chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「関東大震災」で検索した結果

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  • 関東大震災
    関東大震災(かんとうだいしんさい)は、1923年(大正12年)9月1日午前11時58分32秒(以下日本時間)、神奈川県相模湾北西沖80km(北緯35.1度、東経139.5度)を震源として発生した海溝型の大地震(関東地震)による災害。東京都・神奈川県・千葉県・静岡県の南関東地方の広い範囲に甚大な被害をもたらした。 被害 死者・行方不明者  14万2800人 負傷者  10万3733人 避難人数  190万人以上 住家全壊  12万8266戸 住家半壊  12万6233戸 住家焼失  44万7128戸(全半壊後の焼失を含む) その他  868戸 上記の従来の数字に対して、近年の学界では、実際の死者・行方不明者はより少なく10万5000人余だったという説が定着している。理科年...
  • 震災手形
    震災手形(しんさいてがた)は、関東大震災のため支払いができなくなった手形のこと。往時の報道では震手と略称された。特別に震災手形と呼ばれるものが出回ったのではなく、一般に流通する手形のうち、被災地に関わるもののみが緊急勅令によるモラトリアムや法令により日本銀行が再割引することで補償の対象となり、こう呼ばれる。再割引の際にはスタンプを捺して識別した。但し、混乱に乗じて、折からの不況で不良債権となったものも大量に紛れ込んだ。 起因 1923年9月1日に起こった関東大震災は当時の日本銀行の推計で45.7億円の損害が出た。当時の国家予算が15億円であった事を見ても、甚大な被害であることが判る。このため被害を受けた企業が支払いが出来なくなる事態を想定して、9月7日緊急勅令によるモラトリアムが出され、9月中に支払期限を迎える金融債権のうち被災地域の企業・住民が債務者となっているものについては支払期限...
  • 甘粕事件
    甘粕事件(あまかすじけん)は、関東大震災の直後の1923年9月16日、アナキストの大杉栄・伊藤野枝とその甥の計3名が憲兵隊に強制連行・殺害された事件。主犯は憲兵大尉・甘粕正彦らとされる。大杉事件ともいう。 事件発生 関東大震災後、東京や神奈川が混乱に陥り戒厳令が発せられていたさなか、大杉栄は内縁の妻伊藤野枝と、神奈川県橘樹郡鶴見町(現在の横浜市鶴見区)に住む大杉の妹あやめを見舞い、その息子の橘宗一(6歳)をつれて東京に戻る途中、行方不明になった。 彼らが憲兵隊に連れ去られたといううわさが広まり、9月20日、時事新報や読売新聞などにより大杉ら3人の殺害が報じられた。日本を騒がせるアナキストであり恋愛スキャンダル(日蔭茶屋事件)でも世間に有名になった大杉・伊藤の二人に加え、6歳の小児までも殺されたとあって世間は騒然となった。 軍と対立する警視庁は捜査を要求。また、殺された大杉の甥・橘宗...
  • 大正
    ...現れた。大正12年に関東大震災が起こり、首都が壊滅的な打撃を受けたが、程なく復興した。震災後、山本権兵衛内閣が成立した。その後、第二次護憲運動(憲政擁護運動)が起こり、護憲三派内閣として加藤高明内閣が成立した。大正末期には、ベルサイユ・ワシントン体制に順応的な幣原外交(加藤内閣)が展開され、中国への内政不干渉、ソ連と国交回復など、一定の民主的な色彩を示した。 護憲運動と政治 明治末期にかけては軍部や元老山県有朋の下で藩閥政治が続いていたが、大正初期にかけては山県系列の桂太郎と比較的リベラルな西園寺公望が交代で組閣し、桂園時代とも呼ばれていた。明治45年、第2次西園寺内閣の陸軍大臣上原勇作が、内閣が2個師団増設を否決したことに抗議して単独辞任し、陸軍は後任陸相を出さなかったため軍部大臣現役武官制によって陸相を欠いた西園寺内閣は総辞職した。 その後、桂太郎が議会での交代のルール...
  • 第2次山本内閣
    ...急逝、同年9月1日の関東大震災発生という混乱状態のさなかで組閣された。Template 和暦?12月27日に発生した虎ノ門事件の影響で総辞職した。 大臣と次官に錦城学校(現・錦城高等学校)の出身者が5名(伊集院彦吉外相、井上準之助蔵相、山之内一次鉄道相、小松謙次郎逓信次官、財部彪海相)いたため、錦城内閣とも称された同校公式サイトの学校紹介のページより。ただし、小松謙次郎が「逓信大臣」と誤記されている。。 閣僚 内閣総理大臣 山本権兵衛 外務大臣 山本権兵衛(兼任)(1923年(大正12年)9月2日 - 同年9月12日) 伊集院彦吉(1923年(大正12年)9月12日 - 1924年(大正13年)1月7日) 内務大臣 後藤新平 大蔵大臣 井上準之助 陸軍大臣 田中義一 海軍大臣 財部彪 司法大臣 田健治郎(1923年(大正12年)9月2日 - 同年9月6日...
  • 亀戸事件
    亀戸事件(かめいどじけん)とは、1923年9月3日、関東大震災直後の混乱の中で、東京府南葛飾郡亀戸町(現・東京都江東区亀戸)で、社会主義者の川合義虎、平沢計七ら10名が、以前から労働争議で敵対関係にあった亀戸警察署に捕らえられ、同月4日~5日に習志野騎兵第13連隊によって刺殺された事件。また、同月4日に警察に反抗的な自警団員4名が軍により殺された事件を「第一次亀戸事件」と呼び、この事件の被害者に加えることもある。 この事件の事実は発生から1ヶ月以上経過した10月10日になってようやく警察により認められた。犠牲者の遺族や友人、自由法曹団、南葛飾労働会などが事件の真相を明らかにするため糾弾運動を行なったが、「戒厳令下の適正な軍の行動」であるとし、事件は不問に付されたのである。 震災時にはこの外、無政府主義者の大杉栄夫妻が殺害された甘粕事件が起こった。 また軍隊・憲兵隊によって人々の不安が...
  • 閑院宮載仁親王
    ...家族とともに滞在中、関東大震災に遭遇し一時倒壊した別邸の下敷きとなったが、たいした怪我はなく無事であった。 1931年(昭和6年)に参謀総長に就任。青年時から立派な髭を生やしており、「髭の参謀総長」と呼ばれた。この参謀総長就任は、当時の陸軍大臣荒木貞夫の思惑があったとされる。在任中は皇族という出自もあり、部下の思惑通りに動かされるお飾りであった。派閥争いの激しかった陸軍内部では、どの勢力も参謀総長宮を抱え込むことによる発言権の伸張を図ったが、当人は皇道派の真崎甚三郎への反感から統制派に肩入れし、真崎が教育総監を追われた際には、渡辺錠太郎を通じて強く林銑十郎陸相に働きかけていたとも言われた。渡辺錠太郎が二・二六事件で凶弾に仆れたのは、載仁親王が皇族であり手出しが出来なかったため、身代わりとして襲撃されたのではないか、と松本清張は推測している。 1936年(昭和11年)の二・二六事件...
  • 東京大空襲
    ...ちなみにアメリカ軍は関東大震災を徹底的に検証し、木造住宅が密集する東京の下町が火災被害にあいやすいことをつきとめそこを攻撃目標とした。そのため関東大震災と東京大空襲の被害地域が重なっていることは偶然ではない。 5月25日の空襲 right|thumb|300px|空襲をうける東京市街(1945年5月25日のもの。画面中央は現在の[[東京女学館中学校・高等学校|東京女学館・日赤医療センター付近、画面下から画面右上に伸びるのは渋谷川、画面下に山手線と東横線の交差と思しきものが見えることから広尾上空と推定される。なお、北方向は写真左側となる)]] 3月以降も東京への空襲は容赦なく続けられた。3月10日に次いで被害の大きかったのは5月25日で、470機が来襲し、それまで空襲を受けていなかった山の手が主な対象になった。死傷者は7415人、被害家屋は約22万戸の被害となった。 3月-...
  • 山梨軍縮
    ...うに1923年9月に関東大震災が発生し 新式装備の導入は困難となった。『近代戦争概史 上巻』陸戦学会 P286~286こののちに宇垣軍縮が行われることとなった。 脚注 Template 脚注ヘルプ? _   出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月19日 (金) 09 25。     
  • 井上準之助
    ...た株価が急落し、また関東大震災の発生によって、大量の不良債権が深刻になっていた。井上蔵相はこの経済低迷の原因を構造問題の結果であり、経済を再生させるために財界整理と緊縮財政を実施することになる。 こうした清算主義の実現のために旧平価での金解禁が不可欠であると考え、積極的なデフレ政策を採り、1920年代には平均して1.6%の穏やかなデフレであったのが、一挙に10%を越えるデフレにまで落ち込み、井上財政は昭和恐慌の大きな原因の一つになった。 略歴 明治2年(1869年):現在の大分県日田市大鶴町に造り酒屋を営む家に生まれる。教英中学中退『日本近現代人物履歴事典』秦郁彦、東京大学出版会、2002年 参照。、上京後、成立学舎などを経て、第一高等中学校入学。 明治26年(1893年):東京帝国大学英法科入学 明治29年(1896年):東京帝大卒業後、日本銀行入行 大正2...
  • コミンテルン
    ... 27年テーゼ 関東大震災で打撃を受けた日本共産党は1926年に再建し、1927年コミンテルンで採択された「日本問題に関する決議」が活動方針になった。 32年テーゼ コミンテルンと片山潜、野坂参三、山本懸蔵らの討議を経て、1932年に「日本の情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」が採択され、日本共産党の新たな活動方針になった。 関連項目 インターナショナル コミンフォルム 東方勤労者共産大学 コミンテルン(ソ連海軍の練習巡洋艦・機雷敷設艦) 治安維持法 日独防共協定 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年3月13日 (木) 05 44。     
  • 宇垣軍縮
    ...2年)8月に発生した関東大震災の復興費用捻出のため、1925年(大正14年)5月に宇垣一成陸軍大臣の主導の下、第三次軍備整理が行なわれることとなった。当時の陸軍省経理局は三井清一郎主計総監である。 廃止 具体的には21個師団のうち 第13師団(高田) 第15師団(豊橋) 第17師団(岡山) 第18師団(久留米) 連隊区司令部16ヶ所。 陸軍病院5ヶ所 陸軍幼年学校2校を廃止した。 この結果として約34,000人の将兵と、軍馬6000頭が削減された。 新設 1個戦車連隊 1個高射砲連隊 2個飛行連隊 1個台湾山砲連隊 陸軍自動車学校(東京) 陸軍通信学校(神奈川) 陸軍飛行学校(三重、千葉) 留意点 京浜および阪神地区に近い、宇都宮第14師団・京都第16師団は残置 衛戍地の消失を防ぐため部隊の移駐...
  • 東部軍管区 (日本軍)
    ...2年)9月1日 - 関東大震災、戒厳令施行 1923年(大正12年)9月3日 - 関東戒厳司令部設置 1923年(大正12年)11月15日 - 戒厳令解除 1923年(大正12年)11月16日- 関東戒厳司令部廃止・東京警備司令部設置 1932年(昭和7年)5月15日 - 五・一五事件 1935年(昭和10年)8月1日 - 東部防衛司令部設置 1936年(昭和11年)2月26日 - 二・二六事件 1936年(昭和11年)2月27日 - 戒厳令施行・東京戒厳司令部設置 1937年(昭和12年)11月30日 - 東京警備司令部廃止 1940年(昭和15年)8月1日 - 東京防衛司令部を東部軍に改編 1945年(昭和20年)2月1日 - 東部軍を東部軍管区改編 1945年(昭和20年)8月15日 - 終戦・宮城事件 司令部人事 氏名、就任日の順に表示した。退...
  • 加藤友三郎内閣
    ...定中の同年9月1日、関東大震災が発生する。 国務大臣 内閣総理大臣 男爵加藤友三郎(軍人 海軍大将) 1922年(大正11年)6月12日 - 1923年(大正12年)8月24日 伯爵内田康哉(首相病死により臨時兼任・政友会) 1923年(大正12年)8月24日 - 1923年(大正12年)9月2日 外務大臣 伯爵内田康哉(政友会)(高橋内閣から留任) 1922年(大正11年)6月12日 - 1923年(大正12年)9月2日 内務大臣 水野錬太郎(貴族院所属 交友倶楽部) 1922年(大正11年)6月12日 - 1923年(大正12年)9月2日 大蔵大臣 市来乙彦(貴族院所属 研究会) 1922年(大正11年)6月12日 - 1923年(大正12年)9月2日 陸軍大臣 山梨半造(軍人 陸軍大将)(高橋内閣から留任) 192...
  • 昭和恐慌
    ...、戦後恐慌が発生し、関東大震災後それはいっそう悪化した(震災恐慌)。 以後も、片岡直温蔵相の失言による取り付け騒ぎから発生した昭和金融恐慌(1927年)に代表されるように、日本経済は慢性的な不況が続き、為替相場は動揺しながら下落する状況が続いた。このような状況下で成立した立憲民政党の濱口雄幸内閣は、日本製品の国際競争力を高めるために産業合理化政策を進め、中小企業の多くが倒れることとなった。また、井上準之助蔵相は徹底した緊縮財政政策を進める一方で正貨を蓄え、金解禁を行うことによって為替の安定を図ろうとした。 恐慌の発生 緊縮財政によって約3億円の正貨が準備され、日本は1930年1月に金解禁を行った。しかし、前年の11月にアメリカ合衆国のニューヨーク・ウォール街で起こった株価の大暴落による恐慌は既に世界中に波及しており(世界恐慌)、日本の金解禁はその影響をまともに受けることになって...
  • 加藤友三郎
    ...あり、その後、日本で関東大震災などが起きたため翌年5月まで延期された。 第46帝国議会後、ワシントン会議の後始末が一応終わったことなどから、首相である加藤が兼任していた海相に財部彪を起用し、新たな政策を準備していたが、加藤は首相在任のまま大腸ガンの悪化で青山南町の私邸で臨終を迎えた。享年62歳(公表では8月25日)。そのため、外相内田康哉が内閣総理大臣を臨時兼任したものの、その8日後に関東大震災が発生し、日本は「首相不在」という異常事態の中でこの大災害を迎える事になった。 加藤内閣では、世間では政党内閣に逆行する逆転内閣、あるいは政友会との裏のつながりから変態内閣と評されたが、シベリア撤兵・軍縮の実施など、短期間ではあったが重要な課題を遂行した内閣であった。(詳細は加藤友三郎内閣を参照のこと) 200px|thumb|加藤友三郎の銅像跡 海軍でも1、2の酒豪で知られ、総理在任...
  • 昭和金融恐慌
    ...て不況となり、さらに関東大震災の処理のための震災手形が膨大な不良債権と化していた。一方で、中小の銀行は折からの不況を受けて経営状態が悪化し、社会全般に金融不安が生じていた。3月14日の衆議院予算委員会の中での片岡直温蔵相の「失言」をきっかけとして金融不安が表面化し、中小銀行を中心として取り付け騒ぎが発生した。一旦は収束するものの4月に鈴木商店が倒産し、その煽りを受けた台湾銀行が休業に追い込まれたことから金融不安が再燃した。これに対して高橋是清蔵相は片面印刷の200円券を臨時に増刷して現金の供給に手を尽くし、銀行もこれを店頭に積み上げるなどして不安の解消に努め、金融不安は収まった。 昭和金融恐慌は、後年起きた昭和農業恐慌(1929年の世界恐慌の影響を受けて主に農業に経済的打撃を受けた)と合わせて昭和恐慌と言われる事もある。 背景 昭和金融恐慌の原因として、未熟な金融システムと、経...
  • 時事新報
    ...参照)。 しかし、関東大震災による被災で業績は悪化し、部数も低下。 1934年1月17日から武藤山治社長が率先して行った「番町会を暴く」シリーズでは財界の不正を糾し、帝人事件(昭和初期の大疑獄事件)にまで発展したが、武藤社長が暴漢に射殺されてシリーズは終了。時事新報の前途にますます暗雲が立ちこめる事となった。 この後、慶應義塾出身者で東京日日新聞の高石眞五郎に経営肩代わりの話がくるが、高石は東京日日新聞の経営自体が傾いた時期でもあり、これを固辞。代わりに東京日日新聞の社外役員であり、大阪で「夕刊大阪新聞」・「日本工業新聞」を発行していた前田久吉を推挙し、1935年11月より前田が専務となって経営に当たった。しかしながら前田の大阪的経営手法と慶應閥が多い会社の体質が相反し、社業は遂に行き詰まった。高石は責任を取る形で、1936年12月25日時事新報を東京日日新聞に合同した。 1...
  • 鶴見騒擾事件
    ...曾有の大惨事となった関東大震災は、同時に工場用地が東京市及びその近郊から移転する契機となり神奈川の建設ラッシュに拍車がかかる。松永安左エ門(当時、東邦電力副社長)は関東の電力会社を買収し都心南部および京浜地帯への電力供給を目的とした東京電力(現在の東京電力とは別、通称「東力」)を興す。ここにおいて九州、名古屋と東上した松永と東京電燈の激突は避けられない状況となる。世に言う電力戦の勃発である。 当時の電力会社は全国に690社が乱立しシェア争いに狂奔しているが、大手五社が確立すると地方資本は電力供給権を中央の財閥に売りつけようとする動きを見せ独占状態が形成されつつあり、九州、中部といった「地区ブロック」の枠を乗り越えた松永へ東京電燈は千住火力発電所を据え迎撃を準備。その一方で電力会社が許認可事業であったこともありこの対立は政界をも巻き込んでいく。 鶴見火力発電所のトラブル 事件...
  • 後藤新平
    ...貢献した。 また、関東大震災後に内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の都市復興計画を立案した。 生い立ち・医師としての後藤新平 陸奥国胆沢郡塩釜村(現・岩手県奥州市水沢区)出身。後藤実崇の長男。江戸時代後期の蘭学者・高野長英は後藤の大叔父に当たり、甥に政治家の椎名悦三郎、娘婿に政治家の鶴見祐輔、孫に社会学者の鶴見和子、哲学者の鶴見俊輔、演出家の佐野碩をもつ。 胆沢県大参事であった安場保和にみとめられ、後の海軍大将・斎藤実とともに13歳で書生として引き立てられ県庁に勤務しのち15歳で上京し、東京太政官少史・荘村省三のもとで門番兼雑用役になる。安場との縁はその後も続き、安場が岩倉使節団に参加して帰国した直後に福島県令となると新平は安場を頼り、16歳で福島洋学校に入った。 新平本人は最初から政治家を志していたとされるが母方の大伯父である高野の弾圧等の影響もあって医者を進められ、...
  • 山本権兵衛
    ...二次山本内閣の組閣は関東大震災の被害もまだ明けぬ1923年(大正12年)9月2日である。山本は帝都復興院総裁に後藤新平を任命して東京の復興事業を行う一方、普通選挙実現に動くなどしたが、同年12月27日に起きた摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)が難波大助に狙撃された虎ノ門事件の責任を取り、翌1924年(大正13年)1月7日内閣は総辞職した。 明治日本海軍の父としてその手腕は高く評価される反面、首相在任中に於ける不運が惜しまれる。 元老の候補として何度も名前が挙げられたが、西園寺公望の反対により実現しなかったとも言われる。 栄典 1906年(明治39年)4月1日 功一級金鵄勲章 1933年(昭和8年)12月9日 大勲位菊花章頸飾 家族親族 長女イネは海軍大臣を務めた財部彪海軍大将夫人、次女すゑは山路一善海軍中将夫人、三女ミねは山本盛正夫人、四女なミは上村従義男爵夫人、五...
  • 香淳皇后
    ...中某重大事件、さらに関東大震災の影響により婚儀は延期され続けた。 皇太子妃時代 thumb|180px|成子内親王を見守る皇太子[[昭和天皇|裕仁親王と良子妃]] 1922年(大正11年)6月20日、結婚について大正天皇の勅許がくだり、9月18日に納采。同日付で勲一等宝冠章を受章する。翌1923年(大正12年)の内にも婚儀の予定であったが、関東大震災の惨状を目の当たりにした裕仁親王が自ら延期した。 1924年(大正13年)1月26日に結婚。皇太子妃となり、赤坂の東宮御所に住まう。裕仁親王との関係はこの頃より円満で、当時も手をつないで散歩をしていたという。1925年(大正14年)12月6日には第一皇女・照宮成子内親王が誕生する。良子は乳人こそ置いたが、可能な限り自らの母乳で育てた。子女を幼少時は手元で育てたことも、非常に画期的な出来事であった。 皇后時代 1926年...
  • 鈴木商店
    ... 1923年9月1日関東大震災が発生すると、政府は震災手形割引損失補償令を公布。これは震災前に銀行が割り引いた手形のうち決済不能になった損失を日本銀行が補填するというものであった。この制度成立には金子から政治家への働きかけがあったといわれている。鈴木商店と台湾銀行はこの制度を利用し損失の穴埋めを行う。政府も黙認の態度をとっていた。1926年末の震災手形の合計2億680万円のうち台湾銀行は1億4万円で48%を占め、その台湾銀行の手形のうち7割が鈴木商店のものであった。鈴木商店の震災手形の総額は現代の物価に換算すると438億3752万8千円という巨額であった。 終焉期 1927年3月、当時の大蔵大臣・片岡直温の「とうとう東京渡辺銀行が破綻した」との失言(片岡の発言時点では東京渡辺銀行はまだ破綻していなかった)により東京渡辺銀行は実際に破綻、他行でも取り付け騒ぎが発生する。そんな中...
  • 昭和天皇
    ... 婚礼の儀の延期と関東大震災 1923年(大正12年)の関東大震災により、同年秋季予定されていた皇太子裕仁親王(当時摂政であった)の婚礼の儀は延期されることとなった。本来なら関東という一地方で起きた地震であるので、国事である皇族の婚礼を延長することはせず遷都するのが通例であったが、東京の惨状を視察した裕仁親王の意向により延期となった。 この関東大震災で裕仁親王は、後に「加藤のおかげで命拾いをした」と語っている。背景には、霞関離宮が修理中であったため箱根(大きな震災を被った)に行く予定であったが、加藤友三郎内閣総理大臣が死去し、政変が起きていたため東京の宮城(皇居)に留まったことがある(1973年の記者会見より。会見記録は高橋紘「陛下、お尋ね申し上げまする」に詳しい)。 また後年、昭和天皇は次のように述懐している。「その 惨憺たる様子に対して、まことに感慨無量でありました」(1...
  • 八八艦隊
    ...須賀工廠ドック内で、関東大震災により造船台から転落し竜骨が折れるなど、回復不能の損傷を受けたため廃棄し、代わりに標的艦となっていた加賀を改装した。赤城は予定通り航空母艦として完成) 各艦のデータ 長門型から13号艦型までのデータ、(排水量、速力、主砲、舷側装甲厚さ、傾斜角 、甲板装甲厚さ) 長門型(2隻)  33,800t、26.5ノット、41cm砲8門、舷側305mm、垂直、甲板75mm 加賀型(2隻)  39,900t、26.5ノット、41cm砲10門、舷側279mm、傾斜15度、甲板102mm 天城型(4隻)  41,200t、30.0ノット、41cm砲10門、舷側254mm、傾斜12度、甲板94mm 紀伊型(4隻)  42,600t、29.75ノット、41cm砲10門、舷側292mm、傾斜12度、甲板118mm 13号艦型(4隻) 47,500t、30.0ノッ...
  • 貞明皇后
    ...x|thumb|[[関東大震災の被災者を慰問 (1923年)]] 工藤美代子『国母の気品 貞明皇后の生涯 』 清流出版 2008年 三笠宮崇仁・三笠宮百合子述/工藤美代子編著『母宮貞明皇后とその時代 三笠宮両殿下が語る思い出』 中央公論新社、2007年 筧素彦『今上陛下〔昭和天皇〕と母宮貞明皇后』日本教文社、1987年 序文徳川義寛 『貞明皇后』 主婦の友社編 1971年 伝記と歌集 出雲井晶 『天の声 小説・貞明皇后と光田健輔』 展転社 1992年 救らい活動が中心 皇子及びその妃達との関係 姑として香淳皇后には厳しかった。それは皇族久邇宮家の嫡出の王女(身位は女王)であった香淳皇后に対する家柄への妬み(貞明皇后は五摂家の九条家の出身ではあるものの、嫡出ではなく庶子である)と周囲の人間から考えられていた。 しかし、香淳皇后は皇族出身のいわばお姫様で、性...
  • 治安維持法
    ...前身 1923年に関東大震災後の混乱を受けて公布された緊急勅令 治安維持ノ為ニスル罰則ニ関スル件(大正12年勅令第403号)。1917年のロシア革命による共産主義思想の拡大を脅威と見て成立したとされる。 法律制定 1925年4月22日に公布され、同年5月12日に施行。 (天皇の勅令により当時は日本の植民地であった朝鮮、台湾、樺太にも施行され、独立運動をも弾圧した)。普通選挙法とほぼ同時に制定されたことから“飴と鞭”の関係にもなぞらえられ、普通選挙実施による政治運動の活発化を抑制する意図など治安維持を理由として制定されたものと見られている。治安維持法は即時に効力を持ったが、普通選挙実施は1928年まで延期された。 1928年(昭和3年)に緊急勅令「治安維持法中改正ノ件」(昭和3年6月29日勅令第129号)により、また大東亜戦争(太平洋戦争)を目前にした1941年3月10日に...
  • 日露和親条約
    ...されていた条約原本は関東大震災のとき失われたが、ロシア語、オランダ語、日本語については、明治17年(1884年)に印刷された物が残っている。。 (オランダ語)Van nu af zal de grens tusschen de eilanden Itoroep(Iedorop) en Oeroep zyn. Het geheel eiland Itoroef behoort aan Japan en het geheel eiland Oerop, met de overige Koerilsche eilanden, ten noorden, behoren tot Russische bezittingen. Wat het eiland Krafto(Saghalien) aangaat, zoo blyft het ongedeeld tusschen Rusland en...
  • 日本近代史
    ...年(大正12年)には関東大震災が生じた。この未曾有の大災害に東京は大きな損害を受けるが、震災後、山本権兵衛内閣が成立し、その内務相となった後藤新平が辣腕を振るった。震災での壊滅を機会に江戸時代以来の東京の街を大幅に改良し、道路拡張や区画整理などを行いインフラが整備され、大変革を遂げた。またラジオ放送が始まるなど近代都市へと復興を遂げた。しかし、一部に計画されたパリやロンドンを参考にした環状道路や放射状道路等の理想的な近代都市への建設は行われず、日本は戦後の自動車社会になってそれを思い知らされることとなり、戦後の首都高速の建設につながる。一方、この震災に乗じて、暴動が生じるというデマが振り撒かれ、朝鮮人や共産主義者の虐殺が行われた亀戸事件などが起こったことは、歴史の負の側面であろう。 大正期を特色付けるのは、大正デモクラシーと称される政治の新しい動向である。明治末期にかけては軍部や元...
  • 大逆事件
    ...3年9月1日に起きた関東大震災の2日後、戒厳令下に朝鮮人が民衆によって私刑を受けた震災後の混乱期に、「保護検束」の名目で検挙されたアナキスト・朴烈と愛人の金子文子が、翌1924年2月15日に爆発物取締罰則違反で起訴され、1925年5月2日に朴烈が、5月4日に文子が、それぞれ大逆罪にあたるとされた事件。 1926年3月25日に死刑判決。4月5日に恩赦で無期懲役に減刑されるが、文子は特赦状を刑務所長の面前で破り捨てた。同年7月22日に栃木女囚刑務所で、文子は看守の目を盗んで縊死。同年7月には内閣転覆を狙った北一輝により取調中に朴の膝に金子が座り抱擁している写真が政界にばらまかれ獄内での待遇が数ヶ月政治問題化した。朴烈は敗戦後の1945年10月27日に出獄。いまや徹底した反共思想の持ち主であった朴は在日本朝鮮人連盟(朝連、朝鮮総連の前身)への参加を避け、1946年10月に韓国民団の前身と...
  • 護憲運動
    ...になる。さらに前年の関東大震災による選挙人名簿の損傷によって投票日が当初予定通りの5月10日に延期され、その間に清浦内閣が護憲三派の選挙運動の妨害を図ったことから、国民各層の憤激を招いた。 そして5月10日に行なわれた第15回衆議院議員総選挙の結果、護憲三派からは286名(憲政会151名。政友会105名。革新倶楽部30名)らが当選する。これに対して清浦内閣を支持していた政友本党は109名が当選したにとどまり、護憲三派の圧勝に終わった。そして6月、遂に清浦内閣は倒れ、第一党の加藤高明に内閣組閣の大命が下った。加藤は、政友会から2名、革新倶楽部から1名を加えた護憲三派内閣を組閣する。ここに、高橋是清以来3代ぶりの政党内閣が復活したのである。 第二次憲政擁護運動の意義 第二次憲政擁護運動は、国民からの運動ではなく政党からの運動であり、その規模も第一次と較べるとあまりに小規模であっ...
  • 渋沢栄一
    ...議長などもした。 関東大震災後の復興のためには、大震災善後会副会長となり寄付金集めなどに奔走した。 thumb|left|250px|国士舘の設立を協議する有志: 前列左から[[頭山満、野田卯太郎、渋沢、徳富蘇峰]] また、当時は商人に高等教育はいらないという考え方が支配的だったが、商業教育にも力を入れ商法講習所(現一橋大学)、大倉喜八郎との関係で大倉商業学校(現東京経済大学)の設立に協力したほか、創立者大隈重信との関係で早稲田大学、創立者三島中洲との親交で二松学舎(現二松学舎大学)、野田(大塊)卯太郎との誼で学校法人国士舘(創立者・柴田徳次郎)、井上馨に乞われ同志社大学(創立者・新島襄)の寄付金の取り纏めに関わった。また、商人同様に教育は不要であるとされていた女子の教育の必要性を考え、伊藤博文、勝海舟らと女子教育奨励会を設立、成瀬仁蔵らとともに日本女子大学校、伊藤博文との関係...
  • 田中義一
    ...ものの、後藤はかつて関東大震災後に自分が立案した帝都復興計画を政友会の反対で潰された経緯からこれも拒否、唯一就任に応じたのが田中であった。田中は就任の際、300万円の政治資金を持参金としたが、陸軍機密費から出たものではないかと他党から追究されている(陸軍機密費横領問題)。また、在郷軍人会を票集めに利用したとする疑惑もあった。『田中義一伝記』などはこれを否定するが、古島一雄の回想録によれば、軍人出身の田中がどこから票を集めるのかと問い質したところ、「俺は在郷軍人300万を持っている」と応えたと記していること、また政友会総裁就任に伴う和歌山県での在郷軍人会副会長退任演説で政友会が主張していた両税委譲の必要性を説くなど、遠回しに政友会へ支援を求める発言も行っている。真相は不明であるが、在郷軍人会の育ての親である田中の政友会総裁就任及び対立する憲政会(後に立憲民政党)の軍縮政策が在郷軍人の投...
  • 十五年戦争
    ...る。 背景 関東大震災、金融恐慌、世界恐慌、その後のブロック経済化の流れ等で負った深刻な経済的ダメージを、 日本は満州進出、後には南方進出(大東亜共栄圏)で取り戻そうとした。 しかし、軍部の政治的な発言力が強まり、「満州は日本の生命線」として、また、 朝鮮に代わる「本土防衛」のための緩衝地帯として、満州進出を進める日本は、 満州国を承認しない列強との対立が深刻化し、遂には全面戦争にいたる。 経過 1931年満州事変の当初、日本政府の方針は「事局不拡大」だったが、関東軍は無視して事変の拡大を進め、満州国の建国を後押しし、日本政府は結局、満州事変を事後追認した。 1933年日本は満州国を承認しない他の国際連盟加盟国と対立、満州国を否認する決議が採択されると、抗議として国際連盟を脱退した。 1937年、盧溝橋事件勃発。日本は1931年の満州事変によって満州国とい...
  • 日本史の出来事一覧
    ...plate 和暦? 関東大震災、虎の門事件 Template 和暦? 治安維持法、普通選挙法 昭和(戦前年) Template 和暦? 昭和金融恐慌、東方会議、山東出兵 Template 和暦? 三・一五事件、済南事件、張作霖爆殺事件 Template 和暦? 世界恐慌 Template 和暦? 中村大尉事件、柳条湖事件、満州事変、三月事件、十月事件 Template 和暦? 血盟団事件、五・一五事件 Template 和暦? 第一次上海事変 Template 和暦? 国際連盟脱退、滝川事件、神兵隊事件 Template 和暦? 帝人事件 Template 和暦? 相沢事件、天皇機関説問題 Template 和暦? 二・二六事件、綏遠事件、西安事件 Template 和暦? 盧溝橋事件、第二次上海事変(日中戦争(支那事変)始まる) Template 和...
  • 仮20
    ...3年(大正12年) 関東大震災、虎の門事件 1925年(大正14年) 治安維持法、普通選挙法 昭和(戦前年) 1927年(昭和2年) 昭和金融恐慌、東方会議、山東出兵 1928年(昭和3年) 三・一五事件、張作霖爆殺事件 1929年(昭和4年) 世界恐慌 1931年(昭和6年) 柳条湖事件、満州事変、三月事件、十月事件 1932年(昭和6年) 血盟団事件、五・一五事件 1932年(昭和7年) 第一次上海事変 1933年(昭和8年) 国際連盟脱退、滝川事件、神兵隊事件 1934年(昭和9年) 帝人事件 1935年(昭和10年) 相沢事件、天皇機関説問題 1936年(昭和11年) 二・二六事件、綏遠事件、西安事件 1937年(昭和12年) 盧溝橋事件、第二次上海事変(日中戦争(支那事変)始まる) 1938年(昭和13年) 張鼓峰事件 1939年(昭和14...
  • 憲兵 (日本軍)
    ...(大正12年)9月の関東大震災直後に東京憲兵隊渋谷憲兵分隊長兼麹町憲兵分隊長甘粕正彦陸軍憲兵大尉が大杉栄、伊藤野枝及び橘宗一を殺害するという問題を起こした(甘粕事件)。発覚後、憲兵隊の捜査により起訴された甘粕大尉及び森慶次郎陸軍憲兵曹長は軍法会議で有罪判決を受けて服役する。また、監督責任を問われて憲兵司令官小泉六一陸軍少将らは停職となった。以上の一部憲兵による行為は法令に違背し憲兵の職務に悖るものである。 他方、憲兵は、司法警察権も掌ることから、治安警察法及び治安維持法等を、一般警察同様に一般国民に対しても適用する立場であり、次第に反戦思想取締りなど、国民の思想弾圧にまで及ぶこととなった。帝国議会の開会中は10名ほどの特務憲兵が詰め、議員の発言を確認していた。事前に政府や軍部に批判的な政党・議員の発言内容や攻撃材料を入手する事も憲兵の任務だったと言う。東條英機の首相在任中には憲兵を...
  • 世界恐慌
    ...本 大戦後の恐慌、関東大震災、昭和金融恐慌(昭和恐慌)によって弱体化していた日本経済は世界恐慌発生とほぼ同時に行った金解禁と生糸などの輸出の落ち込みにより危機的状況に陥る。株の暴落により都市部では多くの会社が倒産し就職難の者(学歴難民)や失業者があふれた(『大学は出たけれど』)。農作物は売れ行きが落ち価格が低下、冷害・凶作のために疲弊した農村では娘を売る身売りや欠食児童が急増して社会問題化。生活できなくなり大陸へ渡る人々も増えた。 国民が困窮する中、労働者や小作農の立場に立つ政党が代表者を国会に送るようになり労働争議や小作争議が増え、政府は治安維持法を改めて最高刑を死刑にし、特別高等警察を全国に設置して社会主義運動の取締りを強化。 高橋是清蔵相による積極的な歳出拡大(一時的軍拡を含む)、円の切下げ、アジア貿易への依存、重工業化へ向けた官民一体の経済体制転換を打ち出す。安価な綿布...
  • 昭和
    ...。更に昭和2年には、関東大震災の手形の焦げつきが累積し、それをきっかけとする銀行への取りつけ騒動が生じ、昭和金融恐慌となった。若槻礼次郎内閣は鈴木商店の不良債権を抱えた台湾銀行の救済のために緊急勅令を発しようとしたが、枢密院の反対に会い、総辞職した。あとを受けた田中義一内閣は、高橋是清蔵相の下でモラトリアム(支払い停止令)を発して全国の銀行の一斉休業と日銀からの緊急貸し出しによって急場をしのいだ。 一方、中国では孫文の後を蒋介石が継ぎ、国民政府軍が北伐(中国革命で中国北部の軍閥勢力を平定すること)を開始して、華北に進出した。田中内閣はこのため3回に及ぶ山東出兵をおこない、東京で外交・軍部関係者を集めて東方会議を開き、満蒙の利権を死守することを確認した。これに基づいて政府は満州の実力者張作霖と交渉し、満州の権益の拡大を図ったが、張は応じず、関東軍は張の乗る列車を爆破して暗殺した。関東...
  • 毎日新聞
    ...)の一角に数えられ、関東大震災も大毎のバックでこれを乗り切った。震災報道では朝日陣営の後手に回ったが、報道そのものは東京日日の方が評価が高かったとされる。この後、東都新聞界は大阪資本の朝日・東京日日の二強体制となり、1929年には『國民新聞』主筆の徳富蘇峰が移籍。1936年には『時事新報』を合同した。1939年東京・有楽町に完成した新社屋には当時東京でも珍しいプラネタリウム「東日天文館」が設置され、壁面には電光ニュースがまたたいたこの天文館は1951年、ラジオ東京(現在のTBS)のスタジオに転用された。。 1943年、題字を『毎日新聞』に統一。名実共に全国紙となった。 紙面・論調 朝日新聞は左派、読売新聞、産経新聞は右派など、他の全国紙は紙面の論調がはっきりしている中で比較的中道・リベラルの論調で知られている(一例http //www.j-cast.com/2008/07/...
  • 関東軍
    Template 軍隊資料? 関東軍(かんとうぐん)は、大日本帝国陸軍の総軍の一つ。 概要 Template 日本陸軍? 南満州鉄道附属地警備を目的とした守備隊が前身で、1919年(大正8年)に関東軍と改称する。司令部は当初旅順に置かれたが、満州事変後は満州国の首都新京(現・吉林省長春)に移転。名称は警備地の関東州に由来する。 張作霖爆殺事件や満州事変の画策・実行は、20年代からの既存の国家外交安全保障戦略を、現地の佐官級の参謀陣が自らの判断で武力転換させたことを意味し、その後の太平洋戦争に至る日本の政治外交過程を大きく左右する端緒となった。 また、これら一連の行動は参謀本部・陸軍省等当時の軍中央での国防政策の指針からも逸脱しており、その後の陸軍内の「下克上」的な組織体質、「手続軽視・結果重視」といった軍の運用体質を作りあげていった、という批判もある。 また、...
  • 関東都督府
    関東都督府(かんとうととくふ)は、大日本帝国時代の遼東半島先端部の関東州を統治する機関。 概要 日露戦争後の1905年、遼陽に設置された関東総督府が翌1906年、旅順に移転・改組され関東都督府になった。 関東州の統治のほか、南満州鉄道株式会社の業務監督や満鉄附属地の警備も行った。 1919年の関東軍と関東庁に分かれるまで続いた。 都督 長官の都督は陸軍大将・中将から任命された。都督は「都督府令」を発し、禁錮1年以下又は罰金200円以下の罰則を科すことができた。 外務大臣の監督下で清国(後に中華民国)の地方官と交渉することもできた。 また、都督は軍人であるので、関東州駐屯軍司令官も兼ね強大な権限を持った。 歴代都督 関東総督 大島義昌 大将 (1905年10月18日 - 1906年9月1日) 関東都督 大島義昌 大将 (1906年9月1日 -)...
  • 大日本帝国憲法
    ...に小田原に移築され、関東大震災で焼失しているため現存しない。夏島の跡地には、明治憲法起草地記念碑が建てられてる。また、のちに伊藤が建てた別荘が野島に残っている(伊藤博文記念館)。 現行法制度との関係 大日本帝国憲法は、第73条に定める改正手続を経て全面改正され日本国憲法となる。日本国憲法は1946年(昭和21年)11月3日に公布され、1947年(昭和22年)5月3日に施行された。 大日本帝国憲法の下で成立した法令は、日本国憲法98条1項により「その条規に反する」ものについて、同時に失効している。また、同条の反対解釈により、日本国憲法の条規に反しない法令は、日本国憲法の施行日以降も効力を有する。効力を有する場合、法律は法律として扱われ、閣令は内閣府令として、省令は省令として扱われる。勅令は、法律事項を内容とするものは暫定的効力を認めた後失効させ、法律事項以外を内容とするものは...
  • 関東軍特殊演習
    関東軍特殊演習(かんとうぐんとくしゅえんしゅう)とは関東軍が1941年(昭和16年)7月7日に満蒙国境警備、ソ連軍侵攻阻止を名目に約70万の兵力を満州国に派遣したこと。事実上の対ソ連戦争準備行動であった。略称として、関特演(かんとくえん)が使われる。 戦争準備行動 1941年6月22日に開戦した独ソ戦に対し関東軍首脳部は日独伊三国同盟に基づき対ソ戦を主張、ドイツ軍と協力して東西からソ連軍を挟撃しようとした。しかし、大本営や閣僚、東条英機陸軍大臣をはじめとする軍部はアメリカによる経済制裁によって生じた石油備蓄量低下を理由に南方資源の獲得、日ソ中立条約破棄によるソ連軍との全面戦争の勝機が薄い事を理由に南方進出を支持。だが近衛文麿首相はノモンハン事件で証明された関東軍の現有兵力(九五式軽戦車、軽装甲車等の車輌約90輌、航空機約50機、兵員約28万名)では戦力不足と判断、満州工業地帯の防衛が困...
  • 読売新聞
    ...させた。1923年、関東大震災の襲来にともない経営不振に陥った読売新聞は、中興の祖、正力松太郎の手に委ねられる。 正力松太郎は、品川主計、小林吉政などの警察官僚をさかんに経営・販売に迎え入れ、「警察新聞」化をすすめる一方、アメリカのハースト系新聞社のイエロージャーナリズムにならい、警察ネタとセンセーショナルな記事を結合させる独自の紙面作りをおしすすめた。とくに、暗黒街の取材に関しては他紙の追随を許さず、戦後は、原四郎社会部長の下、読売「社会部王国」を築き、「読売の在野精神」とよばれ、「庶民感覚」に根ざしたリベラルな論調を展開した。これは、絶対的な権力をもつ社長・社主の正力松太郎自身、自民党の政治家でありながら、社論に容喙することが少なく、また「販売の鬼」「販売の神様」と呼ばれた後任社長務臺光雄も、新聞の心臓部である編集に口を差し挟まなかったことが大きい。 1979年、渡邉恒雄論説...
  • 若槻禮次郎
    Template 日本の内閣総理大臣? 若槻 禮次郞(わかつき れいじろう、新字体:若槻 礼次郎、慶応2年2月5日(1866年3月21日) - 昭和24年(1949年)11月20日)は、日本の大蔵官僚、政治家。第25代および第28代内閣総理大臣。男爵。旧姓は奥村、幼名は源之丞、号は克堂。 生涯 生い立ち 松江藩の足軽奥村仙三郎の次男として生まれる。奥村家は極めて貧乏であり、内職のようなことをしてようやく生活していた。幼少の頃はまだ帯刀であり、木刀一本腰に差して寺子屋に通う。 小学校を出ると漢学塾へ通うが、1年後やめて教員伝習校内変則中学科に入る。しかし家が貧乏で、学資が続かず在学8~9ヵ月にして中学をやめ、しばらくは家にいて山へ薪を取りに行ったり、家事の手伝いをしていた。 16歳のころから3年間程、小学教員をする。司法省法学校が官費で生徒を募集することを知り、飛び立つ思い...
  • 帝国大学
    帝国大学(ていこくだいがく)とは、1886年(明治19年)に公布された帝国大学令によって設立された大学のことである。以下のように、1校のみの時期はその大学の名称として、2校以上になってからは大学群の総称として使われた。 1886年~1897年:日本唯一の大学であった東京大学(1877年設立)が帝国大学令に基いてつけられた名称。 1897年~:帝国大学令に基いて設置された複数の大学群の総称。最終的に、内地に7校、外地に2校設置された。 概要 帝国大学は、前身となる高等教育機関を改組・改称して設置され、後に学部を新設したり、他の高等教育機関を包摂したりして、日本で有数の、あるいは各地域を代表する総合大学となっていった。 大正時代まで、卒業時、学科ごとに最優秀のものには天皇から恩賜の銀時計が下賜された。1886年(明治19年)には、卒業生のクラブとして学士会(本部・東京都)が設けられ...
  • 満州事変
    Template Battlebox? 満州事変(満洲事変、まんしゅうじへん、Manchurian Incident)は、1931年(昭和6年)9月18日に奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、関東軍(大日本帝国陸軍)が南満州鉄道の線路を爆破した事件(柳条湖事件)に端を発し、関東軍による満州(現中国東北部)全土の占領を経て、1933年(昭和8年)5月31日の塘沽協定成立に至る、日本と中華民国との間の武力紛争(事変)。関東軍はわずか5ヶ月の間に満州全土を占領し、軍事的にはまれに見る成功を収めた。中国側の呼称は九一八事変現在柳条湖の事件現場には九・一八歴史博物館が建てられている。この博物館には事件の首謀者としてただ2人、板垣と石原のレリーフが掲示されている。。 この軍事衝突を境に、中華民国東北部を占領する関東軍と現地の抗日運動との衝突が徐々に激化した。日本では軍部が発言力を強めて日中戦争(1937...
  • 日満議定書
    日満議定書とは、1932年9月15日に日本国と満州国の間で調印された議定書。 日本側全権は武藤信義陸軍大将(関東軍司令官)、 満洲国側は鄭孝胥国務総理。 議定書の調印による取り決め事項 議定書の調印によって、下記の事項が取り決められた。 また同時に補足条約ともいえる書簡の交換も行っている。 いずれの事項もこれまでの協定の確認にすぎず、どちらかといえば「両国間の合意事項の世界への公式表明」の色が強かった。 議定書の内容 この議定書で交わされた約定は主に、 満洲国の承認 満洲での日本の既得権益の維持(関東州は租借地として継続して日本の直接支配下) 共同防衛の名目での関東軍駐屯の了承 の3点である。 交換書簡の内容 過去に交わされた下記の文書について、引き続き行使する事。 1. 1932年3月10日に満洲国執政(溥儀)から送付され、5月10日に関東軍司...
  • 国定教科書
    Template Battlebox? ソ連対日参戦(ソれんたいにちさんせん)とは、当時の満州国において、1945年8月9日深夜から開始された、大日本帝国の関東軍とソビエト連邦の極東ソビエト連邦軍との間で行われた満州・北朝鮮における一連の作戦・戦闘と、大日本帝国の第五方面軍とソビエト連邦の極東ソビエト連邦軍との間で行われた南樺太・千島列島における一連の作戦・戦闘、ソ連軍が圧勝した。 名称 日本の防衛省防衛研究所戦史部ではこの一連の戦闘を「対ソ防衛戦」と呼んでいるが、ソ連では主戦場が満州であったこともあり、「8月の嵐作戦」、「ソ日戦争」または「満州の戦い」と呼ばれることが多い。ここでは日本の歴史教科書でも一般的に用いられている「ソ連対日参戦」を使用する。 背景 19世紀のロシア帝国の時代から日本は対露(対ソ)の軍事的な対決を予想し、その準備を進めてきた。ロシア革命後もソ連は...
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