chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「版籍奉還」で検索した結果

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  • 版籍奉還
    版籍奉還(はんせきほうかん)とは、明治2年6月17日(1869年7月25日)に日本の明治政府により行われた中央集権化事業の1つである。諸大名から天皇への領地(版図)と領民(戸籍)の返還。 慶応4年(1868年)4月、江戸幕府の解体により成立した明治新政府は、政体書において地方制度では大名領を藩とし、大名を知事に任命して諸大名統治のかたちを残す府藩県三部制を確立する。10月には藩行政と家臣の分離を定める藩治職制を設け、政府による藩統制を行う。翌明治2年(1869年)1月に新政府樹立に貢献した薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩が建白書を提出し、同年5月には上局、公議所において諮問が行われて実施され、同年9月には藩制布告が行われる。明治4年(1871年)には薩長土を主体とする御親兵とする軍事力を持って廃藩置県を行い、府県制が確立する。 版籍奉還は次の廃藩置県までの過渡的措置であるが、当時藩に対す...
  • 太政官布告・太政官達
    ...ただし、1869年の版籍奉還以前に藩に対して出された指示は全て「太政官達」である。これは、幕藩体制においては、藩(藩主)が自己の所領内の版(土地)と籍(人民)を支配する唯一の公権力であり、公儀(江戸幕府→明治政府)は藩に対しては命令を出来てもそこに属する藩士(陪臣)・領民に対して直接命令できる権限が無かったからである。しかも、諸藩に命令を強制できるだけの直属の軍隊が無かった(戊辰戦争の官軍は全て諸藩連合軍である)ために、当時の太政官は緩やかな「太政官達」の形式で藩に要請して、その内容を藩が改めて自己の藩士・領民に対して命令を下す形式を取ったのである。版籍奉還によって明治政府は初めて諸藩の藩士・領民に対して法令を直接下せる権限を得たのである。。 また、明治初期の国家意思形成の不統一性の問題もあり、規制対象を同じくする法令が何度も公布されたり、法令の名称についても、「法」、「条例」、「...
  • 秩禄処分
    ...桂小五郎)らの主導で版籍奉還が行われ、家禄は政府から支給される形となり、禄制は大蔵省が管轄することとなる。1870年には公家に対する禄制改革が実施される。 留守政府の禄制改革議論 1871年4月には廃藩置県が実行されて幕藩体制は解消、全国の士族は政府が掌握する。10月には幕末に諸外国と結ばれた不平等条約の改正(条約改正)などを目的とした岩倉使節団が派遣され、留守政府において禄制改革は行われた。大蔵卿大久保利通に代わり次官大輔の井上馨が担当し、地租改正と平行して井上は急進的な改革を提言する。井上の改革案は大蔵少輔吉田清成を派遣して使節団に参加している大久保や工部省大輔の伊藤博文に報告を行うが、急進的な改革案に対し岩倉具視や木戸孝允らは難色を示し、審議は打ち切られる。一方で、留守政府においては1871年には禄高人別帳が作成されるなど、多元的であった家禄の支給体系の一律化が進む。 ...
  • 岩倉具視
    ...てしまった。 版籍奉還と廃藩置県 岩倉の辞任後、政府では版籍奉還が検討されるようになった。岩倉は版籍奉還に関する意見書を政府に提出し、この中で藩主達は中央政府から任命された行政官(知事)ということにし、当分は知事に領地を管理させる。しかし支配の実態は確実に中央政府へ移し、知事個人には土地および人民は私有物ではないことを周知徹底させ、藩政と家政も明確に区分させ、混同させないようにすべきとした ref name=iwakurakoujikki/ 。 6月の版籍奉還後、再び行政組織の再編があり、古代の官制「省」を模した体制となった。すなわち政府首班を左右大臣・大納言・参議で構成し、その下の行政組織として民部省・大蔵省・兵部省・刑部省・宮内省・外務省の六省がおかれた。三条実美が行政責任者の右大臣となり、岩倉はその補佐役の大納言に就任した。参議には大久保利通・前原一誠・副島種臣ら旧武...
  • 明治維新
    ... まず、明治2年の版籍奉還で旧藩主が自発的に版(土地)・籍(人民)を天皇に返上し、改めて知藩事に任命することで、藩地と領主の分離が図られ、重要地や旧幕府直轄地に置かれた府・県とともに「府藩県体制」となる。しかし、中央集権化を進め、改革を全国的に網羅する必要があることから、藩の存在は邪魔となり、また藩側でも財政の逼迫が続いたことから自発的に廃藩を申し出る藩が相次いだ。1871年8月29日(旧7月14日)に、薩摩・長州藩出身の指導者により廃藩置県が実施され、府県制度が設置され(当初は3府302県、直後に整理され3府72県)、中央政府から知事を派遣する制度が実施された。これにおいては、令制国の地名を用いなかったために、都市名が府県名となった所も少なくない。薩摩藩の島津久光が不満を述べた以外は目立った反撥はなく(すでに中央軍制が整い、個別の藩が対抗しにくくなっていたこと、藩財政が危機的状況...
  • 木戸孝允
    ...化を推進する一方で、版籍奉還・廃藩置県など封建的諸制度の解体に務め、薩長土肥四巨頭の参議内閣制を整えた。海外視察も率先して行う。帰朝後は、かねてから建言していた憲法や三権分立国家の早急な実施の必要性について政府内の理解を要求し、他方では新たに国民教育や天皇教育の充実に務め、一層の士族授産を推進する。長州藩主毛利敬親、明治天皇から厚く信頼される。妻は、幕末動乱期の命の恩人かつ同志でもある京都の芸妓幾松(木戸松子)である。 明治維新政府では、木戸の合議制重視の姿勢のため分かりにくいが、木戸が初代宰相、西郷が第二代宰相、大久保が第三代宰相に相当する。純粋で律儀、地に足の着いた開明派巨頭であったため、政策や手法を巡っておよそ心外の権力闘争が繰り返され続ける明治政府の中にあっては、結局、最期まで、心身を害するほどの精神的苦悩が絶えなかった。西南戦争の半ば、出張中の京都で謎の脳病再発により死の...
  • 廃藩置県
    ...5日)、274大名に版籍奉還が行われ土地と人民は明治政府の所轄する所となったが各大名は知藩事(藩知事)として引き続き藩(旧大名領)の統治に当たり、これは幕藩体制の廃止の一歩となったものの現状は江戸時代と同様であった。 一方、旧天領や旗本支配地等は政府直轄地として府と県が置かれ中央政府から知事(知府事・知県事)が派遣された。これを府藩県三治制という。なお「藩」という制度上の呼称はこのとき初めて定められたものであり、江戸幕府下の制度として「藩」という呼称はない。したがって、公式には「藩」とは明治2年(1869年)の版籍奉還から明治4年(1871年)の廃藩置県までの2年間だけの制度である。 当時、藩と府県(政府直轄地)の管轄区域は入り組んでおりこの府藩県三治制は非効率であった。廃藩置県の主目的は年貢を新政府にて取り総める、即ち中央集権を確立して国家財政の安定を目的としたものであるがこれ...
  • 大日本帝国憲法
    ...69年7月25日)、版籍奉還がおこなわれ、諸侯(藩主)は土地と人民に対する統治権をすべて天皇に奉還した。これは、幕府や藩などの媒介なしに、天皇の下にある中央政府が直接に土地と人民を支配し、統治権(立法権・行政権・司法権)を行使することを意味する。さらに、明治4年7月14日(1871年8月29日)には、廃藩置県が行われ、名実共に藩は消滅し、国家権力が中央政府に集中された。大日本帝国憲法第1条および同第4条は、国家の統治権は天皇が総攬すると規定している。 版籍奉還により、各藩内の封建制は廃止され、人民が土地に縛り付けられることもなくなった。大日本帝国憲法第27条は臣民の財産権を保障し、同第22条は臣民の居住移転の自由を保障している。 新政府は、版籍奉還の後、公卿・諸侯を華族、武士を士族、足軽などを卒族、その他の人民を平民に改組した。明治4年(1871年)には、士族の公務を解いて、農業...
  • 明治
    ...e 和暦?には各藩に版籍奉還を命令し、Template 和暦?には、廃藩置県を行った。地租改正によって従来の米年貢を廃止し、金納地租に代えて財政基盤とした。国民には、江戸時代の自由の制限をなくし、身分の撤廃を行い四民平等とし、日本全国の行き来の自由を認め、職業の選択の自由や、散髪帯刀の自由など様々なことを改革していった。 また、新政府は欧米列強の桎梏から脱出する為、富国強兵を国の重要政策とし、郵便制度の整備、鉄道の敷設、輸出産業の育成(一例が富岡製糸場)を行い(殖産興業)、Template 和暦?徴兵制を実施した(戸主は徴兵を免除されたので、主に戸主以外の次三男層や貧農層の子弟が兵役を担った為、血税一揆が起きた)。 征韓論をめぐって、強硬派の江藤新平・西郷隆盛・副島種臣・板垣退助・後藤象二郎の5人は大久保利通・岩倉具視らと対立し参議を辞任した(明治六年政変)。その結果...
  • 華族
    ...69年7月25日)、版籍奉還と同日に出された行政官布達(公卿諸侯ノ称ヲ廃シ華族ト改ム)54号により、従来の身分制度の公卿・諸侯の称を廃し、これらの家は華族となることが定められた。公家137家・諸侯270家・明治維新後に公家とされた家5家松崎家・玉松家(玉松操家)・岩倉具経家(岩倉具視の三男)・北小路家・若王子家・維新後に諸侯とされた家16家徳川御三卿の3家(一橋徳川家・清水徳川家・田安徳川家)、徳川御三家の附家老家5家(成瀬家・竹腰家(尾張徳川家)、安藤家・水野家(紀伊徳川家)、中山家(水戸徳川家))、毛利氏の家臣扱いであった岩国藩主吉川家、1万石以上の所領を持つ交代寄合6家(山名家、池田家、山崎家、平野家、本堂家、生駒家)、1万石以上の所領を持つ高家であった大沢家。ただし、大沢家は所領が1万石以下であると確認され、華族の身分を剥奪され士族に編入された。の合計427家は新しい身分層で...
  • 大久保利通
    ...日)に参議に就任し、版籍奉還、廃藩置県などの明治政府の中央集権体制確立を行う。明治4年(1871年)には岩倉使節団の副使として外遊する。外遊中に留守政府で問題になっていた朝鮮出兵を巡る征韓論論争では、西郷隆盛や江藤新平らと対立し、明治六年政変にて失脚させた。また同年、台湾出兵を行い9月14日に戦後処理のため、全権弁理大使として、清に渡り、10月31日、清が台湾出兵を義挙と認め、50万両の償金を支払うことを定めた日清両国間互換条款・互換憑単に調印した。 明治6年(1873年)、内務省を設置し、自ら初代内務卿として実権を握ると地租改正や徴兵令などを実施した。当時、大久保への権力の集中は「有司専制」として批判された。また、現在に至るまでの日本の官僚機構(霞ヶ関官界)は、内務省を設置した大久保によって築かれたとも言われている。 明治10年(1877年)には、西南戦争で政府軍を指揮した。そ...
  • 大政奉還
    thumb|「大政奉還図」 邨田丹陵 筆 大政奉還(たいせいほうかん)とは、江戸時代末期の慶応3年10月14日(1867年11月9日)に、江戸幕府第15代征夷大将軍徳川慶喜が、統治権返上を明治天皇に上奏し、翌15日に天皇が上奏を勅許した政治的事件である。 概略 江戸時代後期には、江戸幕府の全国統治は天皇から将軍への委任関係に由来するという大政委任論と呼ばれる学説が唱えられていた。 薩摩藩と長州藩が薩長同盟を結び倒幕運動を推し進めていた幕末も大詰めの時期、公議政体論を主張し将軍の政権返上を政治路線として考えていた土佐藩は、慶応3年(1867年)10月3日に将軍・徳川慶喜に大政奉還の建白書を提出した。これを受け、10月13日、慶喜は京都・二条城に上洛中の40藩の重臣を招集し、大政奉還を諮問。10月14日(11月9日)に明治天皇へ上奏文を提出した。そして翌・10月15日(11月10日)、...
  • 明治天皇
    ...日(7月25日)には版籍奉還の上表を勅許した。当初、新政府内では公家や旧大名が中心を占めていたが、東京へ遷ったことも一つのきっかけとして、次第に三条実美、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通らの発言権が大きくなっていった。明治4年7月14日(1871年8月29日)には廃藩置県を断行し、中央集権体制を確立した。 他方、明治3年正月3日(1870年2月3日)には、宣教使ヲ置クノ詔(大教宣布の詔)を発して、神道の国教化(国家神道)と天皇の絶対化を推し進めた。岩倉、大久保らは、天皇を近代国家の主体的君主として育成するため、宮廷改革を行なって旧習を廃し、天皇親政体制への切り替えと君徳の培養に尽くした。 ※注:1872年(明治5年)に太陽暦を導入し、明治5年12月2日(1872年12月31日)の次の日(1873年1月1日)を「明治6年1月1日」と定めた(明治5年太政官布告第337号)。 征...
  • 太政官
    ...明治2年)に入ると、版籍奉還が実施されて、諸藩は政府の地方機関として位置づけられた。そこで、会計官から地方行政を扱う民部官が独立した。続いて政体書に基づく「官吏公選」が行われて守旧派の公家や諸侯は事実上排除される形となった。また、監察機関として弾正台が設置された。 太政官制 こうした政治情勢の変動に対応して、1869年8月15日(明治2年7月8日)に、新しい太政官制が導入された。これは、アメリカの影響を受けた政体書体制を廃止して、「祭政一致」を原則とした復古的な官制であった。まず神祇官が復活して太政官よりも上位に置かれ、太政官の下には民部省・大蔵省・兵部省・刑部省・宮内省・外務省が設置されるという二官六省制が採られ、侍詔院・弾正台・集議院・大学校などの諸機関が置かれた。また、三権がいずれも太政官の下に置かれた事が特徴である。太政官には左右両大臣と3名の大納言、3名の参議からな...
  • 伊藤博文
    ...裏の方針とされていた版籍奉還に触れていたために大久保利通や岩倉具視の不興を買い、また大蔵省の権限を巡る論争でも大久保とは対立関係にあった。だが、征韓論争では「内地優先」路線を掲げた大久保・岩倉らを支持して大久保の信任を得るようになった。 大阪会議を斡旋し、大久保が暗殺された後に内務卿を継承し、維新の三傑なき後の指導者の一人として辣腕を振るう。明治14年の政変で大隈重信らが失脚すると憲法制定のためにヨーロッパへ渡り、初代枢密院議長として大日本帝国憲法制定に関わる。明治17年(1885年)に内閣制度が創設され、初代内閣総理大臣となる。のち枢密院議長、貴族院議長などを経て3回組閣、合わせて4度にわたって内閣総理大臣を務めた。 明治33年(1900年)には立憲政友会を創立、初代総裁を務める。日露戦争前は、日露協商論・満韓交換論を主張し、ロシアとの不戦を説き、日英同盟に反対した。講和後、戦...
  • 幕末
    ...佐・肥前の建白により版籍奉還が企図され、同年9月諸藩の藩主(大名)は領地(版図)および人民(戸籍)を政府へ返還、大名は知藩事となり、家臣とも分離された。明治4年(1871年)には、廃藩置県が断行され、名実共に幕藩体制は終焉した(→明治維新)。 出来事 年代順の詳細な経過については幕末の年表を参照。 マシュー・ペリー艦隊来航 プチャーチン艦隊来航 日米和親条約締結 日米修好通商条約締結 安政の大獄 桜田門外の変 坂下門外の変 寺田屋事件 文久の改革 生麦事件 薩英戦争 八月十八日の政変 池田屋事件・禁門の変 第一次長州征伐 第二次長州征伐 薩長連合 大政奉還・王政復古 戊辰戦争 鳥羽伏見の戦い 上野戦争 北越戦争 会津戦争 箱館戦争 施設 松下村塾、神戸海軍伝習所、長崎海軍伝習所、蛮書和解御用 幕末の思想 主権 ...
  • 日本史の出来事一覧
    ...奠都、五稜郭の戦い、版籍奉還 Template 和暦? 廃藩置県、岩倉使節団派遣 Template 和暦? 学制、太陽暦採用 Template 和暦? 徴兵令、地租改正、征韓論問題(明治六年政変) Template 和暦? 民選議院設立建白書、佐賀の乱、台湾出兵 Template 和暦? 大阪会議、樺太千島交換条約、江華島事件、日清修好条規調印、秩禄処分、国立銀行条例 Template 和暦? 神風連の乱、萩の乱、秋月の乱 Template 和暦? 西南戦争 Template 和暦? 竹橋事件 Template 和暦? 開拓使官有物払下げ事件、明治十四年の政変 Template 和暦? 壬午事変 Template 和暦? 群馬事件、加波山事件、秩父事件、甲申政変、大同団結運動 Template 和暦? 大阪事件、内閣制度発足 Template 和暦? ノル...
  • 仮20
    ...奠都、五稜郭の戦い、版籍奉還 1871年(明治4年) 廃藩置県、岩倉使節団派遣 1872年(明治5年) 学制、太陽暦採用 1873年(明治6年) 徴兵令、地租改正、征韓論問題(明治六年政変) 1874年(明治7年) 民選議院設立建白書、佐賀の乱、台湾出兵 1875年(明治8年) 大阪会議、樺太千島交換条約、江華島事件、日清修好条規調印、秩禄処分、萩の乱、秋月の乱、国立銀行条例 1876年(明治9年) 神風連の乱 1877年(明治10年) 西南戦争 1878年(明治11年) 竹橋事件 1881年(明治14年) 開拓使官有物払下げ事件、明治十四年の政変 1882年(明治15年) 壬午事変 1884年(明治17年) 群馬事件、加波山事件、秩父事件、甲申政変、大同団結運動 1885年(明治18年) 大阪事件、内閣制度発足 1886年(明治19年) ノルマントン号事...
  • 部落問題
    ...廃止 1869年の版籍奉還により武士の身分が廃止されたのを受け、士農工商と呼ばれた身分制度は廃止され一律に平民と呼ばれた。また1871年(明治4年)に明治政府により「穢多非人等ノ稱被廢候條 自今身分職業共平民同様タルヘキ事」との布告(解放令)が出され、以前の身分外身分階層が廃止されたことが明示された。しかし、近代市民社会の産業革命をなしとげた欧米列強に見習う部分が多く、一部の知識階級でのみその必要性が理解されたに過ぎない。 そのため多くの村々では穢多や非人と同列に扱われるのには反対が強く、解放令発布直後から2年以上にわたって解放令反対一揆が続発した。解放令に反対して部落民を排除する取り決めを行ったり、部落民を「新平民」と呼ぶことにさえ拒否し、旧来どおり「穢多」と呼んだりした。これに対し県レベルの行政では解放令直後に「旧穢多」という言い方が用いられ、後には「新民」「新平民」「新古平...
  • 日朝修好条規
    ...だったわけではない。版籍奉還という日本国内の難問を無事に乗り越えた1870年、朝鮮との国交交渉を有利にするため、冊封体制の頂点にたつ清朝と対等の条約、日清修好条規を締結した。これにより冊封体制の維持を理由に国交交渉を忌避する朝鮮を、交渉のテーブルに着くように促したのである。 1873年に対外強硬派の大院君が失脚し、王妃閔妃一派が権力を握っても、日朝関係は容易に好転しなかった。転機が訪れたのは、翌年日清間の抗争に発展した台湾出兵である。この時、日本が朝鮮に出兵する可能性を清朝より知らされた朝鮮側では、李裕元や朴珪寿を中心に日本からの国書を受理すべしという声が高まった。李・朴は対馬藩のもたらす国書に「皇」や「勅」とあるのは単に自尊を意味するに過ぎず、朝鮮に対して唱えているのではない、受理しないというのは「交隣講好の道」に反していると主張した。これにより朝鮮側の対日姿勢がやや軟化した。 ...
  • 後藤象二郎
    Template 政治家? 後藤 象二郎 / 象次郎(ごとう しょうじろう、天保9年3月19日(1838年4月13日)- 明治30年(1897年)8月4日)は、日本の武士・土佐藩士、政治家。爵位は伯爵。農商務大臣、逓信大臣、大阪府知事など。諱は元曄(もとはる)。象二郎は通称、他に保弥太、良輔。雅号は暢谷。 生涯 生い立ち 土佐藩の高知城下にて上士・馬廻格150石の後藤助右衛門の長男として生まれる。将来共に活躍する板垣退助とは幼い頃からの知り合いであり、後藤の姉の夫で、義理の叔父である吉田東洋の塾で板垣らと共に学んだ。 安政5年(1858年)より、吉田東洋の進言もあって、幡多郡奉行、文久元年(1861年)には御近習目付、その後は普請奉行として土佐藩政で活躍したが、翌年に吉田が暗殺され、拠り所を失った後藤は失脚する。 文久3年(1863年)に、再び役職を得、また前藩主山内容堂の信頼を...
  • 坂本龍馬-2
    前半は坂本龍馬-2参照 文献 原典 1935年 坂本龍馬、由利公正著、尾佐竹猛解題『近世社会経済学説大系』第14、誠文堂新光社 各巻タイトル 坂本龍馬・由利公正集 / 尾佐竹猛解題 1978年5月 平尾道雄監修、宮地佐一郎編集・解説『坂本龍馬全集』光風社書店 限定版、坂本龍馬年譜・坂本龍馬関係書誌 p907 - 952 1980年5月 宮地佐一郎編集・解説『坂本龍馬全集』光風社書店 増補改訂版 1982年11月 宮地佐一郎編集・解説『坂本龍馬全集』光風社書店 増補3訂版、坂本龍馬年譜・坂本龍馬関係書誌 p987 - 1032 1988年5月 宮地佐一郎編集・解説『坂本龍馬全集』光風社書店、ISBN 4875194005 増補4訂版、坂本龍馬年譜・坂本龍馬関係書誌 p1045 - 1090 1988年12月、岩崎英重...
  • 王政復古 (日本)
    王政復古(おうせいふっこ)は、江戸時代末期の慶応3年12月9日(1868年1月3日)に討幕派の計画により「天皇親政」が宣言された政変である。 王政復古の大号令(おうせいふっこのだいごうれい)とも呼ばれる。 経過 江戸時代後期には、諸外国との通商条約の締結などを巡って、朝廷の伝統的権威が復興し、幕府と朝廷の提携による公武合体政策が取られたが、一方では尊皇攘夷派など反幕府思想、武力による倒幕運動が存在した。 土佐藩からの建言もあって、第15代将軍徳川慶喜は公議政体論に基づき、慶応3年10月14日(1867年11月9日)に大政奉還を上奏(翌15日に勅許)、264年間に渡って江戸幕府(徳川将軍家)が保持していた政権を朝廷に返上し討幕の名分を失わせた。ただし、徳川家は天皇の下に一元化された政治の中枢に入り、引き続き実権を掌握する事を想定していた。 朝廷は新たな公議政体を創設するため、徳川...
  • 坂本龍馬
    Template Infobox 革命家? 坂本龍馬(さかもと りょうま、天保6年11月15日(1836年1月3日) - 慶応3年11月15日(1867年12月10日)は、幕末の日本の政治家・実業家。土佐藩脱藩後、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中・海援隊 (浪士結社)の結成、薩長連合の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど、志士として活動した。贈官位、正四位。司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』の主人公とされて以来、国民的人気を誇っている。また、その事跡についてはさまざまな論議がある。 諱は直陰のち直柔(なおなり)。龍馬は通称。他に才谷梅太郎などの変名がある。「龍馬」は慣用音(『広辞苑』第5版)では「りゅうま」だが、漢音は「りょうま」で、同時代人の日記や書簡に「良馬」の当て字で記されていることもあり、また龍馬自身も書簡の中で「りよふ」と自署していることもあるため、「りょうま」と読まれていたこと...
  • 小栗忠順
    Template 武士/開始? Template 武士/肖像? Template 武士/時代? Template 武士/生誕? Template 武士/死没? Template 武士/改名? Template 武士/別名? Template 武士/墓所? Template 武士/官位? Template 武士/幕府? Template 武士/氏族? Template 武士/父母? Template 武士/妻? Template 武士/子? Template 武士/終了? thumb|300px|[[小栗上野介屋敷跡(東京都千代田区神田駿河台)]] 小栗 忠順(おぐり ただまさ)は、江戸時代末期の幕臣。 通称は、又一(任官前)。安政6年(1859年)、従五位下豊後守に叙任。のち文久3年(1863年)、上野介(こうずけのすけ)に遷任。小栗上野介とも称される。新...
  • 慶応
    Template 改名提案? 慶應(けいおう、新字体では慶応)は、日本の元号の一つ。元治の後、明治の前。1865年から1868年までの期間を指す。この時代の天皇は孝明天皇、明治天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂、徳川慶喜。 改元 元治2年4月7日(グレゴリオ暦1865年5月1日) 禁門の変や社会不安などの災異のために改元 慶応4年9月8日(グレゴリオ暦1868年10月23日) 明治に改元、同年1月1日(グレゴリオ暦1868年1月25日)に遡って適用。 江戸時代最後の改元。将軍徳川家茂が朝廷に対して「何以被採用所存無之候」「叡慮之通慶応可然被存候」と述べて改元については孝明天皇の意向に全て従うという意見書を出し、改元当日の御所での儀式を諸藩代表に公開するなど、江戸幕府創設以来幕府が指示してきた改元制度が終焉した事を示すものとなった。 ちなみに、慶應改元の際には候補の一つとして「平...
  • 仮82
    Template 改名提案? 慶應(けいおう、新字体では慶応)は、日本の元号の一つ。元治の後、明治の前。1865年から1868年までの期間を指す。この時代の天皇は孝明天皇、明治天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂、徳川慶喜。 改元 元治2年4月7日(グレゴリオ暦1865年5月1日) 禁門の変や社会不安などの災異のために改元 慶応4年9月8日(グレゴリオ暦1868年10月23日) 明治に改元、同年1月1日(グレゴリオ暦1868年1月25日)に遡って適用。 江戸時代最後の改元。将軍徳川家茂が朝廷に対して「何以被採用所存無之候」「叡慮之通慶応可然被存候」と述べて改元については孝明天皇の意向に全て従うという意見書を出し、改元当日の御所での儀式を諸藩代表に公開するなど、江戸幕府創設以来幕府が指示してきた改元制度が終焉した事を示すものとなった。 ちなみに、慶應改元の際には候補の一つとして「平...
  • 北越戦争
    Template Battlebox? 北越戦争(ほくえつせんそう)とは戊辰戦争の局面の1つとして、長岡藩(現・新潟県長岡市)周辺地域で行われた一連の戦闘である。 背景 慶応4年(1868年)、薩摩藩・長州藩を中核とする明治新政府軍は京都近郊での鳥羽・伏見の戦いに勝利し、東征軍を組織して東海道・東山道・北陸道に分かれ進軍した。北陸道の新政府軍は北陸道鎮撫総督府の山縣有朋と黒田清隆を指揮官としていた。新政府軍は越後における旧幕府軍の平定と会津藩征討のため、長岡にほど近い小千谷(現・新潟県小千谷市)を占領した。 長岡藩は、大政奉還以後も徳川家を支持し、長岡藩主・牧野忠訓と上席家老、軍事総督・河井継之助のもと、軍事顧問に招いたプロシアの商人・スネル兄弟を通じて独自に当時日本に3門しか無かったガトリング砲の2門を購入し、フランスの新型銃2,000挺を購入するなどの火器・兵器を購入し富国...
  • 榎本武揚
    {{Infobox Military Person Template Infobox 軍人? 榎本 武揚(えのもと たけあき、天保7年8月25日(1836年10月5日) - 明治41年(1908年)10月26日)は、江戸幕末~明治期の武士・幕臣、政治家。海軍中将正二位勲一等子爵。徳川育英会育英黌農業科(東京農業大学の前身)の創設者でもある。 通称は釜次郎、号は梁川。名前は「えのもとぶよう」と有職読みされることもある。父は幕臣榎本武規(円兵衛)、妻は林洞海の娘で林研海の妹でもあるたつ。家紋は丸に梅鉢。 生涯 海軍副総裁就任まで のちに榎本武揚を称する榎本釜次郎は、江戸下谷御徒町(現東京都台東区御徒町)に生まれた。父はもとの名を箱田良助といい、備後福山藩箱田村(現広島県福山市神辺町箱田)出身で、江戸へ出て幕臣榎本家の株を買い、榎本家の娘と結婚することで養子縁組みし...
  • 神戸事件
    right|180px|thumb|当時のものと同型の[[大砲]] 神戸事件(こうべじけん)とは慶応4年1月11日(1868年2月4日)、神戸三宮神社前で備前藩(現・岡山県)兵が隊列を横切ったフランス人水兵を負傷させた事件である。明治政府初の外交問題となった。 この事件により一時、外国軍が神戸中心部を占拠するなどの動きにまで発展したが、その際に問題を起こした隊の責任者であった滝善三郎が切腹する事で一応の解決を見た。 相前後して堺事件が発生し、共に外国人に切腹を深く印象付けた。 事件の発端 慶応4年1月3日(1868年1月27日)、戊辰戦争が開戦、間も無く、徳川方の尼崎藩(現・兵庫県)を牽制するため、明治新政府は備前藩に摂津西宮の警備を命じた。備前藩では1月5日(1月29日)までに2,000人の兵を出撃させ、このうち家老・日置帯刀(へきたてわき)率いる500人(800人説もある)は...
  • 西郷隆盛
    Template Infobox 軍人? 西郷 隆盛(さいごう たかもり、文政10年12月7日〈グレゴリオ暦1828年1月23日・ユリウス暦1828年1月11日〉 - 明治10年〈グレゴリオ暦1877年〉9月24日)は、日本の武士・薩摩藩士、軍人、政治家。薩摩藩の盟友大久保利通、長州藩の木戸孝允(桂小五郎)と並び、「維新の三傑」と称される。 人物 名(諱)は元服時には隆永(たかなが)、のちに武雄、隆盛(たかもり)と改めた。西郷家の家長は吉兵衛と名乗り、西郷の本名は8代目西郷吉兵衛隆永と言う、初代は熊本より鹿児島に移り住む、幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉之助と順次変えた。号は南洲(なんしゅう)。隆盛の名は父と同名であるが、これは王政復古の章典で位階を授けられる際に親友の吉井友実が誤って父吉兵衛の名を届けたため、それ以後は父の名を名乗ったからである。一時、西郷三助・菊池源吾・大...
  • 蝦夷共和国
    蝦夷共和国(えぞきょうわこく)は、明治元年12月(1869年1月)に成立し、蝦夷地(北海道)に短期間存在した佐幕派の政権である蝦夷島政府に対する俗称である。明治2年5月18日、箱館戦争終結によって消滅した。 概要 江戸時代後期、慶応3年(1867年)に15代征夷大将軍徳川慶喜が大政奉還を行って江戸幕府が消滅し、山岡鉄太郎の斡旋により新政府軍の大総督府参謀である西郷隆盛と徳川家陸軍総裁の勝海舟の会談で江戸城の無血開城が決定する。徳川慶喜の静岡下向を見届けた海軍副総裁榎本武揚は旧幕臣の保護と北辺防備を目的として慶応4年(1868年)8月19日に品川沖から開陽丸を旗艦に8隻の軍艦を率いて江戸を脱出し、蝦夷地に向かった。途中仙台で会津戦争で敗走した伝習隊、旧新選組や彰義隊の残党を吸収し、北上、鷲ノ木に上陸し、各地を平定、五稜郭を攻略し、府知事清水谷公考を敗走させ、蝦夷全島を支配下に置いた。...
  • 大隈重信
    Template 日本の内閣総理大臣? 大隈 重信(おおくま しげのぶ、天保9年2月16日(1838年3月11日) - 大正11年(1922年)1月10日)は、日本の武士・佐賀藩士、政治家、教育者。第8代、第17代内閣総理大臣。位階勲等は従一位大勲位。爵位は侯爵。東京専門学校(現:早稲田大学)の創立者。幼名は八太郎。 略歴 生い立ち 佐賀城下会所小路(現:佐賀市水ヶ江)に、佐賀藩士の大隈信保・三井子夫妻の長男として生まれる。大隈家は、知行300石を食み石火矢頭人(砲術長) を務める上士の家柄であった。重信は7歳で藩校弘道館に入学し、佐賀の特色である『葉隠』に基づく儒教教育を受けるが、これに反発し、安政元年(1854年)に同志とともに藩校の改革を訴えた。安政2年(1855年)に、弘道館を南北騒動をきっかけに退学、後に復学を許されたが戻らず、この頃、枝吉神陽から国学を学ぶ。安政...
  • 日本軍
    日本軍(にっぽんぐん、にほんぐん)とは広義には日本が有する軍隊のこと、狭義には第二次世界大戦で敗戦するまでの日本、すなわち大日本帝国が保持していた軍隊(大日本帝国陸軍と大日本帝国海軍の両軍)を指し、後者の場合は現在旧日本軍、または旧軍と略称される。さらに国軍、皇軍(こうぐん)、皇御軍(すめらみいくさ)、帝国軍、帝国陸海軍、大日本軍などの呼称もある。ここでは旧日本軍について主に記述する。 組織 以下は1937年(昭和12年)頃の、日中戦争勃発以前の平時に於ける日本軍の組織である。 天皇の統帥の下に陸軍と海軍があり、それぞれ陸軍大臣と海軍大臣が軍事行政について天皇を輔弼した。陸軍の軍・師団の司令官、海軍の連合艦隊・艦隊・鎮守府の司令長官は、天皇に直隷して部隊を指揮統率した。空軍は編制せず、陸海軍にそれぞれ航空隊があった。 陸軍は、内地が東部、中部、西部に区分されてそれぞれの地域に防...
  • 渋沢栄一
    Template Infobox 人物? 渋沢 栄一(しぶさわ えいいち、天保11年2月13日(1840年3月16日) - 昭和6年(1931年)11月11日)は、幕末の幕臣、明治~大正初期の大蔵官僚、実業家。第一国立銀行や王子製紙・日本郵船・東京証券取引所などといった多種多様の企業の設立・経営に関わり、日本資本主義の父と呼ばれる。 正二位勲一等子爵。雅号は青淵。戒名は泰徳院殿仁智義譲青淵大居士。 人物 生い立ち 天保11年(1840年)2月13日、武蔵国血洗島村(現埼玉県深谷市)に父・市郎右衛門、母・エイの長男として生まれた。幼名は市三郎。のちに、栄一郎、篤太夫、篤太郎。渋沢成一郎は従兄。 渋沢家は藍玉の製造販売と養蚕を兼営し米、麦、野菜の生産も手がける大農家だった。原料の買い入れと販売を担うため、一般的な農家と異なり、常に算盤をはじく商業的な才覚が求められた。市三郎も父と...
  • 東郷平八郎
    Template Infobox 軍人? 東郷 平八郎(とうごう へいはちろう、弘化4年12月22日(1847年1月27日) - 昭和9年(1934年)5月30日は、日本の武士・薩摩藩士、大日本帝国海軍軍人である。階級位階勲等爵位は元帥海軍大将・従一位・大勲位・功一級・侯爵。 明治時代の日本海軍の司令官として日清・日露戦争の勝利に大きく貢献し、日本の国際的地位を引き上げた。日露戦争においては、連合艦隊を率いて日本海海戦で当時屈指の戦力を誇ったロシアバルチック艦隊を一方的に破って世界の注目を集め、アドミラル・トーゴー(Admiral Togo 、東郷提督)としてその名を広く知られることとなった。当時、日本の同盟国であった英国のジャーナリストらは東郷を「東洋のネルソン」と、同国の国民的英雄に比して称えている。日本では、大胆な敵前回頭戦法(丁字戦法)により日本を勝利に導いた世界的な名提督とし...
  • 天皇-2
    これ以前の内容は天皇参照 天皇の歴史 天皇は日本の歴史において重要な権威を有していたが、実際に君主として統治権を行使していた期間は、天皇が存在していた期間と比べ極端に短く、ほとんどが天皇以外の貴族や武家、官僚などによって統治権は行使されている。とりわけ鎌倉幕府成立以後は武家の棟梁の一族が代々世襲で征夷大将軍に就任し、少なくとも基本的に内政や外交では日本の最高権力者として君臨してきた。しかし、天皇の地位がそれらの権力者によって廃されたことはなく、時の権力者も形式上はその権威を尊重し、それを背景に地位についていたことが多い。例えば全国に支配権を敷いていた武家政権の君主である征夷大将軍への就任も形式上は天皇の宣下によって行われることになっており、その権力者は天皇の権威を利用し、その政敵を朝敵(天皇の敵)などに指定させ、その統治権を正当化することが多かった。ただし、外交において有事が発生し...
  • 鈴木貫太郎
    Template 日本の内閣総理大臣? 鈴木 貫太郎(すずき かんたろう、1868年1月18日(慶応3年12月24日) - 1948年(昭和23年)4月17日)は、海軍軍人、政治家。連合艦隊司令長官、海軍軍令部長等を歴任し、終戦時の第42代内閣総理大臣。官位は海軍大将、従一位鈴木は死後12年を経た1960年(昭和35年)8月15日(終戦15周年記念日)に、最高位階である従一位を贈位されている。従一位を没時追賜した例は多いが、死去から年数を経て贈位するのは例が少なく、日本国憲法施行後はこの鈴木が唯一の例である。勲一等功三級、男爵。最後の江戸時代生まれの総理大臣でもある。 経歴 大阪府堺市中区伏尾(和泉国大鳥郡久世村伏尾、関宿藩の飛び地)に関宿藩士の鈴木由哲・きよの長男として生まれる。本籍地は、千葉県野田市(旧・関宿町)。 前橋市に転居し、厩橋学校、前橋中学、攻玉社を経て、1884...
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