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    <title>衒学的哲学Wiki</title>
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    <description>
      Ⅱ
**モダニティの制度特性（Ｐ．７５～）
Ａ　資本主義
Ｂ　工業主義
Ｃ　監視装置
Ｄ　軍事力（暴力手段の管理）
-Ａ－《資本主義》とは、資本を占有する人々と資産をもたない賃金労働者との関係を中心に展開する商品生産システムであり、資本家と賃金労働者が階級システムの基軸を構成している（Ｐ．７６）
-Ｂ－《工業主義》の特徴は、商品生産における無生物的原動力の使用であり、それは、生産過程で、機械装置が中心的役割を担っている
-Ｃ－近代の統治システムや近代国家の領土の明確化が、行政面における中央集権化を発達させるとともに、《監視》能力をも発達させた。《監視》とは、政治の領域での（政治領域に限られないが）、被統治住民の活動の管理
-Ｄ－前近代においても、軍事力は、主要な特徴であったが、政治権力の中枢は、軍部の安定した支持を長期に確保できなかったし、領土内での、暴力手段の独占的管理ができなかった。近代国家では、明確に規定された境域内での、首尾よい独占が可能になり、また、軍事力と工業主義が明確に一体化したのも、示唆的な特徴
**これら（ＡＢＣＤ）、モダニティの制度的特性の相互関係について
資本主義（Ａ）は、自由競争を旨とする労働市場と製品市場とを背景に経済と政治の遮断を必然的に伴っている。監視（Ｃ）資本主義（Ａ）と結びついて相互に発達してきた国民国家に必須なものであり、同様に、国民国家による監視活動（Ｃ）と、近代における軍事力（Ｄ）の変質との間には、実質的な結びつきがある。近代国家が暴力手段を首尾よく独占できたのは、刑法の新たな長年に及ぶ法整備や『逸脱』にたいする、指揮監督管理にもとづいている。
また、軍事力と工業主義とは、直接、結びつき、その結びつきの主要な現れが、戦争の工業化である。また、工業主義（Ｂ）と資本主義との間にも、明確な結びつきを認めることができる。
さらに、監視（Ｃ）は、工業主義（Ｂ）の発達と密接に結びついており、工場や製造所、作業場における管理的権力を強化していった。また、資本主義的生産（Ａ）が、工業主義（Ｂ）と合体した場合に、経済的富にも、軍事力（Ｄ）にも、大幅な躍進をもたらした。
これらの制度群の背後には、一章でみた、モダニティのもつダイナミズムの３つの源泉（時空間の拡大化・脱埋め込み・再帰性）を見出すことができる。
**モダニティのグローバル化（Ｐ８４～）
『モダニティは、グローバル化していく傾向がある、この点は、近代の諸制度がもつ、最も基本的な特性のなかに、とりわけ脱埋め込みと再帰性という一部の特性の中に、明示されている。』（Ｐ．８４）-グローバル化とは、ある場所で生ずる事象がはるか遠く離れたところで生じた事件によって方向づけられたり、方向づけたりするといかたちで、遠く隔たった地域を相互に結びつけていく、そうした世界規模の社会関係が強まっていくこと。
-グローバル化した社会関係の発達は、国民国家と結びついたナショナリズム感情をある面、弱める働きをするが、もっと、局域的なナショナリズム感情の高まりを結果的に生じさせるかもしれない。
**二つの理論的視座（Ｐ．８６～）
-グローバル化をめぐる議論は、多分に視点を異にする、二組の文献群は、形づくって発表される。ひとつは、国際関係論の文献、もうひとつは、マルクス主義の立場に近い、とりわけ、イマニュエル・ウォーラースティンと関係する『世界システム理論』の文献である。
-国際関係論の論者は、一般に国民国家システムの発達に焦点を置き、ヨーロッパにおける国民国家システムの起源と、その後の世界規模での国民国家システムの普及を分析しようとする。
-しかし、国家間の国際的連携しか問題にしておらず、国家を行為者とみなすことが、有用で、意味をなす状況は、存在するが、こうした捉え方が、なぜ、意味をなすのか、説明していない。また、こうした捉え方は、国民国家の場合にだけ意味をなし、前近代の国家には、意味をなさない。
-ウォーラースティンの研究は、近代への転換の原因として、最も有力な制度的結合体を、相変わらず、資本主義しか想定してないため、また、経済的影響力を過大に重視しているため、国民国家と国民国家システムの台頭について、納得いく説明に苦労している。
**グローバル化の諸次元（Ｐ．９１～）
-世界資本主義経済の次元－世界経済における権力の中心は、主として、資本主義国家である。資本主義国家のとる内外の経済政策は、規制をともなっているが、経済を政治から遮断してきた。このことは、営利企業が、地球規模で、活動する余地を大幅にもたらし、その結果、営利企業は、つねにある国に、本拠を置いているが、他の国ぐににおいても、その地域で、活動を展開していくことが、可能である。
-国民国家システム次元―主権自体、再帰的にモニターされるものとして、解釈される必要がある。主権は、国民国家システムの初期の発達段階では、『辺境地帯』が『国境』にとって、かわったことと関係している。だから、国家が要求する領土内での自治は、他の国がその国境線を承認することによって、初めて認可されていく。この点は、国民国家システムと前近代の国家システムとを判別する重要な要素のひとつであり、前近代の国家システムでは、この種の再帰的に秩序づけられた、関係は、ほとんど、存在せず、『国際関係』という概念は、意味をなさなかった。
-世界の軍事的秩序の次元―戦争の工業化と、世界の一部地域から他の地域への武器類や、軍隊編成方法の流出、国家どうしが、形づくる同盟関係との、相互の結びつきを分析する必要がある。また、軍事力のグローバル化は、戦争そのものにも関係している。
-工業の発達の次元―この工業の発達の最も顕著な側面が、全地球規模での、分業の拡大であり、こうしたかたちの分業体制の拡大は、世界の工業化を達成した地域とそうでない地域との分化を必然的に伴っていった。また、工業主義のもつグローバル化という意味を如実に表しているのが、機械技術の世界中への普及である。工業主義のもたらした、最も重要な帰結は、コミュニケーション技術の変革である。（文化のグローバル化という側面に注意を向けさせる）    </description>
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    <title>『マルチチュードの文法』</title>
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    <description>
      *序章
**マルチチュードと人民
-人民・国家が《一者》に収斂するのに対して、マルチチュードは&lt;多様なもの&gt;である
-人民は国家の存在との密接な相関関係を持っている(by ホッブス)
--人民に単一の意志が与えられる
-マルチチュードの中間領域
--個別なものと集団的なもの、公的なものと私的なもの
**収縮する《一者》ではなく、拡散する《一者》を
-→多数的なものを多数的なものとして迎え入れるマルチチュード
*第一章
**懸念と防御の弁証法[カント]
-&lt;世界=内=世界&gt;の生来のリスク←&lt;心的自我&gt;
-絶対的危険性
**恐れと不安[ハイデガー]
-内側(住み込み)/外側(離れ)
--マルチチュードによる外と内の終焉根拠(外と内の一体化)
--根拠
---実体的共同体の消滅
---自分の家にいると感じられないこと(=世界への全方向的な露出)
---守り→危険の中で守りが危険となる
**特殊なトポスから共有のトポスへ
-前提としての思考者＝&lt;外国人=よそ者&gt;
-思考が成立するギリギリの地平としての「共有のトポス」
**公的領域なき公的知性
-狂ったような支配形式の増殖
-分有⇔分業
**マルチチュードですら《一者》から逃れうることができない
-《一者》の規定のしなおし
-求心化(=「人民」)から遠心化(=「マルチチュード」)へ
*第二章
-《労働》(有機的な交換)/《政治的行動》/《知性》(孤立)
--→「他人のまなざしへの露出」(政治的行動) 
--→労働こそが、政治的行動のさまざまな外的特徴の獲得
**名人芸
+それ自体の中のそれ自体の完成
+他人のプレゼンスを必要とする活動
-名人芸と政治的行動は似ている
-- &lt;作品なき労働&gt;=&lt;人格的な奉仕&gt;
-&lt;話す存在&gt;=先行テキスト不在としての名人芸
***文化産業
-「名人芸的」なものであると同時に「政治的な」もの
--ポストフォーディズムをまとめたものとして(コミュニケーションの即興性)
***スペクタクル
-商品と化した&lt;人間のコミュニケーション&gt;
--文化産業に特別な商品
-二重の本性→特殊な産業の特殊な生産物/ひとつの生産様式全体の真髄
-可能性のあるもの(まだ現れていないもの)
-コミュニケーション産業の出現
***&lt;途中まで&gt;

*第三章
**個体化原理
-終着点としてのアトム
***前個体的
+生物学的知覚
+&lt;博物学=自然誌&gt;的言語
+支配的な生産関係
***両性的主体
+個体化は決して完全のものではない
+-「私」であると同時に「ひと」でもある
+集団、集団的経験は根源的な新たな個体化の土壌である
***社会的個人
**生政治
-生が政治的に管理されると考える(フーコー)→何故？
-補助線としての労働力(＝力能、可能態)
--資本主義における「現在的ではないもの」
--売り手の生きた人格と不可分ではない
-生そのものが労働力をあらわしている
**マルチチュードの諸気分
*第四章
**(テーゼ1)イタリアにおける社会闘争の確認
-経済制度を改革するような生産性と、政治的支配の立ち上げ
**(テーゼ2)知の優位性
**(テーゼ3)マルチチュードは自らのうちに労働社会の危機を映し出す
-マルクスによる三つの「産業予備軍」
--流動的/潜伏的/沈殿的・労働社会の止揚は賃金労働に基づく
---内破する労働 
**(テーゼ4)ポストフォーディズム的マルチチュードによって、労働時間と非労働時間との質的差異は消失する
-(グラムシ)知性は生産の外にあった
***ポストフォーディズムは「精神の生活」で満たされる
-失業＝不払い労働/労働＝有給の失業
--労働の外で培われた経験が労働の中で非常に大きな比重を持つということ
**(テーゼ5)余剰価値
-(以前)必要労働と労働日全体とのあいだの差異
-(以後)生産時間と労働時間の差異へ
**(テーゼ6)ポストフォーディズムの特徴・多様な生産モデルの共存
-同質な労働外の社会化
**(テーゼ7)労働過程はもはや寡黙なものではなく、むしろ雄弁なもの
-コミュニケーションが資本主義の中心を陣取る
**(テーゼ8)ポストフォーディズム的労働力＝知的な労働力
-&lt;話す存在&gt;こそが大衆知力である
**(テーゼ9)マルチチュードは「プロレタリア化の理論」を埒外に置く
**(テーゼ10)ポストフォーディズムとは「資本のコミュニズム」

*整形済ログ
**序章(5/22分)
deconstructionjp: 序章のマルチチュードvs国家といいますのは、国家がある一点に対して収縮していくような運動、つまりまとまっていくような概念にたいして、マルチチュードがその一者に収縮するのに抵抗するものとして現れてくる。つまり、まとまらない集団として、あるいは均一化されない集団として出てくるわけです。ホッブスなどが、この概念を忌み嫌うのは国家＝人民は一つの意志を代行しうるものだから、一者にまとまってくれないと困るわけです。

canis_demens1004: つまり、単位としての個人が集約する社会システム、というよりは、個人が（例えば国家という）ある目標とされる一点に集約されていく、その点そのもの、ということでしょうか・・・？

deconstructionjp: はい、そうです。ただ一者を否定するだけだとするならばポストモダンがやったような、不毛な差異の強調ゲームに終始してしまう結果となる。だから、レジュメになりますと私的と公的、個別と集団　という間の存在として立ち現れてくる。そのような両義性を含むものとして現れているといってもいいでしょう。差異を強調しつつも、個人にいかない、集団で繋がっているというような「群集」として、マルチチュードは提起されるし、また現れている、と主張するわけです。従って、本書の目論見といいますのは、そのようなあり方とはいったい何なのか、何が可能にしているのかということを考えるというわけです(序章おしまい)
***canis_demens1004: ここでいう『一者』とは、つまり『国家』と同義、ということではないのでしょうか？
deconstructionjp: うーん、一者といいますのは、多分、「ある点」として考えると解りやすいのではないかと思います。その点を目指すものとして、国家や人民というものが必要になった、という解釈を僕はとっています。

***canis_demens1004: 自分が一番ひっかかったのは、その「一者」の必要性についてなんですよね

deconstructionjp: 一者の必要性といいますと？

canis_demens1004: 到達点としての一者を想定した上で「マルチチュード」という概念を創出しようとするのでしたら、それはどこまで行っても「人民＝国家」という構図の言い換えにならないのではないか、と・・・

deconstructionjp: 第一章の話にもなるのですが、問題は「一者」という点をどのように捉えていくか、ですね

canis_demens1004: すみません、本書を先に読み進めていけば、その辺の回答も提示されているのかもしれませんが、ちょっと一章に入った辺りまでしか、まだ読み進めてなかったものでorz

deconstructionjp: いままでの概念だと、多数性から一者に到達するものとして、構築されていたし、そのように現れているというわけなのですが、むしろ、逆転関係として、つまり一者から多数性へと到達しうるようなことを考えているみたいです。ですから、収縮点としての一者ではなく、限りなく拡散していくものとしての一者といったらいいでしょうか。つまり、一者自体は否定しない、その意味が変わっているのだということだと思います。

canis_demens1004: ベクトルを持つ社会性ではなくて、全体をひとつの総体としての『一者』と捉える・・・ということかなあ？

deconstructionjp: ちょっとまってくださいねー

lily_sweet_heart: 一者は　でこんさんは曰く　「点」ですよね

deconstructionjp: はい、そうです

lily_sweet_heart: 点＝個では　だめなの？

deconstructionjp: あー、「個」という含みを入れて、「一者」といったのかもしれません＞lily

deconstructionjp: 
     　・
    ／ | ＼
  ／   |   ＼
／     |     ＼
A,B,C,D,E,F,G…　↑
deconstructionjp: 普通だったら、このように「特異性」のものから「普遍的なもの」(図だと上方向)なのですが、マルチチュードの場合、逆方向へ向かうというわけです。

canis_demens1004: 例えば、グローバリズムみたいな考え方が先にあって、そこからマルチチュードのあり方が求められる、ということでしょうか？

deconstructionjp: かもしれません。
*第一章
deconstructionjp: えと、レジュメの最初に書いてあります、カントのお話なのですが、これは要するに「世界が消滅してしまうかもしれない」ことへの恐れですね。そして、もし世界が消滅してしまうとするならば、どうすればいいか、ということです。その為には「世界」から保護してくれるような心的自我を想定する必要があった。つまり避難所が必要だった、と説明しています。そこで、世界を消滅させるようなものがどのようにして現れるか、それをハイデッガーを使います。恐れは何かしらの消滅する原因が解るのですが 不安は、そのような消滅させうるような対象がわからない、ということで区別します。そこで、ハイデッガーは不安というものは＜世界に全面的に露出されている我＞というものがあるといいます。ここで、一つのクッションとなる(つまり、不安を恐れに変えることができるもの)が共同体である、ということができるのではないでしょうか。しかし、もはや共同体が崩れしまったとき、恐れは不安、言いかえれば＜不気味なもの＞として現れてくるといえるでしょう。そして、現代の共有意識というのが、既に「居場所が無い」ということになるということができるのではないか。だとするならばマルチチュードというのは、まさにそのような「居場所が無い＝不安である」ことを共有するような団体(共同体、とヴィルノは述べてますが)ということができるのではないか。そして、さらに反動的な意識として、「居場所を囲い込む」ということがありうるでしょう。これをセキュリティー化と呼んでもいいかと思います。

canis_demens1004: （すごく例えが悪いかもしれないけど、なんかホームレスのコミュニティに近いような・・・＞居場所が無い　を共有する）

deconstructionjp: そうですねー。日本ですとホームレスだということかもしれません。ただ、居場所が無いというのは具体的に住む場所が無い、ということだけではなく

canis_demens1004: 精神的な、という意味ですよね

deconstructionjp: 例えば、夜道を歩いていて、何処かから襲われたりするのではないだろうか、というのも居場所のなさということも出きるかと思います

deconstructionjp: ただし、この守り、つまり囲い込みから何が危険であるかを察知しうることができるといってもいいかもしれません。さて、そのような世界と戦うために考え出されるのが「共有のトポス」です。「特殊のトポス」と比較するとわかりやすいのですが、こちらは要するに共同体や専門家ということを前提とした話をするものとして現れます。しかし、その一方で、居場所の無さとして現れるわけですから、そのような共同体を前提としたはなしかたは出来ないわけです。(ただ、個人的に注をしておきますと、これはヴァルノが住んでいる場所が元になっているため、日本に簡単に当てはめうるものか？というところが少々疑問ではありますが)すると、そのような「特殊のトポス」がどんどん削られていき、言語や思考できるギリギリのラインとしての「共有のトポス」が露出してくるというわけです。したがって、「共有のトポス」が前面に出てきてしまう、というわけです。

lily_sweet_heart: （はい・・・・だんだん　わかんないけど　ま　いいか＾＾）

deconstructionjp: 僕もいまいち「共有のトポス」というのはよくわからないです。ただ、もしかしたら向こうのクレオールだったり何なりを前提としているのかなとも思っています

lily_sweet_heart: あ・・・うん　そこがわんないです＞共有のトポス

canis_demens1004: 公理とか、思考領域、という捉え方では間違いでしょうか？＞この場合のトポス

deconstructionjp: http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/1959/notes/topos.htm　こんなページがありました。

「本来トポスは弁論作製のための補助手段である．それはクインティリアヌス(Ⅴ 10, 20)がいうように，「論法の庫（くら）」（argumentorum sedes）であり，したがって実際的な目的に役立つものである」←これは重要かもしれません

実際的な目的に役に立つ、というのはまさにヴァルノが強調している、危機回避能力とでもいうべき思考と絡んでくると思われます。生物学的＝数学的な専門知識ではなく、まさに偶発事や不可解な出来事に備えるための最低限の「補助手段＝抽象思考」とでもいうべきなのでしょうか。

canis_demens1004: すみません、ちと所用が発生したので一端離席します。そのまま進めてください。後でログを拝見します。

deconstructionjp: (この場合、一番わかりやすいのはもしかしたら虫のしらせ、という奴かも

lily_sweet_heart: 虫のしらせ・・・が　ポトス・・・？

deconstructionjp: ええ。ただ、それだと余りにも直感すぎるってところもありますが…

deconstructionjp: あ、まーたおいら適当なこといってた^^A

deconstructionjp: ちゃんと説明しますと、(やはり虫のしらせだと直感すぎる＝主観すぎる)

deconstructionjp: 共有のトポスには三つあるらしいです(アリストテレス)より大きいもの小さいものという比較、お互いに反対するものや対立、または関係図　というものらしいです。先ほども申しましたように思考ができるギリギリのラインですねー。(例えとしては虫のしらせより、ジンクスのほうがいいかもしれませんね)

lily_sweet_heart: それは・・・トポス？　共有のトポス？

deconstructionjp: ええ。例えば「僕ジンクス」や「私ジンクス」みたいにこれをしたらなにか悪いことがおきる、というのは、そこに何かしらの因果関係を見出す、ということですから。それは科学的であれ、科学的でないであれ。で、このように思考できるギリギリのラインで考えることこそがマルチチュードであるというわけですね。マルチチュードの定義からして、まず居場所が無いことであり、そして、特殊のトポスは共同体を前提とするわけですから二つは合い入れないというわけです。ですから、ギリギリで考えている以上、そこにはもはやどれだけ知識があるとか、どれだけ知的に隔離されていようが関係がないというわけですね。ただ、ヴィルノさんはここで、補助線を引きます。その補助線といいますのが、「反復」という概念です。それもまた、一つの防衛機構であり、子どもの頃からやっているものではないかと考える。ですから、これもまた一つの「共有のトポス」になってくるのではないか、と考えていらっしゃるみたいです。ただ、さきほども言いましたように、ジンクスも一つの共有のトポスであるのではないかと申しました。だとするならば、そのジンクスによって、支配形体を作り出すことができます。そして、しかもそれらは狂ったように増殖しはじめていくのではないかと考えるわけです。これをマルチチュードの否定的側面と捉えています。

**lily_sweet_heart: 途中で口はさみますが・・・でこんさんは　この概念はどうお考え？
deconstructionjp: 僕は、前にちょくちょく短期アルバイトや、長期アルバイトをしていたのですがその場合(特に短期アルバイトはそうですが)、やはりさまざまな人が居たりするわけですね。そこで、上記の言い方になりますと「特殊のトポス」というのは削いでいかないといけないわけです。そのような体験上、僕はさっきの議論というのはリアリティーを持つわけです。(それが現実のものであるかは検討しないといけないのですが)ですから、僕はリアリティーがある以上、積極的に検討してみようかなと考えている次第です。

**第二章(6/5分)
deconstructionjp (20:08:56): ヴィルノさんは次のように指摘します。分業と分有は対立関係になっているといいます。僕の直感ですと、分業は「それぞれが分断されて仕事を行っている状態」、つまり特殊なトポス＝専門職であるように捉えることが出来るのではないでしょうか。しかし、そのような専門職ではないような、固定化された職ではなく、流動的にうつりかわりの激しいものとして、分有が成立してくるのではないでしょうか。むしろ、そのような職場では知識よりも知性、つまりヴィルノさんは人格的なものによって基盤を置かれていると説明します。で、一回　《一者》とマルチチュードの関係について見ることになります。前にもcanisさんが質問なさっていたように、《一者》というのからマルチチュードは逃れられないわけです。しかし、今まで《一者》か目指されるものであった(真理の追求)であったのに対して、むしろ《一者》からすすみ、そこから多様性が生み出されるものとして方向転換されるべきだと規定されます。つまり、もはや目標ではなくスタートラインである、というわけです。
***mutumigoe (20:22:20): 真理の追求だったの？

deconstructionjp (20:24:25): 多数的なものから普遍的なものを取り出すという意味で考えるならば、「真理の追究」としてでも考えられないかなーと思いまして

mutumigoe (20:26:41): おれが想像する一者というのは、vox pupuli, vox deiにみられるような、国家統一によって画一的なものとして想定され、それを強いるものだね。代理制では、代理者が、代理されるものをつくってしまうような。それを、「真理の追求」というのは、普遍性との関係もあるんだろうけど、ちょっと違和感あるな。。。ヴィルノがいってるのかな？

deconstructionjp (20:28:53): はい、集団による「代表」を取り出すということですね

kazenotani_mio (20:29:13): 悲観論として・・ですね

deconstructionjp (20:31:07): (あ、僕がそのような意味合いとして捉えられることが出来るかなと思いまして。ちょっとヴィルノさんとずれてくるかもしれません…＞mutumi

mutumigoe (20:31:30): 了解です。

***kazenotani_mio (20:23:32): 質問ですが・・・第１章において・・「居場所が無い」という　共有意識というのは・・ニヒリズム　に　繋がりますか？

mutumigoe (20:25:12): それは、マルチの構造的な問題で、必ずしもメンタルじゃないよね。＜「居場所が無い」

deconstructionjp (20:27:09): (ニヒリズムですかー。うーん、ヴィルノさんはニヒリズムについては説明をしていらっしゃっていたかな…個人的には、ニヒリズムは居場所の無さというよりも、居場所を維持するような意味合いも含まれているような気がします)

deconstructionjp (20:34:42):しかし、国家はそのような《一者》を強要してくるのに対して、既に共同体はそのようなトポスを達成している。ここですれ違いが起きてしまうと思うわけですね。そのような＝代表を要求してくる、という意味でですね。共同体というとおかしいか…むしろ社会といったほうがいいですね。そのような一者への収縮を拒むような形として「抵抗権」が提示されるといいます。従って、「維持的暴力」になるのではないかといっています。ですから、mioさんがおっしゃられた「ニヒリズム」というのはそのような「維持的暴力」として捉えられないか。つまり生活様式を守るために過度な相対性を持ち出してくるのではないか。そのように感じました。

mutumigoe (20:38:13): うむ、社会契約論の文脈では、よく「抵抗権」が議論されるね。

deconstructionjp (20:39:24): 「抵抗権」は認めうるかということですね…ホッブスは確か認めていらっしゃらなかったんですよね。(それに対してロックがそれを認めたわけですが)

mutumigoe (20:40:25): うむ。カントも認めない・・・

kazenotani_mio (20:40:40): トポスは必然的に　生まれてくるもの　なら　マルチ　と　対立するわけですね　

kazenotani_mio (20:41:37): なるほど、ニヒリズムとは　また別の　次元なんですね

deconstructionjp (20:42:02): うーん、「共有のトポス」は、マルチチュードとは対立しないといいますか、逃れられるものではないと思うのですね。先ほども述べたのですが、スタートラインとして立つべきところであって、決して目指されるべきものではない。ですから、それを「目指されるべきもの」として提示された場合、そこで対立が起きている、というように思われます。どちらかというと、僕にはニヒリズムは「生存＝生き延びるため」の技法という捉え方のほうがしっくりくるかなと思いましたので＾＾A＞mio

kazenotani_mio (20:44:04): トポスは始点として存在するものなんですね・・了解しました

deconstructionjp (20:45:24): ただ、ヴィルノさんはマルチチュードが代表を不可能にするとは述べているのですが、しかしそれで労働階級が無くなるわけではないとおっしゃってます

mutumigoe (20:46:05): 「、「家なき者たち」からなるマルチチュードは、知性に、すなわち「共有のトポス」に、身を任せているのです。そして、独自のやり方で、（たとえ彼らが小学校しか卒業していなくとも、そして、たとえ彼らが拷問のもとにおいてすら本を一冊も読めなかったとしても）思考者たちのマルチチュードなのです。」（５７ｐ

kazenotani_mio (20:47:09): わかりました

mutumigoe (20:47:11): うん、、「共有のトポス」は、マルチチュードとは対立しないよね。

deconstructionjp (20:48:36): (P.65を引用しますと「反対に、マルチチュードのほうはひとつの遠心化的運動の、すなわち《一者》から《多数的なもの》へと向かう運動の成果です」と書いてありますし)

deconstructionjp (20:49:39): ここのあたりが難しいのですが、ヴィルノさんはそのような「絶対的価値」と「相対的価値」の交差点として「労働階級」がありうると捉えてあります。そんなこんなで、マルチチュードは歴史的な考察から無視されてきました。私達は今、このマルチチュードを分析するような必要性がある、というところで一章が終わります

**一章質疑応答

mutumigoe (20:53:57): 絶対的剰余価値と相対的剰余価値は、資本論の語彙みたいね。。。

***canis_demens1004 (20:53:12): スタート地点を規定することが何故必要なのか……とりあえず、それが最大の疑問です。個体の有機的な集合としての全体が、結果として捉えられることは理解できるのですが、ここで言う『一者』というのは初めに理念ありきであって、どうしても国家という概念の言い換えでしかないような気がするんですよねぇ……そこのところがどうにも腑に落ちない、といいますか（汗

deconstructionjp (20:55:50): スタート地点を規定する必要があるのかどうか。確かにそれは重要だと思います。

mutumigoe (21:00:05): 一義的には国家だと思いますよ。ただ、国家による求心的な力から逃れたマルチもまた、なんらかの一者（統合）からまったく自由でないってことでしょう。＞かにさん

canis_demens1004 (21:02:23): 確かに言語を共有している時点で『なんらかの一者』から自由になることはできない、のでしょうね。なるほど確かにそう考えると、単一の存在としての個というものそれ自体がそもそもありえないのかもしれないなあ・・・。

lily_sweet_heart (21:04:16): マルチの概念において　国家の捉え方が違いますよね　むつみさんがおっしゃったように

mutumigoe (21:04:51): まあ、言語だけでなく、いろんな不自由があｇｇるんですが、それはおいおいでてくるとおもわれ。ちなみに一般知性の共有は、画一化の一面でもあるのだろうけど、あるいみ、連帯の契機でもあるとおもうよ。＞かにさｎ

canis_demens1004 (21:07:52): ああ、スタンドアロンコンプレックスだ（ぉぃ＞一般知性の共有は、画一化の一面でもあるのだろうけど、あるいみ、連帯の契機でもある

***kazenotani_mio (20:53:30): 社会学者達の　中には労働の終わりを予言してる人達もいる。と聞きましたが。機械主義が　徹底したら労働は組織的に減少　するという・・（これは　マルチとは　関係ないのかもしれません）

***lily_sweet_heart (20:56:29): （歴史的考察から無視されてきた　マルチチュードはなぜ今分析する必要でてきたのでしょうか？）

deconstructionjp (20:58:19): うーん、ある意味では労働がある種の共同体を成立しうることによってのみあったのに対して、それほど共同体を重要としなくなったのではないかという転換も含まれているのかなと…これは想像でしか解らないのですが。うーん、前にも話したのですが、例えば派遣制アルバイトなどですね。僕は労働の歴史に詳しくないので何時頃から出来たかは解らないのですが、そのようにある人をそれぞれの場所に回してくるというようなありかたが段々出てきたのかなと思っていますー。それは予め成員を固定したものとしてあるわけではない、と思いますから。

kazenotani_mio (21:01:52): 確かに　今の労働は・・変化してきています。基本的な社会のつながり（地域・家族）　が　労働を中心としていた・・というのは　もう　一昔前の事　なんですね

***mutumigoe (21:02:10): マルチチュードってのは、グローバル化した社会の成員を規定するために持ち出された術語だよね。

deconstructionjp (21:03:40): うーん、そこのところがちょっと気になっていまして。フランスの労働状態というのはもしかしたら日本とは全く違っていて、隣に外国人が文字通りいるような状況なのかなとも思いましてだとすると、安直にマルチチュードを日本に移植は出来ないことになりますし…


mutumigoe (21:06:03): うーんそれもあるでしょうね。ただ、国民国家の枠組みが緩んでインターナショナルなものが

kazenotani_mio (21:06:56): なるほど

deconstructionjp (21:07:06): ユーロみたいなものかな

mutumigoe (21:07:25): 前面に出てきた今日、どの社会にもある程度、普遍的に見られうるものと想定されてるんではないかしら。

deconstructionjp (21:07:46): 隣のスペインの職場のほうが近いから、そこに働きに行こう、みたいな感じもあるのでしょうね

lily_sweet_heart (21:08:29): （ユーロは今回売られましたね・・フランスのせい？ｗ）

kazenotani_mio (21:08:47): 加盟する　各国が　同じ一人の大統領を　持つ　という・・欧州連合＞でこんさん

kazenotani_mio (21:09:08): フランスが反対しましたが

deconstructionjp (21:10:07): ふーむ、なるほど…

mutumigoe (21:10:34): ここ、「上在」とか、意味不明だなあ。文字化けかしら。「現代のマルチチュードにとって、「自分の家にいると感じられないこと」という条件は、恒常的なものであり、上可逆的なものです。実体的な共同体の上在、そして、互いに組み合わされた諸々の「特殊なトポス」の上在によって、〈外国人＝よそ者〉の生活、〈自分の家にいると感じられないこと〉、すなわち、〈bios xenikos〉〔〈外国人＝よそ者〉の生〕は、逃れ得ない永続的な経験となるのです。つまり、「家なき者たち」からなるマルチチュードは、知性に、すなわち「共有のトポス」に、身を任せているのです。」

mutumigoe (21:11:06): 不在かあ？

deconstructionjp (21:11:57): 「そですね。上が不になっているだけですね

**二章

deconstructionjp (21:14:31): レジュメ、第二章にあります通り、ヴィルノは次の三つの区分をアレントをもじって借りてきます。《労働》/《政治的行動》/《知性》　の三つです。 労働は交換可能、反復的、予測可能という風に説明します。片方の《知性》は目に表れないもの、また他人のまなざしから逃れていることだという風に説明しています。しかし、このままでは、《知性》が《労働》と結びつくような契機が無いです。ですから、《政治的行動》というものを持ち出すように思われます。 従って、三つの「分断」から、三つの「統合」へという方向へ転換された、というように説明します。ここで重要になるのが二つを結びつけるような《政治的行動》であるように思われるわけです。先ほど説明しましたように、人格的なものが、労働の重要性を帯びてくるといいました。その人格的なものを労働の一つとして現すように出来るのが政治的行動だと思うのですね。で、その政治的行動の一つとして「名人芸」というものがあるんだといいます。名人芸は「職人芸」ではありません。むしろ、パフォーマンスを行うようなものとして定義されているのが名人芸です。
例示としましては、舞踏家、雄弁家、教師、司祭が挙げられています。
この特徴としましては(1)それ自体がそれ自体として完成する(2)他人がいて初めて成立する、ということを挙げています。従って、逆にこのようなことを拒絶することは、政治的ではないということもできますでしょう。(アレント的にいいますと「他人のまなざしへの露出」を拒否することですね)さらに、このような「何かしらの生産物を生み出さない」ような知的労働はあのマルクスを当惑させてしまったとヴィルノは言っています。なぜなら、それには余剰価値というのが発生できないのではないかと考えるわけです。ですから、むしろ先ほども述べましたように人格的なものが前面に出ている今日、そのような当惑を無しで済ませるわけにはいかないわけですね

***kiitisamatennsai (21:31:01): （△・ェ・）.。oO（1のそれ自体がそれ自体として完成するっていうのは、たとえば、工場労働とかは違って、一つの製品をつくるのに分業されてなくって、その人個人で製品ができあがるような感じっていう理解でいいの？

deconstructionjp (21:32:49): うーん、なんといったらいいのでしょうか。例えばダンスの場合ですと、ダンスをすることが一つの「労働＝作品」として密接に同じになっているということだと思います

canis_demens1004 (21:32:39): 生産物がないこと、何かを作り出すのではなくて言葉や身体の表現そのものを行う知的労働、という意味かと思いますが＞きいちさん

kiitisamatennsai (21:33:32): （△．ェ．）.。oO（なるほど～労働が作品か・・・いいなぁ・・・謎

***kazenotani_mio (21:31:02): この余剰価値を発生そない知的労働というのは　政治的行動の事ですか？

deconstructionjp (21:31:32): はい、そうです。政治的行動のバリエーションとして出来た「名人芸」ということですね＞mio

kazenotani_mio (21:32:39): 何故　マルクスは当惑　するのでしょうか？労働と　知性を結びつけるものなのに

deconstructionjp (21:34:11): ちょっと余剰価値には詳しくないのですが、「製品」が無いところには余剰価値＝利益(といったらいいのかな？)が生まれないから、自分の理論体系では説明できなくなってしまうから、ということがあるかもしれません

kazenotani_mio (21:34:21): マルクスは・・芸術を必要としないという・・

mutumigoe (21:34:25): ヴィルノが想定しているポストフォーディズム社会については、たとえばここ。ここみると、パフォーマンスとしての労働とすこしつながるかな。
 http://d.hatena.ne.jp/naozane/20050428

deconstructionjp (21:38:32):続き行きますねー。さて、当惑といいますか、先ほどのURLにもありましたが、コミュニケーションが重要な契機となっていきます。これをヴィルノは&lt;話す存在&gt;といいます。話すということは、何かしらの録音がされない限り、だんだんと消えていってしまうものですから、それは「名人芸」の定義と似ているものだと思います。そして、その「名人芸」、つまり言語活動が「名人芸」として現れたところは、文化産業というのが契機としてあったといいます。この文化産業は、例えば綿矢りさやモブ・ノリオを思い出したらわかりやすいのかな？
lily_sweet_heart (21:43:00): 金原さんも思い出してね＾＾
deconstructionjp (21:43:12): あはは　笑　で、先ほどmioさんが機械主義によると労働が無くなっていくというように言われました。確かに、単純作業の労働は機械によって変わられるでしょう。しかし、それらを調節したり、あるいは点検したりするようなコミュニケーションが重要になってくる。つまり、そのような「単純作業」は機械によって変わられていくのにたいして、それをまとめあげたりするようなものは名人芸に近づいてくる、と指摘します。つまり、機械のバグみたいなものを確認したりするような労働にどんどんズレていくわけですね。そのようなバグ＝プログラム外のもの、決定不可能なもの　を生み出して、それを政治的行動としてやっていったのが文化産業の役割だったわけです。

kazenotani_mio (21:49:43): 旧来のやり方で思い描かれてる労働、伝統的な生産方法も　終わりを告げていく

deconstructionjp (21:50:02): もちろん、単純には消えてなくならないかもしれませんが…で、現在、バグが重要になってくるわけですから、そのような文化産業こそが、工場などを整備していく(！)という奇妙な関係が生まれると言うわけですね。で、次にスペクタクルの社会(先ほどのURLにも出てきましたが)が援用されています。スペクタクルとは確か見世物という意味だったと思います。

kiitisamatennsai (21:54:06): （△・ェ・）.。oO（USJでスペクタクルショーってゆー電光掲示板でかいてあったけど、見世物しょーだったのね。

deconstructionjp (21:54:53): で、先ほども述べましたように、スペクタクルは二重の本性を持っている。特殊な産業の特殊な生産物(文化産業)であると同時にひとつの生産様式全体の真髄である、というわけですね。見世物＝名人芸、ですね。

***kazenotani_mio (21:56:40): あの、名人芸＝政治と理解していいのですか？

deconstructionjp (21:57:34): うーん、率直に政治とは呼べない気もしますねー。政治的、という比喩に留まっている印象がします。

kazenotani_mio (21:57:50): 比喩ですね

mutumigoe (22:01:40): 名人と政治の関係は、あとでもっとでてくるよ

deconstructionjp (22:02:20): あ、そうでしたか＾＾A　久しぶりだったので全体の構成を忘れてしまっています(汗

deconstructionjp (21:58:46): ただ、重要なのは(ここでヴィルノさんがしているアガンベンの「生政治」批判と関係してくるのですが)このような労働は「可能性のあるもの(まだ現れていないもの)」として提出されているわけであり、またそれを予期して賃金を払ったり、雇ったりするのだと。スペクタクル＝見世物というのはまさしく「可能性のあるもの」として期待されるわけですから。そして、見世物が出てきたということは、客観的な人間関係ではなく、むしろ主観的な人間関係のほうが重要になると。つまり、労働者がどうすれば楽しく(！)労働できるかということになってくるわけです。以前みたいにただやみくもに働かせ続けるだけでは駄目だというわけです。 (しかも、働かせ続けることは全体から見たら非効率であり、ちゃんと中休みを取ってあげたほうが効率が良くなるという研究結果が確か出ていたと思います) そして、このようにコミュニケーションという能力が労働の全体を占めてきてしまうわけでありました。このコミュニケーションをコミュニケーションたらしめるものこそ、「共有のトポス」だと言うわけですね。もはや、労働は機械的な連結ではなく、このような有機的な(いいかえれば生きた労働)なのであります。ただ、このような公共性は、賃金が関わることによって、またゆがめられてしまう、と指摘するのです。

***kiitisamatennsai (22:11:41): （△・ェ・）.。oO（コミュニケーション産業って具体的になによ？

deconstructionjp (22:12:00): (人事部はちゃうの？

kiitisamatennsai (22:12:19): （△・ェ・）.。oO（スッチー？キャバ嬢？

deconstructionjp (22:13:33): (ちょいまって。そこんところ、さらりと流してしまった　汗)文化産業→コミュニケーション産業という流れだと思うんだけどね…多分、スナックとかキャバ嬢も関係してくるのかな…

pia_pia_pia2005 (22:15:19): いかなる、産業においても、行われる、コミュニケーションのことでしょう。例えば、部署や機械互いにを調整するコミュニケーションであって、コミュニケーション産業自体があるわけでは、ないでしょう。
(注訳)ここから落ちてしまいました。すいません。(by deconstructionjp)

lily_sweet_heart (22:15:21): （顧客とのコミュニケーションにおいて　なりたつて意味？）あぁ　そうかも

mutumigoe (22:17:37): コミュニケーション産業はむしろ、サービス業みたいなイメージかなｋｋ

pia_pia_pia2005 (22:18:15): その、労働環境における、コミュニケーションが、共有のトポスからなり、それは、マルチチュードを構成する、主要因なんでしょう。先走ったか・・・ｗ

lily_sweet_heart (22:19:13): あくまで　ここで言うところの　コミュニケーションの概念て　そんなことでいいの？　サービス業？？

kazenotani_mio (22:19:18): 知性が　手を生み出すというか・・効率をよくするという意味では？

kazenotani_mio (22:19:27): コミュニケーションって

mutumigoe (22:20:31): 第三次産業の発達と並行したはなしでしょう。

kazenotani_mio (22:20:42): あぁ・・大きな意味なんだ

pia_pia_pia2005 (22:21:22): いや、このコミュニケーションは、名人芸であって、フォーデズムで、枠にはめられた、無機的な労働を有機的に変えるものだよ。概念定義が曖昧だけど

mutumigoe (22:22:20): 「私の仮説は次のようなものです。コミュニケーション産業（あるいはむしろ、スペクタクル産業、あるいはさらに、文化産業）は、数多くある産業のうちのひとつであり、特殊な諸技術や、特別な慣例や、固有の利益を有しているが、また別の面で、コミュニケーション産業は、生産手段の産業という役割を果たしてもいるのではないか。」（108頁）

kazenotani_mio (22:22:24): 有機的に変える・・というのは　人間的であるということ

pia_pia_pia2005 (22:23:28): 生命力を有すると僕は理解したよ。＠みおさん

mutumigoe (22:24:14): パフォーマンス・・コミュニケーション・・とつながってるようだね。

kazenotani_mio (22:24:29): なるほど・・今までの労働は生命をも　衰弱させるような　イメージも　ありましたから・・ぴあ　さん

lily_sweet_heart (22:25:03): 営業という職種は　まさに　それだわ・・・＞むつみさん

kazenotani_mio (22:25:14): あぁ・・そっか・・りりちゃ

lily_sweet_heart (22:25:38): 具体例あげると・・・キャバ嬢だけじゃないわｗ

mutumigoe (22:25:40): 人間的というより、有機体のようにフレキシブルかつ一丸となって機能するかんじだね。み

mutumigoe (22:27:24): つまり、文化産業のパラダイムが、一次的な生産にまで浸透してくるってことだろうね。「コミュニケーション産業は、生産手段の産業という役割を果たしてもいるのではないか。」

c0sm0s_0 (22:28:46): 営業が絡むのは、司法書士などの士業も、同様ですね＾＾

pia_pia_pia2005 (22:29:01): 文化産業の生産手段としての、コミュニケーション産業と読んだのですが、間違いかなｗ

mutumigoe (22:29:53): 「コミュニケーション産業（あるいはむしろ、スペクタクル産業、あるいはさらに、文化産業）」と、１０８にありますね。

c0sm0s_0 (22:30:27): コミニュケーションだったら、ピアノ教師もそうです

kazenotani_mio (22:30:40): 確かに労働という範囲というものが　拡大してきてるんですね

mutumigoe (22:31:31): あ、ぴあさん、両義的なようです。「私の仮説は次のようなものです。コミュニケーション産業（あるいはむしろ、スペクタクル産業、あるいはさらに、文化産業）は、数多くある産業のうちのひとつであり、特殊な諸技術や、特別な慣例や、固有の利益を有しているが、また別の面で、コミュニケーション産業は、生産手段の産業という役割を果たしてもいるのではないか。」

pia_pia_pia2005 (22:33:14): また、別の面で、とありますね

mutumigoe (22:33:22): うむ。

kazenotani_mio (22:34:58): 生産手段の産業・・というのは　コミュニケーション産業を円滑に行うための　産業のことですか？

lily_sweet_heart (22:35:51): 労働の拡大ではなく　逆に狭小のように思われます　　　　　　なぜか聞かないでね・・・そんな気するだけだから・・というか　でこんさん　いない・・・

kazenotani_mio (22:36:25): 労働という意味の拡大と　解釈したんですが

pia_pia_pia2005 (22:37:32): いや、特殊なものだけでなく、あらゆる、産業の生産手段に、コミュニケーションがなっているという意味では、ないでしょうか。＠みおさん

[22:54:33]kazenotani_mio:労働のた為のｺﾐｭﾆｹｰｼｮﾝ　と　ｺﾐｭﾆｹｰｼｮﾝ産業のところ　で　ごっちゃ　になってしまって

[22:54:59]mutumigoe:つながってるのよ

[22:55:01]pia_pia_pia2005:うん、僕には、使い分けているようには、思えないんですよ

[22:56:09]kazenotani_mio:繋がってる・・この　労働のため　というのは・・ロスをなくすとか　円滑に行うという　ものではなくって・・という　意味？

[22:56:17]mutumigoe:文化産業の台頭によるｺﾐｭﾆｹｰｼｮﾝ化が、全体に浸透していったようなイメージではないかな。あるいはどうじしんこうか

[22:57:04]kazenotani_mio:ふむ　。文化産業というのは　わかるんだけど

[22:57:38]pia_pia_pia2005:さきほど、僕は、特殊と共有と一章から、言葉を借りタンですが。

[22:57:44]kazenotani_mio:第一次産業のための　コミュニケーション・・という　意味では　ないんですね

[22:57:46]canis_demens1004:元々労働の根幹にはコミュニケーションが必要だったのだけど、労働というモノの性質が変化したことによって本来内在していたコミュニケーションの要素が顕在化してきた・・・ってことかなあ？

[22:57:49]deco_pedantic_bookish_talker:そうですね。もはや、例えば労働組合の成立を阻止するためにコミュニュケーションを阻止するということではなくて、それを労働として組み入れていくような状態があると思うのですね。そして、そのコミュニケーションの基盤といいますか、モデルとしてあったのが文化産業が提供したのではないか、というように捉えています。

[22:58:14]mutumigoe:ここでのコミュニケーションってかならずしもいいものじゃないよね。他人の前でやるパフォーマンスでもある。

[22:59:36]deco_pedantic_bookish_talker:(実際のところテレビの芸人達の馴れ合いみたいなものが(笑)今の若い人達のコミュニケーションの基盤みたいになっているような状況というのはあると思いますしね。その延長上に、労働というのが浮かび上がってくるのではないでしょうか)

[22:59:54]pia_pia_pia2005:特殊なものは、確かにあるが、共有（あらゆる産業の生産手段）としても、存在する。１章では、特殊なトポスは、影をひそめましたが・・・

[23:02:37]pia_pia_pia2005:笑いを作る作業（コミュニケーション）が、生産労働ですね。それが、名人芸や、二次的コミュニショーンを生成していく

*暫定的ログ
*欄外からの一言
- てすてす  -- 名無しさん  (2005-05-21 23:02:07)
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      *メニュー
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