仮25

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仮25 - (2008/10/03 (金) 23:24:03) のソース

{{基礎情報 過去の国
|略名          = ナチス・ドイツ
|日本語国名    = ドイツ国
|公式国名      = Deutsches Reich
|建国時期      = 1933年
|亡国時期      = 1945年
|先代1         = ヴァイマル共和政
|先旗1         = Flag of Germany (2-3).svg
|先代2         = 第一共和国 (オーストリア)
|先旗2         = Flag of Austria.svg
|先代3         = チェコスロバキア
|先旗3         = Flag of Czechoslovakia.svg
|先代4         = ポーランド
|先旗4         = Flag of Poland.svg
|先代5         = ルクセンブルク
|先旗5         = Flag of Luxembourg.svg
|次代1         = 西ドイツ
|次旗1         = Flag of Germany.svg
|次代2         = ドイツ民主共和国
|次旗2         = Flag of East Germany.svg
|次代3         = オーストリア
|次旗3         = Flag of Austria.svg
|次代4         = チェコスロバキア
|次旗4         = Flag of Czechoslovakia.svg
|次代5         = ポーランド
|次旗5         = Flag of Poland.svg
|次代6         = ルクセンブルク
|次旗6         = Flag of Luxembourg.svg
|国旗画像      = Flag of Germany 1933.svg
|国章画像      = Reichsadler.svg
|国章リンク    = ドイツの国章
|標語          = ''"Ein Volk, ein Reich, ein Führer."''
|国歌名        = ドイツの歌、旗を高く掲げよ
|位置画像      = NaziGaue.png
|公用語        = [[ドイツ語]]
|首都          = [[ベルリン]]
|元首等肩書    = [[総統]]
|元首等年代始1 = [[1934年]][[8月2日]]
|元首等年代終1 = [[1945年]][[4月30日]]
|元首等氏名1   = [[アドルフ・ヒトラー]]
|首相等肩書    =
|首相等年代始1 =
|首相等年代終1 =
|首相等氏名1   =
|面積測定時期1 = 1937年
|面積値1       = 633,786
|人口測定時期1 = 1937年
|人口値1       = 69,314,000
|変遷1         = 選挙
|変遷年月日1   = [[1933年]][[7月29日]]
|変遷2         = 崩壊
|変遷年月日2   = [[1945年]][[7月5日]]
|通貨          = [[ライヒスマルク]]
|注記          = <references/>
}}

'''ナチス・ドイツ'''は、[[国家社会主義ドイツ労働者党]]が支配した[[1933年]]から[[1945年]]の元首制的共和国としての[[ドイツ]]を指す。

== 国名 ==
正式な国名は[[帝政ドイツ]]、[[ヴァイマル共和政|ヴァイマル共和国]]を通じて'''Deutsches Reich'''([[ドイツ国]])である。一時期、ドイツ全国を統一的に統治した国家体制として、[[神聖ローマ帝国]]([[962年]]&ndash;[[1806年]])、[[帝政ドイツ]]([[1871年]]&ndash;[[1918年]])に次ぐという意味で、「第三帝国」 ([[:de:Drittes Reich|Drittes Reich]]) という呼称を宣伝に使用したが、これが逆に敵対国の反独宣伝に利用されたため、ナチス政府はこの語の使用を禁じた。またナチス・ドイツは帝政(帝国)ではなく共和政(共和国)であることから、英語では帝政でない国を '''Third Empire''' とは言えないのでドイツ語のまま '''[[:en:Third Reich|Third Reich]]''' といった。日本では戦後になって英語の Third Reich の訳語として[[第三帝国]]がより広く知られるようになった。

== 政治 ==
=== 一党独裁体制 ===
* ナチスは[[ヒトラー内閣]]成立直前の[[1932年]]の二度の国会選挙で最大の得票を得たが、議会においては単独では過半数を獲得することはできなかった。同年11月の選挙でナチスは34議席を失い、[[ドイツ共産党]]は11議席を増やし、首都[[ベルリン]]では共産党が投票総数の31%を占めて単独第一党となった。これに脅威を感じた保守派と財界は以後、ナチスへの協力姿勢を強める。
* [[1933年]]1月には途絶えていた財界からナチスへの献金も再開され、30日[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]][[ドイツの大統領|大統領]]は、周囲に説得されて[[クルト・フォン・シュライヒャー]]に代わって[[アドルフ・ヒトラー]]を[[ドイツ国首相|首相]]に任命した。
* [[1933年]]2月27日の[[ドイツ国会議事堂放火事件|国会議事堂放火事件]]でヒトラーは緊急大統領令を布告して非常事態を宣言、[[ヴァイマル憲法|ワイマール共和国憲法]]によって成立した基本的人権や労働者の権利のほとんどを停止させた。[[オランダ]]人の[[ドイツ共産党|共産党]]員、[[マリヌス・ファン・デア・ルッベ]]を放火犯として逮捕、共産党への弾圧を開始した。
* [[1933年]]3月5日の総選挙で共産党は大きく後退し、ナチスは43.9%の得票を得た。[[1933年]]3月12日に新[[ドイツの国旗|国旗]]を制定するまで黒・白・赤の旧[[ドイツ帝国]][[ドイツの国旗|国旗]]とナチ党旗であるハーケンクロイツ旗の両方を掲げる事を定めた。
* [[1933年]]3月23日にヒトラーは議会で[[全権委任法|授権法(全権委任法)]]を成立させ、議会から立法権を取上げ、独裁体制を確立した。
* [[1933年]]4月26日[[ゲシュタポ|秘密警察]]を設置。批判者や反対者がナチスに報告され、ナチスが直接ドイツの社会をコントロールする手段を保持する。多くのナチスの政敵、特に共産党および[[ドイツ社会民主党|社民党]]員が政治犯として収容所に収容された。
* [[1934年]]1月30日には「国家再建法」を成立させた。同法はヴァイマル共和国時代に大きく地方自治を許されていたドイツを一元的な中央集権国家に変貌させた。州議会が解散され、州総督(国家代理官、[[:de:Reichsstatthalter|Reichsstatthalter]])としてナチ党幹部が送り込まれた。
* [[1934年]]8月2日に[[パウル・フォン・ヒンデンブルク|ヒンデンブルク]]大統領が死去すると、首相であるアドルフ・ヒトラーは国家元首の大統領職を兼務した「[[総統]]」となり、独裁者として全権を担う。

{{ナチズム}}
=== 経済政策 ===
[[アドルフ・ヒトラー#経済政策|ヒトラーの経済政策]]を参照。

=== 社会政策 ===
ナチス政権は[[人種主義]]を強く打ち出し、[[アーリア人種]]の優秀さを強調。人種、社会、文化的清浄を求めて社会のすべての面の政治的支配を行った。また抽象美術および前衛芸術は博物館から閉め出され、「[[退廃芸術]]」として嘲られた。

ナチスは政敵の[[ドイツ人]]や[[ユダヤ人]]、[[ロマ|ジプシー]]のような少数民族、[[エホバの証人]]および[[同性愛者]]や[[障害者]]など彼らの価値観で不潔であると考えられる人々の迫害を通じてその目的を追求した。

[[1933年]]に成立した「断種法」の下、ナチスは[[精神病]]や[[アルコール依存症]]患者を含む[[遺伝]]的な欠陥を持っていると見なされた40万人以上の個人を強制的に処分した。[[1940年]]になると[[T4作戦|T4 安楽死プログラム]]によって何千人もの障害を持つ病弱な人々が殺害された。それは「ドイツの支配者民族としての清浄を維持する」''Herrenvolk'' とナチスの宣伝で記述された。T4作戦は表向きには[[1941年]]に中止命令が発せられたが、これらの政策は後の[[ホロコースト]]に結びついた。

[[1935年]]に[[ニュルンベルク法]]が制定されたことによって、ユダヤ人はドイツ国内における市民権を否定され公職から追放された。ほとんどの[[ユダヤ人]]はこの時期に仕事を失い、失業中のドイツ人によって取って代わられた。[[1938年]]11月9日に、ナチスはユダヤ人商店の破壊を行った。それはあたかも通りが割れたガラスによって水晶で覆われているかのように見えたため「[[水晶の夜]]」''Kristallnacht''(クリスタルナハト)と呼ばれた。[[1939年]]9月までに20万人を越えるユダヤ人がドイツを去った。またドイツ政府は彼らが残していった全ての財産を没収した。

=== ナチスとバチカン ===
ドイツ・[[カトリック教会]]に対するナチスの暴力的行為が問題となり、これを終止させることを条件として[[1933年]]7月20日当時[[バチカン]]の国務長官を務めたパチェッリ枢機卿(後の教皇[[ピウス12世 (ローマ教皇)|ピウス12世]])と[[フランツ・フォン・パーペン]]との署名により、ナチス・ドイツは[[ローマ教皇庁]]との[[コンコルダート]](政教条約 ''Reichskonkordat 1933'')を締結することとなった。ヒトラーは条約批准直前の閣議で、このコンコルダートが党の道徳的公認になるとの発言をしていた。これに対しかつて[[教会法]]専門の研究で学位取得し、教皇[[ピウス10世 (ローマ教皇)|ピウス10世]]による教会法大全の起草・編纂を務めたパチェッリは後の7月26日、27日ヴァチカンの日刊紙「[[オッセルヴァトーレ・ロマーノ]]」での声明で、コンコルダード批准が道徳的同意というヒトラーの見解を断固否定し、教会法大全に基づく教会[[ヒエラルキー]]の完全かつ全面的承認および受容を意義とすると激しく反論した。

しかしこの事が仇となり、締結後もナチス側の暴力的行為は治まるどころか増す一方で、教会内に思想的規制および介入するなど条約を無視した行為が頻発するようになった。こういった状況が続く中で、後に即位した教皇ピウス12世はナチスによるユダヤ人迫害に沈黙したため、終戦後に迫害を「黙認した」として非難され続けた。教皇[[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]]は後にユダヤ人迫害時のカトリック教会の対応について謝罪の声明を述べている。しかし歴史的調査によると、大戦中に教皇ピウス12世から[[アメリカ合衆国]]の[[フランクリン・ルーズベルト|ルーズベルト]]大統領宛に、ナチスを非難する極秘の書簡が送られていたという事実があったことが明らかにされている。

=== 第二次世界大戦 ===
ドイツは[[第一次世界大戦]]で失った旧[[ドイツ帝国]]領[[ポーランド回廊|西プロイセン]]の返還を[[ポーランド]]に要求。拒否されると[[1939年]]に[[ポーランド侵攻]]する。また、[[独ソ不可侵条約|独ソ秘密協定]]によってソ連も侵攻する。これに対し[[イギリス]]や[[フランス]]が[[宣戦布告]]し[[第二次世界大戦]]が始まる。[[ドイツ軍]]の[[電撃戦]]により[[ポーランド]]、[[フランス]]、[[デンマーク]]、[[ノルウェー]]、[[ベルギー]]および[[オランダ]]を征服、[[イギリス]]は本土上陸の脅威にさらされた。攻勢に転じたことで[[ギリシア]]および北アフリカへの侵攻後、ドイツは[[1941年]]に[[ソビエト連邦|ソ連]]に侵攻する。

しかし[[1943年]]の[[スターリングラード攻防戦]]および[[1944年]]の[[ノルマンディー上陸作戦]]での敗北後、政権は崩壊を始めた。西と南からの[[連合軍]]および東からの[[赤軍]]ならびにポーランド軍によって占領地は縮小し、[[1945年]]春には連合軍はドイツ国内へ侵攻した。[[1945年]]4月にヒトラーは自殺し、5月の最初の週にドイツは[[連合国]]に対し[[無条件降伏]]した。

=== ホロコースト ===
{{main|ホロコースト}}
[[Image:Deportation to Chelmno.JPG|right|thumb|強制移送されるユダヤ人]]
大戦中、ユダヤ人や少数民族に対する迫害はドイツ国内および占領地域で継続した。[[1941年]]からはユダヤ人は「[[ダビデの星]]」の着用を義務づけられ、[[ゲットー]]に移住させられた。[[ラインハルト・ハイドリヒ]]の監督下、[[1942年]]1月に開催された[[ヴァンゼー会議]]では「ユダヤ人問題の最終解決策」''Endlösung der Judenfrage'' が策定されたとされる。何千人もの人が毎日[[強制収容所]]に送られ、この期間中には多くの[[ユダヤ人]]、ほぼ全ての[[同性愛者]]、[[身体障害者]]、[[スラブ人]]、[[政治犯]]、[[エホバの証人とホロコースト|エホバの証人]]を系統的に虐殺する計画が立てられる。また、1,000万人以上がただ働きで扱われた。この大量虐殺はホロコースト、ヘブライ語ではショアー(Shoah)と呼ばれる。ナチスは婉曲的に「最終解決策」''Endlösung'' という用語を使用した。

ホロコーストと平行してナチスは占領下のソ連で「征服、植民地化と搾取」を行った。ロシア人が「[[大祖国戦争]]」と呼ぶこの戦争で1,100万人の赤軍兵士を含むおよそ2,500万人の市民がナチスの虐待下で死んだ。ナチスの計画はドイツの「生存圏」''Lebensraum'' を東方に拡張することだったが、対ソ戦の口実は「[[ボルシェヴィズム]]からの防衛」だった。

=== 戦後 ===
[[ポツダム会議]]によってドイツ本土は分割統治され、ドイツの国境は西に大きく移動され、旧領土の三分の一を失った。多くがポーランド領となり、[[オストプロイセン]]については半分はソ連に併合された。[[チェコスロバキア]]、[[ユーゴスラビア]]、[[ルーマニア]]および[[ハンガリー]]といった地域での少数民族であった約1,000万人のドイツ人は追放された。アメリカ合衆国、イギリス、フランスの西側占領地域は[[ドイツ連邦共和国]]となり、東側のソ連占領地域は[[共産主義]]の[[ドイツ民主共和国]]になった。

[[Image:Nuremberg-1-.jpg|thumb|ニュルンベルク裁判]]
ヨーロッパのみならず世界を戦争の渦に巻き込んだアドルフ・ヒトラーはその敗戦直前に自殺し、残された[[ヘルマン・ゲーリング]]や[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ]]、[[ヴィルヘルム・カイテル]]などのナチス首脳部の一部は、連合軍による戦争裁判・[[ニュルンベルク裁判]]で裁かれることになった。

その他にも、ヒトラーお抱えの[[映画]][[監督]]と言われた[[レニ・リーフェンシュタール]]や、ナチス占領下のフランスで、ナチス高官の愛人の庇護のもと自堕落な生活を送っていた[[ココ・シャネル]]など、国籍を問わず、ドイツの犯罪行為に加担した芸術家や実業家なども戦後罪を問われ、活動を禁止された者が数多くいた。

すべての非ファシスト・ヨーロッパ諸国ではナチ党および[[ファシスト党]]の元構成員を罰する法律が確立された。また、連合軍占領地域でのナチ党員やドイツ兵の子供に対する統制されない処罰が行われた(参照:[[ナチの子供]])。終戦前に逃亡した者も、国際手配されて最終的に処刑された。

== ナチス・ドイツの武力組織 ==
[[Image:War_Ensign_of_Germany_1938-1945.svg|180px|thumb|ナチス・ドイツ時代のドイツの軍旗 (Reichskriegsflagge)]]
=== 正規軍 ===
* [[国防軍最高司令部]] (Oberkommando der Wehrmacht, OKW)
** [[陸軍総司令部]] (Oberkommando des Heeres, OKH)
** [[海軍総司令部]] (Oberkommando der Marine, OKM)
** [[空軍総司令部]] (Oberkommando der Luftwaffe, OKL)
*** [[ドイツ陸軍]] (Heer)
*** [[ドイツ空軍]] (Luftwaffe)
*** [[ドイツ海軍]] (Kriegsmarine)

{{ドイツの歴史‎}}
=== ナチ党軍事組織 ===
* [[武装親衛隊]] (Waffen-SS)

=== 準軍事組織 ===
* [[突撃隊]] (SA ,Sturmabteilung)
* [[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]] (SS ,Schutzstaffel)

=== 警察組織 ===
* 政治警察部門 ([[国家保安本部]], RSHA, Reichssicherheitshauptamt)
** 治安警察 (Sipo, Sicherheitspolizei)
*** [[ゲシュタポ|秘密警察]] (Gestapo, Geheime Staatspolizei)
*** [[刑事警察_(ドイツ)|刑事警察]](Kripo, Kriminalpolizei)
** 親衛隊保安部 (SD, Sicherheitsdienst des Reichsführer der SS)
* 一般警察部門
** [[秩序警察]] (Orpo, Ordnungspolizei)
*** [[大都市警察]] (Schutzpolizei)
*** [[地方警察_(ドイツ)|地方警察]] (Gendarmerie)
*** 市町村警察 (Gemeindepolizei)

=== 政治結社 ===
* 国民社会主義ドイツ労働者党 (NSDAP, Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei)

== ナチス・ドイツの台頭を背景にした映画作品 ==
* 『[[オリンピア (映画)|オリンピア]]』''Olympia''(第1部:『[[民族の祭典]]』 - ''Fest der Völker (Olympia Teil I)'' /第2部:『[[美の祭典]]』- ''Fest der Schönheit (Olympia Teil II)''(1938年、ドイツ映画):1936年の[[ベルリン]]オリンピックの記録映画。健全な肉体と精神を賛美し、身体・精神障害者を迫害し、強制的に避妊手術を施し、さらには絶滅政策を行ったナチスが国威発揚のために作らせたものだが、映画芸術上の評価は高い。なお映画自体には、民族差別色は薄い。[[レニ・リーフェンシュタール]]監督作品。
* 『[[我輩はカモである]]』 - ''Duck Soup''(1933年、アメリカ映画):[[チャーリー・チャップリン|チャップリン]]・[[バスター・キートン|キートン]]と共に、「アメリカ三大喜劇王」と言われる、[[マルクス兄弟]]による、独裁者により戦争の恐怖へ突き落とされる、架空の独裁国家フリードニアを舞台とした風刺喜劇映画。
* 『[[独裁者 (映画)|独裁者]]』 - ''The Great Dictator''(1940年、アメリカ映画):仮想の独裁者ヒンケルと迫害されるユダヤ人の二役をチャップリンが演じた風刺喜劇映画。撮影中も上映中も、ファシズム・ナチズムに共感する極右アメリカ人による様々な妨害を受けた。また、戦後アメリカの「[[赤狩り]]」の際、チャップリンは左翼的であるとして追放される原因となった。なお、ヒトラーはこの映画を部下とともに極秘に鑑賞したが、チャップリンに対する処刑命令は出していない。
* 『[[サウンド・オブ・ミュージック]]』 - ''The Sound of Music''(1965年、アメリカ映画):ナチス・ドイツ併合下の[[オーストリア]]を舞台にしたアメリカミュージカル映画の代表作。[[マリア・フォン・トラップ|修道女マリア]]が音楽を通じて厳格なオーストリア海軍軍人の家庭を癒していく様を描いた。ナチスに協力を求められた海軍大佐は家族ともに国外へ脱出する。唱歌として知られる『[[ドレミのうた]]』は、この映画が発祥。
* 『[[地獄に堕ちた勇者ども]]』 - ''La caduta degli dei''(1969年、イタリア・スイス・西ドイツ合作映画):ナチス突撃隊粛清([[長いナイフの夜]]事件)とナチスによる[[ルール地方]]の鉄鋼王一族の退嬰を描いた[[ルキノ・ヴィスコンティ]]監督の代表作。ヴィスコンティに重用された[[ヘルムート・バーガー]]主演。
* 『[[特別な一日]]』 - ''Una Giornata Particolare''(1977年、イタリア・カナダ合作映画)
* 『[[インディ・ジョーンズ/最後の聖戦]]』 - ''Indiana Jones and the Last Crusade''(1989年、アメリカ映画)・『[[レイダース/失われたアーク《聖櫃》]]』(1981年、アメリカ映画):いずれも[[スティーヴン・スピルバーグ]]の作品で、大いなる力を宿す[[聖杯]]・[[契約の箱|聖櫃]]を奪い世界の支配権を握ろうと企むナチスやヒトラーと戦う正義のヒーローを描く娯楽大作。<!--オカルトじみているが、持つものに世界の支配権を与えるとされる[[ロンギヌスの槍]]にヒトラーが触れていた・もしくは保有していたとされる説が元になっているかもしれない。また、スピルバーグはユダヤ系アメリカ人であり、反ナチス感情が強いのかもしれない。-->
* 『[[戦場のピアニスト]]』 - ''The Pianist''(2002年、フランス・ドイツ・ポーランド・イギリス合作映画)
* 『[[ブリキの太鼓]]』-(1979年、西ドイツ・フランス合作):[[ギュンター・グラス]]原作。[[第一次世界大戦]]後の国際自由都市[[ダンツィヒ]]を舞台に、人間の醜悪な姿を、三歳で成長を止めた少年の視点からナチの台頭を交えて描く。
* 『[[ライフ・イズ・ビューティフル]]』-(1998年、イタリア):[[ロベルト・ベニーニ]]主演・監督作品。北イタリアにおけるナチの駐留、ユダヤ人狩りをテーマにした映画。収容所に入れられたユダヤ人のグイドは、絶望的な状況の中で自分の幼い息子を必死で守ろうとする。
* 『さよなら子供たち』-(1987年、フランス・西ドイツ合作):[[ルイ・マル]]監督作品。ナチス占領下のフランスにおけるユダヤ人狩りを描いた作品。主人公のフランス人少年と、教会の学校に匿われているユダヤ人少年との交流を中心に、ナチに協力したフランス人がいた現実、密告や裏切りなどの醜悪な姿などを綿密に描いている。

[[ナチズム・ファシズムの台頭を主題とした映画の一覧]]も参照のこと。

== 文献 ==
* [[アドルフ・ヒトラー]]『''Mein Kampf, Erster Band, Eine Abrechnung''』、1925年、ドイツ(邦訳:[[わが闘争]](上)I[[民族主義]]的世界観)
* アドルフ・ヒトラー『''Mein Kampf, Zweiter Band, Die nationalsozialistische Bewegung''』、1927年、ドイツ(邦訳:[[わが闘争]](下)II[[国家社会主義]]運動)
* 澤田謙『ヒットラー傳』、大日本雄弁会講談社、1934年
* 四宮恭二『ナチス』、政経書院、1934年
* 森川覚三『ナチス独逸の解剖』、コロナ社、1940年
* [[トラウデル・ユンゲ]]『私はヒトラーの秘書だった(原題:''Bis zur letzten Stunde'')』、 (2002年、ドイツ)
* [[ヨアヒム・フェスト]]『ヒトラー最後の12日間(原題:''Der Untergang-Hitler und das Ende des Dritten Reiches'')』、(2002年、ドイツ)
* [[ウワディスワフ・シュピルマン]]『[[戦場のピアニスト]](原題:''THE PIANIST: The extraordinary story of one man's survival in Warsaw, 1939-45'')』、(1999年、イギリス)

== 関連項目 ==
{{ウィキポータルリンク|第三帝国}}
* [[ドイツの歴史]]
* [[ナチの子供]]
* [[ナチズム・ファシズムの台頭を主題とした映画の一覧]]
* [[独立スロバキア]] - ナチスの傀儡国家

== 外部リンク ==
* [http://www.axishistory.com/index.php?id=31 Axis History Factbook &mdash; Third Reich]
* [http://hitlernews.cloudworth.com/ Hitler's Third Reich in the News - daily edited review of Third Reich related news and articles.]
* [http://www.ns-archiv.de/index.php NS-Archiv] - Large collection of original scanned Nazi documents
* [http://www.videolexikon.com/view_310-33-505-0704-001.htm The German Resistance and the USA]
* [http://www.geocities.jp/torikai007/bio/anne-ref.html 反ナチス抵抗運動:人種民族差別撤廃]







[http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%83%8A%E3%83%81%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年3月3日 (月) 11:15。]






















      
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