*11 廊下を行く夏焼に声がかかる。 「悪いねー。何から何まで世話になって。」 そこには壁にもたれる熊井の姿があった。 「停学の期間はまだ―――。」 突然熊井が右足で前蹴りを繰り出した。 夏焼は咄嗟にその足首に右手を回し、脇へと受け流した。 ハッとして、熊井は流れに乗っかる形で肘鉄を仕掛けようとしたが、 これは夏焼の顔面に入る前に寸止めされた。ほんの刹那のやりとりである。 「いきなり何をするんだい。」 「気に食わねえ。」 「弱い者いじめはよしてくれ。」 夏焼の言葉に熊井は口を歪ませた。笑みだ。 「俺の蹴りを捌けるヤツなんざ、そう、ざらにゃいねーぜ。」 「本気じゃないよね、これは。」 熊井の足を手放した夏焼の目がぎらついた気がした。 「その眼だ。あの時もその眼で見ていた。」 「あの時?」 「駐輪場で雑魚片付けたあと、お前と会ったな。あの時も一瞬そんな目になった。」 夏焼はため息をついた。 「大方須藤くんあたりから何か吹き込まれたんだね。」 「須藤って誰だ?」 「……番長さ。他になんて呼んだらいいかよくわからない。 ああいうのを番長って言うんだろうね。……ともかく、僕はただの風紀委員だ。」 もう一度ため息をつくと夏焼は、 「全部言いがかりだよ……。」 「次は、本気でやんぞ。」 熊井は立ち去り際に告げた。 彼の後姿を見送りながら、夏焼は自らの内に込み上げるものを感じていた。 あのまま振り切られれば確実にこちらの頬骨に入っていただろう肘の衝撃を想った。 嗣永は校門の方へ歩いて行く熊井の背中を見つける。なにかしらの勇気を振り絞り、 「く、くまいくーん! くまいくうーん!」と嗣永は叫ぶと、熊井はピタリと留まった。 *12 また夏焼を呼び止める声がした。 菅谷がこちらを睨みつけていた。ズボンに入れた手で股間を掻いている。 夏焼はもぞもぞ蠢くその部分に気を取られたが、 「君は確か須藤くんの……。」 「1年の菅谷だ!」 「悪いけど後にしてくれないか、校長先生に呼ばれているんだ。」 「須藤さんの停学を解け。」 夏焼は白々しく小首をかしげる。菅谷の表情は険しく、微動だにしなかった。 「僕に権限はないよ。菅谷君。」 こう夏焼が告げた途端、菅谷は彼の胸倉に掴みかかった。 「いつまでシラ切れると思ってんだ!? スカしやがって!」 菅谷に押され、夏焼は壁に叩きつけられた。 「須藤さん弄んで裏でコソコソ動き回りやがって。テメー何企んでやがんだよ!?」 「落ちついてくれ。」 血走る相手の眼を、夏焼は見つめ返しながら諌めた。 しかし、逆上させるばかりで埒が明かない。 夏焼は一つ溜息をついてから、 「ここじゃ先生が通るよ。」と言った。 「関係ねえよ。」 「君が須藤君のために暴力沙汰を起こしたら、彼は悲しむよ。」 菅谷が躊躇を見せた。 夏焼はすかさず近くのトイレを指す目配せをした。 誘導されるように、菅谷は夏焼を掴んだままトイレへ入った。 わずかに物音が聞こえる。 数十秒後。夏焼が一人でトイレを出て来た。 「大将は厄介だが。そろそろ揺さぶりから決戦に入ってもいい頃合いかも知れないね。」 呟いた夏焼は、何事もなかったかのように廊下を歩き始めた。 「……で? 俺に何の用?」 ベロアの赤いソファに腰掛け、テーブルに足を組むと、熊井は切り出した。 オドオドとした様子で対面の嗣永も腰掛ける。 「おい。ガキ、なに店のテーブルに足のせとんねん。しばくぞ。」 カウンター越しからサングラスをかけた男が叱りつけて来た。 「あ。マスター俺焼きそばね。」 「話きけや。お前ベリ高やろ。オレの後輩……。」 「んで、なんだよ。さっさと言えよ。」 「あ、うん。」 「おい。」 熊井と嗣永の間になかなか割って入れないもどかしさでマスターはイラついた。 *13 熊井と嗣永は小テーブルを隔て、互いに向かい合っている。 ここは喫茶店だった。表の看板には『喫茶 BerryFields』と出ている。 二人は学校を途中で抜け出して来ていた。正確には嗣永が、 帰ろうとする熊井に引っ張られた形だ。 嗣永は、熊井に用を尋ねられてから、しばらく黙りこんでいた。 どうやら自分の口からは言いだしづらいことのようだった。 サングラスをかけたマスターが、細い腕で熊井の頭を叩いた。後ろから。 「痛えな。なんだよ、おっさん。」 「焼きそば食いたかったらその無駄に長い足どけろや。」 マスターは焼きそばの載った皿を掲げた。 「あるんだ。焼きそば。」と熊井が足を退かせながら言うと、 「アホ。ベリ高の荒ぶる鷲と呼ばれた俺をなめんなや。焼きそばくらいあるわ。」 「おっさんベリ高のOB?」 「せや。たいせい言うからよう覚えとけ。」 「で、話ってなんなんだよ。」 「なにさらっと聞き流しとんねん。」 横で吠えるマスターたいせいを嗣永が気にかける。 熊井は気にするなとばかりに視線で話の続きを催促した。 たいせいは諦め、悪態をつきつつカウンターへ帰った。 「これ、本当は、ぼくの口からは言いづらいんだけど、 実は、清水くんと夏焼くんのことで、熊井くんに話しておきたいことがあって……。」 「何か関係あんの?」 「清水くん、去年大怪我したんだ。ううん、させられたんだ。」 「ふーん。風紀委員に?」 嗣永は水を一口飲んでから頷く。 「正確には夏焼くんの子分にだけど。」 「……あー、お前に絡んでた三年生か。」 「あの人たちだけじゃないんだ。もっと沢山の人に囲まれて、……。」 話しているうちに清水の怪我が思い出され、嗣永は言葉に詰まる。 「どうしてボコられたんだ?」 「話せば、長くなるんだけど。」 「じゃいいや。」 熊井は箸に手をつけた。 「あっ待って! 簡単に話すと、清水くんと夏焼くんは中学時代からの友人なんだ。 それで、それで、えと、夏焼くんの横暴を止めようとしたんだ。清水くんは……。 カツアゲさせたお金を貢がせていたから。……けど、足を折られて、……清水くん、 ダンス部を立ち上げて頑張ってたのに、半年もマトモに活動できなくなっちゃって……。」 「よくわかんねえけど、そんなに暴れてたら誰かが止めんじゃねーの? なんだっけ、須藤とかいう番長がいるって話じゃん。」 「須藤くんは強いし頼りになるよ。ぼくらが絡まれていたら助けてくれるし。 夏焼くんの息のかかってない人とかは須藤くんをたのみにしてるんだ。 ……でも、夏焼くんは凄く上手くたち回るから。……ホラ、風紀委員でしょ、夏焼くん。 先生からも信頼が厚くて、いくら須藤くんでも学校の後ろ盾のある相手じゃ……。」 「カンタンに手は出せねーと。」 先回りした熊井の言葉に嗣永は頷いた。 「しかも今回、一方的に停学にされて、これまで須藤くんについて来た人たちの何人かも、 夏焼くんの方へ流れて行きそうなんだ。須藤くんも夏焼くんの掌の上で転がされてる―― って感じた人がけっこう多かったみたいで……。これは清水くんから聞いた話。」 「で、それが俺とどう関係してくるんだよ。」 「だから、……熊井くんもあんまり夏焼くんには……。」 「逆らうなって?」 「だって、怪我するかもしれないし、……退学にされちゃうかも知れないんだよ。」 熊井は白けたように、話を最後まで聞かず立ち上がった。 「待ってよ、熊井くん。」 「めんどくせー。3分でケリつけてやるよ。」 「熊井くん!」 「うっせーな、オメーはそこで震えてろ。」 「熊井くん、焼きそば!」 嗣永が叫んだ。 出て行こうとしていた熊井は慌てて翻し、焼きそばに食らいついた。 *14 嗣永に絡んでいた三年生の一人が小便器で用を足していたところ、 背後から不意に自分よりも大きな影がかぶさったので振り返れば、熊井が立っている。 「よう。先輩。」 微笑みかける熊井。 驚きの余り左右どちらに動くべきか迷い、三年生はびくびくと蟹股をステップさせた。 「そうだな、小便はゆっくりしたいよな。待っててやるよ。」 し終えると、三年生は個室に連れ込まれた。 相手の襟首を掴み上げながら熊井は「夏焼を呼び出せ。」と命じた。 三年生は最初しらをきろうとしたが、顔面を熊井のその長い指で掴まれると、 震え上がって頷き「なに、なにするつもりなんだよ。」と尋ねた。が、 「口の利き方気をつけろ。」と更にアイアンクローの手を強められたので、 「ど、どうされるおつもりなんですか!?」と声も裏返り気味に言い直した。 「いいから黙って言う通りにしろよ。」 「手で前が見えね―――ッ。」 「今言ったよな、口の利き方気をつけろって言ったよな? ん?」 「はい、はい、あの、でも前が……っ。」 「しょうがねぇな。」 熊井は空いた方の手で三年生の制服から携帯を取り出した。 「オラ、どれだ、……あー、これか? 説明書ねーと使い方分かんねーな。お前やれ。」 アイアンクローの手を離し、熊井は携帯を三年生に返した。 ついでに腕ひしぎを軽く極め、残る片手で夏焼に向けてメールを送らせた。 しかし、この場に熊井がいる事は伏せられた。 そのかわり須藤がいると、メールにはそう記された。 「よーし、よし、よし。んじゃ、来たら解放してやる。」 「で、でも来るかどうか分かりませんよ。夏焼さん気まぐれだか―――ッあがが。」 腕の締まりが強まったため、途中で言葉が呻き声に変わった。 「無駄口はいらんよ。」 「ァハ、ハヒ、……。」 三年生は涙声になっていた。 嗣永は教室に戻り、清水と徳永に挟まれている。 近くに夏焼が座っているので囁くような声で話していた。 「何で勝手に言うんだよ。」と清水が追及すると、 「ごめん、……。けど、一応忠告しておいた方がいいかなって……。」 「どこまで話したんだ?」 「えと、あの、清水くんが話してくれたところまでだよ。ホントにごめんよ。」 清水は嗣永の釈明を聞きながら夏焼の様子を見やった。 席に座ったまま、夏焼は携帯を手に眺めていた。 夏焼は逡巡するように目を泳がせると、おもむろに立ち上がる。 清水が目で追いながら、 「どっか行くぞ。」 「また校長室?」 徳永はあてずっぽうに言った。 夏焼はトイレへ赴き、 「やっぱり君か。熊井君。」 窓から差し込む陽光を背に、熊井が腕を組みながら佇んでいた。