chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「腹切り問答」で検索した結果

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  • 腹切り問答
    腹切り問答(はらきりもんどう)とは、日本の事件。割腹問答(かっぷくもんどう)ともいう。本会議中に立憲政友会の浜田国松代議士と寺内寿一陸相との間で起こったやりとりで、結果的に広田内閣の瓦解に繋がった。 事件の概要 1937年(昭和12年)1月21日、第70回帝国議会において政友会の浜田議員が「近年のわが国情は特殊の事情により、国民の有する言論の自由に圧迫を加えられ、国民はその言わんとする所を言い得ず、わずかに不満を洩らす状態に置かれている。軍部は近年自ら誇称して…独裁強化の政治的イデオロギーは常に滔々として軍の底を流れ、時に文武恪循の堤防を破壊せんとする危険がある」と二・二六事件以降の軍部の政治干渉を痛烈に批判する演説を行った。 これを聞いた寺内陸相は答弁に立って「或は軍人に対しましていささか侮蔑されるような如き感じを致す所のお言葉を承りますが」と険しい表情で反駁。ところが浜田が二...
  • 寺内寿一
    ...会の代議士浜田国松と腹切り問答 1937年(昭和12年)2月 教育総監 1937年(昭和12年)8月 北支那方面軍司令官 1938年(昭和13年) 勲一等旭日大綬章 1941年(昭和16年)11月 南方軍総司令官 1943年(昭和18年)6月 元帥に昇進 1945年(昭和20年)5月10日 ビルマで降服 1946年(昭和21年) シンガポールのレンガムで拘留中に病死 性格 二・二六事件の後、陸相として皇道派の追放(粛軍)を主導し、軍部大臣現役武官制を復活させ、軍部の影響力を増大させている。また、「腹切り問答」後に議会解散を要求して結果的に広田内閣を総辞職に追い込んでいる。さらに元帥就任後は無謀なインパール作戦を強行して失敗、ルソン島からレイテ島への作戦転換も多大の犠牲者を出した。 また、山田風太郎の著書『人間臨終図巻』の寺内を扱った項目によると、寺内と永井荷風...
  • 廣田内閣
    ...文化勲章を制定した。腹切り問答により軍部と政党が対立し、内閣は崩壊した。 閣僚 総理大臣 広田弘毅(官僚 外務省) 1936年(昭和11年)3月9日 - 1937年(昭和12年)2月2日 外務大臣 広田弘毅(首相兼任・官僚 外務省)(岡田内閣から留任) 1936年(昭和11年)3月9日 - 同年4月2日 有田八郎(官僚 外務省) 1936年(昭和11年)4月2日 - 1937年(昭和12年)2月2日 内務大臣 潮恵之輔(貴族院所属 昭和研究会) 1936年(昭和11年)3月9日 - 1937年(昭和12年)2月2日 大蔵大臣 馬場鍈一(貴族院所属 昭和研究会) 1936年(昭和11年)3月9日 - 1937年(昭和12年)2月2日 陸軍大臣 伯爵寺内寿一(軍人 陸軍大将) 1936年(昭和11年)3月9日 - 1937年(昭和12年)2月...
  • 軍部大臣現役武官制
    ...活させた広田内閣は、腹切り問答によって自らが制定した軍部大臣現役武官制による陸軍大臣と揉めて、議会を解散する要求を拒絶する代わりに総辞職に追い込まれた。 その後、1937年(昭和12年)に宇垣一成(予備役陸軍大将)に対して天皇から首相候補に指名されて組閣命令が下った際、陸軍から陸軍大臣の候補者が得られずに組閣を断念せざるを得ない状態へ追い込まれ、1940年には米内内閣が畑俊六陸相の単独辞職により崩壊するなど、日本の軍国主義の深刻化に拍車をかけることになった。なお、大命降下された宇垣から入閣交渉を受けた小磯国昭(当時朝鮮軍司令官)は「引き受けたとしても、東京に来る途中で「予備役編入」の電報が陸軍上層部から届いて、それで終わりですよ」と答えたという。 このように現役武官制と言っても現役武官の誰でも陸相に出来るというわけではなく、「軍の総意」にかなわない人事は不可能であった。陸軍の場合...
  • 中江兆民
    Template Infobox Celebrity? 中江 兆民(なかえ ちょうみん、弘化4年11月1日(1847年12月8日) - 明治34年(1901年)12月13日)は、江戸時代後期から明治の思想家、ジャーナリスト、政治家(衆議院議員)である。フランスの思想家ジャン=ジャック・ルソーを日本へ紹介して自由民権運動の理論的指導者となった事で知られ、「東洋のルソー」と評される。衆議院当選1回、第1回衆議院議員総選挙当選者の一人。 父は土佐藩足軽の元助で長男、母は土佐藩士青木銀七の娘で柳。弟に虎馬。妻・ちのは長野県出身。子は一男一女。娘の千美は竹内綱の3男虎治の妻で、その娘は中国共産党員であった鈴江言一の妻、浪子。兆民は号で、「億兆の民」の意味。「秋水」とも名乗り、弟子の幸徳秋水(伝次郎)に譲り渡している。名は篤介(とくすけ、篤助)。幼名は竹馬。 中江家は、初代伝作が明和3年(176...
  • 隣組
    隣組(となりぐみ) かつて日本にあった制度で、1940年に初めて明文化された。町内会のさらに下にあり数家庭ごとに一組を組織し、配給の効率化や思想統制を図った。本項で詳述する。 岡本一平作詞(作詞著作権消滅)、飯田信夫作曲で、徳山璉が歌った歌謡曲の名前である。戦時中の隣組制度を宣伝啓発する歌詞であり、また国民への宣伝啓発のため明るく元気のある曲調に仕上がっていることから、「ドリフ大爆笑」のテーマ、「メガネドラッグ」のCMソングなどにも用いられている。「隣組 (歌)」(歌詞は隣組 (歌曲))を参照。 隣組は、日本の昭和期において戦時体制の銃後を守る、国民生活の基盤の1つとなった官主導の隣保組織である。 国家総動員法、国民精神総動員運動、選挙粛清運動と並び、前年に決定し1940年(昭和15年)に内務省が布告した「部落会町内会等調整整備要綱」(隣組強化法)によって制度化さ...
  • 五・一五事件
    thumb|300px|五・一五事件を伝える[[朝日新聞|大阪朝日新聞。]] 五・一五事件(ごいちごじけん、ごてんいちごじけん)は、1932年(昭和7年)5月15日に起きた大日本帝国海軍急進派の青年将校を中心とする反乱事件。武装した海軍の青年将校たちが首相官邸に乱入し、当時の護憲運動の旗頭ともいえる犬養毅首相を暗殺した。この事件により日本の政党政治は衰退したといわれる。 犯行背景 当時は1929年(昭和4年)の世界恐慌に端を発した大不況、企業倒産が相次ぎ、社会不安が増していた。1931年(昭和6年)には石原莞爾率いる関東軍の一部が満州事変を引き起こしたが、政府はこれを収拾できず、かえって引きずられる形であった。犬養政権は金輸出再禁止などの不況対策を行うことを公約に1932年(昭和7年)2月の総選挙で大勝をおさめたが、一方で満州事変を黙認し、陸軍との関係も悪くなかった。 しかし、19...
  • 国家総動員法
    Template 日本の法令? 国家総動員法(こっかそうどういんほう)は、1938年(昭和13年)に第1次近衛内閣によって制定された法律。総力戦遂行のため国家のすべての人的・物的資源を政府が統制運用できる(総動員)旨を規定したもの。1945年の敗戦によって名目を失い、同年12月20日に公布された国家総動員法及戦時緊急措置法廃止法律(昭和20年法律第44号)に基づいて1946年4月1日をもって廃止された。 背景と影響 第一次世界大戦の戦訓より、戦争における勝利は国力の全てを軍需へ注ぎ込み、国家が総力戦体制をとることが必須であるという認識が広まっていた。日中戦争の激化に伴い、当時の日本経済では中国で活動する大軍の需要を平時の経済状態のままで満たすことが出来なくなっていたため、経済の戦時体制化が急務であった。 この法案は当時企画院を中心とした革新官僚と呼ばれたグループによって策定された。...
  • 鳥羽・伏見の戦い
    Template Battlebox? 鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい, 慶応4年1月3日-6日(1868年1月27日-30日))は、戊辰戦争の緒戦となった戦闘である。戦いは京都南郊の上鳥羽(京都市南区)、下鳥羽、竹田、伏見(京都市伏見区)で行われた。 背景 慶応3年末、薩摩藩の大久保利通や公家の岩倉具視らの働きで発せられた王政復古の大号令により、前将軍・徳川慶喜に対し辞官納地が命ぜられた。徳川家親族の新政府議定の松平春嶽と徳川慶勝が使者として慶喜のもとへ派遣され、この決定を慶喜に通告した。慶喜は謹んで受けながらも配下の気持ちが落ち着くまでは不可能という返答をおこなった。実際この通告を受けて旧幕府旗本や会津藩の過激勢力が暴走しそうになったため、慶喜は彼らに軽挙妄動を慎むように命じつつ、12月13日には政府に恭順の意思を示すために京都の二条城を出て大坂城へ退去している。春...
  • 豊島沖海戦
    Template Battlebox? 豊島沖海戦(ほうとうおきかいせん)は、日清戦争の発端となった海戦。豊島沖の戦いとも言う。 概要 1894年(明治27年)7月25日、日本艦隊と清国艦隊が朝鮮半島西岸の豊島沖で戦った海戦。宣戦布告直前に遭遇して起きた。日本艦隊が一方的に勝利した。 2国の艦隊 日本艦隊 日本海軍第1遊撃隊(司令官 坪井航三少将、「吉野」(よしの)「秋津洲」(あきつしま)「浪速」(なにわ))の3艦。 「吉野」は当時世界一の最速艦であった。 清国艦隊 はじめに、防護巡洋艦 「済遠」(さいえん、Tsi yuen)、巡洋艦 「広乙」の2艦。 後に、砲艦「操江」(Caojiang)及び商船「高陞」の2艦。 海戦 1894年7月25日早朝、吉野艦隊は朝鮮の北西岸豊島沖で会合する予定だった通報艦「八重山」と旧式巡洋艦「武蔵」を捜していた。二条...
  • 原敬
    Template 日本の内閣総理大臣? 原 敬(はら たかし、安政3年2月9日(1856年3月15日) -大正10年(1921年)11月4日)は、日本の政治家。幼名は健次郎。立憲政友会第3代総裁。第19代内閣総理大臣(在任1918年9月29日 - 1921年11月4日)。正二位大勲位。 概説 郵便報知新聞記者を経て外務省に入省。後に農商務省に移って陸奥宗光や井上馨からの信頼を得た。陸奥外務大臣時代には外務官僚として重用されたが、陸奥の死後退官。その後、発足時から立憲政友会に参加。政界に進出し、大正7年(1918年)に内閣総理大臣に就任。爵位の受け取りを固辞し続けたため「平民宰相」と言われている。 大正10年(1921年)11月4日、東京駅丸の内南口コンコースにて、右翼青年中岡艮一に襲撃され、即死した。満Template 没年齢?。 なお、通称名である「はら けい」が用いられる...
  • トラウトマン工作
    トラウトマン工作とは、昭和12年(1937年)11月初から昭和13年(1938年)1月16日までの期間にドイツの仲介で行われた、日本と中華民国国民政府間の和平交渉である。当時のオスカー・トラウトマン (Oscar P. Trautmann 1877年5月 - 1950年12月10日) 駐華ドイツ大使の名を取って、こう呼ばれる。工作という言葉の負のイメージを嫌ってトラウトマン和平工作とも呼ばれる事もある。 和平交渉の期間は、日中戦争(支那事変)時の上海陥落直前から南京陥落1箇月後の間にあたる。実際には7月に起こった蘆溝橋事件直後より和平の道は探られていたが、具体的な和平交渉が始まったのは、11月初旬である。 概要 当時、ドイツは中国に軍事顧問を派遣するなど友好関係を築いていた。ただし、中国侵出の意欲は低く、また日本の目が中国に向かって北方のソ連から逸れるのは望まざるところであったので、...
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  • 大日本帝国海軍
    thumb|大日本帝国海軍[[軍艦旗]] 大日本帝国海軍(だいにっぽんていこくかいぐん)とは、1945年以前に大日本帝国の天皇が統帥していた海軍である。通常は、単に「日本海軍」や「帝国海軍」と呼ばれた。 概要 軍令は軍令部、軍政は海軍省が行い、最高統帥権を有していたのは天皇であった。大日本帝国憲法では、最高戦略、部隊編成、軍事予算などの軍事大権については、憲法上内閣から独立し、直接天皇の統帥権に属した。したがって、全軍の最高司令官は大元帥たる天皇ただ一人であり、それを輔弼する最高級指揮官(形式的には参謀)が、海軍では軍令部総長、陸軍では参謀総長である。諸外国の多くの軍隊のように、海軍総司令官、陸軍最高司令官のような最高位指揮官の軍職(ポスト)は存在しない。 また、戦時(後に事変を含む)には陸軍と合同で大本営を設置した。主な戦役に日清戦争の黄海海戦や日露戦争時の日本海海戦、太平洋...
  • 上海派遣軍
    Template 軍隊資料? 上海派遣軍(しゃんはいはけんぐん)は、大日本帝国陸軍の軍の一つ。 沿革 盧溝橋事件から飛び火し第二次上海事変が発生したため、上海の在留邦人保護のために上海派遣軍が編成された。よって当初は戦闘序列は発令されず天皇直隷であった。 その後、参謀本部の不拡大方針を押し切り、南京方面への進撃に伴い、1937年(昭和12年)12月1日に新たに編成された中支那方面軍戦闘序列に編入、翌1938年(昭和13年)2月14日に廃止された。 軍概要 Template 日本陸軍? 通称号:無し 編成時期:1937年(昭和12年)8月15日 廃止時期:1938年(昭和13年)2月14日 廃止時の上級部隊:中支那方面軍 最終位置:南京 司令官 松井石根 大将:1937年8月15日 - 朝香宮鳩彦王 中将:1937年12月2日 - 19...
  • ハル・ノート
    ハル・ノート(Hull note、正式にはOutline of proposed Basis for Agreement Between The United States and Japan、合衆国と日本の間の協定で提案された基礎の概要)は、太平洋戦争(大東亜戦争)開戦直前の日米交渉において、1941年(昭和16年)11月26日にアメリカ側から日本側に提示された交渉文書である。 日米交渉のアメリカ側の当事者であったコーデル・ハル国務長官の名前からこのように呼ばれている。ハル・ノートに関しては、「(事実上の)最後通牒であった」とする解釈と、「最後通牒ではない」とする解釈とがある。 内容 ハル・ノートは、日米交渉において日本側の当事者野村吉三郎駐米大使と来栖三郎特命大使が提示した日本側の最終打開案(乙案)に対する拒否の回答と同時に、アメリカ側から提示された交渉案である。その内容は、...
  • 箱館戦争
    Template Battlebox? 箱館戦争(はこだてせんそう、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))は、戊辰戦争の局面のひとつで、新政府軍と旧幕府軍との最後の戦いである。この戦いの最中に干支が戊辰から己巳に替わったことから、己巳の役(きしのえき)と呼ばれることもある。 背景 慶応4年(1868年)4月、江戸城の無血開城により、戊辰戦争は北陸、東北へ舞台を移した。5月、新政府が決定した徳川家への処置は、駿河、遠江70万石への減封というものであった。これにより約8万人の幕臣を養うことは困難となり、多くの幕臣が路頭に迷うことを憂いた徳川家海軍副総裁の榎本武揚は、蝦夷地に旧幕臣を移住させ、北方の防備と開拓ににあたらせようと画策する。 榎本は新政府への軍艦の引渡しに応じず、悪天候を理由に艦隊を館山沖へ移動。恭順派の幕臣勝海...
  • 東方会議_(1927年)
    東方会議(とうほうかいぎ)は、1927年6月27日から7月7日まで東京で開催された会議。 1927年4月に成立した田中義一内閣は強硬外交を推進し、翌5月に中国の権益強化と拡大のために山東省に兵を送った(山東出兵)。そして同年6月、田中義一首相は東京に閣僚・外務省首脳陣、中国公使、軍部首脳陣などをかき集めて、対中国政策についての方針を決めるための「東方会議」を開いたのである。そして、会議では次のようなことが決定された。当時、中国は中国国民党と中国共産党が覇権を争って内戦状態であり、軍閥が各地に分散していた。日本政府ではこの機を見て武力による大陸進出を図るべきという意見と、あくまで現在の権益を守ることを第一とするべきという意見があった。田中義一はこれに対して、日本の権益が侵される恐れが生じたときは、断固たる措置を採る。そして満蒙(満州と内蒙古東部のこと)における権益は中国本土と切り離して、同...
  • 亀戸事件
    亀戸事件(かめいどじけん)とは、1923年9月3日、関東大震災直後の混乱の中で、東京府南葛飾郡亀戸町(現・東京都江東区亀戸)で、社会主義者の川合義虎、平沢計七ら10名が、以前から労働争議で敵対関係にあった亀戸警察署に捕らえられ、同月4日~5日に習志野騎兵第13連隊によって刺殺された事件。また、同月4日に警察に反抗的な自警団員4名が軍により殺された事件を「第一次亀戸事件」と呼び、この事件の被害者に加えることもある。 この事件の事実は発生から1ヶ月以上経過した10月10日になってようやく警察により認められた。犠牲者の遺族や友人、自由法曹団、南葛飾労働会などが事件の真相を明らかにするため糾弾運動を行なったが、「戒厳令下の適正な軍の行動」であるとし、事件は不問に付されたのである。 震災時にはこの外、無政府主義者の大杉栄夫妻が殺害された甘粕事件が起こった。 また軍隊・憲兵隊によって人々の不安が...
  • 桃色争議
    桃色争議(ももいろ そうぎ)は、1933年(昭和8年)、松竹少女歌劇部・松竹楽劇部で発生した労働争議をいう。中心人物である水の江滝子の愛称にちなんだ「ターキー・ストライキ」の異称もある。 経過 1932年(昭和7年)、松竹はこの年4月、浅草で起こった映画活弁士、楽士の首切り闘争で一定の成果を収めた。翌1933年(昭和8年)に至り、今度は松竹少女歌劇部に対し、一部楽士の解雇ならびに全部員の賃金削減を通告した。 同年6月14日、「レビュー・ガール」と呼ばれ少女歌劇部の大部をなす少女部員が新聞記者らを集めて「絶対反対」の意思を明らかにし、同部の誇る18歳のトップスター水の江滝子を争議委員長に任命した。前年の活弁闘争に勝利した松竹がこれに応じないことは火を見るよりも明らかであったから、水の江以下少女部員230名は翌6月15日、神奈川県にある湯河原温泉郷の大旅館に立てこもってしまった。 ...
  • 援蒋ルート
    援蒋ルート(えんしょうるーと)は、日中戦争において大日本帝国の侵略に対し対決姿勢を強めていた中国(国民政府)を主にアメリカ、イギリス、ソ連が軍事援助するための輸送路である。名前の由来は蒋介石を援助するためのルート。国民政府は、米英ソなどの援助を受けることで劣勢ながらも徹底抗戦を続けたため、日本は、長期間にわたり100万以上の兵力を中国に貼り付けて置かねばならず、国力は疲弊した。太平洋戦争の開戦は、国民政府の原動力である援助物資の輸送路である援蒋ルートの遮断もその目的の一つであったと見られている。 日本では単に援蒋ルートと言った場合後述のビルマルートを想定していることが多い。 経路 援蒋ルートの経路は、日中戦争の開戦から太平洋戦争の終戦まで途中、日本軍によって遮断されたり独ソ戦の開戦によって援助が滞ったものも数えて、4つある。 香港からのルートは、...
  • 韓日合邦を要求する声明書
    韓日合邦を要求する声明書(かんにちごうほうをようきゅうするせいめいしょ)とは、1909年12月4日、大韓帝国で日本の影響下にあった親日団体一進会(公称会員数百万人・実数数万人程度)が皇帝純宗、韓国統監曾禰荒助、首相李完用に送った朝鮮と日本の対等合併を要望する声明書である。 この声明書の中で、「これまでの朝鮮の歴史の悲劇は自分達が招いたことであり、我が国の皇帝陛下と日本天皇陛下に懇願し、朝鮮人も日本人と同じ一等国民の待遇を享受して、政府と社会を発展させようではないか」 ref name= 警秘第4106号-1 統監府文書 8、警秘第4106号の1と、大韓帝国政府と大日本帝国政府が新たに一つの政治機関を設立し、大韓帝国と大日本帝国が対等合邦して一つの大帝国を作るように求めた。 南北朝鮮では当時一進会が民衆のみならず知識人からも強い批判を受けていたこと、それまで一進会が同じく親日派の李完...
  • 大同団結運動
    大同団結運動(だいどうだんけつうんどう)とは、1887年-1889年に発生した帝国議会開設に備えた自由民権運動各派による統一運動。 自由民権運動は政府の弾圧によって衰微し、自由党は解党、立憲改進党も休止状態にあったが、1887年にいわゆる三大事件建白運動が発生すると、かつての自由党の領袖である後藤象二郎は自由民権運動各派が再結集して来るべき第1回衆議院議員総選挙に臨み、帝国議会に議会政治の打ち立てて条約改正や地租・財政問題という難題にあたるべきだと唱え、3月に旧自由党・立憲改進党の主だった人々に呼びかけたのがきっかけである。 だが、自由党元総裁板垣退助は自分が疎外された事から運動から距離を置き、立憲改進党の大隈重信も懐疑的であった。これに対して政府は同年12月26日に保安条例を制定して活動家の弾圧を始める一方、翌1888年2月には大隈重信を第1次伊藤内閣の外務大臣として入閣させて立憲改...
  • 南京攻略戦
    Template Battlebox? 南京攻略戦(なんきんこうりゃくせん)は、日中戦争中の戦い。日本軍は、中華民国の首都南京を陥落させた。中国側の呼称は南京保衛戰, Template Lang?である。 背景 第二次上海事変で日中の全面衝突が始まった後、上海付近の敵を掃討し中国側の戦意を喪失させ、事変終結をねらう目的で11月7日に中支那方面軍を編成、上海西部の蘇州から嘉興を結ぶ線までを作戦制限区域とする。11月16日、国民政府は重慶に遷都を宣言。中支那方面軍は独断で作戦制限区域を越え、さらに南京攻略の必要性を上申。11月24日、大本営は中支那方面軍の作戦制限区域を解除し、12月1日には南京攻略を命令する。 経過 11月7日「中支那方面軍」(第10軍と上海派遣軍を隷下に置く)編合の下令が出され、作戦地域は蘇州から嘉興を結ぶ線の東側に限定される。 11月9日上海戦線の中国...
  • 秩禄処分
    秩禄処分(ちつろくしょぶん)は、明治政府が1876年に実施した秩禄給与の全廃政策である。秩禄とは、華族や士族に与えられた家禄と維新功労者に対して付与された賞典禄を合わせた呼称。 明治初期の財政 江戸時代後期の1867年に15代将軍の徳川慶喜が大政奉還を行い幕府が解体され、王政復古により明治政府が成立する。明治政府は抵抗した旧幕臣らとの戊辰戦争における戦費などで発足直後から財政難で全国3000万石のうち800万石を確保できているのみであり、また軍事的にも諸藩に対抗する兵力を確保できなかったため、旧大名による諸藩の統治はそのまま維持された。 江戸時代の幕藩体制において、諸藩の家臣は藩主が家臣に対して世襲で与えていた俸禄制度を基本に編成、維持されていたが、明治後も俸禄は家禄として引き継がれ、士族などに対して支給されていた。年に行われた維新功労者に対する賞典禄の支給により74万5750石...
  • 後藤象二郎
    Template 政治家? 後藤 象二郎 / 象次郎(ごとう しょうじろう、天保9年3月19日(1838年4月13日)- 明治30年(1897年)8月4日)は、日本の武士・土佐藩士、政治家。爵位は伯爵。農商務大臣、逓信大臣、大阪府知事など。諱は元曄(もとはる)。象二郎は通称、他に保弥太、良輔。雅号は暢谷。 生涯 生い立ち 土佐藩の高知城下にて上士・馬廻格150石の後藤助右衛門の長男として生まれる。将来共に活躍する板垣退助とは幼い頃からの知り合いであり、後藤の姉の夫で、義理の叔父である吉田東洋の塾で板垣らと共に学んだ。 安政5年(1858年)より、吉田東洋の進言もあって、幡多郡奉行、文久元年(1861年)には御近習目付、その後は普請奉行として土佐藩政で活躍したが、翌年に吉田が暗殺され、拠り所を失った後藤は失脚する。 文久3年(1863年)に、再び役職を得、また前藩主山内容堂の信頼を...
  • 提岩里虐殺事件
    提岩里虐殺事件(ていがんりぎゃくさつじけん、제암리학살사건)は1919年4月15日、日本の植民地統治下の朝鮮京畿道水原郡(現在の華城市)で、三・一独立運動中に起きた事件。30人程の住民が軍隊によって虐殺された事件である。 概要 事件当時の日本の公式文書では、 「憲兵隊が提岩里(チェアムリ)の教会に、小学校焼き討ちと警察官2名の殺害の容疑者として提岩里のキリスト教徒の成人男達20数名を集めて取調べをしていた。そのとき、その中の一人が急に逃げ出そうとし、もう一名がこれを助けようとして襲いかかってきたのを犯人だと即断して殺害してしまった。これをきっかけに教会に集められていた人々が騒ぎ出し暴徒化。兵卒に射撃を命じ、殆ど全部を射殺するに至った。教会もその後近所からの失火により焼失した」とされていた。そのため日本の右派・保守派には、これに従い韓国側の主張を根拠なしと切り捨てる人もあったたとえば杉...
  • 開拓使官有物払下げ事件
    開拓使官有物払下げ事件(かいたくしかんゆうぶつはらいさげじけん)は、北海道開拓使長官の黒田清隆が開拓使の官有物払下げを決定したところ、世論の厳しい批判を浴び、払下げ中止となった事件を指す。明治十四年の政変のきっかけとなり、伊藤博文が大隈重信を政府から追放。また、国会開設の詔勅が出された。 払下げ決定まで 開拓使は、北方開拓のために1869年(明治2年)7月から1882年(明治15年)2月まで置かれた官庁である。 黒田はロシアに対抗する国力を充実させるため北海道の開拓に力を入れるべきだという建議を行った。これに従い、1871年(明治4年)8月19日に10年間1000万両をもって総額とするという大規模予算計画、いわゆる開拓使十年計画が決定された。 黒田は米国人ホーレス・ケプロンらのお雇い外国人を招いて、政策の助言と技術の伝習を行った。開拓使は潤沢な予算を用いて様々な開拓事業を推進し...
  • 連合国_(第二次世界大戦)
    第二次世界大戦における連合国 (聯合国、Allies, United Nations) とは、枢軸国(ドイツ、イタリア、日本など)と戦った国家連合。 元来、第一次世界大戦の連合国と同じく Allies と呼んだが、1941年12月、ルーズベルトが United Nation と呼び、1942年1月1日の連合国共同宣言 (Declaration by United Nations) 以来この呼び名が広まった。中国語では「Template lang?」が Allied Powers、戦前の諸国連合 (United Nations) の名称としても用いられる。また、「国際連合 (United Nations)」には「Template lang?(日本で用いられている漢字に直すと連合国、または聯合国)」が主に用いられている。 現在の国際連合 (United Nations) は、この連合国が...
  • 華北分離工作
    華北分離工作(かほくぶんりこうさく)とは、華北五省(河北省・察哈爾省・綏遠省・山西省・山東省)を国民政府の支配から切り離し、日本軍の支配下・影響下に置くために日本が行った一連の軍事的・政治的工作の総称である。華北工作・北支分治工作などともいう。 概要 1934年冬から1935年1月にかけては、満州国と中国の国境で、中国軍と日本軍の小規模な衝突がたびたび発生しており、日本軍は華北から抗日勢力を一掃する必要があると認識していた。 1934年12月7日、日本の陸海外三相関係課長間で「対支政策に関する件」が決定され、その中で華北に国民政府の支配力が及ばないようにすることや、華北での日本の経済権益を伸張すること、華北に親日的な傀儡を配置させること、排日意識を低下させることなどが目標に掲げられた。また、1935年1月はじめに関東軍が開催した「対支蒙諜報関係者会同」(大連会議)でも同様の方針が...
  • 松方デフレ
    松方デフレ(まつかたでふれ)とは、西南戦争による戦費調達で生じたインフレーションを解消しようと、大蔵卿松方正義が行った、デフレーション誘導の財政政策のことである。松方財政(まつかたざいせい)とも。 西南戦争の戦費調達のために不換紙幣が濫発された事によって、戦争後に大規模なインフレーションが発生していた。当時の大蔵卿大隈重信は、このインフレーションの原因を経済の実態は紙幣流通量に近く、正貨である銀貨が不足しているだけだと考えて、「積極財政」を維持して外債を発行してそこで得た銀貨を市場に流して不換紙幣を回収すれば安定すると主張した(大隈財政)。一方、次官たる大蔵大輔の松方は単に明治維新以来の政府財政の膨張がインフレーションの根本原因であって不換紙幣回収こそが唯一の解決策であると唱えた。松方の主張は長年財政に携わってきた大隈の財政政策を根幹から否定するものであり、大隈の激怒を買う。この対立を憂...
  • 血盟団事件
    血盟団事件(けつめいだんじけん)とは、1932年(昭和7年)2月から3月にかけて発生した連続テロ事件である。当時の右翼運動史の流れの中に位置づけて言及されることの多い事件であるが、事件を起こした血盟団は日蓮宗の僧侶(茨城県東茨城郡大洗町・立正護国堂住職)である井上日召(いのうえにっしょう)によって率いられていた集団であった。 経緯 日召は、政党政治家・財閥重鎮及び特権階級など20余名を、「ただ私利私欲のみに没頭し国防を軽視し国利民福を思わない極悪人」と名指ししてその暗殺を企て、配下の血盟団メンバーに対し「一人一殺」を指令した。「紀元節前後を目途としてまず民間から血盟団がテロを開始すれば、これに続いて海軍内部の同調者がクーデター決行に踏み切り、天皇中心主義にもとづく国家革新が成るであろう」というのが日召の構想であった。 日召は「否定は徹底すれば肯定になる」「破壊は大慈悲」などの言葉...
  • 日米修好通商条約
    日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)は、安政5年6月19日(グレゴリオ暦1858年7月29日)に日本とアメリカ合衆国の間で結ばれた通商条約。幕末の混乱期から明治初頭にかけ、日本が列強と結ぶことを余儀なくされた不平等条約の一つである。幕府は同様の条約をイギリス・フランス・オランダ・ロシアとも結んだ(安政五ヶ国条約)。 この不平等条約の改正は、日本が日清戦争において清に勝利した後で、明治32年(1899年)7月17日に日米通商航海条約(昭和15年(1940年)1月26日失効)が発効されたことにより失効した。 経緯 日米和親条約により、日本初の総領事として赴任したハリスは、当初から通商条約の締結を計画していたが、日本側は消極的態度に終始した。しかし、ハリスの強硬な主張により、交渉担当者の間で通商条約やむを得ずという雰囲気が醸成されると、老中堀田正睦は孝明天皇の勅許を獲...
  • 宇垣一成
    Template Infobox 軍人? 宇垣 一成(うがき かずしげ、慶応4年6月21日(1868年8月9日) - 昭和31年(1956年)4月30日)は日本の陸軍軍人、政治家である。成城学校から陸軍士官学校、陸軍大学校卒。陸軍大将従三位勲一等功四級。拓殖大学第5代学長。元参議院議員。 略年譜 慶応4年(1868年)、備前国磐梨郡潟瀬村大内(現・岡山県岡山市瀬戸町大内)の農家に5人兄弟の末子として生まれる。幼名は杢次(もくじ)。 明治23年(1890年)7月26日、陸軍士官学校卒業(1期)。 明治24年(1891年)3月24日、陸軍歩兵少尉任官。 明治29年(1896年)、一成と改名。 明治33年(1900年)陸軍大学校卒業(14期恩賜)。 明治35年 - 明治37年(1902年 - 1904年)最初のドイツ留学。この間に最初の妻・鎮恵死去。 明治39...
  • 中原大戦
    中原大戦(ちゅうげんたいせん)とは、中国の中原において、1930年に、軍閥が蒋介石に対して起こした戦争のこと。中原会戦(ちゅうげんかいせん)、または、中原戦争(ちゅうげんせんそう)と呼ぶこともある。 1928年に完了した北伐は、中国国民党によりというよりは、各地の軍閥を抱き込むことにより成し遂げられたという面が強かった。その結果、北伐後の国民政府は、軍閥混合的な色彩の政府(政府の軍は、軍閥の寄せ集めであった)であり、中国国民党の立場は弱いものであった。 これに対して、蒋介石は、中国国民党および自己の権力を強大化させるため、1929年1月に国軍の整理を開始した。これは、旧軍閥の兵士を削減することにより、軍閥の影響力を失わせ、蒋介石側の勢力の巻き返しを図ろうとするものであった。 ここに及んで、北伐に協力した軍閥は危機感を覚え、蒋介石に対して、次々と兵を起こし、戦乱が繰り返された。そのよう...
  • 安重根
    Template 朝鮮の事物? 安重根(アン・ジュングン、1879年9月2日 - 1910年3月26日)は朝鮮の民族主義運動家。両班の家庭に生まれた。伊藤博文の暗殺者として有名。キリスト教徒であり、洗礼名はトマス。日本語読みは「あん じゅうこん」。 事績 1905年以降、大韓帝国に於ける日本の影響力が増したことに憤激し、抗日義兵闘争を組織。亡命を繰り返す。1909年10月26日、哈爾浜駅の構内にて、韓国統監府初代統監(暗殺当時枢密院議長)伊藤博文を暗殺した。伊藤は満州・朝鮮問題についてロシア蔵相ココフツォフと会談するためハルビンに赴いていた。旅順の関東都督府地方院で死刑判決を受け、旅順刑務所で絞首刑に処せられた。 彼の決意の堅さを表すものとして、同志と共に薬指を切り、その血をもって国旗に大韓独立の文字を書いたという断指同盟の逸話が伝わっている。 獄中で安の取調べを行った日...
  • 台湾抗日運動
    台湾抗日戦争(たいわんこうにちせんそう)とは、1895年の乙未戦争を基点とし、「西来庵事件(タパニー事件)」終息までの約二十年にわたって継続した台湾人による日本植民地支配への武力闘争の中国における呼び名。 概要 台湾民主国 Template main? 1895年に日清戦争の敗北が決定的になった清朝は、戦争の早期講和を目指して同年4月17日に日本と下関条約を締結し、その際に日本が求めた台湾地域(台湾島と澎湖諸島)の割譲を承認した。 しかし台湾に住む清朝の役人と中国系移民の一部が清朝の判断に反発して同年5月25日「台湾民主国」を建国、丘逢甲を義勇軍の指揮官とし日本の接収に抵抗した。しかし日本軍が台北への進軍を開始すると、傭兵を主体として組織された台湾民主国軍は間もなく瓦解、台南では劉永福が軍民を指揮、また各地の民衆も義勇軍を組織して抵抗を継続したが、同年6月下旬、日本軍が南下、圧...
  • 昭和恐慌
    昭和恐慌(しょうわきょうこう)とは、世界恐慌の影響を受けて1930年に発生した恐慌である。戦前に日本で起こった恐慌の中で最も深刻なものであった。 背景 第一次世界大戦中は大戦景気に湧いた日本であったが、戦後欧州の製品がアジア市場に戻ってくると、戦後恐慌が発生し、関東大震災後それはいっそう悪化した(震災恐慌)。 以後も、片岡直温蔵相の失言による取り付け騒ぎから発生した昭和金融恐慌(1927年)に代表されるように、日本経済は慢性的な不況が続き、為替相場は動揺しながら下落する状況が続いた。このような状況下で成立した立憲民政党の濱口雄幸内閣は、日本製品の国際競争力を高めるために産業合理化政策を進め、中小企業の多くが倒れることとなった。また、井上準之助蔵相は徹底した緊縮財政政策を進める一方で正貨を蓄え、金解禁を行うことによって為替の安定を図ろうとした。 恐慌の発生 緊縮財政によって約3億円...
  • 文明開化
    文明開化(ぶんめいかいか)とは、明治時代の日本に西洋の文明が入ってきて、制度や習慣が大きく変化した現象のことを指す。近代化=西欧化そのものは明治時代に於いて一貫した課題であったが、文明開化という言葉は、一般に明治初期に、世相風俗がこれまでの封建社会から大きく変わった時期を指して使われる。 概要 文明開化は、江戸時代を通じて連綿と続いてきた封建制色濃い日本文化が鎖国などの事情で飽和状態に達していた所に、政治体制の刷新にも伴い流入した西洋文化によって発生した日本での西洋文明の吸収・取り込み現象であり、「文明開化」という言葉は福澤諭吉が『文明論之概略』明治8年(1875年)の中で、civilizationの訳語として使ったのが始まりである。この中では単純に西洋の文化・風俗を模倣したものから、或いはそれら文化や風俗を手本としながら日本の既存文化との融合を図ったもの、更には既存文化を西洋風に...
  • 田中隆吉
    Template Infobox 軍人? 田中 隆吉(たなか りゅうきち、1893年(明治26年)7月9日 - 1972年(昭和47年)6月5日)は、陸軍少将。第一次上海事変(1932年)・綏遠事件(1936年)において主導的役割を果たし、太平洋戦争開戦時の陸軍省兵務局長という要職にありながら、東京裁判において検事側の証人として被告に不利な証言もした。 田中は日本軍の数々の謀略に直接関与しており、日本軍の闇の部分に通じた人物であった。また、驚異的な記憶力の持ち主で、これらが東京裁判において発揮された。 略歴 1893年(明治26年) - 島根県安来市の商家に生まれる。島根県立松江中学校へ進む。 1907年(明治40年) - 陸軍広島地方幼年学校入学。 1910年(明治43年) - 陸軍中央幼年学校入学。 1913年(大正2年)3月 - 陸軍士官学校砲兵科卒業(26...
  • 労農派
    労農派(ろうのうは)は、戦前の非日本共産党系マルクス主義者集団。1927年創刊の雑誌『労農』に依ったので、こう呼ばれる。日本資本主義論争において講座派と対抗した経済学者、最左派の無産政党に拠った社会運動家、「文戦派」のプロレタリア文学者などからなる。 形成過程 日本共産党は1922年7月創立されたとされる(第一次共産党)。堺利彦、山川均、荒畑寒村ら明治以来の古参の運動家も参加しその中心となった。しかし日本共産党結成はコミンテルンの働きかけなどによるものであり運動の盛り上がりの結果ではなかったため、セクト主義など組織的な未熟さが目立ち、党員の多くは1924年2、3月頃当時の日本には共産党結成の条件はないとして解党を決定した。荒畑は解散に反対し、事後処理のための少人数の委員会(ビューロー)を作ることを主張し認めさせた。 山川らは、大衆から切り離された少数の革命党ではなく、あらゆる反ブ...
  • 特高課長講演問題
    特高課長講演問題(とっこうかちょうこうえんもんだい)とは、大政翼賛会の結成を巡って千葉県で1940年に起きた政争。中央を舞台として大政翼賛会結成を推進した新体制運動と、地方政治の中心であった内務官僚を中心とする県庁及び地方政界を代表する県議会との意識格差が露呈され、のちの大政翼賛会の行政補助機関化の嚆矢となった事件の一つである。 大政翼賛会に対する千葉県の対応 大政翼賛会の結成に際して、地方でも立憲政友会・立憲民政党をはじめとする諸政党が解党され、自由民権運動を由来とする現存の数少ない政治結社であった夷隅郡の以文会(当時は政友会郡支部を兼ねていた)も同年10月13日解散した。 当時、右翼(主として革新系)は、現状に不満を抱く青年団や戦時体制強化を進める警察の一部と連携して千葉県内でも新体制運動を推進しようとした。だが、大政翼賛会の支部を構成する常務委員会の人選は県知事に事実上一任...
  • 大政翼賛会
    大政翼賛会(たいせいよくさんかい)とは1940年(昭和15年)10月12日から1945年(昭和20年)6月13日まで存在していた公事結社である。国粋主義的勢力から社会主義的勢力までをも取り込んだ左右合同の組織である。 経緯 内閣総理大臣を務めた近衛文麿公爵を中心として国家体制の刷新を求める革新派を総結集させて新党を結成する構想は比較的早い段階から検討されていた。1938年の国家総動員法が衆議院内の既成政党の反対で廃案寸前に追い込まれた際には、有馬頼寧農林大臣(伯爵)・大谷尊由拓務大臣らが近衛を党首とした新党を作って解散総選挙を行うことを検討したが、「近衛新党」に党を切り崩されることを恐れた政友会・民政党が一転して同法に賛成して法案が成立したために新党の必要性が薄くなったことにより一旦はこの計画は白紙に戻ることになった。 近衛の総理辞任後、ヨーロッパで第二次世界大戦が始まり、...
  • 皇道派
    皇道派(こうどうは)とは、大日本帝国の陸軍内の派閥である。財界や政界を直接行動(クーデターのような過激な運動も辞さない)で変革、天皇親政による国家改造を目指し、皇道派はこれを昭和維新と称した。この思想は主に尉官クラスの隊付き青年将校たちに広く支持されていたという。皇道派の代表的人物は荒木貞夫や真崎甚三郎。1930年代に同じく陸軍内での派閥である永田鉄山や東条英機ら統制派と激しい路線対立を繰り広げるが、二・二六事件後その勢力は衰退した。 誕生 荒木が真崎甚三郎と共に、皇道派をつくりあげる基盤は、宇垣一成陸相の下で、いわゆる宇垣軍縮が実施された時期に生まれたと言える。 宇垣は永田鉄山を陸軍省動員課長に据え、地上兵力から4個師団約9万人を削減した。その浮いた予算で、航空機・戦車部隊を新設し、歩兵に軽機関銃・重機関銃・曲射砲を装備するなど軍の近代化を推し進めた。 永田は、第一次世界大戦...
  • 帝国国策遂行要領
    帝国国策遂行要領(ていこくこくさくすいこうようりょう) は、昭和16年(1941年)9月6日第3次近衛内閣時に御前会議において決定された国策。また、同11月5日東條英機内閣時に御前会議において再決定された国策(甲案乙案含む)もいう。 経緯 昭和16年(1941年)8月のアメリカ対日石油輸出全面禁止を受け、アメリカ・イギリスに対する最低限の要求内容を定め、交渉期限を10月上旬に区切り、この時までに要求が受け入れられない場合、アメリカ・オランダ・イギリスに対する開戦方針が定められた。 しかし、9月6日の御前会議において、昭和天皇は開戦に反対しこの決定を拒否、あくまで外交により解決を図るよう命じた。その際、以下の明治天皇の御歌が引用されている。 Template cquote? 一般的にこの歌は軍部も政府に協力して外交に努力せよという意味だと解されているTemplate 要出典?。 ...
  • 更新blog-3
    最近更新したblog一覧 その3 更新blog-1 更新blog-2 更新blog-4 更新blog-5 更新blog-6 # 模型とキャラ弁の日記 # 「そんな格好をしている方が悪い」で女を殴っていることを透明化すべきではない 小選挙区制は自民党が自民党を有利にするためにルールを変えた制度、という件について 「主戦場」への反発は否定論者"に対しての"説明や説得は無意味であることを示している マイナス金利による銀行の経営難についてこれが妙案と本当に思うのかお尋ねしたい [愚行録][BBPS4]ZR-ゲヴァルトが欲しくてたまらない?落ちつくんだ。期待値を計算して落ちつくんだ。 コンビニの成人向け雑誌の自主規制基準は条例に準拠している 10連試行回数による装備単体引き当て確率を計算してみた。 追加で16200円課金してしまった件と人気武器ピ...
  • 霧社事件
    霧社事件(むしゃじけん)は、1930年10月27日に台中州能高郡霧社(現在の南投県仁愛郷)で起こった台湾原住民による最大にして最後の抗日蜂起事件。 背景 背景として、日本の警察官(当時2名のタイヤル族警察官がいたほかは全て日本人警察官)が、地元のタイヤル族住民に対し固有の文化を無視した生活指導を行ったこと、材木を担いで運ばせるなど重い労務を課したこと、商取引の利益を中間搾取していたことなどが指摘されている。 蜂起の直接の原因といわれているのが、1930年10月7日に吉村克己巡査が原住民の若者を殴打した事件である。その日、吉村巡査は同僚を伴って移動中に、村で行われていた結婚式の酒宴の場を通りかかった。宴に招き入れようとモーナ・ルダオ(タイヤル族の村落の一つマヘボ社のリーダー)の息子、タダオ・モーナが吉村巡査の手を取ったところ、巡査は「其ノ不潔ナル宴席ヲ嫌ヒ拒絶セントシテ握...
  • 昭和金融恐慌
    昭和金融恐慌(しようわきんゆうきょうこう)は、1927年3月から発生した経済恐慌である。単に金融恐慌(きんゆうきょうこう)と呼ばれる事もある。金融恐慌は本来は抽象的に経済的現象を指す言葉だが、日本においては特に断らない場合は1927年の経済恐慌を指すことが多い。 概要 日本経済は第一次世界大戦時の好況から一転して不況となり、さらに関東大震災の処理のための震災手形が膨大な不良債権と化していた。一方で、中小の銀行は折からの不況を受けて経営状態が悪化し、社会全般に金融不安が生じていた。3月14日の衆議院予算委員会の中での片岡直温蔵相の「失言」をきっかけとして金融不安が表面化し、中小銀行を中心として取り付け騒ぎが発生した。一旦は収束するものの4月に鈴木商店が倒産し、その煽りを受けた台湾銀行が休業に追い込まれたことから金融不安が再燃した。これに対して高橋是清蔵相は片面印刷の200円券を臨時に増刷...
  • 長征
    長征(ちょうせい)は、中国国民政府が中国共産党に対する攻勢を強めたのに対し、1934年 - 1936年にかけて行われた、中国共産党による脱出と組織の再編。中国国民党からは「大流竄」と呼ばれた。 概要 共産党指導部は江西省瑞金から陝西省延安に至るまで転戦、国民党勢力との戦闘などにより10万人の兵力を数千人にまで減らしたが、国民党蒋介石政府が抗日のため共産党との妥協に転じたため状況は終息した。途上で開催された遵義会議などにより、毛沢東の指導権が確立された。現共産党政権は、長征を現代中国形成に至る歴史的転換点と捉えている。 背景 国民政府は、1930年代、「中華ソビエト解放区」と称する支配地域を各地に築いていた共産党に対し攻勢を強め、「囲剿(=悪者を囲み滅ぼすの意)」と称する包囲殲滅戦を各地で展開した。当時共産党の最大勢力圏は江西省瑞金を中心にした山岳地帯根拠地であった。民族資本や外国資...
  • 中野正剛
    中野 正剛(なかの せいごう、1886年(明治19年)2月12日 - 1943年(昭和18年)10月27日)は昭和期のジャーナリスト、右翼団体東方会総裁、衆議院議員。号は耕堂。 経歴 生い立ち・学生時代 旧福岡藩士中野泰次郎と母トラの長男として、福岡県福岡市西湊町(現・中央区荒戸)の伯父中野和四郎宅で生まれる。幼名は甚太郎。中野家は代々福岡藩の御船方であり、父泰次郎の代に分家し福岡市西町(現・中央区今川)で質屋を家業としていた。母トラは福岡県糸島郡元岡村(現・福岡市西区元岡)で醤油醸造業を営む黨又九郎の長女。 福岡県中学修猷館(現・福岡県立修猷館高等学校)に進学し、在学中の1903年(明治36年)に自ら正剛と改名する。1905年(明治38年)修猷館を卒業後早稲田大学政治経済学科に進学し、家族と一緒に上京している。 修猷館で緒方竹虎と出会い、以後、早稲田大学・東京朝日新聞社で...
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