「お前の彼女、ちょっとアレだぞ」 「……」 桑田君にそう言われても、僕はいつものように反論する気も起きないので、鬱々と鞄を背負い、教室を出る。 後ろから追ってくる彼と葉隠君が、それぞれ慰めの言葉をかけてくれた。 「まあ、天災にあったとでも思うべ」 「明らかに人災だけどな。いや、まあ、人の彼女に難癖つけるわけじゃねえけどよ」 「つけてるよね」 「いや、まあな…やっぱちょっと…アレだよな」 「アレだべ」 彼女ではない。 もしくは、「ちょっと」ではない。 そんな否定の言葉を呑みこんで、階段を下りて玄関ホールに向かう。 霧切さんと、喧嘩をした。 原因は本当に些細なことだった。 僕がこないだ、学校帰りにコンビニに向かう時のことだ。 道端に犬が捨てられているという、なんともありふれた光景に、僕はなんとも言えない気持ちになった。 鞄から購買で買った昼飯の余りを出して、人慣れしたその犬に渡す。 余程お腹をすかせていたのか、一心不乱にがっつく犬に微笑ましさを覚え、背中を撫でていた。 そこで、霧切さんが通りかかった。 『何をしているの、苗木君』 そう、これが第一声だった。 手にはビニール袋が下げられていて、どうやら彼女もコンビニから帰ってきたところらしかった。 僕はあいさつもほどほどに、本当に何の気も無しに、犬の存在をアピールしたんだ。 『…何をしているの、苗木君』 同じセリフ。違う声のトーン。 そこに込められた意味は、さっきとは異なっていた。 心なしか、彼女の表情も陰っていたように思う。 以下、僕の記憶が正しければ、一字一句違わず、昨日繰り広げられた会話の回想。 『まあ、見ての通り、かな』 『捨て犬に餌をあげている、という認識でいいのかしら』 『うん。こいつ、人に慣れているみたいで――』 『そんなことをして何になるの?』 『え、え?』 『あなた、その犬を寮で飼うわけではないんでしょう』 『まあ、うちの寮はペット禁止だしね』 『飼うつもりのない捨て犬に、餌をあげてどうするつもり?』 『ど、どうするって言われても…まあ、こいつお腹を空かせてそうだったから』 『捨て犬に餌をあげても何にもならないわ。死ぬまでの時間が少し長引かされるだけ』 『一日でも長く生きられれば、飼い主が見つかるかもしれないでしょ』 『そんな他人任せの願望で、餌を与えたの?』 『…』 『苗木君、それは偽善か、もしくは自己満足よ。あなたが、犬が捨てられて死んでいくのを見たくないから餌をあげただけ。 下手に長生きすれば、その分だけ死ぬまでの時間が引き延ばされる。その分だけ苦しくて辛いのよ。 あなたの行為は何の解決にもなっていないわ。中途半端な優しさに付き合わされる、犬の身にもなりなさい』 『…そんな言い方、しなくても…』 『……何よ、私は間違ったことは言っていないでしょう?』 『そうだけど…霧切さんって、時々冷たいよね』 『…!』 っぱーん。 回想終了。 最後の間抜けな効果音は、僕の頬が弾け飛んだ音だ。 まあ、僕ももう少し言葉を選ぶべきだったんだと思う。 彼女が言ったことは正しいことで、でも、だからって目の前の命を捨てることも、臆病な僕には出来なかった。 だからつい、熱くなってしまった。 霧切さんと、喧嘩した。 この表現では、いささか事の重大さは伝わらないかもしれない。 いや、喧嘩をしただけでも十分重大なんだけれど。 霧切さんと喧嘩をして、彼女に殴られた。 そしてあの時以来、学校であっても寮であっても、僕達は目すらまともに合わせようとしない。 今、僕の右頬は真っ赤に腫れて、湿布のようなものが貼られている。 喧嘩の痕だ。 でも、この痕は、あの時の僕の無神経な発言に対する、相応の罰だと思っている。 女の子に向けて『冷たいよね』なんて、いや相手が女の子じゃなくてもだけれど、普通は口にしてはいけない。 彼女は自分が女の子扱いされることを嫌がるけれど、彼女も他の女の子と同じくらい女の子だ。 怪しい日本語だけれど、つまりそう言うことだ。 『冷たいよね』なんて言われて、喜ぶ女の子はいない。 とにかく、 霧切さんはあの瞬間、すごく傷ついたような顔をしたんだ。 曇った彼女の顔色に、しまった、と思った。 謝罪の言葉を口にしようとした、その刹那。 っぱーん、と。 鋲が付いている手の甲の方で、やられてしまったわけだ。 「女子って普通、動物とかには優しくするもんだべ?」 「うん…僕もこないだまで、そう思ってた」 そんなわけで、今の僕は憂鬱と後悔の海の中を彷徨っているわけである。 教室で会っても目をそらされ、廊下で会ってもあいさつもない。 そして僕の方も、関係修復のための努力を怠ってしまったのである。 本当はこういうことがあれば、真っ先に僕の方から謝るのが常だった。 ただ今回だけは、それが出来なかった。 彼女に殴られたというショックで。 殴られたこと自体に、怒りや悲しみはない。 ただ、ショックだった。 暴力とは縁遠い生活を送っていた、ということもある。 霧切さんがあれほど感情を露わにしたのを初めて見た、というのもある。 それらのショックで、彼女を前にするとまともに動けなかった。 互いが互いを無視するような関係が続いて、丸二日。 「でもなー…あの霧切っちがなぁ」 「な、すげえよな」 鬱々と廊下を歩く僕をよそに、桑田君と葉隠君が顔を合わせて、うんうんと何か唸っている。 その言葉が意味するところは、僕にはよくわからない。 「すごいって…何が?」 「いやいや、何がって…お前はわかんねーの?」 「まあ当人からしたら、そんなもんだべ」 二人とも目を丸くしてこっちを見ているけれど、やっぱりその意味はよくわからない。 まるで彼らの方が、僕なんかよりも霧切さんを知っているみたいで。 少し、もやっとする。 「苗木、お前さ」 呆れています、と顔に描かれている桑田君が、それでもどうにか説明をしようと腕を組んで立ち止まる。 「普段の学校生活で、霧切が誰かを殴ったり…それくらい感情を露わにしたこと、見たことあるか?」 「ない、けど」 「つまり、そういうことだよ」 全然わからない…。 「…どう思う、葉隠」 「苗木っちも大概鈍感だべ。こりゃ霧切っちも苦労するわ」 「いや逆に、これくらいじゃないと霧切の相手は出来ないと見るね、俺は」 結局僕への説明を諦めたのか、二人はまた自分達の世界で云々と唸っている。 ああもう、何が言いたいんだ、この二人は。 僕達は玄関ホールで立ち止まっている。 云々唸って悶々と話し合う男子二人に、それを茫然と見ている僕。 傍から見ても、相当目立つのだろう。 「何をしてるんだ、貴様らは」 やっぱり呆れ顔の十神君に、後ろから声をかけられた。 「おうおう、自他共に認める本校随一のリア充が、こんな錆びれた男共になんの御用ですか」 「絡むな、鬱陶しい。往来でうねうねとカツオ節みたいに踊りやがって。同じクラスである俺の名誉まで傷つける気か」 十神君が現れたことで、桑田君と葉隠君の興味はそちらに移ってしまった。 僕の事情はやっぱり、野次馬根性で聞きだしただけで、どうでもよかったんだろう。 溜息を吐いて、ひとりごちる。 「謝らないとな…」 思っただけの言葉が、ぽろりと口からこぼれおちた。 十神君が、ピクリと眉を動かす。 「それは、止めておけ」 「え?」 「お前から先に謝るのは止めておけ、と言ったんだ」 びっくりして一瞬、自分のことだとわからなかった。 二人の愚痴じみた罵声も気にせずに、十神君はこちらを見ていた。 彼らと違い、野次馬根性や冗談でものを言う人じゃない。 「どうして…?」 僕が理由を尋ねると十神君は目をそらし、自分の眼鏡に手をやった。 「どんな理由で争っているかなど知ったことではないが…向こうはお前に手をあげたんだな? ならば、余程じゃない限り向こうに非がある。あの女だって、それはわかっているだろう。 ともすれば、先にお前が謝ってしまうと、どうなると思う?」 「ど、どうなるの?」 尋ねると、十神君はチッ、と舌打ちをして、いつものように僕を睨みつける。 「そのくらい自分で考えろ。常に他人が答えを与えてくれると思うな」 「ツンデレ乙だべ」 葉隠君が茶化す。 「黙ってろ、ウニ頭。いいか、他人に答えを与えられると、人間はいつかそれに満足し、自分で考えなくなる。 そうなれば答えを与えてくれる人間がいなくなった時、そいつは自滅するんだ」 「つまり苗木と霧切の関係が将来的に上手くいくように、自分で考えるよう仕向けてんだろ?やっぱツンデレじゃねえか」 「おいアゴヒゲ…社会的に死にたいらしいな」 十神君まで騒ぎに巻き込まれてしまい、僕は途方に暮れる。 結局、何がどうなっているのか、わからないままだ。 僕が先に謝ってはいけない、と、十神君は言った。 そして、自分で答えを見つけなきゃいけないとも。 騒ぎ出した三人をよそに、僕はその場を離れて、長椅子に腰をかけた。 どちらが悪いかなんて、簡単に決められることじゃないけれど。 とにかく、逆のパターンを考えてみる。 考えたくもないけれど、僕が霧切さんに暴力を振るったとする。 それで、自分が悪いとわかっているのに、先に彼女に謝られたとしたら… …とても、居心地が悪い。というか、自分への嫌悪感を抑えられない。 霧切さんが僕と同じように考えるかどうかは、わからない。 でも、彼女にこんな気持ちは味わってほしくない。 でも、結局どっちが悪いかなんて、やっぱり簡単に決められる事じゃなくて。 でも、謝って済ませてしまいたい気持ちはどこかにあって。 でも、そんな気持ちで謝罪されては、たまったもんじゃないだろう。 でも、でも、でも…… 思考の渦に巻き込まれる。 ぐるぐると、目が回るような錯覚。 ふと、目の端に、ふわりとした銀色が揺れた。 それを捉えて、ぐるぐると回り続ける思考が、ぴたりと止まる。 「あ…」 「…」 いつも通り、下校時刻を知らせるチャイムが鳴り響く玄関ホール。 いつにもまして仏頂面の霧切さんが、僕の隣に腰かけていたのだった。 ―――――――――――――――――― 「なんていうか、それは…」 「全面的に霧切さんが悪いですね」 「私もそう思いますわ」 気遣って言葉をオブラートに包もうとする朝日奈さんを他所に、ぐっさぐっさと言葉のナイフを投げかける二人。 それは何かへの当てつけのようで、容赦なく私の傷心を切り刻んでくれる。 まあ、下手に言葉で誤魔化してもらったところで、彼との関係が修復されるわけじゃないけれど。 帰りのホームルームを終えて、寮に帰るでもなく、机に座ったまま呆然と。 そんな私の様子を見かねたのか、三人が声をかけてきてくれたのだ。 正直、誰かと話すことで少しは気が紛れるかとも思ったが、どうやら内二人はそんな生優しい気持ちで近づいたわけじゃないようで。 溜息とともに、涙まで出てしまいそうで、私は机に体を倒して、両腕で顔を覆った。 私は机に突っ伏したまま、昨日の出来事を思い返す。 どうしてあんなことを言ってしまったのだろう。 どうしてあんなことをしてしまったのだろう。 「まあ、とりあえず状況を整理しましょうか」 腕に抱え込んだ頭の右側で、舞園さんの声が響いた。 「学校帰りにコンビニに向かい、帰りに苗木君と出会う。 苗木君が捨て犬に餌をあげているのを見て、偽善だと言う。口論に発展。 霧切さんが苗木君を殴る。以降、関係がギクシャクする」 「そりゃギクシャクもしますわ」 呆れた声が正面から響く。セレスさんの声だ。 「えーと、何回聞いてもよくわかんないんだけど…私が馬鹿だからってわけじゃないよね?」 同意を求める朝日奈さんの声は、左から。 捨て犬を見つけた時に私の中に浮かんだ言葉は、「ああ、犬が見殺しにされている」。 そこには怒りも悲しみも、人間が抱くべき感情の何一つとして、宿ってはいなかった。 捨てるなら飼うな、という元の飼い主への憤りもない。 通り過ぎる人々への無関心も、もぞもぞと動く犬への憐れみも。 この犬は、このまま人々の無関心の中で弱り、死んでいくのだろう。ただそれだけ。 誰も助けようとはしなかった。私だってそうだ。みんな同罪だ。 そんないちいちに手を差し伸べていたら、いくつ手があっても足りなくなってしまう。 そんないちいちに感傷に浸っていたら、探偵稼業などやっていられない。 そう結論付けながら、私はコンビニへ向かう足を速めた。 そして、だからこそ。 その帰り道、自分が見捨てた犬に餌をやる苗木君、そんな何でもない風景に。 自分がいかに冷酷な人間かを責められているような、そんな心地がしたのだ。 彼の行動が偽善に見えた。 そう思わないと、耐えられなかった。 そんなはずないのに。 苗木君なら、純粋な優しさから餌を差し出したのだとわかっているのに。 口からは意地悪い言葉が次から次へと吐きだされ、自分を守るために彼を傷つけていく。 そして、 『霧切さんって、時々冷たいよね』 殴ってしまった。反射的に。彼の右頬を。鋲の付いた手袋で。 言葉に暴力で返すなんて最低だ。 まして、その相手が… 「よく苗木君も怒らなかったと思いますよ。本当に」 右側から咎めるような声がする。 端正な舞園さんの顔に覗きこまれる心地がして、私は腕の中に顔を押しこめた。 「超高校級の夫婦が、聞いてあきれますわ」 「あ、アレは勝手に周りが…!」 と、バッと顔をあげて否定してしまい、 ――しまった… と、後で気づく。 まあ、見事に釣られたわけで。 朝日奈さんは驚いたような顔を浮かべ、残りの二人の悪魔は、ニヤニヤと笑っている。 「あらあら、さっきまで無反応だったのに」 「この件に関しては、やけに積極的に反応しますわね」 「…人の恋愛にうつつを抜かしている場合?特にセレスさん」 「…なんのことでしょう?」 「さあ、誰の事かしらね」 ふふ、ふふふ。 歪な笑いが広がる。 と、そんな乙女の汚い争いを壊すように、朝日奈さんが叫ぶ。 「とにかく、苗木と仲直りしたいんでしょ?」 「……」 「霧切ちゃん、苗木のこと好きなんだよね?」 「っ、それは今は、関係ないでしょう…」 ああ、しまった。また反応してしまった。 視界の端で、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべている二人。 いつか覚えてろ。 ああ、最悪だ。耳まで燃えるように熱い。 「あれ、苗木君って今、フリーなんですか?じゃあ私が…」 「ちょっと舞園ちゃん、からかっちゃダメだよ!」 朝日奈さんが割と本気で制するので、舞園さんは口をすぼめる。 結構本気なんですけど、なんて呟く彼女を尻目に、朝日奈さんが私の体をグイグイと揺する。 「謝ろうよ、霧切ちゃん!苗木もきっと、それを待ってるよ?」 殴ってしまった直後の、彼の顔を思い出す。 『あ…ごめ、なさ……』 咄嗟に口を突いて出た謝罪は、その表情を見て引っ込んだ。 激昂でも蔑視でも驚愕でも無くて、ただ寂しそうな顔。 いっそ口汚く罵ってくれた方が、気分が楽だった。 殴ってくれても構わなかった。 まあ場馴れしているので喧嘩では負けないだろうし、そもそも彼は女性を殴ったりするような人間じゃないけど。 とにかく彼は、何もせず、何も言わずに、ただ寂しそうな眼を私に向けた。 そしてすぐに視線を外し、また犬に餌を与える。 耐えきれずにその場から逃げ出したのは、私の方だった。 殴った手には、今でもあの感覚がこびりついている。 「先に謝るということに関しては、私も同感です」 舞園さんが朝日奈さんに賛同した。 もうニヤニヤはしていなかった。 「自分が悪いってわかってるのに相手に謝られるのって、辛いですよ」 「…」 そうだ、私が悪い。 分かっている。 最初に彼を罵ったのは私で、手をあげたのも私だ。 「…まあ、傍から見る感じでは、今回の事件はどんな事情があれ、霧切さんの暴力傷害という形で決まりですわね」 他人事のように呟くセレスさんに、朝日奈さんが突っ込んだ。 「事件って…」 「超高校級の夫婦が、離婚の危機なのです。これは立派な事件ですわ」 「セレスちゃん…顔に野次馬根性って書いてあるよ」 「私のポーカーフェイスに、そんなものが書いてあるわけないでしょう」 「じゃあ書いてあげるよ」 「やめなさいビチグソが」 どこからか油性ペンを取り出した朝日奈さんを軽くいなして、セレスさんは話を戻した。 「それでも、この場は霧切さんから謝るべきという意見で満場一致ですね」 「あ、セレスさんもですか?」 「ええ。今回も苗木君の方からから謝ってくるとは限りませんし」 ドクン、と、心臓がいやな跳ね方をした。 ああ、そうだ。彼女が今から言おうとしていることを、私は知っている。 ついさっきまで考えていた、最悪の可能性。 「私たちは普段から、苗木君の優しさ…もとい、甘さに甘えて、それを当然と思っている部分があります。 そして彼が本気で怒った所を見たことがない。だから、どこまでも甘えられると錯覚している。 普段の、私たちが想像する苗木誠という人間であれば、例え彼が何一つ悪くなくても謝ってくるでしょう。 けれど、もし今回の件が苗木君の怒りの沸点を越えていたら?もし彼が謝ってこなかったら? 冷静に考えてみてください、霧切さん。逆の立場、つまりあなたが苗木君に言われもない暴力を振るわれたとして、 あなたはそれを許せますか?自分から彼に謝ろうとしますか?そういうことです」 ああ、分かってるんだ、そんなの。 一瞬のイラつきの後、どうしようもない焦燥感が体を駆け巡った。 想像する。 もし苗木君が、私に暴力を振るったら。 彼がそんなことをする人間じゃないとわかってはいる。 それでももし、もし万が一そんなことをされたら。私は自分から彼を許すことはできないだろう。 そして、想像したくない「もし」ほど、頭はその過程を展開し、想像してしまうのだ。 もし、本当に苗木君が沸点を越えて怒っていたら。 もし、私も意地を張って、謝らない関係が続いたら。 「それが、苗木誠という人間が持つ異常性です。お分かりですか?許してくれると、そう思ってしまうのです。 確かに向こうから謝ってくる可能性だって、ないとは言い切れません。 その後、しばらくはギクシャクした関係が続くでしょう。けれど、それならまだいいではないですか。 問題は、あなたが謝らず、向こうも謝らない状態が続いた時です。 二人の関係はそこで終わってしまうのですわ。 まあ、あなたがその危険を冒してでも自分から謝れない頑固者ならば、お好きにどうぞ。 けれど確実に苗木君との仲を修復したいのであれば…本気で苗木君と別れたくないのであれば」 朝日奈さんも舞園さんも、聞き入っていた。 途中で口をはさむこともしなかった。 「自分から謝るべきですわ」 感情論ではなく、あくまで論理的な意見。 いつもなら自分の頭で、その見解を下せるはずなのに。 今だけは、変なプライドやら気持ちの葛藤やらに絡み取られ、まともに物事を考えられなかった。 これで「超高校級の探偵」なんて、笑わせる。 「……」 「霧切さん」「霧切ちゃん…」 「…さあ、私たちは先に帰りますわよ」 「え?」 「部外者が立ち入れるのはここまで。後は本人たちがどうするかですわ」 コツ、コツ、と、三つの足音が遠ざかっていく。 私は机に伏したまま、ぐるぐる回る頭の中で、必死に考えをまとめていった。 つまらない私の意地と、かけがえのない彼との関係と。 どちらが大切かなんて、答えは最初から出ている。 頭では分かっている。 謝らなきゃいけないのは、分かっている。 でも、どう謝ればいいかが分からない。 これまで苗木君と共に過ごしてきた時間の中で、私の方から頭を下げたことはほとんどない。 いや、そりゃあ例えば冗談の言い合いの中で謝ってみたりとか、待ち合わせに遅れてしまったりとか、 そういうしかるべき状況で、その場の雰囲気で謝罪の言葉を口にしたことは何度かある。 けれど、こうして私たちの仲を揺るがしそうな事件が起きた時。 最初に謝るのは、いつも彼の方だった。 私から謝ろうとしたことだって何度もあるけれど、目を合わせれば先に彼の方が謝罪の言葉を述べる。 そうして私は、出かかった謝罪の言葉を送り出す機会を失くしてしまうのだ。 今までは漠然と、それでもいいかと思っていた。 彼の方から謝ってきてくれて、それで仲直りができるのだから。 わざわざ恥ずかしい謝罪の言葉を口にしなくても、彼は私のことを許してくれているんだと、勝手に思っていた。 今回ばかりは、これまでのようにいくとは限らない。 私は彼に、暴力を振るってしまった。 セレスさんの言うとおりだ、彼なら許してくれるという漠然とした安心感があった。 どうしてそんな馬鹿な事を思っていたんだろう。 どちらが謝るかという問題以前に、彼が私を許してくれるかどうかすら定かではない。 むくり、と顔をあげれば、教室の時計が示した時刻は、下校時刻をそろそろ過ぎようか、といったところ。 自分の頬をピシャリと叩く。 こんなところでうじうじ考え込んでいるのは、私らしくない。 どれだけ考えても、答えの出る問題ではないんだから。 まずは、苗木君に会わなければ。 彼の顔を見れば、きっと言葉も浮かんでくるはずだ。 きっと今はもう、寮に帰ってしまっているだろう。 まずは彼の部屋を訪ねて…ああ、でも、入れてくれるだろうか? いつもみたいに、半ば強引に押し入って…は、ちょっと流石に、今回は無しだ。 何か手土産でも持って行こうか…いや、もので許してもらおうという魂胆だと思われるかもしれない。 そんな感じで決めつけて、歩を進める私の目に突如飛び込んできたのは、 玄関ホールで友人とじゃれ合う、苗木誠の姿だった。 「~~~っっ!!」 咄嗟に階段の踊り場まで駆け戻る。 足音を立てて気付かれないように、こっそりと、俊敏に。 「…な、なんでまだあんな所に…」 激しく動悸をさせる胸を押さえつけ、小声で一人、聞こえないように文句をぶつけてみる。 お陰で練っていた計画が、全て頭から吹き飛んでしまった。 少しして、彼は友人から距離をとる様にして、長椅子に座りこんだ。 すぐに立ち去るわけでもなく、物思いに耽る様に虚空を眺めている。 やがて友人たちはそこを去り、ここぞとばかりに私は飛び出した。 彼が座っている長椅子は、玄関ホールに面して建てかけられたものだ。 どちらにせよ、スルーして通り過ぎることはできないのだから。 「あ…」 「…」 彼の隣に腰かけてみる。 私に気づくなり、苗木君はまた例の、寂しげな目をしてみせた。 「…」 私も私で、何か喋るでもなく彼の方を見返すでもなく、ただ仏頂面でむくれている。 可愛くない女だ。 何をしに来たんだ。 謝るために来たのに。 さっさと謝ればいい。 それで楽になれる。 彼が許してくれるかどうかは分からないけれど。 それでも、謝らないなんてそれ以前の問題だ。 このまま彼と別れるなんて、絶対に嫌だ。 つまらない意地やプライドなんていらない。 謝らなきゃ。 今、謝らなきゃ… 「……」 [[後編へ続く>けんかのあと(後編)]] ----