腕を貰った。
それは春夏秋冬黝織の右腕で、彼自身は既に死んでいる。しかしその手は生きていて、雪浅緋はその生物を受け取ったのだ。色とりどりのチューブが幾らも繋がったそれは最早生命を感じさせるものではなかったが、ぴくぴくと動く様を見て、浅緋は不思議に頷いたのだった。
黝織の死に関して、浅緋は詳細を知らない。特に知りたいとも思わなかったが、彼のことだから四散したとか行方知れずになったとか、そういったことだろう。腕など受け取っても嬉しいとも思えないしましてや不気味でさえあるのだが、彼は律義にタオルでそれを包むと丁寧に持ち帰った。黝織の妻、牡丹は昼休みに浅緋のところにやって来、無造作に腕を置いて帰った。右手だけは浅緋に渡して欲しい、というのが黝織の要望だそうだ。
鞄の内の腕を考えながら電車に乗っていたら、何も告げないまま家の前まで帰って来てしまった。浅緋はそこで立ち尽くす。妻にどう説明しよう。だが今更電話を掛けることも出来ない。彼は家に入り李乃と笑みを交換すると、食卓に着いた。
「腕を貰ったんです」
「腕、ですか」
李乃は皿を浅緋の前に置きながらも、彼を見て問うた。料理を一口食べてから、浅緋は頷く。気味の良い話ではない、それでも早めに説明することが誠実であろうと彼は判断した。何でも暴露してしまうことは単なる甘えに他ならないと意識しながら。
「同僚の春夏秋冬さんが亡くなったらしいんです。それで、遺言により何故か私が腕を受け取ることになって」
賢明な彼女は追及しようとはせず、浅緋に気を遣ってか風呂を勧めると先に自室へ入って行った。妻の好意を有難く頂戴した彼は部屋へ入ると、後ろ手に扉の鍵を掛けた。あの彼と二人きりになるということとは違っていたが、しかしそれと似たような緊張を浅緋は味わっている。これまでと違うのは、浅緋が自主的にそれを部屋へ持ち込み、二人だけの環境を作ったこと。やましいことはこれまでに数え切れないほど黝織と共有した。今その腕と、その腕だけと部屋に二人。一人と一本。どこまでが一人、なのだろう。
腕を鞄から出す。タオルをそっとめくり、その腕を見る。両手で抱えたそれは、浅緋にとってシュールに映った。こんな腕に翻弄されていたのかと、そんなことを考える。彼を惑わせた幾多もの要因が今やたったひとつになって無防備に浅緋の眼前にある。痛め付けようが放っておこうがそれすらも浅緋の自由だ。位置関係が全く逆になっていることに特別な感情が持てず、浅緋は首を傾げる。彼を好きにできるならともかく、自分はなにをしているのだろう。非現実的な状況が浅緋の行動力を奪っていた。
意志を持つようにそれが動き出したのは、浅緋がそっとその指先に口付けてからだった。
熱情はいつも指先から起こっていた。
彼の指から与えられるように、温度を移される。
なにが起きているか認識するのは最早愚かしかった。何故たった一本の腕が浅緋を執拗に弄ぼうとするか、それは指の本能とでも言う以外はないだろう。どろどろと白く濁っていく意識の中、ああこの手だけは変わらないのだと強く思う。唇の端にたたえた微笑も、息だけで分かっているあの気配も、今は失われここにない。もうなにも分からない。なにも分からないくせに、指は同じ感触で同じ動きをしている。何て卑怯なんだと思いながら、彼は慣れた快楽に気を失った。
「浅緋、朝だよ」
まぶしさと振動に彼は目を開ける。そこには五体満足な春夏秋冬黝織が、肌に朝日を浴びせながら浅緋を目覚めさせようとしているのが見えた。自分はどうなっているのか判断すると、ろくに服も着ず寝ていたらしい。出張先の日常と成り果ててしまったこの光景に半分情けなく、半分恨めしく思いながらも身を起こす。形だけ礼を言って、痛む身体を無視してベッドから離れた。
シャツを羽織りながら黝織を振り返ると、彼は浅緋に背を向けシーツを戻すところであった。と、その右腕に、繋ぎ直したような線が見えた。夢で見た腕を、再びくっつけたような箇所に。
「どうしたの、浅緋」
まだ妖艶さを目元に宿したまま、黝織がこちらを向く。そのときには既に彼もブラウスのボタンを留め始めており、浅緋はただ首を横に振った。