chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「立憲改進党」で検索した結果

検索 :
  • 立憲改進党
    立憲改進党(りっけんかいしんとう)は明治時代の自由民権運動の代表的政党の一つ(1882年4月16日-1896年3月1日)。略称は改進党。初代総理(党首)は大隈重信、副総理は河野敏鎌。 概要 明治14年の政変によって政府を追放された大隈が新党結成を構想、1882年3月14日に新党の趣意書を発表して4月16日に東京の明治会堂で結党式を開催した。都市の商業資本家・知識人層・三菱を支持基盤として、「王室の尊栄」・「人民の幸福」を2大方針として政治漸進主義を唱え、イギリス流立憲君主制・二院制議会・財産制限選挙制・国権拡張などの穏健な立憲政治を目標に掲げた。総理には大隈、副総理には河野、これを補佐する掌事には小野梓・牟田口元学・春木義彰が就任した。主なメンバーとしては他に矢野文雄、沼間守一、犬養毅、尾崎行雄、前島密、鳩山和夫、島田三郎、箕浦勝人らがいる。だが、メンバーも多彩で慶應義塾系や自由党...
  • 立憲帝政党
    ...年3月13日自由党、立憲改進党などの民党に対抗し東京日日新聞社長の福地源一郎(桜痴)、明治日報の丸山作楽、東洋新聞の水野寅次郎によって結成された。4月4日には大阪で機関紙である大東日報を創刊(社長羽田恭輔・主筆原敬)する。 立憲帝政党は、天皇主権・欽定憲法の施行・制限選挙などを政治要綱に掲げた。自由党や立憲改進党に対抗する政府与党を目指し、国学者、旧士族層や有力商人、高級官吏、神官・僧侶ら宗教家など体制擁護を意図する保守層の支持を受けたが、組織が弱く、さらに政府が超然主義を採ったため存在意義を失い、翌1883年9月24日に解党した。 なお、大東日報は解党以後も独立系の政府派新聞として存続し、1885年5月15日には内外新報と改題するものの、1887年4月8日に廃刊している。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月20日 (月...
  • 大同団結運動
    ...微し、自由党は解党、立憲改進党も休止状態にあったが、1887年にいわゆる三大事件建白運動が発生すると、かつての自由党の領袖である後藤象二郎は自由民権運動各派が再結集して来るべき第1回衆議院議員総選挙に臨み、帝国議会に議会政治の打ち立てて条約改正や地租・財政問題という難題にあたるべきだと唱え、3月に旧自由党・立憲改進党の主だった人々に呼びかけたのがきっかけである。 だが、自由党元総裁板垣退助は自分が疎外された事から運動から距離を置き、立憲改進党の大隈重信も懐疑的であった。これに対して政府は同年12月26日に保安条例を制定して活動家の弾圧を始める一方、翌1888年2月には大隈重信を第1次伊藤内閣の外務大臣として入閣させて立憲改進党を運動から離脱させた。一方、旧自由党系内部でもとりあえず選挙に備えた新党の母体となる政治結社を結成しようとする(政社系)河野広中らと立憲改進党系が離脱した以上...
  • 立憲革新党
    ...庸之助らがいる。 立憲改進党を中心とする進歩党結成(1896年3月1日)に先立って解党して所属議員の殆どが進歩党に参加した。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年2月21日 (木) 07 26。     
  • 立憲国民党
    ...43年)3月14日 立憲改進党の系譜につながる憲政本党を中心に又新(ゆうしん)会と戊申倶楽部の3派(代議士は計92名)が合同して結党された。 党首は不在で、憲政本党の大石正巳、犬養毅、又新会の島田三郎、河野広中、戊申倶楽部の片岡直温、仙石貢らが中心となって党の運営に当たったが、実際は、犬養を中心して民党の伝統を守って政府と対立する姿勢を鮮明とする「非改革派」と、大石・島田・河野ら政府との妥協を図る「改革派」が対立していた。1911年(明治44年)1月19日の党大会で党首に替わる常務委員を設置して犬養・河野・大石を選出した。第2次桂内閣や第2次西園寺内閣では南北朝正閏問題や行財政改革などで政府の姿勢を追及する。 1913年(大正2年)の大正政変では、桂太郎の新党運動に対して片岡直温が呼応、犬養が片岡を除名処分にしたところ、これをきっかけに大石・島田・河野ら改革派がこれに反発して脱党...
  • 大成会
    ...挙後、立憲自由党及び立憲改進党に属しない議員の糾合の動きが盛んになった。彼らは党派色の強い民権派系の自由・改進両党(民党)に対抗する意図を有していたが、政府との関係や新しい組織を政党とするか院内会派にするかなどその意見は様々であった。 それでも、1890年8月22日に会則と「大成会」の名称が定められ、翌日に東京の愛宕館で正式な結成大会が開かれて、この会が衆議院議員有志によって構成される団体であると位置付けて政党である事を否定した。これは、日本の議会に政党自体を不要と考える超然主義を唱える議員に配慮したものである。代表者として3名の常務委員(増田繁幸・堀部勝四郎・俣野景孝)が選出された。この他、杉浦重剛・元田肇・津田真道・末松謙澄・岡田良一郎・西毅一・天野若円らが参加して、「不偏不党」・「中立」を掲げた。 一般には大成会を「吏党」すなわち政府与党とする見方があるが、当時の政府が掲げ...
  • 政党の歴史
    ...15年(1882年)立憲改進党が大隈重信らによって結成される。また、福地源一郎ら親政府の要人による立憲帝政党も結党された。だが、政府は「超然主義」の方針を打ち出す一方、自由民権運動の弾圧強化に乗り出した。このため、自由党は一時解散に追い込まれ、立憲改進党は分裂状態となり、立憲帝政党も政府から見捨てられる形で自然消滅を余儀なくされた。 明治22年(1889年)大日本帝国憲法の公布とともに、衆議院議員選挙法が公布され、25歳以上で納税15円以上の男子に選挙権が与えられた。翌明治23年(1890年)7月1日第1回衆議院議員総選挙が実施され、立憲自由党、立憲改進党などの民党が議席の多くを占め、反民党勢力(結果的には親政府派となる)温和派(吏党)は少なかった。 選挙後、第一回帝国議会が開会された。政府は当初「超然主義」をもって対議会・政党に対する基本姿勢としていたが、大日本帝国憲法自体が議...
  • 国民協会 (日本)
    ...く減らした。その後も立憲改進党とともに反伊藤内閣・反自由党を標榜するとともに品川と山縣有朋と関係を軸として貴族院の研究会や茶話会とも連携した。立憲改進党などが進歩党を結成した際にも、品川は山縣の支援を期待して政党内閣阻止のための「三党鼎立」路線を維持して第3党の地位を保持した。だが、隈板内閣の成立、それに続く第2次山縣内閣と憲政党(旧自由党系)の連携によって孤立無援となり、1899年品川は国民協会を解散して政党活動からの撤退を表明した。そのため、所属議員は新たに帝国党を結成した。 国民協会 (1933-1937) 赤松克麿が昭和初期に設立した、日本主義の政治団体(1933年7月22日-1937年7月18日)。日本国家社会党・逓友倶楽部から除名された赤松が同じく大日本生産党を除名された津久井龍雄・倉田百三とともに結成した。理事長(党首)に赤松、常任理事に津久井、芸術部長に倉田、文化...
  • 自由党 (日本)
    ...間らは離脱した(後に立憲改進党に合流)。10月18日に地方出身者と反沼間派の都市出身者によって創立大会を開催、29日に盟約・規約・人事などを定め、初代総理(党首)は板垣、副総理に中島信行、常議員に馬場辰猪・末広重恭・後藤象二郎・竹内綱、幹事に林包明・山際七司・内藤魯一・大石正巳・林正明が就任した。フランス流急進主義の影響が強く、一院制、主権在民などを主張した。自由民権運動の担い手として全国に組織を広げるも、集会条例による弾圧や1882年の板垣遭難事件、同年秋の板垣外遊の是非を巡る内紛による馬場・末広・大石の離党、更に板垣の留守中に自由党急進派は貧農とむすびついて(激派)、様々な事件を起こす。1882年の福島事件、翌年の高田事件が勃発して弾圧が強化、更に過激な行動に奔るという悪循環となる。更に同じ民権派の立憲改進党との対立も党内の混乱に拍車をかけた。帰国した板垣はこの現状を見て党の先行...
  • 憲政本党
    ...うとする「改革派」と立憲改進党以来の民党路線を擁護する犬養毅を中心とした「非改革派」が対立を続けた。1909年に改革派が掌握していた党執行部は犬養除名を決定する。しかし、代議士会を掌握した非改革派はこの決定を無効としたため党分裂の危機に陥った。ところが、直後に日糖事件が発生して改革派側から逮捕者を出すと、流れは一気に非改革派に傾いた。このため、改革派は犬養の除名を取り下げて非改革派に屈することになった。その後、又新会、戊申倶楽部などの民党系非政友会各党の合同によって立憲国民党となり解党する。だが、改革派・非改革派の対立が収拾されたわけではなく、大正政変を機に同党の分裂を招く遠因となった。 関連項目 共和演説事件 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月11日 (火) 14 59。 ...
  • 日本の政党一覧
    ...0-1940) 立憲改進党 (1882-1896) → 進歩党 (1896-1898) → 憲政本党 (1898-1910) → 立憲国民党 (1910-1922) → 革新倶楽部 (1922-1925) 立憲帝政党 社会民主党 (1901) → 社会平民党 (1901) 立憲同志会 (1913-1916) → 憲政会 (1916-1927) → 立憲民政党 (1927-1940) 政友本党 (1924-1927) 農民労働党 (1925) → 労働農民党 (1926-1928) → 日本労農党 (1926-1928) → 日本大衆党 (1928-1930) → 全国大衆党 (1930-1931) → 全国労農大衆党 (1931-1932) → 社会大衆党 (1932-1940) 社会民衆党 (1926-1932) 労働者農民党 (1928-1929...
  • 自由民権運動
    ...野した大隈重信は翌年立憲改進党の党首となった。 明治十四年の政変によって、自由民権運動に好意的と見られてきた大隈をはじめとする政府内の急進派が一掃され、政府は伊藤博文を中心とする体制を固める事に成功して、結果的にはより強硬な運動弾圧策に乗り出す環境を整える事となった。 激化事件 大井憲太郎や内藤魯一など自由党急進派は政府の厳しい弾圧にテロや蜂起も辞さない過激な戦術をも検討していた。また松方デフレ等で困窮した農民たちも国会開設を前に準備政党化した自由党に対し不満をつのらせていた。こうした背景のもとに激化事件が頻発する。福島事件・加波山事件・群馬事件・飯田事件・名古屋事件・高田事件・秩父事件等がよく知られている。また大阪事件もこうした一連の事件の延長線上に位置づけられている。この間、自由党は解党し、同年末には改進党も大隈らが脱党し事実上分解した。秩父事件では軍隊が出動している。...
  • 岐阜事件
    ...枝盛も岐阜に向かい、立憲改進党の大隈重信も使いを岐阜へ向かわせる。 4月7日、政府首脳にも板垣遭難の連絡が入り、政府は閣議を中止。山縣有朋は明治天皇に事件を上奏すると、直ちに勅使の派遣が決定する。同日午前、内藤魯一の連絡を受けた愛知県病院長後藤新平が板垣の治療の為に訪れる。板垣は後藤新平を政府からの刺客と勘違いし会う事を断るが、まわりの者に説得されて治療を受け、正午過ぎに治療を終える。 正午過ぎ、翌日に明治天皇勅使来訪との電報を受ける。一部の自由党員は、刺客が政府によるものと思い、勅使を追い返す事を訴えるが、板垣はこの事を咎め、勅使を受け入れる事を決める。その頃、勅使来訪の知らせを受けた岐阜県令が慌てて見舞いを送るが、板垣は事件に対し見て見ぬ振りをしていた事に怒り、見舞いを断る。 4月12日、明治天皇の勅使が到着。御手元金を下賜する。 4月15日、傷が癒えた板垣は、岐阜から大...
  • 第2次伊藤内閣
    ...に差し掛かって民党(立憲改進党)や右翼(国民協会、大日本協会など)の間で高まる対外硬派の動きに対しては2度の衆議院解散をもって対抗して、日英通商航海条約締結による治外法権の撤廃に成功する。 その直後に朝鮮半島で起きた起きた東学党の乱への軍事介入を機に日清戦争が始まると、広島に大本営と帝国議会を移して戦時体制を確立し、日本を勝利に導いて清国と下関条約を締結した。この内閣の長期政権化にはこの戦争での勝利の影響が大きい。 だが三国干渉、続く乙未事変と露館播遷によって日本の朝鮮半島への影響力はむしろ低下し、戦時中の政府と民党の協調関係は次第に崩れていった。そこで1896年、航海奨励法、造船奨励法を定めた。また、伊藤は超然主義を放棄して自由党総裁板垣退助を内務大臣として入閣させて、同党の与党化を図る。続いて前総理・松方正義と進歩党党首の大隈重信の入閣を計画するが、これに大隈にライバル意識を...
  • 明治十四年の政変
    ...月には小野梓とともに立憲改進党を結成、また10月、東京専門学校(現・早稲田大学)を早稲田に開設した。 その後 一方、既にプロシア式の憲法導入に積極的であった岩倉や井上毅と違い、政変後の伊藤個人は立憲体制導入の決意は固めていたものの、どの形態を採るかについてはまだ確信は得ていなかった。また、華族制度改革や将来の内閣制度導入を巡って、岩倉との間に見解の相違があることも明らかになってきた(岩倉は華族に維新の功臣が加えられることや既存の律令制・太政官制度に基づいた大臣制が廃止されることで、公家出身の自分が政府の中枢から排除されることを警戒していた)。このため、1882年伊藤はドイツ(プロシア)の憲法事情を研究するという名目でドイツを訪問するが、それもあくまでも岩倉の意に沿ったというだけではなく、単にイギリスやフランスの事は自由民権派の人達が研究するだろうから、彼らが研究しないドイ...
  • 進歩党 (日本)
    ...9年(1896年)、立憲改進党・立憲革新党・大手倶楽部・帝国財政革新会・中国進歩党などが合同して代議士99名で結成。大隈重信が事実上の党首であったが正式な役職には就かず、形式的には犬養毅・尾崎行雄・大東義徹・柴四朗(東海散士)・長谷場純孝の5名の総務委員が代表者となっていた。「国権拡張」「責任内閣」「財政整理」などを掲げた。大隈の人気と同党が掲げた対外硬路線に対する支持から結成直後に党員5万人を数え、更に同年成立した第2次松方内閣に大隈が外務大臣として入閣し、高橋健三が内閣書記官長、神鞭知常が法制局長官に任命されたことなど党幹部の政府入りが実現したことで、更に期待が高まって同年中に1万人の入党者があったとされている。 新聞紙条例の改正や金本位制の実現などの成果があったが、松方の政治基盤である薩摩閥との対立と地租増徴に対する反発から、翌年10月に政権を離脱した。 1898年の第5回...
  • 犬養毅
    ...、大隈重信が結成した立憲改進党に入党し、活躍する。1890年(明治23年)の第1回衆議院議員総選挙で当選し、以後42年間で18回連続当選という、尾崎行雄に次ぐ記録を作る。後に中国地方出身議員とともに中国進歩党を結成する(ただし、立憲改進党とは統一会派を組んでいた)が、進歩党・憲政本党の結成に参加、1898年(明治31年)の第1次大隈内閣では共和演説事件で辞任した尾崎の後を受けて文部大臣となった。1913年(大正2年)の第一次護憲運動の際は第3次桂内閣打倒に一役買い、尾崎行雄(咢堂)とともに「憲政の神様」と呼ばれた。しかし、当時所属していた立憲国民党は首相桂太郎の切り崩し工作により大幅に勢力を削がれ、以後犬養は辛酸をなめながら小政党を率いることとなった(立憲国民党はその後革新倶楽部となる)。犬養は政治以外にも神戸中華同文学校の名誉校長を務めるなどしていた。 犬養は第2次山...
  • 尾崎行雄
    ...治15年)大隈重信の立憲改進党の創立に参加。1887年(明治20年)、保安条例により東京からの退去処分を受けた尾崎は「道理が引っ込む時勢を愕く」と言い、号を学堂から愕堂に変えた(後に心身の衰えを感じて”愕”のりっしんべんを取り咢堂とした)。1890年(明治23年)第1回総選挙で三重県選挙区より出馬し当選、以後63年間に及ぶ連続25回当選という記録をつくる。その後、進歩党・憲政党に属した。この間第2次松方内閣において外務大臣に就任した大隈の推挙で外務参事官に就任するが、大隈と首相の松方正義が対立するとともに辞任した。1898年(明治31年)第1次大隈内閣において40歳の若さで文部大臣に就任するも、所謂共和演説事件で文相を辞任し、その後任を巡って憲政党は分裂、大隈内閣も総辞職した。その後、憲政本党に属していたが、伊藤博文の立憲政友会結成に呼応して憲政本党を離脱して政友会入りするが、その後...
  • 黒田内閣
    ...示したが、その一方で立憲改進党前総裁(実質は党首)で外務大臣の大隈重信を留任させて条約改正の任にあたらせた。また文部大臣の森有礼の暗殺後、榎本武揚が文部大臣に移動して空席となった逓信大臣には、大同団結運動の主唱者であった後藤象二郎を充てて、同運動を骨抜きにすることで自由民権諸派の団結を阻止した。また条約改正の分野でも、メキシコとの間に平等条約である日墨修好通商条約を締結することに成功、列強との条約改正交渉も順調に行くかに見えた。 しかし外務省が用意した改正草案に妥協案として「外国人裁判官の任用」の条項が含まれていたことが明らかになると、蜂の巣を突いたような大騒動となった。一旦解体したはずの大同団結運動が今度は板垣退助を擁して再燃し、政府内からも山縣有朋や後藤象二郎、伊藤博文、井上馨らが妥協案に反対する意志を示した。黒田は大隈を擁護したが、条約改正交渉は中断に追い込まれた。そこへ来て...
  • 大隈重信
    ...月には小野梓とともに立憲改進党を結成、尾崎行雄、犬養毅、矢野文雄(龍渓)らが馳せ参じた。また10月、小野梓や高田早苗らと東京専門学校を東京郊外の早稲田に開設した。 明治20年(1887年)、伯爵に叙された。 外務大臣から総理大臣へ  大隈の外交手腕を評価する伊藤は、不平等条約改正のため、政敵である大隈を外務大臣として選び、明治21年(1888年)2月より、大隈は外務大臣に就任した。 同年 黒田清隆が組閣すると大隈は留任するが、反対派の抵抗に遭い、明治22年(1889年)には国家主義組織玄洋社の一員である来島恒喜に爆弾による襲撃を受け、右脚を失うとともに、辞職した。明治29年(1896年) 第2次松方内閣(「松隈内閣」(しょうわいないかく)と呼ばれる)で再び外相に就任するが薩摩勢と対立して明治30年(1897年)に辞職した。 明治31年(1898年)6月に板垣退助らと憲政党を...
  • 明治
    ...自由党を、大隈重信は立憲改進党を結成し、来る国会開設の準備を図ろうとした。 また、大隈重信失脚後、経済政策面で実権を掌握したのが薩摩藩出身の松方正義であった(詳細は松方デフレを参照)。松方デフレにより、農民層は貧困することになり、これに自由民権運動が連動、Template 和暦?に秩父事件が発生した(自由民権運動の先鋭化)。 その後、Template 和暦?には太政官制を廃止し、内閣制を導入し、初代総理大臣には伊藤博文が就任した。 大日本帝国憲法 Template main? 憲法制定に至るまで 伊藤博文は、井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎、ロエスレルらと憲法制定の準備を開始し、Template 和暦?枢密院を設置した。そして、Template 和暦?、黒田清隆内閣の時、君主権が強いプロイセン憲法を模倣した大日本帝国憲法が明治天皇から臣下に授ける形で制定された(欽定憲...
  • 立憲同志会
    立憲同志会(りっけんどうしかい)は、1913年12月23日に成立した大正時代の日本の政党。元は内閣総理大臣桂太郎(結党2ヶ月前に病死)を党首にする予定であった事から「桂新党」の異名があった。 2度の内閣を組織し、その経験から自らが政党を組織することを志向した桂は、自派の官僚と桂に気脈を通じる議員らとともに「桂新党」を結成しようとした。しかし、桂の自立をよしとしない政党嫌いの山縣有朋によって宮中に押し込められた桂がこの構想を公にするのは、護憲運動に遭遇した第3次桂内閣時であり、立憲国民党からの入党はあったが、立憲政友会の離反を招き、又、期待した田健治郎など官僚や貴族院からの入党もさして上手くいかなかった。 昂揚する第一次護憲運動で帝国議会を大衆のデモが取り巻く中で桂内閣は総辞職。桂首相も失意の内に癌で死去した。桂の死後、新総裁の有力候補と目されていた後藤新平と、仲小路廉は同志会から脱党す...
  • 立憲政体の詔書
    立憲政体の詔書(りっけんせいたいのしょうしょ)は、1875年(明治8年)4月14日に明治天皇が発した詔書。五箇条の御誓文の趣旨を拡充して、元老院・大審院・地方官会議を設置し、段階的に立憲政体を立てることを宣言した。元老院、大審院、地方官会議ヲ設置シ漸時立憲政体樹立ノ詔勅、漸次立憲政体樹立の詔勅、元老大審二院を置くの詔などとも呼ばれる。 沿革 1875年(明治8年)1月から2月にかけての大阪会議において、明治政府の大久保利通・伊藤博文と、在野の木戸孝允・板垣退助・井上馨らとの間で合意が成立し、木戸・板垣の政府復帰と政治体制の改革が約束された。 同年3月、木戸・板垣は参議に復帰すると、大久保・伊藤とともに大阪会議の合意事項に基づいた政体改革案を作成し、太政大臣三条実美に提出した。そして、4月14日、この政体改革案を元にした文書が、明治天皇の詔書の形で発表された。この詔書が、立憲政体の詔書...
  • 立憲政友会
    立憲政友会(りっけんせいゆうかい)は、日本の明治後期から昭和前期までの、立憲民政党とならぶ二大政党の1つである(1900年9月15日 - 1940年7月16日(正統派・統一派)/同7月30日(革新派))。略称は政友会(せいゆうかい)。 沿革 1900年(明治33年)9月15日、超然主義の破綻と政党政治の必要性を感じた伊藤博文が自らの与党として組織した。伊藤自身が初代総裁となり、伊藤系官僚と憲政党(旧自由党)・帝国党が中心となって創立された。政党に不信感を持っていた明治天皇は伊藤の政党結党に対して強く反対したが、伊藤は議会の中に天皇と国益を重んじる政党が必要であることを力説して了承を得る(このとき、伊藤を通じて下賜金2万円が政友会に与えられた)。10月に政友会を中心に第4次伊藤内閣を成立させる。だが、依然として超然主義を奉じる貴族院最大会派の研究会は伊藤の入党要請を拒絶する会派決議を...
  • 立憲民政党
    立憲民政党(りっけんみんせいとう)は、昭和時代の政党。1927年6月1日に憲政会と政友本党が合併して成立した。濱口内閣・第2次若槻内閣を組織して、立憲政友会との二大政党制を実現させたが1940年8月15日に解党して立憲政友会とともに大政翼賛会に合流した。 概要 1927年、政友会の田中義一内閣に対抗する形で若槻前政権の与党であった憲政会と田中義一の政友会総裁就任に反対して政友会を離党した床次竹二郎らの政友本党が合同して成立、6月1日上野精養軒にて結党式が開かれ、濱口雄幸を総裁とし、若槻禮次郎(前首相・憲政会総裁)・床次竹二郎(政友本党総裁)・山本達雄・武富時敏を党顧問、桜内幸雄を幹事長、安達謙蔵・町田忠治・小泉又次郎・斎藤隆夫ら10名を総務とし、「議会中心主義」・「人種・貧富の差の解消」・「国際正義に基づく協調主義」・「国民の自由の擁護」などを掲げた。支持基盤としては、地主などが支...
  • 重光葵
    {{政治家 |各国語表記 = しげみつ まもる |画像 = Mamoru_Shigemitsu.jpg |画像説明 = 重光 葵 |国略称 = Template JPN? |生年月日 = 1887年7月29日 |出生地 = 大分県大野郡三重町(現:豊後大野市) |没年月日 = Template 死亡年月日と没年齢? |死没地 = 神奈川県湯河原町 |出身校 = |所属政党 = |称号・勲章 = |配偶者 = |サイン = |ウェブサイト = |サイトタイトル = |国旗 = 日本 |職名 = 第83~85代外務大臣 |内閣 = 鳩山内閣 |選挙区 = |当選回数 = |就任日 = 1954年12月10日 |退任日 = 1956年12月23日 |退任理由 = |元首職 = |元首 = |国旗2 = 日本 |職名2...
  • 革新倶楽部
    革新倶楽部(かくしんくらぶ)は、日本の大正時代の政党である。 1922年11月8日、立憲国民党を解党した犬養毅、尾崎行雄、島田三郎、古島一雄らを中心に結成された。立憲国民党・無所属倶楽部や憲政会脱退派などの非政友会系を合同して絶対多数であった立憲政友会に対抗した。政治的主張として、普通選挙に基づく政党内閣制、軍部大臣現役武官制廃止、師団半減などの軍縮、知事公選、行財政整理、金解禁、義務教育の延長、労働および小作問題の立法的解決、ソビエト連邦承認などを掲げていた。 第二次護憲運動では、立憲政友会、憲政会と護憲三派を組んで、清浦奎吾内閣を打倒した。選挙後、成立した加藤高明を首班とする護憲三派内閣では犬養は逓信大臣として入閣した。だが、この時の総選挙で立憲政友会と憲政会の間で埋没した形となった革新倶楽部は議席を43から30に大幅に減らした事から、両党への不信感や党の将来に対する不安を抱く議員...
  • 交友倶楽部
    交友倶楽部(こうゆうくらぶ)は、1912年12月24日より1947年5月3日の日本国憲法公布まで存在していた貴族院の院内会派。ただし、上記の設立日は院内交渉団体として届出があった日であり、実際には遅くても同年初めには親睦団体として存在していた(『原敬日記』)。貴族院における立憲政友会系の会派として活動した。 元は立憲政友会の第2次西園寺内閣を支持する勅選議員や多額納税議員の親睦団体であったが、1912年12月24日に院内交渉団体として届出を行って正式に発足した。結成時の幹事は勅選議員(奥田義人・岡野敬次郎・安楽兼道)・多額納税議員(佐藤友右衛門・森田庄兵衛・山下喜兵衛)ともに3名ずつ選出され、他に石渡敏一・杉田定一・水野錬太郎・江原素六・松岡康毅・室田義文らを合わせて25名が参加していた。立憲政友会の勢力拡大とともに会員を常時30名を超え、最盛期には47名を数えた。また、非政党内閣であっ...
  • 寺内内閣
    {{日本の内閣記事|てらうち ないかく|18|寺内正毅|Template 和暦?|10月9日|Template 和暦?|9月29日|立憲政友会|第13回衆議院議員総選挙|1917年(大正6年)1月25日|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/18.html|元帥陸軍大将・軍事参議官}} 総辞職したのはTemplate 和暦?9月21日だが、次の原内閣成立まで職務を執行した。 概要 寺内内閣はTemplate 和暦?、第2次大隈内閣の後を受けて山縣有朋の推挙によって擁立された。海軍大臣以外は全部山縣系という超然内閣であったことから、「ビリケン内閣」とも呼ばれた(寺内が当時流行のビリケン人形にそっくりであったことと、「非立憲(主義)」をかけたもの)。当初、第1党の立憲同志会(後に憲政会を結成)と第3党の立憲国民党は野党の立場を取ったものの、...
  • 更新blog-5
    最近更新したblog一覧 その5 更新blog-1 更新blog-2 更新blog-3 更新blog-4 更新blog-6 # 世に倦む日日 # 引っ越ししました。 大晦日に - 朝日の投書 「日中は戦争になるのですか」 仲井真弘多にリコールを - 12/27のNHKの異様な奉祝報道 安倍晋三の靖国参拝と米国の批判 - その政治の分析 安倍晋三と仲井真弘多の茶番会議とNHKの脱力報道 「東アジアの安全保障環境の激変」の言説と防空識別圏 都知事選の提案 - 若いリベラル候補で安倍晋三を倒す リベラルの欺瞞とファシズム - 加藤陽子、長谷部恭男、東大 都知事選でSTOP THE ABE - リベラル統一候補の擁立を 「反日」、「テロリスト」、「スパイ」 - 内務省、憲兵、軍法会議 秘密保護法を招いた通路 - マスコミは政治報道の反省を 秘密保護法の成立 - 闘い...
  • 田中義一内閣
    {{日本の内閣記事|たなかぎいち ないかく|26|田中義一|Template 和暦?|4月20日|Template 和暦?|7月2日|立憲政友会|第16回衆議院議員総選挙|1928年(昭和3年)1月21日普選解散|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/26.html|立憲政友会総裁・貴族院議員}} 概要 昭和金融恐慌の発生によって窮地に陥った第1次若槻内閣は、緊急勅令によって事態切り抜けを図ったが、幣原外交に反感を抱く枢密院の平沼騏一郎や伊東巳代治の策動で否決されて倒れた。元老西園寺公望と内大臣牧野伸顕はともに憲政常道の観点から立憲政友会総裁の田中義一を後継に推挙し、陸軍出身の田中に幣原外交路線の破棄を期待する反西園寺派の平沼・伊東までがこれに便乗した。金融恐慌に動揺する貴族院にも田中待望論の動きが高まった。 大命降下を受けた田中は平沼...
  • 中央倶楽部
    中央倶楽部(ちゅうおうくらぶ)は、明治・大正時代に存在した日本の政党(1910年3月1日-1913年2月5日)。 日露戦争後の立憲政友会の勢力拡大に危機感を抱いた反政友会党派の間で統一新党を目指す動きが生じたが、政党政治を目指す憲政本党・又新会と藩閥に近い大同倶楽部・戊申倶楽部との間で路線対立が明らかとなり、前者は立憲国民党を結成、これに対して後者が結成したのが中央倶楽部である。 桂内閣の衆議院における別働隊であり、桂太郎側近の大浦兼武・安達謙蔵が中心として活動し、日韓併合や陸軍の2個師団増設を支持した。大正政変に伴って浮上した桂を中心とする「桂新党」構想において中心的な役割を果たし、桂の没後に発足した立憲同志会に合流して解散した。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2007年5月20日 (日) 13 24。 ...
  • 天皇主権
    天皇主権(てんのうしゅけん)とは、大日本帝国憲法において、天皇が保持するとされた主権。西欧における君主主権を日本に適用したもので、天皇主権を君権ともいう。天皇主権を中心として構成された憲法学説を天皇主権説という。 歴史 Template 和暦?に公布され、翌Template 和暦?に施行された大日本帝国憲法は4条で「天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リテ之ヲ行フ」と定めた。この条文の解釈や憲法全体の解釈運用にあたっては天皇主権(君権)を重んじる穂積八束や上杉慎吉ら君権学派(神権学派とも言う)と議会制を中心とした立憲主義を重んじる美濃部達吉や佐々木惣一ら立憲学派の二大学派に分かれて論じ合われた。 憲法施行当初は超然主義を唱えた藩閥政治家や官僚らにより天皇主権を中心とした君権学派の解釈が重用された。明治時代の終わりには上杉と美濃部の天皇機関説論争が行われ、大正デモクラシ...
  • 大正政変
    大正政変(たいしょうせいへん)は、1913年(大正2年)2月、前年末から起こった憲政擁護運動(第1次)によって第3次桂内閣が倒れたことを指す。広義には、第2次西園寺内閣の倒壊から、第3次桂内閣を経て第1次山本内閣の時代までとされる ref name=okubo 大久保(1964)。 狭義の大正政変 概略 明治末以来、藩閥勢力の代表で陸軍に近い桂太郎(長州藩出身)と立憲政友会の西園寺公望(公家出身)が「情意投合」1911年(明治44年)1月26日の桂・西園寺会談の結果、1月29日に発表した合意のこと。第2次桂内閣が立憲政友会の支援を必要としていることから、桂は次期首班に政友会を推し、自分は再び政権につかないという確約を政友会の原敬とのあいだに結んだ。これにより、政府と政友会の提携が成立した。のもと、交互に政権を担う慣例が続いていた(桂園時代と呼ばれる)。 明治天皇崩御...
  • 米内内閣
    {{日本の内閣記事|よない ないかく|37|米内光政|Template 和暦?|1月16日|同年|7月22日|官僚・軍人が中心。|なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/37.html|海軍大将}} 概要 前の阿部内閣が総辞職した後、新内閣の首相には当初陸軍大臣畑俊六が噂されていた。しかし、昭和天皇が当時の日独伊三国同盟締結を求める風潮を憂慮したために、海軍良識派である海軍大将の米内光政に組閣の大命が降下された。米内は組閣と同時に自ら現役を退き予備役となるが、親英米派で日独伊三国同盟反対論者だったこと、近衛文麿らによる新体制運動にも冷淡な姿勢を貫いたこと等により陸軍や親軍的な世論から不評を買う。米内内閣成立後の斎藤隆夫(立憲民政党)による反軍演説も陸軍の反発を招いた。 組閣から半年後の1940年(昭和15年)6月、フランス...
  • 憲政会
    憲政会(けんせいかい)は、大正期から昭和初期にかけて護憲運動の中心となった政党。 概要 1916年(大正5年)10月10日、第2次大隈内閣の与党であった加藤高明を総裁とする立憲同志会(加藤の他に河野広中・若槻禮次郎・濱口雄幸・安達謙蔵・片岡直温ら)に立憲政友会に不満を持つ尾崎行雄の中正会・公友倶楽部などの諸政党が合同して結成する。総裁には加藤が就任して、総務7名(尾崎行雄・武富時敏・高田早苗・若槻禮次郎・濱口雄幸・安達謙蔵・片岡直温)がこれを補佐した。当初は198議席を有して衆議院第1党であった。 しかし次の寺内内閣に対して野党の立場を取ったために次の総選挙で大敗し、以後第39~48議会(1917年(大正6年)‐1924年(大正13年))において立憲政友会につぐ第2党として元老の否認やシベリア出兵反対、労働組合の公認、憲政の常道に基づく政権交代を主張したものの、政友会の原敬が総理...
  • 原内閣
    {{日本の内閣記事|はら ないかく|19|原敬|Template 和暦?|9月20日|Template 和暦?|11月13日|立憲政友会|第14回衆議院議員総選挙|1920年(大正9年)2月26日|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/19.html|立憲政友会総裁・衆議院議員}}陸軍大臣・海軍大臣・外務大臣を除く、すべての大臣に立憲政友会の党員を起用したことから、日本初の本格的政党内閣と言われる。 高等教育の拡充、産業の拡充、鉄道網の拡充、国防の拡充の「四大政綱」を重要な政策課題と位置付けた。 閣僚 内閣総理大臣  原敬(1918年(大正7年)9月20日 - 1921年(大正10年)11月4日) 内田康哉首相死去により、内田康哉外務大臣が臨時兼任。(1921年(大正10年)11月4日 - 同年11月13日) 外務大臣 内...
  • 政党内閣
    政党内閣(せいとうないかく)とは、議会に議席を保持する政党を基礎に組織された内閣のこと。議院内閣制ともいい、議会の信任に基づいて政権を運営する。 現在では議会制民主主義(間接民主制)の制度を取り入れている諸国の内閣が政党内閣の形態である。ただし、アメリカ合衆国のように議院内閣制を採用していない国では、政党政治が実施されていても、その政権をさして政党内閣とは呼ばない場合が多い。また、社会主義・共産主義国家やファシズム国家などに見られる一党独裁体制も政党が政権を掌握していたとしても政党内閣とはいえない。 各国の政党内閣 イギリス 政党内閣が典型的な発展を見せたのは17世紀後半のイギリスである。ホイッグとトーリーの両党派が相互に勢力を競い、後に自由党と保守党による二大政党制へと移行した。1900年前後に議院内閣制の慣行が確立されると政党内閣による政権運営が定着した。 日本 日本...
  • 第2次大隈内閣
    {{日本の内閣記事|だい2じ おおくま ないかく|17|大隈重信|Template 和暦?|4月16日|Template 和暦?|10月9日|立憲同志会、中正会、大隈伯後援会|第12回衆議院議員総選挙|1914年(大正3年)12月25日|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/17.html|早稲田大学総長}} 概要 第1次山本内閣崩壊後、徳川家達・清浦奎吾に大命降下されるがいずれも組閣に失敗(鰻香内閣を参照)、元老会議はやむなく1907年(明治40年)の憲政本党の内紛を機に政界を引退していた大隈重信を後継に奏請した。Template 和暦?4月13日に大命降下を受けた大隈は旧憲政本党以来の議員が所属していた立憲同志会・中正会から閣僚を入れて組閣を行った。立憲同志会の指導者で大隈と密接な三菱財閥と血縁関係にある加藤高明が外務大臣として大隈を...
  • 岡田内閣
    {{日本の内閣記事|おかだ ないかく|31|岡田啓介|Template 和暦?|7月8日|Template 和暦?|3月9日|官僚・政党(立憲民政党・昭和会など)|第19回衆議院議員総選挙|1936年(昭和11年)1月21日|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/31.html|退役海軍大将}} 概要 岡田内閣は、元老・西園寺公望の奏薦により、退役海軍大将の岡田啓介が組閣した内閣である。官僚と政党を中心とした弱体内閣。天皇機関説問題の対応に苦慮。軍部からの圧力に抗しきれず、第二次ロンドン海軍軍縮会議を脱退し、軍の華北進出を容認した。衆議院で野党・立憲政友会の提出した内閣不信任決議が可決されたことを受けて、1936年(昭和11年)1月21日に衆議院解散。同年2月20日に行われた第19回衆議院議員総選挙の結果、与党・立憲民政党が第一党となるも...
  • 第2次西園寺内閣
    {{日本の内閣記事|だい2じ さいおんじ ないかく|14|西園寺公望|Template 和暦?|8月30日|Template 和暦?|12月21日|立憲政友会|第11回衆議院議員総選挙|(1912年(明治45年)5月15日衆議院議員の任期満了による。)|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/14.html|立憲政友会総裁}}この内閣の任期中の1912年(明治45年)7月30日に明治天皇が崩御して明治時代が終わるとともに、同日から大正時代が始まる。 概要 第2次桂内閣が条約改正の成功を機に退陣すると、政権は再度西園寺に回ってきた。立憲政友会の閣僚数は前回より1増加した他、他の閣僚も親政友会系の官僚が複数入閣した。内務大臣に就任した原敬は衆議院議員選挙に小選挙区制を導入しようとするが、貴族院の反対で否決された。だが、貴族院内に親政友会の会派で...
  • 憲政の常道
    憲政の常道(けんせいのじょうどう)は「天皇による組閣の大命は衆議院の第一党に下されるべきこと、ある内閣が失政によって倒れた時、組閣の大命は野党第一党に下される」とする大日本帝国憲法下の政党政治時代における政界の慣例。あくまでも慣例であり法的拘束力はない。 概説 大正デモクラシー期以降、民本主義思想とイギリスの議院内閣制に倣い、「民意は衆議院議員総選挙を通して反映されるのであるから、衆議院の第一党が与党となって内閣を組閣すべきである。また、内閣が失敗して総辞職に及んだ場合、そのまま与党から代わりの内閣が登場すれば、それは民意を受けた内閣では無い。それならば直近の選挙時に立ち返り、次席与党たる第一野党が政権を担当すべきである。」という原理に基づいて元老による内閣首班の推薦が行われるようになった。これが「憲政の常道」と呼ばれる。衆議院第一野党の党首が政権を担当した場合には内閣の基盤を強化する...
  • 天皇機関説
    天皇機関説(てんのうきかんせつ、天皇機關說)とは、大日本帝国憲法下で確立された、天皇に関する憲法学説である。統治権は法人たる国家にあり、天皇はその最高機関として、内閣をはじめとする他の機関からの輔弼を得ながら統治権を行使すると説いた。ドイツの公法学者イェリネックに代表される国家法人説に基づく。 概要 天皇機関説は、明治時代の終わりからTemplate 和暦?頃までの30年余りにわたって、憲法学の通説とされ、政治運営の基礎的理論とされた学説である衆議院憲法調査会事務局「明治憲法と日本国憲法に関する基礎的資料(明治憲法の制定過程について)」、Template 和暦?。。憲法学者の宮沢俊義によれば、天皇機関説は、次のようにまとめられる宮沢俊義『天皇機関説事件(上)』有斐閣、Template 和暦?。。 国家学説のうちに、国家法人説というものがある。これは、国家を法律上ひとつの法人だと見...
  • 革新党
    革新党(かくしんとう) アメリカにかつて存在していた政党。進歩党 (アメリカ)を参照。 日本の昭和時代に革新倶楽部の立憲政友会への合流に反対した議員が結成した政党。本項にて解説する。 日本共産党元中央委員赤松克麿が転向して結成した日本革新党。国家社会主義と日本主義を掲げる右翼政党。 革新党(かくしんとう)は、昭和初期(1927年6月3日-1932年7月25日)に存在した政党。 1925年5月10日、革新倶楽部は立憲政友会と合同(正式な合同は14日)したが、この合同に反対した尾崎行雄・清瀬一郎ら左派系は政友会への加入を拒否して一旦無所属となる。その後、30日に小政党・中正倶楽部とともに院内会派である新正倶楽部を結成した。 だが、左派系の中でも足並みが揃っていた訳ではなく、昭和に入った1927年に尾崎らと決別した関直彦・清瀬一郎・大竹貫一らは新党結成を模索、同年6月3...
  • 頭山満
    Template Infobox Celebrity? 頭山 満(とうやま みつる、1855年5月27日(安政2年4月12日) - 1944年(昭和19年)10月5日、幼名:乙次郎)は、アジア主義の立場で活動した国家主義者、著述家、政治運動家。その政治的活動から政財界に太いパイプを持ちながら、実業家(鉱山経営者)であり、篤志家としての側面ももっていた。 箱田六輔や平岡浩太郎らと設立した玄洋社は、日本における民間の国家主義運動の草分け的存在となり、後の愛国主義団体や右翼団体に道を開いた。また教え子の内田良平の奨めで黒龍会顧問となると、大陸浪人にも影響力を及ぼす右翼の巨頭・黒幕的存在となった。 条約改正交渉に関しては一貫して強硬姿勢の主張をおこない、また早い時期から日本の海外進出を訴え、対露同志会に加わって日露戦争開戦論を主張。大正年間から昭和の初めにかけて韓国の金玉均、中国の孫文や...
  • 帝国党
    帝国党(ていこくとう)は、明治時代後期の吏党系政党(1899年7月5日-1905年12月23日)。国民協会のあとを受け結成された。 概要 国民協会の会頭(党首)であった品川弥二郎が政党活動から撤退を表明したことにより解散されることになった国民協会所属議員の受け皿として、佐々友房・荒川邦蔵らによって結成された。だが、伊藤博文による新党(後の立憲政友会)結成の噂が流れたことによって所属議員は分裂して大岡育造派は新党参加を決定、残された佐々友房派12名が無所属や他党議員8名を加えて計20名で結成することとなった。国体擁護・軍備充実・国権拡張・実業振作・国民精神発揚・社会政策拡充・地方自治完備といった綱領を掲げていた。 だが、実際に立憲政友会が結成されると党内は動揺して元田肇らが離脱してこれに参加、第1次桂内閣では唯一の与党となったものの、20名を切る小政党では活動に限界があった。対露同志会...
  • 犬養内閣
    {{日本の内閣記事|いぬかいないかく|29|犬養毅|Template 和暦?|12月13日|Template 和暦?|5月26日|立憲政友会|第18回衆議院議員総選挙|1932年(昭和7年)1月21日|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/29.html|立憲政友会総裁・衆議院議員}} 概要 立憲政友会を中心とする政党内閣である。しかし、この内閣は五・一五事件により崩壊し、これ以後日本は一気に軍国主義に傾くため、これが事実上戦前最後の政党内閣となる。 1932年(昭和7年)5月の五・一五事件によって犬養毅が暗殺され、宮中席次の序列に則り、大蔵大臣高橋是清が内閣総理大臣臨時代理を務めた。 閣僚 総理大臣 犬養毅(1931年(昭和6年)12月13日 - 1932年(昭和7年)5月16日) 高橋是清(臨時兼任、1932...
  • 清浦内閣
    {{日本の内閣記事|きようら ないかく|23|清浦奎吾|Template 和暦?|1月7日|同年|6月11日|官僚、貴族院。|第15回衆議院議員総選挙|1924年(大正13年)1月31日懲罰解散|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/23.html|枢密院議長}} 清浦は枢密院議長から出て組閣し、政党から閣僚を入れることなく、貴族院を背景にした超然主義を貫いた。立憲政友会・憲政会・革新倶楽部の護憲三派が起こした第二次護憲運動により、わずか5ヶ月で総辞職となった。与党は立憲政友会を脱党した政友本党である。 閣僚 内閣総理大臣 清浦奎吾(子爵・前枢密院議長) 外務大臣 松井慶四郎(男爵・外務官僚) 内務大臣 水野錬太郎(貴族院交友倶楽部) 大蔵大臣 勝田主計(貴族院研究会) 陸軍大臣 宇垣一成(陸軍中将) 海軍大臣 村上格一(海軍...
  • 又新会
    又新会(ゆうしんかい)は、明治末期に存在した革新派政党。立憲政友会に対抗して都市生活者の支援と対外強硬論を軸とした。ここではその母体となった猶興会(ゆうこうかい)についても合わせて解説するものとする。 猶興会 猶興会(ゆうこうかい)は、1906年12月20日に政交倶楽部を中心とした既成政党に不満を持つ36名の代議士によって結成された政党である。菊池武徳・山口熊野を幹事(代表)とし、河野広中・大竹貫一・島田三郎・小川平吉・尾崎行雄・奥田義人・花井卓蔵らが参加した。 日露戦争後の政府の膨張予算とそれに伴う増税方針に強く反対し、「政界革新同志会」を旗揚げして全国運動を展開する。憲政本党・大同倶楽部と連携して政友会の第1次西園寺内閣の政策を糾弾して国民負担の軽減と軍事優先政治の解消を求めた。その反面、対外的にはタカ派的色彩が強く、ハーグ密使事件では政府・韓国統監府の対応を「弱腰」であると...
  • 第3次桂内閣
    {{日本の内閣記事|だい3じ かつら ないかく|15|桂太郎|Template 和暦?|12月21日|Template 和暦?|2月20日|官僚内閣|なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/15.html|元老・内大臣兼侍従長}}在任期間は62日間で、東久邇宮内閣(54日間)に次いで史上第2位の短命内閣である。 概要 これまで「桂園時代」と呼ばれて桂太郎と西園寺公望が交替して政権を担当しており、順番からすれば桂が推挙される筈であったが、この頃、桂と山縣有朋の確執が深刻化し、4ヶ月前の大正天皇践祚を機に内大臣兼侍従長に祭り上げられていた。そのため、元老の中から松方正義が推されたが78歳であることを理由に辞退し、山本権兵衛・平田東助も組閣の自信がないとして辞退した。このため、山縣もやむなく桂を再度推挙することとした。桂は山縣には依存...
  • @wiki全体から「立憲改進党」で調べる

更新順にページ一覧表示 | 作成順にページ一覧表示 | ページ名順にページ一覧表示 | wiki内検索

ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。