スバス・チャンドラ・ボース

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スバス・チャンドラ・ボース - (2008/10/09 (木) 23:34:16) のソース

[[Image:Subhas Bose.jpg|220px|thumb|スバス・チャンドラ・ボース]]

'''スバス・チャンドラ・ボース''' (Subhas Chandra Bose, [[デーヴァナーガリー文字]]:सुभाष चन्द्र बोस, [[ベンガル文字]]:সুভাষ চন্দ্র বসু, [[1897年]][[1月23日]] - [[1945年]][[8月18日]])は[[インド]]の急進的独立運動家、[[インド国民会議派]]議長、[[自由インド仮政府]]国家主席兼[[インド国民軍]]最高司令官。[[ベンガル地方|ベンガル]]人。ネタージ(指導者:नेताजी, Netaji)の敬称で呼ばれる。


==プロフィール==
===独立運動家===
[[1897年]]にインド(当時は[[イギリス領インド帝国]])の[[オリッサ州]]に生まれ、カルカッタ(現在の[[コルカタ]])の大学を卒業、両親の希望で[[ケンブリッジ大学]]に留学したが、[[1921年]]に[[マハトマ・ガンディー]]指導の反英非協力運動に身を投じた。

[[1924年]]にカルカッタ市執行部に選出されるも、逮捕・投獄され[[ビルマ]]の[[マンダレー]]に流される。釈放後の[[1930年]]にはカルカッタ市長に選出されたが、イギリスの手により免職された。その後も即時独立を求める[[インド国民会議派]]の左派、急進派として活躍し、[[1937年]]と[[1939年]]には国民会議派議長を務めた。その後、ガンディーら穏健派と対立し国民会議派を除名される。

===亡命===
[[Image:Bose Gandhi 1938.jpg|200px|thumb|マハトマ・ガンディー(左)とスバス・チャンドラ・ボース(右)]]
[[第二次世界大戦]]勃発後、[[1941年]]密かにインドを脱出して陸路[[アフガニスタン]]を経て、[[ソビエト連邦|ソ連]]で[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]に協力を要請するが、断られたため、ソ連経由で[[ナチス]]政権下の[[ドイツ]]に[[亡命]]した。

[[ベニート・ムッソリーニ|ムッソリーニ]]や[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]にも協力を要請するが、ヒトラーには「インドの独立にはあと150年はかかる」と言われ協力を拒否された。また、このころドイツ人女性と出会い一女をもうけるが、政治的な問題で結婚はしていない(ボースは社会主義者だった)。ドイツではインド人から成るインド旅団(兵力3個大隊、約2,000人)を結成し、イギリスからの独立のために協力していた。ボースのベルリンからの反英[[ラジオ]]放送は有名である。

日本の[[真珠湾攻撃]]の知らせを聞いたボースは、日本に協力を願い出ることを望むが、すでに独ソ戦が始まっており、往路と同じルートを取ることは不可能だった。しかし、これを聞いた日本がインドへの影響力を考え、ボースとの協力を承諾。日本からドイツへの要請で、[[ドイツ海軍]]の[[潜水艦]][[Uボート|U180]]で密かに[[フランス]][[大西洋]]岸の[[ブレスト_(フランス)|ブレスト]]を出航、[[インド洋]]でUボートから日本の[[伊号第二九潜水艦]]に乗り換えて[[東京]]に到着した。

===自由インド仮政府===
[[Image:Greater East Asia Conference.JPG|thumb|200px|大東亜会議に参加した各国首脳。左から[[バー・モウ]]、[[張景恵]]、[[汪兆銘]]、[[東條英機]]、[[ワンワイタヤーコーン]]、[[ホセ・ラウレル]]、スバス・チャンドラ・ボース]]
東京では、以前から日本を拠点に独立運動を行っていた[[ラース・ビハーリー・ボース]](「[[中村屋]]のボース」)や[[A・M・ナーイル]]らと合流、日本の支援により同年10月21日に日本統治下の[[シンガポール]]で「自由インド仮政府首班」に就任。同年に行われた[[大東亜会議]]に[[オブザーバー]]として参加する。また、[[英領マラヤ]]や[[香港]]で捕虜になったインド兵を中心に結成されていた「インド国民軍」の最高司令官にも就任し、インド国民軍は[[1944年]]日本軍とともに[[インパール作戦]]に参加した。

なお、ドイツのインド旅団、すなわち[[自由インド軍団]]は、チャンドラ・ボース日本脱出後も欧州戦線でドイツ軍側で活動していた。また、当時の日本の[[首相]]である[[東條英機]]はボースを高く評価し、たびたび会談していた。東條自身、ボースの東亜解放思想を自らが提唱する[[大東亜共栄圏]]成立に無くてはならないものだと考えていた。

===死去===
[[画像:Subhas Chandra Bose (tokyo).JPG|thumb|200px|ボースの碑(杉並区 蓮光寺)]]
日本の敗戦により、日本と協力してインド独立を勝ち取ることが不可能となった。ボースは東西[[冷戦]]を予想し、イギリスに対抗するため[[ソビエト連邦|ソ連]]と協力しようとした。しかしソ連へ向かおうとした時、[[台湾]]の[[台北松山空港|松山飛行場]]で搭乗していた[[九七式重爆撃機]]の墜落事故により死去した。彼の臨終の言葉は「インドは自由になるだろう。そして永遠に自由だ。」ボースの遺骨は[[東京都]][[杉並区]]の[[日蓮宗]][[連光寺]]で眠っている。

インドでは、チャンドラ・ボースは生きているという[[噂]]が長く語られ、政府が調査団を組織して生存の可能性がないことを確認し、報告書も作成した。しかし、近年実施された3度目の報告書では、台湾での死亡と日本での埋葬に関して「確実とはいえない」という内容となっており、再び議論を呼び起こしている。この件に関してボースの遺族は、報告書の内容に批判的な立場を取っていると伝えられている。

[[ラース・ビハーリー・ボース]]と血縁関係はないが、遺骨が安置されている蓮光寺では、ビハーリー・ボースの側近が住んでいた家の近くにあり、密かに行われた葬儀の際はビハーリー・ボースのそれとして行われ、[[中村屋]]の[[菓子]]が供えられたという。

その後蓮光寺には、インドの[[プラサード]]大統領・[[ジャワハルラール・ネルー|ネルー]]首相・[[インディラー・ガーンディー|ガンジー]]首相などが訪問しており、その時の言葉も碑文として残されている。

==評価==
インドの国会議事堂の正面にはチャンドラ・ボース、右にはガンディー、左には[[ジャワハルラール・ネルー]]の肖像画が掲げられている。インドでは現在も人気の高い政治家である。また現在もコルカタにはボースがインドを脱出する直前まで住んでいた邸宅('''ネタージ・バワン''')があり、記念館となっている。

==関連==
*[[Portal:大東亜共栄圏]]
*[[カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム]]
*[[アンドレイ・ウラソフ]]

==外部リンク==
{{commons|Netaji}}
*[http://www.missionnetaji.org MISSION NETAJI]
*[http://indiansforaction.com INdians for Action]
*[http://www.yorozubp.com/netaji/academy-j.htm スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー]
*[http://www.kamat.com/kalranga/itihas/bose.htm Netaji Subhas Chandra Bose]
*[http://netmuseum.co.jp/ippin/ippno40.html 東京の片隅で、インドと日本の友好をさけぶ(チャンドラ・ボース慰霊塔)]
*[http://www.yorozubp.com/9808/980814.htm 杉並区の蓮光寺に眠り続けるボースの遺骨]





 
[http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%82%B9%E3%83%90%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%82%B9 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_ 2008年9月27日 (土) 16:58。]


















     
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