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トップページ - (2009/10/20 (火) 06:29:32) のソース

&bold(){一、縁 起}

- 本寺の起源を古書に求むれば、遠く元慶の古と伝ふるも詳ならず、其の後しばらくして玄明律師なる行者の創立になると伝ふ。
- 当時は吉野屋敷佐藤氏の菩提寺として、保呂羽院之沢に建立され天台宗三文寺と称せられしが、同氏の庇護途絶えたる時廃寺になりしと云ふ。
- 其の後嘉慶二(二二八八年ー六一五年前)年、藤沢本郷藤勢寺に、第九十代亀山天皇第三の皇子一品式部 常盤井恒明親王第四の御子尊観法親王御法体とならせられ、本山第十二世として遊行廻国の途次、この廃寺を訪れ之を再建し、]宇を建立宗旨も時宗に改宗寺号も長徳寺と改められ弦に本寺の基定まれり。
- 其の後不明の儘百七年を経て永正九(一五]二年ー四九一年前)年、大織冠藤原鎌足公二十世の後胤佐藤忠信より六代の嫡孫羽州入沼の城主同苗信顕五世の末孫豊後守信重この地に下向、采地百余町を以って陣ケ森城主たり。其の五男信基薙髪して慈阿弥と号し、父信重本国廃寺の本尊慈覚大師御作三容の霊佛を守護し奉りしを当庵に勧請安置し奉り、永代檀信徒の守本尊となせり。
- この後百余歳戦国末法の争乱を経て江戸徳川の治世に及び、寛永(一六二四年-三七九年前)以後大籠切支丹信者の国主伊達氏の大量弾圧に遇ふや、其の転宗を本寺に求め弦に檀家の急増を促し、更に天和二(一六八二年-三二一年前)年大保木(大宝城)屋敷千葉長三郎有志と計り、院之沢の地を手狭と風当りの故を以って釜ケ林の地と替山し、冨袋沢に新たに堂宇を建立移転し、もって山号不退山合掌院寺号長徳寺と号せり。
- 院之沢の旧寺跡には今尚礎石の累々たるを見、且旧寺の糸欄間はこれを取外し新寺に取付けその名残を止むるも後年一部を残し現在の欄間にに入替えられたり。
- 降りて享保十(]七二五年-二七八年前)年三月大柳屋敷岩淵宗貞の発意に依り庫裡並びに山門の造営さるるや、鳥之沢川(雉子川)を渡り山門に達する敷地は下返矢屋敷山口兵四郎の寄進によりたり。
- 又牛頭天王の併せ祈られたるも此の間なりしも文献口碑共に伝はらず、尚亦掛鐘一本、柳林屋敷大工与左エ門の寄進なる事記録に残りしも、その年代の記載なきに心残れり。
- かくして明治維新に及び、神仏分離令により牛頭天王は分離せしめらるるも後年これを回復、更に大般若経六百巻中三百巻を保呂羽神社より移譲されたり。
- 顧みるに尊観法親王法燈を掲げられてより弦に六百十余年、慈阿弥開山以来四百九十三年に垂々とす。更に不退山と示号後も三百年を欠く事わづか二歳、灼熱酷寒の三百年基盤は弛み伽藍傾けり。
- 昭和二十七年先住歓阿直山師屋根を改造せるも既に頽勢蔽い難く、先年檀越篤信の人々の喜捨によりて伽藍建築に着手し基盤拡幅等造営一切を、昭和五十四年を以って竣工、名実共に近隣に比肩し〓かも遜色なき伽藍の完成を見たり、且造営に当りては須弥檀来迎柱等の内陣一切は旧の儘再使用し、まして糸欄間にいたりては再三に亘りこれを使用、その意三世に変らぬ弥陀の慈愛を伝えてまこと遇然にして真妙なり。就中欄間の彫刻に及びては山口求順作と伝える事署名の出現によりて其の確認を得しを望外の喜びとなす。時に享和二(一八〇二年ー二〇]年前)年の事なり。
- 本堂に額き首を廻せば山門を越えて仰ぐ白雉の山のいや高く遠く元慶の古を伝え、西方に転ずれば陣ケ森の山裾長く雲霧に消え、はるか雲外の頂きに須川の山雪をのぞむ、束刈萱の連峯安道の孤を描いて大峯の尾根に馳せ南へ延々千松の溪邑に至り、更に越ゆれば雲煙万里の彼岸に達すべし。この無辺の間に檀家相寄り適所に散在して二百と八十有余、その深く限り無き慈愛の輪廻とことわに変る事なかるべし。時にその盛衰免れずともひたすら宗祖]遍上人の御訓えに帰依し、永劫変らざる檀徒並びに檀越篤信の衆生の護持により弦に累代二十三世を算え現在に至る。
- 平成二十年十月三十日、遊行第七十四世真円上人を迎え晋山式・庫裡落慶法要会修行にあたり寺暦をたどり謹みて縁起となす。
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