619 :香田咲妃:2009/07/20(月) 20:59:35 ID:AgGl7RLL
 結局昨日はあのまま学校をサボった。あんな真っ赤な顔じゃとてもじゃないけど授業なんか出られないし、ましてや岸本なんかに顔合わせられないよぅ……。
 その原因になったハンカチも自分の涙を拭ったままカバンに入れっぱなしで、「はい」って素直に渡せるような状態じゃなかった。幸いにしてバイト先の隣にコインランドリーがあったので、バイト終わりに自分の洗濯物と一緒にいれておいた。
 そして今日。私はあることを胸に学校へやってきた。それは誤魔化した親友二人に対する言い訳でも、もちろんサボりの理由を教師に言い訳することでもない。
 あいつを、ゴハンに誘おう。助けてもらったあいつに、何かお礼がしたい。
 もちろんそれはデートとかそう言う物じゃなくて、単なる純粋な恩返しなだけであって、もちろんそこに下心とかそう言うものが含まれてる訳じゃなくて、それはただ単に私が助けてもらって何もしないのでは気が済まないからだけなんだ。
 ぐるぐるとよく分からない感情が私の脳内を翻弄させながら昇降口への階段を上る。いつもは眠いのとタルいのでコケる私だが、今日は何故か緊張するその心臓のイタズラによって足がもたつき、派手にすっ転んだ。
 痛い。膝、擦りむいてないだろうか。手を着いて立ち上がろうとしたその時、私の目の前に誰かの手のひらが。これに掴まれと言うことだろうか。
 いい加減衆目の視線を一心に浴びていることだし、早くこの状況から脱出したい。そう思って何の気なしにその手を握り帰す。
 この時に緊張のせいか、はたまた緊張で前日眠れなかった眠気のせいか。その右手の持ち主の顔を良く確認しなかったのが間違いだった。

「ありがとうござ…………っっっ!!!」
「大丈夫……って、香田か。昨日は休んだみたいだったが、大丈夫だったか?」

 あろうことか、その岸本本人だったのだ。私は顔から日が出るかと思うほどに真っ赤になり、思わず手を引っ込めた。
 その反応に岸本の顔が戸惑いの顔に変わる。何か話さなくては。そう思えば思うほど、私の口からはまごついた言葉しか出てこない。

「あ、その……」
「ん? ああ、あのことは大事にはしてないから大丈夫だ。これからも口を外すことはないさ」
「いや、そのことじゃなくて、ね……?」
「え?」
「その、これ、ありがとう、ね」

 私はハンカチを差し出しながら精一杯の作り笑顔を浮かべる,
 ようやっと言えた。そして、肝心なのはその先だ。


620 :香田咲妃:2009/07/20(月) 21:00:07 ID:AgGl7RLL
「あ、ああ。そんなことか。それなら気にするな。ハンカチくらいどうってことない」
「それで……」
「ん?」
「お、お礼に食事でもどうかなぁ? ……なんて」

 俯き加減に岸本の方を見ると、腕組みをしてうーん、と唸っている。
 さっきの反応からして、岸本には危ないことをしていたことがバレてしまっている。やっぱり、こんな女とじゃダメなのかな……。

「お構いなく、と言いたいところだが、食事か。最近美味いもの食ってないし、いいな。今度の土曜で良いか?」
「え、あ……う、うん、大丈夫」
「分かった。んじゃ、楽しみにしてる」

 何が起きたのか分からずにぽかん、とする私。でも、やった。やったんだ。ほんのちょっぴり勇気を出せば、何とかなるんだ。
 緊張で押しつぶされそうだった私の心が、その呪縛から解放されて伸びやかに歓声を上げる。ありがとう、もう一度お礼言わなきゃ。
 そう思って彼の方を見直すと、他の女子と岸本が何やら話をしていた。

「―――なのよー」
「それは災難だな」
「まあ、そういうことでよろしくねー」
「俺も勘定に入ってるのか……。まあいい、分かった。これから準備する」
「ん。頼むねー」

 断片だけを聞いただけに過ぎないが、話の内容からしてただの事務連絡に過ぎないはずだ。なのに、私の心が少し、ほんの少しだけだけどチクリと痛む。
 何だろう、この感触。空いている左手を胸に当ててみてもそこからは何の返事もくれない。こんな痛みなんて、知らない。私は道の間隔に文字通り戸惑っていた。


621 :香田咲妃:2009/07/20(月) 21:00:42 ID:AgGl7RLL
「じゃあ、野暮用出来たから教室までは行けないわ。土曜日楽しみにしてる」
「う、うん……」

 最高学年へと進級した今、彼も地味ながら何かを任せられる立場にあるのだと、去っていく背中を尻目に改めて実感させられる。
 対して自分はどうだろう。中途半端なまま進級して、中途半端に勉強して、中途半端にバイトして。挙げ句の果てに体まで売りに出す始末。

「……どうしたんだろ、私」

 自分自身のセンチメンタルな気分にまるで説明が付かない。しまいには目尻に涙まで浮かんできた。
 私はそれを誤魔化すため今日は早歩きで教室まで急ぐ。いつもなら、これからの授業のことを考えてダラダラと教室に向かうはずなのに。
 何かの感情に支配され始める私。自分が自分でなくなるような気がして、怖かった。



 始業時間ギリギリに戻ってきた岸本は席に着くなり、急いで数学の教科書をカバンから出そうとしていたが、同じ大きさの英語の教科書を間違えて出していたのがちょっと面白かった。
 岸本の席は最後列奥から二番目の私から見て、ちょうど隣の列の二つ前であり、この角度からだと普段は冷静な彼のあわあわとした様子が手に取るように分かる。そんな姿がちょっと可愛いと思った。
 次の授業である化学は、教室が幼稚園よろしくお昼寝タイムとなる教科だ。テストが一夜漬けでどうにかなるというのもあるが、教師がそう言うことに無頓着ということが一番の要因だ。
 ご多分に漏れず岸本も机に突っ伏して寝ている。少し目線を下げてみると垂らされた前髪の隙間から普段は鋭い彼の目が柔らかく閉じられているのを見て、素直に可愛いと思った。


622 :香田咲妃:2009/07/20(月) 21:01:53 ID:AgGl7RLL
 休み時間。次の授業の準備をしようとしていた私にふと、柔らかい声が掛けられた。その声の主は岸本で、話の内容は「土曜のゴハンはどこ行くの?」とのこと。
 そんなことまだ決めてもいなかった私はとりあえず彼の好き嫌いを聞いてみた。すると、「基本的にはなんでも食べられるんだが、極端に辛い物が苦手でな」、とのこと。
 要するに、サビ入りの寿司は食べられるがキムチ入りの牛丼は食べられない、ということらしい。
 私は可愛らしい彼の一面を垣間見て、思わず優しい笑みがこぼれる。そんな私の表情に戸惑いつつ頭を掻いて照れる彼がまた、可愛かった。そして、そんなひとときがこの上なく幸せに感じた。

 時は流れて昼休み。相変わらず三人で食べている私。ふと、岸本の方を見やると、彼は購買で買ったと思しきパンを一人でかじっていた。一緒に食べよう、と言いたいところだが、さすがに女子三人とっていうのはキツいと思ったのでやめた。
 ふと、岸本が携帯を取り出す。どうやらメールが来たらしく、画面を一度見やるとすぐさま何かを打ち始める。その後程なくして、今日の朝に昇降口で彼に話しかけていた女の子が開けっ放しのドアから顔を出した。
 岸本は必要以上には喋らない。幼なじみである私が言うのだから間違いない、はずなのだが、どうも彼女と話すときは口数が多い気がする。ここからでは何を言っているのかは分からないが、事務連絡にしては明らかに喋りすぎだ。
 そして、パンを強引に口に詰め込んで、そのまま教室を出て行ってしまう。あの女生徒と一緒に、だ。去り際に見えた彼女の顔は笑顔。岸本の顔もまた、笑顔。
 そこでまた、私は朝に覚えたような胸の痛みを朝と同じ場所に感じた。それも今回は、朝よりも痛い。
 まるで胸が紐か何かで締め付けられるような感覚。私の心は激しく胸を打っているのに、それを押さえつけようと過剰な力が働いているような、言葉にするのが難しい、この変な気持ち。
 初めて味わうこの痛みの名前。それを私は知らない。しかし、それは本や雑誌から得た知識に限って言えば、知っていると言うことになる。本当はそんなものを患ってはいないのか、それとも、私はそれを認めたくないのか。
 そうだ。名前だけなら聞いたことがある。面倒だし、大変だし、煩わしいし、もどかしいし、けれど、素晴らしい。そんな感情の名前、それは―――

「――ーい、どーしたのさー?!」
「ひゃあっ!」
「うわっ! ど、どうしたの? そんなに驚いて」
「い、いや、ちょっと考え事をねー。あ、あはははは」
「何その乾いた笑い方」

 我ながら、誤魔化すのが本当にヘタだと改めて思った。

「なんかアヤシイ……教えなさいよー」
「こ、これはちょっとダメかなー」
「んじゃあ、実力主義に出るしかないか」


623 :香田咲妃:2009/07/20(月) 21:02:27 ID:AgGl7RLL
 エリがおもむろに立ち上がり、すぅ、と深呼吸をするかのように深く息を吸い込んだ。
 何がこれから起こるのか、私には察することが出来ないが、何となく嫌な予感がする。いや、何となくではなく確実に、だ。
 こういう時の私の勘は驚くほど当たる。占いの店を開いても良いくらいにだ。もっとも、不幸のみを扱った占い屋など売れるはずもないだろうが。

「今日のぉー!! サキのぉー!! パンツの色はぁぶッ!」
「な、何言ってるのアンタは!!」

 私は静かな声で怒鳴り散らすというどうにも器用なことをしていた。それでも既に遅かったらしく、クラスにいたほぼ全員の視線がこちらへと注がれる。
 女子は若干引き気味の目で。男子は喜色と羞恥をいり混ぜたような視線で、私たちの方に注目している。
 こいつは一体何を言ってくれているんだ。私はエリの耳元に口を近づける。俗に言う内緒話というやつだ。

「ちなみに聞くけど、何色?」
「白と水色のしましま」
「う……。な、なんでそれを……?」
「あんたさ、ただでさえ朝弱いんだから足下ちゃんと見て歩きなよ」

 あの時か……!

「で、何も話してくれないんだったら……分かってるよね?」
「う、うぅ……」

 エリがずいっと私に顔を近づけニマニマとした笑みを私の瞳がこれでもかというほど大きく、喜々とした彼女の顔を映し出す。
 これは脅しだ。私はあまり嘘が得意でないし、何よりこんな状況で嘘など吐ける自信がない。それに、嘘を言っても変に鋭いエリのことだ。多分バレる。
 ここは表現を濁しつつ、なおかつ本当のことを織り交ぜながら、何とか誤魔化す。それしかないだろう。

「た、例えば、例えばの話でさ」
「うんうん」
「……その、一人の男の子の方を自然と見続けちゃってたりー、その男の子が話しかけてきてくれたらすごく嬉しくなったりー、その男の子が他の女の子と喋ってたら胸が痛くなったりー……」
「あんた……」
「咲妃……」
「た、例えばの話だって。例えばの、話。あ、あははははは…………はぁ……」


624 :香田咲妃:2009/07/20(月) 21:03:07 ID:AgGl7RLL
 喋っているうちに何か変な方向へと話が流れていく。これじゃあ岸本のこと、そ、その、私が意識してるみたいじゃないか。
 そんな事実は一切無くて、ただ、ピンチの所を助けてもらって、ちょっとキュンとなって、日々を過ごしているうちに何か足らなくなって、そして彼の可愛らしい一面を見ると、途端に沸騰したお湯のように胸がかっかと騒ぎ出す。
 ……た、ただそれだけの話だ。
 自分でも認めたくない。認めてしまったら、今までそういうことなしに男と向き合えた自分があっけなく崩れ去ってしまう。一種のプライドとでも言うのだろう。私の男という存在そのものに対する価値観がまるで違ってしまう。
 しかし、私は今頭に浮かんでいる言葉以外のことでこの現状を打破するだけの論理的かつ正確な説明ができない。むしろ、それ以外の原因なんて無いんじゃないだろうか。そう思えてもきた。
 でも、やっぱりそれだけは認めたくない。実害とかそういうことじゃない。ただ単に精神的な問題だ。
 私が押し問答を繰り返していると、あれだけ近かったエリの顔が更に近づいてきた。

「さっきから顔赤くしてなーに考えてるのかなー?」
「……」
「もしかしてー、アレ、とか?」

 アレ、と伏せられてはいるが、エリの意地の悪い笑みからもその伏字がどんな単語なのかは、残念なことに私にも分かってしまう。
 というか、その伏字が私の認めたくない答えそのものなのであって、これでまた一歩確信に近づいてしまったと言うことだ。
 最後に、最後にもう一度。目の前の親友達に確認を取ってみる。これでダメなら、もう立ち直れない。

「えっと、もしかしてアレ、なのかな?」
「もしかしなくてもアレだね」
「うん、アレだ」
「……うぅ」

 もはや呻き声しか出すことが出来ない。
 これで私の今の心理状態が本当に、本当に不本意だけれど、親友二人のお墨付きまで貰ってしまったとあらば、認めざるを得ない。
 うきうきして、どきどきして、切なくって、悲しくもなる、この気持ちの名前。
 今までは知識としてしか知らなかったけれど、ここまでくればもう断言してもいいだろう。本当は、自分で自覚なんてしたくなかったのだけれど。

 この気持ちの名前。それは、”恋”って名前だ。


最終更新:2009年08月01日 18:22