ハーグ密使事件(ハーグみっしじけん)は、1907年(明治40年)に大韓帝国がオランダのハーグで開催されていた第2回万国平和会議に密使を送り、自国の外交権保護を訴えるも国際社会から完全に拒絶された事件。
日本は、1905年の第二次日韓協約(日韓保護条約)によって大韓帝国の外交権を接収した。皇帝高宗は密使外交を展開することで日本からの支配を打破しようと試みていた。李容泰、沈相薫、金嘉鎮ら大韓帝国内の抗日派は、イギリス人ベッセルやアメリカ人ホーマー・B・ハルバートらと図り、さらに海外にいた李学均、李範晋らと連絡を取り合い、1907年6月、ハーグで開催されていた第2回万国平和会議に皇帝の密使を派遣し、列強に大韓帝国の外交権保護(第二次日韓協約の無効)を訴えようとした。密使として派遣されたのは李相卨(元議政府参賛)、李儁(前平理院検事)と李瑋鍾(前駐露公使館二等書記官、前駐露公使李範晋の次男)の三人である。
ハーグに到着した彼らは、デ・ヨング (De Jong) ホテル高石は「晩餐五十銭位の安旅館」としている。「韓人の運動」大阪毎日新聞、明治40年7月3日。に投宿し、公然と活動を始めた。しかし会議に出席していた列強は大韓帝国の外交権が日本にあること、大韓帝国の利益は条約によって日本政府が代表していることなどを理由に三人の密使の会議出席を拒絶した。出席を拒まれた密使らはやむなく抗議行動として現地でビラ撒きや講演会を行った。
日本は万国平和会議の首席代表として派遣されていた都築馨六特命全権大使がこの事件に対応した。また大阪毎日新聞より派遣されていた高石真五郎は連日、特派員電として現地の情勢を伝えた。この時、高石は日本人としてただ一人、密使と面会している。
密使の一人である李儁は7月14日にハーグにて客死した。当時の大韓帝国の新聞は李儁の死を自決と伝えたが1956年、韓国の国史編纂委員会が調査委員会を作って調べたところ、大韓毎日申報主筆の梁起鐸が申采浩、ベッセルと協議し「切腹」と書くことにしたという証言を得た。また他の文献資料にも切腹を示すものは見られなかったという。Template:ko icon?「李儁烈士切腹の真相は?」聨合ニュース、2007年6月31日。、頬にできた腫瘍の手術が原因で死亡したとする病死説もある。
万国平和会議に合わせて何らかの運動を行なうこと、ハルバートが工作費として宮廷より金員3万円を受け取ったという噂が流れていた。「海牙の韓人と韓廷」大阪毎日新聞、明治40年7月4日。。
事件に先立つ1907年1月16日、『大韓毎日申報』は前年ロンドン・トリビューン紙に掲載された高宗の親書を転載する形で改めて報じた。その内容は次のようなものであった。
前述のデ・ヨング (De Jong) ホテルの位置には現在「李儁烈士記念館」が建てられており、皇帝高宗の「委任状」の写真が飾られている。これには「大皇帝」という文字の下に自筆署名と、その下に「皇帝御璽」の印が押されている。しかしこの署名や印について、イ・ヤンジェ(李儁烈士殉国100周年記念事業推進委員会総務理事)や印刻専門家のチョン・ビョンレ(古岩篆刻芸術院院長)は「偽造された可能性が高い」と指摘している。ソウル大国史学科の李泰鎮は、「任務を口頭で伝え、後で書き入れるようにした委任状ではないか」と推測している。オランダ国立文書保管所の担当者によると「3人がハーグで皇帝の委任状を提示したという記録はまったく存在していない」と語っており、委任状の存在自体の確認が正式には取れない状態である。2007年7月8日 朝鮮日報
韓国統監であった伊藤博文が事件を厳しく追及すると、高宗は子の純宗へ譲位した。同年7月24日に韓国統監の権限強化をうたった第三次日韓協約が締結された。この協約によって、韓国は外交権に加えて内政権も日本に接収されることとなった。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月17日 (金) 13:33。