名鉄完乗の旅に出た真北、濃尾地区の路線を制覇して夜を迎え、夕食と宿のため地下鉄で栄へ向かった。実は栄に安い味噌カツの店があると江藤から聞き、そこで味噌カツを食うのである。なお、外伝で四月に訪れた味噌カツ屋とは違う。
栄に着いた真北はその味噌カツ屋に入り、テーブルに座っては注文をとり、10分後に味噌カツが届き、食し、精算を済ませると時刻は20時30分。真北はすぐに近くのビジネスホテルにチェックインし、やってきたのは瀬戸線栄町駅、時刻は21時。これから瀬戸線に乗りに行くのである。
栄町駅は地下駅で、照和53年に開業した新しい駅である。真北が乗る電車は、平盛20年に登場した4000系、ちなみに先ほど乗った地下鉄東山線にはN1000形というそれとそっくりな車両があった。
電車は動きだし、最初の東大手駅に向かう。東大手駅は、栄町より歴史は古いが、太平洋戦争のあおりで休止され、栄町開業で地下化されるまでずっとそのままであった。ちなみに栄町駅が開業される前は、名古屋城の外濠に線路が敷かれ「お濠電車」と呼ばれたという。東大手を出ると、地上に上がり、そのまま高架を上る。夜間のため、音以外では地下から出て来たという感じが湧かない。まず最初の高架駅、清水に到着、近くには白壁地区という高級住宅街があるという。清水の次は尼ヶ坂、森下に次々と停車。
「森下と言えば、燃えよドラゴンズに出てくるピストンサインの人だね」
森下を出ると、大曽根に到着、中央本線の乗換駅である。ローマ字でOZONEと書くが、決して酸素原子3つのあの分子のことではない。大曽根を過ぎると、地上に降り、矢田駅に到着、ナゴヤドームは近い。矢田を過ぎると、守山自衛軍前に到着。陸上自衛軍の守山駐屯地は旧日本軍時代からも基地として存在していて、戦時中は防諜のため、二十軒家駅に改称したという。
「名鉄の防諜駅名は全部周辺の民家の数じゃねぇか」
戦後も、守山市が名古屋市に合併される前は守山市駅と名乗っていた。その次の駅は瓢箪山、近鉄奈良線にもある駅名である。瓢箪山を出ると小幡、駅舎はなんと4代にわたって変遷したという。小幡を出ると喜多山に到着、喜多山は乗務区があるため、乗務員の交代が行われる。昔は検車区もあったが、今は別の場所に移転されている。喜多山を出ると大森に到着、駅舎にはケーブルテレビ局が入居している。印場、旭前を経て、尾張旭に到着、喜多山検車区から移転した尾張旭検車区が隣にあり、日中も折り返し列車が設定されている。次の三郷は愛知県森林公園の最寄り駅で終日有人駅。その次の水野から瀬戸市に入り、新瀬戸、瀬戸市役所前に停車し、終点尾張瀬戸へ、真北、名鉄瀬戸線、通称「瀬戸電」の20.6kmを全線乗車したのである。
その後すぐに栄に戻った真北、宿泊先のホテルの一室で江藤と連絡をとる。
「もしもし」真北、携帯で江藤と通話をとる。
「もしもし、どうだった?」と、江藤が返事をする。
「めっちゃ疲れたわ」
「ごめんね、人身事故でダイヤが滅茶苦茶で」
「こっちこそ乗務が大変だっただろう」
「そうですね、で、今日はどこ乗ったの?」
「まず岐阜県内は全制覇、そして瀬戸線も乗った。あと三河線、豊田線、豊川線、名古屋本線の東半分、河和線、知多新線、築港線」
「ああ、築港線は大変よ」
そう、築港線は神宮前から常滑線で3駅目の大江から東名古屋港に至る1.5kmのいわゆる「盲腸線」、工業地への通勤輸送に徹しているため、朝と夕方しか営業列車はないのである。関西には和田岬線がこれに当てはまる。
「うん、どうやら和田岬線みたいなところだよね」
「そうそうそう」
「たぶん明日は最後にこれに乗ることになるわ」
「えっ?明日はどうするつもり?」
「無論、全線制覇だな」
翌朝、真北は地下鉄で鶴舞線の赤池へと向かった。そこから名鉄完乗二日目が始まる。真北、まず豊田線で梅坪まで向かう。車両は100系、20メートルの4扉、地下鉄鶴舞線乗り入れ用の車両、車体前面の貫通扉に名鉄の社紋が描かれているのが特徴。まず最初の途中駅が日進、駅前にマンションがある高架駅。次に米野木、多数の学校や日進研究開発団地が周辺にある。愛知池と東名高速をオーバークロスして、黒笹に至る。三好ヶ丘を過ぎると長い高架が終わり地上に降り、浄水へ、周辺に学校が多く通学客が多いため、終日有人駅である。上豊田を経て、再び高架に上がり梅坪に到着。豊田線の電車はここから三河線に合流し、隣の豊田市まで直通する。
真北はホームに降りると、一分ほどで猿投行きの電車が到着した。三河線はワンマン運転で、ホームにセンサーが立てられている。真北はそれに乗る。単線高架が続き、越戸、平戸橋に停車し、そして終点猿投へ。ここから先、西中金まで非電化区間が伸びていたが、廃止になっている。真北、駅名標を撮り終えすぐに折り返しの知立行きに乗り込む。
梅坪まで戻って、豊田市へ、真北、窓越しに駅名標をカメラに収め、次の駅へと電車は動く。上挙母(うわごろも)、土橋あたりがあのトヨタ自動車の本社に近い。竹村駅のある場所の住所は竹町。若林、三河八橋を出ると知立市に入り、三河知立へ、ここはかつて名古屋本線との乗換駅だった。そして知立に到着し、猿投から知立までの「三河山線」を乗り切り、ここから碧南までの「海線」に乗り換える。
「まるで西宮北口みたいに南北分断しとるね、線路までは分断されとらんけど。」
碧南行きの電車に乗る真北。まず海線最初の中間駅・重原へ、知立からここまでが複線、次に刈谷、東海道本線との乗り換え駅。そこからまた複線で、刈谷市に、そこからまた単線に入り小垣江、吉浜、そして三河高浜へ、高浜市の中心駅で、立派な橋上駅舎を持つが、無人駅。高浜港、北新川、新川町と味気ない駅に停車したあと、碧南中央に到着、1面1線でありながら終日有人駅である。そして終点碧南へ、ここから先かつては吉良吉田まで線路が延びていたが、廃止になったという。
「三河線の特徴は、平盛15年に大半の駅が無人化されたことだ。」
と、真北は駅名標を撮り、早々と折り返しの電車に乗り、去っていた。
再び知立に戻った真北、次は西尾線に向かう吉良吉田行きの急行に乗る。車両は3300系。知立を出てまず牛田を通過し、その次の新安城に停車してから西尾線に入る。新安城は特急以下の種別が停車する駅で、昔は今村と名乗っていた。新安城から吉良吉田行き急行が発ち、西尾線に入る。そして西尾線最初の駅・北安城を通過し、高架を上がり南安城に到着。南安城を出ると碧海古井、堀内公園を通過、堀内公園は存廃問題とまでなるくらい利用者が少ない駅だという。そして桜井駅に到着、平盛20年までは碧海桜井と名乗っていた。関西人にとって桜井とは奈良県にある桜井線の桜井駅である。次の南桜井は名鉄最新の駅で、その次の米津は特急停車駅だったが平盛20年に西尾線の特急が一部を除き廃止されると急行停車駅に格下げされた。桜町前は、戦前、中学前と名乗っていて、今でも近くに高校があり通学客で賑わう。それから高架を上がり、西尾口へ、西尾口も利用者が少ないことから廃止にされかけになって、普通列車ですら通過したという。そして西尾に到着。西尾市のターミナル駅である。西尾を出ると、福地、上横須賀を経て吉良吉田に到着。かつて碧南や蒲郡まで線路が延びていたが、廃止になった。
吉良吉田を撮り終え、新安城まで戻った真北。時刻は11時半、これから豊川稲荷行きの急行に乗る。車両は3500系。まず宇頭、矢作橋を通過し、愛知環状鉄道をアンダークロスして岡崎公園前も通過、そして岡崎市の中心駅である東岡崎に到着、かつてはこの駅から路面電車が出ていたこともあったという。東岡崎を出ると男川(おとがわ)を通過し、美合に到着。かつては近くの繊維工場までの貨物線が引かれていたという。次の藤川駅も近くに高校があり、定期考査期間中など、真昼間に高校生の帰宅ラッシュが来るときは急行が臨時停車するという。そして舞木信号場へ、舞木定期検査場もその隣である。舞木を過ぎて名電山中を通過し、高架駅の本宿に到着。
「どことなく雰囲気が相生に似てるような・・・」
本宿と相生、共通するのは近くに建物が少ない、国道と高架駅が隣接している、といったところだろうか。本宿を出ると地上に降り、東名高速と並走し、名電長沢、名電赤坂と通過し、御油にさしかかる。御油は宿場町として栄え、御油の松並木でも有名であったが、普通列車しか停車せず、急行は通過。御油の次はいよいよ国府、同線の国府宮とややこしい。ここからいよいよ豊川線に入る。
豊川線は全線単線で、もとは豊川市内線と呼ばれ、路面電車のような扱いだった。今でも軌道法準拠路線である。まず国府を出て、高架を上り八幡に到着。豊川線内では急行は各駅に停車する。八幡を過ぎると諏訪新道信号場で列車の行き違いを行う。この信号場ももとは駅だったという。信号場を出ると諏訪町に到着。この駅界隈は旧海軍工廠が建てられて発展し、今でも豊川市の中心地である。稲荷口に停車すると、ついに豊川線の終点・豊川稲荷に到着。
「だいぶ飽きてきた・・・」
時刻は13時を回っていた。真北は近くのJR豊川駅から飯田線で豊橋へと向かう。すると、その豊橋に着く直前だった。
「げげっ!?まさかここ名鉄の線路か?」
正しくはJRの線路。平井信号場から名鉄は飯田線に合流し豊橋に乗り入れるのである。驚きを豊橋のホームまで持ち込んだ真北。
「どんだけカオスやねん」
完全にJRの駅を名鉄が借りているような感じで、駅名標も名鉄のものでなく、JRのものしかなかった。
いよいよ名鉄完乗の旅もクライマックス、果たして・・・
続く
最終更新:2009年05月25日 13:35