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虚妄の迷宮 - (2007/05/02 (水) 01:05:50) の1つ前との変更点

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自同律の不快 不合理故に我信ず。 我は何故に存在してしまったのであらうか。 知らず知らず自他の逆転の仮象に埋没して行く。。。 浮遊と落下 ――この浮遊感は何なのだらう。ふわふわと浮いてゐるやうでゐて、何故だらう、何処か底の知れぬ奈落へと落下してゐるやうな嫌な感じだけが脳裡を掠める…… さて、不意にお前は口に出したな、「許して下さい」と。お前は今、パスカルの深淵の真っ只中さ、へっ。 カルマン渦―断章Ⅰ 時間もまた流れる流体の一種ならば時間のカルマン渦も時間の表象に生滅してゐるに違ひない。その時間のカルマン渦の一つ一つが物の生滅を象徴してゐるとしたならばそこに見えるパノラマは将に諸行無常の位相の数々に違ひないのだ。 その時間のカルマン渦の一つにたゆたふ我はまた、ゆるりと流れ行く時間を味はひながら己の無常といふセンチメンタルな感傷に耽るといふ極上の楽しみを満喫せねばならぬいふ宿命を自嘲してゐる。。。 ――あっ、これが物自体の影絵なのか…… 瞼考Ⅰ この世の森羅万象は多分夢を見るに違ひないと思ふが、瞼の出現で多分夢といふものの性格が突然変異するが如く変質したに違ひない。 多分、瞼が出現する以前は闇なるものはその概念すら無く、漆黒の闇は瞼の出現と共に脳が創り上げた傑作の一つではないかと思ふ。 盲ひた人に尋ねると眼前には灰色の虚空が拡がっていると聞くが、さうすると、闇は視力のある人にしか見られないもので、闇の出現で夢は具象と抽象を行き来することが可能になったのではないかと思へるのであるが、さて、今夜瞼を閉ぢた漆黒の闇に出現する世界は我を我として受け入れてくれるだらうか…… 地獄問答 ――涅槃以外に輪廻転生から逃れられる術があるがお前には良く解らうが…… ――未来永劫に意識と感覚が自我に縛り付けられたままのあの世のことかね。 ――つまりは…… ――つまりは地獄さ。未来永劫自意識に囚われ続けなければならず、拷問の極致の中にゐ続けなければならない地獄…… ――未来永劫「私」でゐ続けられるのだからある種の人間にとっては極楽じゃないかね。 ――ふっ。それでお前は地獄に堕ちたのか…… 異形の我 フラクタル的に見ても地球と脳は自己相似を成してをり、仮に脳裡に浮かぶ仮象の一つ一つがこの世に存在する物の象徴としたならば、脳裡に浮かぶ仮象は異形の我の仮の姿なのかもしれない。深海に棲む生物の異様な姿は漆黒の闇の中で自らの姿を妄想し、棲む環境がさうさせたに違ひない。私の脳裡に浮かぶ仮象の海の奥底には私の知らない異形の私が必ず棲息してゐる筈である。中にはぬらりと仮象に現れてその異形を見せる奴もゐるだらうが、多分奴らの殆どは私が死んでもその姿を現さずに闇の中でひっそりとその登場の機会を窺ってゐる筈だ。 ――お前は誰だ。 ――ふっ、お前だぜ。 虚体考Ⅰ――寂寞(じゃくまく) 私の内界の何処かには風穴のやうな穴がぽっかりと開いゐて其処を一陣の風が吹き渡るときの寂寞感が何故か堪らなく好きであったのでその穴を「零の穴」と自身秘かに名付けてその穴について暫くの間詮索せずに抛って置いたのであった。 しかし、寂寞は一方で人間にとって堪らないものであるのは確かで私も次第にその寂寞に堪えられなくなったのは想像に難くない。 或る日、寂寞に堪えられなくなった私は「零の穴」の探索に取り掛かったのであったが、それを見つけるのに二十数年を要することとなった。 つまり私は堪え難い寂寞に二十数年間苦悩し続けたのであった。 ――あれか、『零の穴』は…… 其処は月面のやうな荒涼とした世界で「零の穴」は直径一メートルくらゐのクレータのやうであった。 さて、「零の穴」を覗き込むと音にならない音と言へばよいのか、何とも奇妙な寂寞とした音未満の音が絶えず噎び泣いてゐたが、「零の穴」は正に漆黒の闇また闇の底知れぬ穴であった。 暫く「零の穴」を覗いてゐると何度となく漆黒の闇にオーロラのやうな神秘的なぼんやりと発光する光とも言へない光の帯が「零の穴」全体に波紋のやうに拡がっては消え、すると「零の穴」を一陣の風が吹き抜けて行った。 ――成程、これが『虚』の世界か。あの神秘的な光の帯が未だ出現ならざる未出現の存在体なのか。埴谷雄高は『死霊』を完成させずにあの世に逝ってしまったが、何やら『虚体』の何たるかは解ったぜ、ふふっ。 「零の穴」。それは存在以前の物ならざる波動体――これを「虚の波体」と名付ける――が横溢する所謂数学的に言へば虚数の世界、つまり確率論的な波が無数に存在する世界なのであった。 そして、あのオーロラのやうな神秘的な光ならざる光の帯こそ「虚」が「陰」に変化(へんげ)した、これまた未だ出現ならざる未出現の存在――これを「陰体」と名付ける――なのだ。埴谷雄高は「虚の波体」と「陰体」とが未分化まま虚体の正体が明かされることなく永劫に未完のまま『死霊』を終へてしまったが、さて、「陰体」とは数学的に言へば虚数を二乗して得られる負の数のことで、この「陰体」を更に具体的に言へば、闇の中にひっそりと息を潜めて蹲って存在してゐる物のことでそれらは「光」無くしては其の存在すら解らぬままの存在体のことである。 ――Eureka !! そして、作曲家・柴田南雄の合唱曲のやうな旋律ならざる声の束がやがて風音に聞こえてくると言ったら良いのか、そんな「零の穴」を吹き抜ける一陣の風が噎び泣く音が今も耳にこびり付いて離れないのであった。 瞼考Ⅱ――過去にたゆたひ未来にたゆたふ 物理の初歩を知ってゐるならば距離が時間に、時間が距離に変換可能なことは知ってゐると思ふが、さうすると、私から距離が存在してしまふとそこは過去の世界といふことになる。つまり私は過去の中に唯独り現在として孤独に存在してゐるのである。 ――其処。 と私が目前を指差したところで其処は最早過去に存在する世界なのである。 これは考へやうによってはとても哀しいことであるが、私たちはこれが普通のこととして受け入れてゐるである。 しかし、これが一端到達すべき目的地が私に発生するとその目的地は過去から未来の世界に転換してしまふのである。つまり、過去は未来に、未来は過去にと未来と過去は紙一重の関係で過去と未来は入れ替はりが可能な摩訶不思議な関係にあるのである。 さて、先に現在は私と言ったが、それはつまり過去か未来の世界の孤島として存在する現在の私の現在は外界と接してゐる皮膚のみといふことである。私の内界はさうすると当然未来といふことになるが、しかし、よくよく考へてみると私の内界では未来も過去も関係なくある種自在感を持って過去と未来を行き来してゐるやうにも思へるのだ。 つまり、私は過去でも未来でもない現在といふ所に保留されたまま存在してゐるといふことになる。だから瞼を閉ぢて出現する闇に未来も過去も関係ない「現在」といふ表象が浮かんでは消え、また浮かんでは消えてを繰り返し、私は「現在」で逡巡しながら未来へと歩み出してゐるのである。 ところが私の内界には限りがある。つまり死を必然のものとして賦与されてゐるのである。さうすると中原中也の『骨』といふ詩が不思議に味はひ深い物となってくるのだ。 中原中也の『骨』の出だし―― ホラホラ、これが僕の骨だ、 …… 。。。。。。。。。。。。 カルマン渦―断章Ⅱ 時空がカルマン渦を巻いてゐる光景は誰しも目にしてゐる筈で、それは主体が動くと時空のカルマン渦は必ず発生してゐるのである。一番それが解るのは電車から見える外界の光景でそれが無限遠を中心に渦を巻く時空のカルマン渦である。 すると主体は左右の時空のカルマン渦の間に生じた「現在」といふ狭間にしか存在できない哀しい宿命を背負ってゐる存在で、例へばそれを「個時空」と名付けるとこの世の存在物は皆「個時空」といふことができる。 さて、そこで「個時空」は主体だけの現象で主体が客体に転換すると客体と化した私は何物かが出現させた時空のカルマン渦に巻き込まれてしまふのである。 ――二つの『個時空』が同時に同じ場所に存在できる『超越』を、さて、人間は成し遂げることが未来の何時か成し遂げることが出来るのだらうか…… ――お互ひ同士波と言ふ音を使って会話が出来るではないか。 ――ふむ。しかし、人間は同一空間に二つのものが同時に存在する様を夢想する生き物なのだよ。 ――はっは。お前はこの世の全生物になり同一空間に二人の人間が存在とてゐた時期を忘れてしまったのかね。つまり『個時空』が全く同じ二人の人物がこの世に存在する奇跡の時間を…… ――…… ――よおく考へてごらん。きっとお前なら思ひ当た.る筈だから…… ――ふむ…… ――お前は宇宙の始まりからずっとこの世に存在してゐたのかね、ふっ。 ――はっは。そうか母体の中だね。受精卵といふ一つの球体からこの世に存在するあらゆる生物に変態し、全生物史を十月十日で体験する胎児の時代か…… ――そうさ、お前の母親と胎児のお前は同一の『個時空』に存在してゐたんだぜ。 ――つまり、誕生は『楽園』といふ胎内からの追放か……。存在の悲哀、汝其は我に何を与へ給ふたのか…… ――生老病死さ…… 髑髏(されかうべ) 漆黒の闇に包まれたその虚空には遠くで鳴り響く天籟のかそけき音が幽かに耳に響くのを除けばその虚空もやはり闇以外の何物でもなかった。彼にとって闇は無限といふものへ誘ふ何か奇妙に蠱惑的な神秘を惹起させるもの以外の何物でもなかったのである。彼にとってその闇の虚空を覗く時間は至福の時であったのだ。 彼の机の左上にはいつも彼が学生時代に手に入れた古代人の髑髏が一つ置かれてあった。初めは唯研究目的で手に入れたその髑髏は何時の頃からか彼を無限へ誘ふ装置として欠かせないものとなってしまってゐたのである。 最初は何気なく髑髏の窪んだ眼窩を意味もなく覗き込んだだけのことであったが、それが彼の胸奥に眠ってゐた何かと共鳴したのか仕舞ひには病みつきになってしまったのである。 彼の髑髏の眼窩を覗き込む儀式は斯くの如く執り行われるのであった。まず、髑髏を覗く前に真夜中の夜空を数分見上げ続け、そして即髑髏の眼窩を覗き込むのであった。多分それは眼前の虚空に宇宙を思ひ描くために行われてゐたに違ひなかった。しかし、彼の眼前に宇宙が出現してゐたかどうかは不明である。 ――何たる光景だ。今は髑髏になってしまったこの人の脳裡にも必ずこんな光景が浮かんでゐたに違ひない。無数の星が明滅してゐるではないか。凄い。そして、彼方此方でその星星が爆発としてゐる……。これが宇宙の死滅の光景か……。ブラックホールは何処だ ! これか。あっ、ブラックホールがぽっといふ音にならない音を立ててゐるかのやうに消えたぞ。凄い、凄過ぎるぞ、この光景は……。 彼が真夜中髑髏の眼窩を覗いて何を見てゐたのか誰も解らない。彼は不意に意味もなく自殺してしまったのであったから…… 主体、蜂起す ――誰だ、この門を閉ざしてしまったのは…… 主体共が世界に疎外されて久しいが、ぶつぶつと彼方此方でその不満を呟く主体のざわめきが何時しかこの世に満ちてしまったのだ。 ――ハイデガーの言った『世界=内=存在』は嘘だったのか ! !  ――馬鹿めが。お前らが『世界=外=存在』の世界を好んで選んだのではないか。 現代人ならば誰でも抱へる疎外感。それが何処からやってくるのか暫く解らなかったが一人の主体が自身の姿を鏡で見て驚いたところからその謎が解け始めていったのである。 ――これは ! ! 轆轤首ではないか……。 ――その轆轤首は誰かね。答へ給へ ! ! ――……。 ――逃げずに答へ給へ ! ! ――わた……、……しかな……。 ――良く聞こへなかったがね。もう一度はっきりと言へ ! ! お前は誰だ ! ! ――わ……た……し……、ちぇっ、『私』だ。 ――もう一度。 ――私だ。間違ひ無い。『私』以外の何者でもない。私だ。 さて、轆轤首は歩けるのだらうか。眼玉が伸縮自在な蝸牛から連想するに轆轤首が全く歩けない哀しい存在だといふことは想像に難くない。 ――お前に尋ねるがお前の世界認識の基盤になってゐるものは何だね。 ――哲学……かな……。 ――否 ! ! ――ふむ……。……か……が……く……かな……。 ――そうさ、科学だよ。科学が創った客観が支配する世界観に於いて主体の演じる役目は何かね。 ――ふむ。……観察者……かな……。 ――そうだ。観察者は何時も客観世界の何処にゐるかね。 ――ふむ。……が……い……ぶ……、外部だ。 ――はっは。もうお前も解っただろ、この世の仕組みが。 便利を受け入れ始めたときに既に主体が世界から疎外されることは必然だったのである。今では可笑しくて仕方が無いんだが、態々世界を『外部化』するためにCameraで世界を写し画面を通して世界を見る馬鹿なことが『普通』になってしまった摩訶不思議な世界に人間は暮らしてゐるのである。そして、『仮想世界』などと喜んで世界にKeybordなどの装置を通して間接的にしか世界に参加できないことが進歩だと思ってゐるのである。全く馬鹿としか言ひ様が無い。何せ夜空も見上げるのではなく前方にあるMonitorといふ装置を通して見る生き物だから、人間は。 ――さあ、主体共よ、立ち上がる時が来た ! ! 蜂起だ ! ! ――おう ! !  しかし、轆轤首と化した主体が歩けるはずは無く、皆歩かうとすると直ぐ転ぶ醜態をさらすしかなかったのである。 ――先ずは這い這いから始めろ、へっ。 静寂(しじま) 十六夜の月明かりに誘はれて何処に行くとも決めずにふらふらと歩いてゐると、どうやら川辺に来てしまったやうだ。其処に蹲ると周囲に鬱蒼と繁茂してゐる葦原のお蔭で都会の街明かりが全て遮られ全くの十六夜があったのである。光るものといへば川面に映る十六夜の月明かりのみであった。その月明かりを傍らに立ってゐる柳の高木の葉々が時折ふわりと横切る風情は何とも言ひがたいほどの美しさだであった。 ――ぴちゃっ。 何処かで魚が跳ねたやうだ。うらうらと魚の跳ねた後に残された波紋がゆっくりと広がり川面の月明かりをゆったりと揺らす。 ――さわさわ……。 微風が葦原をそっと揺らす。 何やら夢現の世界に迷い込んだやうだ。私以外のものが発する時空のカルマン渦に唯我身を任せてゐることの心地よさは名状し難い。現在に保留された私はこの世界にたゆたふのみである。 ――ぴちゃ。 魚が発した波紋が静寂の波紋と重なってこの世全てにゆっくりとゆっくりと広がって行く様が脳裡全体に広がって行く。我もまた波体となって脳裡に納められた全宇宙に波紋となって広がって行くのであった。 ――我がこの世に溶け行く心地よさよ…… 虚体考Ⅱ――眼球 遂に「零の穴」の入り口を見つけた。何のことはない、それは瞳孔だったのである。 ――遂に辿り着いたな。やっとのこと見つけたぞ。 ――Eureka ! ! 一瞥のもと外界に存在する実体をしかと捉へる眼球は外界の光量によって自在にその大きさを変へる瞳孔無くしては始まらない。瞳孔を境にして外部は実体の世界、内部は虚体の世界である。それが瞳孔が「零の穴」たる所以である。 さて、外界に昼夜があって一日があるやうに個時空たる主体にも個時空特有の昼夜が存在する。それは瞼の一開閉で個時空の昼夜が完結、即ち個時空の一日が終はるのである。つまり、外界の二十四時間といふ一日の中に個時空たる主体固有の一日は瞼の開閉の数だけあるといふことである。しかも個時空たる主体の一日の時間の長さは千差万別で瞼の開閉の間隔と瞼を閉ぢてゐる時間の長さによって、例へば外界で言へば北極圏であったり熱帯であったり春夏秋冬であったりと様々であるといふことである。 ここでは外界の実体世界の話は脇に置き内界の虚体世界の話に絞るが、さて、虚体世界を覗くには先づ瞼を閉ぢなければ始まらない。 瞼裡に浮かぶ表象とか仮象とか夢想とか様々に呼ばれてゐるものは深海に生息する生物の中で自己発光する生物と看做せなくもない。更に集中とか思索とか様々に呼ばれる沈思黙考は内界にSerch Lightを当てて内界の闇に隠れてゐる「陰体」を見つける作業とも言へる。そして「虚の波体」は未だ未出現の形ならざる波体として内界で蠢動してゐる物自体の影絵とでも言へば良いのか、そのやうな「もの」として内界に「在る」のである。 また、余談ではあるが眼球は個時空たる主体のGyroscope(回転儀)と看做せなくもないのである。平衡感覚は三半規管で感知するが個時空たる主体の位置や方向などは全て眼球無くしては把握不可能である。多分、これは単なる憶測に過ぎないが量子力学で言ふ光子はSpinが一であるので網膜がこのSpin 一を感知して個時空たる主体の位置や方向を感知してゐるのかもしれないのである。つまり、Gyroscopeはそれ自体が回転することによってその回転軸に対しての相対的な関係で位置等を把握するが眼球は光子のSpinを逆に利用して恰も眼球自体が回転してゐるかのやうに把握してゐるのかもしれないのである。 ………………………………………………………………………………………… ゆっくりと瞼を閉ぢると左目の瞼裡には時計回りの、右目の瞼裡には反時計回りの勾玉の形をした光の玉が闇の周縁をゆっくりと回るカルマン渦が見えるのであった……。 波紋 川面をずうっとゆったりと眺めるのには川の流れの進行方向に対して右岸から眺めるのが一番である。つまり、水が左から右へと流れ行く様が大好きなのである。その理由の淵源を辿って行ったならば八百万の神々に行き着いてしまったのであった。 それは絵巻物を眺める様によく似てゐる。紙自体は右から左へと流れるが紙上に描かれてゐる絵巻は右から左へと流れて行くのである。これは個人的な見解であるが紙に天地を定めこの世の森羅万象を紙上に表せると太古の人々が考えたかどうだかはいざ知らず、しかし、例へば文を記すのにも右上から縦に書き出すそれは、文の進み行く方向、つまり右から左へと一行ごとに進むその右からの視点を「神の視点」とすれば日本語の縦書きは書き手の右に神が鎮座してゐるとも解釈できるのである。さうすると横書きは当然天に鎮座する神といふ事になる。といふことは縦書きは書き手と八百万の神々が平等の位置に居ると解釈できるのである。その解釈からすると紙上に何かを表すとはその八百万の神々との戯れでもある。 ……………………………………………………………………………………………… 或る日引き潮の時刻を見計らって河口からほぼ二十キロほど上流の川辺へ川を見に出かけたのである。それは偶然にも夕刻のことであった。辺りは次第に茜色に染まり始め見やうによってはこの世が灼熱の火の玉宇宙に化した如くであった。うらうらと茜色に映える川面。その時一尾の魚が丁度羽化した水生昆虫の成虫を喰らふために跳ね上がったのであった。その時生じた波紋。それは神の鉄槌の一撃で爆発膨張を始めたであらう宇宙創成の時の波紋、世界が波打ち時が刻まれ始めてしまった波紋にも似て何やら名状しがたい美しさと恐怖に満ちてゐたのであった。 &counter( today )
自同律の不快 不合理故に我信ず。 我は何故に存在してしまったのであらうか。 知らず知らず自他の逆転の仮象に埋没して行く。。。 浮遊と落下 ――この浮遊感は何なのだらう。ふわふわと浮いてゐるやうでゐて、何故だらう、何処か底の知れぬ奈落へと落下してゐるやうな嫌な感じだけが脳裡を掠める…… さて、不意にお前は口に出したな、「許して下さい」と。お前は今、パスカルの深淵の真っ只中さ、へっ。 カルマン渦―断章Ⅰ 時間もまた流れる流体の一種ならば時間のカルマン渦も時間の表象に生滅してゐるに違ひない。その時間のカルマン渦の一つ一つが物の生滅を象徴してゐるとしたならばそこに見えるパノラマは将に諸行無常の位相の数々に違ひないのだ。 その時間のカルマン渦の一つにたゆたふ我はまた、ゆるりと流れ行く時間を味はひながら己の無常といふセンチメンタルな感傷に耽るといふ極上の楽しみを満喫せねばならぬいふ宿命を自嘲してゐる。。。 ――あっ、これが物自体の影絵なのか…… 瞼考Ⅰ この世の森羅万象は多分夢を見るに違ひないと思ふが、瞼の出現で多分夢といふものの性格が突然変異するが如く変質したに違ひない。 多分、瞼が出現する以前は闇なるものはその概念すら無く、漆黒の闇は瞼の出現と共に脳が創り上げた傑作の一つではないかと思ふ。 盲ひた人に尋ねると眼前には灰色の虚空が拡がっていると聞くが、さうすると、闇は視力のある人にしか見られないもので、闇の出現で夢は具象と抽象を行き来することが可能になったのではないかと思へるのであるが、さて、今夜瞼を閉ぢた漆黒の闇に出現する世界は我を我として受け入れてくれるだらうか…… 地獄問答 ――涅槃以外に輪廻転生から逃れられる術があるがお前には良く解らうが…… ――未来永劫に意識と感覚が自我に縛り付けられたままのあの世のことかね。 ――つまりは…… ――つまりは地獄さ。未来永劫自意識に囚われ続けなければならず、拷問の極致の中にゐ続けなければならない地獄…… ――未来永劫「私」でゐ続けられるのだからある種の人間にとっては極楽じゃないかね。 ――ふっ。それでお前は地獄に堕ちたのか…… 異形の我 フラクタル的に見ても地球と脳は自己相似を成してをり、仮に脳裡に浮かぶ仮象の一つ一つがこの世に存在する物の象徴としたならば、脳裡に浮かぶ仮象は異形の我の仮の姿なのかもしれない。深海に棲む生物の異様な姿は漆黒の闇の中で自らの姿を妄想し、棲む環境がさうさせたに違ひない。私の脳裡に浮かぶ仮象の海の奥底には私の知らない異形の私が必ず棲息してゐる筈である。中にはぬらりと仮象に現れてその異形を見せる奴もゐるだらうが、多分奴らの殆どは私が死んでもその姿を現さずに闇の中でひっそりとその登場の機会を窺ってゐる筈だ。 ――お前は誰だ。 ――ふっ、お前だぜ。 虚体考Ⅰ――寂寞(じゃくまく) 私の内界の何処かには風穴のやうな穴がぽっかりと開いゐて其処を一陣の風が吹き渡るときの寂寞感が何故か堪らなく好きであったのでその穴を「零の穴」と自身秘かに名付けてその穴について暫くの間詮索せずに抛って置いたのであった。 しかし、寂寞は一方で人間にとって堪らないものであるのは確かで私も次第にその寂寞に堪えられなくなったのは想像に難くない。 或る日、寂寞に堪えられなくなった私は「零の穴」の探索に取り掛かったのであったが、それを見つけるのに二十数年を要することとなった。 つまり私は堪え難い寂寞に二十数年間苦悩し続けたのであった。 ――あれか、『零の穴』は…… 其処は月面のやうな荒涼とした世界で「零の穴」は直径一メートルくらゐのクレータのやうであった。 さて、「零の穴」を覗き込むと音にならない音と言へばよいのか、何とも奇妙な寂寞とした音未満の音が絶えず噎び泣いてゐたが、「零の穴」は正に漆黒の闇また闇の底知れぬ穴であった。 暫く「零の穴」を覗いてゐると何度となく漆黒の闇にオーロラのやうな神秘的なぼんやりと発光する光とも言へない光の帯が「零の穴」全体に波紋のやうに拡がっては消え、すると「零の穴」を一陣の風が吹き抜けて行った。 ――成程、これが『虚』の世界か。あの神秘的な光の帯が未だ出現ならざる未出現の存在体なのか。埴谷雄高は『死霊』を完成させずにあの世に逝ってしまったが、何やら『虚体』の何たるかは解ったぜ、ふふっ。 「零の穴」。それは存在以前の物ならざる波動体――これを「虚の波体」と名付ける――が横溢する所謂数学的に言へば虚数の世界、つまり確率論的な波が無数に存在する世界なのであった。 そして、あのオーロラのやうな神秘的な光ならざる光の帯こそ「虚」が「陰」に変化(へんげ)した、これまた未だ出現ならざる未出現の存在――これを「陰体」と名付ける――なのだ。埴谷雄高は「虚の波体」と「陰体」とが未分化まま虚体の正体が明かされることなく永劫に未完のまま『死霊』を終へてしまったが、さて、「陰体」とは数学的に言へば虚数を二乗して得られる負の数のことで、この「陰体」を更に具体的に言へば、闇の中にひっそりと息を潜めて蹲って存在してゐる物のことでそれらは「光」無くしては其の存在すら解らぬままの存在体のことである。 ――Eureka !! そして、作曲家・柴田南雄の合唱曲のやうな旋律ならざる声の束がやがて風音に聞こえてくると言ったら良いのか、そんな「零の穴」を吹き抜ける一陣の風が噎び泣く音が今も耳にこびり付いて離れないのであった。 瞼考Ⅱ――過去にたゆたひ未来にたゆたふ 物理の初歩を知ってゐるならば距離が時間に、時間が距離に変換可能なことは知ってゐると思ふが、さうすると、私から距離が存在してしまふとそこは過去の世界といふことになる。つまり私は過去の中に唯独り現在として孤独に存在してゐるのである。 ――其処。 と私が目前を指差したところで其処は最早過去に存在する世界なのである。 これは考へやうによってはとても哀しいことであるが、私たちはこれが普通のこととして受け入れてゐるである。 しかし、これが一端到達すべき目的地が私に発生するとその目的地は過去から未来の世界に転換してしまふのである。つまり、過去は未来に、未来は過去にと未来と過去は紙一重の関係で過去と未来は入れ替はりが可能な摩訶不思議な関係にあるのである。 さて、先に現在は私と言ったが、それはつまり過去か未来の世界の孤島として存在する現在の私の現在は外界と接してゐる皮膚のみといふことである。私の内界はさうすると当然未来といふことになるが、しかし、よくよく考へてみると私の内界では未来も過去も関係なくある種自在感を持って過去と未来を行き来してゐるやうにも思へるのだ。 つまり、私は過去でも未来でもない現在といふ所に保留されたまま存在してゐるといふことになる。だから瞼を閉ぢて出現する闇に未来も過去も関係ない「現在」といふ表象が浮かんでは消え、また浮かんでは消えてを繰り返し、私は「現在」で逡巡しながら未来へと歩み出してゐるのである。 ところが私の内界には限りがある。つまり死を必然のものとして賦与されてゐるのである。さうすると中原中也の『骨』といふ詩が不思議に味はひ深い物となってくるのだ。 中原中也の『骨』の出だし―― ホラホラ、これが僕の骨だ、 …… 。。。。。。。。。。。。 カルマン渦―断章Ⅱ 時空がカルマン渦を巻いてゐる光景は誰しも目にしてゐる筈で、それは主体が動くと時空のカルマン渦は必ず発生してゐるのである。一番それが解るのは電車から見える外界の光景でそれが無限遠を中心に渦を巻く時空のカルマン渦である。 すると主体は左右の時空のカルマン渦の間に生じた「現在」といふ狭間にしか存在できない哀しい宿命を背負ってゐる存在で、例へばそれを「個時空」と名付けるとこの世の存在物は皆「個時空」といふことができる。 さて、そこで「個時空」は主体だけの現象で主体が客体に転換すると客体と化した私は何物かが出現させた時空のカルマン渦に巻き込まれてしまふのである。 ――二つの『個時空』が同時に同じ場所に存在できる『超越』を、さて、人間は成し遂げることが未来の何時か成し遂げることが出来るのだらうか…… ――お互ひ同士波と言ふ音を使って会話が出来るではないか。 ――ふむ。しかし、人間は同一空間に二つのものが同時に存在する様を夢想する生き物なのだよ。 ――はっは。お前はこの世の全生物になり同一空間に二人の人間が存在とてゐた時期を忘れてしまったのかね。つまり『個時空』が全く同じ二人の人物がこの世に存在する奇跡の時間を…… ――…… ――よおく考へてごらん。きっとお前なら思ひ当た.る筈だから…… ――ふむ…… ――お前は宇宙の始まりからずっとこの世に存在してゐたのかね、ふっ。 ――はっは。そうか母体の中だね。受精卵といふ一つの球体からこの世に存在するあらゆる生物に変態し、全生物史を十月十日で体験する胎児の時代か…… ――そうさ、お前の母親と胎児のお前は同一の『個時空』に存在してゐたんだぜ。 ――つまり、誕生は『楽園』といふ胎内からの追放か……。存在の悲哀、汝其は我に何を与へ給ふたのか…… ――生老病死さ…… 髑髏(されかうべ) 漆黒の闇に包まれたその虚空には遠くで鳴り響く天籟のかそけき音が幽かに耳に響くのを除けばその虚空もやはり闇以外の何物でもなかった。彼にとって闇は無限といふものへ誘ふ何か奇妙に蠱惑的な神秘を惹起させるもの以外の何物でもなかったのである。彼にとってその闇の虚空を覗く時間は至福の時であったのだ。 彼の机の左上にはいつも彼が学生時代に手に入れた古代人の髑髏が一つ置かれてあった。初めは唯研究目的で手に入れたその髑髏は何時の頃からか彼を無限へ誘ふ装置として欠かせないものとなってしまってゐたのである。 最初は何気なく髑髏の窪んだ眼窩を意味もなく覗き込んだだけのことであったが、それが彼の胸奥に眠ってゐた何かと共鳴したのか仕舞ひには病みつきになってしまったのである。 彼の髑髏の眼窩を覗き込む儀式は斯くの如く執り行われるのであった。まず、髑髏を覗く前に真夜中の夜空を数分見上げ続け、そして即髑髏の眼窩を覗き込むのであった。多分それは眼前の虚空に宇宙を思ひ描くために行われてゐたに違ひなかった。しかし、彼の眼前に宇宙が出現してゐたかどうかは不明である。 ――何たる光景だ。今は髑髏になってしまったこの人の脳裡にも必ずこんな光景が浮かんでゐたに違ひない。無数の星が明滅してゐるではないか。凄い。そして、彼方此方でその星星が爆発としてゐる……。これが宇宙の死滅の光景か……。ブラックホールは何処だ ! これか。あっ、ブラックホールがぽっといふ音にならない音を立ててゐるかのやうに消えたぞ。凄い、凄過ぎるぞ、この光景は……。 彼が真夜中髑髏の眼窩を覗いて何を見てゐたのか誰も解らない。彼は不意に意味もなく自殺してしまったのであったから…… 主体、蜂起す ――誰だ、この門を閉ざしてしまったのは…… 主体共が世界に疎外されて久しいが、ぶつぶつと彼方此方でその不満を呟く主体のざわめきが何時しかこの世に満ちてしまったのだ。 ――ハイデガーの言った『世界=内=存在』は嘘だったのか ! !  ――馬鹿めが。お前らが『世界=外=存在』の世界を好んで選んだのではないか。 現代人ならば誰でも抱へる疎外感。それが何処からやってくるのか暫く解らなかったが一人の主体が自身の姿を鏡で見て驚いたところからその謎が解け始めていったのである。 ――これは ! ! 轆轤首ではないか……。 ――その轆轤首は誰かね。答へ給へ ! ! ――……。 ――逃げずに答へ給へ ! ! ――わた……、……しかな……。 ――良く聞こへなかったがね。もう一度はっきりと言へ ! ! お前は誰だ ! ! ――わ……た……し……、ちぇっ、『私』だ。 ――もう一度。 ――私だ。間違ひ無い。『私』以外の何者でもない。私だ。 さて、轆轤首は歩けるのだらうか。眼玉が伸縮自在な蝸牛から連想するに轆轤首が全く歩けない哀しい存在だといふことは想像に難くない。 ――お前に尋ねるがお前の世界認識の基盤になってゐるものは何だね。 ――哲学……かな……。 ――否 ! ! ――ふむ……。……か……が……く……かな……。 ――そうさ、科学だよ。科学が創った客観が支配する世界観に於いて主体の演じる役目は何かね。 ――ふむ。……観察者……かな……。 ――そうだ。観察者は何時も客観世界の何処にゐるかね。 ――ふむ。……が……い……ぶ……、外部だ。 ――はっは。もうお前も解っただろ、この世の仕組みが。 便利を受け入れ始めたときに既に主体が世界から疎外されることは必然だったのである。今では可笑しくて仕方が無いんだが、態々世界を『外部化』するためにCameraで世界を写し画面を通して世界を見る馬鹿なことが『普通』になってしまった摩訶不思議な世界に人間は暮らしてゐるのである。そして、『仮想世界』などと喜んで世界にKeybordなどの装置を通して間接的にしか世界に参加できないことが進歩だと思ってゐるのである。全く馬鹿としか言ひ様が無い。何せ夜空も見上げるのではなく前方にあるMonitorといふ装置を通して見る生き物だから、人間は。 ――さあ、主体共よ、立ち上がる時が来た ! ! 蜂起だ ! ! ――おう ! !  しかし、轆轤首と化した主体が歩けるはずは無く、皆歩かうとすると直ぐ転ぶ醜態をさらすしかなかったのである。 ――先ずは這い這いから始めろ、へっ。 静寂(しじま) 十六夜の月明かりに誘はれて何処に行くとも決めずにふらふらと歩いてゐると、どうやら川辺に来てしまったやうだ。其処に蹲ると周囲に鬱蒼と繁茂してゐる葦原のお蔭で都会の街明かりが全て遮られ全くの十六夜があったのである。光るものといへば川面に映る十六夜の月明かりのみであった。その月明かりを傍らに立ってゐる柳の高木の葉々が時折ふわりと横切る風情は何とも言ひがたいほどの美しさだであった。 ――ぴちゃっ。 何処かで魚が跳ねたやうだ。うらうらと魚の跳ねた後に残された波紋がゆっくりと広がり川面の月明かりをゆったりと揺らす。 ――さわさわ……。 微風が葦原をそっと揺らす。 何やら夢現の世界に迷い込んだやうだ。私以外のものが発する時空のカルマン渦に唯我身を任せてゐることの心地よさは名状し難い。現在に保留された私はこの世界にたゆたふのみである。 ――ぴちゃ。 魚が発した波紋が静寂の波紋と重なってこの世全てにゆっくりとゆっくりと広がって行く様が脳裡全体に広がって行く。我もまた波体となって脳裡に納められた全宇宙に波紋となって広がって行くのであった。 ――我がこの世に溶け行く心地よさよ…… 虚体考Ⅱ――眼球 遂に「零の穴」の入り口を見つけた。何のことはない、それは瞳孔だったのである。 ――遂に辿り着いたな。やっとのこと見つけたぞ。 ――Eureka ! ! 一瞥のもと外界に存在する実体をしかと捉へる眼球は外界の光量によって自在にその大きさを変へる瞳孔無くしては始まらない。瞳孔を境にして外部は実体の世界、内部は虚体の世界である。それが瞳孔が「零の穴」たる所以である。 さて、外界に昼夜があって一日があるやうに個時空たる主体にも個時空特有の昼夜が存在する。それは瞼の一開閉で個時空の昼夜が完結、即ち個時空の一日が終はるのである。つまり、外界の二十四時間といふ一日の中に個時空たる主体固有の一日は瞼の開閉の数だけあるといふことである。しかも個時空たる主体の一日の時間の長さは千差万別で瞼の開閉の間隔と瞼を閉ぢてゐる時間の長さによって、例へば外界で言へば北極圏であったり熱帯であったり春夏秋冬であったりと様々であるといふことである。 ここでは外界の実体世界の話は脇に置き内界の虚体世界の話に絞るが、さて、虚体世界を覗くには先づ瞼を閉ぢなければ始まらない。 瞼裡に浮かぶ表象とか仮象とか夢想とか様々に呼ばれてゐるものは深海に生息する生物の中で自己発光する生物と看做せなくもない。更に集中とか思索とか様々に呼ばれる沈思黙考は内界にSerch Lightを当てて内界の闇に隠れてゐる「陰体」を見つける作業とも言へる。そして「虚の波体」は未だ未出現の形ならざる波体として内界で蠢動してゐる物自体の影絵とでも言へば良いのか、そのやうな「もの」として内界に「在る」のである。 また、余談ではあるが眼球は個時空たる主体のGyroscope(回転儀)と看做せなくもないのである。平衡感覚は三半規管で感知するが個時空たる主体の位置や方向などは全て眼球無くしては把握不可能である。多分、これは単なる憶測に過ぎないが量子力学で言ふ光子はSpinが一であるので網膜がこのSpin 一を感知して個時空たる主体の位置や方向を感知してゐるのかもしれないのである。つまり、Gyroscopeはそれ自体が回転することによってその回転軸に対しての相対的な関係で位置等を把握するが眼球は光子のSpinを逆に利用して恰も眼球自体が回転してゐるかのやうに把握してゐるのかもしれないのである。 ………………………………………………………………………………………… ゆっくりと瞼を閉ぢると左目の瞼裡には時計回りの、右目の瞼裡には反時計回りの勾玉の形をした光の玉が闇の周縁をゆっくりと回るカルマン渦が見えるのであった……。 波紋 川面をずうっとゆったりと眺めるのには川の流れの進行方向に対して右岸から眺めるのが一番である。つまり、水が左から右へと流れ行く様が大好きなのである。その理由の淵源を辿って行ったならば八百万の神々に行き着いてしまったのであった。 それは絵巻物を眺める様によく似てゐる。紙自体は右から左へと流れるが紙上に描かれてゐる絵巻は右から左へと流れて行くのである。これは個人的な見解であるが紙に天地を定めこの世の森羅万象を紙上に表せると太古の人々が考えたかどうだかはいざ知らず、しかし、例へば文を記すのにも右上から縦に書き出すそれは、文の進み行く方向、つまり右から左へと一行ごとに進むその右からの視点を「神の視点」とすれば日本語の縦書きは書き手の右に神が鎮座してゐるとも解釈できるのである。さうすると横書きは当然天に鎮座する神といふ事になる。といふことは縦書きは書き手と八百万の神々が平等の位置に居ると解釈できるのである。その解釈からすると紙上に何かを表すとはその八百万の神々との戯れでもある。 ……………………………………………………………………………………………… 或る日引き潮の時刻を見計らって河口からほぼ二十キロほど上流の川辺へ川を見に出かけたのである。それは偶然にも夕刻のことであった。辺りは次第に茜色に染まり始め見やうによってはこの世が灼熱の火の玉宇宙に化した如くであった。うらうらと茜色に映える川面。その時一尾の魚が丁度羽化した水生昆虫の成虫を喰らふために跳ね上がったのであった。その時生じた波紋。それは神の鉄槌の一撃で爆発膨張を始めたであらう宇宙創成の時の波紋、世界が波打ち時が刻まれ始めてしまった波紋にも似て何やら名状しがたい美しさと恐怖に満ちてゐたのであった。 &counter( today ) &counter( yesterday )

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