。もとは急カーブの上に立っていたホームだが、別の場所に移されていた。柳津の次は南宿で、交換可能駅。この駅の笠松方面ホームの駅舎はホーム中央にあるという特殊な配置で、改札機もその隣にあり、しばしばトラブルの原因にもなっているという。次は須賀、住宅が広がっていて特筆すべき点はない。須賀の次は不破一色(ふわいしき)、これも石刀、柳津同様読みづらい。周辺は須賀同様味気ない住宅街。その次は竹鼻、ホームと駐輪場が同じ高さでドッキングしているのも特徴。そこにはかつての旧竹鼻鉄道の本社があったという。竹鼻の次は羽島市役所前。文字通り羽島市役所が近くにあり、竹鼻線内では笠松を除いて唯一の有人駅である。ここでまた列車交換を行っている間、真北はホームに降りて駅名標を撮る。列車交換が終わり、次の江吉良へと向かう。江吉良から先、竹鼻線は大須というところまで伸びていたが、廃止になった。ちなみに大須とは名古屋の大須ではない。江吉良は太平洋戦争の影響で営業休止に追い込まれ、それから20年はそのままだったが、運輸省により廃止になりかけたが、東海道新幹線の岐阜羽島駅に接続する新線である羽島線の敷設計画があり、江吉良はその分岐駅となることから、何とか存続することになった。しかし、82年の営業再開後も、隣の羽島市役所前と近いことから利用客が見込まれず、大半の列車が通過することになった。平盛13年に大須への線路は廃止になったが、代行バスが羽島市役所前駅から出ている。江吉良を出ると、ついに終点新羽島。岐阜羽島駅が隣に位置している。
さて、真北は駅名標と駅舎撮り終えて笠松まで折り返す。そんな笠松のホームに降りた時だった。真北は発車標に異変を感じていた。
「えーっ!?」
そう、笠松駅の2駅先、茶所駅で人身事故が発生し、名古屋本線に遅れが生じていた。
「うわ、最悪や」
現在時刻14時30分、果たして、真北は全て回りきれるか。
続く
最終更新:2009年04月19日 12:03