ただ、俺は普通に暮らしていれば、それでよかったのだ。
ただ、俺は一緒に生きていられればよかったのだ。
それだけで、よかったのに。
求めた日常は、全て俺の手から零れ落ちていった。
崩壊の霹靂は、きっと妻が姿を消したあの時から。
今思えば、前触れはあった。
けれども、当時の俺なんかには気付けるはずなどなかった。
あの頃は、ただの一般人だった。
これが言い訳になど、為るはずがないのに。
全てはそこから、狂っていった。
気がつけば、一人娘も俺の手から零れ落ちた。
狂っていたのだろう、狂っていたのだ。
零れ落ちたのではない、自分から手放したのだろう。
けれども、あの時の俺には何一つ理解できなかった。
純粋に、どこまでも狂っていた。
あの時の狂気こそ、終わりの引き金。
殺してやりたい、自分の事だが反吐が出る。
だが、あれが無ければ俺はここまで至れなかっただろう。
殺してやりたい。殺したいが、殺したい以上に感謝もしている。
でなければ、こうはなっていなかったから。
ただの人間が、人間の壁を超えた存在に為るには、血の滲むような思いをしなければならない。
ただの警官如きが、今まで関わり合いにならないだろうと思っていた、対岸の火事だと思っていた存在に為るという事。
それは、地獄のような日々の幕開けだった。だった、けれども後悔は無い。
初めて握った剣は重かった、若々しい体とは言え厳しい重量だ。
振り回すだけで、疲労はすぐに溜まっていった。翌日は体が鉛のように動かなくもなった。
それでも続けた、徹底的に続けた。警官としての仕事も続けた、生きるためにも金は必要だったから。
皮肉なことに、贅沢さえしなければどうにかなるだけの身銭もあった。警官としての稼ぎだけではどうにもならない道具も、手に届いた。
思い出す度に、自分を殺したくなった。けれども、今は贖罪が何かを成す事は無い。悔いる事が意味を結ぶ事は無いのだ。
ただ剣を振れ、剣に触れ、剣と成り、剣を為す。心は刃の如く研ぎ澄ませ、練磨した。
以前は躊躇った最前線任務にも、貪欲に食らいついた。凶悪犯の鎮圧も、自ら買って出た。
少しずつ、自分が知らないナニカに成るのを感じていった。
手柄は瞬く間に増えていった。勲章は山のように積み重なり、止まない賞賛が浴びせかけられた。
気がつけば俺は署の頂点に立っていた、この身は既に人の限界を超えつつあった。
ただその位置が虚しかった、俺が望んでいた相手からの賞賛は手に入らないとわかった。悲愴が俺を貫いた、涙はとうに枯れ果てた。
暫くはその位置に甘んじていた、けれども望む最前線からは遠ざかった。
わけもない、顔を傷つけたがる組織など無いのだ。
顔になって初めてわかった、この体は節々が腐れていることを。蝕まれて、蝕まれ慣れていた。
この穢れは排さねばと思った、僅かな贖罪でも今は俺の心を慰めてくれた。
けれども穢れ既に癌となっていた、俺の手には余り過ぎた。
何も出来ない無力を噛み締めた、ただの力だけではどうしようもなかった。既にこの署で俺に物理的に敵う相手などいなかったが、これには俺も敵わなかった。
ただの殺人鬼に堕ちる事は認められない、そこまで堕ちれば俺は全てを失ってしまう気がした。
この場所に俺が望む全ては存在しなかった、俺はこの署を後にした。
惜しむ声は多かったが、そんなものはどうでもよかった。望む声は聞こえなかった、それだけが俺を突き動かすのだ。
俺は傭兵に身を窶していた。この身は既に人の限界をとうに超越した場所にある。
こうして人外へ至った時、視界は大きく広がった。此処まで至らなければ見えないものが沢山あった、それでも俺が目指す場所は遠かった。
受ける依頼は吟味した。あらゆる情報を掴んでから、義に反するものならば頑なに拒んだ。
忠義に値する相手からだけ雇われた、そうしている内に俺は大きな後ろ盾を手にしていった。
名のある貴族とも顔を合わせ、時に名君となるであろう者達とも出会っていった。
内面は既にズタズタだった、それでも外側だけはいつも綺麗に保っていた。
ただ数年の間、大切なものを失った事実だけが内側を支配した。狂って狂って、それでも目標を見定め続けた。
今日も俺は戦場に立つ、殺すべき相手は卑劣な侵略者だ。俺の心は今この時に刃となり、全ての悪徳を引き裂くのだ。
一人も逃してはならない、種を芽吹かせてはならない。一つだけの種火は灯火へと育ち、いつしか大きな篝火となるのだ。
悪徳を斬る度、心は鉄に成っていった。正義の代行者を気取るつもりはない、ただ強くなるために。
そうして俺は、戦鬼レイディオと呼ばれた。
これは、俺の数多ある二つ名の一つだった。
心底どうでもよかった、この頃の俺は強さに行き詰まりを感じていた。
新たな力を求め、俺は傭兵を廃業し、また違うナニカへと身を窶した。
最終更新:2024年04月11日 03:29