不偏的距離

 あたしはリップクリームになって
 あなたのくちびるをまもりたい
 日ざしからも寒さからも乾燥からも
 あなたのつまのくちびるからも
   「あたしはリップクリームになって」
   (江國香織『すみれの花の砂糖づけ』)

「少々お時間、宜しいでしょうか」
 またか。春夏秋冬牡丹は無感動にそう思った。相手は女性。思い詰めたその表情から察するに、夫の遊び相手、といったところか。勿論、飲みに行ったりするだけでなくそれ以上の関係だろう。
「今忙しいので、すみませんがアポを取ってからにして下さい」
 帰って下さいということも出来たが、社員らの目を意識してそう言った。女性は狼狽えもせず一礼してどこかへ行く。それを見送って、牡丹は小さく息をついた。あの馬鹿。
 牡丹が昼食を摂りに社外へ出ようとすると、表口近くのソファに座った女性に呼び止められた。あの女性だ。こちらを認めると迷いなく歩み寄る。牡丹を待っていたとおぼしい。
「上司の方に掛け合って、お時間を頂きました」
 面倒な女だと牡丹は呆れる。だがしつこい人はもっとしつこいのだ、諦める外はない。こうなってしまえば祈ることは我が身の安全だけだ。下手に逆上され怪我でもしたらつまらない。
 牡丹がパスタを食べる間も、女性は珈琲に手をつけないままじっと牡丹を観察していた。猫が獲物を狙うようだ、しかし女はそういうものなのだと彼女は経験で分かっている。品定めされている、あの男に見合った女かどうか。食後の珈琲が牡丹の前に運ばれてくるまで、女性は神話の彫像のように固まっていた。
「別れて下さい」
 敵を見る目で牡丹を睨みつけ、女性は言った。その物言いから、この人は行動力こそあるが仕事は出来まい、と牡丹は判断出来た。変な話だが、夫の不倫が多いことに慣れてしまうとこういったところからその人物の出来不出来が見えてくるようになるのだ。その意味では牡丹は黝織に感謝しないこともない。
「あの人と、別れて下さい」
 黝織にとってみればいい迷惑だろう。ただの遊び相手、それも一夜妻のような人間がそのようなことを自分の妻に言ってくるなど。だが女性は至極真面目に牡丹の顔を見つめている。同じことを意味もなく二度繰り返すことも、こちらの台詞を待たないところも、牡丹の神経を逆撫でしているとは思っていないのだろうか。そこまで頭が回らないのだとしても牡丹の敵にしてはお粗末だった。
「何で」
 キャリアウーマンとして培ってきた自制を牡丹は巧く活用する。苛つきを外に出せるのは学生時代までなのだ。彼女は抑制する力を完璧に身につけていた。時折口調が横柄になってしまうところまでは変わりきらなかったようだが。
「私、妊娠しています」
 無表情にちらと女の顔を見るが、牡丹のしたことはそのくらいである。最初に黝織と出会った時のことを回想し、対面する女性と自分達との差を牡丹は思った。
「俺と付き合わないか」
 彼の会社との会議の後だ。仕事の話が終わり、役員らで酒宴になだれ込んだのだった。隣に座った黝織が何気ない様子でそう言った。大分飲んだにも関わらず、酒で毒された様子はない。左に座った彼を見て、それまで黙ってちびちびと酒をなめていた牡丹は口を開く。
「いつからいつまで?」
 ビジネスライクであるという点で二人は似ていたのだ。それを仕事の姿勢から見抜き合い、そうして各々は恋人であるという称号を手にした。爪の先程の色気もなかった。彼を放って見合いに出たところ当の黝織が相手だった時には笑ったし、都合良くそのまま結婚した。契約も続けてきたし、これからも続けていくだろう。愛情による結婚ではそれぞれ巧くいかないとどちらもが理解していた。お互い以外との恋愛も禁じてはいなかったし、結婚に支障の出るようなものにはしないというのが不文律だ。
 だから女性が妊娠しているという言葉が嘘だということは分かっていた。そのような失態を犯せば破滅だ。仕事なら首になる。狡猾な上に頭のよく回る黝織はそのような手落ちをしない。それを誰よりも知っている牡丹に、動揺の色はどこにも見えない。反応しない牡丹に苛立った女性は彼女に詰め寄る。
「別れて下さい」
 鸚鵡のように繰り返す女性が滑稽で、くっと喉の奥で牡丹は嗤った。なにがおかしいんですか、そんな叱責の声も最早笑いを増すものにしかならない。客の視線が自分達を見ていることも気にならない。この状況を楽しんでいる自分の不埒さと破滅的感情も、黝織と同じなのだと知った。けれどもそれだけの価値がこの女にあるとは思っていない。
「嘘ばっかり」
 憤った女性は会計の紙をひったくるように掴んだ。何事か捨て台詞らしいものを叫んだようだが牡丹は自らの笑い声でそれを耳にすることはない。ひたすら笑った彼女は笑い終えると、浮気もいいものだ、と少しだけ思った。

最終更新:2009年01月23日 22:45