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一切空プロローグ - (2014/10/06 (月) 02:32:32) の1つ前との変更点

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*プロローグ #divid(ss_area){{{ 「皆様、正面スクリーンをご覧下さい……では10億円より開始いたします……30、35、38……50。50億。52。55……」  壇上に登った男が非人間的な数字を矢継早に積み上げる。ホールに居並ぶ参加者達は各人思い思いの虚栄に身を包み、高度に記号体系化された無言のジェスチャーでそれに応える。10メートル四方ほどの絢爛なその競売会場は、奇妙に冷え切った熱気に支配されていた。 「60。61。65……」  古川商会は戦後より60年ほどの歴史を持つ美術品専門の競売会社である。市井の人々の口には決して上らぬその名は、社会表層の皮を一枚潜ればまるで流行りの唱歌のごとく広くに知られている。それはこのちっぽけな同族経営の旧有限会社が、魔人の手によりこの世に生み出された尋常ならざる美術品を入手するための、ほぼ唯一の入り口であることによる。 「72億。72億……他の方、他の方はいらっしゃいますかな……いらっしゃいませんか……」 男は決断的に木槌を振り下ろす。落札。拍手が上がる。スクリーンに映し出された、そのかつて道路片であったと思しきアスファルトの奇怪な塊の所有権は、誇らしげな笑みを浮かべる病的に太った紳士の手へと渡った。  ――「72、か。もちッと昇るかと思ったんだがなァ」 丸瀬十鳥は雑多な所蔵品が並ぶ館内別室のソファに深く腰掛け、この熱狂の様を小型の光学ディスプレイから眺めていた。小部屋に備え付けられた古びたナトリウムランプ光が、ほの暗い部屋からその男の輪郭を橙色に切り取る。細身の体格に沿ったモノクロームの三つ揃え。ネクタイはチョコレート色の格子柄。ボルサリーノ帽から撫で付けられた短髪が覗く。その身は緻密に仕立て上げられた完全無欠の着こなしに覆われていながら、どこか見る者に眩暈を促す不均等さに支配されていた。それはなにかあるべきバランスを欠いたために生じるアンバランスな欠陥ではなく、超自然的な手段によってしか成し得ない不自然という概念そのものが男の存在を形作っているようであった。 「ま、バブルんときと比べちゃあ駄目か。ひでェモンだったなァ、あれ。あの程度でよくあれだけ行ったもんだ」 軽口を叩くこの男、丸瀬十鳥。彼こそが先の競売品、古川商会の社史において歴代4位の高額をつけた前衛彫刻を製作した芸術家である。そして、魔人であった。  魔人。現実と虚構の境を失った者たち。彼らの妄想は人々を惹きつけ、焚きつけ、惑わせる。その中のごく一部、自らの妄想の妄想たるを自覚し、それを形ある物質へと残し人々の心へと刻み付けることができる者たちがわずかにいた。魔人芸術家と呼ばれる存在である。魔人・丸瀬十鳥は言うまでも無く当世随一の大芸術家である。若干49歳。既存の物品に彫刻や絵画を施す特徴的な作風で知られる。弟子も取らず、寡作でありながら、彼の生み出す作品は裏の美術界での評価と名声を独占していた。彼の言う「あれ」とは、30年弱の昔、若き美大生に過ぎない彼を一躍頂点へと押し上げた作品――あるいは事件――のことである。それは成り上がりの大富豪が拙い思いつきで建造した大型豪華客船であった。直接の原因は未だ知れない。目先の欲が招いた手抜きの産物とも、目的なきテロリズムとも云われる。ともかく、その清廉な純白に着飾られた箱舟は、太平洋を横断する処女航海の初日において、その臓腑を冷たい海水に晒すこととなった。すぐさま編成された救助隊は現場にて、夕暗闇の中で屹立する分断されたその姿を見た。それは事故直後の一報とはかけ離れた姿に成り果てていた。そこにあったのは、もはや一介の乗り物ではなく、一点の芸術作品だった。いかなる超常的な現象によってか、事故発生からわずか数時間のうちに、その白の広大なキャンバスには、まさに世界の森羅万象が描きこまれていた。あらゆる獣、あらゆる樹木、そして人間がこれまでに刻んできた幾星霜の歴史が、蠱惑的彩色と幾何学的完全さによって船体に顕現していた。それを無慈悲なる重力がゆっくりと暗澹たる海中へと沈めていく様は、見るものに数千回もの人生を一度に味わわせるかのような神秘的情動をもたらすものであった。駆けつけた者達はみな、涙を流した。それはまさに、人類史上永遠に残る傑作と呼ぶにふさわしかった。  中にまだ百数十人の生存者が残っているという、些細な問題さえ除けば。  すぐさま「傑作」は古川商会の管理のもと競売へと懸けられた。作品の「完結」を邪魔するありとあらゆる試みは、ことごとく大いなる力によって阻止された。最終的な落札価格は当時の額で5200億円。史上最高額を得たその傑作は翌日未明に海の底へと消え、一切を虚無へと変えた。しかしその忌まわしき記憶は、船首に軽やかな筆記体で刻まれた“M., Jucho”の名とともに、畏敬の念でもって人々の心に刻み付けられることとなった。  ――その傑作も、今の丸瀬十鳥にとっては幼少の頃のいたずら書きにも等しい思い出に過ぎない。 「いや、昔話なんかどうでもいい。今の俺なら、もっとスゲェやつが作れる。もっと、もっとスゲェやつだ。なぁフジタカ。主役はあんなショボイもんじゃねぇ」 彼が先程から語りかけているのは、小机をはさみ正面に相対し直立するビジネススーツ姿の初老の男性である。 「えぇ、聞いておりますとも――」 藤高と呼ばれた、その手練の画商が応じる。 「丸瀬十鳥、未完の大作。その一端を、私めに拝見させていただけると。しかしなぜ突然、そのようなお話を?」 「ああは言ってもな」 丸瀬は急に弱気な表情を見せる。全身を囲むちぐはぐさが一層の複雑な絡まりを見せた。 「端的に言えば、その未完の。完成させる自信が、100%あるわけじゃあねぇんだ。ひょっとすると、完全に失われちまって二度と元に戻らないかも知れねぇ。そこでだ、俺は、今まで世話になったアンタに、とりあえずだが、これがこんな状態でいまここにあった、というその価値を見届けてほしいんだ。それがあれば最低限俺が生きた証になる。これまでこしらえたガラクタなんざどうでもよくなるぐらいにだ」 「失礼、貴方ほどの御方がいったい何を……」 「迷宮時計」 その言葉を耳にした藤高は頬に痙攣を覚えた。 「当然フジタカも知ってるだろ。迷宮時計のこと」 知らないはずもない。とある魔人が遺したという強大な能力のかけら。時計の形態をとり、所有者に憑り付く。それは当然美術品蒐集家にとっても垂涎の品であったからだ。それを手にした者は望む望まざるに関わらず悲劇的争いの渦に身を投じるという。 「入手……されたのですか。あの、迷宮時計を」 藤高は自らの声の震えに却って動揺する。 「だいたい、そんなところなんだがな。まあ、見てもらえりゃ一番早い――そういうわけだ。出ろ」 丸瀬は不意に振り向き、虚空に話しかけた。  ――しばしの静寂。藤高は眉根を寄せる。 「聞いてんのかよ……ったく」 ソファの裏に手を伸ばし、放置された所蔵品の中から何かを引きずり出す。灰色のずた袋のような何か。 「アー……」 かすれたうめき声。その手にあったのは、首根をつかまれた人間であった。少女である。小柄な体躯に、無造作な黒髪。その瞳は光を吸い込む漆黒、呆けて開け放たれた大口は樹齢数千年を経た大木のウロを思わせた。 「アー」 その喉の奥底から再びうめき声が漏れる。 「涎」 丸瀬は少女の口元を上品な刺繍のハンカチでぬぐった。 「成る程、ということは……」 藤高は既に平静を取り戻していた。 「これが、その作品。」 動揺は無い。この世の万物を自らの作品へと変えるこの大芸術家が、いずれ生きた人間をそのまま材料とするであろうことはわかりきっていたからだ。そしてこの異様さ。熟練の勘が藤高に告げていた。この少女もまた、魔人、と。 「そういうこった。作品名は、もう決まっている。《一切空》。いっさい、くう、だ。そして」 丸瀬は一度言葉を切る。 「そして、こいつが。迷宮時計の所有者。見せてやる」 「アー。」 少女の首がこてん、と右に傾く。  偉大なるその芸術家は手馴れた様子で、少女の肌を覆う灰色のパーカーとだぼついたスラックスを、丁寧な無造作さでもって剥ぎとった。そこに現れたのは、百戦錬磨の画商にすら呼吸の作法を数秒間忘れさせるに十分なほど、常軌を逸する奇怪なものであった。  痩せた少女の裸体。その肌に、全身に、いくつもの穴が空いている。穴である。腕を、胸を、腹を、脚を、肉を貫通し身体の裏へと達する硬貨大ほどの穴。乱雑に型抜きされたクッキー生地の残りを思わせる奇妙きわまる肉体。ナトリウムランプの橙光が穴を通して漏れ出る。常であれば彼女の生命活動を即座に停止させているであろうその全身の穴は、だが、少女の心拍と呼吸に合わせゆるやかに胎動していた。穴のふちは傷口ではない。皮膚が滑らかに覆い、裏側の皮膚へと繋がり、そこには光に照らされた産毛すらうっすらと見える。それは形状データの破損した仮想グラフィクスが現実のものとして現れたかのような姿であった。  その中でもひときわ大きい林檎大の大穴が少女の胸の中央やや左寄りに空いていた。心臓のあるべき場所。空白。そこに、時計があった。真鍮の懐中時計。少女の脈拍と連動するかのように、その針は文字盤を踊り時を刻む。精密な螺鈿細工と細微なる彫刻を施され虹色に光るその筐体は、また鉄、木、なめし革など幾多もの素材で作られた歯車やぜんまい仕掛けと組み合わされ、宇宙の法則を記述する神の精密機械の様相を呈していた。その縁からは二重螺旋を模した銀鎖が三方に延び、時計の存在を空虚な胸の中央へと固定していた。 「すばらしい」 熟練の画商から嘘偽りの無い感嘆が湧き出た。 「すばらしい、本当に……本当に」  丸瀬は満足げにため息をつき、床に投げ出された衣服でもって再び作品の梱包を始める。 「二週間ほど前これを拾った。魔人と時計。どっちもボロボロだった。自分の名前すら言えねぇ。時計もひび割れ動いているのがやっとの有様だった。それをこいつが肌身離さず握り締めていた……いくつかもう経験してきたんだろう、迷宮時計をめぐる争いってやつだ。それを今まで勝ち抜いてきたようだったが、限界だった」  手を動かしつつ芸術家は解説を続ける。 「とにかく、拾い物だった――俺は直感した。この魔人の奇ッ怪な能力と、迷宮時計。これは俺の最高傑作になる。間違いなく。で、あとは俺のいつもどおりのやり方だ。拾って、加工。今日までずっと徹夜だ。ここまではできた。だが俺にはわかる。これは不完全だ。迷宮時計は、完成を待っている。かけらが足りない。他のかけらすべてを食らったそのとき、俺の《一切空》は、この不完全な無のイデアの模倣は、真に賞賛すべきものへと変わる。」 少女は元々着ていた衣服に包まれ終わると、だらしなくその場に座り込んだ。  藤高はまだ打ちのめされたままであった。 「いや、十分です。この時点で……もう、この段階で、人類という種を根本から進化せしめるほどの大傑作。間違いありません」 丸瀬は含み笑いとともに応じる。 「何言ってんだ、アンタらしくもねぇ。俺は完成を目指す。もっと、もっと完璧な姿になれるぜ、こいつは……」 「いえ、十分です、と言ったのです」  丸瀬は空気の変化を肌で感じ取った。真正面に立つ画商は、いままでに見せたことの無い表情をその顔に浮かべていた。喜びと絶望と決意がそのまま凍りついたような笑み。そしてその左手には拳銃。 「それを直ちに、私めに譲っていただきたい。金なら望むがままの値で引き取らせていただきましょう。我らが商会が責任を持って永久に保全いたします。リスクは許容できません。稚拙な争いごとによって、これをみすみす世界から失わせるわけにはいかない。これは人類の、いえ、宇宙の宝です」 「……本気で言ってんのか、それ」 複数の魔人芸術家とコネクションを持ちタフな交渉をこなすこの藤高という画商は、実のところ、魔人ではなく、特筆すべき能力を持たないただの人間であった。その過酷なビジネスを支えていたのは、ひとえに真に芸術を愛する誠実さと、災厄の象徴たる魔人に対する引き際の心得であった。だが、この敵対行為は、明らかにその最後の一線を踏み越えていた。 「アー……」 少女の首がまた逆へ、かたり、と傾いた。「商談」の当事者でありながら、少女の漆黒の瞳には目前のふたりも含め何も映っていないかのようであった。 「お願いいたします。どうか、どうかこれを……」 「アンタは恩人だし。嫌いじゃなかったんだけどさ」 丸瀬の魔人能力をもってすれば拳銃を持つただの人間など如何様にするも容易い。相対する藤高自身もそのことを重々承知している。だが丸瀬は不思議と目の前で殺意を突きつけるこの男を殺害する心積もりにはなれなかった。深い諦念と失望が男の身体を抑えつけていた。 「いいや。やるんならとっととやってくれ」 「……大変、残念です」 引鉄に添えられた人差し指が曲がる。が、その一瞬前に、事は動いていた。今まで路傍の石の如くの存在であったその少女。一切空と題されたその娘が、身を低くぬらりと動かしていた。銃弾が放たれるその一刹那前に、少女は銃身の真正面にいた。魔人の持つ身体能力は常人を遥かに上回る。だがそれがこのような形で突如発揮されるものとは、当の少女を除くふたりには全く予想し得ないことであった。  銃弾が少女の左こめかみを貫いた。衝撃が少女を大きく後方へと吹き飛ばす。芸術家の心臓を正確に狙ったその軌跡はわずかにそらされ、彼の座るソファの背へと突き刺さった。  ――大きな音を立て、拳銃が床へと滑り落ちた。 「私……私は、なんと言うことを……」 画商の顔面はもはや蒼白を通り越して病的な鈍色であった。 「私は……」 いまだ腰掛けたまま動かぬ丸瀬十鳥の足元に少女は横たわる。それを一瞥すると、彼は目前の哀れな男に告げた。 「安心しろよ。壊れちゃいねぇ」  その通りであった。一塊の殺意に脳天を貫かれたはずのその少女は、まるで何事も無かったかのようにむくりと身を起こした。無事である。しかしそこには、確かに、こめかみから後頭部へと貫通する一条の穴が穿たれていた。その穴からは一滴の血も流れてこない。先程橙の明かりの下で見た、あの裸体。そこにあった無数の穴。それと同じものが、新たにまたひとつ生み出されていた。 「アー……」  不意に、その額の穴が、するりと動くのを藤高は見た。穴が、穴自身が、少女の肌の表面を滑り動いた。それはこめかみを降りて左頬を通り過ぎた。頬の穴からは白い歯が一瞬覗いた。さらに首元を過ぎ、少女が纏う灰色のパーカーの下へと飲み込まれ、見えなくなる。すぐにそれはその裾の下から左の掌へと現れた。さらに、左手の指を広げ床に掌をつけると、穴は床へすとんと落ちた。床に空いたその滑らかな穴も、やはりするすると動きはじめる。それは明確な意思を持ってこちらへと向かってくる。穴は足元に到達する。靴を這い登り、肌へと渡り、スラックスの裾の中へ……肉体のトポロジーの変化を悪寒とともに追っていくと、藤高は、3メートルほどの短い旅路を終えたあの穴が、今や己の額の中心に存在することを悟った。ぱつん、と何かが破れる音がした。が、その音を藤高自身はもはや聞いていなかった。額の穴から血と脳漿を流しつつ、男は床へと倒れ伏した。そこにあるものはただの穴。肉と骨と脳髄を掘り抜いた、何の変哲も無い、ただの穴。男は絶命していた。当然、頭蓋を銃創大の穴が貫通したまま生きていられる人間など、この世には存在しない。 「返したのか……」 少女は答えず、もはや興味の無い様子で床材を掘り返している。丸瀬十鳥はしばらくそうしていたが、やがて立ち上がり、積み立つ品々を掻き分け、奥の冷蔵庫から酒税逃れの偽造缶ビールを取り出した。盟友を失った夜。安酒に呑まれるも良かろう。 「次の品に参ります……では1億2000万から……1億5000万……」  机に放置された映像端末は未だ虚空に向かって退屈な数字を重ねつづけていた。 [[このページのトップに戻る>#atwiki-jp-bg2]]|&spanclass(backlink){[[トップページに戻る>http://www49.atwiki.jp/dangerousss4/]]}}}} ---- 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魔人。現実と虚構の境を失った者たち。彼らの妄想は人々を惹きつけ、焚きつけ、惑わせる。その中のごく一部、自らの妄想の妄想たるを自覚し、それを形ある物質へと残し人々の心へと刻み付けることができる者たちがわずかにいた。魔人芸術家と呼ばれる存在である。魔人・丸瀬十鳥は言うまでも無く当世随一の大芸術家である。若干49歳。既存の物品に彫刻や絵画を施す特徴的な作風で知られる。弟子も取らず、寡作でありながら、彼の生み出す作品は裏の美術界での評価と名声を独占していた。彼の言う「あれ」とは、30年弱の昔、若き美大生に過ぎない彼を一躍頂点へと押し上げた作品――あるいは事件――のことである。それは成り上がりの大富豪が拙い思いつきで建造した大型豪華客船であった。直接の原因は未だ知れない。目先の欲が招いた手抜きの産物とも、目的なきテロリズムとも云われる。ともかく、その清廉な純白に着飾られた箱舟は、太平洋を横断する処女航海の初日において、その臓腑を冷たい海水に晒すこととなった。すぐさま編成された救助隊は現場にて、夕暗闇の中で屹立する分断されたその姿を見た。それは事故直後の一報とはかけ離れた姿に成り果てていた。そこにあったのは、もはや一介の乗り物ではなく、一点の芸術作品だった。いかなる超常的な現象によってか、事故発生からわずか数時間のうちに、その白の広大なキャンバスには、まさに世界の森羅万象が描きこまれていた。あらゆる獣、あらゆる樹木、そして人間がこれまでに刻んできた幾星霜の歴史が、蠱惑的彩色と幾何学的完全さによって船体に顕現していた。それを無慈悲なる重力がゆっくりと暗澹たる海中へと沈めていく様は、見るものに数千回もの人生を一度に味わわせるかのような神秘的情動をもたらすものであった。駆けつけた者達はみな、涙を流した。それはまさに、人類史上永遠に残る傑作と呼ぶにふさわしかった。  中にまだ百数十人の生存者が残っているという、些細な問題さえ除けば。  すぐさま「傑作」は古川商会の管理のもと競売へと懸けられた。作品の「完結」を邪魔するありとあらゆる試みは、ことごとく大いなる力によって阻止された。最終的な落札価格は当時の額で5200億円。史上最高額を得たその傑作は翌日未明に海の底へと消え、一切を虚無へと変えた。しかしその忌まわしき記憶は、船首に軽やかな筆記体で刻まれた“M., Jucho”の名とともに、畏敬の念でもって人々の心に刻み付けられることとなった。  ――その傑作も、今の丸瀬十鳥にとっては幼少の頃のいたずら書きにも等しい思い出に過ぎない。 「いや、昔話なんかどうでもいい。今の俺なら、もっとスゲェやつが作れる。もっと、もっとスゲェやつだ。なぁフジタカ。主役はあんなショボイもんじゃねぇ」 彼が先程から語りかけているのは、小机をはさみ正面に相対し直立するビジネススーツ姿の初老の男性である。 「えぇ、聞いておりますとも――」 藤高と呼ばれた、その手練の画商が応じる。 「丸瀬十鳥、未完の大作。その一端を、私めに拝見させていただけると。しかしなぜ突然、そのようなお話を?」 「ああは言ってもな」 丸瀬は急に弱気な表情を見せる。全身を囲むちぐはぐさが一層の複雑な絡まりを見せた。 「端的に言えば、その未完の。完成させる自信が、100%あるわけじゃあねぇんだ。ひょっとすると、完全に失われちまって二度と元に戻らないかも知れねぇ。そこでだ、俺は、今まで世話になったアンタに、とりあえずだが、これがこんな状態でいまここにあった、というその価値を見届けてほしいんだ。それがあれば最低限俺が生きた証になる。これまでこしらえたガラクタなんざどうでもよくなるぐらいにだ」 「失礼、貴方ほどの御方がいったい何を……」 「迷宮時計」 その言葉を耳にした藤高は頬に痙攣を覚えた。 「当然フジタカも知ってるだろ。迷宮時計のこと」 知らないはずもない。とある魔人が遺したという強大な能力のかけら。時計の形態をとり、所有者に憑り付く。それは当然美術品蒐集家にとっても垂涎の品であったからだ。それを手にした者は望む望まざるに関わらず悲劇的争いの渦に身を投じるという。 「入手……されたのですか。あの、迷宮時計を」 藤高は自らの声の震えに却って動揺する。 「だいたい、そんなところなんだがな。まあ、見てもらえりゃ一番早い――そういうわけだ。出ろ」 丸瀬は不意に振り向き、虚空に話しかけた。  ――しばしの静寂。藤高は眉根を寄せる。 「聞いてんのかよ……ったく」 ソファの裏に手を伸ばし、放置された所蔵品の中から何かを引きずり出す。灰色のずた袋のような何か。 「アー……」 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その中でもひときわ大きい林檎大の大穴が少女の胸の中央やや左寄りに空いていた。心臓のあるべき場所。空白。そこに、時計があった。真鍮の懐中時計。少女の脈拍と連動するかのように、その針は文字盤を踊り時を刻む。精密な螺鈿細工と細微なる彫刻を施され虹色に光るその筐体は、また鉄、木、なめし革など幾多もの素材で作られた歯車やぜんまい仕掛けと組み合わされ、宇宙の法則を記述する神の精密機械の様相を呈していた。その縁からは二重螺旋を模した銀鎖が三方に延び、時計の存在を空虚な胸の中央へと固定していた。 「すばらしい」 熟練の画商から嘘偽りの無い感嘆が湧き出た。 「すばらしい、本当に……本当に」  丸瀬は満足げにため息をつき、床に投げ出された衣服でもって再び作品の梱包を始める。 「二週間ほど前これを拾った。魔人と時計。どっちもボロボロだった。自分の名前すら言えねぇ。時計もひび割れ動いているのがやっとの有様だった。それをこいつが肌身離さず握り締めていた……いくつかもう経験してきたんだろう、迷宮時計をめぐる争いってやつだ。それを今まで勝ち抜いてきたようだったが、限界だった」  手を動かしつつ芸術家は解説を続ける。 「とにかく、拾い物だった――俺は直感した。この魔人の奇ッ怪な能力と、迷宮時計。これは俺の最高傑作になる。間違いなく。で、あとは俺のいつもどおりのやり方だ。拾って、加工。今日までずっと徹夜だ。ここまではできた。だが俺にはわかる。これは不完全だ。迷宮時計は、完成を待っている。かけらが足りない。他のかけらすべてを食らったそのとき、俺の《一切空》は、この不完全な無のイデアの模倣は、真に賞賛すべきものへと変わる。」 少女は元々着ていた衣服に包まれ終わると、だらしなくその場に座り込んだ。  藤高はまだ打ちのめされたままであった。 「いや、十分です。この時点で……もう、この段階で、人類という種を根本から進化せしめるほどの大傑作。間違いありません」 丸瀬は含み笑いとともに応じる。 「何言ってんだ、アンタらしくもねぇ。俺は完成を目指す。もっと、もっと完璧な姿になれるぜ、こいつは……」 「いえ、十分です、と言ったのです」  丸瀬は空気の変化を肌で感じ取った。真正面に立つ画商は、いままでに見せたことの無い表情をその顔に浮かべていた。喜びと絶望と決意がそのまま凍りついたような笑み。そしてその左手には拳銃。 「それを直ちに、私めに譲っていただきたい。金なら望むがままの値で引き取らせていただきましょう。我らが商会が責任を持って永久に保全いたします。リスクは許容できません。稚拙な争いごとによって、これをみすみす世界から失わせるわけにはいかない。これは人類の、いえ、宇宙の宝です」 「……本気で言ってんのか、それ」 複数の魔人芸術家とコネクションを持ちタフな交渉をこなすこの藤高という画商は、実のところ、魔人ではなく、特筆すべき能力を持たないただの人間であった。その過酷なビジネスを支えていたのは、ひとえに真に芸術を愛する誠実さと、災厄の象徴たる魔人に対する引き際の心得であった。だが、この敵対行為は、明らかにその最後の一線を踏み越えていた。 「アー……」 少女の首がまた逆へ、かたり、と傾いた。「商談」の当事者でありながら、少女の漆黒の瞳には目前のふたりも含め何も映っていないかのようであった。 「お願いいたします。どうか、どうかこれを……」 「アンタは恩人だし。嫌いじゃなかったんだけどさ」 丸瀬の魔人能力をもってすれば拳銃を持つただの人間など如何様にするも容易い。相対する藤高自身もそのことを重々承知している。だが丸瀬は不思議と目の前で殺意を突きつけるこの男を殺害する心積もりにはなれなかった。深い諦念と失望が男の身体を抑えつけていた。 「いいや。やるんならとっととやってくれ」 「……大変、残念です」 引鉄に添えられた人差し指が曲がる。が、その一瞬前に、事は動いていた。今まで路傍の石の如くの存在であったその少女。一切空と題されたその娘が、身を低くぬらりと動かしていた。銃弾が放たれるその一刹那前に、少女は銃身の真正面にいた。魔人の持つ身体能力は常人を遥かに上回る。だがそれがこのような形で突如発揮されるものとは、当の少女を除くふたりには全く予想し得ないことであった。  銃弾が少女の左こめかみを貫いた。衝撃が少女を大きく後方へと吹き飛ばす。芸術家の心臓を正確に狙ったその軌跡はわずかにそらされ、彼の座るソファの背へと突き刺さった。  ――大きな音を立て、拳銃が床へと滑り落ちた。 「私……私は、なんと言うことを……」 画商の顔面はもはや蒼白を通り越して病的な鈍色であった。 「私は……」 いまだ腰掛けたまま動かぬ丸瀬十鳥の足元に少女は横たわる。それを一瞥すると、彼は目前の哀れな男に告げた。 「安心しろよ。壊れちゃいねぇ」  その通りであった。一塊の殺意に脳天を貫かれたはずのその少女は、まるで何事も無かったかのようにむくりと身を起こした。無事である。しかしそこには、確かに、こめかみから後頭部へと貫通する一条の穴が穿たれていた。その穴からは一滴の血も流れてこない。先程橙の明かりの下で見た、あの裸体。そこにあった無数の穴。それと同じものが、新たにまたひとつ生み出されていた。 「アー……」  不意に、その額の穴が、するりと動くのを藤高は見た。穴が、穴自身が、少女の肌の表面を滑り動いた。それはこめかみを降りて左頬を通り過ぎた。頬の穴からは白い歯が一瞬覗いた。さらに首元を過ぎ、少女が纏う灰色のパーカーの下へと飲み込まれ、見えなくなる。すぐにそれはその裾の下から左の掌へと現れた。さらに、左手の指を広げ床に掌をつけると、穴は床へすとんと落ちた。床に空いたその滑らかな穴も、やはりするすると動きはじめる。それは明確な意思を持ってこちらへと向かってくる。穴は足元に到達する。靴を這い登り、肌へと渡り、スラックスの裾の中へ……肉体のトポロジーの変化を悪寒とともに追っていくと、藤高は、3メートルほどの短い旅路を終えたあの穴が、今や己の額の中心に存在することを悟った。ぱつん、と何かが破れる音がした。が、その音を藤高自身はもはや聞いていなかった。額の穴から血と脳漿を流しつつ、男は床へと倒れ伏した。そこにあるものはただの穴。肉と骨と脳髄を掘り抜いた、何の変哲も無い、ただの穴。男は絶命していた。当然、頭蓋を銃創大の穴が貫通したまま生きていられる人間など、この世には存在しない。 「返したのか……」 少女は答えず、もはや興味の無い様子で床材を掘り返している。丸瀬十鳥はしばらくそうしていたが、やがて立ち上がり、積み立つ品々を掻き分け、奥の冷蔵庫から酒税逃れの偽造缶ビールを取り出した。盟友を失った夜。安酒に呑まれるも良かろう。 「次の品に参ります……では1億2000万から……1億5000万……」  机に放置された映像端末は未だ虚空に向かって退屈な数字を重ねつづけていた。 [[このページのトップに戻る>#atwiki-jp-bg2]]|&spanclass(backlink){[[トップページに戻る>http://www49.atwiki.jp/dangerousss4/]]}}}} 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