極東国際軍事裁判(きょくとうこくさいぐんじさいばん The International Military Tribunal for the Far East)は東京裁判(とうきょうさいばん)ともいい、第2次世界大戦で日本が降伏した後、連合国が戦争犯罪人として指定した日本の指導者などを裁いた裁判である。
1946年(昭和21年)1月19日に降伏文書およびポツダム宣言の第10項を受けて、極東国際軍事裁判所条例(極東国際軍事裁判所憲章)が定められ、1946年(昭和21年)4月26日の一部改正の後、裁判が行われた。起訴は1946年4月29日(4月29日は昭和天皇の誕生日)に行われ、27億円の裁判費用は、日本政府が支出した。
連合国(戦勝国)からの判事としては、アメリカ、英国、ソ連、フランス、オランダ、中華民国、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、インド、フィリピンの11ヶ国が参加した。
当初55項目の訴因があげられたが最終的に10項目の訴因にまとめられた。なお判決に影響しなかった訴因のうち、「日本、イタリア、ドイツの3国による世界支配の共同謀議」、「タイ王国への侵略戦争」の2つについては証拠不十分のため、残りの43項目については他の訴因に含まれるとされ除外された。
1946年5月3日より審理が開始し、1948年(昭和23年))11月4日、判決の言い渡しが始まり、11月12日に刑の宣告を含む判決の言い渡しが終了した。判決は、英文1200ページを超える膨大なもので、米国・英国・ソ連・中華民国・カナダ・ニュージーランド6か国の判事による多数判決であった。裁判長であるオーストラリアの判事とフィリピンの判事は、別個意見書を提出した上で、結論として判決に賛成した。一方、オランダ・フランス・インドの判事は、少数意見書を提出した。オランダ・フランスの判事の少数意見書は、判決に部分的に反対するものだった。インドの判事は、ただ一人、判決に全面的に反対する少数意見書を提出した。
絞首刑(死刑)の執行は、12月23日(当時皇太子だった明仁親王の誕生日、現天皇誕生日)に行われた。
なお、連合国の中には昭和天皇の退位・訴追に対して積極的な国もあり、昭和天皇自身も日本の一部関係者との会話の中で「私が退位し全責任を取ることで収めてもらえないものだろうか」と言ったと伝えられている。しかし、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) の最高指令官ダグラス・マッカーサーが、当時の日本の統治において天皇の存在を必要と考えたため、天皇の退位・訴追は行われなかった。
極東国際軍事裁判は、戦勝国が敗戦国を裁くという構図であったため、その評価については議論の対象になることが多い。
この裁判では、原子爆弾の使用など連合国軍の行為は対象とされず、証人のすべてに偽証罪を問わなかった。また、罪刑法定主義・法の不遡及が保証されなかったことの指摘も多い。当時の国際条約(成文国際法)は、現在ほど発達しておらず、当時の国際軍事裁判においては、現在の国際裁判の常識と異なる点が多く見られた。
同時期にドイツが舞台となったニュルンベルク裁判では、ドイツの法曹関係者の大半が裁判に(裁く側にも)協力しているが、極東国際軍事裁判では、日本の法曹関係者の裁判への協力は行われていない(被告側弁護人としては弁護団の団長の鵜澤總明弁護士、清瀬一郎や瀧川政次郎らが参加していた)。なぜ協力が行われなかったかについては、日本の法曹関係者の関与が広島市への原子爆弾投下と長崎市への原子爆弾投下をめぐる処理を複雑化し、戦勝国、特にアメリカ合衆国にとっては望ましくない影響をもたらす可能性があったからだとも考えられている。
更にドイツではナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)中心として進められたとした「共同謀議」の論理をそのまま日本の戦争にも認定した事(日本では一連の戦争中でも陸海軍間の対立など、常に政治的な確執が内在していた)や近衛文麿・杉山元といった重要決定に参加した指導者の中に自殺者が出たりしたために、日本がいかにして戦争に向かったのかという過程が十分に明らかにされなかった事も問題視されている。
このため日本では、ドイツにおけるニュルンベルク裁判に対する批判はあまり聞かれないが、日本における極東国際軍事裁判については、戦勝国の報復という意見や日本側の非協力の結果という意見などが見られる。なお、極東国際軍事裁判の評価をめぐっては、研究が続けられており、今のところ結論が確定するには至っていない。
具体的な研究としては、裁判の公平性に関して次のような論説がある。
判事(裁判官)については、中華民国から派遣された梅汝敖判事が自国において裁判官の職を持つ者ではなかったこと、ソビエト連邦のI・M・ザリヤノフ判事とフランスのアンリー・ベルナール判事が法廷の公用語(日本語と英語)を使用できなかったことなどから、この裁判の判事の人選が適格だったかどうかを疑問視する声が特に裁判の対象となった日本を中心として存在している。
インドのヒンドゥー教法哲学の専門家ラダ・ビノード・パール判事は、判決に際して日本無罪論を発表し、「この裁判では、有罪とすることができない」と語ったことで知られている。ただし、この意見は“日本を裁くなら連合国も同等に裁かれるべし”あるいは“連合国を裁かないなら日本も裁かれるべきでない”というものであり裁判の公平性を訴えるものである。1952年の来日時にパール博士は以下のように表明した。
また、フランスのアンリー・ベルナール判事は裁判後「すべての判事が集まって協議したことは一度もない」と東京裁判の問題点を指摘した。
欧米などでは、判事や関係者による指摘が起こるとともに国際法学者間で議論がされ、裁判に不備があったという意見が大部分であったといわれている。なお、ロンドンタイムズなどは、2か月にわたって極東国際軍事裁判に関する議論を掲載した。
また、当時の日本統治を担当し、裁判の事実上の主催者ともいえた連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーは、後にハリー・S・トルーマンアメリカ合衆国大統領と会談した際に、「東京裁判は平和のため何ら役に立たなかった」と述べたといわれる。
なお、日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)の第11条においては、「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した1又は2以上の政府の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。」と定められているが、これは講和条約の締結により占領政策の効力が失われるという国際法上の慣習に基づき、何の措置もなく日本国との平和条約を締結すると極東国際軍事裁判や日本国内や各連合国に設けられた戦犯法廷の判決が無効化され、裁判が終結していない場合は即刻釈放しなければならなくなることを回避するために設けられた条項である。
しかし、この条項の「裁判の受諾」の意味---すなわちこの裁判の効力に関して---をめぐって、判決主文に基づいた刑執行の受諾と考える立場と、判決手続き一般の受諾と考える立場に2分されている。(「裁判の受託」という文節の本文は『Japan accepts the judgments』であり、判決主文に基づいた刑を意味する『sentence』とは明確に区別されている。また「judgment」は「判決」と訳されることもあるが、沖縄返還協定のように「裁判」と訳されることもある。)
日本国内においては、1952年12月9日に衆議院本会議で「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」が少数の労農党を除く多数会派によって可決された。さらに翌年、極東軍事裁判で戦犯として処刑された人々は「公務死」と認定された。
今では極東国際軍事裁判が公正な裁判とする意見よりも魔女狩り同然であったとする意見が目立つのは戦争犯罪はどこの国でも犯しているものであり、勝者が敗者を裁くこと自体卑劣な復讐劇に過ぎないからと言われている。アメリカの原爆投下も、日独に対する無差別空爆も、ソ連のポーランド侵攻も、ベルリンにおけるレイプもすべて不問とされ不公正だとの意見が大勢である。そうした経緯から戦争犯罪を裁く枠組みがようやくでき上がりつつある(国際刑事裁判所参照)。
なお、アメリカ下院は現在も「極東国際軍事裁判の決定、及び“人道に対する罪”を犯した個人に対して言い渡された有罪判決は有効」との立場を取っている(2005年7月14日決議)。
詳細はA級戦犯を参照
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年1月17日 (木) 13:04。