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    <title>cassy @ MA thesis</title>
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    <description>cassy @ MA thesis</description>

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    <title>sassem</title>
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      シチズンシップ概念に置いて、過去数世紀間に生じた制度のナショナルかが、部分的なだつナショナル化に席を譲るかも知れない。（これまでのシティズンシップは国民国家に完全に規定されていた。それがその枠にとらわれないものに取って代わるかもしれない）    </description>
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    <title>案と研究計画　改革</title>
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      バブル期の比較研究。いまの地域の悲惨は日本のバブル期にその起源を持っているケースが少なくないらしい。
ケアンズ、バリ、NY、オランダ。こういった場所での変化を比較考察していけないか。
そして、それとセットにして、日本のバブルで頂点に達する、日本企業の海外進出と資本の動きに関して考察できないものか。

オーストラリア北部やるのも、つまらないのではないか・・・。大きく走り出す前に、考え直す必要がある。    </description>
    <dc:date>2010-05-14T17:34:27+09:00</dc:date>
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    <title>ケアンズの系譜</title>
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      ケアンズの系譜

先に、ケアンズは南部にとって存在感の薄い場所であると述べた。確かに、南部のシドニーとの距離は2000kmあり、その距離は東京と沖縄の距離よりも、やや遠い。第二次大戦以後のマスツーリズムの拡大する以前の時代におけるケアンズは、いわゆるエキゾチックな東洋のイメージと同等にされて語られていた。１８世紀において、ヨーロッパの植民地主義の拡大に伴い、旅行記などの形で、植民地を題材にした文学作品などが広く流布するようになる。とくに、アジア太平洋地域は、温暖で、異質な動植物の住む場所といった、「エキゾチック」なイメージが付与されていくことになる。南部住民は、このヨーロッパ人の視点を内面化し、ケアンズを北部と言うよりも、ヨーロッパから見た「極東」の一部として把握していくことになる。ケアンズはヨーロッパからやってきた南部住民にとっては、「エキゾチック」な南洋諸島に地理的に近接し、同時に、南部とは異なった熱帯の気候を持っている。
また、この北部地域には、アジア太平洋地域からの労働者が居住する場所でもあった。1901年の連邦政府の白豪主義政策に代表されるように、南部からアジア人はほぼ完全に排斥されることになった。しかし、北部では真珠貝採取、さとうきびのプランテーション栽培といったことがなされていた。前者の真珠貝採取は、年間で１０％のダイバーが死亡するなど、極めて危険な労働であり、またオーストラリア人には不得手な分野でもあった。ここで和歌山県から真珠貝採取労働者が、この産業に出稼ぎに出て行った。この神授外債主産業はケアンズの北に位置する木曜島周辺で行われていた。ケアンズの金鉱でなされていたのは後者のサトウキビ栽培であった。日本人は少ない賃金で猛烈に働いたと言われている。日本人労働者は時にストライキを起こして雇用主に反抗したとされるが、現地人と大きな衝突を起こしたとされる記録はなく、地元住民も日本人に対して不快感を持ったかもしれないが、大きな敵意を持つと言ったことはなかったようである。
しかし、ここでアジア人に対するケアンズ住民の敵意を持たせたのは中国人労働者であるとされている。彼らは、真珠貝採取産業の興る以前のゴールドラッシュの時代においてケアンズに到来し、その後は日本人らと同様に、サトウキビプランテーションや、焦点を営むことで生計を立てていたという。しかし、ギャンブルを行い、阿片を吸引する彼らの姿は、現地人の間に道徳的頽廃をもたらすものであるとされた。このように、白豪主義が導入された以後であっても、北部地域にはアジア人が一定の社会的なプレゼンスを持っていた。

このような南部のオーストラリアとは異なった北部地域の様子を伝えたのは、当時の小説家やジャーナリストであった。特に、ここで最も強い影響力を持ったとされるのは、Victor Kennedy による著述活動であるとされる。KennedyはNorthern Affairsという新聞を刊行し（公刊頻度は？）、1927年から1933年頃に欠けて北部の様相を南部に伝達し続けた。この新聞は南部でも広く読まれ、観光ガイドとしても機能したとされている。

このKennedyによる北部地域の記述は、いわゆるエキゾチックなケアンズのイメージを教化しただけでなく、自然や景観の叙述をこれまでのものと大きく変えた点にあるとされている。それ以前のケアンズを中心とした北部地域のイメージは、「フロンティア」であった。すなわち、北部地域は、南部と異なった自然環境、いわゆる豊かな自然を有している。しかし、それらは鑑賞したりするものではなく、あくまで飼い慣らすための自然、そして、資源として利用されるべき自然という、Utilitalianismの発想によって占められていた。ここでKennedyが先駆的になしたのは、Romanticism的な自然景観の描写である。このRomanticism的な叙述によって、ケアンズは観光地としての色彩を帯び始める。ここで、ケアンズを含む北部地域の自然は、アーリ（1995）で指摘するような「ロマン主義的まなざし」の対象になった。ロマン主義的まなざしとは、自然を一人で、孤独に鑑賞する、いわばエリート主義的な自然の楽しみ方になる。現在のマスツーリズムに見られるような団体旅行において集団で自然を眺めるといった姿勢は俗なものとして排斥される。この実用主義的utilitarianな見方から、ロマン主義的romanticな見方への転換によって、ケアンズは観光地として発見されていくのである。
このロマン主義的な自然に誘引された南部住民、とくに富裕層はケアンズを避寒地として訪れることになる。当時のケアンズへのアクセスは船舶に限られていた。1940年代には鉄道が完成し、南部からも鉄道によって移動することが可能にはなった（どのくらいのスピードで行けたのか。）船舶の時代、南部のメルボルンからの移動時間は二週間かかったとされている。    </description>
    <dc:date>2009-10-17T11:51:00+09:00</dc:date>
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    <title>理論部　仮</title>
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    <description>
      本研究では、観光という産業（本研究では海外旅行）を以下のように位置づけたい。海外旅行が一般的な物となり、マスツーリズムが拡大していったのはジャンボジェット機の登場以降である。このジャンボジェット機の登場と普及は1970年代からである。これと足並みをそろえる形で、世界経済の状況も大きく変わっていく。1960年代、1970年代にいては、国際分業体制のもとで、多国籍企業が世界的に進出し、新たな労働のヒエラルキー構造ができあがっていった。しかし、1980年代から1990年以降は世界経済の動きがこれまでのものと大きく変動を遂げていく。それまでの世界経済は有形な財の生産を軸に据えていた。資本投下は具体的には工場などの一定の場所に固着されていた。しかし、1980年代からは、財ではなく、記号が生産されるようになっていった。財の生産とその流通が飽和状態になっていく中で、最大の収益源となっていったのは、金融商品や不動産投資など、投機的な分野となった。この記号の生産は、伊豫谷によれば、グローバル・ドリームの生産となる。記号の生産においては、これまでの価値増殖における工場での財の生産を必要としなくなった。この財の生産を伴わない投機的な経済構造への転換の中で、資本が資本を生む状況が生み出されていった。資本はよりフレキシビリティを回復していき、世界的な規制緩和の動きの中で資本は少なくとも自国内の国境を越えて自由に移動するようになった。
このような自由な資本、フレキシブルな資本蓄積な体制のもとでの記号生産は、観光業をも含む。この新たな記号価値を求めて、それぞれの場所はそのシンボル的な価値に元図いて、序列化されていくことになる。ここにおいて、各都市や町は、みずからの比較優位？をもとめて、競争化していくことになる。（entrepreneurism各自治体はその町の魅力、売りを求められる。自治体の関心はこれまでのような自治ではなく、町おこしへと変わっていく。）。いわゆるグローバル資本が自由に稼働する中で、これまで看過されてきたような場所に急激な資本投下が起こるといった事象が発生する。フレキシブルに動き回る資本は、時に農村にも急速な都市化と生活様式の変容を迫る。

このようにして発見された農村には雇用構造を初めとした大きな変化が訪れる。しかし、観光業自体は、新たな開発と経済発展の機会をもたらすように見えながらも、実際は一部の推進側にもたらされる多大な利益と、他方での貧困の拡大である。観光は、テーマパーク建設やインフラ整備などの事業をもたらしはするが、財の生産による経済発展の道筋を採らない。観光業においては、町それ自体が、一つの財であるかのような性質を持つ。各人の労働は、その財への付加価値であるかのような様相を呈する。観光地の盛衰をプロダクトサイクル論の観点から説明したButlerによれば、観光地は通常の財と同様に、萌芽期に次ぐブーム、さらに成熟を経て衰退へと向かっていく。このような観光地の一次性から見ると、観光による雇用創出や経済成長策はきわめて短期的な視野に立った物であり、実際の成長は、期待できないことになる。都市間競争の果てに発見された場所は、精進されて、捨てられていく運命にある。
このような立論において、ケアンズで箱の枠組みがキレイに当てはまる。…….


第４章の反対運動の章で

これまで、第三章においては、ケアンズにおける観光開発を巡る政治的な動きを考察してきた。そして、それをめぐる文化的な要因にも言及をしてきた。このような一連の動きは以下のように表されるだろう。Gregory(1994)は図★に示される、権力の目、とされるモデルを提示している。（グレゴリーのモデルの説明をここに。）このケアンズの観光開発に向けた動きは、場の官僚制化、そして、スペクタクル化、そして、さらには一定のイメージ像の反映であった。このような外部からの力によるケアンズという空間への作用は、その場所の意味合いを大きく買えることになった。個々において起こるのは、人々のいきられた空間を取り戻す試みである。
そして、ケアンズの観光開発に向けた動きは、そして、一連の観光課に向けた動きは、州政府による道徳的支援の着いた象徴暴力であると言っても良いかもしれない。ここでは、観光が経済成長のためには不可欠であるとされ、その妥当性は自明の物として、流布することになる。個々で人々はその規範の正当性に気づくことなく、その規範を内面化していく。この様な意識の植民地化に対して、反対運動勢力がその異議を唱えていったと考えても良いはずだ。    </description>
    <dc:date>2009-10-15T02:42:33+09:00</dc:date>
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    <title>ケアンズでの反対運動</title>
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      このような急速かつ莫大な規模での投資活動に対し、ケアンズにおいても反対の気運が高まっていく。

まず、第一は、Toko Houseによる、衛星都市建設計画である。これは、ケアンズの南部に、干潟を挟んだ方向にケアンズの衛星都市となるべく区画を開発するものであった。計画では、19000人が住める場所を作り、住宅地と（リゾート地？）を開発するものであった。しかし、マングローブ林を切り開いて作るこの衛星都市計画は極めて強い反対にあう。このToko Houseは、地元議会や州政府を介さず、直接FIRBに申請を出したために、住民や議会関係者からの支持は得られなかったようである。特に、Daikyoや岩崎のように、関係者に対して献金を行うなどと言ったことも、行ってはいなかった。
第二は、Town Developmentによる、Trinity　Beach 計画である。（Trinity Beachは成功したのか）

ゴールドコーストにおけるにおける反対運動が起こったのは1988年である。その一年後の1989年において、ケアンズにおいて、反対運動が組織されることになる。この運動は、Trinity Inletにおけるホテル建設をめぐる環境保護運動であった。開発主義一辺倒の姿勢を取っていたRon Davisに代わって市長に就任したのは、Keith Goodwinであった。彼は就任時に環境保護と、環境と住民と調和したケアンズの開発を公約として掲げていた。彼は開発に反対していたわけではなく、環境と地域住民に配慮した形での観光開発を主張していた。
この市長Keith Goodwinは、Trinity Inletにおけるホテルの建設事業を阻止すべく、署名２００００人分を集めた。さらに、１００００＄もの費用をかけて、反対デモ行進を組織した。1989年10月X日午前10時、ケアンズのRSL前には、キャンペーン用のTシャツを着た7000人もの人々が集結した。デモ行進の先頭に立ったのは市長Goodwinであった。この反対運動は大きな成果を上げ、ホテルの建設計画は一旦中止となる。
このホテルの建設に関し、Daikyoをはじめとする日本資本が入っていたとの情報は、新聞などの検討からは読み取ることが出来なかった。この反対運動の半年後の1990年５月、Goodwinと議会の側近９人を載せた小型機は、近隣のXX山に墜落し、全員が死亡する事故が発生する。ケアンズの環境保護勢力は失速し、再び、開発を強硬に推進する市議会へと戻っていった。
現在、当時の市長Goodwinが反対でも行進を行った現場には巨大なホテル群が立ち並んでいる。デモ行進によって、一旦計画を凍結させることに成功しながらも、干潟の開発は最終的には進行していったのである。

この反対運動においては、反日運動という形を取らなかった。この理由は以下の３点にあると考えられる。まず第一に、反対運動が発生する時期型の地域よりも遅かった点である。反日を掲げた論争が広く巻き起こったのは、1988年代であった。この論争のさなかで、反日を掲げることが日本からの投資を抑止することになるとの懸念が広く表明された。また、住民からはこのような人種主義的な議論は止めるべきであるとの意見も広く出されるようになる。
第二は、ケアンズにおいて既に環境保護運動という形での開発に対する反対運動が市の外で展開されていたためであると考えられる。この反対運動の起こる５年前の1984年、市の北部40km？に位置するDaintree Rainforestを通過する道路の建設を巡って、環境保護団体と開発側（州政府）の間で長期間にわたる抗争状態が続いた（注で展開してもいいが・・・）。反日運動の形態をとったゴールドコーストにおいては、管見の限り、このような環境保護運動は発生していない。

また、このような反対運動は、場所の変化に対する反対運動であり、その中核名主張は、現地住民による投資活動の管理を訴える内容であったと解釈するのが適切であるように考えている。まず、先に紹介したHeart of a Nationの活動は、たしかに初回の集会には多数の人々が集まったが、投資活動の最中であっても、急速な沈静化を見せていった。また、日本資本によるバブルが収束した後、その反対運動はほとんど姿を見せなくなる。このような様相から、ゴールドコーストにおける反日運動は、偶然、主導者が反日という要素を持ち出しただけであった。つまり、ゴールドコーストにおいて、環境保護運動という名で主導が起こっても、人は集まったはずである。また、ケアンズにおいても同等である。ケアンズにおいても、反対運動を含む感情は、ホテルが建設されたりすると同時に沈静化していく。
このような一連の活動から読み取れるのは、急速な投資に対する地元住民の管理を求める請願であったといえないだろうか。    </description>
    <dc:date>2009-10-11T23:15:57+09:00</dc:date>
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    <title>Introduction 冒頭部</title>
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    <title>authenticityと現代観光・日本人の到来</title>
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    <description>
      MacCannelによれば、現代人は、資本主義的な労働環境と労働を軸にした日常生活において、常に疎外感を感じながら生きている。このなかで、現代の主として先進国で企業などの組織で分割された労働に従事する人々は、日常生活の中での真正性（authenticity）を感じ取ることが難しい。現代人は、この普段のいわば偽りの真正性から離れ、本来の真正性、すなわち、本来の姿の自分を求めて観光に出るとMacCannelは説明する。ここで観光客である現代人が求めるのは、いわゆる普通の一般的な観光客とは異なった経験であるとする。かれらはたとえば、手つかずの自然、そして、手つかずの現地の住民の生活、と言った本来の経験を求めて旅に出る。しかし、彼らは決してその本来性を掴めることはないとされる。
この観光に出る動機としての真正性の追求という観点から見ると、ケアンズは現代人（ここでは日本人）にとっての真正性を提供する格好の場であったと言えるだろう。クィーンズランド州での対日観光事業に関わっていた職員によると、南部のシドニーやメルボルンではなく、北部のクィーンズランド州のさらに北部であるケアンズが栄えたのは、第一には日本からの地理的な近接性、さらには、ケアンズと周辺地域の持つ「商品力」であったという。ここでケアンズの持つ商品力とは以下のように定義できる。ケアンズの周辺には、所謂手つかずの自然、真正性をもつ観光資源が多数存在している。まず第一は、グレートバリアリーフであろう。ここでは広範な珊瑚礁の広がる青い空、澄み渡った海と、そこに生息する熱帯魚、さらにはトロピカルな植生などがそろっている。また、第二は、内陸部に広がる熱帯雨林であろう。ケアンズから数十分移動するだけで、殆ど人間の手の入っていない原生林を見ることができる。これらの「商品」はいずれも世界遺産に指定されている。いうまでもなく、これらの澄み渡る海と空、そしてうっそうとした熱帯雨林などは、日本国内では見ることのできない、真性な経験を観光客にもたらす。
クィーンズランド州の関係者、そして、地元議会が明らかにするように、ケアンズは常に国内のゴールドコーストさらに、海外ではハワイを念頭に置いて、その観光推進を行ってきた。ゴールドコーストやハワイは早期から「リゾート地」としての歴史を持っており、いわば人擦れするかのような様相を呈している。それに対して、ケアンズは田舎町と手つかずの自然、そして、そのままの飾らないフレンドリーさを前面に打ち出しながら観光開発を進めてきたという。    </description>
    <dc:date>2009-10-06T17:02:38+09:00</dc:date>
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    <item rdf:about="https://w.atwiki.jp/cassy/pages/27.html">
    <title>先行研究の状況と議論　理論的枠組みをここでその中で提示していく</title>
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      以上のような観点から本研究を進めていく。この中での先行研究の状況は以下の通りである。ここでは、主として日本とオーストラリアでの研究の状況に注目する。
まず第一に、日本国内におけるオーストラリア研究は蓄積が極めて少ない状況にある。特に、日本でのオーストラリア研究においては、本研究の主題である「異質な他者」との交流の議論は数多くなされてきている。しかし、そのような研究は以下の３つの潮流にわけられる。まず第一は、オーストラリアの多文化主義の政策的な検討である。しかし、ここでは、連邦政府レベルでの政策分析が主たるものである。各政府におけるその政策の検討はなされてきていない。また、異質な他者との関係に関する、コミュニティ調査などもなされてきている（代表的な研究には塩原（）、そして、OO(OO)が挙げられる。塩原の研究ではミクロレベルでのコミュニティ調査と、連邦レベルでの政策検討をつなげる試みがなされている。）飯笹さんとかはどうする
また、本研究の主題である観光に関しては、日本国内での研究は皆無に等しい。一応、先行する成果を上げるとすれば、朝水（）（）、遠山（）であろう。まず、朝水の研究に関しては、連邦政府の観光政策の変遷という形で研究が展開されている。しかし、朝水の研究において用いられている研究資料は極めて数が限定されており、明らかな事実誤認に基づく情報が誤った形で提供されている。また、彼の研究には、メルボルンにおいて、いわゆるエスニック料理店がどれだけの数が存在しているかといった研究もあるが、このエスニック料理店の数の分析が発展されることはなく、研究の方向性が見えてこない。
また、遠山の研究は、オーストラリアにおける投資の研究という形を取っている。クィーンズランド州の投資に関しても論考が発行されている。しかし、朝水の研究と同様、用いられている資料が非常に限定されており、推測レベルでの立論が目立っている。このように、日本国内においては、オーストラリア研究の領域は限定されている。とくに、オーストラリアが観光地として周知されているにもかかわらず、このような研究は全くなされていないに等しいのである。（恩地？ここは少し調べておく必要があるか。）
また、日本国内での観光に関する研究は、主として二つの類型に大別されると考える。まず第一は、観光学としての研究である。これには、マーケティング調査、地域振興策としての観光のあり方などを研究する分野である。ここでの観光学は功利主義としての観光学である。第二は、観光社会学、あるいは観光人類学である。代表的な研究には吉原直樹、山下晋司の研究が挙げられる。吉原の場合ではバリ、さらに、山下の場合には～～という地域・場所を事例として、研究がなされている。しかし、彼らの研究は主として文化的な枠組みでの分析である。全体として、日本の観光に関する議論においては、ポリティカル・エコノミーの観点を用いた研究はほとんど見あたらない。

一方で、本稿で示すように、オーストラリア国内においては、日本からの観光客の到来と、観光業の進展、さらに、地元住民の反応に関しては、かなりの研究の蓄積がある。しかし、それらは主に全国レベルでの議論が多いことを指摘しておく。特に、海外直接投資の到来に関しては数多くの研究がなされている（誰がどんな風に？）。この全国レベルでの日本からの投資の研究はオーストラリア国立大学のAustralia-Japan Research Instituteが先駆的に行ってきた。日本からの投資データを用いた、オーストラリア経済への効果を分析する論文、さらには、やや浅い形ではあれ、海外直接投資に関する日本の研究の蓄積がある。
特に、同大学にて行われたPokarierの研究は、オーストラリアにおける海外直接投資受け入れに関する政治的な決定要因を1960年代から1996年まで主として新聞記事の検討を軸に据えて考察している。彼によれば、（1960年代のメンジーズ政権期を除いて）オーストラリアの海外直接投資受け入れ政策は歴史的に常に開放的であった。そして、本研究で取り上げる1980年代における、クィーンズランド州ゴールドコーストでの海外直接投資に関する住民の反対運動についても言及がなされている。

またHajduの研究には、筆者がこの論文を執筆する上での大きな影響を受けている。Hajduは主としてゴールドコーストを対象とし、海外直接投資の流入と都市景観の変化、さらには、住民の反応に関する研究を行っている。ゴールドコーストにおける日本企業の活動や関係する人物が精細に記述されている。また、海外直接投資が及ぼした都市の土地に関して、メルボルンとシドニーを取り上げた研究もある。

このケアンズにおける観光に関する研究は、周辺の観光名所とされている場所を取り上げて、主として自然科学の観点からの研究がなされてきた。特に、周辺のグレート・バリア・リーフにおいては、その生態や気候に関する研究が朱となっており、その社会史的な側面を扱った研究は非常に限定されている（誰だっけ）。さらに、周辺の熱帯雨林に関しては、森林の性質や保全に関わる研究の蓄積がある。また、Tjapukai Dance Theatreにおけるアボリジニのツーリズムに関する研究も行われてきた。
しかし、本研究にて取り上げるように、行政区画としてのケアンズという町は、急速な社会変化を遂げ、多くの観光客を毎年受け入れている。それにもかかわらず、この町の研究を取り上げたものは皆無である。
まず、この町を取り上げた公刊された研究として、Thorp(2007)がある。この論文はThorp2004が元になっている。彼女の論文では、ケアンズの町のイメージ、どのようにケアンズが国内の住民に見られてきたかに関し、1900年から1970年までをその対象にしている。（主な内容は本論文第O章を参照）。しかし、残念なことにこの論文の主眼は戦前期におけるケアンズという場所のイメージの誕生にあり、1970年以降の海外旅行客が到来する時代の社会変動についてはほとんど言及がなされていない。
この他にも、地域の研究者によってなされている研究は存在する。しかし、それらの研究は戦時中の戦争の歴史、あるいは戦前のヨーロッパ人による開拓の歴史の研究が主である。このような研究に関しては、Cairns Historical Societyが、ケアンズの戦時中以前の歴史を中心に、隔週で紀要Bulletinを発行している。また、同研究会はケアンズの戦時中以前の町の歴史に関する文献を数冊発行している。彼らの歴史は、いわゆる「白人の歴史」であり、彼らの研究には、時折アジア人に対する言及はあるが、アボリジニのことに関しては言及されることは少ない。この中で、アボリジニの歴史を描くのは地元の歴史家Tim Bottoms である。彼は地元議会の委託を受け、ケアンズの歴史をヨーロッパ人入植以前の阿保理事の時代から現代に描くまでの包括的な歴史を描いている。この他にも、彼は地元のBamaコミュニティを題材にしたアボリジニ研究を発行している。また、驚くことに、ケアンズは、市史あるいは町史を作成しておらず、Bottoms氏に町史としてのケアンズの歴史の執筆を依頼するという形を取った。しかし、Bottomsの関心はアボリジニにあり、本研究の題材とする観光開発に関する叙述はほとんど見られない。この他に、刊行された歴史書として、Jonesがある。彼女の描く歴史は戦前のケアンズの歴史が題材となっている。このような研究状況の中で、唯一刊行に関するデータを発行しているのは、地元の経済研究所Compass Economic Researchの代表、Bill Cummingsである。彼が2001年に発行したCairns Business Manualは過去５０年間の産業の歴史と、今後の展望を記しており、観光開発に関連した次章を扱った、唯一の文献であるといって良い。
そのほかにも、クィーンズランド州の刊行を扱った主要な研究蓄積は、クィーンズランド大学、ジェームズクック大学、グリフィス大学にて所蔵されている。また、政府系の資料に関しては、オーストラリア国内の規定により、2009年時点で1978年以前のもののみ閲覧することが可能であった。したがって、本研究では連邦政府や州政府の発行した公文書に当たることは不可能であった。その代替手段として、新聞記事の検討から、政策的な変化、それに伴う実際の変化と人々の反応を析出することに努めた。情報の不足分は、観光開発の関係者による聞き取り調査によって補填した。    </description>
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    <title>日本の状況</title>
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      ガバン・マコーマックの指摘するように、土地は日本人にとっての多くの意味合いを持っていた。土地は日本人にとっては「第二の貨幣」であった。当時の銀行は、融資の担保として、土地や不動産資産を重要視していた。バブル経済は、実質的な、経済的裏付けを持たない土地の異常なまでの高騰と、その泡のようにふくれ県土地の価値に基づいた融資によって成立していた。このような土地という第二の貨幣は、本企業の投資活動を多かれ少なかれ規定していくことになる。この貨幣を手にすることは、そのまま企業の価値を上昇させることを意味した。従って、オーストラリアやアメリカへの「安い」土地を求めて、海外投資が起こったのである。
日本のバブル経済と相並ぶ形で、国際社会（特に欧米諸国）から、日本の対外貿易黒字に対して批判がなされ、さらに、日本の経済・社会体制は閉鎖的であるとする批判を受けてきた。このなかで、日本は「国際化」に向けて動き出す。海外旅行の進展は、この「国際化」の動きへの一部として捉えることが出来る。（ここで日本は他に何を奨励したのか。）このことを象徴的に示す政策的対応としては、テンミリオン計画が挙げられる。テンミリオン計画とは、海外旅行倍増計画とも呼ばれる。運輸省と通商産業省（いずれも当時）によるこの政策によって、対外貿易収支問題の改善と、日本社会の開放性を目指した。また、同時に、Leheny (2004)は、この政策を日本の西洋へのキャッチアップの一環として捉えている。Lehenyによれば、日本は日本国民を「文明化された」市民にすべく、西洋諸国の望ましい社会生活形態を模倣してきた。海外旅行は、この「文明化された」市民の形成において適した手段であるとされた。
このようなテンミリオン計画と並んで、国内では1985年、リゾート法（総合保養地整備法）が制定され、日本各地でテーマパークやリゾート地整備といった大規模な娯楽施設が次々に建設されていった。国内において飽和的となった市場において、日本資本は海外にその投資先を求めた。固定相場制の下でのドル高の離京で、日本資本の海外進出は、決して容易なものではなかった。実際、この体制の元でのオーストラリアドルは200円前後で推移しており、オーストラリアへの投資の多くは、資源部門に偏っていた。1985年のプラザ合意と変動相場制の導入によって、日本資本にとって外貨の獲得は以前よりも容易になった。この合意に伴い、オーストラリアドルに対する日本円の価値は倍加し、日本資本にとって、新たな資本敷く関の機会が訪れたのである。また、日本国民にとって、このような外貨の値下がりによって、海外旅行客が急速に拡大していくことになる。この時期と並んで、ケアンズを含む各航空路線は大幅に拡大していく。
このような海外旅行の拡大に向けた外圧、さらにはそれに対応する形での海外旅行やレジャーの推進を軸とする政策的対応、さらには、外貨価値の下落によって、日本資本や日本からの旅行客が急速に海外に向かっていくようになったのである。
日本資本にとっては、日本の土地や建物が高騰する中で、オーストラリアのそれは安価なものとして映った。例えば、東京の物件が2209＄にたいして、シドニーの物件は600$であった。    </description>
    <dc:date>2009-10-04T15:23:22+09:00</dc:date>
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    <title>Acknowledgement</title>
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      「祝福か、呪いか：ケアンズにおける観光開発」へようこそ。最初に、本研究は数多くの人々の助けによって完成されたことを謝辞として示したいと思います。

指導教官である伊豫谷登士翁先生には、私が調査中にも論文執筆中にも戸惑ってばかりで右往左往している中を、辛抱強く見守って下さり、ご多忙の中、常に的確なアドバイスを頂いた。先生に引っ張ってもらっていなかったら、本研究は日の目を見なかったかもしれない。そして、本研究に先生のアドバイスが反映されていないとしたら、それはひとえに筆者に力不足といえましょう。
そして、オーストラリア国立大学アジア太平洋地域研究科はこの研究に対して極めて寛大かつ気前の良い支援をして下さいました。特に、研究科長であるKent Anderson教授は研究助成の出願時から、研究が完成するまでの間、大変ご多忙にもかかわらず、極めて親切に私の研究を支えて下さった。修士の学生の私に研究室を用意して下さるなど、頭の上がらない思いです。
オーストラリア政府豪日交流基金からは2008年度サー・ニール・カリー奨学金の助成を受けました。このすばらしく寛大な研究助成がなければ、オーストラリアでの現地調査はほとんど不可能であったでしょう。本研究はこのサー・ニール・カリー奨学金による成果の一部です。
また、両親と弟は何も言わずに私をいつも支援してくれました。伊豫谷ゼミの同期の友人、さらには連れにはいつもお世話になりっぱなしでした。

それ以外にもここでは書ききれませんが、研究に協力して下さった方々に、記して謝意を表したいと思います。    </description>
    <dc:date>2009-10-04T10:44:45+09:00</dc:date>
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