ノモンハン事件

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ノモンハン事件 - (2008/12/06 (土) 11:04:49) のソース

{{Coor title d|47.9682|N|118.633987|E}}
{{Battlebox
|  battle_name=ノモンハン事件
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|        image=[[Image:SovietArmouredVehicle.jpg|300px]] 
|      caption=<small>遺棄されたソ連軍のBA-10装甲車</small>
|     conflict=ノモンハン事件
|         date=1939年5月11日から1939年9月16日
|        place=満蒙国境
|       result=ソ連軍攻勢の状態で停戦|   combatant1=[[画像:Flag of Japan (bordered).svg|25px]] '''[[大日本帝国|日本]]'''<br>[[Image:Flag of Manchukuo.svg|25px]][[満州国]]
|   combatant2=[[Image:Flag of the Soviet Union 1923.svg|25px]]'''[[ソビエト連邦|ソ連]]'''<BR>[[Image:Flag of the People's Republic of Mongolia (1924-1940).svg|25px]][[モンゴル人民共和国|外蒙古]]
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|    strength1=30,000~90,000
|    strength2=200,000
|  casualties1=日本軍<br>戦死 7,720<BR>戦傷 8,864<BR>戦車 約30輌<BR>航空機 約180機
|  casualties2=ソ連軍<BR>戦死 7,974<BR />戦傷 15,251<BR />装甲車輌 約350輌<BR> 航空機 約250機
|}}

'''ノモンハン事件'''(のもんはんじけん)は、[[1939年]]5月から9月にかけて、[[満州国]]と[[モンゴル人民共和国]]の間の[[国境線]]をめぐって発生した日ソ両軍の国境紛争事件。

==概要==
[[満州国軍]]と[[モンゴル人民共和国]]軍の参加もあったが、実質的には両国の後ろ盾となった[[大日本帝国陸軍]]と[[ソビエト連邦軍]]の主力の衝突が勝敗の帰趨を決した。当時の[[大日本帝国]]と[[ソビエト連邦]]の公式的見方では、この衝突は一国境紛争に過ぎないというものであったが、[[モンゴル国]]のみは、人民共和国時代よりこの衝突を「戦争」と称している。以上の認識の相違を反映し、この戦争について、日本および満洲国は「ノモンハン事件」、[[ソビエト連邦|ソ連]]は「ハルハ河の事件、出来事」と呼び、[[モンゴル人民共和国]]のみが「ハルハ河戦争(ハルヒン・ゴル戦争)」と称している。

この衝突に対して日本・満洲側が冠しているノモンハンという名称は、[[清朝]]が雍正十二年([[1734年]])に[[外蒙古]]([[イルデン・ジャサク旗]]・[[エルヘムセグ・ジャサク旗]])と、[[内蒙古]]([[新バルガ旗]])との境界上に設置した[[オボー]]の一つ「[[ノモンハン・ブルド・オボー]]」に由来する。このオボーは現在もモンゴル国の[[ドルノド・アイマク]]と[[中国]][[内モンゴル自治区]]北部の[[ホロンバイル市|フルンブイル市]]との境界上に現存し、大興安嶺の西側[[モンゴル高原]]、フルンブイル市の中心都部[[ハイラル区]]の南方、ハルハ河東方にある。

いっぽうソ連・モンゴル側が冠している「[[ハルハ河]]」とは、戦場の中央部を流れる河川の名称である。綴りはモンゴル式では「Халхын гол」、ロシア式では「Халкин-Гол」ないし「Халхин-Гол」となる。

従来までは日本軍の無謀な作戦による大敗北と信じられてきたが、ソ連崩壊によりソ連側のノモンハン事件に関する秘密資料が明らかになり、実は死傷者数、破壊された装甲車両および航空機の数のすべてにおいてソ連側の被害の方が大きい事が明らかになった。これを受けて、軍事知識に乏しい人間の中には、日本軍の勝利であったと主張している者もいるが、戦闘の勝敗は損害の優劣だけで決まらないのは常識以前の話であり、ソ連軍の勝利であることに代わりがない点には注意を要する。

== 経緯 ==
[[清朝]]が雍正十二年([[1734年]])に定めた[[ハルハ]]東端部([[外蒙古]])と[[ホロンバイル]]草原南部の[[新バルガ]]([[内蒙古]])との境界は、[[モンゴル]]の独立宣言(1913年)以後も、モンゴルと[[中国]]の歴代政権の間で踏襲されてきたが、1932年に成立した[[満洲国]]は、ホロンバイルの南方境界について、従来の境界から10-20キロほど南方に位置する[[ハルハ河]]を新たな境界として主張、以後この地は国境紛争の係争地となった。

1939年にこの係争地でおきた両国の国境警備隊の交戦をきっかけに、日本軍とソ連軍がそれぞれ兵力を派遣し、交戦後にさらに兵力を増派して、大規模な戦闘に発展した。5月の第一次ノモンハン事件と7月から8月の第二次ノモンハン事件にわかれ、第二次でさらに局面の変転がある。第一次ノモンハン事件は両軍あわせて3500人規模の戦闘で、日本軍が敗北した。第二次ノモンハン事件では、両国それぞれ数万の軍隊を投入した。7月1日から日本軍はハルハ川西岸への越境渡河攻撃と東岸での戦車攻撃を実施したが、いずれも撃退された。このあと日本軍は12日まで夜襲の連続で東岸のソ連軍陣地に食い入ったが、断念した。7月23日に日本軍が再興した総攻撃は3日間で挫折した。その後戦線は膠着したが、8月20日にソ連軍が攻撃を開始して日本軍を包囲し、31日には日本軍をソ連が主張する国境線内から一掃した。

停戦交渉はソ連軍の8月攻勢の最中に行われ、9月16日に[[停戦協定]]が結ばれた。

==開戦の背景==
===国境紛争===
モンゴル側は1734年以来[[外蒙古]]と[[内蒙古]]の境界を為してきた、ハルハ河東方約20キロの低い稜線上の線を国境として主張したのに対し、1932年に成立した満州国は[[ハルハ河]]をもって境界線として主張した。満州国、日本側の主張する国境であるハルハ河からモンゴル・ソ連側主張の国境線までは、草原と砂漠である。土地利用は遊牧のみであり、国境管理はほぼ不可能で、付近の遊牧民は自由に国境を越えていた。

本事件の係争地となった領域がはじめて具体的に行政区画されたのは、清代、雍正年間のことである。従前、この地は[[ダヤン・ハーン]]の第七子[[ゲレンセジェ]]の系統を引く[[チェチェン・ハン]]部の[[左翼前旗]]および[[中右翼旗]]など、ハルハ系の諸集団の牧地であった。1730年代、清朝が新附のモンゴル系、ツングース系の諸集団を[[旧バルガ]]、[[新バルガ]]のふたつの[[ホショー]](旗)に組織し、隣接する[[ホロンバイル]]草原に配置した。雍正十二年([[1734年]])、[[理藩院]][[尚書]][[ジャグドン]]によりハルハと、隣接する新バルガの牧地の境界が定められ、その境界線上に[[オボー]]が設置された。本事件においてモンゴル側が主張した国境は、この境界を踏襲したものである。

本事件の名称の由来となった[[ノモンハン]]は、[[左翼前旗]]の始祖[[ペンバ]]の孫[[チョブドン]]が受けた[[チベット仏教]]の[[僧侶]]としての位階の呼称に由来し、[[チョブドン]]の墓や、ハルハと新バルガとの境界に設置されたオボーのひとつなどにも、[[チョブドン]]の受けたこの「ノモンハン」の称号が冠せられている。

モンゴルは、[[1912年]]の[[辛亥革命]]を好機として、[[ジェプツンダンパ]]八世を[[君主]]に擁する政権を樹立した。ただしモンゴルの全域を制圧する力はなく、モンゴル北部([[ハルハ]]四部プラス[[ダリガンガ]]・[[ドルベト]]即ち[[外蒙古]])のみを確保するにとどまり、モンゴルの南部([[内蒙古]])は中国の支配下にとどまることとなった。バルガの2旗が位置する[[ホロンバイル]]草原は、地理的には[[外蒙古]]の東北方に位置するが、この分割の際には中国の勢力圏に組み込まれ、[[東部内蒙古]]の一部を構成することとなった。その後、モンゴルでは[[ジェプツンダンパ政権]]の崩壊と復活、[[1921年]]の[[人民革命党政権]]の成立、[[1924年]]の[[人民共和国]]への政体変更などがあったが、これらモンゴルの歴代政権と、[[内蒙古]]を手中におさめた[[中華民国]]歴代政権との間では、[[ハルハ]]の東端と[[新バルガ]]の境界について、問題が生ずることはなかった。

ところが旧[[東三省]]と[[東部内蒙古]]を領土として[[1932年]]に成立した[[満洲国]]は、[[新バルガ]]の南方境界として、新たに[[ハルハ河]]を主張、本事件の戦場域は、「国境紛争の係争地」となった。モンゴルと満洲国の国境画定交渉は断続的に行われたが、1935年以降途絶した。

満洲、モンゴルの両当事者とも、この係争を小競り合い以下の衝突にとどめるべく、話し合いによる解決を模索しようとしたが、両国の後ろ盾となっている日本、ソ連は、この時期それぞれ、極東方面において相手を叩く口実を探しており、「話し合いによる解決」を模索していた満州国・モンゴルの代表者たちをそれぞれソ連、日本に通じたスパイとして断罪、粛清したのち、大規模な軍事衝突への準備を推し進めてゆく。

===「満ソ国境紛争処理要綱」===
1938年に起こった[[張鼓峰事件]]は、満州とソ連の国境でおこった紛争だったが、[[関東軍]]・[[満州国軍]]ではなく日本の[[朝鮮軍 (日本軍)|朝鮮軍]]が戦った。この事件でソ連側が多くを得たことに不満を感じた関東軍は、係争地を譲らないための方針を独自に作成した。それが「満ソ国境紛争処理要綱」である。

「満ソ国境紛争処理要綱」は[[辻政信]]参謀が起草し、1939年4月に[[植田謙吉]]関東軍司令官が示達した。要綱は、「国境線明確ならざる地域に於ては、防衛司令官に於て自主的に国境線を認定」し、「万一衝突せば、兵力の多寡、国境の如何にかかわらず必勝を期す」として、日本側主張の国境線を直接軍事力で維持する好戦的方針を示していた。この要領を東京の大本営は黙認し、政府は関知しなかった。

==戦争の経過==
===第一次ノモンハン事件(5月11日-5月31日)===
係争地では[[満州国軍]]とモンゴル軍がパトロールしており、たまに遭遇し交戦することがあった。5月11日、12日の交戦は特に大規模なものであったが、モンゴル軍、満州国軍がともに「敵が侵入してきたので損害を与えて撃退した」と述べているため、真相不明である。

[[第23師団 (日本軍)|第23師団]]長の[[小松原道太郎]]中将は、モンゴル軍を叩くために東八百蔵中佐の[[師団捜索隊]]と2個歩兵中隊、満州国軍騎兵からなる部隊(東支隊)を送り出した。5月15日に現地に到着した東支隊は、敵が既にいないことを知って引き上げた。しかし、支隊の帰還後になって、モンゴル軍は再びハルハ川を越えた。

この頃、上空では日本軍とソ連軍の空中戦が頻発し、日本機は自国主張の国境を越えてハルハ川西岸の陣地に攻撃を加えた。両軍とも、敵の越境攻撃が継続中であると考え、投入兵力を増やすことを決めた。

5月21日に小松原師団長は再度の攻撃を命令した。出動した兵力は、歩兵第64連隊第3大隊と連隊砲中隊の[[山砲]]3門、[[速射砲]]中隊の3門をあわせて1058人、前回に引き続いて出動する東捜索隊220人([[九二式重装甲車]]1両を持つ)、輜重部隊340人、さらに満州国軍騎兵464人が協同し、総兵力2082人であった。指揮は歩兵第64連隊長[[山県武光]]大佐がとり、山県支隊と呼ばれた。

ソ連軍も部隊を送り込み、25日にハルハ川東岸に入った。その兵力は、第11戦車旅団に属する機械化狙撃大隊と偵察中隊からなり、装甲車としては強力な砲を装備する[[BA-6装甲車]]16両を持ち、兵力約1200人であった。これにモンゴル軍第6騎兵師団の約250人をあわせ、ソ連・モンゴル軍の総兵力は約1450人、装甲車39両、自走砲4門を含む砲14門、対戦車砲6門であった。歩兵・騎兵の数は少ないが、火砲と装甲車両で日本・満州国軍に勝っていた。ソ連軍の指揮官は機械化狙撃大隊長のブイコフ大佐で、歩兵の3個中隊のうち第2中隊を北に、第3中隊を南に置き、正面の東をモンゴル軍に守らせて、半円形に突出する防衛線を作った。西岸には第1中隊を控えさせ、砲兵を配した。

山県はソ連軍が刻々増強されつつあることを知っていたが、敵兵力を実際より少なく見積もり、包囲撃滅作戦を立てた。その作戦では、主力は山県が直率して北から進み、東と南には満州軍騎兵と小兵力の日本軍歩兵を配する。ハルハ川渡河点3か所のうち、北と南はそれぞれ両翼の日本軍部隊が制圧する。中央の橋を封鎖するために、東捜索隊が先行して敵中に入り、橋を扼する地点に陣地を築く。こうして完全に包囲されたソ連・モンゴル軍を破砕し、その後ハルハ川を越えて左岸(西岸)の陣地を掃討するというものであった。

[[Image:Fighter I-16.jpg|right|thumb|220px|ソ連軍のI-16戦闘機]]
先行する東捜索隊は、5月28日の早朝にほとんど抵抗を受けることなく突破に成功し、橋の1.7キロ手前に陣取った。これとともに後方陣地への航空攻撃、主力部隊の前進がはじまった。戦闘開始直後、ソ連・モンゴル軍は混乱して一歩退いた。攻撃をほとんど受けなかった正面と南の部隊も退却して兵力を抽出し、西岸から渡ってきた部隊とともに山県・東の部隊に立ち向かった。さらにこの日のうちにソ連の第36自動車化狙撃師団の第149連隊がタムスクから自動車輸送で到着しはじめた。日本軍主力の前進は第一線の陣地を突破したところで停止し、東支隊は孤立した。29日にソ連・モンゴル軍は東捜索隊への攻撃を強め、その日の夕方に全滅させた。東中佐は戦死した。日本軍主力は30日に小兵力の増援を受け取り、ソ連・モンゴル軍は次の戦闘に備えて防衛線を西岸に移した。以後は目立った戦闘は起きず、日本軍は捜索隊の遺体と生存者を収容して6月1日に引き上げた。ハルハ川東岸は再びソ連・モンゴル軍の制圧下に帰した。

この間、日本軍の戦闘機は終始空中戦で優勢を保ち、ソ連軍の航空機を数十機撃墜し、損失は軽微であった。また、日本の戦闘機と軽爆撃機はモンゴル領内の陣地と飛行場を攻撃した。なおモンゴル軍の航空機はわずかで、満州国軍は航空戦力を持たなかった。

===第二次ノモンハン事件===
====日本軍による渡河攻撃と戦車攻撃 (7月1日-6日)====
ソ連政府は5月末の交戦を日本の侵略意図の表れとみなし、日本軍の次の攻撃はさらに大規模になると考えた。白ロシア軍管区副司令官の[[ゲオルギー・ジューコフ]]が第57軍団司令官に任命され、この方面の指揮をとることになった。このときジューコフは大規模な増援を要求し、容れられた。

6月17日から連日、増強されたソ連軍航空機が自国主張の国境を越えてカンジュル廟を攻撃し、爆撃は後方のアルシャンにも及んだ。これに対して関東軍は、戦車を中心に各種部隊を増強して反撃する計画を立てた。新たに加わったのは第1戦車団(戦車2個連隊)と歩兵第26連隊([[第7師団 (日本軍)|第7師団]])のほか砲兵や工兵を含む自動車化部隊の安岡支隊で、第1戦車団長の[[安岡正臣]]中将が率いた。作戦にはハルハ川を越えることが含まれていたが、大本営は越境攻撃までは知らされなかった。27日、日本軍はモンゴル領の後方基地[[タムスク]]に大規模な空襲を行った。大本営は越境空襲を事後に知らされて驚き、[[昭和天皇]]を動かして係争地を無理に防衛する必要はないとの大命を29日に発し、敵の根拠地に対する航空攻撃を禁じる参謀総長の指示を出した。その頃、攻撃のため国境付近に集結しはじめた日本軍に対し、ソ連軍は自国主張の国境を越える威力偵察部隊を送り出して交戦した。

集結を完了した日本軍は、7月1日に敵の背後を断って撃滅する意図をもって行動を起こした。当初の作戦では、ハルハ川に橋を架けて戦車を含む主力が西岸に渡り、敵の背後から包囲攻撃をかけることとされた。しかし、西岸攻撃のために工兵が用意できた橋は演習用の器材を使った貧弱なもので、戦車を渡すことができず、それどころか橋を越えた補給継続の見込みも薄かった。

そこで作戦が変更され、歩兵が西岸に渡って退路を遮断し、東岸に残った戦車が北から攻撃をかけて南下し、敵をハイラースティーン(ホルステン)川の岸に追い詰めて殲滅することを企図した。西岸攻撃には第23師団の第23歩兵団長[[小林恒一]]少将が師団所属の歩兵第71連隊と第72連隊をもってあたり、安岡支隊から引き抜いた自動車化部隊の歩兵第26連隊と砲兵隊、工兵隊が後続した。一方、東岸の安岡支隊の主力は[[戦車第3連隊]]と[[戦車第4連隊]]で、歩兵第28連隊の1個大隊と歩兵第64連隊主力、馬で牽引する野砲兵1個大隊、工兵1個連隊、満州国軍騎兵が属した。うち東を封じるのは満州国軍に任され、今回は南に兵力を送らなかった。総兵力は約1万5000人であった。

ソ連軍は、前回の戦闘と同様、歩兵戦力で日本軍に劣ったが砲と装甲車両の数で勝った。ソ連軍司令部は、ハルハ川東岸への日本軍の攻撃を予想して、第149自動車化狙撃連隊と第9機械化旅団を置いていた。さらに増援軍にハルハ川を渡河させて日本軍の側面を衝く作戦を立て、第7機械化旅団、第11戦車旅団、第24自動車化狙撃連隊が7月1日にタムスクを発った。

ソ連軍と日本軍はほぼ同じ進路で逆向きの渡河攻撃を計画したわけだが、日本軍が先んじて2日に渡河をはじめ、3日に橋を架けた。渡河に直面したのはモンゴル軍の騎兵第6師団であったが、抵抗らしい抵抗をしなかった。ソ連増援軍は3日に戦場に到着し、南に進んでいた日本軍と接触した。装甲部隊を前にして日本軍の行軍は止まった。午前中の戦闘でソ連軍戦車は果敢に突撃して大損害を出したが、午後には遠巻きにして砲撃を加えるようになり、日本兵の死傷ばかりが増えた。第23師団はその日の夕方に撤退を決め、4日から5日にかけて橋を渡って戻った。

ハルハ川東岸(右岸)では、日本軍が87両の装甲車両で攻撃をかけた。主に軽戦車からなる戦車第4連隊は、2日夜に装甲部隊による夜襲をかけた。(大規模装甲部隊による夜襲は世界初で、大変珍しい例である。)攻撃は成功をおさめたが、戦局に影響するほどのものではなかった。主に中戦車からなる戦車第3連隊は、翌3日に防御陣地に対する正面攻撃を行って壊滅し、連隊長吉丸大佐は戦車内で戦死した。ソ連軍は4日に反撃をはじめ、6日に日本軍は退却した。装甲部隊の急速な損耗を憂慮した関東軍司令部の判断によって安岡支隊は9日に解隊され、26日に戦車部隊は戦場から引き上げた。

この期間にはソ連軍の航空勢力が増大した。日本の航空偵察は、この戦闘中ずっと「敵軍が退却中である」という誤報を流しつづけ、上級司令部の判断を誤らせた。

====7月の戦闘と戦線の膠着====
渡河攻撃と戦車攻撃が失敗してから、第23師団はハルハ川右岸(東岸)に転じて7月7日に攻撃を再開した。第23師団の主力は安岡支隊への増援・交代の形で新たな戦場に到着し、北から南にハイラースティーン(ホルステン)川に向かって進んだ。別に岡本支隊がハイラースティーン(ホルステン)川の対岸を東から西に進んだ。守るソ連軍の中心は第149自動車化狙撃連隊で、砲兵と第11戦車旅団の支援を受けた。歩兵で日本軍が多く、戦車と砲でソ連軍が多いという戦力比はこの時期も変わらなかった。

このときの日本軍は、小規模な夜襲を全戦線で多数しかけて攻撃を進めた。夜には砲撃が衰え、戦車が最前線から引き上げるので、白兵戦を得意とする日本軍にとって有利であった。少ない兵力で何重もの縦深をとったソ連軍の防衛線は、各所で日本軍の進出を許したが、崩壊には至らず、両軍錯綜の状況が生まれた。平原で姿を暴露することを恐れた日本軍は、朝が近づくと進出地点から引き上げるのを常とした。昼になると攻守逆転し、ソ連の装甲部隊、砲、歩兵が日本の歩兵を攻撃した。ソ連軍は夜襲も実施したが、全体的には日本軍に押され、ゆっくりと陣地を侵食されていった。前線指揮官であるレミゾフ第149自動車化狙撃連隊長は8日に、ヤコブレフ第11戦車旅団長は11日に、戦死した。

しかし、当初きわめて楽観的だった関東軍にとって、この作戦の進捗は満足のいくものではなかった。ソ連軍の砲兵力を除く必要があると考えた関東軍は、内地からの増援と満州にあった砲兵戦力をあわせて、関東軍砲兵司令官[[内山英太郎]]少将の下に砲兵団を編成し、その砲撃でソ連軍砲兵を撃破することにした。砲兵戦力の到着を待つため、日本軍は夜襲による攻撃を12日に停止し、14日までに錯綜地から退いて戦線を整頓した。

砲兵支援下の総攻撃は、7月23日に始まった。内山少将率いる砲兵団は15センチ加農砲から7.5センチ野砲までの82門をもっていたが、このうち西岸のソ連軍砲兵陣地まで届く砲は46門に過ぎなかったうえに、充分な数の砲弾を準備することができなかった。更に、東岸より西岸の方が標高が高かったことが致命傷になった。ソ連側の砲兵は日本側の砲兵を見下ろすかたちで砲撃することができたのである。このため、次第に日本軍砲兵はソ連側の砲撃に圧倒された。またソ連軍は前回の攻撃の末期にあたる7月12日から歩兵の増援を受け取っており、総攻撃はわずかに前進しただけで頓挫した。日本軍は3日間の戦闘で攻勢をあきらめ、冬営に向けた陣地構築に入った。

日本軍は7月25日までに参加兵力の3分の1にあたる約5000人を失った。攻撃を停止した日本軍は、敵の砲撃を避けてハルハ川から離れ、ハイラースティーン(ホルステン)川両岸に西向きに布陣した。北に離れたフイ高地には渡河攻撃を断念したときから小部隊がおかれており、反対の南側の左翼では限定的な攻撃を行って翼を延伸した。ソ連軍も各所で小規模な攻撃を試みたが撃退され、8月20日まで戦線は膠着状態になった。

8月4日、日本軍はノモンハン戦の指揮のために新たに[[第6軍 (日本軍)|第6軍]]を創設し、[[荻洲立兵]]中将を司令官に任命した。これより先、ソ連は7月21日に第57狙撃軍団を第1軍集団に改組し、引き続きジューコフに指揮をとらせた。

====ソ連軍の8月攻勢====
日本軍が攻勢をとっていた頃から、ソ連軍は後方で兵力と物資の集積を進め、総攻撃を準備していた。だが日本軍は冬営のための物資輸送にも困難をきたしていたため、大きな増援ができなかった。防衛線についていた日本軍部隊は、北から、フイ高地を守備する第23師団捜索隊、ハイラースティーン(ホルステン)川の北にあるバルシャガル高地を守る歩兵3個連隊(歩兵26、63、72の各連隊)、ホルステン川の南にある第8国境守備隊と歩兵第71連隊であった。加えて、ノモンハンから約65キロ南に離れたハンダガヤに第7師団の歩兵第28連隊があった。その陣地は横一線に長く、兵力不足のため縦深がなかった。防衛線の左右には満州国軍の騎兵が展開して警戒にあたった。

攻撃側のソ連軍は歩兵と砲の数で倍近く、加えて戦車498両と装甲車346両を用意しており、日本側に対して全面的に優勢な兵力だった。ソ連軍の作戦は、中央は歩兵で攻撃して正面の日本軍を拘束し、両翼に装甲部隊を集めて突破し、敵を全面包囲しようとするものであった。シェフニコフ大佐が指揮する左翼の北方軍は、第82狙撃師団第601連隊と第7機械化旅団、第11戦車旅団からなり、フイ高地の捜索隊を攻撃して南東に進んだ。ペトロフ准将が指揮する中央軍は、歩兵4個連隊と1個機関銃旅団(第82狙撃師団の2個連隊と、第36自動車化狙撃師団の2個連隊、第5機関銃旅団)からなり、ハイラースティーン(ホルステン)の両岸で正面から攻撃をかけた。ポタポフ大佐が指揮する右翼の南方軍は、歩兵3個連隊と機械化旅団、戦車旅団各1個(第57狙撃師団の3個連隊と、第8機械化旅団、第6戦車旅団)からなり、日本の第71連隊を攻撃してハイラースティーン(ホルステン)に向けて北進した。北方軍の北にはモンゴル軍の第6騎兵師団、南方軍の南にはモンゴル軍の第8騎兵師団が付いて警戒にあたった。左右両翼でのソ連軍の優位は圧倒的で、中央でも火力の優勢を保っていた。

8月20日、爆撃と砲撃の後にソ連軍の前進が始まると、日本側右翼(北側)の満州国軍は直ちに敗走し、これによりフイ高地の師団捜索隊は孤立した。ジューコフは、フイ高地の攻略に手間取ったシェフニコフを21日に解任し、予備を投入して日本軍主力の背後へ進撃させた。捜索隊は24日夜に包囲を脱してソ連側主張の国境の外に退出した。21日には南翼でも南方軍の装甲部隊が日本軍の側面から背後を脅かす位置に進出した。

第6軍司令部は攻勢開始時に未だ後方のハイラルにあり、ようやく8月23日に司令部を戦場付近に進めた。荻洲軍司令官はソ連軍の攻勢を知ると、直ちに第28連隊をハンダガヤから呼び寄せ、これに前線から引き抜いた歩兵第26、72、71の諸連隊をあわせて左翼(南)で反撃(攻勢転位)する作戦を立てた。反撃の開始は8月24日で、ソ連軍の最右翼にある第57狙撃師団第80連隊が、南方軍の装甲部隊とともにこれを迎え撃った。反撃部隊の大部分は予定の日時に攻撃開始位置に到着できず、ばらばらに戦闘に参入し、砲爆撃の支援を欠いたまま正面攻撃を実施した。24日に第72連隊だけで攻撃を行った右翼隊は大損害を出して壊滅した。24、25の両日にわたる左翼隊の攻撃も挫折した。

反撃に兵力を抽出したため、日本軍の側面と背後はがら空きになった。北から回り込んだソ連軍左翼は23日には日本軍の後背に出て、26日にバルシャガル高地の背後にあった砲兵陣地を蹂躙した。南で反撃を退けたソ連軍右翼も、27日にノロ高地を支援する日本軍砲兵部隊を全滅させた。前線の日本軍諸部隊は、背後に敵をうけて大きく包囲され、個々の陣地も寸断されて小さく囲まれた。限界に達した日本軍部隊は、夜の間に各個に包囲を脱して東に退出した。すなわち26日夜にノロ高地の第8国境守備隊が後退し、ついで戦場外に退出した。29日夜にはバルシャガル高地の第64連隊が脱出した。小松原第23師団長は第64連隊救援のため自ら出撃したが、これも31日朝に後退したのを最後に日本軍は係争地から引き下がり、主要な戦闘は終了した。この作戦の間、ソ連陸軍は自国主張の国境線の内にとどまっため、退出した日本軍諸部隊はその線の外で再集結した。

====停戦成立までの戦闘====
ソ連軍は戦場となった係争地を確保し、陣地を築いた。日本軍はソ連・モンゴル側主張の国境線のすぐ外側に防衛の陣を敷いた。関東軍は兵力を増強して攻撃をかける計画を立てた。作戦は、一部兵力によって敵の退路を遮断し、夜襲によってソ連軍の陣地を突破することを目指した。しかしこの段階では、歩兵で勝っていた7月までと異なり、増強を計算に入れたとしても、あらゆる戦力要素が日本軍に不利になっていた。

東京の大本営は、関東軍の楽観的な報告により、8月26、27日まで戦闘が有利に進んでいると認識していた。が、急激な事態の悪化を知り、日本軍が引くことで事態を収拾することを決め、9月3日にノモンハンでの攻勢作戦を中止し係争地から兵力を離すように命じた。

他方、南方のハンダガヤ付近では、増援に来着した歩兵2個連隊を基幹とした片山支隊が8月末から攻撃に出た。この地区で日本軍に対したのはモンゴル軍の騎兵部隊で、9月8日と9日に夜襲を受けて敗走した。9月16日の停戦時に、ハルハ川右岸の係争地のうち主戦場となったノモンハン付近はソ連側が占めたが、ハンダガヤ付近は日本軍が占めていた。

ソ連軍の猛攻の過程で、日本軍の連隊長級の前線指揮官の多くが戦死し、生き残った連隊長の多くも、戦闘終了後に敗戦の責任を負わされて自殺に追い込まれ、自殺を拒否した須見第26連隊長は予備役に編入されるなど、敗戦後の処理も陰惨であった。その一方で独断専行を主導して惨敗を招いた[[辻政信]]・[[服部卓四郎]]ら関東軍の参謀は、一時的に左遷されたのみで、わずか2年後の[[太平洋戦争]]開戦時には陸軍の中央に返り咲いた。また、壊滅的打撃を受けた第23師団の小松原師団長も、事件の1年後に病死したが、これも実質的に自殺に近い状況だったと見られている。

=== 航空戦 ===
[[画像:Ki-27 1.jpg|right|thumb|220px|九七式戦闘機(キ27-I)]]
航空戦の主力となったのは日本軍は[[九七式戦闘機]]、ソ連軍は[[I-153_(航空機)|I-153]]と[[I-16_(航空機)|I-16]]であった。当初はソ連軍に比べて日本軍搭乗員の練度が圧倒的に上回っており、戦闘機の性能でも、複葉機のI-153に対しては圧倒的な優勢、I-16に対しても、一長一短はあるものの(I-16は武装と急降下速度に優れ、97式戦は旋回性能に優れる)、ほぼ互角であった。また、投入した航空機の数も、当初はほぼ互角であった。そのため、第一次ノモンハン事件の空中戦は、地上戦とは異なり、日本軍の圧倒的な勝利となった。

日本陸軍航空隊の搭乗員達の活躍は目覚しく、20機以上撃墜エースが23名おり、なかでもノモンハンエースの篠原弘道は3ヶ月で58機撃墜した。ノモンハンエースはほかに[[樫出勇]]、井上、西原五郎などいる。ただしこれらの記録には、かなり誤認戦果も含まれる。

その余勢を駆って、6月27日、関東軍は陸軍中央に独断で日本側の主張する国境線よりモンゴル側にあるソ連軍のタムスク飛行場を爆撃して、戦術的には大戦果を上げた。しかしこれは国境紛争を全面戦争に転化させかねない無謀な行為だったので、陸軍中央の怒りを買った。

第二次ノモンハン事件に入ると、ソ連軍は日本軍をはるかに上回る数の航空機を動員して、搭乗員の練度で優る日本軍航空部隊を数で圧倒するとともに、[[スペイン内戦]]に共和国側の義勇兵として参加してドイツ空軍と戦っていた戦闘経験豊富な搭乗員を派遣し、搭乗員の質でもある程度日本軍に対抗できるようになる。

ソ連側は戦術を変更し、旋回性能の優れた日本軍の九七式戦闘機に対し、操縦手背面に装甲を装備したI-16による[[一撃離脱戦法]]に徹するようになった。これにより日本軍は以前のように撃墜戦果を挙げられなくなったばかりか、損害が目立つようになった。

第一次と第二次を併せたソ連側損失は、日本側の主張では1252機。またソ連側がかつて主張していた損害は145機、後のソ連崩壊直前に訂正された数字では被撃墜207機+事故損失42機。一方、日本機の損害は記録によると大中破も合わせて157機(未帰還及び全損は64機、内97戦は51機で戦死は53名)だった。日本側の損耗率は60パーセントで、最後には九七式戦闘機の部隊が枯渇して、旧式な複葉機の[[九五式戦闘機]]が投入されるに至った。これらの戦訓から陸軍は航空機の地上戦で有効性と損耗の激しさを知り、一定以上の数を揃える必要性を痛感したという。なお、若手将校を多数失ったことは、陸軍戦闘機隊の崩壊さえ招きかねない事態と危惧され、兵卒からの進級を積極的に進め、さらに少年飛行兵の募集を強化するなど、海軍に先駆けて航空戦力の拡充を図る端緒となった。

なお、九七式戦闘機がソ連空軍機に対してその旋回性能が最後まで強力な切り札だったことから、陸軍航空隊では格闘戦重視の[[戦闘機|軽戦闘機]]が主流となったが、一方でソ連機を取り逃がした経験から速度や急降下性能の必要性も強く認識され、卓上では最後まで結論は出なかった。そのため旋回性能重視の一式戦と速度と武装重視の二式単戦の二つの戦闘機が実用化され、最後に四式戦で統合された。

[[画像:Ki-15-2.jpg|thumb|right|220px|九七式司令部偵察機(キ15)]]
陸軍中央では紛争の拡大は望んでいなかったため、戦場上空の制空権を激しく争った戦闘機に比べると爆撃機の活動は限定的であり、6月27日関東軍の独断で行われたタムスクのソ連航空基地への越境攻撃はあったものの、重爆撃機隊も含めて地上軍への対地協力を主として行った。紛争後半の8月21日、22日には中央の許可のもとにソ連航空基地群に対する攻撃が行われたが、既にソ連側が航空優勢となった状況では損害も多く、その後は再び爆撃機部隊の運用は対地協力に限定された。他方、ソ連軍の爆撃機による日本軍陣地、航空基地への爆撃は活発であり、7月以降に登場した高速双発爆撃機ツポレフSB-2、四発爆撃機ツポレフTBは日本軍の野戦高射砲の射程外の高空を飛来し、九七式戦闘機での要撃も容易ではなく大いに悩まされたが、その戦訓が太平洋戦争に活かされたとは言い難いようである。

戦局への影響という点で大きかったのは日本軍の航空偵察で、茫漠として高低差に乏しく目立つランドマークもないノモンハンの地形にあっては航空偵察による情報は重要であり、新鋭の[[九七式司令部偵察機]]を始め多数の偵察機が運用された。しかし、ソ連軍の偽装を見抜けずに、動静を見誤ってたびたびソ連軍の後退を伝える誤報を流すなどして、後方の司令部に実態と乖離した楽観を抱かせる原因ともなった。

==停戦後の国境確定交渉==
[[Image:Molotov-Stalin.png|right|thumb|220px|モロトフ(左)とスターリン(右)]]
一方、ソビエト連邦の首都[[モスクワ]]では、日本の[[東郷茂徳]]駐ソ[[特命全権大使]]とソ連の[[ヴャチェスラフ・モロトフ]][[外務大臣]]との間で停戦交渉が進められていた。

だが、ソ連側の強硬な姿勢と、東郷が停戦協定を締結しても独断専行で事を進める関東軍が従うかどうかを憂慮して慎重に事を運んだ事もあって、両国の間においてようやく停戦協定が成立したのは9月15日の事であった。停戦協定では、とりあえずその時点での両軍の占領地を停戦ラインとし、最終的な国境線の確定はその後の両国間の外交交渉にゆだねられた。

交渉は11月から翌年6月までかかってやっと合意に達したが、結局は停戦ラインとほぼ同じであった。対立の対象となった地域のうち、主戦場となった北部から中央部ではほぼモンゴル・ソ連側の主張する国境線によって確定し、一方主戦場からは外れていたが9月に入って日本軍が駆け込みで攻勢をかけて占領地を確保した南部地域は日本・満洲国側の主張する国境線に近いラインで確定した。

後半は、[[ノモンハン事件-2]]参照





 
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