京城帝国大学(けいじょうていこくだいがく)は、1924年に日本統治下の朝鮮の京畿道京城府(現:ソウル特別市)に設立された、大日本帝国内で6番目の帝国大学であり、朝鮮においては唯一の旧制大学であった。大学の略称は城大(じょうだい)。
朝鮮では1895年の甲午改革により、近代教育制度が始まったが1906年までに11年たっても全国で小学校が40にも満たないというのが実情であった。初代統監として着任した伊藤博文は大韓帝国の官僚を集めた席で「あなた方は一体何をしてきたのか」と叱責し、日本は朝鮮半島にて学校建設事業を最優先してすすめた。その結果、1940年代には1000を超える各種学校が朝鮮半島にできることとなった。このような経緯の中で1919年の三・一独立運動、日本内地における大正デモクラシーの影響もあり、朝鮮総督府は武断政治から文化政治(内地延長主義)に政策転換し(台湾でもこの頃同様な政策転換があった→日本統治時代 (台湾))、1920年頃からは、朝鮮民族系の団体が私立の「朝鮮民立大学」設立の動きを見せ、また、在朝鮮アメリカ系宣教師団体が専門学校の大学昇格の動きを見せることもあった。
1918年、日本(内地)での高等学校令改正に直接的な影響を受けて、臨時教育調査委員会が設置され、その答申に基く「第二次朝鮮教育令」により、朝鮮でも法的に大学設立が可能となった。これにより、民族系と宣教師系の動きを抑えて、朝鮮総督府管轄下で大学設置が進められた。
1924年に予科を設置し、1926年に法文学部・医学部の各学部が設置されて大学レベルの教育体制が整った。所在地は、鍾路区大学路(旧:京城府東崇町。予科は清涼里)。
教授陣は東京帝国大学卒を中心としており、他の帝国大学の設立期と似ている。1937年で、日本人学生と朝鮮人学生の比率は70.2%と29.8%、 1942年で、60.4%と39.6%。
1929年から大規模な水力発電所が鴨緑江とその支流に造られ、1930年代の朝鮮は工業化が急速に進んだこと、また、1930年代初頭の満州事変と満州国設立により、資源が豊富な中国東北部での工業化が見込まれたことなどから、高度な技術を持つ人材の需要が高まり、その供給源として1941年には理工学部が設置された。
終戦により、教職員や学生の半数以上を占める日本人学生は日本に引き揚げ、アメリカ軍政下で京城帝国大学は閉鎖された。しかし、閉鎖後2ヶ月で、城大の固定資産を受け継いでソウル大学校が開学した。
ソウル大学校の公式表明ではその建学を1946年としており、京城帝国大学との連続性を認めてはいない参考:ウィキペディア韓国語版(Template:lang?)によれば、京城帝国大学はソウル大学校の母体であると説明されている。。ただし、農科大学(現:農業生命科学大学)の場合は水原高等農林学校(農林専門学校)が前身であり、さらに同校は大韓帝国期における農商工部の農林学校まで遡るため、部局史レベルでは日本統治時代の記述もなされている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年4月5日 (土) 02:27。