彼女は人を待っていた。
待たせている彼は、もう何年も帰ってこない。
彼女は連絡のひとつもしない彼のために、隣を常に空けていた。
誰にもその場所を渡さなかった。
「師匠、どうしてるんだろう」
彼女の師は行方が知れない状況にあった。
「これが答えだ」
そう言って彼女の告白に婚姻届を渡した彼は、そのまま修行に出掛けてしまった。
それから帰ってきたら結婚する、とも言ってくれた。
しかしその彼は、彼女の知る何処にもいない。
婚姻届は受け取ってすぐに書いてしまっていたし、泡を吹く父を放置して母に承諾も貰っている。
なのに、彼だけがいない。
だから彼女の記憶にある彼はあくまで『師匠』でしかない。
『恋人』でも、ましてや『婚約者』でも、ない。
既に、彼女は二十歳を迎えようとする年頃に差しかかっていた。
一番の時期を、何処かにいるであろう師を思うことに費やした。
父は諦めろと言っている。
あの、母にも負けないくらい自由な人を繋ぎ止めておくことなど出来やしないからと。
それでも、彼女は彼を忘れる事なく生きていた。
待つという似合わない行為にも、甘んじて堪えて。
彼女の誕生日は間もなくやってきた。
桜の花咲く、風の強い日。
彼女は一人、公園に花を見に来ていた。
風に舞う花はどこか悲しくて、受け止めたひとひらの花弁を彼女はまた風に流す。
桜は美しいのに、彼はいない。
「師匠」
忘れそうになるその響きを、久方振りに舌に乗せた。
「桜は、綺麗ですよ」
師にその台詞が届くなら、そう思い口にする。
『しからばよし』と、あの声が聞こえてくるような気がした。
懐かしさに彼女はくすりと笑う。
懐かしい。
懐かしい、という形容に思い当たって、彼女はふと表情を陰らせた。
そう思う程に、彼の気配を、声を感じていない。
現実が冷たく彼女を覆った。
「何で、こんなにも私を一人にしておくんですか」
最後の方は、知らず我慢していた涙にかき消されて自分でも聞き取れないほどの小さな声になった。
「あぁ、ごめん」
緊張感も罪悪感もないような声が、上から降ってくる。
彼女は弾かれるように顔を上げた。
涙は花よりもすぐに散って、落ちる。
季節を無視した半袖の、灰色の服。
黒い袖無しのベストを羽織ったその格好。
そこから覗いた腕。
幾つもの傷やそれに見合う力はあるけれど、意味もなく人を傷付けたりもしないその腕。
背。
それほど姿勢が良い訳でも特別背が高い訳でもないが、あっさりと困難や障害に屈する事もないその背中。
今の彼女が寄りかかっても余りある、広い背中。
「師匠」
うい、と己己己己は片手を挙げてみせた。
「師匠」
一歩ずつ、真実かどうか確かめるようにゆっくりと近付く。
その間にも、花は散っていた。
先の声は、幻聴などではなく、もしかして、本当に。
「師匠」
「うん」
「私、すっごく待ったんですよ」
「ごめんよ」
「心配したんですから」
「そっか」
「私、老けちゃいました」
「僕には見えない」
「師匠!」
彼女は飛びつくように、大好きな師に抱き着いた。
その懐かしい気配を、匂いを、幸せと同値だと思う。
何年も封印していたとびきりの笑顔で、彼女は彼を見つめた。
「お帰りなさい」
寮の片付けから逃避して師匠攻略完了後。
普通のハッピーエンドには絶対になるまいと思い書きました。
師匠は何歳だ、とか煙草は吸うのか、とか色々まだ考えています。
二十歳になるまで待っていたのは師匠の方だったのかもしれません。