第一次世界大戦-2

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{{Battlebox | battle_name = 第一次世界大戦 | campaign = XXXX |colour_scheme = background:#ffccaa | image = [[画像:WW1 TitlePicture For Wikipedia Article.jpg|300px]] | caption = 上段より[[西部戦線 (第一次世界大戦)|西部戦線]]の戦場跡、中段左[[ソッピース キャメル]]複葉機、同右[[塹壕]]を横断する[[マークI]]戦車、下段左[[ガスマスク]]を装着する[[ヴィッカース重機関銃]]の操作手、同右[[ガリポリの戦い]]で沈むイギリス戦艦[[イリジスタブル (戦艦)|イリジスタブル]]。 | conflict = | date = 1914年7月28日 - 1918年11月11日 | place = [[ヨーロッパ]]、[[中東]]、[[アフリカ]]、[[中国]]、[[太平洋]] | result = 連合国(協商国)の勝利 | combatant1 = '''連合国'''<br />[[画像:Flag of the United Kingdom.svg|25px]] [[イギリス]]<br />[[画像:Flag of France.svg|25px]] [[フランス第三共和政|フランス]]<br />[[画像:Russian Empire 1914 17.svg|25px]] [[ロシア帝国|ロシア]]<br />[[画像:Flag of Italy (1861-1946).svg|25px]] [[イタリア王国|イタリア]]<br />[[画像:US flag 48 stars.svg|25px]] [[アメリカ合衆国|アメリカ]]<br />[[画像:Flag of Serbia (1882-1918).svg|25px]] [[セルビア王国 (近代)|セルビア]]<br />[[画像:Flag of Japan (bordered).svg|25px]] [[大日本帝国|日本]]<br />など | combatant2 = '''中央同盟国'''<br />[[Image:Flag of the German Empire.svg|22x20px]] [[ドイツ帝国|ドイツ]]<br />[[Image:Austria-Hungary_flag_1869-1918.svg|22x20px]] [[オーストリア=ハンガリー帝国|オーストリア]]<br />[[Image:Ottoman Flag.svg|22x20px]] [[オスマン帝国|オスマントルコ]]<br />{{旗アイコン|ブルガリア}} [[ブルガリア]] | commander1 = [[画像:Flag of the United Kingdom.svg|25px]] [[デビッド・ロイド・ジョージ|ロイド・ジョージ]]<br />[[画像:Flag of France.svg|25px]] [[ジョルジュ・クレマンソー|クレマンソー]]<br />[[画像:Russian Empire 1914 17.svg|25px]] [[ニコライ2世]]<br />[[画像:Flag of Italy (1861-1946).svg|25px]] [[ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世]]<br />[[画像:US flag 48 stars.svg|25px]] [[ウッドロウ・ウィルソン|ウィルソン]] | commander2 = [[Image:Flag of the German Empire.svg|22x20px]] [[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]<br />[[Image:Austria-Hungary_flag_1869-1918.svg|22x20px]] [[フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)|フランツ・ヨーゼフ1世]]<br />[[Image:Ottoman Flag.svg|22x20px]] [[メフメト5世]] | strength1 = | strength2 = | casualties1 = 戦死者 553万人<br />戦傷者 1,283万人<br />行方不明 412万人 | casualties2 = 戦死者 439万人<br />戦傷者 839万人<br />行方不明 363万人<ref>Evans, David. ''Teach yourself, the First World War'', Hodder Arnold, 2004, p.188</ref> }} [[画像:Map 1914 WWI Alliances.jpg|right|300px|thumb|'''ヨーロッパの参戦国''' 同盟国(赤)、連合国(緑)、中立国(黄)。<br />1915年当時の状況だが、1911年の国境に沿って色分けされているため、バルカン半島の一部においては境界が不正確になっている]] 後半は、[[第一次世界大戦-2]] '''第一次世界大戦'''(だいいちじせかいたいせん, World War I)は、[[1914年]]から[[1918年]]にかけて戦われた世界規模の大戦争である。 [[ヨーロッパ]]が主戦場となったが、戦闘は[[アフリカ]]、[[中東]]、[[東アジア]]、[[太平洋]]、[[大西洋]]、[[インド洋]]にもおよび世界の大多数の国が参戦した。'''大戦争'''(The Great War)、'''諸国民の戦争'''(War of the Nations)、'''欧州大戦'''(War in Europe)とも呼ばれる。 == 概要 == 当時のヨーロッパ列強は複雑な同盟・対立関係の中にあった。列強の[[参謀本部]]は敵国の侵略に備え、[[動員|総動員]]を含む戦争計画を立案していた。[[1914年]]、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]の[[皇位継承者]][[フランツ・フェルディナント大公]]が暗殺されるという[[サラエボ事件]]を契機に、各国の軍部は総動員を発令した。各国政府および君主は開戦を避けるため力を尽くしたが、戦争計画の連鎖的発動を止めることができず、瞬く間に世界大戦へと発展したとされる<ref>『八月の砲声』</ref>。 各国は[[ドイツ]]・オーストリア・[[オスマン帝国|オスマントルコ]]・[[ブルガリア]]の[[中央同盟国]](同盟国とも称する)と、[[三国協商]]を形成していた[[イギリス]]・[[フランス]]・[[ロシア帝国|ロシア]]を中心とする[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]](協商国とも称する)の2つの陣営に分かれ、[[日本]]、[[イタリア王国|イタリア]]、[[アメリカ合衆国]]も後に連合国側に立ち参戦した。多くの人々は戦争が「[[クリスマス]]までには終わる」と楽観していた。しかし戦場においては[[機関銃]]の組織的運用等により防御側優位の状況が生じ、弾幕を避けるために[[塹壕]]を掘りながら陣地を進める「塹壕戦」が主流となったため戦線は膠着する。戦争の長期化は交戦国に国民経済を総動員する[[国家総力戦]]を強いることとなり、それまでの常識をはるかに超える物的・人的被害をもたらした。 国力に劣る中央同盟国は長期戦により経済が停滞した。[[1918年]]に入るとトルコ、オーストリアなどが降伏し、11月にドイツの[[キール (都市)|キール]]軍港での水兵の反乱をきっかけに、ドイツ皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]は退位に追い込まれ大戦は終結した。足かけ5年にわたった戦争で900万人以上の兵士が戦死し、戦争終結時には史上2番目に犠牲者の多い戦争として記録された(史上1位は[[太平天国の乱]]。この記録は[[第二次世界大戦]]によって塗り替えられることになる)。またこの戦争によって当時流行していた[[スペイン風邪]]が船舶を伝い伝染して世界的に猛威をふるい、戦没者を上回る数の病没者を出している。 == 軍事的側面 == {{右| [[画像:The Battle of the Somme film image1.jpg|thumb|250px|ソンムの戦いのイギリス軍 1916年7月]] [[画像:MG Stellung.jpg|thumb|250px|オーストリア軍。年代不詳]] }} 19世紀後半以降、[[鉄道]]が軍事的に重要な意味を持つようになった。鉄道網が整備された国では、平時には[[徴兵制度]]を施行して国民に訓練を施し、戦時には国民を鉄道を使って総動員することで、短期間のうちに国境線に大部隊を集結させることが可能となった。総動員下令のタイミングの遅れは戦争の敗北に直結しかねないため、列強の参謀本部は鉄道ダイヤまでを含む綿密な戦争計画を研究した。 戦術的には鉄道は防御側を優位に立たせる効果を持った。攻撃側の歩兵部隊が徒歩でしか前進できないのに対し、濃密な鉄道網を持っていたドイツやフランスは、防御側に立ったときには圧倒的に速い速度で予備兵力を集結させることができたのである。[[タンネンベルクの戦い (1914年)|タンネンベルクの戦い]]では、[[東プロイセン]]に進攻してきたロシア軍に対し、ドイツ軍は鉄道を効果的に活用することで各個撃破に成功している。 さらに、19世紀後半以降、歩兵は射程距離の長い[[小銃|ライフル銃]]を装備するようになった。これにより弾幕射撃の威力と精度が増し、[[ナポレオン戦争]]の時代まで勝敗を決する地位を占めてきた[[重騎兵|重装騎兵]]の突撃が無力化された。一方で、第一次世界大戦において初めて本格的に投入された[[飛行機]]、[[戦車]]などの攻撃的兵器は、性能や数量がいまだ不十分であり、戦場において決定的な役割を果たすまでには至らなかった。第一次世界大戦における戦場の主役は、攻撃においても防御においても[[歩兵]]だった。 このような防御側優位の状況の中、[[西部戦線 (第一次世界大戦)|西部戦線]]では[[塹壕|塹壕戦]]が生起した。[[スイス]]国境から[[イギリス海峡]]まで延びた塹壕線に沿って数百万の若者が動員され、ライフル銃や[[機関銃]]による弾幕射撃の前に生身の体をさらした。こうして、それまでに行われた国家間の戦争に比べ、死傷者の数が飛躍的に増加した。また、塹壕戦を制する目的で、第一次世界大戦では初めて[[毒ガス]]兵器が使われた。 開戦時にイギリス海軍大臣だった[[ウィンストン・チャーチル]]は、「第一次世界大戦以降、戦場から騎士道精神が失われ、戦場は単なる大量殺戮の場と化した」と評した。 == 背景 == === オーストリア=ハンガリー帝国と東方問題 === [[1867年]]、[[アウスグライヒ]]により[[オーストリア=ハンガリー帝国]]が誕生した。[[ハプスブルク家]]はオーストリア皇帝とハンガリー王を兼ね、ハンガリーは軍事・外交・財政を除く広範な自治権を得た。しかしこの改革によっても帝国内の民族問題は解決されなかった。当時の帝国内には少なくとも9言語を話す16の民族グループおよび5つの主な宗教が存在していた。 オーストリア=ハンガリー帝国の最大の関心は[[東方問題]]にあった。政府を主導するオーストリア人とハンガリー人は、帝国南部で台頭する[[スラブ人]]の民族主義運動に深い疑いと憂慮を持ち、1912年から1913年にかけて行われた[[バルカン戦争]]の結果、隣国[[セルビア]]の領土が約2倍になったことを警戒していた。一方で[[セルビア人]]民族主義者は、帝国南部は南スラブ連合国家に吸収されるべきだと考えていた。この冒険的民族主義に対して、自らスラブ人の守護者を任ずるロシアは一定の支持を与えていた。オーストリア政府は、スラブ人民族主義運動が帝国内の他の民族グループへと伝播し、さらにロシアが介入する事態を危惧していた。 === ドイツ帝国とシュリーフェン・プラン === [[画像:Schlieffen Plan.jpg|thumb|right|300px|シュリーフェン・プラン]] [[ドイツ帝国]]は[[1871年]]に[[普仏戦争]]で[[フランス]]に勝利し成立した。ドイツ宰相[[オットー・フォン・ビスマルク]]は、フランスを国際的に孤立化させて[[アルザス・ロレーヌ]]奪回の意図を挫き、ドイツの安全を図る目的から、1882年にオーストリア、[[イタリア王国|イタリア]]と[[三国同盟 (1882年)|三国同盟]]を締結、1887年には[[ロシア帝国]]と[[独露再保障条約]]を締結し、[[ビスマルク体制]]を構築した。しかし1890年にビスマルクが失脚すると、独露再保障条約は延長されなかった。さらに1894年、フランスとロシアは[[露仏同盟]]を締結し、ドイツが対フランス・対ロシアの二正面作戦に直面する可能性が高まった。 ドイツ参謀総長[[アルフレート・フォン・シュリーフェン]]は、二正面作戦に勝利するための手段として[[シュリーフェン・プラン]]を立案した。これは広大なロシアが総動員完結までに要する時間差を利用するもので、ロシアが総動員を発令したならば、直ちに中立国[[ベルギー]]を侵略してフランス軍の背後に回りこみ、対仏戦争に早期に勝利し、その後反転してロシアを叩くという計画だった。しかしシュリーフェン・プランは、純軍事技術的側面を優先させて外交による戦争回避の努力を無視し、またベルギーの中立侵犯を国際的汚名や[[イギリス]]の参戦を招く危険性がありながら押し通すというものだった。シュリーフェン・プランは、ドイツを世界規模の大戦争へと突き落とす可能性の高い、きわめて危険な戦争計画でもあった。 === イギリスの対ドイツ政策 === [[イギリス]]は伝統的に[[グレートブリテン島|ブリテン島]]対岸の[[ネーデルラント|低地諸国]]を中立化させる政策を実行してきた。1839年の[[ロンドン条約 (1839年)|ロンドン条約]]において、イギリスはベルギーの独立と中立を保証していた。ベルギーの中立を守るためには、フランスであれドイツであれ、先にベルギーの中立を侵犯した側の敵側に立って参戦すると表明していた。 だが19世紀末になると、ドイツの国力の伸張により、次第にイギリスとドイツとの対立関係が深まっていった。イギリスとドイツは海上における覇権を競って[[建艦競争]]を繰り広げた。イギリスは覇権維持のため、1904年にフランスとの長年の対立関係を解消して[[英仏協商]]を締結し、他にも1902年に[[日英同盟]]を、1907年に[[英露協商]]を締結した。こうしてヨーロッパ列強は、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟と、イギリス・フランス・ロシアの三国協商との対立を軸とし、さらに多数の地域的な対立を抱えるという複雑な国際関係を形成した。 == 開戦 == === サラエボ事件とロシア総動員 === [[画像:Le petit journal 1914.jpg|thumb|right|サラエボ事件を報じるフランスの雑誌]] [[1914年]][[6月28日]]、オーストリア=ハンガリー帝国皇帝[[フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)|フランツ・ヨーゼフ1世]]の継承者、[[フランツ・フェルディナント大公]]が、[[ボスニア]]の首都、[[サラエボ]]でセルビア人民族主義者[[ガヴリロ・プリンツィプ]]により暗殺された。オーストリアの[[レオポルド・フォン・ベルヒトルト]]外相は懲罰的な対セルビア戦を目論み、7月23日セルビア政府に10箇条のいわゆる[[オーストリア最後通牒]]を送付して48時間以内の無条件受け入れを要求した。セルビア政府はオーストリア官憲を事件の容疑者の司法手続きに参加させることを除き、要求に同意したが、オーストリアはセルビアの条件付き承諾に対し納得せず、7月25日に国交断絶に踏み切った。躊躇する[[イシュトヴァーン・ティサ]]首相と皇帝の反対を押し切る形で、7月28日にセルビアに対する宣戦布告が行われた。 ロシア政府は1909年に、オーストリアのボスニア併合を承諾する代わりにセルビア独立を支持することを誓約していた。オーストリアのセルビアへの宣戦布告を受けて、軍部は戦争準備を主張し皇帝[[ニコライ2世]]へ圧力を掛けた。ドイツ皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]とロシア皇帝ニコライ2世の間の電報交渉<ref>「ウィリーとニッキー」書簡として知られる。</ref>は決裂。ロシア政府は、部分動員では手遅れになる可能性を想定し、7月31日に総動員令を布告した。ドイツはロシアに動員解除を要求したが、ロシア政府は動員を解除した場合には短期間で再び戦時体制に戻すことは難しいと考えたため、要求に応じなかった。 === シュリーフェン・プランの発動とイギリス参戦 === ドイツ政府は、三国同盟に基づいて対応を相談したオーストリアに対し、セルビアへの強硬論を説いた。ロシアが総動員令を発すると、参謀総長[[ヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケ|小モルトケ]]は[[シュリーフェン・プラン]]に基づいて8月1日総動員を下令し、同時に[[ベルギー]]に対し無害通行権を要求した。ドイツ政府は翌2日にロシアに対して宣戦布告し、さらに3日にはフランスに対して宣戦布告した。 ドイツによる突然の挑戦に直面したフランスは、8月1日に総動員を下令し、対ドイツ戦を想定した[[プラン17]]と称される戦争計画を発動した。8月4日、[[ルネ・ヴィヴィアーニ|ヴィヴィアン]]首相は、議会に戦争遂行のための「神聖同盟」の結成を呼びかけた。議案は全会一致で可決され、議会は全権委任の挙国一致体制を承認した。 イギリス政府は、ドイツ軍のベルギー侵入を確認すると、外交交渉を諦め、8月4日にドイツに宣戦布告し、フランスへの英国遠征軍 (BEF) の派遣を決定した<ref>ドイツとの建艦競争と植民地を巡る対立から、ベルギーの中立に関わらずイギリスの参戦は不可避だったとの意見も存在するが、これは誤りである。[[ハーバート・ヘンリー・アスキス|アスキス]]首相の書簡により、もしドイツ軍がベルギーの南部だけに侵攻したならば参戦はしなかったが、全面侵攻により具体的な閣議の討論を伴い参戦を決意したことが確認されている。アスキスのこの書簡集(と言うより不倫相手に当てたラブレター集)は出版もされている。</ref>。また、1867年に自治領となっていた[[カナダ]]も、宗主国イギリスに倣い参戦した。同様に[[オーストラリア]]や[[ニュージーランド]]も参戦することとなる。 === 各国の対応 === [[大日本帝国|日本]]は[[日英同盟]]によりイギリスと同盟関係にあった。開戦に際して、イギリス政府からの要請を受け、連合国側として第一次世界大戦に参戦した。[[大隈重信]][[内閣総理大臣|首相]]は、イギリスからの派兵要請を受けると、[[御前会議]]にもかけない上に、議会における承認も軍統帥部との折衝も行わないまま、緊急会議において要請から36時間後には参戦を決定した。大隈の前例無視と軍部軽視は後に政府と軍部の関係悪化を招くことになる。 [[イタリア王国|イタリア]]は1882年にドイツ・オーストリア・イタリアから成る三国同盟を締結していたが、オーストリアとの領土問題からイギリス・フランスと接近し、1915年に連合国側に立ち参戦した。[[オスマン帝国|オスマントルコ]]は数度にわたる[[露土戦争]]においてロシアと対立関係にあり、中央同盟国に加わった。 北欧諸国は大戦中一貫して[[中立]]を貫いた。1914年12月18日[[スウェーデン]]国王[[グスタフ5世 (スウェーデン王)|グスタフ5世]]は、[[デンマーク]]、[[ノルウェー]]の両国王を招いて三国国王会議を開き北欧諸国の中立維持を発表した。これらの国はどちらの陣営に対しても強い利害関係が存在しなかった。スウェーデンにおいては親ドイツの雰囲気を持っていたが、これも伝統的政策に則って中立を宣言した。ただし[[ロシア革命]]後の[[フィンランド内戦]]において、スウェーデン政府はフィンランドへの義勇軍派遣を黙認している。 [[アメリカ合衆国]]は当時[[モンロー主義]]を掲げ、交戦国との同盟関係は無かった。さらに開戦時にアメリカは中米諸国において[[メキシコ革命]]に介入するなど軍事活動を行っていたため、当初は中立を宣言していた。政府のみならず、国民の間にも[[孤立主義]]を奉じる空気が大きかった。大戦中には両陣営の仲介役として大戦終結のための外交も行なっていた。しかし後に[[ルシタニア号事件]]やドイツの無差別潜水艦作戦再開、[[ツィンメルマン電報]]事件を受け、世論ではドイツ非難の声を高まり、1917年に連合国側に立って参戦した。フランスやイギリスが敗北した場合に両国への多額の貸付金が回収できなくなることを恐れたとの見方もある。 以下は、[[第一次世界大戦-2]] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2007年12月26日 (水) 02:49。]     
前半は[[第一次世界大戦]]参照 === イタリア戦線 === {{main|イタリア戦線 (第一次世界大戦)}} [[イタリア王国|イタリア]]は名目上は1882年からドイツおよびオーストリアと[[三国同盟 (1882年)|三国同盟]]を締結していたが、いわゆる「[[未回収のイタリア]]」と呼ばれた[[ティロル|南チロル]]、[[イストリア]]、[[ダルマチア]]といったオーストリアとの領土問題を抱えており、仏伊通商条約を理由に局外中立を宣言していた。しかし1915年4月にイギリス・フランスの働きかけにより[[ロンドン協定]]に調印し、オーストリアへ宣戦布告した。 伊墺国境の山岳地帯という地形的有利を得たオーストリア軍に対し、貧弱な装備しか持たないイタリア軍は苦戦を強いられた。単調な作戦ばかりの[[ルイージ・カドルナ]]の指揮の拙さも手伝い、戦術的勝利を重ねながら決定的な勝利を得る事ができないでいた[[イタリア陸軍]]だったが、[[第四次イゾンツォの戦い]]でオーストリア軍に打撃を与えた(この時、オーストリア軍はドイツ軍に救援を要請している)のに続き、アジアーゴ攻勢の頓挫や[[ブルシーロフ攻勢]]の大敗によって弱体化していたオーストリア軍を破って[[ゴリツィア]]を占領した。イタリア軍の攻勢は既に崩壊しつつあったオーストリア軍を確実に追い詰めていき、[[第十一次イゾンツォの戦い]]でバインジッツァ高地を占領した。 しかし1917年秋、友軍の危機を救う必要があったドイツ軍は[[東部戦線 (第一次世界大戦)|東部戦線]]の状態が一段落ついたこともあり、オーストリア軍に[[突撃歩兵]]を含む援軍を派遣した。指揮権もオーストリア軍からドイツ軍へと移され、10月26日にドイツ軍指揮官[[オットー・フォン・ベロウ]]はロシアの[[ブルシーロフ攻勢]]を模倣した[[浸透戦術]]を用いて、イタリア陸軍に大打撃を与えた([[カポレットの戦い]])。これにより12マイル後方のタリアメント川に下がったイタリア軍は、新たな指揮官[[アルマンド・ディアズ]]と英仏の支援の元に戦線を建て直し、勢い付いたオーストリア軍を[[ピアーヴェ川の戦い]]で破って進軍を押しとどめた。ディアズは[[ヴィットリオ・ヴェネトの戦い]]でオーストリア軍との戦いに決着を付ける。 カポレットの戦いの後、連合国側はイタリアの[[ラパッロ]]で会談した。其処でそれまでの個別の戦争指導を改め、ヴェルサイユに連合国最高会議を設立して各国の状況を考慮しながら統一された戦争計画を推進する事を決めた。 === 東部戦線 === ==== ロシアの撤退とルーマニアの敗北 ==== {{main|東部戦線 (第一次世界大戦)}} [[画像:Russian Troops NGM-v31-p372.jpg|thumb|220px|戦場へ向かうロシア近衛兵]] 西部戦線が塹壕線で膠着した頃、東部戦線では流動的な状況が続いていた。緒戦でロシア軍はオーストリア領[[ガリツィア]]およびドイツ領[[東プロイセン]]へ進攻したが、東プロイセンでは[[タンネンベルクの戦い (1914年)|タンネンベルクの戦い]]でドイツ軍に大敗した。ロシアの遅れた経済と軍事組織では、ドイツとオーストリアとを足し合わせた国力に対抗できないことが露呈した。1915年春、ロシア軍はガリツィアから撤退した。独墺軍は5月にポーランドの南国境で[[ゴルリッツ突破戦]]を実施し、著しい前進を達成した。独墺軍は8月5日に[[ワルシャワ]]を占領、ロシア軍は[[ポーランド]]全土を放棄した。これは「大撤退」とも呼ばれる。 1916年6月、ロシア軍は東ガリツィアにおいて[[浸透戦術]]を用いた[[ブルシーロフ攻勢]]を実施し、オーストリア軍に大損害を負わせた。しかし勝利した戦区の指揮官を支援することに他の将軍が躊躇したために戦果を拡大させることはできなかった。ブルシーロフ攻勢の成功を見て、8月にルーマニアが連合国側に立って参戦した。しかし弱体なルーマニア軍は短期間のうちに撃破され、12月6日に[[ブカレスト]]が中央同盟軍に落ちた。 ==== セルビアの敗北とテッサロニキ戦線の開拓 ==== セルビアは1914年8月から12月における3回のオーストリア軍の侵攻を防いでいた。1915年9月、[[ブルガリア]]が中央同盟国側に立った参戦を確約したことで、中央同盟国はセルビアへの攻勢を計画した。10月、ドイツ軍が[[ドナウ川]]を渡河し[[ベオグラード]]に突入、ブルガリア軍が南部国境を突破した。セルビア軍と国王は[[アルバニア]]と[[ギリシア]]への逃亡を余儀なくされた。 セルビア軍の敗北の末、英仏軍は[[テッサロニキ]]へ上陸してセルビア軍を支援するとともに、ギリシア政府に対して連合国側に立って参戦するよう圧力を掛けた。特にフランス軍はギリシャの中立を無視し、ギリシャの[[コールフ島]]を占拠して、新たに戦線を開げた。これは[[テッサロニキ戦線]]と呼ばれていた。1915年から1918年にかけて、イギリス、フランスおよびロシアとセルビアの残軍はこのところでブルガリアと対峙していた。1917年4月~6月、イギリス軍はブルガリアに対する攻撃に失敗したものの、ギリシャが協商国側で参戦し、協商国側は有利になった。 1918年、連合軍の総攻撃に伴い、兵力が足りないドイツ軍は連合軍に降伏した。既に戦争遂行能力に問題のあったブルガリアでは国内で反乱が起き、民衆の間で戦争をやめる掛け声が高まりつつあった。停戦が宣言されるまで反乱は止まらなかった。敗戦後の混乱で、当時ブルガリア王であった[[フェルディナンド1世]]は英仏の圧力を受け、退位しなければならなかった。 ==== ロシア革命 ==== [[画像:Soviet Union, Lenin (55).jpg|right|thumb|220px|[[10月革命]]における[[ウラジーミル・レーニン]]<br />[[ペトログラード]] 1917年]] {{main|ロシア革命}} 戦争が長期化するにつれて、ロシア政府の戦争指導に対し、兵士と民衆の不満が増大した。皇帝ニコライ2世は内政不安についての現状認識が欠けたままであり、皇后[[アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ2世皇后)|アレクサンドラ]]の政治はさらに無能だった。こうして各方面から抗議が巻き起こり、1916年末に保守的な貴族によりアレクサンドラの寵臣[[グリゴリー・ラスプーチン]]が[[暗殺]]される事態に至る。 1917年3月、首都ペトログラード(現在の[[サンクトペテルブルク]])で起こった[[デモンストレーション|デモ]]が拡大し、ニコライ2世は遂に退位を宣言、中道派[[臨時政府 (ロシア)|臨時政府]]が成立した。だが戦線と国内の両方で手の付けられない大混乱が続いた。[[ウラジーミル・レーニン]]が指導する急進的な左翼[[ボリシェヴィキ]]党は、こうした混乱を権力を獲得するために戦略的に使用した。10月24日、ボリシェヴィキは武力行動を開始。ペトログラードの要所を制圧し、臨時政府を打倒した。 12月、ボリシェヴィキ政府は中央同盟国との休戦交渉を開始した、初めボリシェヴィキ政府はヨーロッパの労働者の蜂起を当てにして中央同盟国が出した条件を拒絶した。そうしている間に、1918年2月にボリシェヴィキと対立していた[[ウクライナ国民共和国]]が中央同盟国と結び、中央同盟軍が戦争を再開、瞬く間に全[[ウクライナ]]を奪回した。窮地に立たされたボリシェヴィキ政府は3月3日に[[ブレスト=リトフスク条約]]に同意した。それは戦争を終結させる代わりに、中央同盟国へフィンランド、[[バルト三国|バルト地方]]、ポーランドおよびウクライナを含む広大な領土を割譲するという厳しい内容だった。 ==== シベリア出兵 ==== {{main|シベリア出兵}} ロシアが戦争から離脱したことで、日本、イギリス、アメリカをはじめとする連合軍は、革命政府に対抗する皇帝派を支援するため、革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出することを口実にロシアへ出兵した。連合軍は[[バレンツ海]]に面した[[アルハンゲリスク]]と、太平洋側の[[ウラジオストク]]に上陸した。出兵は第一次世界大戦の終結後も継続され、1925年の日本軍の北[[樺太]]撤収を最後に終了した。 === 終盤戦 === {{main|西部戦線 (第一次世界大戦)}} ==== アメリカ参戦 ==== [[画像:World War I 1918 05.png|right|300px|thumb|'''1918年5月時点の両陣営''' 連合国(緑)、連合国の植民地・占領地域(薄緑)、同盟国(橙)、同盟国の植民地・占領地域(肌色)]] [[画像:USA bryter de diplomatiska förbindelserna med Tyskland 3 februari 1917.jpg|thumb|right|220px|[[ウッドロウ・ウィルソン|ウィルソン]]大統領の演説<br />ドイツのとの外交関係断絶を発表している]] [[画像:British 55th Division gas casualties 10 April 1918.jpg|thumb|220px|right|[[毒ガス]]の被害を受けたイギリス兵<br />[[フランドル|フランダース]] 1918年]] [[アメリカ合衆国]]は長い間[[モンロー主義]]に基づき、ヨーロッパでの国際紛争には関与しない孤立主義を取っていた。しかし1917年の初めにドイツが[[無制限潜水艦作戦]]を再開したこと、さらに[[ツィンメルマン電報]]事件が発覚したことで、ドイツに対する世論の怒りが湧き上がり国交断絶に至った。さらに大統領[[ウッドロウ・ウィルソン]]は連邦議会へ対ドイツ宣戦を要請し、上院は82対6、下院は373対50をもってこれを決議、1917年4月6日にアメリカはドイツへ宣戦布告した。ウィルソンは、オーストリアとは別途平和を保ちたいと考えたが、オーストリアはドイツとの関係を捨てなかったため、アメリカは1917年12月にオーストリアに対しても宣戦布告した。 [[アメリカ陸軍]]と州兵はメキシコの「山賊」[[パンチョ・ビリャ]]を追いかけるために、既に1916年に戦時体制を取っており、それが動員を速めるのに役立った。アメリカ海軍は連合国艦隊に参加するため大西洋各地に艦隊を送った。しかしアメリカが西部戦線へ陸軍兵力を送り込むことが可能になるまでには時間が必要だった。英仏はアメリカ軍の歩兵を英仏軍部隊へ分散させて配属させることを主張したが、アメリカ遠征軍指揮官[[ジョン・パーシング]]将軍はこれを承諾しなかった。だが、パーシングは英仏軍ではとうに使われなくなっていた正面攻撃戦術に固執し、結果としてアメリカ軍は1918年夏と秋の作戦で非常に高い死傷率を経験した。 ==== ドイツ軍の春季攻勢 ==== ドイツ軍は、ボリシェヴィキ政府と講和したことで、東部戦線から西部戦線へ部隊を転進させることができるようになった。西部戦線へ送り込まれるドイツ軍の増援と、新しく連合軍に加わるアメリカ軍とによって、戦争の最終結果は西部戦線で決定されることになった。皮肉なことではあるが、[[ブレスト=リトフスク条約]]で中央同盟国が占領した領土が小さかったなら、ドイツ軍はより多くの兵力を西部戦線へ投入でき、戦争の結末も違っていたかもしれない。 ドイツ参謀次長[[エーリヒ・ルーデンドルフ]]は、アメリカ軍の到着により、これ以上長引く戦争に勝利することはできないことを悟っていた。更に、戦争の長期化によりヨーロッパ全土で社会崩壊と革命の可能性が高まることを恐れるようになった。しかし、東部戦線からの増援と新しい歩兵戦術の使用により、西部戦線での迅速な攻勢によって決定的な勝利を得ることに大きな望みを賭けていた。作戦は英仏両軍の中間に攻勢をかけて分断し、イギリス軍を北に圧迫して[[ドーバー海峡]]へと追いやることを目標としていた。決定的な勝利を得るために、浸透戦術の徹底、航空機の活用、詳細な砲撃計画、[[毒ガス]]の大規模な使用が図られた。 1918年3月21日、[[1918年春季攻勢]]の緒戦である[[ミヒャエル作戦]]が発動された。ドイツ軍は英仏両軍の間隙を突くことに成功し、8日間の戦闘により65キロもの前進に成功した。パリ東方100キロに到達したドイツ軍は、1914年以来初めてパリを砲撃の射程圏内に収めた。3門の[[クルップ]]製超大型[[列車砲]]がパリに183発の砲弾を撃ち込み、多くの市民がパリから脱出した。ヴィルヘルム2世は3月24日を国民の祝日であると宣言した。ドイツ人の多くが勝利を確信した。 ==== 連合軍の最終攻勢 ==== ドイツ軍の攻勢を受けて、英仏両軍は指揮系統の統一に同意し、総司令官として[[フェルディナン・フォッシュ]]が任命された。フォッシュによる巧みな戦線の再構築によってルーデンドルフが意図していた突破の可能性は消滅し、従来と同様の消耗戦の様相を呈してきた。5月にはアメリカ軍師団が初めて前線に投入され、夏までには毎月30万人の兵士がアメリカから輸送された。総兵力210万人のアメリカ軍の登場によって、それまで均衡を保っていた西部戦線に変化が生じた。 フォシュはドイツ軍の攻勢によって[[マルヌ]]付近に形成された突起部に対する攻撃を企画し、7月に[[第二次マルヌ会戦]]が発生した。攻撃はこれまでに見ない成功を収め、翌8月には突起部が解消された。この戦闘が終了した2日後には[[アミアンの戦い]]が開始され、600輌以上の戦車と800機の飛行機を使用したこの戦闘では全前線において前線突破に成功し、ヒンデンブルクはこの8月8日をドイツ軍にとり最悪の一日と称することになった。9月になると[[ジョン・パーシング]]に率いられたアメリカ軍が50万以上の兵力を投入した[[サン・ミッシェルの戦い]]が開始された。これに続いてアメリカ軍は10個師団を投入して[[ムーズ・アルゴンヌ攻勢]]を実施した。 === 戦争終結 === ==== ドイツ革命 ==== {{main|ドイツ革命}} ドイツでは人的資源が枯渇し、経済的、社会的な混乱は頂点に達していた。[[反戦運動]]は頻繁に発生し、陸軍の士気は低下した。工業生産は1913年に比べて53パーセント落ちていた。ドイツに敗北が切迫しているというニュースはドイツ軍全体に広がった。海軍提督[[ラインハルト・シェア]]とルーデンドルフは、艦隊を出撃させて起死回生を図ることとしたが、出撃の情報がキール軍港の水兵まで届くと、水兵の多くは非公式の外出をとった。つまり自殺の企て以外の何ものでもないとしか思えない攻撃に参加することを拒絶したのだった。10月26日にヴィルヘルム2世はルーデンドルフを解任した。 しかしながらルーデンドルフは、1918年9月の終わりから、帝国議会のメンバー、特に[[マティアス・エルツベルガー]]が率いる与党中道派、リベラル派と社会民主党に権力を委譲していた。ルーデンドルフ自身は伝統主義的保守主義者だったが、彼はドイツを民主化する新しい改革を提起することによって、皇帝の統治を継続することができ、ロシアで見られたような[[社会主義]]革命の危険性を減らすと信じた。 社会民主党の[[マックス・フォン・バーデン]]公爵が責任者になり、和平交渉が彼の所掌下に置かれた。フォン・バーデンは立憲君主制か帝政の完全な廃止かの間で迷っていたが、1918年11月9日に[[フィリップ・シャイデマン]]が[[国会議事堂 (ドイツ)|帝国議事堂]]の最上階のバルコニーからドイツを[[共和国]]であると宣言すると、フォン・バーデンは、皇帝自身が心を決める前に、皇帝が退位する予定だと発表した。帝制は崩壊し、新しいドイツが生まれた。これが[[ヴァイマル共和政|ワイマール共和国]]である。 ==== 休戦協定 ==== 中央同盟国の中で最初に[[休戦協定]]に署名したのはブルガリアだった(1918年9月29日)。トルコは10月30日に降伏した。オーストリアとの休戦は11月4日午後3時に発効した。オーストリアとハンガリーは、ハプスブルグ体制の崩壊の時点で既に、別々の休戦協定に署名していた。 ドイツでは11月9日に共和国の成立が宣言され、ドイツ帝国は終わりを迎えた。翌日ヴィルヘルム2世は[[オランダ]]へ亡命した。11月11日にパリ郊外[[コンピエーニュの森]]に置かれた[[国際寝台車会社#食堂車2419D|食堂車2419D]]の車内において、ドイツは連合軍との休戦協定に署名し、11月11日午前11時に軍事行動は停止された<ref>この日を各国では「休戦記念日」と呼び祝っている。</ref>。公式には戦争は[[ヴェルサイユ条約]]の締結により終わった。 == 日本の参戦 == [[画像:Destroyer Sakaki.jpg|thumb|220px|地中海でイギリスの輸送船トランシルバニア号の乗務員を救出した日本海軍の駆逐艦「榊」]] {{main|第一次世界大戦下の日本}} 日本は[[日英同盟]]に基づいて連合国の一員として参戦し、陸軍はドイツが権益を持つ[[中華民国]][[山東省]]の[[租借地]][[青島]]を攻略、海軍は[[南洋諸島]]を攻略した他、1917年には[[インド洋]]と[[地中海]]で連合国側商船の護衛と救助活動を行った。またロシア革命後の1919年に[[シベリア出兵]]を実施した。 これらの数多くの実績により、大日本帝国も連合国の5大国の一国として[[パリ講和会議]]に参加し、[[パラオ]]や[[マーシャル諸島]]などの、それまでドイツが支配下に置いていた[[赤道]]以北の南洋群島を[[信託統治]]領として譲り受けるとともに、[[国際連盟]]の[[常任理事国]]となった。 戦時下においては陸海軍とも国際法を遵守し、ドイツ軍[[捕虜]]を丁重に扱った。青島で捕獲した捕虜約4,700名は[[徳島県]]板東など12か所の収容所に送られたが、特に板東捕虜収容所での扱いはきわめて丁寧で、ドイツ兵は地元住民との交流も許され、ドイツ料理や[[ビール]]をはじめ、数多くのドイツ文化が日本人に伝えられた。[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーベン]]の「[[交響曲第9番 (ベートーヴェン)|交響曲第9番]]」はこのときドイツ人捕虜によって演奏され、はじめて日本に伝えられた。<!-- 加筆される方へ。記事[[第一次世界大戦下の日本]]があります。瑣末な内容はそちらへ加筆してください--> == 影響 == === 犠牲者 === {{右| [[画像:Ruins ypres.jpg|thumb|220px|戦争で破壊されたベルギーのイープルの町]] [[画像:Council of Four Versailles.jpg|thumb|220px|左から[[デビッド・ロイド・ジョージ|ロイド・ジョージ]]、[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド]]、[[ジョルジュ・クレマンソー]]、[[ウッドロウ・ウィルソン]]]] }} 古い思想の戦争のまま始められた第一次世界大戦は、開戦当時には予想もしなかった結果をもって終了した。長期にわたった戦争は膨大な犠牲者を生み出した。戦闘員の戦死者は900万人、非戦闘員の死者は1,000万人、負傷者は2,200万人と推定されている。国別の戦死者はドイツ177万人、オーストリア120万人、イギリス91万人、フランス136万人、ロシア170万人、イタリア65万人、アメリカ13万人に及んだ。またこの戦争によって、当時流行していた[[スペイン風邪]]が船舶を伝い伝染して世界的に猛威をふるい、戦没者を上回る数の病没者を出した。 これまでの戦争では、戦勝国は戦費や戦争による損失の全部または一部を敗戦国からの[[戦争賠償|賠償金]]によって取り戻すことが普通だったが、第一次世界大戦による損害はもはや敗戦国に負わせられるようなものではなかった。しかしながら、莫大な資源・国富の消耗、そして膨大な死者を生み出した戦争を人々は憎悪し、敗戦国に過酷な条件を突きつけることとなった。 === ヴェルサイユ体制 === 第一次世界大戦は、ヨーロッパの[[君主制]]の消滅をもたらし、旧世界秩序を決定的に破壊した。[[ドイツ帝国]]、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]、[[オスマン帝国]]、そして[[ロシア帝国]]の4つの帝国が分解した。[[ホーエンツォレルン家]]、[[ハプスブルク家]]、[[オスマン家]]、そして[[ロマノフ家]]の4つの王家は中世以来の権力を持っていたが、この戦争中か戦後に没落した。またこの戦争は、[[ボリシェヴィキ]]が[[ロシア革命]]を起こす契機となり、20世紀に[[社会主義]]が世界を席巻する契機となった。 [[1919年]]に[[パリ講和会議]]が始まる。ドイツでは皇帝家である[[ホーエンツォレルン家]]を始めすべての王侯貴族が追放された。また[[ヴェルサイユ条約]]により巨額の[[戦争賠償|賠償金]]を課せられたために激しい[[インフレーション]]が引き起こされた。さらに条約によりドイツ人が居住する領土を割譲させられたことで、[[ルール問題]]、[[ズデーテン]]問題、[[ポーランド回廊]]問題が発生した。これらの問題は[[第二次世界大戦]]の直接の原因となった。 オーストリアでも600年以上に渡って君臨してきた[[ハプスブルク家]]が追放された。[[多民族国家]]だったオーストリアは、[[サン=ジェルマン条約]]により、[[民族自決]]の大義のもと旧帝国内の地域がこぞって独立、従来の4分の1にまで領土を減らされ小国に転落した。[[中央ヨーロッパ]]には新しい国家[[チェコスロバキア]]と[[ユーゴスラビア]]が生まれ、[[ポーランド]]が復活した。 [[オスマン帝国|オスマントルコ]]は[[セーヴル条約]]により多くの領土を減らされた。この時イギリスがアラブ人と[[ユダヤ人]]の双方にパレスチナでの国家建設を約束したことが後の[[パレスチナ問題]]につながってゆく。オスマントルコは講和締結をめぐる論争の中で崩壊し、近代民主主義国家[[トルコ]]が誕生した。[[ギリシャ]]とトルコの[[希土戦争 (1919年-1922年)|希土戦争]]は[[1924年]]に終わるが、これが第一次世界大戦に直接起因する最後の戦争である。旧オスマン帝国の崩壊は現代につながる国際紛争の原因を生み出した。アラブ諸国と[[イスラエル]]の衝突、[[キプロス]]を巡るギリシャとトルコの対立、1980年代の[[イラン・イラク戦争]]、1990年代の[[湾岸戦争]]と[[ユーゴスラビア紛争]]、そして21世紀の[[イラク戦争]]である。 === 国際平和への努力 === 第一次世界大戦による災厄の巨大さを目の当たりにしたことで、国際社会では厭戦感が広がった。戦後の国際関係においては平和協調が図られた。1920年にウィルソン大統領の提唱により人類史上初の国際平和機構である[[国際連盟]]が設立され、1925年には[[ロカルノ条約]]、1928年には主要国間で[[不戦条約]](ケロッグ=ブリアン協定)が締結された。 しかしながら、これら国際平和のためのさまざまな努力もむなしく、第一次世界大戦の原因と結果をめぐる多くの戦後処理の失敗と、[[世界恐慌]]による経済危機により、[[共産主義]]がさらに勢力を得て、それに伴い[[イタリア]]では[[ファシズム]]が、[[ドイツ]]では[[ナチズム]]が台頭する。戦争終結のわずか20年後、人類史上類のない被害をもたらす世界大戦が再び繰り返されるのである。 == 年表 == [[画像:Dump of 18 pounder shell cases.jpg|thumb|200px|第一次世界大戦ではそれまでの戦争とは比較にならないほど大量の弾薬が消費された<br />ソンム 1916年]] [[画像:1915-1916 - Femme au travail dans une usine d'obus.jpg|thumb|200px|工場で弾薬を作る労働者<br />銃後では女性や子供も戦争に動員された]] [[画像:UncleSamwantsYouforarmy.jpg|thumb|200px|アメリカ陸軍の募兵ポスター<br />欧州における悲惨な戦状が伝えられているにも関わらず多くの若者が入隊した。<br>ポスターの人物は[[アンクル・サム]]。]] [[画像:High Wood cemetery, France.jpg|thumb|200px|フランスのハイ・ウッド・セメトリー<br />イギリスでは赤い[[ヒナゲシ|ポピー]]が第一次世界大戦における犠牲の象徴とされている]] ;1914年 * [[6月28日]] - [[ボスニア]]で[[サラエボ事件]]発生 * [[7月28日]] - [[オーストリア=ハンガリー帝国|オーストリア=ハンガリー]]が[[セルビア]]に宣戦布告 * 8月 - [[ロシア帝国|ロシア]]、[[ドイツ帝国|ドイツ]]、[[フランス]]、[[イギリス]]が参戦、[[タンネンベルクの戦い (1914年)|タンネンベルクの戦い]] *[[8月23日]] - [[大日本帝国|日本]]がドイツに宣戦布告 * 9月 - [[マルヌ会戦]] * 9月2日 - 日本軍がドイツ権益地の[[山東省]]に上陸 * 10月 - 日本軍がドイツ領[[南洋諸島]]攻略([[日独戦争]]) * 10月7日 - 山東省・済南攻略 * 11月 - [[オスマン帝国|オスマントルコ]]が参戦 * 11月7日 - ドイツ租借地青島を攻略([[青島の戦い]]) * 12月 - [[デンマーク]]、[[ノルウェー]]、[[スウェーデン]]が中立宣言 ;1915年 * 1月 - 日本が[[中華民国]]にいわゆる[[対華21ヶ条要求|21か条の要求]]を送付 * 4月 - [[イープルの戦い]]。ドイツ軍が[[毒ガス]]を初使用 * 4月 - [[ガリポリの戦い]](- 1916年1月) * 5月 - [[ルシタニア号事件]]、[[イタリア王国|イタリア]]が[[オーストリア=ハンガリー帝国|オーストリア=ハンガリー]]に宣戦布告 * 10月 - [[ブルガリア王国 (近代)|ブルガリア王国]]が[[セルビア]]に宣戦布告 ;1916年 * 2月 - [[ヴェルダンの戦い]] * 5月 - [[ユトランド沖海戦]] * 7月 - [[ソンムの戦い]] ;1917年 * ドイツ海軍が[[無制限潜水艦作戦]]を開始。日本の駆逐艦隊が[[地中海]]に派遣 * 3月 - [[ロシア革命]]([[2月革命 (1917年)|2月革命]])。[[暫定政府 (ロシア革命)|暫定政府]]設立 * 4月 - [[アメリカ合衆国|アメリカ]]参戦 * 11月 - [[ロシア革命]](10月革命)。[[ボリシェヴィキ]]が権力を掌握 * 11月26日 - [[フィンランド]]独立宣言 ;1918年 * 1月 - フィンランドで[[赤軍|赤衛軍]]と[[白衛軍]]による[[フィンランド内戦]]が発生 * 3月 - [[ブレスト=リトフスク条約]]締結。ロシア[[ボリシェヴィキ]]政権が同盟国側と単独講和 * 8月 - チェコ軍団救出を名目として[[シベリア出兵]]開始。[[ロシア内戦]]の激化 * 9月 - ブルガリアが降伏 * 10月 - オスマントルコが降伏 * 11月3日 - ドイツの[[キール (都市)|キール]]軍港で水兵の反乱が発生。[[ドイツ革命]]の開始 * 11月4日 - オーストリア降伏 * 11月10日 - [[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]が退位。[[オランダ]]へ亡命 * [[11月11日]] - コンピエーニュにおいてドイツ軍と連合国軍との間の[[休戦協定]]成立。 ;1919年 * [[1月28日]] - パリ講和会議開会。 * [[6月28日]] - [[ヴェルサイユ条約]]調印。第一次世界大戦終結。 * 9月19日 - サンジェルマン条約(対オーストリア講和条約)調印。 * 11月27日 - ヌイイ条約(対ブルガリア講和条約)調印。 ;1920年 * [[1月10日]] - ヴェルサイユ条約発効。[[国際連盟]]発足。 * 6月4日 - トリアノン条約(対ハンガリー講和条約)調印。 * 8月21日 - [[セーヴル条約]](対トルコ講和条約)調印。トルコ議会、批准を否決。 == 第一次世界大戦を題材とした作品 == === 小説 === * [[アンリ・バルビュス]] 『砲火』(1916) * [[エルンスト・ユンガー]] 『鋼鉄の嵐の中で』(1920) * [[エーリッヒ・マリア・レマルク]] 『[[西部戦線異状なし]]』(1929) * [[アーネスト・ヘミングウェイ]] 『[[武器よさらば]]』(1929) <!--**ちなみにヘミングウェイは第一次世界大戦アメリカ軍の最初の負傷者であった{{要出典}} 根拠がなければ信用できない--> === 映画 === * 『[[担へ銃]]』 1918年アメリカ、監督・主演・脚本[[チャーリー・チャップリン|チャールズ・チャップリン]]<br /><small>チャップリンの代表的な[[サイレント映画|無声映画]]。内容はコミカルだが、塹壕での日常生活を詳細に描いている。<!-- この頃のチャップリンはドイツとの戦争は正しいものと考えており、戦時国債の購入を勧める[[プロパガンダ]]映画などを製作している。後年に製作された『[[独裁者 (映画)|独裁者]]』と見比べてみるのも面白い。 --></small> * 『[[西部戦線異状なし (映画)|西部戦線異状なし]]』 1930年アメリカ、監督[[ルイス・マイルストーン]]、主演[[リュー・エアーズ]]<br /><small>[[エーリッヒ・マリア・レマルク]]の同名小説を映画化。世界最初の反戦映画とも呼ばれており、日本で初公開された時は検閲で多数の場面が削除された。この年の[[アカデミー賞]]で作品賞など二部門受賞している。なお、主人公が狙撃される有名なラストシーンは原作には存在しない映画オリジナルのものである。</small> * 『[[武器よさらば]]』 1932年アメリカ、監督[[フランク・ボーゼイジ]]、主演[[ゲイリー・クーパー]]、1957年アメリカ、監督[[チャールズ・ヴィダー]]<br /><small>1929年に発表された[[アーネスト・ヘミングウェイ]]の同名小説を映画化。第一次世界大戦のイタリアを舞台に、アメリカ人のイタリア兵フレデリック・ヘンリーとイギリス人看護婦キャサリン・バークレイとの恋を描く。ヘミングウェイ自身のイタリア北部戦線での従軍記者としての体験をもとにしている。</small> * 『[[大いなる幻影]]』''La Grande Illusion'' 1937年フランス、監督[[ジャン・ルノワール]]、主演[[ジャン・ギャバン]]<!-- <br /><small>第一次大戦版「[[大脱走]]」とも言える作品だが、まだまだ汎欧州的な貴族文化が色濃く残る。[[エリック・フォン・シュトロハイム]]扮するドイツ貴族の捕虜収容所長が、[[ピエール・フレネー]]扮するフランス貴族飛行隊長に、「この戦争どちらが勝っても、我々貴族は滅びます」と語るのが印象的(シュトロハイム自身貴族で、貴族主義の信奉者として監督作品も多い)。折りしも[[ナチス・ドイツ]]台頭の時期にしては危機感に欠けた内容を、文化大国フランスの器の大きさととるか、[[ナチス・ドイツのフランス侵攻]]で大敗した原因ととるかは意見の分かれるところだろう。</small> --> * 『[[突撃 (映画)|突撃]]』 1957年アメリカ、監督[[スタンリー・キューブリック]]、主演[[カーク・ダグラス]] * 『[[アラビアのロレンス (映画)|アラビアのロレンス]]』 1962年イギリス、監督[[デヴィッド・リーン]]、主演[[ピーター・オトゥール]]<br /><small>主人公の[[トーマス・エドワード・ロレンス|トマス・エドワード・ロレンス]]はイギリスの情報部員将校としてアラブ義勇軍と行動を共にした。アラブ独立を約束したにもかかわらず、イギリスは秘密裏にフランスと[[サイクス・ピコ協定]]を締結。戦後中東地域は列強により分割され、アラブ世界の独立を願ったロレンスの夢は裏切られた。</small> * 『[[青島要塞爆撃命令]]』 1964年日本(東宝)<br /><small>青島のビスマルク要塞を攻撃する草創期の日本海軍航空隊を描く。</small> * 『[[ジョニーは戦場へ行った]]』 1971年アメリカ、監督[[ダルトン・トランボ]]、主演[[ティモシー・ボトムズ]] * 『[[誓い (映画)|誓い]](原題:ガリポリ)』 1982年オーストラリア、監督[[ピーター・ウィアー]]、主演[[メル・ギブソン]]<br /><small>オーストリア軍の兵士として戦争に参加した2人の若者の姿を通じて、ガリポリ戦線における悲劇を描く。</small> * 『[[ザ・トレンチ―塹壕―]]』 1999年イギリス<br /><small>[[ソンムの戦い]]での塹壕戦を描く。</small> * 『[[ロング・エンゲージメント]]』 2004年フランス、監督[[ジャン=ピエール・ジュネ]]、主演[[オドレイ・トトゥ]]<br /><small>西部戦線での塹壕戦の様子がリアルに描かれる。</small> * 『[[戦場のアリア]]』 2005年フランス・ドイツ・イギリス合作<br /><small>大戦中のクリスマスイブ、フランス前線各地にて「クリスマス休戦」が行われたという。</small> * 『[[バルトの楽園]]』 2006年日本(東映)<br /><small>板東俘虜収容所でのドイツ兵と地元住民との交流を描く。</small> * 『[[フライボーイズ]]』 2006年アメリカ、監督[[トニー・ビル]]、主演[[ジェームズ・フランコ]]、[[ジャン・レノ]]<br /><small>アメリカがまだ中立の立場を崩さない中、自らの意思でフランス軍に参戦したアメリカ青年たちの実話を元に、70億円の制作費を投じて描かれたフライトアクション。</small> == 脚注 == {{reflist}} == 参考文献 == * [[ジェームズ・ジョル]]([[池田清]]訳)『第一次大戦の起原』(みすず書房、1997年)ISBN 462203378X * ジェームズ・ジョル(池田清訳)『ヨーロッパ100年史 1』(みすず書房、1975年)ISBN 4622016990 * [[バーバラ・タックマン]](山室まりや訳) 『八月の砲声 上・下』(筑摩書房、2004年)ISBN 4480088679 * [[リデル・ハート]](上村達雄訳)『第一次世界大戦 上・下』(中央公論新社、2001年)ISBN 4120031004 * [[A・J・P・テイラー]](倉田稔訳)『目で見る戦史 第一次世界大戦』(新評論、1980年)ISBN 4794823215 * [[ピエール・ルヌーヴァン]](西海太郎編訳)『ドイツ軍敗れたり』(白水社、1987年)ISBN 4560029466 * 室潔『ドイツ軍部の政治史 1914~1933』(早稲田大学出版部、1989年)ISBN 4657890301 * [[江口朴郎]]『帝国主義の時代』(岩波書店、1969) * [[中山治一]]『新書西洋史7 帝国主義の展開』(講談社、1973年)ISBN 4061157175 * [[義井博]]『カイザーの世界政策と第一次世界大戦』(清水書院、1984年)ISBN 4389440489 * 関榮次『日英同盟 日本外交の栄光と凋落』(学習研究社、2003年)ISBN 4054020194 * 片岡覚太郎, C.W. ニコル『日本海軍地中海遠征記―若き海軍主計中尉の見た第一次世界大戦』(河出書房新社、2001年)ISBN 4309223729 * [[斎藤聖二]]『日独青島戦争 秘 大正三年日独戦史 別巻2』(ゆまに書房、2001年)ISBN 487802058 * ジェイ・マレイ・ウィンター(猪口邦子監修、小林章夫監訳)『20世紀の歴史13 第1次世界大戦・上 政治家と将軍の戦争』(平凡社、1990年)ISBN 4582495133 * ジェイ・マレイ・ウィンター(猪口邦子監修、深田甫監訳)『20世紀の歴史14 第1次世界大戦・下 兵士と市民の戦争』(平凡社、1990年)ISBN 4582495141 * 毎日ムック編集部『毎日ムック20世紀の記憶 第1次世界大戦 1914-1919』(毎日新聞社、1999年)ISBN 4620791156 * 歴史群像編集部『戦略・戦術・兵器詳解 図説・第一次世界大戦・上 1914-16 開戦と塹壕戦』(学習研究社、2008年)ISBN 9784056050233 * 歴史群像編集部『戦略・戦術・兵器詳解 図説・第一次世界大戦・下 1916-18 総力戦と新兵器』(学習研究社、2008年)ISBN 9784056050516 == 関連項目 == * [[バルカン戦争]] * [[イースター蜂起]] * [[ロシア内戦]] * [[ウクライナ内戦]] * [[バスマチ運動]] * [[シベリア出兵]] * [[ウクライナ・ソビエト戦争]] * [[ポーランド・ウクライナ戦争]] * [[ポーランド・ソビエト戦争]] * [[希土戦争 (1919年-1922年)|希土戦争]] * [[スペインかぜ]] * [[ラザール・ポンティセリ]] == 外部リンク == {{Commons&cat|World War I|World War I}} * [http://ww1.m78.com/ 第一次大戦] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月13日 (木) 12:37。]     

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