知り慣らした嫌悪

 終わりは三度やってくる。

「明日は、会議で遅くなると思います」
 そう言って、ちらりと見上げる仕草。微かな視線の振幅。それが嘘をつくときの癖だって気付いた。けれどその目は澄んでいて、綺麗すぎて哀しくて。
「そうだ、なにか買って帰りますよ。なにがいいですか」
 かりそめの希望に触れる。優しい嘘に満たされる。硬くて冷たいけど脆い壁はすぐそこに横たわっていて、少しでもつついたら倒れてしまいそう。でも、ひとりで大丈夫。気付かない振りをすれば良い。私は貴方を、愛しています。
「浅緋さん」
「はい、なんですか、李乃さん」
 暖かい微笑みはやはり穏やかで、頼りないけれど包容力がある。私も微笑したまま、ゆっくりと返す。
「浮気はしないで下さいね」
 彼が背筋を凍らせたのが分かった。私だけを見ていてと、ただそれだけの願い。
「はい。分かっています」

 分かってる、なんてこの大嘘吐きが!(笑わないでそんな風に、笑わないで)

 狂うように、静かに死んでいけたら。何度そう願ったか知れないのに。なのに事実は痛くて残酷で、私の好きにさせてはくれない。ラブロマンスというものは基本的に都合の良い部分しか書いていないからそれでありうる。じゃあ、これは何?
「愛しています。好きですよ」
 その声さえ遠い。泣きそうな顔してなんて事を言うんでしょう、この人は。お好きなようになさればよろしいんです。私になんて構わないで。何て残酷なんでしょう、貴方は。残酷な言葉に染まってなお、私のことを気遣ってやまないなんて。月が欲しいと泣く子供のようにはいられなくて、綺麗に繕った感情だけを展示する。想像以上の音が降り積もって、内側は破裂してしまいそう。熱を頬張ったまま私はどこへ行くのでしょう。ねえ浅緋さん。
「浅緋さん、泣かないで下さい」
「泣くほどのことですよ」
 結局、人間というものはひとつになれません。だから不安は生じて、いつ別れようと言われないか怯えたり、傷を付けるのにその傷を舐めてみせたり。それがこれ見よがしであれば私も振り払えるのに、あまりに優しいものだからそう出来なくて。貴方の言葉を余すところなく反芻してみせることだって出来るのに、何の前触れも無い、たった今貴方はどこかへ行こうとする。想像できる限りの不幸を思い描いてみても貴方と私の間には相も変わらず穏やかな愛情が敷かれていて、貴方の心臓は1ミリたりとも動かない。愛情は揺らがない。貴方の心臓の音が聞きたいけれど、鈍感な貴方は抱きしめてくれない。今となっては、傷付けてしまうくらい必死になれば良かったと分かるけれど、臆病な私はそうさせてくれない。苦し紛れについた嘘は私に届く前に変質して真実をうっすらと伝える。
 私のことどう思っているんですか。そんなことは訊けない。答えは分かり切っているから、私が不満に思うのはそこではないから。幸せがどこにあるのかなんて、一生分からないままでも良い。どこに行ってしまったかなんて、もう知らなくて良い。いてくれるだけで充分だなんて、生ぬるい愛情はもう良い。汚らしくても見苦しくても、千年の穏やかな恋愛よりも激情が欲しい時もある。棘を求める時がある。嘘の味がする蜜を彼から味わうのは、いつだろうか。静けさに、一体になったと錯覚してしまうような期待。
 あの男のあの指が行き着く先を予想する。冷酷に酷薄に冷徹に薄情に傲慢に無感情にあの人を痛めつけるであろうことに憤りを感じながらも、うそつきの交わりに反吐が出そう。この世界は貴方を憎み殺そうとする。折ってしまおうかと思わせるその背中に手を伸ばす。流れる雨の音に、ひどく静かに心臓を抉られる。愛情なんて貴方がくれるなら他の誰からも与えてもらわなくていいのに。それなのに。

 言えないことも、あります。どれだけ貴方を好きかなんて、そんなこと。今になって覚えた狂うほどの恋情も、もっと昔に燃やしてしまって貴方にみっともなく縋り付けたら良かったのに。本当は直接、貴方に。

 貴方を傷つけるものを排除してあげます。(欲深い色魔の覇気なんて綺麗さっぱり)
 貴方を疎むものを忘れさせてあげましょう。(この世界のバグなんて灰も残さずに)
 貴方を蝕む事を全て溶かしてさしあげます。(つまらない契約も拘泥も私を守るための沢山の嘘も)

 翼は朽ちました。

 例えば、その嘘ばかりを紡ぎ出す指先であるとか。
 例えば、その感性豊かな背であるとか。
 例えば、その祈るように華奢な首元であるとか。
 例えば、その揺らめきの中で映える口唇であるとか。
 例えば、その表情を変える左右の目であるとか。
 例えば、その気の触れたような考え方であるとか。
 例えば、その細いままで伸びやかな声であるとか。
 例えば、その臆病に自らを蔑む言葉であるとか。

 愛していました。

 愛はその内沈む、ごぼごぼと音を立てて。そんな絶望の中で、私は。

 

 躊躇う足に言い付けて、玄関を開ける準備をしている。

                                fin.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まだ温かい浅緋の上に、李乃は跨がった。回る洗濯機を眺めるような感覚で夫の顔を覗き込む。猫がいたなら踊っただろうか、そんなことを考えながら李乃は初めて、浅緋の唇にキスをした。

最終更新:2009年01月23日 22:48