t02-092 名前:見原さん :08/04/29 01:28:12 ID:oaXhz0E0
 二時限目と三時限目の間の、短い休み時間のこと。
「ねえ、小野君って、綾香と付き合ってるの?」
 好奇心に目を輝かせる木田さんの前で、僕は頬を引きつらせた。
 その後ろには、クラスの他の女子たちも群がっている。揃いも揃って、野次馬根性丸出
しの表情を隠そうともしない。わざわざ教室の隅っこにある僕の席に集まるぐらいだ、ど
うやら全員がこの話題に興味津々らしい。
「ねえ、どうなの、どうなの?」
「ええと、どうしてそう思うの?」
「だって、ねえ?」
 木田さんが視線を巡らせると、周囲の女子たちが互いに目を合わせ、頷きあう。
「ちょっと前から、さ」
「なんか、雰囲気違うよねえ」
「そうそう、甘酸っぱいっていうかさー」
 めいめいに好き勝手なことを言ってきゃあきゃあ騒いだあと、一斉にこちらを見つめて
くる。
「で、どうなの?」
 身を乗り出した木田さんの勢いに押されて、僕は椅子の上で少し身を引いてしまう。
(言い逃れをしていても、いつかはばれる、よな……)
 そもそも、隠すようなことではないのだ。中学生とは言っても、男女交際は自由だし。
「まあ、そうだよ。僕と見原さんは、付き合ってる、んじゃないかな……多分」
 頭の中であれこれと理屈をこねながら僕が言うと、周りを取り囲んでいる女の子達の顔
がぱぁっと輝いた。
「うっそ、マジ!?」
「やっぱり!?」
「やだー、先越されちゃったーっ!」
 あまりの騒々しさに少々げんなりしているところに、タイミング悪く噂の源が帰ってきた。
「どうしたの、みんなで集まって」
 大人しそうな柔らかい声に、女子グループが二つに割れる。その向こうから、きょとん
とした顔の見原さんが姿を現した。
 少し目尻の垂れた大きな瞳が、驚いたように見開かれている。
「あれ? みんな、公一君と話してたの?」
 いまいち事態が飲み込めないらしく、見原さんが戸惑ったように周囲の友人たちを見回
す。頭の高い位置で二つに結ばれた癖のある髪が、首の振りに合わせて小さく揺れる様は
とても柔らかそうで、僕はそれを見ているのが大好きだった。
 だが、それを楽しんでいる余裕はない。今の見原さんは、腹を空かせた狼の群に迷い込
んだ羊のようなものだ。案の定、喜色満面の女子たちが示し合わせたように見原さんに抱
きつき、あるいは肩を叩いて騒ぎ出す。
「おめでとう綾香!」
「大人しい顔しちゃってこの子はー」
「どっちからコクッたの? ほら、お姉さんに話してごらん?」
 口々にそんなことを喚きたてられて、見原さんは目を白黒させている。だがすぐに事態
が飲み込めたようで、小さな顔が真っ赤になった。

t02-093 名前:見原さん :08/04/29 01:29:02 ID:oaXhz0E0
「ええと、それはその、あの」
 小さな体をさらに縮こまらせ、制服の袖に半分隠れている右手を口元にやりながら、声
を詰まらせている。見原さんの声が小さくか細いのはいつものことだが、今はほとんど聞
き取れないほどだ。
「なになに」
「聞こえないよー」
「観念して言っちゃいなー」
 女子たちは本当に好き勝手に騒いでいる。見原さんがますます小さくなる。
(一見すると困ってるみたいだけど……彼女の場合、この状況で悦んでる可能性もあるん
だよな……)
 そんな理由で助け舟を出すべきかどうか迷っていたとき、幸か不幸かチャイムが鳴った。
「うわなに、チャイム超KYなんだけど」
「残念ー」
「昼休み、たっぷり聞かせてもらうからねー」
 蜘蛛の子を散らすように、女子たちが自分達の席に戻っていく。助かったか、と一息つ
いたとき、僕の耳元で誰かが囁いた。
「安心したよ」
 驚いて見上げると、木田さんが意味ありげな含み笑いを浮かべてこちらを見下ろしていた。
「安心って、何が?」
「綾香。あの様子じゃ、まだあんまり進んでないっしょ? 手も繋げてないんじゃない、
正直なとこ」
 そう言われて、僕はなんとも言えない複雑な気分になった。隣にちらりと目をやると、
まだ頬に赤みを残した見原さんが、次の授業の準備を始めている。
(まあ確かに、他の人から見れば初々しいカップルに見えるよね)
 本当にそうだったらどれだけ良かったか、と思いながら、僕は曖昧に笑った。
「うん、見原さん大人しいから」
「そうだよー、今時珍しいぐらい内気なんだからさ。ハァハァ迫ったら泣いちゃうよきっ
と。大事に扱ってあげなよ」
「多分それだと物足りないんじゃないかな」
 思わずぼそりと呟くと、木田さんは怪訝そうに眉を傾けた。
「なんだって?」
「いや、なんでもない、なんでもない」
「変なの。まあいいか。あ、でもさ」
 去る直前に、木田さんが肩越しに振り返って、苦笑いを浮かべた。
「あんまり慎重すぎるのも良くないと思うな」
「え?」
「見原さん、なんて。よそよそしいじゃない? 付き合ってるんだったら、名前で呼ばれ
た方が嬉しいと思うよ、きっと」
 冗談めかした口調だったが、言われた僕の方は強い衝撃を受けた。
 次の授業の先生が教室に入ってきて、木田さんが少し離れた席に座った後も、僕の頭の
中では彼女が言い残した言葉がずっと回り続けていた。
 確かに、僕は未だに見原さんのことを見原さんと呼んでいる。恋人同士ならば、名前で
呼ぶのが自然なのだということは分かっているつもりだ。だが、そうすることには躊躇い
がある。

t02-094 名前:見原さん :08/04/29 01:29:49 ID:oaXhz0E0
「見原さん」
 先生が声を張り上げるのを尻目に、僕はそっと隣の見原さんに囁きかける。見原さんは
一瞬びくりと体を震わせたあと、誤魔化すような笑いを浮かべて、少しだけこちらに体を
傾けた。
「なに、公一君」
 白くふっくらとした頬が、かすかに赤くなっている。瞳には何かを期待するような色が
ある。
(さっきからかわれた名残がまだ残ってる、ってことではないんだよな)
 僕は心の中でため息を吐きながら、じっと見原さんを見つめた。
「さっきの休み時間、トイレに行ってたみたいだけど」
 本来女の子にそういうことを言うのはデリカシーがないと非難される行為なのだろうが、
見原さんは文句を言うどころか、どこかしら嬉しそうに、ぎこちない微笑を浮かべた。
「う、うん」
「また、してたんだね?」
 ほとんど確認する意味で聞くと、見原さんの顔がますます赤くなった。震える吐息と共
に、か細い声が吐き出される。
「はい」
 ああやっぱり、と僕は少々呆れながら思った。
(見原さん……ほとんど毎日じゃないか! よくばれないもんだな……)
 要するに、彼女はトイレで自慰に没頭していたのだった。あんなわずかな休み時間で達
せたのかどうかは分からない。
「別に、そこまでいけなくてもいいの。ただ、弄ってないと耐えられなくなっちゃって」
 と、本人は以前恥ずかしそうに言っていた。ずっと前からそういう習慣があったらしい。
 そして、最近ではこの習慣に、自分の欲望を満たす以外の意味も加わっている。
 僕は見原さんから目を離し、前を向く。見原さんだけに聞こえる声で言った。
「綾香」
 見原さんが、小さく体を震わせたのが何となく分かった。
「今日、家に来てよ」
 ――お仕置きするから。
 言外にそう言ったのを、彼女も当然察したらしい。少し間を置いて、
「はい」
 と、かすかな声で従順な返事が返ってきた。
 授業を半分聞き流しながら、目だけを動かして隣の見原さんを見る。
 紅潮した横顔の中で、垂れ気味の瞳が焦点を失ったようにとろんとしている。小さく開
いた唇からは、熱っぽい吐息が漏れ出しているようだ。
(見原さん……頼むから、授業中にオナニー、だけは勘弁してよね……)
 内心そう祈ってから、僕は憂鬱な物思いに耽る。
 僕はさっき、彼女のことを「綾香」と呼んだ。普段なら躊躇うはずの名前呼びを、さら
りと自然にこなしたのだ。
 だが、それは恋人同士だから気軽に呼んだのではなく、単にプレイの一環だった。
 ご主人様と奴隷。あるいはペット。
 それが秘密の行為における僕らの役割だ。僕が彼女を「綾香」と呼ぶというのは、二人
がただの初々しい中学生カップルから、そういう異様な関係に移行したことを意味する。
(……だから、なかなか『綾香』って呼べずに、見原さんなんて呼び続けてしまうんだろ
うな。普段から『綾香』って呼んだら、僕と見原さんの繋がりが体だけのものになってし
まいそうで怖いんだ、きっと)
 そう推測しながら、僕は自分の臆病さと不器用さにため息を吐くのだった。

最終更新:2009年07月19日 19:02