京城帝国大学

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京城帝国大学 - (2008/09/21 (日) 23:32:48) の編集履歴(バックアップ)


京城帝国大学(けいじょうていこくだいがく)は、1924年日本統治下の朝鮮京畿道京城府(現:ソウル特別市)に設立された、大日本帝国内で6番目の帝国大学であり、朝鮮においては唯一の旧制大学であった。大学の略称城大(じょうだい)。

歴史

前史

朝鮮では1895年甲午改革により、近代教育制度が始まったが1906年までに11年たっても全国で小学校が40にも満たないというのが実情であった。初代統監として着任した伊藤博文は大韓帝国の官僚を集めた席で「あなた方は一体何をしてきたのか」と叱責し、日本は朝鮮半島にて学校建設事業を最優先してすすめた。その結果、1940年代には1000を超える各種学校が朝鮮半島にできることとなった。このような経緯の中で1919年三・一独立運動、日本内地における大正デモクラシーの影響もあり、朝鮮総督府は武断政治から文化政治(内地延長主義)に政策転換し(台湾でもこの頃同様な政策転換があった→日本統治時代 (台湾))、1920年頃からは、朝鮮民族系の団体が私立の「朝鮮民立大学」設立の動きを見せ、また、在朝鮮アメリカ宣教師団体が専門学校の大学昇格の動きを見せることもあった。

1918年、日本(内地)での高等学校令改正に直接的な影響を受けて、臨時教育調査委員会が設置され、その答申に基く「第二次朝鮮教育令」により、朝鮮でも法的に大学設立が可能となった。これにより、民族系と宣教師系の動きを抑えて、朝鮮総督府管轄下で大学設置が進められた。

大学沿革

1924年に予科を設置し、1926年に法文学部医学部の各学部が設置されて大学レベルの教育体制が整った。所在地は、鍾路区大学路(旧:京城府東崇町。予科は清涼里)。

教授陣は東京帝国大学卒を中心としており、他の帝国大学の設立期と似ている。1937年で、日本人学生と朝鮮人学生の比率は70.2%と29.8%、 1942年で、60.4%と39.6%。

1929年から大規模な水力発電所鴨緑江とその支流に造られ、1930年代の朝鮮は工業化が急速に進んだこと、また、1930年代初頭の満州事変満州国設立により、資源が豊富な中国東北部での工業化が見込まれたことなどから、高度な技術を持つ人材の需要が高まり、その供給源として1941年には理工学部が設置された。

  • 1924年5月 朝鮮総督府所管の帝国大学として設立。大学予科(修業年限2年)を設置。
  • 1926年5月 法文学部医学部設置。
    • 法文学部は憲法・行政法/民法・民事訴訟法/刑法・刑事訴訟法/経済学/政治学・政治史/羅馬法/哲学・哲学史/支那哲学/倫理学/心理学/宗教学・宗教史/美学・美術史/教育学/社会学/国史学/朝鮮史学/東洋史学/国語学・国文学/朝鮮語学・朝鮮文学/支那語学・支那文学/外国語学・外国文学の各講座を設置。
    • 医学部は解剖学・生理学・医化学・薬物学・病理学・微生物学の各講座を設置。
  • 1934年 予科の修業年限を3年に延長。
  • 1938年 理工学部の予科生が入学。
  • 1941年 理工学部設置。
  • 1941年10月 授業年限の短縮令。太平洋戦争開戦で短縮期間は延長。
  • 1942年5月 高地療養研究所を附置。
  • 1945年6月 大陸資源科学研究所を附置。

戦後

終戦により、教職員や学生の半数以上を占める日本人学生は日本に引き揚げアメリカ軍政下で京城帝国大学は閉鎖された。しかし、閉鎖後2ヶ月で、城大の固定資産を受け継いでソウル大学校が開学した。

ソウル大学校の公式表明ではその建学を1946年としており、京城帝国大学との連続性を認めてはいない参考:ウィキペディア韓国語版(Template:lang?)によれば、京城帝国大学はソウル大学校の母体であると説明されている。。ただし、農科大学(現:農業生命科学大学)の場合は水原高等農林学校(農林専門学校)が前身であり、さらに同校は大韓帝国期における農商工部の農林学校まで遡るため、部局史レベルでは日本統治時代の記述もなされている。

歴代総長

  1. 有吉忠一(事務取扱;1924年5月-1924年7月)
  2. 下岡忠治(同上;1924年7月-1925年11月)
  3. 湯浅倉平(同上;1925年12月-1926年4月)
  4. 服部宇之吉(兼任;1926年4月-1927年7月)
  5. 松浦鎮次郎(1927年7月-1929年10月)
  6. 志賀潔1929年10月-1931年10月)
  7. 山田三良1931年10月-1936年1月)
  8. 速水滉(1936年1月-1940年7月)
  9. 篠田治策(1940年7月-1944年3月)
  10. 山家信次(1944年3月-1945年8月?)

主な教員

出身者

脚注・出典・関連文献

Template:脚注ヘルプ?

  • 植民地朝鮮の高等工業教育に関する一考察(李吉魯 日本大学文理学部人文科学研究所)
  • 泉靖一 「旧植民地帝国大学考」 『中央公論1970年7月号、所収
  • 阿部洋 「日本統治下朝鮮の高等教育 ─京城帝国大学と民立大学設立運動をめぐって─」 『思想1971年7月号、所収
  • 京城帝国大学同窓会 『紺碧遙かに ─京城帝国大学創立五十周年記念誌─』 1974年
  • 馬越徹 『韓国近代大学の成立と展開 ─大学モデルの伝播研究─』 名古屋大学出版会、1995年 ISBN 4815802513
    • 第四章「日本型植民地大学としての京城帝国大学」・第五章「米軍統治下の高等教育」。
  • 稲葉継雄 『旧韓国~朝鮮の「内地人」教育』 九州大学出版会、2005年 ISBN 4873788846
    • 第14章「京城帝国大学予科」。
  • 石川健治 「コスモス ─京城学派公法学の光芒─」 酒井哲哉(編) 『「帝国」編成の系譜』(岩波講座「「帝国」日本の学知」第1巻) 岩波書店2006年、所収
  • 「朝鮮年鑑」

関連項目

外部リンク




出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年4月5日 (土) 02:27。












     
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