東郷茂徳

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{{日本の閣僚 | 氏名 =東郷茂徳 | 画像 =[[image:Shigenori Togo.jpg|200px]] | 説明 =東郷茂徳 | 職名 =[[外務大臣]] | 代数 =65、71 | 内閣 =[[東條内閣]]、[[鈴木貫太郎内閣]] | 任期 =1941年10月18日 - 1942年8月31日<br />1945年4月9日 - 8月16日 | 他政歴 =その他の政歴 | 生年 =[[1882年]][[12月10日]] | 生地 =[[鹿児島県]][[苗代川]]村 | 没年 =[[1950年]][[7月23日]] | 没地 =[[東京都]] | 政党 = | 資格 = | 職業 =[[外交官]]、[[政治家]] | 配偶 = |}} '''東郷 茂徳'''(とうごう しげのり、[[明治]]15年([[1882年]])[[12月10日]] - [[昭和]]25年([[1950年]])[[7月23日]])は[[日本]]の[[外交官]]、[[政治家]]。[[太平洋戦争]]開戦時及び終戦時の[[日本]]の[[外務大臣]]。 == 人物 == [[東条英機]]内閣で外務大臣兼[[拓務大臣]]として入閣して日米交渉にあたるが、日米開戦を回避する事は出来なかった。だが、早期講和への道を探るために敢えて辞職をしなかった。その後、[[大東亜省]]の設立に反対し、東条首相と対立したため外務大臣を辞職。 [[鈴木貫太郎]]内閣で外務大臣兼[[大東亜大臣]]として入閣。終戦工作に尽力して日本の本土決戦突入という凄惨な事態を回避する事が出来た。それにも関わらず戦後、開戦時の外相であったがために[[連合国]]側から戦争責任を問われ、[[A級戦犯]]として[[極東国際軍事裁判]]で禁錮20年の判決を受け、[[巣鴨拘置所]]に服役中に病没。遺著に『時代の一面』がある。 [[外務省]][[事務次官]]を務めた[[東郷文彦]]は女婿。元[[ワシントンポスト]]記者の[[東郷茂彦]]、元オランダ大使・[[外務省]][[欧亜局]]長の[[東郷和彦]]は双子の孫。 == 略歴 == * 明治15年([[1882年]]) [[鹿児島県]][[日置郡]][[苗代川]]村(後の下伊集院村。現在の[[日置市]]東市来町美山)で、陶工・朴寿勝の長男「朴茂德」として生まれる(誕生日は12月20日、12月10日、10月25日など諸説あり、戸籍上は12月10日) * 明治19年([[1886年]]) 父・朴寿勝が鹿児島城下士の東郷某の[[士族]]株を購入し、「東郷」を名乗る * 明治21年([[1888年]]) 下伊集院村立尋常高等小学校(現美山小学校)へ入学 * 明治29年([[1896年]]) 鹿児島県尋常中学校(現[[鹿児島県立鶴丸高等学校]])へ入学 * 明治34年([[1901年]]) [[第七高等学校造士館 (旧制)|第七高等学校造士館]]([[鹿児島大学]]の前身)へ入学 * 明治37年([[1904年]]) 東京帝国大学(現[[東京大学]])文科大学独逸文学科に入学 * 明治41年([[1908年]]) 東京帝国大学文科大学独逸文学科を卒業 * 明治42年[[1909年]]) [[明治大学]]にて、ドイツ語教師として勤務 * [[大正]]元年([[1912年]]) [[外交官]]及び領事館試験に5度目の挑戦で合格 * 大正2年([[1913年]]) 奉天総領事館領事官補 * 大正5年([[1916年]]) [[スイス]]・[[ベルン]][[公使館]]開設に伴い、外交官補として赴任 * 大正8年([[1919年]]) 対独視察団の一員として[[ベルリン]]へ赴任 * 大正10年([[1921年]]) 日本へ帰国、外務省欧米局一課事務官 * 大正11年([[1922年]]) ドイツ人エディ・ド・ラロンドと結婚 * 大正12年([[1923年]]) 外務省欧米局一課課長。主に対ソ交渉を担当。長女いせ誕生 * 大正15年([[1926年]]) 在米大使館主席書記官として[[ワシントンD.C.|ワシントン]]へ赴任 * 昭和4年([[1929年]]) 日本へ帰国後、満州へ出張、その後ドイツ大使館参事官として赴任 * 昭和7年([[1932年]]) 一般軍縮会議日本代表部事務総長として[[ジュネーヴ]]へ * 昭和8年([[1933年]]) 帰国、外務省欧米局長に就任(この年交通事故で全治1ヶ月の重傷を負う) * 昭和10年([[1935年]]) 北満鉄道をソ連から譲渡 * 昭和12年([[1937年]]) 駐独大使としてベルリンへ赴任 * 昭和13年([[1938年]]) [[駐在武官|駐独大使館付陸軍武官]][[大島浩]]が駐独大使に新たに任命され、駐独大使罷免。[[重光葵]]の後任駐ソ大使として、[[モスクワ]]へ赴任 * 昭和15年([[1940年]]) [[ノモンハン事件]]勃発後の捕虜交換、国境確定交渉を締結。[[ヴャチェスラフ・モロトフ]]ソビエト外相と日ソ中立条約の交渉を開始。[[第2次近衛内閣]]の外務大臣となった[[松岡洋右]]により帰朝命令が出され、日本に帰国 * 昭和16年([[1941年]]) [[東條内閣]]の外務大臣に就任。日米交渉決裂し、[[太平洋戦争]]開戦。[[日独伊単独不講和協定]]、[[日泰攻守同盟条約]]締結 * 昭和17年([[1942年]]) 大東亜省設置に反対し、外務大臣を辞任。[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員に任ぜられる(1942年[[9月1日]]-[[1946年]][[4月13日]])。 ** [[12月24日]]、[[無所属倶楽部]]([[院内会派]])入会。 * 昭和18年([[1943年]]) 長女いせと本城文彦が結婚、本城文彦が東郷家に入籍し[[東郷文彦]]となる 文彦は戦後外務事務次官や駐米大使を歴任する * 昭和20年([[1945年]]) [[鈴木貫太郎内閣]]の外務大臣兼大東亜大臣に就任。ポツダム宣言受諾により鈴木内閣が総辞職し、外務大臣を辞任 * 昭和21年([[1946年]]) 「[[A級戦犯]]」として指定され、巣鴨拘置所へ入獄 * 昭和23年([[1948年]]) 極東国際軍事裁判により、禁錮20年の判決が下る * 昭和25年([[1950年]]) 黄疸により米陸軍第361病院(現同愛記念病院)に入院。 ** 7月23日、動脈硬化性心疾患、及び急性胆嚢炎の併発により死去。67歳。墓所は[[青山霊園]] * 昭和53年([[1978年]])10月17日、「昭和殉難者」として[[靖国神社]]に合祀 [[豊臣秀吉]]の[[朝鮮出兵]]の際に[[島津義弘]]が連れかえった[[在日韓国・朝鮮人|朝鮮人陶工の子孫]]である。陶工達が集められた「[[苗代川]]」と呼ばれる地域では幕末まで朝鮮語が使われていたという。5歳のとき陶工及び陶芸品を売る実業家として財をなした父が士族株を買い朴茂徳から東郷茂徳となった。([[元帥 (日本)|元帥]]海軍大将の[[東郷平八郎]]とは血縁関係は無い) 旧制の第七高等学校より[[東京帝国大学]]独文科卒。ちなみに同じ鈴木内閣の農相だった[[石黒忠篤]]とは高校時代以来の親友であった。初めは[[登張信一郎]]の影響でドイツ文学者を志していたが、大正元年(1912年)に[[外務省]]に入省。欧亜局長や駐ドイツ大使及び駐ソ連大使を歴任する。 夫人はドイツ人のエディ・ド・ラロンド(建築家[[ゲオルグ・デ・ラランデ]]の未亡人。婚約後に「東郷エヂ」と改名)である。ドイツから帰国後反対する両親を説得し1922年[[帝国ホテル]]で挙式した。 東郷は剛直で責任感が強く、平和主義者である一方で現実的な視野を併せ持った合理主義者であったが、正念場において内外情勢の急転に巻き込まれて苦慮するケースが多かったと言える([[ノモンハン事件]]の解決などで軍部から高く評価される一方で、開戦終戦を巡るやりとりでは[[吉田茂]]らいわゆる「和平派」から批判を浴びている)。 == ドイツとの関わり == === ドイツ文学 === [[第七高等学校造士館 (旧制)|第七高等学校造士館]](現鹿児島大学)に赴任していた片山正雄に師事した事がきっかけで、東郷はドイツ文学への理解を深めていった。その後、東郷は[[東京帝国大学]](現東京大学)文科大学独逸文学科に進学し、また東郷の師である片山も学習院大学教授として赴任。片山は、自らの師でありドイツ文学者である登張信一郎を東郷に紹介し、三人で「三代会」を結成した。 明治38年([[1905年]])5月、大学の文芸雑誌『帝国大学』臨時増刊第二「シルレル記念号」に、[[フリードリヒ・フォン・シラー]]作『戯曲マリア・スチュアルト』(マリア・スチュアルトはスコットランド女王[[メアリー (スコットランド女王)|メアリー・ステュアート]]の事)を題材とし、東郷の唯一の文芸批評が掲載された。 === 二度のドイツ赴任 === 大正8年([[1919年]]) - 大正10年([[1921年]])に対独使節団の一員としてベルリンに東郷が赴任した際のドイツの状況は、[[第一次世界大戦]]敗戦後に成立した[[ヴァイマル共和政|ワイマール共和国]]下での、[[カップ一揆]]が勃発するなどの混乱期にあったが、日独関係は比較的安定した状態にあった。 また、東郷は後に夫人となるドイツ人、エディ・ド・ラロンドとこの赴任時に出会い、恋仲となる。 その後、昭和13年([[1937年]]) - 昭和14年([[1938年]])に駐独大使となった際には、[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]が勃興しており、状況は一変していた。対外的にはオーストリア、チェコスロバキアなどへ侵攻しつつある状態にあり、ドイツ国内的にはベルリンのユダヤ教会「シナゴーグ」が[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]によって焼き討ちされるなど、ユダヤ人迫害が顕在化しつつあった。 元々ドイツ文学に深く傾倒し、ドイツ文化に深い理解があった東郷は[[ナチス]]への嫌悪を感じざるを得ず、[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]と手を結びたい陸軍の意向を受けていたベルリン駐在陸軍武官[[大島浩]]や、日本と手を結びたい[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]の外交担当[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ]]と利害が対立し、駐独大使を罷免される。 == 日ソ中立条約の交渉 == 昭和13年(1938年)に東郷が駐ソ大使として赴任する前の状況は、昭和11年(1936年)に締結された[[日独防共協定]]の影響で日ソ関係は悪化しており、前任の[[重光葵]]が駐ソ大使として赴任している間ついに好転する事はなかった。その後、東郷と対する[[ヴャチェスラフ・モロトフ]]ソビエト外相とは、日ソ漁業協商や[[ノモンハン事件]]勃発後の交渉を通じていくうちにお互いを認めあう関係が構築され、東郷は「日本の国益を熱心に主張した外交官」として高く評価された。こうした状況の好転を踏まえ、東郷は悪化するアメリカとの関係改善、および泥沼化する[[日中戦争]]の打開のため、日本側はソビエトの[[蒋介石]]政権への援助停止、ロシア側は日本側の北樺太権益の放棄を条件とした[[日ソ中立条約]]の交渉が開始され、ほぼまとまりつつあった。 しかし、[[第2次近衛内閣]]が成立し、松岡洋右が外務大臣となると、北樺太の権益放棄に反対する陸軍の意向を受け、東郷には帰朝命令が出されてしまう。松岡は暗に東郷の外務省退職を求めるが、東郷は逆に「懲戒免職」を求めて相手にしようとはしなかった。 なお、その後に松岡が締結した[[日ソ中立条約]]は、[[日独伊三国同盟]]が成立してしまっていた事、北部[[仏印]]進駐によってアメリカの対日経済制裁が強まってしまっていた事、ソ連と[[ナチス]]ドイツとの関係が悪化した事などによって、当初東郷が意図していたようなアメリカとの関係改善には繋がらなかった。結果としてソ連がナチスドイツの侵攻に備えるための意味と日本の大陸での南進への間接的な援護との意味しか持たないものとなった。加えて、日本側の北樺太権益の放棄もない代わりに、ソ連側の[[蒋介石]]政権への援助停止も盛り込まれない内容となってしまった事により、東郷には不満が残る結果となった。 ちなみに外相経験もある[[元老]][[西園寺公望]]が、死の床で松岡によって東郷が駐ソ連大使を更迭されて、外務省から追われそうだという風説を聞いて、深く慨嘆したと言われている。 == 太平洋戦争(大東亜戦争) == === 開戦回避交渉 === 昭和16年([[1941年]])に[[東條内閣]]に外務大臣として入閣した東郷は、日米開戦を避ける交渉を開始した。まず北支・[[満州]]・[[海南島]]は5年、その他地域は2年以内の撤兵という妥協案「甲案」を提出するが、統帥部の強硬な反対と、アメリカ側の強硬な態度から、交渉妥結は期待できなかった。 このため、[[幣原喜重郎]]が立案し、[[吉田茂]]と東郷が修正を加えた案「乙案」が提出された。内容としては、事態を在米資産凍結以前に戻す事を目的とし、日本側の南部仏印からの撤退、アメリカ側の石油対日供給の約束、を条件としていたが、中国問題に触れていなかった事から統帥部が「アメリカ政府は日中和平に関する努力をし、中国問題に干渉しない」を条件として加え、[[来栖三郎 (外交官)|来栖三郎]]特使、[[野村吉三郎]]駐米大使を通じて、アメリカの[[コーデル・ハル]]国務長官へ提示された。 その後アメリカ側から提示された[[ハル・ノート]]によって、東郷は全文を読み終えた途端「目も暗むばかり失望に撃たれた」と述べ、開戦を避ける事ができなくなり、[[御前会議]]の決定によって[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])開戦となった。吉田茂は東郷に辞職を迫ったが、今回の開戦は自分が外交の責任者として行った交渉の結果であり、他者に開戦詔書の[[副署]]をさせるのは無責任であると考えた事、自分が辞任しても親軍派の新外相が任命されてしまうだけであると考えてこれを拒み、早期の[[講和]]実現に全力を注ぐ事になった。 === 真珠湾攻撃へ === 昭和16年(1941年)12月1日の御前会議において、[[昭和天皇]]から東條英機首相に対し、「最終通告の手交前に攻撃開始の起こらぬように気をつけよ」との注意があった。また、野村吉三郎駐米大使からも11月27日付発電で、「交渉打ち切りの意思表示をしないと、逆宣伝に利用される可能性があり、大国としての信義にも関わる」との意見具申があった。 このため東郷は、[[永野修身]]軍令部総長、[[伊藤整一]]軍令部次長ら、開戦の効果を大きくするために交渉を戦闘開始まで打ち切らない方針であった海軍側との交渉を開始。[[山本五十六]]連合艦隊司令長官も上京し、「無通告攻撃には絶対に反対」と表明したことなどから海軍側も事前通告に同意し、ワシントン時間7日午後1時(日本時間8日午前3時)に通告、ワシントン時間7日午後1時20分攻撃、とする事が決定した。 しかし、駐ワシントン日本大使館の事務上の不手際によって、当初予定より1時間20分遅れたワシントン時間7日午後2時20分通告([[真珠湾攻撃]]開始1時間後)となる大失態となった。 また一方、これらの日本側の状況をアメリカ側の首脳陣は「マジック」と呼ばれる暗号解読によって外交通電内容(交渉打ち切り)をほぼ把握していたが、アメリカ各地へ事態を知らせる警告は、至急手段を避けて行われていた。 このため、ワシントン時間午後1時20分に開始した真珠湾攻撃が、アメリカ側からは「卑劣極まりない奇襲」として、終戦後に東郷が[[極東国際軍事裁判]]で起訴される要因の一つとなった。しかし、法廷において東郷は、海軍は無通告で攻撃しようとしたことを強調し、軍に責任を擦り付けようとしていると反感を呼んだ。 東郷は開戦後も「早期講和」の機会を探るために外務大臣を留任したが、翌年の大東亜省設置問題を巡って東条首相と対立して辞任した。外務省と別箇に大東亜省を設置する事で、日本がアジア諸国を自国の[[植民地]]と同じように扱っていると内外から見られる事を危惧したことや「早期講和」に消極的な東条内閣に対する一種の[[倒閣]]運動であったと見るのが一般的であるが、一部には「外務省の省益を守っただけではないのか」という批判も無いわけではない。 === 終戦交渉 === 昭和19年([[1944年]])7月9日の[[サイパン島]]陥落にともない、日本の敗戦が不可避だということを悟り、世界の敗戦史の研究を始めた。獄中で認めた手記『時代の一面』には「日本の天皇制は如何なる場合にも擁護しなくてはならない。敗戦により受ける刑罰は致し方ないが、その程度が問題である。致命的条件を課せられないことが必要であり、従って国力が全然消耗されない間に終戦を必要と考えた」と記している。 昭和20年([[1945年]])に、「戦争の見透かしはあなたの考え通りで結構であるし、外交は凡てあなたの考えで動かしてほしいとの話であった」(『時代の一面』より)ということから、[[鈴木貫太郎]]内閣に外務大臣として入閣した東郷は、昭和天皇の意を受け終戦交渉を探った。当時、ヨーロッパでは既にドイツの敗北が必至の情勢まで悪化しており、アメリカが[[太平洋戦争]]へ戦力をさらに投入してくる事や、ソ連が東方進出してくる可能性があるなど、猶予のない状況となっていた。 このため、東郷は、当時はまだ完全に[[連合国]]側に組している訳ではなかったソ連を仲介して和平交渉を探るという方策を提案し、[[広田弘毅]]・マリク駐日ソ連大使との会談や、特使[[近衛文麿]]のソ連派遣打診などを行う。しかし当時ソ連は既に[[ヤルタ会談]]によって対日参戦を決定しており、交渉を[[ポツダム宣言]]発出以降も引き延ばされ、[[ソ連対日参戦|ソ連の対日参戦]]という結果となった。 アメリカの広島・長崎への[[原子爆弾]]投下、ソ連の対日参戦という絶望的な状況変化に伴い、東郷は[[ポツダム宣言]]受諾を主張。その際、受諾の為に日本側から申し入れる条件は「[[皇室]]の御安泰」のみにすべきと提案したが、陸軍は武装解除を自ら行う等の条件も盛り込むべきと主張したため、両者の言い分は平行線を辿った。そこで、天皇の御聖断を仰いだ結果、東郷案が認められた。 しかし、アメリカ側の回答は、天皇の地位は守られると解釈できる内容だったが、天皇が連合国最高司令官の権限に従属する事、そして日本政府の形態を日本国民の意思により決定する事、という項目もあった。この事から当初は、[[阿南惟幾]]陸軍大臣、[[梅津美治郎]]陸軍大将など[[本土決戦]]を求める陸軍側のみならず、内閣の面々からも反発の声が挙がった。一部の陸軍強硬派がクーデターを企てるなど不穏な情勢になるのを懸命に抑えていた部分もあったため、東郷はこうした陸軍上層部の人々の置かれている状況に配慮しつつ、粘り強く説得した。 その後、昭和天皇が二度目の御聖断として東郷支持を表明した事により、陸軍の一部強硬派も折れ、終戦を迎える事となった。 == 極東国際軍事裁判と東郷 == 戦争終結後、東郷は[[東久邇宮内閣]]に外相として留任するよう要請されたが、「戦犯に問われれば、新内閣に迷惑がかかる」として依頼を断り、妻と娘のいる[[軽井沢]]の[[別荘]]に隠遁した。しかし、「真珠湾の騙し討ちの責任者」という疑惑を連合国側からかけられて、9月11日に東条元首相とともに真っ先に訴追対象者として名前が挙げられた。終戦の翌年である1946年5月1日に巣鴨拘置所に拘置されて、翌月には極東国際軍事裁判が開廷された。 弁護人には同じ鹿児島県出身であり、最初の外務大臣時代の外務次官であった[[西春彦]](後の駐英大使)と、アメリカ人弁護団唯一の[[日系人]]である[[ジョージ・山岡]]らが付き、娘婿の東郷文彦が事務を担当した。 裁判は昭和22年([[1947年]])12月に東郷個人の戦争犯罪を巡る審理に入った。検事側と東郷・弁護人らの激しい応酬が繰り広げられた。特に巣鴨拘置所での[[嶋田繁太郎]]元海相とのやり取り(開戦の時の証言で「摺り合せを要求された」と東郷が受け取った件)について紛糾して当時の話題となった。開戦時及び終戦時に外相の地位にあった東郷は、対米開戦の際海軍は無通告攻撃を主張したが「余は烈しく闘った後、海軍側の要求を食い止めることに成功した」と、如何に軍国主義者と対立してきたかを、口述書に述べた。これに対して、[[永野修身]]の担当弁護人であるジョン・G・ブラナンが、海軍が無通告攻撃を主張した証拠があるのか、と東郷に質問した。すると、「裁判が開廷してから、嶋田と永野から、海軍が奇襲をしたがっていたことは言わないでくれ」と脅迫を受けたかのような証言をした。この発言を「海軍の名誉に関する重大事」と判断した嶋田は、証言台において「[[イカ]]がスミを出して逃げる方法を使った」として、「まことに言いにくいことでありますが、よほど彼の心中にやましいところがなければ、私の言ったことを脅迫ととるはずかない」と述べ、脅迫をしていないことを強調した。東郷個人としては、昭和において自分が体験・経験した事を全て公にする事によって日本、そして自分自身の行動が連合国側の指摘するような「平和に対する罪」に該当する事を否定する事を主眼においており、決して悪意あるものではなかったが、被告人の間でも見解が異なる事も決して少なくなく、また個人よりも集団を重視する日本社会では異質であって、嶋田の弁護人であった[[法制史]]学者の[[瀧川政次郎]]を始め、被告人・弁護人達の批判の対象となった。 それ以外にも、[[木戸幸一]]が、天皇が和平を望む発言をしたことを自分に伝えなかった事、[[梅津美治郎]]が前述の通り[[本土決戦]]を主張し、和平を拒み続けた事も述べた。特に梅津とは声を荒げてやり合う場面も見せ、木戸に対しても、木戸の担当弁護人であるウィリアム・ローガンが尋問を開始しても発言を止めず、しびれを切らしたローガンが「貴方は木戸を好かないのでしょう」と言う場面もあった。 この様に、結果的には自分の立場のみを正当化する主張に終始したと見られたことを、[[重光葵]]は「''罪せむと罵るものあり逃れむと 焦る人あり愚かなるもの''」と歌に詠んで痛烈に批判している(ただし、東郷と重光は在官中から個人的確執があったとされている事に留意する必要がある)。 昭和23年([[1948年]])11月4日、裁判所は東郷の行為を「欧亜局長時代から戦争への共同謀議に参画して、外交交渉の面で戦争開始を助けて欺瞞工作を行って、開戦後も職に留まって戦争遂行に尽力した」と認定して有罪とし、禁錮20年の判決を下された(刑としては重光に次いで軽い)。 東郷は後に「法の遡及」を行い、「敗戦国を戦勝国が裁く」というこの裁判を強く批判する一方で、国際社会が法的枠組みによって戦争を回避する仕組みの必要性があり、新しい[[憲法第9条]]がその流れに結びつく第一歩になることへの期待を吐露している。だが、皮肉にも昭和35年(1960年)の[[日米安全保障条約]]改訂において、憲法第9条の精神を尊重することを重視して軍事的な同盟では平和が齎されないと考える西春彦や石黒忠篤(東郷の親友、当時[[参議院議員]])らと交渉の担当課長として日本の平和と安全のためには条約改訂は欠かせないとする東郷文彦らが激しく対立して、後に文彦が著書で暗に西を非難するという、東郷の遺志を継ぎたいと願う人達が対立するという不幸な事態も発生している。 東郷は以前から[[文明史]]の著書を執筆して戦争がいかにして発生するのかを解明したいという考えを抱いていたが、心臓病の悪化と獄中生活のためにこれを断念し、替わりに後日の文明史家に資するために自己の外交官生活に関わる[[回想録]]の執筆を獄中で行い、『[[時代の一面]]』と命名する。だが、原稿がほぼ完成したところで病状が悪化、転院先の米陸軍第361病院(現同愛記念病院)で病死した。 == 著作 == * 東郷茂徳『時代の一面』原書房(ISBN 4-562020-19-9)、中公文庫(ISBN 4-122016-33-9) : 英訳版 ''[[The Cause of Japan]]'' (ISBN 0-837194-32-6)、独訳版 ''[[Japan im Zweiten Weltkrieg]]'' (書籍情報不明)、ほかに露訳版(題名・書籍情報ともに不明)もある。 == 東郷茂徳を演じた人物 == *[[宮口精二]]([[東宝]]・『[[日本のいちばん長い日]]』、『軍閥』) *[[野々村潔]]([[20世紀フォックス]]・『[[トラ・トラ・トラ!]]』) *[[鶴田浩二]]([[日本放送協会|NHK]][[大河ドラマ]]『[[山河燃ゆ]]』) *[[芦田伸介]]([[東京放送|TBS]]『[[そして戦争が終わった]]』) *[[加藤剛]](TBS『[[命なりけり 悲劇の外相東郷茂徳]]』) == 参考文献 == * [[萩原延壽]]『東郷茂徳 伝記と解説』原書房(書籍情報:ISBN 4-562-02568-9) * 東郷いせ『色無花火 東郷茂徳の娘が語る「昭和」の記憶』六興出版(書籍情報:ISBN 4-8453-7181-2) * 東郷茂彦『祖父 東郷茂徳の生涯』文藝春秋(書籍情報:ISBN 4-163481-70-2) * 阿部牧郎『危機の外相 東郷茂徳』新潮社(書籍情報:ISBN 4-10-368803-3)、新潮文庫(書籍情報:ISBN 4-10-141111-5) * 阿部牧郎『東郷茂徳 日本を危機から救った外相』学陽書房(書籍情報:ISBN 4-313-75109-2) * [[岡崎久彦]]『重光・東郷とその時代』[[PHP研究所]](書籍情報:ISBN 4-569616-64-X) * [[小林よしのり]]『いわゆるA級戦犯』[[幻冬舎]](書籍情報:ISBN 4-344-01191-0) * 『A級戦犯―戦勝国は日本をいかに裁いたか』新人物往来社(書籍情報:ISBN-13: 978-4404033239) * NHK番組『その時歴史が動いた』 : [http://www.nhk.or.jp/sonotoki/2003_12.html#wahei 第160回 日米開戦を回避せよ ~新史料が明かす 最後の和平交渉~] : [http://www.nhk.or.jp/sonotoki/2004_07.html#04 第188回 日米開戦を回避せよ ~新史料が明かす 最後の和平交渉~] == 関連項目 == * [[苗代川]] * [[東條内閣]] * [[鈴木貫太郎内閣|鈴木(貫)内閣]] * [[A級戦犯]] * [[極東国際軍事裁判]] * [[松本俊一]] * [[加瀬俊一 (1925年入省)|加瀬俊一(外相秘書官)]] == 外部リンク == * [http://www007.upp.so-net.ne.jp/togo/human/to/shigenori.html 東郷茂徳 略歴] * [http://www3.pref.kagoshima.jp/suisui/29-higashiichiki/016/ 東郷茂徳記念館] * [http://www.c20.jp/p/tsigenor.html 東郷 茂徳 / クリック 20世紀] * [http://www.atkyushu.com/InfoApp?LISTID=107&MSC1=02 あっと九州 九州ものしり情報(文化)] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%9D%B1%E9%83%B7%E8%8C%82%E5%BE%B3 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年2月19日 (火) 11:21。]     

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