世界観論
- 世界観として哲学的世界観と一般的世界観を論じます。
世界観と言うと哲学を想像する傾向があるやに思いますが、決してそれだけではなく、むしろ哲学の世界観は一部と言うべきです。
哲学にほとんど興味のない一般的な人が思う世界は世界観と一致します。
- 万学の祖は哲学であると言っても過言ではない部分があります。
しかしながら哲学は、一般的な生活にはほとんど必要のない、あるいは余計なものとされている側面があります。
例えば、日常で認識論を語ったり、形而上学的な意味について語ることはありません。
- この原因は、人類社会が人が手に追いかねる事象を極力追い出して作られているからと考えられます。
ビルを建て都市を作ることは、人の手に負える範囲で世界を完結させようとする試みと捉えることができます。
- 一般的な世界観については、廣松渉の四肢構造的認識論によって大衆雑誌を解釈するのが良い例と思われます。
以下乱暴な表現になりますが、四肢構造とは、主観-客観をそれぞれリアルとイデアルに分けたものです。
主観とは読者であり、そのリアルは「私としての私」であり、
そのイデアルは「社会的役割としての私」です。ここでは、「その雑誌読者層としての私」です。
客観とは雑誌であり、そのリアルは「紙媒体としての雑誌」であり、
そのイデアルは「読者の世界観を表現する物」です。
この解釈から分かることは、一般的な世界観は主体者(読者)と支援者(編集者)によって、
明確な意図をもって作られるということです。
- 以上のことから、哲学は万学の祖の側面を持ちながら、世界観を否定する性質を持つがゆえに、
完成度の高い人類社会からは疎外されてしまう宿命を持つことが分かります。
最終更新:2010年07月19日 22:47