chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「華族」で検索した結果

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  • 華族
    華族(かぞく)とは、1869年から1947年まで存在した日本近代の貴族階級のことである。公家に由来する華族を公家華族、江戸時代の藩主に由来する華族を大名華族、国家への勲功により華族に加えられたものを新華族(勲功華族)、臣籍降下した元皇族を皇親華族、と区別することがある。 明治以前まで使用されていた、華族という名称の狭義の意味は、公家の家格を表す名称で、摂家に次ぐ第二位の家格、清華家の別称であった。 前史 明治2年6月17日(1869年7月25日)、版籍奉還と同日に出された行政官布達(公卿諸侯ノ称ヲ廃シ華族ト改ム)54号により、従来の身分制度の公卿・諸侯の称を廃し、これらの家は華族となることが定められた。公家137家・諸侯270家・明治維新後に公家とされた家5家松崎家・玉松家(玉松操家)・岩倉具経家(岩倉具視の三男)・北小路家・若王子家・維新後に諸侯とされた家16家徳川御三卿の3家...
  • 学習院
    ...7年(明治10年) 華族学校学則制定。神田錦町にて開業式挙行。 1884年(明治17年) 宮内省所轄の官立学校となる。 1885年(明治18年) 四谷区尾張町に華族女学校を設置する。 1888年(明治21年) 学習院が麹町区三年町の工部大学校跡に移転する。 1889年(明治22年) 華族女学校が麹町区永田町に移転する。 1890年(明治23年) 学習院が四谷区尾張町に移転する。 1906年(明治39年) 華族女学校と学習院を併合し、華族女学校を学習院女学部と改称する。 1908年(明治41年) 東京府下高田村(現・目白)に移転する(初等学科と女学部は旧位置)。 1918年(大正7年) 女学部が青山に移転して、女子学習院となる。 1919年(大正8年) 学習院の初等学科・中等学科・高等学科を初等科・中等科・高等科に改める。 1928年(昭和3年) 学習院開校創立...
  • 一君万民論
    ...持された。明治政府は華族制度の創設や武士身分の士族への編入など、当初は旧来の身分制度をある程度継承したものの、廃藩置県・徴兵令・秩禄処分といった政策の強行は特権身分に対して大きな打撃を与えた。 その後も一君万民論は朝野における思想的底流として根強く、断続的に天皇の権威強化と皇室以外の身分特権の縮小がなされていった。士族制度は早い段階で形骸化し、貴族院に依拠する少なからぬ特権を有した華族制度に対しても批判は少なくなかった。華族の中にも特権身分制度に疑問を持ち爵位を返上する者も現れた。 一君万民論は藩閥体制打倒とデモクラシー導入の大義として掲げられ、身分的特権のみならず財閥などの経済的権力に対抗するイデオロギーとしても機能した。昭和前期においては在野の知識層のみならず青年将校や革新官僚が一君万民論の支持勢力として登場した。第二次世界大戦の敗戦にともなう被占領以降は表立って唱えられるこ...
  • 貴族院 (日本)
    ... 非公選の皇族議員・華族議員・勅任議員によって構成され、解散はなく、議員の多くが終身任期だった。その一方、有識者が勅任により議員となる制度が存在し、良くも悪くも「衆議院のカーボンコピー」という批判は存在しなかった。 概要 thumb|250px|[[1936年(昭和11年)、貴族院開院式にて貴族院議長近衛文麿が勅語奉答文を朗読]] 議院や議員の権限などについては、議院法、貴族院令(明治22年勅令第11号)その他の法令に定められた。 議員の任期は原則として7年で、皇族議員、華族議員のうち公爵・侯爵議員、勅任議員のうち勅選議員については終身議員とされた。華族議員のうち伯爵・子爵・男爵議員は、それぞれ同爵の者による互選により選出された。 議員の歳費は、議院法に定められた。それぞれ、議長7,500円、副議長4,500円、議員3,000円であった(いずれも1920年(大正9年)の...
  • 朝鮮貴族
    ...伯子男爵に分類され、華族と同一の礼遇を享け、叙位についても華族と同一に取り扱われるなど、従来の日本の華族令による華族とほぼ同様に扱いがなされた。但し、東京在住が義務付けられず、貴族院の有爵者議員となる資格はないなど、華族と違う取り扱いもなされた。 朝鮮貴族に列せられた者 侯爵 李載完 興宣大院君の甥。 李載覚 荘献世子の玄孫。 李海昌 昌山君。 李海昇 全渓大院君の玄孫。 尹沢栄 海豊府院君。純宗の舅。 朴泳孝 哲宗の壻。宮内府大臣。併合後、1926年に中枢院議長、1932年に貴族院議員となる。 李完用 李允用男爵(朝鮮貴族)の弟。1907年に内閣総理大臣に就任する。同年第三次日韓協約に調印する。1909年12月に李在明のテロに遭うが命拾いする。1910年8月13日、寺内正毅から韓国併合決定を伝えら...
  • 岩倉具視
    ...全員東京へ召集され、華族としての責務を果たしていくことになる。日本は一つの国家、一人の元首のもとで近代統一国家としてスタートを切ることとなった。 岩倉使節団 廃藩置県があった同じ日、岩倉は外務卿(外務省の長官)に就任している。さらに7月には太政大臣が新設されて三条実美が就任したので岩倉が右大臣を兼務した。 外務卿になった岩倉には「条約改正」という難題が迫っていた。かつて井伊直弼が結んだ不平等条約日米修好通商条約は条約改正についての両国間の交渉は1872年7月1日までできないとするとしており、それがもうじき切れるところであった。しかし今交渉してもアメリカ側が日本の法律・諸制度が依然として「万国公法」に準拠していないことを理由に不平等条約を維持しようとするのは目に見えていた。そこで欧米に使節団を送り、日本が依然文明開化していないことを欧米に伝え、それらの国々で近代化の...
  • 壬申戸籍
    ...壬申戸籍では、皇族、華族、士族、卒族、郷士、旧神官、僧、、尼、平民等を別個に集計した。このとき被差別部落民は賎民解放令に基づき、平民として編入されたが、一部地域の戸籍には新平民や、元穢多、元非人等と記載されたり等、差別は色濃く残った(一部は明治19年式戸籍や身分登記簿にも登載された)。 その他、職業も記載様式に含まれており、華族、士族では主に禄高を、平民では農工商雑と記され、業種も記載された。 また、この戸籍では宗門人別の性質を残すため、寺、氏神の記載があった(明治18年廃止)。また、妾も二等親族として戸籍の登載を認められた(明治15年廃止)。ほか、使用人、家来等は他人であっても養育している者は附籍として、その養育する者の戸籍に登載されていた(明治15年登載禁止。明治31年廃止)。 明治19年(1886年)、壬申式から統一フォームを用いた戸籍へと変更が行われ、明治19年11月よ...
  • 岩倉具視-2
    ...) 4月19日、華族会館長兼帯。 5月18日、従一位昇叙。 5月26日、華族督部長兼務。 12月29日、勲一等旭日大綬章受章。 明治15年(1882年) 11月1日、大勲位菊花大綬章受章。 11月15日、華族督部長職廃止に伴い止む。 12月4日、華族会館長辞職。 明治16年(1883年) 4月7日、宮内省編纂局総裁心得兼務。 7月20日、死去。 7月23日、贈太政大臣。 7月25日、国葬。 明治18年(1885年)7月20日、贈正一位。 岩倉具視幽棲旧居 京都・洛北の実相院近く(現・京都市左京区岩倉上蔵町)にあり、今は住宅や病院に囲まれている。数えの38歳で辞官・落飾した岩倉具視は地元の大工から古家を譲り受け、文久2年(1862年)9月から慶応3年(1867年)11月までの5年余り住んだ。幽居中とはいえ活...
  • 融和運動
    ...を設立、1921年に華族で東京帝国大学助教授だった有馬頼寧が同愛会を設立、1925年にはこれらの団体を結集した全国融和連盟が発足した。1925年には国粋主義者の平沼騏一郎を会長とする中央融和事業協会(中融)が発足した。昭和初期には、ファシズム台頭によって迫害され衰退した水平運動を圧倒した。 関連項目 部落問題 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年1月17日 (土) 03 42。    
  • 士族反乱
    ...、武士階級を廃止して華族、士族を創設する。秩禄処分により俸禄(家禄)制度は撤廃され、廃刀令の施行など身分的特権も廃された。また、明治政府が行う文明開化、殖産興業政策による西洋技術・文化の輸入、朝鮮出兵を巡る征韓論で政府が紛糾し、明治六年の政変で西郷隆盛、江藤新平、板垣退助らが下野すると士族層に影響を与え、明治政府に反対する士族は「不平士族」と呼ばれる。 1874年には江藤が故郷の佐賀県で擁立されて反乱(佐賀の乱)し、1876年(明治9)には熊本県で神風連の乱、呼応して福岡県で秋月藩士による秋月の乱、10月には山口県で前原一誠らによる萩の乱など反乱が続き、それぞれ鎮圧される。1877年には鹿児島県で私学校生徒ら薩摩士族が西郷を擁立して、最大規模となる西南戦争が起こるが、これも士族側の敗戦に終わった。 西南戦争以後に、不平士族の反対運動は国会開設や憲法制定を要求する自由民権運動に移行...
  • 明治十四年の政変
    ...革と上院設置のための華族制度改革を提議した(後者は公家出身の岩倉が嫌う点であるが、伊藤は敢えて提出したのである)。ただし、どこの国の制度を参考にするかは明らかにしなかった。伊藤に相前後して参議らから次々に意見書が出され、様々な意見が出される中で1人大隈だけが意見書の提出を先延ばしにしていた。1881年3月、漸く大隈が左大臣(岩倉からみて上位)の有栖川宮熾仁親王に対して「密奏」という形で意見書を提出、その中でイギリス流の立憲君主国家を標榜し、早期の憲法公布と国会の2年後開設を主張したのである。5月に内容を知った岩倉はその内容とともに自分を無視して熾仁親王に極秘裏に意見書を出した経緯に激怒、太政官大書記官の井上毅に意見を求めた。井上毅は大隈案と福澤諭吉の民権論(『民情一新』)との類似点を指摘して、一刻も早い対抗策を出す事を提言、岩倉の命令を受けた井上はドイツ帝国を樹立したプロシア式に倣っ...
  • 岩崎弥太郎
    ...岩崎家の2つの本家は華族だが、弥太郎の存命中は岩崎家は華族に列していなかった。                              国広達宣                加藤高明            ┃                  ┣━━━━加藤厚太郎 ┏━━勢津子 岩崎弥次郎         ┏━━春路         ┃山村泰弘   ┣━━━┳岩崎弥太郎━━╋岩崎久弥         ┃  ┃   美和  ┃       ┃  ┣━━━┳岩崎彦弥太 ┣━━昭子       ┃       ┃  寧子  ┃  ┣━━━╋岩崎寛弥       ┃       ┃      ┃  操子  ┃高島孝之       ┃       ┃      ┣岩崎隆弥  ┃  ┃                ┃       ┃      ┣岩崎恒弥  ┗━━...
  • 同成会
    ...1名いる以外は全員非華族(勅選23・多額納税7)であった事に特徴があった。また、憲政会を率いる加藤高明のシンパであった伊沢多喜男と江木翼が主導したことから、超然主義色の強い旧来の院内会派と違い憲政会→立憲民政党の別働隊的役目を担った。 特に立憲政友会と貴族院最大会派研究会が連携を強めると、茶話会・公正会と組んで幸三派(第2次無所属を加えて幸四派とも)と呼ばれる「反政友会・反研究会」連合を築いた。だが、茶話会と第2次無所属が合同して同和会を結成して親民政党系議員が入会するようになると、両会派の勢力の重なりが見られ最盛期でも35名、常時ほぼ20台と勢力はさほど伸びなかった。それでも日本国憲法公布による貴族院廃止まで存続して、同和会の幣原喜重郎が首相を務めた幣原内閣では同和会とともに事実上の与党であった。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_20...
  • 翼賛議員同盟
    ...嫌悪してきた貴族院の華族議員がこれに反発したために失敗に終わった。このため、前田は自主的な形で院内会派を結成することとして、1941年9月2日に衆議院議員326名で翼賛議員同盟を結成し、前田米蔵・永井柳太郎・大麻唯男ら7名を総務に選出した。だが、この動きに反対する鳩山一郎・芦田均・片山哲・尾崎行雄らは同交会、西尾末広・松本治一郎・水谷長三郎・江藤源九郎らは興亜議員同盟を結成してこれに対抗した。 1942年の第21回衆議院議員総選挙においては、翼賛政治体制協議会の中核となって機能したが、選挙後に東條英機首相の意向を受けて、5月20日に解散して他の院内団体を強制的に統合した翼賛政治会を結成した。 関連項目 翼賛政治会 大日本政治会 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年7月10日 (木) 15 42。 ...
  • 東洋自由新聞
    ...ランス留学経験のある華族の西園寺公望や仏学塾を経営する中江兆民(篤助)、光妙寺三郎らフランス派知識人と、新潟の山際七司、信州の松沢求策ら地方で活躍した民権派が合流して独自に創刊された。 幹事の松田正久、監督委員に森新三郎。編集委員には主筆の中江のほか、柏田盛文、上条信次、桑野鋭、松沢求策、林正明らを社員に東京で創刊。自由民権と君民共治、フランス流急進自由主義を主張。当初は2000部を印刷し、後に1600部に減じた。 西園寺の社長就任は明治政府や宮中でも物議を呼び、右大臣岩倉具視は宮内卿で西園寺の実兄にあたる徳大寺実則に働きかけ、明治天皇の内論により社長辞任を申し入れる。西園寺は内論を退けるが、辞任要請が内勅となると西園寺は屈服して4月9日に辞任した。さらに内勅の事実を檄文によって暴露した松沢求策らが逮捕されるなど言論弾圧の影響を受け社主の稲田が手を引くと資金が欠乏し、同年4月30...
  • 旧皇室典範
    ...を経て、家名を賜って華族になることができるとする臣籍降下制度が創設され、永世皇族制は事実上放棄された。ただし、この時は降下に関する具体的な基準は定められず、あくまでも“臣籍に下す可能性がある”と規定するに留められた。また、同時に「皇族ノ臣籍ニ入リタル者ハ皇族ニ復スルコトヲ得ス」(皇室典範増補第6条)と皇籍復帰の禁止も定められた。 この規定が設けられてもなお王の臣籍降下が進まなかったため、1920年(大正9年)5月19日に皇室典範増補を適用する具体的な基準として、「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」が制定された(公布されず)。王は皇玄孫の長子孫の系統4世までを皇族とし、それ以外は皇室典範増補第1条に基づく降下の情願をしなければ勅旨により家名を賜い華族に列するとされた。伏見宮系の皇族は崇光天皇の16世孫である伏見宮邦家親王の子孫について、附則で邦家親王を皇玄孫と見做し、準則を準用した。 た...
  • 明治維新
    ...なったこと、旧藩主が華族として身分・財産が保証されること、などが理由とされる)、国家の支配体制がこのように電撃的、かつ画期的に改変されたのは明治維新における奇跡とも言える。 なお、旧幕府時代、名目上は独立国でありながら実質上薩摩藩の支配下にあった琉球王国に関しては、廃藩置県の際に「琉球藩」が設置されて日本国家内に取り込まれることとなり、1879年(明治12年)に「沖縄県」として正式に県に編入された(この間の経緯は一般に「琉球処分」と称される。旧琉球国王の尚氏も旧藩主と同様、華族となった)。(→沖縄県の歴史) 諸制度の改革 廃藩置県と太政官制の改革を経て中央集権体制が整ったことで、ようやく旧幕府時代の制度を改革する準備が整った。ほぼ同時に宮中の改革も行われ、旧来の宮中職や女官は廃され、士族を中心とした侍従らが明治天皇を武断的な改革君主にふさわしい天皇に養育することとなった。幕...
  • 宮中顧問官
    ...、東京帝国大学教授、華族女学院校長、帝室博物館理事、貴族院議員) 川村純義(海軍大将、枢密顧問官) 木戸孝正(侯爵、東宮侍従長) 清岡公張(子爵、元老院議官、図書頭、枢密顧問官) 清棲家教(伯爵、山梨県知事、茨城県知事、新潟県知事、伏見宮邦家親王第一五王子) 国分三亥(朝鮮総督府高等法院検事長、久邇宮家宮務監督) 小牧昌業(文学博士、内閣書記官長、奈良県知事、帝室博物館長、貴族院議員) 佐佐木高行(参議兼工部卿、枢密顧問官、皇典講究所所長、國學院大學学長) 佐藤正(陸軍少将従二位、広島市長) 佐野常民(伯爵、農商務大臣、大蔵卿、枢密顧問官、元老院議長、内国勧業博覧会副総裁:1885年12月~1888年) 税所篤(子爵、元老院議官、奈良県知事、枢密顧問官) 品川弥二郎(子爵、農商務大輔、御料局長、枢密顧問官、内務大臣:1876年6月~?) ...
  • 鹿鳴館
    ...内省に払い下げられ、華族会館が一部を使用。1894年(明治27年)6月20日の明治東京地震で被災し、修復後、土地・建物が華族会館に払い下げられた。 旧鹿鳴館の建物は1927年(昭和2年)、徴兵生命保険(現・大和生命保険)に売却された後も保存されていたが、1940年(昭和15年)に取壊された。なお、鹿鳴館の正門として使用された旧薩摩藩装束屋敷跡の通称「黒門」は旧国宝に指定されていたが、1945年(昭和20年)、空襲により焼失した。 1940年3月9日の東京日日新聞は以下のように報じている。「日本徴兵保険会社では最近のビル飢饉時代に建物に比較して広大な敷地を遊ばしておくのは土一升、金一升の場所から惜しいところでもあり、不経済であるとの理由で建物の取毀しを決定したともいはれ、取毀した敷地後にはバラツク仮建築を建築して商工省分室として貸室することに内定、数日前から工事に着手した」。その際...
  • 井上準之助
    ...もある。 夫人は、華族・毛利子爵家の出。子息、井上四郎は日銀理事を務めた。 井上の経済政策 第一次大戦特需の冷え込みにより、高騰していた株価が急落し、また関東大震災の発生によって、大量の不良債権が深刻になっていた。井上蔵相はこの経済低迷の原因を構造問題の結果であり、経済を再生させるために財界整理と緊縮財政を実施することになる。 こうした清算主義の実現のために旧平価での金解禁が不可欠であると考え、積極的なデフレ政策を採り、1920年代には平均して1.6%の穏やかなデフレであったのが、一挙に10%を越えるデフレにまで落ち込み、井上財政は昭和恐慌の大きな原因の一つになった。 略歴 明治2年(1869年):現在の大分県日田市大鶴町に造り酒屋を営む家に生まれる。教英中学中退『日本近現代人物履歴事典』秦郁彦、東京大学出版会、2002年 参照。、上京後、成立学舎などを経て、第一高...
  • 皇族
    ...士か特に勅許を受けた華族との間に限られ、勅許を必要とした(旧皇室典範39,40条)。また、大正7年(1918年)11月28日皇室典範増補により、皇族女子は王公族(旧韓国皇室)に嫁することができた。 皇族の養子は禁止された(旧皇室典範42条)。 皇族の国外旅行には勅許を必要とした(旧皇室典範43条)。 皇族を勾引し、裁判所に召喚するには勅許を必要とした(旧皇室典範51条)。 皇族が品位を辱める行いをしたり、皇室に対して忠順を欠くときは勅旨を以って懲戒を受け、重い場合は皇族特権の停止、剥奪を受け、臣籍に降されることもあることになっていた(旧皇室典範52条・明治40年-1907年-2月11日皇室典範増補4条)。 王は、勅旨又は情願によって華族となることができた(臣籍降下)。また、勅許によって華族の家督を相続することや、家督相続の目的で華族の養子となることができた。(明治...
  • 皇室令
    ...王公族や、貴族である華族・朝鮮貴族の権利・義務などについてもこの法形式で規律していた。日本国憲法施行に伴い、この法形式が廃止されることとなり、1947年(昭和22年)5月2日公布の「皇室令及附屬法令廢止ノ件」(昭和22年皇室令第12号)によって全ての皇室令が廃止されている。 上諭には親署の後、御璽を鈐し、宮内大臣は年月日を記入しこれに副署することとされていた。但し、国務大臣の職務に関連する皇室令の上諭には、内閣総理大臣又は内閣総理大臣及び主任の国務大臣とともにこれに副署することとされていた。 皇室令の一覧 皇室令について、公布された年次毎に一覧を記す(一部の漢字は旧字体で表記)。 明治時代 明治40年(1907年) 皇族會議令(明治40年2月28日皇室令第1号) 華族令(明治40年5月8日皇室令第2号 宮内省官制(明治40年11月1日皇室令第3号) ...
  • 宮家
    ...勅旨または情願により華族に列せられるべきことを定めていた。さらに大正9年(1920年)には「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」が制定され、この準則が制定されてから旧皇室典範が廃止されるまで宮号を有しない又は継承しない王のうち、12人が華族に列せられている。第二次世界大戦後には連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令に基づいて、皇室財産の国有化、皇族の財産に関する特権の停止などが決定され、敗戦後の窮乏した国家財政では従前の規模の皇室を維持できなくなったことから、秩父宮、高松宮、三笠宮の三直宮家を除く11宮家51人が皇族の身分を離れることとなった。現在の皇室典範は昭和22年(1947年)5月3日に施行され(日本国憲法施行と同日)、同年10月14日に11宮家の皇籍離脱となった。これは形式的には、強制ではなく、皇族たち自身が皇族の身分を離れることを請願し、皇室会議の議決により皇籍を離れるものとさ...
  • 普通選挙法
    ...被選挙権を与えない。華族の戸主は選挙・被選挙権を有しないなど)があった。これに対し、衆議院は3月の第50議会でを削除したが、貴族院はこれを復活。さらに貴族院は政府原案中にあった「貧困ノタメ」を削り、欠格範囲を拡大したが、両院協議会での協議により「貧困ノタメ」を「貧困ニ因リ」」とすることで妥協が成立(2月13日)した(「貧困ニ因リ」を加えることにより、兄弟・親子の相互扶助は欠格要件とならないことした)。 その後、3月2日、衆議院で修正可決。3月26日、貴族院で修正可決され。5月5日、衆議院議員選挙法改正が公布される。 なお、社会変革を恐れた枢密院の圧力により、同時に治安維持法も成立され、衆議院議員選挙法改正公布より先4月22日に公布された。 内容 それまでの納税額による制限選挙から、納税要件が撤廃され、満25歳以上の全ての成年男子に選挙権が与えられることが規定された。これに...
  • 昭憲皇太后
    ...業振興の先頭に立ち、華族女学校(現学習院女子部)や、お茶の水の東京女子師範学校(現お茶の水女子大学)の設立、日本赤十字社の発展などに大きく寄与した(赤十字社の正式紋章「赤十字桐竹鳳凰章」は、紋章制定の相談を受けた際、皇后がたまたま被っていた冠が桐と竹の組み合わせで出来ていた事から、「これがよかろう」という事で決められたという)。津田梅子ら女子留学生の派遣にも関わったとされている。皇后として欧化政策の先頭に立たなければいけない立場をよく自覚しており、1886年(明治19年)以降は、着用の衣服を寝間着を除いてすべて洋服に切り替えた。洋服を率先着用した理由としてもう一つ「上半身と下半身の分かれていない着物は女子の行動を制限して不自由である」という皇后自身の言葉も伝えられている。現在の皇室で意外なほど和服が着られないのは、この時の方針が踏襲されているからである。 また、生涯に3万首を超える...
  • 昭和維新
    ...平等・男女政治参画・華族制度廃止(当然、貴族院も廃止)・所得累進課税の強調あるいは私有財産制限・大資本国有化(財閥解体)・皇室財産削減など、まるで社会主義者の主張と見間違うほどの政策が並んでいる。また、この事件の主犯である磯部浅一によれば、日本の国体を「天皇の独裁国家ではなく天皇を中心とした近代的民主国家」と定義でき、「現在は天皇の取り巻きによる独裁状態にある」とする。日露戦争や大逆事件(治安維持法が制定されるきっかけとなった)以前の日本を社会の閉塞感・国家と国民との隔たりを感じさせない理想国家として捉えるなど、戦後の知識人(司馬遼太郎や幾人かの親米保守系評論家など)にも通じる心情が見てとれる。 北や磯部が実際に思い描いていた「天皇親政」とは、天皇の元に権力が一元化される、すなわち天皇の元に議会があり、議会から内閣が発生する、と解釈することが出来る。磯部は「天皇の取り巻きである重臣...
  • 近衞文麿
    ...習院中等科を修了後、華族の子弟は学習院高等科にそのまま進学するのが通例だが、当時旧制一高の校長であった新渡戸稲造に感化され、一高を受験して進学。続いて東京帝国大学(戦後の東京大学)で哲学を学んだが飽き足らず、高名な経済学者であり、当時急速にマルクス経済学に傾倒しつつあった河上肇に学ぶため、京都帝国大学(戦後の京都大学)法学部に転学した。在学中の1914年(大正3年)には、第三次『新思潮』に、オスカー・ワイルドの『社会主義下における人間の魂』を翻訳し、「社会主義論」として発表した。しかし、これは発売頒布禁止処分となり、近衞は宮内省に呼ばれて厳重注意された。 なお東大時代には、のちに「宮中革新派」などと呼ばれて政界で活躍する木戸幸一(後に内大臣)や原田熊雄(後に西園寺公望秘書)などの華族の子弟と親交を深めている。 政界へ 1916年(大正5年)、満25歳に達したことに...
  • 帝国議会
    ...制で、貴族院は皇族、華族議員ただし、伯爵以下の議員については7年に1度互選が行われてその代表が議員となることになっていた。と勅選議員、多額納税の議員で構成され、解散はなかった。ただし、皇族が議会に出席したことはなかった。議院相互の関係等は議院法によって規律された。両院は、衆議院の予算先議権を除き、対等の権限を有する1891年2月20日、天野若円(大成会)が提出した、衆議院が大日本帝国憲法第67条関連の予算削減を審議する際には事前に政府の了解を得るという決議が衆議院で可決され、政府もこれを了承した。これは一見帝国議会における予算削減の権限を自主的に制約したようにも見えるが、裏を返せば予算先議権がある衆議院と政府が合意した予算削減に貴族院が更に修正を加える余地を奪うもので衆議院が予算審議における貴族院に対する優越権を議会慣習の形で事実上確立したものであった。。 帝国議会の常会(通常会)...
  • 大日本帝国
    ...相当する。内地人には華族、士族、平民の別があり、華族は貴族院議員たる資格を有するなど特殊な地位にあったが、士族と平民の間に差異はなく、法的にも1914年(大正3年)に族籍記載が撤廃された。1947年の戸籍法改正により、これらの別は完全に消滅した。 樺太人 樺太人は樺太の在来住民であり、樺太ニ施行スヘキ法令ニ関スル件(明治40年法律第25号)などの法令では土人と呼ばれた。また樺太土人ともいう。樺太人は日本国籍を有しなかったという説(百瀬後掲書)もあるが、当時の憲法学書では日本国籍を有するものとしていた(美濃部後掲書)。樺太人のうち8割近くが樺太アイヌであり、他にニヴフ、ウィルタ(当時の通称はオロッコ族)などがいた。1932年、樺太アイヌが内地人になり(昭和7年勅令第373号)、他は1943年の樺太の内地編入(昭和18年法律第85号)の際に内地人になった。 台湾人 台湾人...
  • 衆議院
    ...かった。また、皇族、華族の戸主、現役軍人には選挙権はなかった。 被選挙権 30歳以上の日本内外地籍を問わず、日本国籍の男子なら立候補出来た。時期によって、1年以上その府県内において直接国税を一定額以上を納めている者に限定していたことがあった。ただ、当時選挙区は日本内地にしか無く、1945年の法改正で外地に選挙区が設置され選挙出馬が可能になったが、終戦により実行される事は無かった。また、皇族、華族の戸主、現役軍人には被選挙権はなかった。 選挙権・被選挙権における直接国税納税額 実施年選挙権被選挙権 1890年15円以上15円以上 1902年10円以上制限なし 1920年3円以上制限なし 1928年制限なし制限なし 定数 定数は衆議院議員選挙法によって定められていた。1889年に衆議院議員選挙法によって300人と定められた後、増員が繰り返され、...
  • 秩禄処分
    ...策である。秩禄とは、華族や士族に与えられた家禄と維新功労者に対して付与された賞典禄を合わせた呼称。 明治初期の財政 江戸時代後期の1867年に15代将軍の徳川慶喜が大政奉還を行い幕府が解体され、王政復古により明治政府が成立する。明治政府は抵抗した旧幕臣らとの戊辰戦争における戦費などで発足直後から財政難で全国3000万石のうち800万石を確保できているのみであり、また軍事的にも諸藩に対抗する兵力を確保できなかったため、旧大名による諸藩の統治はそのまま維持された。 江戸時代の幕藩体制において、諸藩の家臣は藩主が家臣に対して世襲で与えていた俸禄制度を基本に編成、維持されていたが、明治後も俸禄は家禄として引き継がれ、士族などに対して支給されていた。年に行われた維新功労者に対する賞典禄の支給により74万5750石、20万3376両の出費となり、華士族に対する家禄支給は歳出の30パーセ...
  • 後藤象二郎
    ...『明治・大正・昭和 華族事件録』 新潮社 2005年 144-150頁 演じた俳優 石田太郎:『竜馬がゆく』(1968年、NHK大河ドラマ) 三船敏郎:『幕末』(1970年、映画) 中井啓輔:『勝海舟』(1974年、NHK大河ドラマ) 夏木陽介:『竜馬がゆく』(1982年、テレビ東京) 岸部一徳:『ゴルフ夜明け前』(1987年、映画) 高橋幸兵:『翔ぶが如く』(1990年、NHK大河ドラマ) 尾美としのり:『竜馬がゆく』(1997年、TBS大型時代劇スペシャル) 小木茂光:『徳川慶喜』(1998年、NHK大河ドラマ) 吹越満:『竜馬がゆく』(2004年、テレビ東京新春ワイド時代劇) 古本新乃輔:『篤姫』(2008年、NHK大河ドラマ) 関連項目 自由民権運動               高知市立自由民権記念館 自由党 国民自由党 脚注 ...
  • 大日本帝国憲法
    ...還の後、公卿・諸侯を華族、武士を士族、足軽などを卒族、その他の人民を平民に改組した。明治4年(1871年)には、士族の公務を解いて、農業・工業・商業の自由を与え、また、平民も均しく公務に就任できることとした。明治5年(1872年)には徴兵制度を採用し、国民皆兵主義となったため、士族による軍事的職業の独占は破られた。このようにして、武士の階級的な特権は廃止した。大日本帝国憲法第19条は、人民の均しい公務就任権を規定し、同第20条は兵役の義務を規定した。なお、帝国議会開設に先立ち、1884年(明治17年)に華族令を定めて、華族に身分的特権を与えた。大日本帝国憲法34条は、華族の貴族院列席特権を規定した。 明治の変革 王政復古によって設置された三職(総裁、議定、参与)のうち、実務を担う参与の一員となった由利公正、福岡孝悌、木戸孝允らは、公議輿論の尊重と開国和親を基調とした新政府の基...
  • 加藤高明
    ... 加藤高明内閣 華族 岩崎家 佐野七五三之助 普通選挙法 外部リンク 加藤高明肖像 三菱人物伝 加藤高明 加藤高明関係文書 | 国立国会図書館   出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月20日 (月) 13 36。     
  • 部落問題
    ...対に消されぬ。エタが華族になり、華族がエタの名称に代っても、吾等に対する賤視観念が除かれねば、華族のエタが卑しめられ、エタの華族が尊敬せられる、寧ろ吾々は、明らかに穢多であると標榜して、堂々と社会を濶歩し得る輝きの名にしたい。」と主張する者が多数を占め、結局、名称によって吾々が解放せられるものではない。今の世の中に賎称とされている「特殊部落」の名称を、反對に尊称たらしむるまでに、不断の努力をすることで喝采の中に綱領通り保存されることになった。この間殆んど一時間有余、口角泡を飛ばして議論を闘はした。。 当時は1917年のロシア革命の直後であり、活発化した社会主義運動はこれらの部落解放運動に大きな影響を与えた。また自由民権運動との関わりも深かった。激しい水平社の糾弾闘争は当時の人びとによく知られ、水平社がいわゆる「部落民」の代名詞となったほどである。しかし社会主義運動との連携を恐れた政...
  • 旧制大学
    ...宮内省管轄の皇族及び華族の教育機関であり戦前であっても大学令に基づく或いはそれに準拠するような旧制大学であった時期は一切存在しない。また、旧制学習院高等科からは旧制の高等学校と全く同等に帝国大学へ進学することが可能であり中等科まで含めて考えると旧制7年制高等学校に類似する8年制の教育機関の様に見えるという状況である。 関連項目 旧帝国大学 旧官立大学 旧外地の高等教育機関 学制改革 関連書籍 文部科学省『学制百年史』 文部科学省『学制百年史資料編』 海後宗臣(監修) 『日本近代教育史事典』 平凡社、1971年 『日本近現代史辞典』 東洋経済新報社、1978年 尾崎ムゲン作成「文部省管轄高等教育機関一覧」参照 秦郁彦(編)『日本官僚制総合事典;1868 - 2000』 東京大学出版会、2001年 「主要高等教育機関一覧」参照 外部リンク 「...
  • 板垣退助
    ...。従一位勲一等伯爵(華族一代論を主張したため没後襲爵手続きをなさず)。キリスト教徒であり、同郷の片岡健吉(初代衆議院議長)の入信などに多大な影響を与えた。 なお、陸軍大臣などを歴任した板垣征四郎とは血縁関係はない。 生まれ 天保8年4月17日(1837年5月21日)、高知城下(現・高知市)に土佐藩士・乾(いぬい)栄六の子として生まれた。乾家は220石取りの上士身分であり、坂本龍馬等の下士身分よりも恵まれた扱いを受けていた。 幕末 藩主・山内容堂の側用役から始まり、藩の要職を歴任した。 討幕運動に参加し、武力倒幕を主張。戊辰戦争では土佐藩軍指令・東山道先鋒総督府参謀として、甲州勝沼の戦いで新撰組を撃破。さらに、東北戦争では、仙台藩、会津藩などの攻略を行った。新政府軍の将として旧幕府領である甲斐国に進出した際、乾家の先祖は、山内一豊の家臣乾彦作に養子入りした甲斐の武田...
  • 玄洋社
    ...の有力者らは日本の「華族」に列せられたが、李容九は爵位を辞退し悲嘆のうちに亡くなっている。李は、数度にわたる朝鮮の政治改革の失敗から、両班(朝鮮の支配階層)による下層階級への搾取虐待を朝鮮人自身の力で克服することを不可能と考えており、日本との合邦によって初めてこれが実現できると信じていた。 昭和に入ると、玄洋社と関係の深かった中野正剛らは、大日本帝国憲法を朝鮮・台湾にも施行して、内地と朝鮮の法律上の平等の徹底(参政権は属地主義であったため、日本内地在住の朝鮮人、台湾人にのみ選挙権、被選挙権があった)をはかるべきと主張した。一方、頭山満と親交のあった葦津耕次郎らは、国家として独立できるだけの朝鮮のインフラ整備は既に完了したとして朝鮮独立を主張した。葦津は、満州帝国に対する関東軍の政治指導を終了すべきことも主張している。 以上のような「アジア主義」の思想潮流は、明治維新以降玄洋社等の...
  • 西郷従道
    ...7年(1884年)の華族令制定に伴い、維新時の偉功によって伯爵を授けられる。伊藤博文内閣の海軍大臣、内務大臣などを歴任。 明治25年(1892年)には元老として枢密顧問官に任じられる。同年、国民協会を設立。明治27年(1894年)に海軍大将となり、明治28年(1895年)には侯爵に陞爵。明治31年(1898年)に海軍軍人として初めて元帥の称号を受ける。 エピソード 名は維新後に太政官に名を登録する際、「隆道」をリュウドウと呼んで口頭で登録しようとしたところ、訛っていたため役人に「ジュウドウ」と聞き取られ、「従道」となってしまった。本人も特に気にせず結局「従道」のままであった。ちなみに西郷隆盛も本名は「隆永」で、「隆盛」とは彼らの父の名前であり、同志の吉井友実が勘違いして登録してしまった。自分の名前に無頓着なところがこの兄弟にはあった。 兄・隆盛や従弟・大山巌と同じく鷹揚...
  • 三条実美
    ...)。「梨堂」と号す。華族制度の発足後は本人の功が考慮され公爵となった。 来歴 三條實美は安政元年(1854年)、兄の三条公睦の早世により家を継いだ。安政の大獄で処分された父・実万と同じく尊皇攘夷(尊攘)派の公家として、文久2年(1862年)に勅使の1人として江戸へ赴き、14代将軍の徳川家茂に攘夷を督促し、この年国事御用掛となった。長州と密接な関係を持ち、姉小路公知と共に尊皇攘夷激派の公卿として幕府に攘夷決行を求め、孝明天皇の大和行幸を企画した。 文久3年(1863年)には、公武合体派の中川宮らの公家や薩摩藩・会津藩らが連動したクーデター・八月十八日の政変により朝廷を追われ京都を逃れて長州へ移る(七卿落ち)。長州藩に匿われるが、元治元年(1864年)の第一次長州征伐(幕長戦争)に際しては福岡藩へ預けられる。太宰府へと移送され、3年間の幽閉生活を送った。また、その途中に宗像市の...
  • 閑院宮載仁親王
    ...年) 「皇族・華族 古写真帖 愛蔵版」(新人物往来社 2003年) リンク 閑院宮家御家族の写真アルバム http //miyake.yaekumo.com/Kan-in.html 国民歌「閑院参謀總長宮を讃え奉る」http //rasiel.web.infoseek.co.jp/nihon/sanbou.htm 脚注 _ 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月3日 (月) 06 57。     
  • 井上馨
    ...17年(1884年)華族令で伯爵、明治40年(1907年)には侯爵に陞った。日本郵船・藤田組と密接に関係し、特に三井財閥においては最高顧問になるなど、これを快く思わなかった西郷隆盛からは“三井の大番頭”ともいわれた。尾去沢銅山事件に代表されるように実際に三井、長州系列の政商と密接に関わり、賄賂と利権で私服を肥やし、散財するという行為が当時から世間において批判され、貪官汚吏の権化とされていた。第4次伊藤内閣の崩壊後、大命降下を受けて内閣総理大臣に就任する予定になったが、政局の運営に見通しが立たないと判断すると、総理大臣就任を辞退して桂太郎に地位を譲った(なお、第2次伊藤内閣の内相時代に伊藤が交通事故に遭ったために1ヶ月余り首相臨時代理を務めている)。伊藤亡きあと、西園寺公望や松方正義などと共に元老として、政官財界に絶大な勢力を誇った。 大正4年(1915年)、静岡県興津町(現:静岡市...
  • 若槻禮次郎
    ... 関連項目 華族 若槻内閣 第1次若槻内閣 第2次若槻内閣 関連人物 芦田均 宇垣一成 小川平吉 織田万 岸清一 木村小左衛門 福原鐐二郎 水野錬太郎 脚注 外部リンク 若槻礼次郎 | 近代日本人の肖像 若槻禮二郎物語 - 松江市立雑賀小学校 若槻礼次郎について 若槻 礼次郎 / クリック 20世紀 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月4日 (火) 11 23。     
  • 孫文
    ...家」は由緒ある公家(華族)の家柄であり、明治天皇の母の生家にあたる。 現在中国大陸や台湾島にある「中山大学」、「中山公園」、「中山路」など「中山」がつく路名や地名は孫文の字に由来している。 日本における評価 Template 独自研究? 孫文の評価は一見わかりやすいようでいて、実のところほとんど一定していないのが実情である。1970年代以前は被抑圧民族の立場から帝国主義に抵抗した中国革命のシンボルとして高く評価され、特に1924年の「大アジア主義講演」が日本の対アジア政策に警鐘を鳴らすものとして絶賛的に扱われていた。しかし、革命への熱気が冷めた1980年代以降は、孫文の独裁主義的な志向性、人民の政治能力を劣等視するような愚民観、漢族中心的な民族主義といった点が問題視されるようになり、現在の権威主義的・非民主的な体制の起源として批判的に言及されることも多くなった。 とりわ...
  • 鉄道国有法
    ...設鉄道の株主でもある華族や資本家、地主たちによって完全に骨抜きにされてしまった。これに憤慨した井上は翌年、退官することとなる。 井上の鉄道国有論に対抗して鉄道民営論を唱えたのは、渋沢栄一や田口卯吉、中上川彦次郎、三井や三菱などの財界の有力者たちであった。彼らは資本主義の発展にともなって鉄道経営が大きな利益をもたらすとともに、産業支配と鉄道支配との間に密接な関連性があることをよく認識していた。渋沢らが関わる東京経済学協会が1891年に発表した「鉄道調査報告書」に掲載された佐分利一嗣の論文では、鉄道国有化論に対する反証を一々あげて論じ、「将来の鉄道は、私設民営たるべし」という結論を導いている。続いて渋沢らは、1894年(明治27年)に官設鉄道払下計画を立案し、一挙に彼らの理想とする鉄道民営の実現を図ったが、日清戦争の勃発にともない、計画は頓挫している。 その後、鉄道国有化が政治課題と...
  • 桂太郎
    ...氏(桂氏の本姓) 華族 第1次桂内閣 第2次桂内閣 第3次桂内閣 大正政変 桂園時代 小村壽太郎、後藤新平 - 政権時代のブレーン。 加藤高明、若槻禮次郎、濱口雄幸 - 桂の政治的継承者。「桂新党」(立憲同志会)の結党に参加し、憲政会-立憲民政党内閣で(桂が新党構想で掲げた)健全財政・軍縮・協調外交路線をとる。 松陰神社 - 周囲に桂の墓所がある。 大三 - 桂の「ニコポン主義」に由来する「ニコホン綿」で知られる。 外部リンク Template commonscat? 歴代総理の写真と経歴(首相官邸ホームページ) 桂氏系譜 桂太郎肖像 明治宰相列伝 : 桂太郎 | 国立公文書館 拓殖大学 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年5月4日 (日) 08 08。 ...
  • 大村益次郎
    ...功により子爵を授爵、華族に列せられた。 大村の軍制構想は山田顕義、船越衛、曽我祐準、原田一道らによってまとめられ、同年11月18日には兵部少輔久我通久と山田の連署で『兵部省軍務ノ大綱』として太政官に提出されている。大村の「農兵論」は、山田らによって、明治4年(1871年)に徴兵規則(辛未徴兵)の施行によって実行に移されるも、同規則も同年内には事実上廃棄されている。その後、兵部省・陸軍省内の主導権が山田から山縣有朋に移った後、明治6年(1873年)に国民皆兵を謳った徴兵令が制定されることとなる。 人物 維新戦争後に西からの反乱(西南戦争)を予言していたとされる。西郷隆盛を全く評価していなかった1人であり(大隈重信も同様)、西郷を建武の新政で反旗を翻した足利尊氏に見立てていたという。 まだ若かった西園寺公望は大村に師事しており、京都にいた西園寺が大村を訪問しようとしたとき、...
  • 香淳皇后
    ...なか男児を得られず、華族たちから「皇后さまは女腹」と言われ非難され、側室制度の復活が本格的に検討された。彼女も心労とプレッシャーに苦しむが、この案は昭和天皇が自ら拒否した。1933年(昭和8年)12月23日、継宮明仁親王が誕生。待望の皇子誕生とあり、日本全体から盛大に祝賀を受ける。 thumb|180px|[[明仁|継宮明仁親王を抱く皇后]] 一方この頃より、皇女は学習院前期(小学校)入学とともに天皇・皇后の手元を離れ呉竹寮で養育される。これは天皇の元では養育係が仕え辛く、その結果わがままに育ったと言う批判に加え、将来的に降嫁することに備えるためである。また、天皇家の神格化が推進され、明仁親王に至っては1937年(昭和12年)より東宮仮御所にて養育された。土日以外は親子とは言え、会うことはできなくなった。皇后は親王のために好物の豆腐料理を手ずから用意していたが、親王が皇后の手料理...
  • 西園寺公望
    ...1884年7月7日、華族令の施行により侯爵を受爵。 明治18年(1885年)2月14日、オーストリア特命全権公使として赴任。 明治19年(1886年)8月6日、法律取調委員を兼任。 明治20年(1887年) 6月4日、ドイツ特命全権公使に異動。 6月28日、ベルギー特命全権公使を兼任。 明治24年(1891年)9月4日、帰国し、賞勲局総裁に異動。 明治25年(1892年)10月7日、民法商法施行取調委員長を兼任。 明治26年(1893年) 4月13日、法典調査会副総裁(総裁は伊藤博文)を兼任。 11月13日、貴族院副議長に異動。 12月11日、従二位に昇叙。 明治27年(1894年) 5月10日、枢密顧問官及び賞勲局総裁を兼任。 5月12日、貴族院副議長を辞す。 10月3日、第2次伊藤内閣の文部大臣として入閣。 明...
  • 内閣総理大臣の一覧
    ...国大学法学部卒業公家華族貴族院議長 35 24 平沼騏一郎ひらぬま きいちろう 平沼内閣1939年1月5日- 1939年8月30日 238 津山藩岡山県 帝国大学法科卒業司法官僚大審院長枢密院議長 36 25 阿部信行あべ のぶゆき 阿部内閣1939年8月30日- 1940年1月16日 140 石川県 陸軍大学校卒業陸軍軍人後に朝鮮総督 (予備役陸軍大将) 37 26 米内光政よない みつまさ 米内内閣1940年1月16日- 1940年7月22日 189 岩手県 海軍大学校海軍軍人連合艦隊司令長官 (予備役海軍大将) 38 近衞文麿 第二次近衞内閣1940年7月22日- 1941年7月18日 362 (略) (略) 39 第三次近衞内閣1941年7月18日- 1941年10月18日 93通算1,035 40 27 東條英機とうじ...
  • @wiki全体から「華族」で調べる

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