宗教論
生きるとは何かを考えたとき、それは非常に難しいために説明のつかないもののような気がします。しかし、少し見方を変えれば実は簡単なことではないでしょうか。
生きるとは、ほとんどの人が生きていると感じる状態のことです。人や動物(生物)が活動して生きているとほとんどの人が感じれば、それが生きているということです。
生きているということは、何かもっと根源的で揺るがない事実に基づくもののようであります。
しかし地球人以外の知的生命体(イルカ、猿は除きます)の存在が確認されていない今、生きるとは何が決めるかと言えば、人に他なりません。
ほとんどの人が生きていると感じるための条件が具体的に何かを特定するのは、脳死判定の問題に代表されるように簡単ではありません。
そこで敢えて抽象的に表現して「生きるとは、ほとんどの人が生きていると感じている状態を言う。」とすれば、これは異論がないでしょう。
繰り返しますと、生きるとは人が決めるもので、その意味で決して難しいものではないということです。
宗教の大きな目的の1つに「人はなぜ生まれ、生きて、死ぬのか。」という問いに万人に通用するように答えるというものがあります。
公平に言えば、遠い過去からすべての人が持つ問いでありながらそのあまりの難しさに、科学や哲学が事実上その問いに答えることを諦めた中、人の高位の存在である神に理由を求めることができる宗教に答えを託されたのが現実のように思えます。
しかし、科学が多いに発達した現代において、古来よりのたくさんの人々の努力にも関わらず神様や天国の存在を示す確かな証拠は見つかっていません。このような場合、科学的に言えば神様や天国は存在しません、ということになります。
宗教と言えども現代にある訳ですから、多くの宗教は現代科学を認めており、現代科学にも立脚した上で「人はなぜ生まれ、生きて、死ぬのか。」に答えることに成功した宗教はありません。
この問いに答えるには、恐らく科学・哲学・宗教あらゆる人類の叡智を結集する必要があり、あと10世紀は少なくとも掛かるのではないでしょうか。
なぜ水が上から下に落ちるのかは、様々な方法で明快に説明できる自然な事実です。他方、なぜ生きるのかの説明が非常に困難ということは一般的な自然現象に比べていかに”不自然”な事実であることを示していると言えるでしょう。
幼少の頃の人は、生存本能と親に保護によって生きます。身体を育てる物は快感として、身体に障害をもたらす物に対しては痛みや苦味として、認識されます。これを生存本能と呼びましょう。人は心身共に成熟していく過程で、快感に身をゆだねるだけでは社会的立場が危うくなることを、苦痛に耐えることが社会的立場を確保する術になりうることを知り、中脳や延髄にあたる生存本能を大脳にあたる知性が克服、あるいは駆逐していきます。
人が認識する世界は、恐らく動物が認識しているような目の前に水がある仲間がいる敵がいるという世界ではなく、人がつくりあげた社会です。動物であれば、自分が今川辺にいるのか、仲間が近くにいるのか、敵から離れているのか、といった居場所が恐らく最も重要です。人であれば、学歴があるのか、どんな職業についているのか、家族はいるのか、といった社会的立場(=居場所)が最も重要です。このために人には知性が最も重要なものになります。これは頭の良し悪しの話ではなく、人の特性の話です。
人の特性である知性は、脳の機能の現れです。そして脳の機能は、「Aだから(ならば)B」の組み合わせです。
<例>歩きならば遅い、電車ならば早い。こういったものです。これを読まれた方はその他の文はともかく、例の文だけはすっと頭に入ったのでないでしょうか。それは脳の最も基本的でそのために最も得意な機能だからです。
知性は、人類という生物種のダーウィン進化論的な生存戦略です。
この知性の長所でもあり弱点でもあることが、「なぜ」を問わなければいけないことです。
動物が食べ物を探すのに理由はいりません。彼らは食べ物を探すこと自体には何の迷いもないでしょう。
しかし、人が食べ物を探すのには理由がいります。普段は改まった理由など要りませんが、ダイエットを経験すれば、その後はなぜ食べ物を探すのか問わないままに一生を終えることはできないでしょう。これは、ダイエットという不自然な行為も理由付けができれば実行できるがゆえの、まさに代償です。
上記を踏まえた上で話を元に戻すと、人は生きる上で、人の基本的な特性ゆえに、「なぜ生きるのか」の問いを迫られます。
先に挙げたように宗教に答えを求めるというものがありますが、現代科学を信じる現代人にとっては全面的に宗教に心身を預けるという選択は難しい面があります。
ここでは宗教に答えを得られなかった場合の指針を可能な限り示したいと思います。
①生きる理由を問わずに生きる。
②生きる理由を問うが、絶対的な答えはないので、自分のための答えを自力でつくる。
③として、生きる意味を問うた上で、答えのないまま生きるというものもありますが、厳密な意味でこれを実行できる人は恐らくいないので省きます。それは人の精神的な大きさで許容できるという次元ではなく、人の基本的な特性に反するものだからです。何かを行動する上で自覚的に理由を求めて、感覚的なものや暫定的なものですら自らの答えのないまま実行できた人はいないでしょう。
最後に、仏教にもあるように生きることは本質的に辛いことです。生きることにどう向き合い対処するかが、全ての生物に求められているでしょう。
最終更新:2009年11月29日 04:07