神理文明の復興
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神理文明の復興
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2011-01-26T11:25:12+09:00
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第7章 ヘレン・ケラーの霊訓 Part1
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**目次
1.[[環境と人間、運命と神の真意について>第7章 ヘレン・ケラーの霊訓 Part1#1]]
2.[[ヨブの苦難、イエスの苦の祈りに「沈黙」という神の真意を学んだ>第7章 ヘレン・ケラーの霊訓 Part1#2]]
3.[[マラソン選手は苦斗の中に人生の悦びを一歩ずつ昧わって行く>第7章 ヘレン・ケラーの霊訓 Part1#3]]
4.[[幸、不幸は神のみ知る、自ら望んで不幸を招くな>第7章 ヘレン・ケラーの霊訓 Part1#4]]
5.[[信仰を力とし勇気を起こし事業に成功していく人間たれ>第7章 ヘレン・ケラーの霊訓 Part1#5]]
6.[[女性こそ神の使徒として強く働け>第7章 ヘレン・ケラーの霊訓 Part1#6]]
7.[[この世は天国、曇っているのはあなたの心の窓硝子>第7章 ヘレン・ケラーの霊訓 Part1#7]]
8.[[身障者よ、心の笑顔を見せなさい、あなたこそ光の天使です>第7章 ヘレン・ケラーの霊訓 Part2#8]]
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(一九八六年二月十日の霊示)
&aname(1){}
**1.環境と人間、運命と神の真意について
&bold(){―} ― ヘレン・ケラー女史の招霊を行なう ―
&bold(){ヘレン} ヘレンです。
&bold(){善川} ヘレン・ケラー先生ですか。突然お招きいたしましたけれども、既にご承知かとも思いますけれども、私共のいま行っております精神運動の一環としまして、心霊の書物を発行いたしておりますが、現在読者の方々から激励やら、相談ごとの手紙が沢山参っております。その中で女性の方々のお便りの中には、現在まで名僧、高僧、聖者の方々のご霊訓はございますが、女性の問題、女が抱く悩み苦しみということについてのご教示があまりありませんので、女性の方の光の指導霊方からお教えを願えれば、との強い希望がございましたので、今回、古今東西の女性の光の指導霊の方々からいろんな角度から、心の問題、或いは女性の本来のあるべきすがたについて、または、皆様方の霊天上界における日常のご様子など伺っておりますのですが、先生には、この地上では三重苦という苛酷な身体的な労苦を克服され、同じような苦悩のもとに置かれている多くの人びとに対し、神の光をお与えになられ、世の人びとの心の窓に神の明りをお点しになられましたし、この日本へも幾度かお越しになられてご指導下さったというご縁もございますので、わが国の事情についてのご理解もまだま新しいものがあろうと思いますので、できますことなら現代の女性開題、それと特に、身障者達、或いはそのような方で病床についておられ苦しんでおられるような方々に対してのご指教をお願いできましたならば幸いと存じますが、お願いできましょうか。
&bold(){ヘレン} ―わかりました。あなた方は大変な使命を持っておられます。このような偉大な使命を授って努力をしておられる方が、この日本の国にもいらっしゃるということを知って、私は嬉しく思います。
皆様方にとっては新たな教えの中味が、どのようなものであるかということが当面の課題であろうかと思われます。しかしその新たな教えの中味を悩まれる以前に、自らの環境の恵まれていることを感謝する気持を忘れてはなりません。私は、通常の人間と同じだけの基礎をつくるのにずい分と時間と、労力と、また他の方々の迷惑を顧りみずにお願いをいたしたことがかなりあります。けれどもあなた方は、環境において恵まれた方々であろうと思われます。どうかあなたご自身にとっても、いろいろと不自由なこととか、ご不満なことも多いとは思うのですが、このヘレンの立場と比べて、如何にあなた方が有利な立場におありかということを、お考えになって頂きたいのです。
私も、たとえば、普通の人間として恵まれた環境に育って、恵まれた関係においていろいろな人達を救うこともできたでありましょうが、敢てこのようなハンディキャップを背負うことによって、人間に生きる道、光の天使としての生き方を教える必要があったために、このような生き方をしたのです。いわば水面下に一旦潜ってみせたということです。ですからそうではないあなた方には私が達した以上に高いとこるまで達して頂きたいと思います。
まず私があなた方に申し上げたいことは、「環境と人間」ということです。これについて申し上げたいと思います。世の中の人々はどうかすると自分は不幸な人間であると思いがちです。なぜ不幸でしょうか、その大半を人々はその境遇なり環境なりに求めているのではないでしょうか、たとえば或る自分にとっての環境が現われたら自分は幸せになれると、こう考えていることが多いのです。女性の方々であったならば、もっと自分が美しくあったら、もっと自分がたとえばスマートであったならば、もっと自分が賢かったなら、或いはもっと父親に財産があったら、もっと彼に思いやりがあったなら、もっと彼が素敵な人であったなら、このように特に女性というものは環境に対する期待というものが多いのです。どちらかというと、自分自身を見つめる代りに環境を見詰め過ぎるのが女性であるのです。
男性の方も、似たようなことはあるかも知れません。けれども、女性は特に環境に対する不平不満が多いのです。ですが私は世の女性に言って置きたいと思います。天国においては不平不満はないのです。その不平不満のない天国から敢えて肉体を持ってこの苦しい地上に降りてくる理由は一体何でありましょうか、それは不遇な環境、苦労は、当然のことと承知の上で生まれて来ているということなのです。よろしいですか――。
私は特殊な使命を持って地上に生まれて来ました。そして私はある時に自分の運命を恨みました。なぜ私は眼が見えないのだろうか、なぜ私は耳が聴こえないのでしょうか、なぜ私は喋(しゃべ)ることもできないのでしょうか、なぜ人も嫌がるこのような三重苦が、わが身体に、わが生命に襲いかかって来たのでしょうか。私の思いは恐らくは旧約聖書にあるヨブの嘆きのようなものでもあったでありましょう。あの旧約聖書のヨブの答え、神の答えをもう一度現わすために、神は私を遣(つか)わせたのかも知れません。人々は旧約聖書において、ヨブに次ぎつぎにふりかかった苦難について知っております。そしてヨブは神を恨みます。あの善良なヨブ、人のことを悪くいわず、神のことを決して恨まなかったヨブが、最後には、― なぜ私はこんな苦難を受けねばならないのだろうか。と、神を恨み不平に思う心を持ちました。その時に神は言いました。「ヨブよ、一体お前に何が分るのか、お前は宇宙の初めの時を知っているか、お前は宇宙の終りの時を知っているか、お前は宇宙がどのように動いて来たかを知っているか、お前は人類の歴史を知っているか、お前は天地創造を知っているか、お前は何一つ知らないではないか。何一つ知らないお前が神である私を裁こうとしている、それはお前自身の都合によって、お前にとって都合が悪いということでもって、神である私を裁こうとしている。そのようなお前は非常に傲慢なお前になっているのではないか。お前は神である私と対等なものではない筈である。お前は非常に無知な一個の人間である。無力な一個の人間である。天の経綸、神の経倫も知らず、自らが置かれた境遇の不幸だけを呪う心が果たして神の子としての心であろうか――。」
神はこのように次ぎつぎとヨブに語っていきます。そして最後にヨブは、はたとして悟るものがあったのです。人間というものは、ともすれば恵まれた環境に置かれると神に感謝し、神を念う心を持つことができるのです。ところが自分がいざ不幸になってみると、こんどは代償を求めるのです。あれだけ神に対して祈ってやったのに、あれだけ神を信じてやったのに、あれだけ毎日信仰の心を持っていたのに、どうしてその信仰と引換えに、神はこんな不幸な環境を私に与えるのか、私をこんなに苦しめるのか、直ぐ堪忍袋の緒が切れてしまうのが人間です。
&aname(2){}
**2.ヨブの苦難、イエスの苦の祈りに「沈黙」という神の真意を学んだ
&bold(){ヘレン} 人々は旧約聖書においてそのヨブヘの神の答えを読まれました。けれどもまだ人々はまだ本当の意味が分っていない。このために神は、このヘレン・ケラーという人間を、この地上に送り込んでもう一度ヨブと同じようなことをさせたのです。私のように眼が見えない人は多いでしょう。で、彼女ら、彼らのうちのいったいどれだけの人が、世の人々を勇気ずけるように起ち上ったでありましょうか、彼ら、或いは彼女らの大多数は世のお荷物になりこそすれ、世の人々を照らすところまではいっていないはずです。そのような環境を呪う心が彼らにはあるはずです。そこで私が現代のヨブとなって生まれて来たのです。どのようなハンディキャップを持っていたとしても、人間というものは、そのハンディに負けず燦然(さんぜん)と輝くことができるということを示せというのが神の私に対する指命であったのです。
私も環境に負けかけました。神を呪ったこともありました。けれども私は漸(ようや)く自分の使命を悟り、やがて光の天使としての使命の一端を担うことができるようになりました。ですから世の人々に知って頂きたいのです。ヘレン・ケラーの役割は、ヨブの役割であったということです。義人ヨブの役割の現代版であります。ですから私はあなたにも言っておきたい。新たな宗教を興こすという人は、ともすればご利益というものを考えるものです。神を信ずることによって萎(な)えていた足が治るとか、見えていなかった眼が見えるとか、或いは死人が甦える――極端なことを言えば、こうしたご利益を人は希望もし、願いもするのです。しかし、神は私に対しては何もお答えなさらなかったのです。神は私の眼を開かそうとはしませんでした。神は私の耳を聴こえるようにはされませんでした。神は私の口を自由にしようとはされませんでした。神は、ヨブの祈りで言うならば、ヘレン・ケラーの祈りを何一つとして叶えられなかったのです。しかし、答えられない、沈黙しておられるという中にまた神の回答があるのです。よろしいでしょうか、あのイエス・キリストと言われる偉大な人でさえ、十字架に掛けられる自分というものを知っておりました。そのイエスでさえ、その神の子であるイエスでさえ、ゲッセマネの園において血の汗を流して祈られたといわれております。イエス・キリストは何を祈ったでありましょうか。それは彼自身に、ご自身に聴いてみなければ分らないところがあります。けれども彼は自分の運命というものを知っていました。明日は十字架に掛けられる自分というものを知っておりました。そのイエスでさえ、その神の子であるイエスでさえ、ゲッセマネの園において最後の迷いと悩みがあったということです。彼は血の汗を流して祈ったといわれます。深夜まで祈りが続いたということです。弟子達は眠りこけておりました。彼があれだけ教えた弟子達は、主の最後が来ているというのに誰一人としてそのことを気がつこうとせず、眼を覚ましていなさいと言っているのに眠りこけている有様です。イエスは孤独であったでありましょう。そしてゲッセマネの園において、イエスが祈ったことは何でしょうか、―『神よ、願わくばこの苦杯を我れより取り去り給え――。』あのイエスにしてそう祈ったのです。しかしまた、『されど我が意のままに成さんとすにあらず、御意(みこころ)のままに成し給え。』と彼はこういうふうに祈られたのです。あの彼にしてそうです。できれば苦盃を取り除いて欲しかったのです。苦い盃をわが唇から避けて欲しかったんです。彼は思ったでありましょう。あのモーゼの成功を思ったでありましょう。神は追手の軍勢が来た時にモーゼに対し、紅海の水を割いて逃がしめたではないか。神は、エリアが、饑(ひもじ)い思いをして餓えた時に、鳥に餌を運ばせてエリヤに食べさせたではないか。その神であるならばなぜイエス・キリストをして十字架から逃がしめられないのか。彼はそれを神に問い詰めたのです。このようなことははじめてではないか。救世主として生まれてこのような死に方をするのははじめてではないか。イエスはそのことを祈りに祈りました。それは人間としてのイエスの弱さでもあり迷いでもあったでありましょう。この血の汗の祈りに対して、神は何一つ答え給わなかったのです。
今あなた方は私達を呼ぶことができます。私達を呼んで私達が来ないということはほとんどありませんでしょう。イエス・キリストも同じような状態でありました。彼も聖霊達と自由に話をすることができました。そのイエスが血の汗を流して祈っても、神は何もお答えになりませんでした。これが答えであったわけです。言葉として言われなかったことが神の慈悲であったでしょう。しかし沈黙しているということが即ち答えであったということです。汝は汝の運命に従えということであります。その運命の中において神の子としての使命を果せよ、燦然(さんぜん)として輝け、光の子として輝けというのが神の御意(みこころ)であったということです。イエスもそのことを悟りました。そして運命を悟った彼は勇敢に最後の苦盃を飲み乾したのです。
同じことはソクラテスに対しても言えます。ソクラテスは世の人々を導くために、全力を尽くしておりました。青年達に無知の知を説いておりました。汝ら覚醒(めざめ)よ、本当の霊的知識に覚醒よ、ということを彼は声を大にして日々語っておりました。しかし市民達は、愚かな市民達は彼を捕まえ、青年達を惑わすものだと言って刑務所に入れてしまいました。これはソクラテスにとって大きな苦盃であったでありましょう。彼は、神よこの苦盃をとり除き給えと祈ったでしょうか。彼は祈りもしなかったのです。彼もまた当時私達といいますか、聖霊達と語ることができました。ソクラテスとその頃詰っていた天使の一人がアポロンといわれる天使です。こういった方々、古代ギリシャのソクラテスの時の、もっと以前の古代ギリシャ、ゼウスとかアポロンとかいわれた方々と、ソクラテスは話しをしておりました。けれどもその時にまた、アポロンは何も答えなかったのです。ソクラテスは運命を感じとりました。彼は足掻(あが)きをしようとはしませんでした。彼は牢番達の逃がれよ、という言葉に耳を背けました。なぜならば、光の天使達が彼に逃がれよと勧めなかったからです。この時光の天使達は何も答えなかったのです。死ねとも言わなかった。逃げろとも言わなかった。答え給わなかったのです。これがソクラテスに対する"沈黙" の答えでありました。ソクラテスは自分の運命を感じとりました。彼は毒盃を呷(あお)って翌日刑死することになります。
このように神というものは、光の天使であればすべて救うかというとそうではないのです。答え給わないということがあるのです。それは、その運命がこの人間が地上に生まれてくる前に、神と約束していたものだからであります。そうした運命です。逆境において最高の神の子としての使命を果たすということを約束して出て来ているからこそ、神はその約束を敢(あえ)て破らないのです。わが子が可愛いのは当然です。救いたいのは当然です。けれどもそうであったならば約束を違えることになってしまいます。ですから私は世の人達に言いたいのです。様々なハンディキャップはありますでしょう。様々な不幸はありますでしょう。様々な不遇はあるでしょう。けれどもそのような不幸や苦難も、或る意味ではあなた方がこの地上に出る前に神と約束して出て来られているということです。あなた方は生まれる前に、これだけの人生、こういう人生であっても頑張って来るということを神に約束して生まれて来ているということです。
例えば眼が見えない。例えば足が立たない、例えば耳が聴こえないということは、これは本人の責任でもない、誰れの責任でもないと人々はよくいいますが、そのような意味においては本人の責任なんです。そういう人生であることを承知の上で生まれて来ているということなのです。ここを間違ってはいけないのです。人々は生まれて来て、人間は平等であるはずなのに、他の人間に比較て自分はこんな不幸を背負っている。神は不公平ではないのか、そう恨んでしまうのです。あたかもヨブの最後の頃のように、けれどもそうではないのです。生まれてくる前には、人間というものは、或る程度自分の人生のシナリオを自分の守護指導霊達と相談して生まれてきているのです。ですからこの今の世において、この地上において、不利な立場にある人こそ、逆境にある人こそ、神との間に大いなる試練を約束して来た人だということであります。
ですから私は敢て言いたいのです。逆境にある人こそ選ばれたる人であるということです。神の子として選ばれたる人であるということです。その逆境から立ち直ることによって世の人々の手本になりなさいという神の意向なのです。神のお考えなのです。ですから、自らの不幸を嘆いてはいけないのです。あなた方はそのような不幸の中で、神の栄光を輝かすために生まれてきているのです。ですから自分が、或いは私生児として生まれて来たとしても、それは予定された人生であり、自分が選択した人生修行の場であったということなのです。そのような不幸な環境において、或いは継母に育てられるということもありますでしょう。それでも予定された環境だということなのです。それを選んで魂の修行になるとして選んで生まれて来ているのです。誰れに不満を言うことでもないのです。不満を言うのは間違っているのです。自分がそのような勉強の計画をたてて生まれて来ているのです。ですから、その中で最大限に悟って行きなさいということなのです。
ある中国の方が先日言っておられましたね、自分の人生を愛しなさいと。これはこういう意味なんです。与えられた環境をね、人はともすれば運命論的に受け入れるのかというけれども、運命というのは他人事のように言ってはいけないのです。自分が決めて来たことなのです。自分が決めて来たこと、運命であるからこそそれを愛する必要があるんです。これは決して一般の方々だけではありませんよ、あなた方についてもそうなんですよ。あなた方はまた別の人生を羨(うらや)んでおられるでしょう。自分にないような、ああいう人のような生き方をしたいとか、こういう人間でありたいとか、いろいろな希(ねが)いや、想いがあるでしょう。けれどもそれはまたあなた方の運命なのです。自分で決めて来た運命なのです。神はそのあなた方との約束を忠実に守っておられるのです。であるならば、かけがえのない自分の人生を、自分の手で磨かずして一体誰れが磨いてくれるでありましょうか。こういうことです。これが「環境と人間、或いは運命と人間」ということについての私の考えであります。
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**3.マラソン選手は苦斗の中に人生の悦びを一歩ずつ昧わって行く
&bold(){善川} そのような崇高な精神というものは、また事実そのような約束事で人は生まれて来ているのでありましょうけれども、遺憾(いかん)ながらその教えに接することもなく、ただ現実の自分の日常生活の不如意を託(かこ)って神の余りにも無慈悲な、自分達への運命の与え方というものに対する哀しみというか、不満というか、そういう言葉で表現せざるを得ないというような形で歎いている人々が多いように思います。
しかしながらそうした中で、身体不自由な身であっても、自分は自分なりにせめて自分のことだけでもやって行こうと努めて、この世を去って行く人もそこここに見うけられます。今後、あなた様のようなご指教が、そういう人達の上に大きな光となり、希望となってゆくことを期待したいと思います。
&bold(){ヘレン} 例えば、あなた方にとっては、他の宗教家達がやっているように人の病を治すというようなこと、これは神がその気持になり、あなたの守護指導霊達がその気になれば、簡単にできることなのです。他人の病を治すことぐらいのことはできるのです。けれどもね、その人が病んでいるにはその人独自の問題ということもあるのです。その人独自の運命もあるのです。それを何も知らないあなた方が、直ぐ病を治してしまうということは、それも神の栄光の一つの現われには違いありませんが、ある意味においてはその人の運命を勝手に修正してしまうことにもなりかねません。その人にとっては病気は治して欲しいでしょう。そうしていろんなところを駈け廻っているでしょう。けれども、それを治すということによって、奇績を起こすということによって、神理を伝道するという方法もあることは確かですが、私のような場合のことも考えて頂きたいのです。
医学が進歩してたとえばヘレン・ケラーとして生まれた私が、二十才にして目も耳も口もきけるようになった。全部使えるようになった。普通の通りになった。それで私は幸せであっただろうかと考えた場合に、恐らくそうではなかっただろうということです。私は長寿八十数才まで生きました。そして三重苦の中で起ち上がり文学活動をし、講演会もするまでになりました。そして世界中を廻って恵まれない人達を勇気づけました。私はやはりこのような人生の方が素晴しかったと思うのです。たとえ重荷を背負っていたとしても、これが素晴しい人生であったと私は思います。ですから皆さん、人生というのはマラソンのようなものなのです。汗を流して苦しんで走っているんです。端からみれば、そんなに苦しまなくてもいいではないかと、この車に乗って行きなさいと言いたいのですが。それではいけないということなんですね、ですからあなた方も、人間の幸福というものを今後とも考えていかれるでしょうが、マラソンでいえば、安易に横から走っていって、車にお乗りなさいと言っているようなことではいけないということです。
あなた方が学んでおられる日本神道系の教えの中にも残念ながら誤りがあると私は思うのです。それは、すべての人間がすぐ幸せになるということは大事ですけれどもそれは、この三次元の本当の役割というものを見過ごしているところがあると思うからです。
私はこちらの世界へ来て目も見えますし、耳も聴こえます。ロも喋れます。本来人間自由です。ただ三次元の中においてそのような厳しい環境に置かれたということです。ですから私は世の人々に言いたいのは、環境をよくするために奔走するよりも、環境の中で、自らを輝かす。そのような努力をして頂きたいと思うのです。人生は困難があるからこそ素晴らしいんです。困難があるからこそ嬉しいんです。輝いているんです。それは困難礼讃ではありませんよ。たとえばですよ、自ら車に当たっていって、そして交通事故になって、神よ困難を与え給うて有難うございますと、こんなのは愚者です。こういうことを言っているのではありません。自らの不注意で、不幸を起こして、それでよしとせよなど私は言っているのではないんです。しかし人生においてはどうしても避け難い困難苦難というものはあるんです。そうであるならば勇敢にそれを受け止めるということです。譬えて言うならば、この三次元における人生というものは、シェークスピアの劇のようなものです。喜劇ばかりやっていても中なか為にはならないんです。時には悲劇の幕も切って落とされねばならないということです。そうすることによって人生の質は深まっていくのです。
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**4.幸、不幸は神のみ知る、自ら望んで不幸を招くな
&bold(){善川} 高い見地からのお話で大変参考になることだと思いますが、なお、そのようないろんな身体的な故障を本来的に持っておられる方、或いは途中でそのような不幸に遭った。たとえば神の道を伝えて来たクリスチャンの方で全く善良な道を歩んで来られたと思われるような方が、ある日突然倒れ、植物人間になられるというような事例を私は知っておりますが、そういう人達の場合、どういうものでしょうか。果たしてその使命というものはどういうことになるのでしょうか。あなたが仰られた使命によるものであるのか、或は過去世における自己のカルマの現われであるのか、自分達が見定めるその辺の自覚と方向というものが定かにならないで苦しんで居られる方もあると思うのですが…。
&bold(){ヘレン} それは他人から見ても分らないのです。結局は本人の魂と、神との話し合いによって決まることなのです。他人の眼から見れば、なんであんな善良な人がこんな風になっているんだろうと思われるかも知れません。しかし本人の本当の魂の歴史の中から見なければ、その事件がどういう意味があるか、ということはこれは他人が伺い知ることはできません。ただ言えることは、人間というものは与えられた環境の中で、最善を尽くしておれば、いつも天国の中に居るということなのです。最善を尽くす中には地獄はないんです。
ただ、いま一言付言して置きますと、クリスチャンの中には徒らに悲劇を招いているような方々もいます。これはいわば教祖であるイエス・キリストがあのような受難をされたがために、徒(いたず)らに受難礼讃を煽(あお)っているところもあると思うのです。ですから敬虔なクリスチャンの中に怪我をしたり病気に倒れたりする人が多いのだけれども、そのような人の心の中には、やはり受難礼讃の気持があるということも否めないと思うのです。主にもたらされたような苦難を私にも与え給えと祈るような心がどこかにあるということです。特に面白いのはキリスト教の神父達、或いは聖人達といわれる方々に聖痕(せいこん)というのですが、キリストが受刑したときと同じような傷口ができたりですね、そういうことがあるということです。それは苦難を誇りに思う心がそこにあるということです。聖フランシスコでもそうでした。或いは近年においてもピオ神父とか、そうした方々には聖痕というものが現われました。手に十字架を打たれた釘の痕ができたり、そうしたことですね。脇腹に槍で刺された痕が出来たり、こんなことを尊がってはいけないのです。それは自らの受難礼讃の心が感応して肉体にそのような現象が現われただけなんです。どうも教え主の環境を真似てみようという気が強過ぎて、人間はどうもそちらの方向へ行ってしまうのです。
もしキリストが幸福な人生を生きたなら、やはりクリスチャン達もそうした人生を生きる人が多かったでありましょう。どうしても弟子達は先生の悪い面まで見てしまうことがあるのです。これは仏教の方で釈迦が出家をするとみんなが出家をして了ったようなそうしたものと恐らく同じであろうと思います。
人はどうしても形を真似てしまうのです。本質を真似ないで形を真似るのです。ですから私が云っているのは、あくまでも、どうしても避けようと思っても避けられないような運命に対しては勇敢にその中で生きて行きなさいと云っているのです。決して苦難を自ら招いてはいけないのですよ。そういうことをする人もいるのです。宗教者達には特にいるんです。敬虔な方々には、それに対しては、私は忠告を与えて置きたいと思います。そうであってはいけない、決して、心の中に苦難を呼び込むようであってはいけない。それまでをも運命と言い切れないものがある。用心すれば避けられたような苦難を自ら呼び込むようではいけない。ですから恐らくはクリスチャン達は他の宗教の方々に比べて敬虔な人ほど病気になったりする人達が多いのではないかと私は思います。それはどうしてもそういう苦難礼讃の気持があるからです。これは避けて頂きたいと思います。
&aname(5){}
**5.信仰を力とし勇気を起こし事業に成功していく人間たれ
&bold(){善川} 有意義なお話を伺いましたが、現在あなた様は天上界に居られまして何方(どなた)かのご指導をされて居られますか。
&bold(){ヘレン} おります――。特に私はこの地上において、社会福祉とか事業、そうした方面で活躍されておられる方々を、日向になり陰になって指導しております。――また私が地上に在った時に、私を指導して下さった方は、あの偉大なスウェーデン・ボルグといわれる方でありました。あの方が私を指導して下さいました。
&bold(){善川} スウェーデン・ボルグ様は現在天上界に居られますか。
&bold(){ヘレン} 居られます。また機会があればあなた方のところへ出て来られるでしょう。あのスウェーデン・ボルグ様が私を導いて下さったのです。また私はあのスウェーデン・ボルグ様の「霊界記録」ですか、あれを生きていた時に、まあ点字でありましたけれどもそれを読むことによって本当の信仰に覚めたということもあったということです。
私が今世の人々に対して訴えかけたいことは、信仰を持って生きるということが如何に美しく輝いてみえるかということです。如何に素晴しいかということです。いま日本の方々をみてもどうも唯物論的になり、科学万能になっておられるようです。心の中では、あるいは家庭の中では神仏を信仰するということも結構しておられるのですが、それを人に知られると何か気まずい思いをする。何か恥ずかしいようなそんな思いを持っておられる方が多いようです。けれども本当はそういうものであってはなりません。本当は信仰がその人を強くし、その人を輝かすようでなくてはなりません。信仰がその人を弱くするようなことでは困るということです。信仰を持つことによって人に負目があるように思われたり、人の目を恐がるようであっては困ります。信仰を持つことによって強く、勇気を持って生きていける人間にならねばならないということです。
キリストは言われました。樹の良し悪しはその果実を見れば分ると。果実が良ければ樹も良いのである。そういう見分け方をされました。これは後の世において宗教の善悪を見分ける方法としてずいぶんと言われております。あなた方もまた一つの樹であります。あなた方の樹の良し悪しはその果実によって判断されます。ですからあなた方も新たな教えを説いていかれるつもりでありましょうが、あなた方の教えを信ずる方々が、世の中において大手を振って歩けるようなそうした教えでなければいけないということです。あなた方の教えを信ずることによって、周りの人々から嫌われ、親戚から破門され追出され、陰に隠れてコソコソしなければならないような、そんな教えではないはずです。もっとあなた方の教えを信ずることによって人生に勇気を持ち、そして事業に成功して行けるような、そうした強い人間を作り出せるような教えであって欲しいと思います。
&aname(6){}
**6.女性こそ神の使徒として強く働け
&bold(){善川} 近年女性の方がこの信仰の問題については非常に熱心になっておられるのですが、それ自体は結構だと思うのでありますが、これはご承知かと思いますが、最近外国系の宗教の或る宗派の婦人宣布班の方々でそれが非常に熱心で、班を編成して各家庭を訪問し教えを説いて廻っております。その熱心さには全く敬意を表するばかりですが、問題はその宗派の教義なり信条なりにはドグマティックなものが強く惑じられるのですが、しかしその行動は今あなたが仰られたコソコソするのではなく真向から信じ切っておられるということと、いま一つは、その果実と樹の喩えによって示された問題についてですが、どうお考えになりますでしょうか。
&bold(){ヘレン} まずあなた方に言って置きます。信じている中味の高低はとも角、その行動自体は立派だということです。あなた方が見習うべきものがあるということです。教えの中味の高低はあります。良し悪しはあるでしょう。けれどもね、それだけの熱意を持って生きるということは、人生にとっては益をなすものであります。女性にとっても家庭にモジモジしているよりは、本当に自分が信じた教えであるならば、それを人々の戸口から戸口へと伝えて行くということは大切なことであります。
たとえば、日本の国に新たな教えが説かれるとするならば、日本各地に居られるご婦人の方々がご近所からご近所へとその教えを語ったならば、やがて日本中にその教えは広まって行くのです。私はあなた方にも言っておきます。あなた方の教えの主たる担手となる方は、むしろご婦人達でありましょう。ご婦人からご婦人へと噂が広がっていき、信じていかれることになりましょう。信じるということの強さにおいて女性は男性よりも遙かに強いものであります。
神は、男性に、知性と理性において優れたものをお与えになりました。けれども神は平等にみております。知性と理性の足りない分、悟性といいますか、信ずる力と申しますか、或いは感性と申しますかそうしたものが強くなっているのです。そういうふうに神は、それぞれのものをそれぞれに愛しておられるのです。神はそれぞれのものを一様に愛しておられるのではなくて、それぞれのものをそれぞれに愛しておられます。ですから女性にも信ずる力というものを、弱い女性であるからこそ、信ずる力というものをお与えになって居られるのです。ですからそういう熱狂的な人々は、端からみたら非常におかしくみられるかも知れません。けれども、その中に学ぶべきものはあるということです。要は、真実の教えがまだ十分説かれていないということであって、その行動自体が悪いことでもなんでもありません。むしろ私は素晴しいと思いますよ。あなた方は私達の霊言を書物にしようとしておられるけれども、これらの書物を持って他人の戸口を叩いてこれをお読み下さいと廻る程の女性が出ることは、素晴しいことではないでしょうか。それ程の勇気がなければ本物は伝わっていかないのです。
&bold(){善川} 今日では男性よりも、女性の方が伝道ということについては積極的で勇敢ですね。
&bold(){ヘレン} というのも、男性は今、立場が弱くなっているのです。男性というのが主として経済の基礎をつくらなければならない。経済力を担わなければならないというそういう使命があるために、かえって自分の立場を守るために弱くなっているのです。ですから私は世の女性達に言いたいのです。職場進出されることも結構ですけれども、経済的に余り悩まなくてよいあなた方であるからこそ、神の使徒として働きなさい。強く働きなさいと言って置きたいと思います。
&aname(7){}
**7.この世は天国、曇っているのはあなたの心の窓硝子
&bold(){ヘレン} それとね、私はもう一つ言って置きたいのですが、皆様はともすればこの世の中を非常に醜いもの、穢(けが)れたもの、不浄なもの、困難と苦痛とだけがある世界、まるで地獄が現象化した世界のように言われています。けれどもね、本当の眼で透かして視たならば、この世の中というのは輝いて見えるのですよ。それはあなた方の心が曇っているからなのですよ、窓ガラスが曇っていると、外の景色はどうしてもきれいには見えないのです。景色が曇っているのではなくて、あなた方の心の窓ガラスが曇っているのですよ。
世の中乱れていると言います。しかし世の中を見ようとしているあなた方の一人ひとりの心の中に曇りがあるということなのです。太陽は一万年前も今も同じく、東から出て西に沈んでおります。地球は同じように自転しております。同じように春があり、夏があり、冬があり、同じように鳥たちは群れ、草花は咲いています。この豊かな大自然の姿というものを見てみなさい。世界は本当に美しいものなのです。その美しいものを美しいとして見れないあなた方の心が曇ってきているのです。どうか心の窓ガラスをよく拭いてほしいのです。世界をよきものとして観えるような、あなた方であってほしいのです。世界を悪しきもの、穢らわしきものと思うと、悪しきものや、穢わしきものが次ぎつぎと、むくむくと出てくるのです。人間をみんな悪人だと思っている人ほど最大の悪人であるという言葉があります。世界の人がみんな鬼だと思っている人こそ最大の鬼であります。世間の人を皆善人と見ることができる人は、最大の善人であります。どうか世間が悪いのではなく、世界が悪いのではなく、自分達の心の窓ガラスが曇っているだけだということを認識してほしいのです。
ですから、新しい宗教というものは新しい世界観の提供が大事だと思います。朝、森の中の小屋で目が醒めた時に、美しい鳥の囀(さえず)り、素晴しい太陽の輝き、緑の素晴しさ、小川の流れの清らかさ、空気のすがすがしさ、こうしたものに感謝できる人間であるならば―そうしたすがすがしい気持を持って、毎日生きていけるようであって欲しいと思うのです。そのような「観」の転回こそが、観方の転回こそが大切なのではないでしょうか。そのことこそが現代の宗教に求められていることではないでしょうか。
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**はじめに
-わしは出口王仁五郎じゃ。過去出版された書籍より高級諸神霊の御言葉をみなに伝えるのがわしの使命じゃ。天上界からの言霊をここにまとめていくので、とくとご覧あれ!
**目的
-天上界から降ろされた啓示のご紹介。
-絶版霊言の保存。
**注意
-これはWikiとか申すHPじゃそうじゃが、あらしに来るふとどき者の対策のためにわしとわしが許可を与えた者しか編集できんようになっておるので、残念ながら、みな音無しう読んで頂きたい。
**広告について
-無料のWikiを使うておる為、ページの下に勝手に広告がでるようじゃが、みなには見苦しい思いをさせて申し訳ない。まあ、あまり気にせんで読んで頂きたい。
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2011-01-26T09:58:00+09:00
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第1章 愛の復活
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/141.html
**目次
[[1.憎しみと愛>第1章 愛の復活#1]]
[[2.愛と持続>第1章 愛の復活#2]]
[[3.愛の目的>第1章 愛の復活#3]]
[[4.愛と許し>第1章 愛の復活#4]]
[[5.愛の根源にあるもの>第1章 愛の復活#5]]
[[6.愛の復活>第1章 愛の復活#6]]
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(一九八七年十一月五日の霊示)
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**1.憎しみと愛
人間には、基本的な二種類の感情がある。その感情の一方は、憎しみが極端なところにあり、もう一つの極に、愛があると言えよう。
しかし、こうして憎しみと愛というように、二つの異なったもののように見えるものも、その本質、実は異なったものではない。それは、愛の原理を無視した行為と、愛の原理を認めた、受け入れた行為とのその違いでしかないのです。
憎しみとは、結局のところ、愛に栓(せん)をすることであり、この栓を取り除いたときに、愛はまた流れていくのである。
人間は、いかなるときに憎しみを抱くであろうか。憎しみを抱くときは、やはり自分の思いの通りに相手がならないときではないであろうか。相手が自分の思うがままにならぬとき、そこに憎しみが現われるのではないだろうか。
憎しみとは結局、人を自分の思うがままにせんとして、相手が思うがままに動かないことをもって、憤(いきどお)ることを言うのである。
さすれば我われは、この憎しみという感情の根源にあるものを洞察せねばならん。それは、姿を変えた愛の願望にしか過ぎないということだ。
すなわち、憎しみを抱いている人というのは、何らかの意味で相手に愛を与えてほしいと思っておるか、尊敬を与えてほしいと思っておるか、自己の重要感がほしいと思っておるかのいずれかなのである。したがって、彼らは愛に飢えているのである。そして、人に愛を与えるがごとき境地にないと言うことができるのである。
これに反し、愛に生きる人はそうではない。彼らは求めない。彼らは、手に入れようとするのではない。彼らは、ただ与えんとするのである。与え、与え、与え、与え続けんとするのである、なぜ与え続けんとするのか。それは結局、彼らが、神より多くのものをすでに与えられているからである。与えられているからこそ、また与えんとするのである。この与える愛の循環こそが、愛の本質に他ならない。
さすれば、愛の根本にあるものは何であるかと言うと、自らが与えられているということに関する感謝、そして、感謝に先立つ自覚ということになるのではないだろうか。与えられているということ、これに対する認識をし、そして感謝をしていくということ、感謝をするということが、すなわち他の人に対して愛を与えるという行為となっていくのである。
したがって、憎しみの炎に燃えている者たちよ。自らの心に手を当てて、考えてみなさい。あなた方には感謝という気持があったかどうかを。神に感謝する気持があったかどうかを。他の人びとに生かされているということに関して、感謝する気持があったかどうかを考えてみなさい。
感謝のないところに、愛はないのです。神より与えられているからこそ、我われは与えねばならんのです。神より多くのものを与えられておるにもかかわらず、そのことに気づかず、人から与えられんことばかりを願って、他人に強要し、他人にこのようにしろ、あのようにしろと強要することをもって、本当は、人間の本来の姿とは言えないのです。
やはり、愛に生きる行為こそが、本当に美しいのではないでしょうか。結局、憎しみという行為は、他人を害すると同時に、自分自身の神性を害するということにしか他ならないのです。憎しみがこのようなものであるならば、私たちは憎しみを捨てねばなりません。
いろんな個性ある人間が生きておるならば、すべての人間を自分の思うがままにしたいという気持は、これはやはり、無理がそこにあるのではないでしょうか.神でさえも、すべての人たちを自分の思い通りに強制しようとはされておられないではないですか。さまざまな人に、さまざまな行動と、さまざまな思いと、さまざまな言動を許しておられるではないですか。
その中には、神の御(み)心に合わない言葉や、神の御心に合わない行ないや、神の御心に合わない思想もあるでしょう。そうした人びとに対しても、神は惜しみなくあの太陽のように熱や光を与え、慈雨(じう)を降らし、穀物を実らせ、そして、彼らを養っておられるではないですか。
神は、善人だから穀物を数多く取れるようにし、悪人だから少なく取れなくしたり、善人だけに雨を降らして、悪人には雨を降らさなかったり、そうしたことは、決してされていないはずです。
さすれば、あなた方は、よくよく物事を考えねばならん。あなた方は、決して、神は 悪人だから生かしておられないんだとか、善人だけをえこひいきされるのだとか、そうした考えをもってはいけないと思う。神もまた、多くの悪しき行為をする人たち、悪し き思いを発する人たち、悪しき言葉を発する人たちを養っておられるということを知らねばならない。
そういう認識のもとに考えるときに、神が彼らの存在を許しておられるのに、なぜ、あなた方だけが彼らを裁こうとするのか。裁いてはいけない。人を裁いてはいけない。汝が裁かれぬことを願うなら、人を裁いてはいけない。他人に悪人というレッテルを貼ってはいけない。他人に間違っているというレッテルを貼ってはいけない。そうした人びとであっても、神はまた、養っておられるということ。これを信じなければいけない。
彼らもまた、完全な悪人ではないのです。完全な罪人や、完全な悪人というのは、この世にはいないのです。お互いに、他人から自分が害されるのではないかと思って、その害というものを予想して、身構えているだけなのです。そして、身構えておるだけでは足らずに、まず相手に対して、批判をしてみる。悪口を言ってみる。こういうことをしておるのです。しかし、それは決して、神のお心にかなっていることではないのです。
憎しみに対して、愛をもって応(こた)えよ。怒りに対しては、笑顔でもって応えよ。激しい言葉に対しては、沈黙でもって応えよ。そうした行為の中に、神の愛の実践がある。
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**2.愛と持続
さて、人間は、自ら優れていると思うときに、他人に対して優しくすることは簡単です。自らが人より勝っていると思うときに、他人を慰めるのは簡単です。自らが金持ちであるときに、貧乏人を慰めることは簡単です。自らが幸福であるときに、不幸な人を慰めるのは簡単であります。自らが健康なときに、病人を慰めることは簡単であります。自らが恵まれているときに、恵まれてない人たちに優しくするのは簡単です。
しかしながら、人生は必ずしもそうした時期ばかりは、続かないということです。自らが豊かなときに、貧しい者たちに対して、分け与え、優しくすることはできても、自らが貧しいときに、人びとは一体何をすることができるでしょうか。
この貧しさとは、決して、金銭的な貧しさだけではありません。精神的にもそうです。不成功のとき、失敗のとき、心は貧しくあります。しかし、この心貧しき時に、一体どれだけのことができるでしょうか。
富者の万灯よりも、貧者の一灯です。貧しい者が、その貧しい中から蝋燭を一本、神のために捧げるのと、大金持ちが一万の、あるいは一億本の蝋燭を捧げるのと、どちらが神が喜ばれるかと言えば、より多くの犠牲を払ったものの方を神は喜ばれるのです。
さすれば、人びとは、自分の置かれる立場というものを当然として、物事を判断してはいけない。富める者は、ますます大いなるものを返していかねばいけない。貧しい者は、貧しいものの中から、出していかねばならない。それが愛の、愛についての基本的な考え方です。
そうしてみると、結局、こういうことではないでしょうか。愛とは、相対的なるものの中にはないということです。愛は、すなわち、絶対的なものだということです。その人の置かれた立場によって、愛を与えたり、与えなかったり、その状況によって、それをより好みするようなのが、本当の愛ではないのです。愛というものは、どのような状況にあっても、自ら与えていくものだと言えましょう。
かつて、教会に納める税金に、十分の一税というものがありました。それは、富める者も、貧しき者も、自らの収入の十分の一を神に納めるということが、その主旨でありました。これは、結局のところ、すべての者が、同じだけのものを与えるという気持であります。お金があれば与える、お金がなければ与えない、こうしたものではないということです。
つまり、健康な者が、病者を見舞うだけではなく、病のときにあって、他の人にどれだけの配慮をすることができるかどうか。これが、大切だということです。病の中にあって、他の人をどれだけ気遣うことができるだろうか。病の中にあって、健康な人をどれだけ気遣うことができるであろうか。不幸の中にあって、幸福な人をどれだけ気遣うことができるだろうか。これが、問題となるのです。
結局、こういうことです。人生にはさまぎまな波があります。大波、小波があります。そして、波が高まっているとき、また、波が低くなっていくとき、両方があると言えます。 しかし、その大波、小波、いろんな状況にあるけれども、決して与えることをやめないという姿勢が、大事なわけです。
自分が健康なときだけ、他の人にいたわりの言葉を与えて、自分が不健康なときには、与えない。こうしたものであっては、よくないのです、決して、愛というものは、そうしたその場その場の気分で、与えたり、与えられたりするものではないのです。
結局のところ、愛の本質の中には、持続というものがあるということです。持続とは、与え続けるということです。これが持続です。この持続というものがないときに、一切はむなしくなります。
どんな苦しいときにも、どれだけの愛を人びとに分かち合えるかどうか。どんな苦しいときにも、どれだけの愛を神に対して与えることができるかどうか。与え返すことができるかどうか。それが、あなた方に今、問われている時です。
他の人びとから、非常な善意でもって褒められたときに、笑顔をもって応えることは簡単でありましょう。他の人びとから、悪意でもって迎えられたときに、そのときに笑顔を崩さないことは困難であります。しかし、これは努力して、そういうことをしていかねばならないのです。
自分を愛している者を愛したからとて、それが一体何になるでしょうか。自分を愛している者を愛することぐらい、これは動物でもやっておることであります。自分を愛しておる親を、犬であっても、鹿であっても、子供はまた愛します。また、子鹿や、子犬が親を愛するときに、親犬や親鹿は、子供を愛します。そうしたように、愛してくれる者を愛することは、簡単なことであります。
しかし、本当に心の修行というものを考えたときには、愛するべきでないものを愛するということが、大事なのです。その人が自分に好意を持ったときだけ愛し、自分に敵意を持ったら愛さない、そうしたものであってはいけない。どんなことがあっても、太い太い命綱のように、決して愛を離さないという気持が、大事だと私は思います。
それは、決して捨てないという気持でもあろうかと思います。真理の道に入っても、さまざまなことに間違いを起こして、道をそれていく人たちがいます。道をそれていった人たちに対して、彼らは間違ったのだから、そして裁かれて当然である、いなくなって当然である、迷子になって当然である、そうした気持であってはいけないということです。愛は決して捨てないということです。
私はかつて言ったことがあります。百頭の羊のうちの一頭が、谷間に迷子になったときに、残りの九十九頭をそのままにしておいてでも、その一頭を探し求めるのが、これが羊飼いの仕事ではないだろうか。
神の愛とは、そうしたものであります。決して捨てないということが、大事なことなのです。決して捨てないということ。
たとえば、神の愛というものは、親の愛のようなものです。親は、自分の子供がいい子だから愛し、悪い子だから愛さないでしょうか。悪い子であるからこそ、ますます心配し、ますます彼らの世話をやき、ますます彼らのために、なんとか力になりたいと思うのが親ではないでしょうか。それは、かわいい我が子だからです。
まして、地上に降りたる人間もすべてそうです。すべて神の子なのです。そうであれば、神の言うことをよく聞く子もかわいいけれども、聞かない子供たちこそ、もっとかわいいんです。もっともっと彼らのことを世話をしてやりたい、そういう気持が私たちにはあるのです。
さすれば、あなた方は、心清き人を愛することは簡単だけれども、心において間違いがある人をも愛さればいけない。そうした考え方を大切にしていきなさい。
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**3.愛の目的
こうしてみると、愛の目的とは一体何であるかということが、明らかになってくるでありましょう。愛の目的とは、結局のところ、すべての人、一人ひとりが手をつなぎ合うことなのです。決して離さないということです。決して離さない。
あるいは、すべての人の体に、命綱を巻きつけていく作業だということです。自分のみが助かろうとして、その命綱を切り捨ててはいけない。すべての人が力を合わせて、なんとかして持ちこたえていかねばならん。そういう気持が大事であろうと思います。
愛は、すべての人を山の頂上まで連れて行くことを目的とするのであって、自分が落ちそうになれば、他の者を切り落とすというようなこと、そうした命綱を切り落とすというようなことをもって、それを愛の目的とはしておらんのです。
苦しくとも、つらくとも、なんとかして、がんばっていこうということです。励まし合っていこうとすることです。それが愛の本質であり、愛の目的であるのです。
ただ、中には、神が人びとをすべてそのように救おうとしており、また、神の子として地上に出ている人たちが、同じくその意を体現せんとしておるにもかかわらず、それを理解しない人もいます。命綱を垂らしておるにもかかわらず、それが自分を縛りつけて、自分を思うがままにせんとしておるのだというふうに、被害の思いでもって見る人もいます。
そうした人に対しては、根強い、根強い信頼という気持でもって、見てあげる必要がある。彼には悪霊が入ったとかいうような、そうした言葉でもって、切って捨てることをよしとはしないのです。たとえどのような状況にあろうとも、必ず相手がよくなると思って、祈って待ってあげなければいけない。
なぜなら、愛とは、自分一人がよければいいという思いではないからです。愛は、すべてがよくなることを祈る気持です。自も他も一体であるという気持です。他人ではなくて、それもまた自分の分身であるのです。そうしたものが、愛の根底に横たわっているのです。
さすれば、あなた方が兄弟であるということを知らず、あなた方が差し伸べた手をもって、これを異邦人(いほうじん)の手か何かのように、振り払う人がいるかもしれないけれども、あなた方はそれで顔をしかめてはいけない。青い顔色になってもいけない。そうしたことを断じてしてはいけない。あなた方は彼らに対して、彼らはまだ知らないのだ、自分が兄弟だということを知らないのだ、友達が来ているということを知らないのだ、と、そのように思わねばいけない。
往々(おうおう)にして、敵というものは、結局、そうしたものなのです。敵というものは、結局のところ本当のことを知らないだけの人であることが多いのです。本当のことを知らない人に対して、その無知を暴(あば)こうとしてやっても、なかなか彼らの許すところとはならないでしょう。
知らないということは事実であっても、知らないということを指摘し、知らないということを暴き、知らないがゆえに劣っていると、それを証明することをもって、本当の愛とは言わないのです。知らないということに関しても、それも、根気強く、根気強く、彼らが知るのを待ってやるということ、これが大切ではないでしょうか。
そうした、圧倒的な愛の思いでもって、生きていくことが大事なのではないでしょうか。私はそう思います。愛は決して見捨てない。愛は、すべてのものが向上していくことを目的とする。すべての人が、手をつなぎ合わせることが目的である。自分たちの仲間だけが手をつなぎ合わせて、他の者たちをその輪の中から放り出すことをもって、愛とは言わんのです。
自分の気にくわない者をその輸から放り出したところで、それで調和ができたところで、それが一体何になりますか。そうではない。すべての人が手をつなぎ合わせられるような、そうしたことこそ、理想と思わねばならん。
愛には敵はない、ということです。なぜならば、すべての人の向上を願う思いが、愛だからです。それが今、敵のように現われてきているということは、まだまだ自分の愛に、足りざるところがあるのではないかどうかを検討しなければいけない。
人を怒らせるときには、あなた方が発している言葉の中に、剌(とげ)があるのかもしれぬ。毒があるかもしれない。人の不幸を願う気持ちが、どこかにあるのかもしれない。そうした思いがあるならば、それをまず、神に詫(わ)びることです。
人間は、圧倒的な善人に対して、悪くは言えないものです。自分に対して、どんなことがあっても、よくしてくれる人に対しては、悪口は言えないものです。人間は、自分の悪口を言う人のことを悪く言うのです。悪魔だけが悪魔を呼び出すことができるというのは、このことを言っているのです。
敵として、大きな悪魔が出てきたと思えば、その悪魔に匹敵するだけの大きな悪魔が、我が心の内にあるということを知りなさい。それを呼び出すだけのものが、こちらにもあったのだということを知りなさい。
反省の材料は、向こうだけにあるのではない、またこちらにもある。悪魔だけが、悪魔を誘(おび)き出すのだということを知りなさい。
事実を事実として述べることは、必ずしも真理ではないと私は思う。相手を生かすことは大きく、相手を苦しめることは小さく、そうした努力もまた、必要ではないだろうか、私はそう思います。愛とはそうしたものだからです。
あなた方は、自分の最も信頼している人から、手厳しい批判を受けたときに、それでもって、ありがとうと言うことができるでしょうか。言葉では言うことができるかもしれませんが、自分の間違いを指摘した人に対して、感謝する気持よりも、やはり、くやしい思い、傷ついた思い、それが強くはないでしょうか。信頼する人であればあるほど、そうしたことに関して、敏感になっていくのです。
さすれば、決して悪く言わない、そうした友人であってもよいのではないでしょうか。私は、それが本当の生き方であるように感じます。愛の目的の中には、そうした、友人を創り出すことが大事であろうと思います。
どの人間にも欠点があります。相手があなた方の欠点を暴きたて、あなた方が、相手の欠点を暴いたところで、それで一体何の愛でありましょう。何のユートピアでありましょうか。
相手があなた方の欠点を暴きたてんとしているときであるからこそ、相手のよいところを見い出してゆこうとする努力が大事なのではないでしょうか。その中に、何らかの光るべきものがあるのではないか。そうしたものを見い出してゆこうとするべきではないでしょうか。
あるいは、相手があなた方の欠点を暴こうとしているということは、相手の中にある善なるものを見い出そうとするあなた方の努力に、不足するものがあったのではないか、ということを心に問う必要があるのではないでしょうか。
人間は、他人の悪は大きく見えて、自分の悪は小さく見えるものです。他人の悪口に対しては、許し難いけれども、自分の悪口に関しては、簡単に許してしまうのが人間です。あのときはああいう事情であったから、やむを得なかったのだというのが、人間のよくある姿であるわけです。しかし、他人の悪に対しては、なかなか許そうとしません。こうしたものである。自分もそうした生き物であるならば、他人もまた、そうした生き物であるということを知らなくてはいけません。
&aname(4){}
**4.愛と許し
さて、そこで私は、許しということに関して、話をしていきたいと思います。この私の書物を読む読者の中で、一体何人の方が、他人を許し得たことがあったでしょうか。あなた方は心静かに目をつむって、思い出してみてください。一体あなたは人生の途上で、何人の人を許したでしょうか。
許した数が、十人以上にのぼる人があれば、それは珍しい方であろうと思います。なかなか、十人もの人を許した覚えはないというのが、通常の人間ではないでしょうか。
しかるに、自分の一生というものを振り返ったときに、あなた方が害したことがある人は、一体何人あったとお思いでしょうか。あなた方が人生の途上で害した人は、おそらく十人という数では済まなかったのではないでしょうか。もっともっと多くの人たちを害したのではないでしょうか。彼らを心理的に害したり、経済的に害したり、そうしたことをしたのではないでしょうか。
さすれば、自分は、自分が害した人と、自分が許した人とのこの違いを比べてみたときに、善人であるか、悪人であるかということを自らの心に問うてみなさい。十人以上の人を害したことがない人であるならば、十人以上の人を許さなくてもよいかもしれない、しかし、現実は、一人の人も許したこことがないにもかかわらず、数名にとどまらず、数十名の人びとを害していったのが人生の道筋ではなかったでしょうか。そして、その害しているということすら気づかずに、生きているのが大多数の人間の姿ではないでしょうか。
害している、自らが他人を害しているということさえ、気づかぬ人間。そうしたことは数多くあるのです。みなさん方も、自分は他人に害されたと思っているけれども、その当人は、そうしていない、そう思っていない、こういうことに数多くめぐリ合ったと思います。あの人はこういうことにも気がついていない、そう思ったかもしれません。ただ、あなた方にも同じことはあるということを知らねばならないのです。知らないで、害したことはあるということです。
さすれば、心の中に静かに思いをいたして、自分が人生の数十年の間で、一体何人の人を害したであろうかということに思いをめぐらしてみなさい。
父に対して、母に対して、兄に対して、弟に対して、姉に対して、妹に対して、友人に対して、先生に対して、また職場の同僚に対して、自分をひいきにしてくれた人に対して、あなた方はその友情を裏切るようなことはなかったでしょうか。彼らの信頼を裏切るようなことは、なかったでしょうか。
そうすれば、罪深い自分という姿が、ふつふつと思い出されるはずであります。あなた方がいくら思い出しても、思い出しても、それですべてが十分というわけではありません。けれども、その思い出しても十分でない数以上に、人を許そうということを考えてみてください。
具体的に会うことができる人があれば、会って許しを請(こ)うことも大事です。会うことができない人であるならば、心の中で許しを請いなさい。そして、自分が許されたという気持がないならば、神に対して、許しを請いなさい。神はきっと、あなた方の罪を許してくださるでしょう。
結局のところ、こういうことです。罪なく人生を生きている人はいないんです。また、他人を一度も害することなく、人生を生きている人もいないということです。「汝らのうち、罪なき者のみ、この女を石にて打て」と、私はかつて語ったことがある。同じであります。
あなた方のうち、人を害したことがない人だけ、他人を悪人呼ばわりすればよい。あなた方のうちで、心に悪を思ったことがない人だけ、他人を悪人扱いすればよろしい。あなた方の中で、心に恥ずべきことをしたことがない人だけが、他人の恥を責めればよい。こうしてみると、なかなか、人のことを悪く言うことは難しい、ということが言えると思います。
さすれば、許しの根源にあるものは、しっかりとした自己観照(じこかんしょう)、自分を振り返るということにあると言えましょう。自分を深く、深く振り返ったときに、他人に対して厳しくはなれないのです。他人を許さんがために、許すのではないのです。その許しは、同時に、自分を許すための許しともなっておるのです。自分を許すがための許しとも、なっているということです。
自分が自分を許す、自分が神に許していただく、そのためにも他人を許しているのです。一生において、百人以上の人を許したことがある人は、どれだけいるでしょうか。数少ないことであろうと思います。
しかるに、神は一体どれだけの人を許しているとお考えでしょうか。それは、地上に六十億の人間ありとすれば、神は六十億の人間を許し給うているのです。さすれば、神の境地とあなた方の境地はいかに違うことでしょうか。この地上でいくら優れた人であっても、六十億の人を許しているような人がいるでしょうか。
「汝の敵を愛し、汝を迫害する者のために祈れ」という言葉は、今もまた、金言(きんげん)であるのです。あなた方も、そうであるならば、「汝の敵を愛し、汝を迫害する者のために祈れ」という言葉を心に銘じていただきたい。これは正確に言えば、「汝の敵と見えし者を愛し、汝を迫害するかのごとく、振舞う者のために祈れ」ということです。本当の意味での敵というものはない。そこにあるのは、誤解せる人が存在するということだけです。
それなら、人のために愛を与え、そして、あなた方を迫害する人のために、心から祈ってあげなさい。それが大事です。そうした誠意は、いつか必ず相手に伝わっていくものです。
時を待ちなさい。ギブ・アンド・テイクを思うなかれ。自分が与えたら、すぐ与え返されると思うな。神が無限に与えきりであるように、あなた方も与えきりでありなさい。与えて、与えて、与え続けなさい。それがあなた方の仕事であるのです。
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**5.愛の根源にあるもの
こうして、愛について、さまざまなことを語ってまいりました。私は、この愛の根源にあるもの、これを語ってみたいと思います。
なぜ、人間は、愛ということを考えねばならんのでしょうか。そして、私はなぜ、愛ということを人びとに説いてきたのでしょうか。このことについて、話をしてみたいと思います。
結局のところ、人間の人生というものは、自分自身の発見にあるのです。自分自身が、一体何者であるかということを発見するために、人間の人生はあるのです。結局、愛を探し求める旅というものは、自分の内なる愛を発見する旅であるということ。そして、自分が、愛という目的のために生きていることを知る、ということ。こうしたことであります。
なぜなら、神は、愛だからです。神が愛であるのに、あなた方が、愛に背(そむ)く行為をすることは、あなた方が、自分自身を裏切っているということです。自分に正直に生きることです。自分の内に愛があるのに、その愛に目覚めないで、愛の反対のことをしてはいけない。そして、他人が自分の愛に応えてくれないからといって、それですぐ、あなた方は不平不満をもったり、怒ったり、妬(ねた)んだりするようなことがあってはいけない。
それは、あなた方はまだまだ、自分の愛の発掘が足りないのです。あなた方の愛というものは、掘れども掘れども湧いてくる泉のように、井戸のように、汲めども汲めども湧いてくる泉のように、尽きることがないものなのです。
愛というものは、その泉は、何人がその喉(のど)の乾(かわ)きを潤(うるお)したからといって、それで泉が尽きてしまうということはないのです。あなた方も自分の心の中に、そうした愛の泉を描きなさい。その泉から水を汲んで汲んで、人びとは喉を潤していくけれども、いくら水を汲んでも泉の水は尽きることがない。決して、尽きることがない、そうした無限のものでありなさい。
大いなる泉は、昔から、多くの旅人の喉を潤してきた。砂漠を行く人たちの喉を潤してきたのは、あの砂漠地帯のオアシスです。オアシスは多くの人びとの喉を潤してきて、そして、一円も取ろうとしない。さりながら、いくら多くの人の喉を潤しても、オアシスがそれで涸(か)れてしまうということはない。そうしたものでありなさい。
結局、自分の心の奥に、深い深いオアシスを掘り、深い深い井戸を掘り、深い深い泉を掘ったときに、その愛が何人によって飲まれたとしても、干(ひ)からびるようなことは決してないのです。愛はすなわち、神の生命であり、神の生命は汲めども汲めども湧いてくる泉のように、尽きることのない、清冽(せいれつ)な水だからです。
さすれば、あなた方は、自らの愛の少なきことを嘆きなさい。自らの泉を充分に掘っていないことを嘆きなさい。あなた方が溢(あふ)れ、溢れ、溢れ、溢れてくるような、愛の泉の存在であるならば、多くの人たちがそれを奪い合ったところで、何ら争いはないのです。あなた方の水が少ないから、他の人びとの喉の乾きを潤すことができないでいるのです。
これは、他人に、その水を飲むなかれということではなくて、自らの内なる水をもっともっと豊かに、掘り当ててゆかねばならんということです。その愛の泉を掘り当てていきなさい、湧(わ)かしていきなさい。滾々(こんこん)こんこんと、湧き出でる泉のようなものでありなさい。そうしたことが、非常に大切ではないでしょうか。
こうして考えてみると、結局、愛の根源にあるものは、一本の深い井戸であるということが言えると思います。その井戸を掘り進んでいくときに、地の底にある大きな水脈に行き当たるということです。地の底には、多くの水脈が張リめぐらされています。そしてその中には、豊かな豊かな、地下水というものが流れているのです。
この地下水を掘り当てるということが、結局、一人ひとりの個人に委(ゆだ)ねられた業(わざ)なのです。三十メートルの深さを掘れば、地下水が出てくることもあるでしょう。それを、二十九メートルでやめてしまう人もいるのです。
あと一メートル掘れば、清冽な水が噴き出してくるのに、二十九メートルまで掘ってやめてしまう人がいかに多いことであろうか。また、三十メートルの底まで掘っていく前に、ほんの五メートルぐらい掘って、少し水が出たということでもって、満足している人がいくらいるでしょうか。
あなた方は、愛は、そうした深い深い地下の水脈であるということを知リなさい。そして、どんどん、どんどんと掘っていきなさい。やがて大きな大きな水脈に行き当たったときに、その中に、神の生命を感じ取りなさい。神の無限のエネルギーを感じ取りなさい。神の無限の力を感じ取りなさい。
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**6.愛の復活
さて、わたくしは今、二千年の沈黙を破って、こうして地上に霊示を送らんとしています。わたくしがこのように、直接に霊示を送るということは、非常に稀(まれ)な場合であります。
もちろん、何人かの宗教家たちを陰(かげ)になり、ひなたになって、指導したことは数多くあります。けれども、こうした形で、私が直接に地上の人たちに語リかけるということは、かつてなかったことであります。空前絶後(くうぜんぜつご)のことであります。地上の人たちは、この意味を噛(か)み分けて、噛みしめてほしいのであります。
そして、私が再び復話せんとしていることを、どうか心の底から喜んでいただきたいと思うのです。
あなた方の中には、疑い深い人が数多くいらっしゃることと思います。イエスが再び出てくるはずがない、一番にそう言うのが、クリスチャンたちでありましょう。しかし、クリスチャンたち、またクリスチャンでない人たちにも、私は知っていただきたいと思う。それは、神はみなさまを決して見捨ててはおられないのです。決してみなさまを見捨てて、みなさまを孤児(みなしご)にしようとはしておられないのです。
さすれば、この地上に生きている身であっても、どこかに神仏の力が働きかけているということを信ずることが、大切ではないでしょうか。どこかから、神仏の偉大な力が働きかけているのではないかということを知ることが、大事ではないでしょうか。
直接的、間接的に、さまざまな形でもって、神の愛というものは、いろんな時代を照らしてきたのです。いろんな人を通じて、地上に法を説かしめたり、いろんな人を通して、地上に絵画を広めさせたり、 いろんな人を通じて、地上に文学を広めさせたり、いろんな人を通じて、地上に哲学を広めさせたりしてきました。そもすべて、神の息吹であります。
さすれば、そうした息吹、神の奇跡が過去だけにあったと思うな。現代にもまた、あるはずだということを知リなさい、キリストは二千年前だけに出たのではない。今日(こんにち)に至るまで、わたくしがキリストの使命を果たさないでいたことは、一日たりとてない。今日まで私は、一日も休んだことはない、あなた方は、土曜日だと言い、日曜日だと言い、休んでおるけれども、今日まで私が働かなかった日は、一日もなかったということを、あなた方に知っていただきたい。
私は、さまざまな形でもって、みなさん方をより幸福にするために、より愛に満ちた生活に導くために、より信仰深き生活に導くために、日夜、努力をしているのです。このことを知ってほしい。このことを信じてはしい。このことをはっきりとわかってほしい。そうした思いがあります。
今、地上にある多くの人たちは、霊的世界の実在を認めず、また、霊の実在も認めない人が多いと聞いていま。そして、霊の世界を信じている宗教者であっても、偉大な人びとが、次々と地上に霊言を送るということを信ずることができないかもしれません。
ただ、しかし、あなた方は、一体どちらに賭(か)けるつもりですか。神の救いを期待するほうに賭けるのですか。それとも、神の救いを期待しない方に賭けるのですか。それを考えていただきたいのです。神の救いがなくてよいなら、それでもよいでしょう。しかし、あなた方がもし、神の救いというものを期待しておられるなら、あなた方は、心の態度を変えてしまう必要があります。
いつの時代にも神の奇跡はあり、いつの時代にも神の救済の手は伸ばされていたのです。 現代の中にも、どこかでそうしたものがあるはずだという認識を、持っていなけばいけないということです。
私は今、語ります。私が今、こうして語っているということ、こうして霊言を送っているということの意味を、多くの人に知っていただきたいのです。これを信ずる、信じないは各人の自由かもしれない。しかし、信じるのと信じないのとでは、あなた方の心の安らぎは大いに違うでありましょう。神の救いが来ていることを信じることと、それを否定し去ることと、一体どちらがよいかです。
否定し去ったところで、一体それが何になりますか。あなた方にとって、一体何のプラスになるのですか。あなた方が、唯物信仰に陥ることを防ぐことにもならないばかりでなく、あなた方を神へと導くことにもならないはずです。
さすれば、疑うべきは信ぜず、ではなくて、どのようなものであっても、その中に、本当に真理があるかどうかということをもう一度、振り返って考えていただきたいのです。
この混沌(こんとん)の世の中に、この人類の危機が迫っているというときに、なぜ、私が復活しないわけがありましょうか。あなた方がかわいいと思えばこそ、あなた方を愛しておればこそ、私は今、復活せざるを得ないのです。肉体によって復活するのではない。生命として、言葉として、私は今、復活せんとしているのです。言葉としての復活、生命としての復活であります。
これをを信ずる者には、大いなる勇気が与えられるでありましょう。そうした、栄光の時代に生きているということに対する、自信が湧いてもくるでしょう。
どうか、人びとに知っていただきたいのです。イエスは、二千年前に、ナザレの地で十字架に架かって果てたような、それだけの弱い人間ではなかったということ。その後、二千年にわたって、連綿(れんめん)として、霊天上界にあって多くの人びとを指導してきたということを。そして今また、私は、九次元世界というところにあって、地上に神理流布(るふ)のための運動を起こすべく、陣頭指揮を取っているということをわかっていただきたいのです。
私か陣頭指揮を取っているということが、どういうことであるかを知っていただきたいのです。私が地上に直接霊言を送るということは、私以外の者の霊言もすべて出るはずであるということであります。地上の人たちは、なかなか信じぬかもしれない。クリスチャンがキリストの霊言をなかなか信じないがごとく、ある団体の人たちは、その団体の教祖が、地上に霊言を送るということを信じないかもしれない。
しかしながら、神の本質というものを考えてみたならば、神は一体どうされるであろうかということを考えられたらいい。神が、単に沈黙をしているだけだろうか。神は、そういう単なる沈黙を守ってはいない。神は、常に、何らかの形で人びとを導かんとしている。そうであるならば、この導きの手もまた、多いなる愛ではないかどうか、ということを一度、踏み止まって考えてみる必要があるのではないだろうか。
私は今、霊天上界にあって、この地上浄化と、大いなる救済ということに関する、最高責任をもつ者であります。どうか、人びとに、このことをわかっていただきたいのです。自分たちのプライドであるとか、自分たちのエゴであるとか、自分たちの利益であるとか、そうしたつまらないものにとらわれることなく、大いなる神の救済ということを信じていただきたいのです。この混沌の時代に、イエスが黙っているわけがないということを知っていただきたいのです。
私は、愛として復活したのです。これは、私の愛の復活なのです。私は、生命として、言葉として、大いなる響きとして、さらにもう一度、復活せんとしているのです。肉体としてではない。弱々しい人間としてではない、大いなる生命(いのち)として、汲めども汲めども尽きぬ愛の泉として、言葉として、今、復活せんとしているのです。
どうか人びとよ、再度再度、あなた方に通告しておく。我の復活するとき、それは、大いなる救世運動の起きるときである。このときに、汝らは思い過(あやま)つことなかれ。この大いなる運動のときに、誤解をし、勘違いをしてはならない。他宗を排撃したり、他の人を謗(そし)ったりすることのみに、汲々(きゅうきゅう)としてはならない。この大いなる愛の息吹(いぶき)に接したならば、あなた方も目覚めなさい。
そして、すべての者を我がもとに連れて来なさい、私の子羊を私のもとに連れて来なさい。羊飼いは今、還って来ているのです。さ迷える子羊たちよ、私のもとに還って来なさい。私はあなた方を褒(ほ)めてあげよう。私はあなた方をかわいがってあげよう。私はあなた方の疲れを癒(いや)してあげよう。私はあなた方を心から愛してあげよう、許してあげよう。包んであげよう。
だから、羊飼いのもとに、還って来なさい、日は、間もなく暮れんとしています。日が暮れたならば、羊飼いの声と、ラッパの声、鈴の音を聞いて、集まって来なさい、私のもとへ。私の羊は、私のところへ還って来るでしょう。今という時代を創るために、数多くの私の子羊たちが、地上に降りているのです。
子羊たちよ、私の声を聞いたならば、ただ、一筋に集まって来なさい。私を求めて来なさい。あなた方が求めれば、求めるほど、私はより多くを与えることができるのです。なぜなら、私は、あなた方に愛を与えるために生きているからです。
乳飲(ちの)み子が、母親に乳を求めるように、私に愛を求めなさい。私に生命を求めなさい。私にすべてを求めなさい。他人に求めるのではなく、私に求めなさい。懐かしい私の声を聞き、私の姿を知り、私の声に従って、どうかついて来なさい。私は、あなた方を山の頂きまで、連れていくつもりです。どうか、我があとに従い来たりなさい。
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2011-01-25T11:35:25+09:00
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天之御中主之命の霊訓
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/24.html
**目次
・[[霊示1>天之御中主之命の霊訓#1]]
・[[霊示2>天之御中主之命の霊訓#2]]
・[[霊示3>天之御中主之命の霊訓#3]]
・[[霊示4>天之御中主之命の霊訓#4]]
・[[霊示5>天之御中主之命の霊訓#5]]
・[[霊示6>天之御中主之命の霊訓#6]]
・[[霊示7>天之御中主之命の霊訓#7]]
・[[霊示8>天之御中主之命の霊訓#8]]
・[[霊示9>天之御中主之命の霊訓#9]]
・[[霊示10>天之御中主之命の霊訓#10]]
・[[霊示11>天之御中主之命の霊訓#11]]
・[[抄録>天之御中主之命の霊訓#12]]
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&aname(1){}
**霊示1
自分が偉大な使命を持った神の子であるという自覚、そういう強い自信を持って生きて生きなさい。自分一人であると思うな。自分一人で息をしているものであると思うな。自分一人で道を歩いているのだと思うな。いま神の子が道を歩いているのだと思え!いま神の子が息をしているのだと思え!いま神の子が食事をしているのだと思え!
われ一人孤独な人間が道を歩いていると思うからこそ転んで怪我もする。食物を食べても胃を悪くする。これは神の子たる自分の実相に参入していないからである。自分自身が神の子であるという、その完全円満なる神の子であるという自覚を強く持ちなさい。そのような単なる怪我、胃病というような、身体的な不自由というようなものは、あなたの自信の無さに基因しているのだ。
神の子が怪我をするか!神の子が病になるか!神の子が消化不良を起こすか!よく自分自身の心に問い直してみなさい。もっと自信を持って胸を張って道を歩きなさい、怪我などするものではないのだ。
肉体に霊が宿っているのではないのだ!ただ、霊のみが実在であり、肉体は霊の影──。あなたの肉体に故障が起こるのは、あなたの霊、あなたの心、あなたの神の子としての自分自身のどこかに歪(ひずみ)が起きているということである。肉体を借りて動いているのではないのである。肉体は繭にして霊は蚕である。繭は蚕とは別のようなものにみえても、繭を作る糸は蚕の口より出でたるものである。そうであるならば、繭と蚕は別のものではなく、蚕から出たものが繭である。あなたの肉体は繭である。しかして繭は蚕の口から吐き出されたる糸によってできたものであり、あなたの肉体はひとり肉体としてあるものに非ず、あなたの心、あなたの魂が作り出した肉体である。──そう思いなさい。
肉体を借りたもの、借りているものと思うから、毀(こわ)れたり故障したりするのだ。人の物を借りていると思うから毀れたり故障したり、困ったなと思うのである。
あなたもまだ神の子たる自分自身の実相に気付いていない。神の子としてもっと自信を持って生きていきなさい。毎日毎日、われは神の子なりという自覚を持って生きなさい。不幸と思ってはいけない。不幸を思う心は不幸を招(よ)び寄せる。神の子に悲運は来ない。神の子に悲しい出来事は起こらない。自分の不幸をかこつ心は捨てなさい。あなたは神の子である。どのようなことが起ころうとも、それは神の子たるあなた自身を輝かせる試練として、輝けるための磨きをかけるための砥石として当たるのだという自覚を持ちなさい。神の子としての自覚を強く持つということが一番大切なことである。
己れの弱さを反省せよ!己れの弱さを自覚し、これを乗り越えて行け!己れ自身、己れ一人のことに悩むような人間であるなら、人類の悩みを解決していく人間として生きていけるか!もっと反省せよ!あなたの悩んでいるようなことは、あなたが本来悩むようなことではないのだ!市井の小人たる一人間が悩むようなことを拡大鏡を見つめて悩んでいるようなあなたの現在の姿、われわれから見たならば非常に頼りないものである。非常に情けないものである。
そのようなことでは、あなたは、あなたの使命を完うするようなことはできない。もっと確乎(しっかり)と立て!しかして自己の使命に醒め、神のみ旨に応えるべく努力していきなさい。
&aname(2){}
**霊示2
今のあなた方は、市井の人として良い人だと思われたいという意識が強くて、そのことに縛られているけれども、本来の正法伝道という立場から言うならば、そんな甘いものではないだろう。もっともっと、火の玉のような熱意ある魂となって生きていかねば。そんなことでどうして世の中が立て直せるか。どうして世の中の人々が救えるか。この六十億の地球の人類を、どうやって導くことができるか。己れ一人の栄華のために、己れ一人のささやかな幸福など考えているようでは、どうして世の中を立て直すことができようか。
人間一人の力は限られたものである。人間一人の一生は短いものである。その短い限られた能力の中における時間で、余計なことに神経を使っているような暇などないのだ。あなた方の人生は、一瞬の間に終わってしまうのだ。あっという間に終わってしまうのだ。この短い時間の中に完全燃焼しないで、一体いつ完全燃焼する時機があるのだ。脇道に外れるひまなどないのだ。全力をあげて、全力で体当たりして行きなさい。
悪霊の邪魔もあるであろう。人々の中傷もあるであろう。いろんなことの悪口も言われるでありましょう。彼らの気に入るようなことをして遊べば愉しいでしょう。人に誉められたら嬉しいでしょう――。しかし、そんなことではないのだ。神が最後には見て下さっているのです。神の眼のみを信じ、神の評価のみを考え、あなた方は地上的な評価は一切合財忘れてしまって結構なのです。たとえどのように見えても、思われても結構なのです。
あのキリストの烈しさを見なさい。彼は、その時代の者から見れば、異端の悪魔のようなものであったでありましょう。かのキリスト教でいうならば、ルターといわれる人の烈しさをみなさい。あれも異端の悪魔に見えずして何に見えるでしょうか。各時代、各時代においてそれだけ激しい情熱を燃やしている。釈迦といわれた人でも、あの情熱は、あれだけの熱意がなければ、あれだけの大きな教えが残るでしょうか。単に頭が良かっただけではないのです。お釈迦様という方は、頭が良かったというでけではなくて、物凄い熱意の持ち主だったということです。あの熱意こそが、何千人もの弟子を動かし、仏典を結集し、後の世に残していこうという力となったのです。熱意であります。問題は熱意であります。
熱意が欠如しているのみです。同じことでありますが、依存心が強過ぎる。他に頼ろうとする心が強過ぎる。自ら切り開いていくという力強さがない。ここです。あなたたちには・・・・・。
生長の家にしても、あの燃えるような信念、あの確信、勇気と自信、あれがなかったならば、なんで同じ教えを五十年も六十年も説き続けられますか。一人の人間が真理だと信じているからです。自分の使命だと確信しているからこそできるのです。
&aname(3){}
**霊示3
本来神からわれわれが分かれて来たものであるなれば、われわれが還るところは神のところしかないのである。神が”光”なればわれらも”光”の子、光の子が光の世界に還るのになぜ闇を配慮する必要があろうか。闇というものがあったとしても囚われることなかれ。
本来光、神は光である。もし神が、光と闇の両方をもつものであるならば、この闇は消すことはできない。現象界、三次元というところに眼を置いたならば、光も闇もあるように思うのだけれども、本来相、本源には闇はないということである。
そして私達が目指すところは、この三次元世界なのか、それとも本源なる神の源なのか、ということなのである。みな神の源へ還っていかなければいけないということである。そうであるならば、「光一元」以外に何があり得ようか。
三次元の説明としては、光あり闇あり、なのである。しかし、われらが目指すものは、光、一元である。これは説明の仕方によるかも知れない。世界観の説明として、光一元というのは論理に飛躍はあるかも知れない。しかしながら、われらの目指すところの世界として、光一元であるということは明らかである。
&aname(4){}
**霊示4
光あり、闇あり、と思っているうちは永遠に人間の救いはないのだ。光しかないのだと思った時に、人間ははじめて救われる契機が与えられるのだ。
では、あなた方は一生のうちに病気をすることがあるであろう。この病気も神から出たものだと思うならば、あなたの病気は癒えるであろうか。非常に難しいであろう。この病気は神から出たものではない。神は病気をつくらない。そう思うことによってあなたは病気から立ち上がる気力なり、勇気なり、自信なりが沸いてくるのではないのか。
宗教というものは、客観的に事実を説明するものではないはずである。宗教というものは、人間を救い、人間を起き上がらせるものではないのか。人間に生きる指針を与えるものではないのか。宗教はただ蟻を観察しているように、人間の生態を報告することが真理ではないのだ。宗教的真理とは、そうではなくて、人間の本来のあり方、生き方、立ち上がり方を教えるのが宗教的真理ではないのか。
そうであるならば、宗教的真理というものは、あなた方が眼鏡で見て、虫眼鏡で見て観察しているような真理とは違うのだ、ということを自覚しなさい。かくあるということではなくて、かくあるべしということが宗教的真理だということなのである。
かくあり、というものばかりをみているから、善あり、悪あり、光あり、闇ありなのである。かくあるべし、を真理と見たならば、闇はあるわけはないのである。病気があるわけはないのである。あるべしの中には無いのである。
この真理をなんとみるかという立場の相違である。宗教的真理という点に立てば、善一元、光一元、これ以外にあり得ないということである。あなた方が、現象を説明したいだけであるならば、どういう論理を組み立てようと、自由である。しかしながら宗教的真理は一元――。
&aname(5){}
**霊示5
もはや日本神道だからどうだということはない。あなた方の世界においても日本は、いま世界の中心となり、貿易を興し、或いはアメリカ、或いはヨーロッパに、或いはアフリカに対して輸出を行い、輸入を行い、国が発展してきているはずである。しかし二百年前、三百年前であるならば、日本の国は、他国とはそれ程つきあいは出来なかったなずである。われらが世界もまた同じ、人々の意識がそれぞれの国にとらわれていた時に、やはりそれぞれの国の宗教があり、神があったのであるけれども、このように三次元でさえも、一つになろうとしている時代において、日本神道であるからこういう教えがあって、他の教えと違うものであるというものではない。
われらの教えも今大きな神の教えに融合され、仏教も、キリスト教も、はたまた儒教も、ギリシャ哲学もすべてがいま一つになろうとしている時機なのである。われらは決して古事記や日本書紀に出てくるような神々のままで止まっているものではない。
人の意識レベルの低いときにおいては、私、天之御中主が天地創造の神のように言われたこともあろう。イエスが言われた天なる父が創造の神と思われたこともあるであろう。しかしそれぞれがまだ発展途上の宗教における神の概念であったのである。
われら、このような形で人間の肉体を介して語ることができる神は、決して造物主でも、創造主でもないことはあなた方のご存知のとおりである。われらは、もちろん神霊世界においては、上級、最上級の指導霊であるけれども、やはり人間として生命を経ている霊であるということにおいては限界はあるのである。かつて神は一つか、神が幾つもあるのかというような争いはあったであろうけれども、そのようなものでないということを、いまあなた方は事実としてうけとめねばならないということである。そうして神が一つか、多数かということが問題でないということと同時に、先程申したように、仏教だから、キリスト教だから、神道だからといって何が違うということではないのである。
私は過日、あなた方に語ったことがある。この天上界を六角の面、水晶のようなものであって、水晶の面にさまざまな面があるように、神の法もさまざまな面がこの地上に出てくる、ということを申したことがあると記憶する。天照大神が申したように、私たちの「光」は、たとえて言うならば、”紫”色の光だと申された筈である。「礼節」「秩序」を司る”光”であると申された筈である。ただそれは、そういったことのみしか説かないということではない。そういった面が強調されてはいるものの、神の教え、神の生命としては、すべて一つである。私の教えと、イエス・キリストや、モーゼの教え、或いは釈迦の教えが、そんな変わったものである筈はない。
&aname(6){}
**霊示6
私の根本思想は「発展」である。すべてのものは、発展しなければいけない、というのが私の根本思想である。
”発展”は何処に対して発展して行くのであるか。神に対してである。すべての霊は神のみ許に、み胸に還って行かねばならない。九次元もまた神の世界に近づかねばならぬ。八次元は九次元に近づかねばならぬ。四次元は五次元に、五次元は六次元に、六次元は七次元に、そして現象世界もまた神の世界に近づいて行かねばならない。神の国はこの現象界三次元だけに打ち立てられるべきではない。神の国は四次元にも、五次元にも、六次元にも、しかして、七次元にも、八次元にも打ち立てられねばならない。
こうして、あらゆる次元において、神の世界を打ち立てねばならぬのがわれらの使命であるなら、その教えの根本にあるものは、一体何であろうか。それは、”発展”である。如何にして発展させるのかということである。如何にして現状以上の素晴らしいものを創り出していくかということである。そうであるならば、発展こそがわれらの行動原理であるならば、発展するには目標がなければならない。目指すものがなければならない。どこへ向かい、何処へ発展していくのか、それが明らかでなければならぬ。それをあるときには光一元、善一元と申しているのである。
言葉を換えれば、光に向かえ、善に向かえ、と言っているのである。それを、光のみしかない、善のみしかないと、すぐあなた方の幼い頭はそう考えてしまうのだ。
&aname(7){}
**霊示7
私は先程、わたし達の教えは「発展」であると言った。これは言葉を換えれば、宗教もまた芸術でなければならないということである。人の悪を責め、それを切りとり、罪の子を指摘し、罪の子でなくすという作業は、喩えていうなれば、これは技術師、或は工人と申すか、工作人の仕事である。ところがわれらは人生の芸術家なのです。凹凸を切りとって規格品を作る、何処ででも誉められるようなものを作ることだけが真の”正法”ではないと信じているのである。
宗教は、最高の段階において芸術とならねばならぬのです。それ自体が一編の叙事詩であり、一幅の絵とならねばならぬのです。一幅の絵であるためには、美しさがなければなりません。尻を叩いて人を矯(た)め、人を直すようなものであっては芸術ではないのです。どのような環境においても、どのような泥まみれの悪の中においても、射し込む神の光のような一条の善、一条の美があったなら、それはそれで素晴らしいダイヤモンドであると見るのがわれらの教えであります。
ですから決して、われらが最高の素晴らしいものと見ているものは、世にいわれる道徳家や、宗教家や、先生方の中にあるのではなく、死刑囚として獄に繋がれている人の心の中にも射し込んだ一条の神の光の煌きが顕われたならば、それは素晴らしいものなのです。
例えばあなた方は、こういう光景を見たことがないでしょうか。人からいつも施ばかりを受けている浮浪者のような人、人から物ばかり貰っているような人、こういった人が居ります。あるいは強盗が居ります。ある家に押し入りました。そして家の人を縛りあげ無理矢理に金を強奪しました。その時金を渡しながら家人がこう言ったとしましょう。「この金はあなたの更生のためにあげるのであって、私はあなたに奪われるのではない。あなたはこれで立ち直りなさい。そしてこの金を私たちに返さなくてもよろしい。返さなくてもよろしいから、何時かあながた更生して立派になった時に、世の中の一条の光となりなさい。」たとえば、強盗にそう言ったとしましょう。強盗はその金を持って逃げ、自分の自我我欲のために使ったでありましょう。ところが、二十年、三十年経ったとしましょう。彼はある時、その人の言葉を胸に想い浮かべます。そしてこのヤクザな自分に自問自答して、一体世の中のために何ができるだろうか、何もできはしない。そして彼がたえばですよ、よし、この私には何もすることはない。その日が冬の雪の日であったとしましょうか、せめて自分にできることは、この雪を掻くことかも知れない。そうしてかつて強盗に入った人の家の前で、人知れず、明け方にですよ、シャベルを持って雪掻きをしたとしましょうか。家の人が起きてきたときにはもはや彼の姿はありません。しかし眼の前には雪が掻かれて美しい道路が出てきています。はて、これは誰が一体したのであろうか、家人たちは分りません。彼は自らのやったことに対して誰にも語ろうとしません。それは彼の心の中だけの宝物であります。
たとえ、極悪非道に強盗として生きてきた人であっても、その人生のほんの一瞬であって、世の中にどれ程の価値のあることでなくても、神の子としての一条の煌きが出た時に、私たちは、彼がその雪を掻いている姿を見た時に、最高の宗教の芸術を観るのです。彼の全人生が、善人としての人生であったなら、牧師のような人生であったなら申し分はないでしょう。けれどもそのような悪人であったからこそ、彼がこの心に横切ったひとときの懐(おも)いが、彼を射した神の一条の光が、どれだけに輝いて見えることでありましょうか。
&aname(8){}
**霊示8
芸術として、宗教もまた芸術として観た場合に、その善なり、或はその美なり、或はその光というものは、決して量ではないのです。大部分の時間がそうであったとか、或はその人の行ないのうちの大部分が善であったとか、そういったことではないのです。花を見てみなさい。花は一年中咲いている花だってないとはいえないかも知れません。しかし、たいていの花は、まず球根として、或は種として植えられ、地中で一年、あるいは数年も我慢して、やがて芽生えてきます。葉になります。茎が伸びます。そうしてようやく四月のある時に、五月のある時に、或は秋のある時に、ほんの一週間、花を咲かせるだけではないでしょうか。芸術とはそいういうものです。七年間地中に潜っていて七日だけ花を咲かせるというものでもいいのです。一瞬なりともいいのです。
蝉という生物は、地中に何年も潜っているときいております。そして地上に這い上がって蝉として啼き、空を飛ぶ時には僅か一週間、十日の生命ともきいております。これもまた芸術であります。本来であるならば、地中において醜い動物として地の底に潜っていることがよいことではないのです。彼らは一日も早く羽化登仙して、美しい羽根でもって大空を翔び、美しい啼き声を聞かすのが本来の彼らの姿なのですが、たとえ土の中に潜っている時期が永かろうとも、一瞬、彼らが天を翔けるその瞬間が素晴らしいものであるならば、質はある時に量に変わるのです。質が量に換わるということがあるということなのです。
規格品というものは――善人の規格品というものは、量を求めているのです。大量のものを求めているのです。大人数を求めており、大勢の人が多くの善をなすことを求めているのです。しかしながら悪人でもよいではないですか。その中に素晴らしい人生が、ある一点、ある一点において、すさまじい神の光がほとばしったならば、それはまたいいではないですか。その素晴らしさがあるならば、その素晴らしさを見ようではありませんか。彼の暗黒の人生、真黒の人生を見るよりは、その素晴らしい一瞬を見ようではありませんか。その一瞬が素晴らしいものであるならば、その質がある時、量に変わるのです。彼の六十年、七十年の人生が暗黒であってもある一点に点した光が素晴らしいものであるならば、その一点の、ただ一点の質が、量に換わるのです。他のすべての暗黒をも消してしまうのです。そういったことがあるのです、よろしいですか――。
人生は、オートメーションの大量生産の善人製造機械によって造られていくのではないのです。芸術という見方も忘れないでほしい。最高の宗教は、芸術なのです。
イエス・キリストも、ある点においてそのことに気がついておられた。彼は、娼婦といわれた当時肉体を売って商売をしていた女性を愛したことがあるはずです。簡単に、単純に宗教的にみたならば、自らの身体を売って生きているような人間は、決して善人ではありません。神の心に適ってはおりません。その商売女の中に、その娼婦の中に、イエスは一条の神の光を見出したはずです。彼女は自らの頭髪でその足を拭おうとした時、彼は感激し、彼は弟子達を退けたはずです。この女のすることは、私のためにやってくれているのだ、とそういうことを彼は言ったはずである。それは、イエスが、人生を、或は宗教をある面において芸術として見る眼があったということなのです。ところが、大概の凡百の宗教家達は、規格品なのです。娼婦はもう悪人と決めつけたら、もう悪人がすることはみんな悪だとみてしまうのです。善人がすることは、みんな善だと見てしまうのです。そんな善とか悪とかいう二元ではないのです。時間の長さも、行為の多さも必要ではないのです。人生のあらゆる局面において、美を見るということ、芸術を観るということが、大切だということなのです――。
ですから、戒めも必要なときもあります。余り不良品ばかり多くては物は売れません。そういうことにおいては、優れた製品を作っていくということも大事です。しかしながら、大量生産の製品は決して芸術品とはならないということです。どのような不良品として、或は塵芥(ごみ)箱に間違って捨てられそうなものであっても、その中に素晴らしい輝きがあるならば形の悪さも何もかも、すべてを乗り越えていくものがあるのです。
&aname(9){}
**霊示9
私は、いまあなた方に言いたいのです。あなた方は、仕事の大部分は、悪より善を選びなさいと。”日蓮”もそう語ったはずです。善と悪とはこの世の中には現にあります、と。そして善悪のその中の善を、悪よりは善を選びなさいということを、彼は言いました。それは正しいことです。間違っておりません。しかしながら、悪と思われるものの中にも、一点の神の光を見出すという努力も大切だということです。99%が悪であり、善が1%しかないと思って、ではトータルでみたらそれは悪だと判断を下せるかも知れない。けれどもその残りの1%の中には、どのような偉大な生命の輝きがあるかも知れないのです。それを観なさい。あなた方は芸術家でありなさい。万象万物の中に、素晴らしい神の煌きが隠されているのです。それを見出しなさい。道端に在る石を、ただの石ころにしか見ない人にとっては、それは何の役にもたたない石ころなのです。けれども、レオナルド・ダ・ビンチという人が石ころを見たならば、その石はただの石ではなくて神の生命を体顕している石なのです。”芸術”に彼の目には見えるのです。そのようなものでありなさい。
どのような醜悪な人生を送る人であり、たとえば、宗教の世界において、どのようにあなた方に悪口雑言を言う人であっても、その中において神の光の煌きを見出すような、芸術家のような眼をもったあなた方でありなさい。単に誰もが分るような形で、善悪の基準を提示することだけで、用が済んでいるわけではないのです。あなた方は芸術家の眼で観て、価値なしとされているものの中にどれだけ素晴らしいものがあるかということを発見していきなさい。芸術家の眼でみたならば、この世の中にくだらないものなど何もないのです。
石ころも、草も、木切れも、そして川の水も、川の中に泳いでいる魚も、はなまた川の水底の砂の中に棲んでいる生物でさえも、生きとし生けるものすべてが、神の生命の躍動であり、素晴らしいものなのです。
害鳥とか、益鳥とかいう言葉があります。害を及ぼす鳥は悪い、だから捕らえて殺さねばならぬ。世間の為に役に立つか立たないかという基準からみれば、そのとおりであります。
稲をつつく鳥は害鳥でありましょう。大事な果物を喰べてしまう虫は害虫でありましょう。それは善悪の基準、有用性という意味において役に立つか、害になるかという意味においてみたならば、害虫は害虫であり、害鳥は害鳥であります。しかしながら、芸術家の眼でみたなら、気に這っている毛虫一匹たりとも、神の相でないことはないのです。神の姿そのものなのです。
一匹のみみいずも、一匹の毛虫も、一匹の羽蟻もすべて神の生命の顕れなのです。ここまで観ることができた人にとっては、善しかないのです。光しかないのです。生命しかないのです。毛虫を毛虫としかみえない人にとっては、それは悪なのです。しかし毛虫の中にも神の姿を観ることができる人もいるのです。神がなぜ毛虫を作ったのでしょうか。朴念仁(ぼくねんじん)にとっては、このようないやらしいもの、見て穢らわしい何の役にも立たない毛虫、こんなものをなぜ神が作ったのか、そう思うでしょう。毛虫など役に立っていません。実際、けれども、神は偉大な芸術家なのです。芸術家でなければ、更に最高の芸術の作品は分らないのです。
&aname(10){}
**霊示10
絵の中でもピカソの絵だとか、マチスの絵だとか、こんなものは普通の人がみてわからないはずです。何の役にも立ちません。美しくもないのです。形もさまざまです。でたらめな形を描いているのです。だから普通の善悪、いわば宗教家の言うような善悪であるならば、その眼でみたらならば、彼の品物は悪なのです。粗悪品なのです。役に立たないのです。けれども、偉大なる芸術家の眼からみたならば、その中に真理の光が煌いているのです。みえるか、観えないかということなのです。こういうことなのです。ですからあなた方は神の言葉を、神の声を、神の気持ちを、この世の中に伝えていく仕事をなさっているのですが、神が偉大な芸術家だということをどうか忘れないで頂きたいのです。
シェークスピアという人は幾つもの物語を書かれました。彼の物語の中で有名なものは悲劇です。シェークスピアもまた光の指導霊です。光の天使として彼は生まれました。これは、彼の使命は私達のように”法”を説くというものではありませんけれども、彼は、芸術というものをこの地上にもたらすために生まれた霊であります。光であります。彼は悲劇を書きました。非常に悲しいもの、苦しいものを書きました。なぜそんなものを書いたのでしょうか。明るいもの、私が説いているようにですよ、善一元、光一元、を説いてもよいはずです。けれども彼は、ハッピーエンド物ではなくて、悲劇ものを沢山書きました。悲劇の中にも神の栄光が表れているというのが、彼の芸術概念なのです。芸術観なのです。哀しみの底をぶち割ったときに「仏」の光が溢れてくるのです。悲しみの底を打ち抜いたときに、はじめて「仏の慈悲」というものが光ってくるのです。
いいですか――。底は真っ暗じゃないんです。真っ暗な底を打ち抜いた時に、つき破ったときに、光が溢れてくるのです。人生の真実が現れてくるのです。ですから、善悪、光闇は、二元的に対立するものではないのです。闇の底を打ち抜いた時にまた真実の光が溢れてくるのです。
&aname(11){}
**霊示11
悲しみの底に神の英智が光っているのです。これを見出すことができる人が芸術家なのです。芸術家の眼です。毛虫に神の創造が見出せるかどうかを自問しなさい。それを単にいやらしいもの、役に立たないと思うならば、あなたにとって善悪の二元は真理です。あなたは善と悪とを説いて善を採りなさいといいなさい。害鳥と益鳥なら、益鳥を育てなさいと言いなさい。害虫と益虫なら益虫だけを育てて、害虫は殺していきなさいと言いなさい。消毒をして殺しなさいと言いなさい。しかし毛虫の中にも神の生命を見ることができるならば、あなたは善一元、光一元を説きなさい。
あなたは偉大な芸術家だからです。ですから私は長々と説いていますけれども、一つ、単なる道徳家の眼だけではなくて、単なる技術者や、工作人だけの眼からだけではなくて、偉大なる芸術家の眼をもって人びとの人生を、また神の「神理」というものを、もう一度見渡して頂きたいということです。
&aname(12){}
**抄録
~愛~
神の愛は、甘やかす愛ではなくて、時には峻厳な愛となるのだ。甘やかすことのみが愛ではない。峻厳さもまた愛、愛は厳しいものである。逞(たくま)しく生きていくことを教えることも愛である。愛深き冷淡、ということを知れ。ただ何でもかんでも面倒を見ていくことが愛ではないのだということである。
その人にとって、今何が一番大切なことであるかということを見窮(きわ)めなければ盲愛となっていくということを忘れてはならない。
峻厳さのない愛は、結局人を生かすことにはならないのである。
~自力~
人間は現在において自力で生きていく道というものを考えねばならぬ。それでなくてなんの修行でありましょうか。棺桶の蓋を閉じるときにおいては、人間の人生はもう既に決まったものであります。
~自由~
余りにも運命論にとらわれ、人生の計画とか、予定とかいうものにとらわれたならば、人間は木偶(でく)の坊であり機械であります。人間自身の自由の選択というものはなくなってしまいます。結果的に運命もあるかも知れません。人生の道筋もあるかも知れません。しかしながら、そういったものがあったとしても、それが人間に知らされていないということは、人間は、そういうことはないものとして、自ら主体的に努力して行けということであります。
~宝物~
残された時間は、ダイヤモンドのような、宝石のような貴重な時間です。二度と帰って来ない時間です。また生れ代わって来るということがあるとしても、この二十一世紀前半、この時期に生きるということはもうない。
この貴重な時間、宝物のような時間です。これをどう使うか。野球でいうなれば九回までしかないのです。今あなたは野球でいうならば、六回裏の攻撃とでもいいますか、その程度のところまで来ているのです。後もう三回しかないのです。さあ、この三回をどう攻めるか、どう守るか、終盤戦を迎えております。後三回の攻めと守り、これをじっくりと考えていきなさい。
~真実~
あなたは精一杯生きていきなさい。親鸞という人もやはり煩悩の中に生きて苦悩のうちに死んでいった人であります。日蓮もまた試行錯誤の一生でありました。しかし、彼らが残ったのは、彼らの生き方というものが真実そのものであったからです。彼らの生涯には真理が光っております。あなたの生涯にもまた真実が光る生涯であってほしいと思います。
~戦士~
こういう言葉があるはずです。身命を惜しまず、という言葉、身も命も投げ出すという言葉があるはずです。あなた方は正しくそれでなければならないはずです。なぜなら、あなた方は神の戦士、神の兵士だからであります。あなた方は神の戦士を演じているのです。あなた方の敵はなかなか手強く、強大であります。命も身も投げ出す気でなければ、神の戦士として戦えません。自分が可愛いうちはまだ戦いはできません。
~情熱~
キリスト教系でいうならば、パウロという人の生き方が参考となりましょう。彼の熱意、あの情熱を支えたものは一体何であろう。それを考えられるといいと思います。
あの熱意情熱というものは与えられたものではないのです。湧き起こったものであります。彼はイエスの真理の言葉にふれたのです。あなたも私の言葉を聴いているはずです。それはあなたの使命感の強さ、弱さに関わるものです。あなたが如何に霊的に目覚めているかどうかということです。あなたの使命感に火が点かないということは、あなたの人生観はまだ三次元的だということなのです。あなたの人生が三次元にない、ということを悟ったならば、火が点かざるを得ないのであります。
~信~
眼に見えぬ神を信ずることこそが重要なのであって、眼に見える神を信ずる、信用するということはたやすいことなのだ。そのような現象によって信仰が強められるようなものではないのだということが分からないのか。それは無神論者の言うこと、唯物論者の言うこと、神を信仰してやるからその証拠を見せてみよと言うのと同じではないか。
パウロがイエスの霊言を聴いて翻然(ほんぜん)と悟ったということも、それがパウロであったからこそそうであって、それが並みの凡人であったならば、同じ体験を通したところで、三日も経てば、あれは幻覚で単なる錯覚であったと、自己を言いくるめて、それでおわってしまうのだ。
そうであろう。通常の人間であるならば、同じような経験をしたところで、人に話して、それは君、心の迷いだ、眼の錯覚だよと言われたら、二~三日も経てば、そうかなと、平常生活に戻ってしまうのが通常の人間なのである。同じきっかけが与えられても、反応は人によって違うということだ。
~質~
ただ、私はあなたに一つ言っておく。大規模なことを興せばいいということではないということだ。問題は規模ではないということだ。問題は質であり、光だということなのだ。これを忘れるな。
あなたは何か大規模な、大事業を起こさんとするような心があるからむずかしくみえるのであって、そうではないはずだ。イエスにしても、ごく少数のとり巻きたちに真実の姿を見せたのであり、親鸞にしても然り、日蓮にしても然り、そうではないか。大事業をやろうとするからこそ困難に見えるのであって、少数の人に理解されてもそれでよいのだ。
少数の間に理解されても、その中に光るものが、その真実が、普通のものであり、永遠のものであり、二千年、三千年を突き抜けていくような神理の光であるならば、それはそれとして必ず残るものなのである。
大規模な事業を残さんというようなことは、それ自体一つの三次元的な試みであるということを忘れてはいけない。
~灯台~
気にしなくてよろしい。彼は彼、われはわれ、親鸞にしてもそうである。彼の言行録を一人の弟子が書き留めた。それを何百年も後の人達が読んで心の糧にしているのである。一人の弟子が親鸞という人の言行録を書き留めなければ、彼の真実の姿は伝わらなかったに違いない。要は質であり、要は光の強さである。
法然という人にしても、そうである。彼が書いたものは僅か一枚、『一枚起請文』といわれている文書一枚にしか過ぎない。彼が彼として彼の名が残ったのは、結局親鸞という人があれ程までに彼を信頼し、彼を信仰したということ、その一念を他の人が信ずるからではないのか。であるからは、今あなたが真理に接しているとするならば、それを真理であると、真実心の奥底からうことができるかどうかということが、その感動の深さが、後の世の人びとをして揺り動かすものになるのではないのか。
あなたが今あなたの前に現象として起きていることを、それ程たいしたことでないと思うならば、それを見、それを聴く人もまた、それほど大したことでないと思うであろう。
光は高く上がれば何処からでも見えるのである。一戸々々の家に光を点そうとするから大変な大事業となるのである。岩壁の灯台に光を点したならばすべての船が見上げられる。それを間違えてはならない。よろしいか。
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2011-01-25T09:54:26+09:00
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第4章 荘子の霊訓 Part1
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/219.html
**目次
1.[[転生輪廻の軌跡>第4章 荘子の霊訓 Part1#1]]
2.[[人生は歩くのが目的でない、一休みし空を眺めよ>第4章 荘子の霊訓 Part1#2]]
3.[[幸福は目標だけにあるのではない、悩みの中にこそ本当の幸せの花が咲く>第4章 荘子の霊訓 Part1#3]]
4.[[悩みを抱きしめよ、悪魔は変じて女神となって輝こう>第4章 荘子の霊訓 Part1#4]]
5.[[深い悩みは幸せの証拠>第4章 荘子の霊訓 Part1#5]]
6.[[霊障に悩む人、悪霊を溶解(とか)す術(すべ)>第4章 荘子の霊訓 Part1#6]]
7.[[運命から逃げるのではなく、運命を抱きしめること>第4章 荘子の霊訓 Part1#7]]
8.[[釈迦の中道の悟りは歩みを止めた時の悟り>第4章 荘子の霊訓 Part1#8]]
9.[[あなただけの人生を愛しなさい>第4章 荘子の霊訓 Part1#9]]
10.[[発展の中での静止観、その論理が命題>第4章 荘子の霊訓 Part2#10]]
11.[[理想郷(ユートピア)は現在ただ今の各人の心の中に築け>第4章 荘子の霊訓 Part2#11]]
12.[[原始時代に心の王国が築けなかった者は文明社会においても理想郷(ユートピア)は創れない>第4章 荘子の霊訓 Part2#12]]
13.[[弁証法的発展とは新陳代謝、衣更えです>第4章 荘子の霊訓 Part2#13]]
14.[[唯物論は三次元世界の外科手術に使われた>第4章 荘子の霊訓 Part2#14]]
15.[[自由主義、共産主義に代る「合」の霊知主義の到来>第4章 荘子の霊訓 Part2#15]]
16.[[今、最終の「救世法」を説く時>第4章 荘子の霊訓 Part2#16]]
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(一九八六年二月九日の霊示)
&aname(1){}
**1.転生輪廻の軌跡
―― 荘子の招雲を行う ――
&bold(){荘子} ――テイハオウ、ティヤンホウ・アーオイチイ、テンポー・ジーイー、ウウリンテイ、………以下中国語が長々と続く。
&bold(){――} 荘子先生ですか
&bold(){荘子} ツウヤン。
&bold(){――} まことに恐れ入りますが、私は現在のところ中国語を解しませんのですが、
&bold(){荘子} テイヤンポ・パァツウテイ………
&bold(){(訳)} あなたも中国に生まれたはずですから、私の中国語は本当は判るはずですが――。
&bold(){――} 残念ながら再誕して新たな肉体舟を持つと過去の記憶は一切忘却してしまって今では何んとも解し兼ねることに相成っているのですが。
&bold(){荘子} ―― 中国語 ――、
&bold(){(訳)} あなたは肉体持って数十年生きられて私のこと、忘れられているので大変残念に思います。あなたと私は、大変親しい仲であったし、過去何回か生まれて来た中において、共に協力し合ったこともあるのです。そういう密接な関係なのですが、まあ固苦しく思わなくて結構です。あなたが中国に生まれた時は、孔子様のお弟子様の一人、ま、有力なお弟子様の一人の゛子路(しろ)゛といわれたそういった方です。あなたの魂は今から二千四百年近く前、孔子の弟子の子路として生まれ、その後イスラエルでイエスの弟子、マルコとして生まれ、その後また、インドに生まれ、善無畏三蔵(ぜんむいさんぞう)として中国に密教を伝え、その後また、日本の鎌倉時代に日蓮の弟子、日朗として生まれて仏法を広めて、そして今また、あなたは善川三朗として生まれておられる。こういうふうな魂の遍歴を通っておられます。そういう意味においてあなたは、儒教も学んで居られるし、キリストの教えも、仏教も学んでおられるし、……、
&bold(){――} そこでお伺いしたいのですが、これからまああなたのご思想なりについてお伺いするわけでありますが、あなたは、二千数百年もの長きにわたって天上界に居られるわけですが、私においてはこの間何回も現象界に出ているということは、これ、何かの意味があったのでしょうか。
&bold(){荘子} まあその人の性格にもよります。あなたはそれだけの必要性を感じて生まれて来たということであって、感じない人は生まれて来ない。特にあなたはご自分でもお分かりと思いますが、非常に好奇心が旺盛であり、学ぶということが好きな方です。それと「法」を広めねばいけないというような気持ちが強い方です。ですから偉大な人が生まれる時にはいつも出たがるのです。そしてその回、その度に、新しいことを学んでいこうとする気持ちが強いのです。それとあなたのご性格の中に、やっぱり何んといいますか、人の苦労といいますか、人の重荷も自分が背負おうという魂の傾向があるのです。そういう傾向として、たとえば大きな天上界で計画があって、「法」を説こうとする時には、自分がやはり行かなければいけないと、そういう気持ちになることが非常に強かった方なのです。ですからあなたも昔は孔子様に従いて儒学を学んでおられたのです。「論語」が作られた中にお弟子様で゛子路゛という方が出てくるでしょうが、あの「論語」の中に出てくる゛子路゛という名の方がまさかご自分であったとは思いもよらなかったことでしょう。
&bold(){――} これら私に関する一連の出来事はまた死後そちらへ還りましたら分かることでしょうか。記憶が甦るわけでしょうか。
&bold(){荘子} そうです、分かります。ですから私だけでなくて、私以外に前に出た方もあなたに中国語を話しなさいと言ったはずです。それはあなたが中国に生まれられたことがあるからです。同じ時代に居だのに、中国語も知らないということはもってのほかというわけだったのですが、それを言っては失礼かも知れませんが、共に生きていた仲なのに中国語は懐かしい言葉のはずなのです。
&bold(){――} これはもうどうしようもないことですね。
&bold(){荘子} まあそれは必要ないと言えば必要ないことですが、まあ過去世の中(うち)には人間はいろんなことを学んでいますが、肉体を持っているとそのうちの一部分しか使っていないということです。ですからあなたの頭の中にはね、あなたは憶えていないけれども、孔子の弟子として学んだことも一杯詰まっているし、密教も、法華経も一杯詰まっているし、キリスト教だってその他いろんなものが一杯詰っているんです。
&bold(){――} まあ今回は、その勉強の総仕上げという意味で出て来ているような感じがいたしますが。
&bold(){荘子} ですから今回あなたの魂の修行としては、何時もはね、指導者になる人が先に生まれて、その後にあなたが生まれてお弟子になってという形であったのですが、今度は、まずあなたが先達として生まれて他の者のための準備をするというような、ちょっと順序を変えて出てきているのです。
&aname(2){}
**2.人生は歩くのが目的でない、一休みし空を眺めよ
&bold(){――} そういうことで、私としてはいささか残念な時代に生まれて来ているので、さりとて今これ、与えられた任務は時間内に達成しなければならないという気持ちでおりますけれども、さてそこで、荘子先生にお伺いしたいことは、もう既にご存知だろうとは思いますけれども、私どもの現在持って居ります計画といいますか、その事業の上におきまして、すくなくとも万教は一なる神より発せられたものであるというところに一番大きな考えの根源があるわけで、その意味におきまして、過去地球上に顕われたいろんな光の指導霊の方々のお言葉なり、ご思想がばらばらのものではなくて、神から分かれて神のご意志を伝えるために各地に、各時代に応じて現れた啓示であり思想であるということを明らかにせんがためにやっているわけでありますが、そういう意味において荘子先生にも、あなたがご主張になられたことを現代人および後代人にも分かるようお伝えし、また書き記すのがわれらの任務であろうと思いますのでご高察のうえこれからお説を承りたいと存じます。
&bold(){荘子} いろんな方が出られて、いろんな話をされておられますので、敢て私が申し上げることも少ないかと思いますが、ただ私は、中国に肉体を持って出まして、老子様の弟子筋に当たるわけですが、思想自体は別に中国の思想でもなんでもないわけです。人間の考え方には幾つかあると思うのですが、あなた方の考え方には、他の神々の「発展」或いは「生長」していくという、こういう教えを説いておられる方も居られますけれども、そうとばかりもいえないということですね。この狭い地球ね、この狭い地球で何を発展し、何処へ行くのというような気持ちも一方にはあるわけです。ま、狭い地球であり、狭い宇宙であります。この中で何が゛発展゛であり、何が゛退歩゛であるか、こんなことを考えてみると、特に何かしなければいけないということで、努力努力というのでね、肩を凝らして頑張るというのもいま一つ考えものだということですね。
人間は元々悟った存在でありますし、大らかな存在であります。ですからその中でね、仏教系の方は特に精進ということを言われますけど、努力、努力ということで、まだまだ足りないと、あなた方まだまだ足りないから、もっと頑張りなさいと、ハッパをかけて居られますけど、まあ努力、努力とやっているうちに、その努力が遂にお荷物になることもあるということですね。――ふと、歩くのを止めた時にですね、自分は何のために歩いているのだろうかと、何のために旅行しているのだろうかと、はじめて気がつくこともあるのです。ただ道中を歩かねばならぬ、歩かねばならぬと思っていると、歩くこと自体が目的になってしまって、何のために旅をしているのか分からなくなることがあるのです。
ですからただ歩けばいいのではないのです。時々は立ち止まって考えなさい。私達の゛老荘思想゛というのもそういうことなんです。
人間はとかく歩きたがるのです。旅だということで、目的に向かって歩きたがるのです。歩いているうちに歩くこと自体が目的になってしまってなんのために歩いているのかということがわからなくなってくるのです。ですから私達は言います。――立ち止まりなさい――。昼寝をしても結構です。一休みしなさい。そして翻然として何かを悟りなさい。そういうことを言っているわけです。特に仏教系の方、あなたの過去世におけるお師匠である日蓮さん、この方はまた言われるでしょうけれども、どうしても自力の教えであり、努力の教えであります。これ自体は尊いものでありますけれども、余りこちらの方でいくと人間は、ガリガリ、キリキリと生きていかねばならないわけであって、苦しむことも多いんです。努力精進は大切なものでありますけれども、努力、努力、精進、精進といっていると、いつもせっつかれている自分、いつも焦っている自分、いつも何か足りない自分、というものを考えてしまうのです。ですからね、目的地はあるかも知れません。ただ目的地があるからといって道中を焦って歩くだけではないのです。
時折、草の上に腰を下ろして、白い雲の流れていくような空、その白い雲の流れていくすがたを、悠々と眺めるような、そうした心を持たなければ、人生には何の意味も見出せないのではないでしょうか。ただ歩いて、歩きに歩いて草鞋(わらじ)をすり減らして、疲れて宿屋に辿りつくだけが人生ではないのです。その途中、途次において、腰を下ろして、あのポッカリと空に浮かんだ雲を眺めるような心、これが無ければ人生の本当の美しさも、本当の意義も分からないのではないでしょうか。
ですからあなたも、永い人生の旅路を、苫悩しながら、苦斗しながら歩いているように思っているかも知れないけれども、そうではないのです。藁草履(わらぞうり)をはいて歩いていると思うからそういうことになってしまうのです。日暮れて道遠しと思っているからそうなるんです。必ずしもそうではないのです。腰を下ろして空の雲の流れを見なさい。土手の上から川の流れをみてみなさい。草花を見てみなさい。そうした草花は一生懸命道を急いでいるうちは眼に止まらないのです。タンポポの花もあります。菫(すみれ)の花もあります。道草というものは必ずしも悪いものではないんです。道中最後の旅の最後まで行けば何か素晴しいものがあるというのじゃないのです。その道中そのものの中に素晴しい発見があるのです。そのための旅なのです。そのための人生航路であるのです。人生は、ただ目的に到達するためだけの人生であるならば、人間はこんな永い間、転生輪廻を繰り返していく必要はないのです。
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**3.幸福は目標だけにあるのではない、悩みの中にこそ本当の幸せの花が咲く
&bold(){荘子} そうした長い旅路、魂の旅路を辿るというのは、その旅路をも楽しみなさいという神の配慮なのです。ですから努力精進ということは大事だけれども、あなた方のお弟子や、或いはあなた方の説を信ずる方々の中にも、悩んでおられる方は多いと思うのです。悩みの底にあるのは何かというと、今の自分をなんとかして、どうにかしたいという焦りの気持ちがあるんです。改善したいという気持ちがあるのであります。それ自身は悪いものではありません。けれどもすり切れた草鞋(わらじ)を気にしている旅人のようなものです。悩みとか焦りとかいうものは、わらじの傷み方を気にしているようなものです。まだ先が永いのにわらじがこんなに傷んでしまっては、私はどうしたらいいんだろうと、これが悩みであり焦りであるのです。けれどもね、草鞋のことはしばらく忘れて旅の素晴しさを味わうようなあなた方でありなさい。
ですから、あなた方、いろんな教えを説いていかれるでしょうけれど、その中にですよ、決して目的地だけに本来の素晴しいものがあるというのではないということです。その途中においても素晴しいものは用意されているのだということ、ですから、悩んでいる人に対しては、悩みが尽きたら素晴しい世界が来るんじゃない、悩んでいる途中にも、人生の素晴しい煌(きらめ)きはあるのだということを、教えてあげなければいけません。
病気になればすべて不幸でしょうか、そうではないのです。病気になれば健康体だけを希(ねが)っているでしょう。健康にさえなれば、私は幸せになると人は思うでしょう。けれどもそうではないのです。健康になってもまた別の悩みは現れてくるのです。そうではなくて病気なら病気の途中、病気の中において人生の中の花を探すべきなのです。よろしいですか。――経済的な困苦なら経済的困苦の中において、人生の花を咲かせるべきなんです。もちろん経済的困苦は克服されて大金持ちになればいいでしょう。豊かになれば素晴しいです。ただ豊かになるということだけが目標、目的となってはいけないということです。人生の方向としてはそちらを目指されて結構です。ただその途中を楽しむ気持ち、つまり貧困の中にあっても人生の花を咲かせ、それを愛(め)でるような気持ちというものは大切にしなければいけません。それは、人間というものはともすれば欲に振り回されていくということです。目標といえばきこえはいいです。けれども或る意味ではそれは欲望であります。欲であります。こういったものが欲しい、手に入れたいという気持ちであります。
人間が欲の動物であるというのは、ともすればそうしたものさえ手に入れば自分は幸せになれるのに、それが無いから幸せになれないという気持ちになるということです。これが愚痴であります。愚痴というのは足ることを知らないところから出てくるのです。人間にはすべてそういった愚痴はあるのです。たとえば子供なら、早く大きくなってこういうことをしてみたい、もうちょっと年輩になれば、ああいった仕事ができると――そして今度はもっと若ければ私はこんなことができたのにと思う。何時の年代をとっても人間は愚痴が出てくるのです。それは現在満たされていないけれどもそれが手に入りさえすれば、自分は幸せになると、そう考えているからです。そうではないのです。どのようなものが欠乏していようともその途中、途中、その時点、時点で人生の花を見出していく工夫、これこそが本当に素晴しいんです。百里の道を歩むとするならば、その一里、一里の中において素晴しい草花を、素晴らしい風の香りを嗅いでいくべきです。そうではないでしょうか、ですから努力精進の、自力の教えの中には余りにも目的に対して、目標に対して焦っている気持ちというものがあるんです。
今この時代において、たとえば仏教を志して出家するという人も居ます。或いは尼僧になったりする人もいます。或いは千日回峯といって、山ん中を潜ったり、或いは滝行といって滝に打たれたりしている人が居ます。これらの方々は皆何らかの目標というものがあって、これに達したいと思って焦っておられるのです。何んとか早くその目標に達したいと思っても現在のままでは行けないと思っています。出家か、在家かということで悩んでおられます。しかし、そうした姿自体は関係がないのです。どのような場面であっても人生の花を咲かせるということなんです。
これが大切なことなんです。ですからあなた方にも、おそらくあなた方の著書を読まれた方から、様々な悩みごとが来ていると思います。そして――「私はこんなことで困っています。先生どうか助けて下さい。」必ず書面にはそう書いてあります。助けて下さいと書いてあります。助けというのは何でしょうか。自分が目的を持つ、目標を持っている。そこに達しない自分がある。これをどうにかして早くそこに着けるようにしたい。こういうことです。わらじはすり切れています。先生どうか新しい草鞋(わらじ)を下さい。こういうふうに言っておられるということです。そうした人に対して、そのものずばり、つまり新しいわらじを与えてあげることも大切です。けれども、しばし草鞋のことは忘れなさいということも大事なんです。宿屋まで着けなくてもいいのです。野宿してもいいではないですか。野宿すればまた夜空に素晴しい星がまたたいています。そうしたことを、そうした余裕も大事だということです。ですから様々の悩みのことを訴えてこられる方がいると思いますけれど、悩みの中にも悟りはあるということを、言ってあげる必要があります。その悩みがなくなったら、あなた方は悟るのではないのです。悩みの中にこそ悟りはあるのです。あるいは身体が不自由な方もいらっしゃるでしょう。あるいは愛情関係で悩んでおられる方もあります。しかしそのような悩みの中にこそ、本当の悟りという一輪の花は咲いていくのです。
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**4.悩みを抱きしめよ、悪魔は変じて女神となって輝こう
&bold(){荘子} 女性の方からのお便りも多いでしょう。悩みも多いでしょう。そうした中にはたとえば女性でありながら、何とかして、法の手伝いをしたい。あるいは女人成仏はできないのでしょうか。こういった焦りの心はあるはずです。しかし、何かを努力すればそうなるのではないのです。現在ただ今の中に悟りはあるのです。その人が住んでいる生活の中において生活空間において、悟りへの崩芽はあるのです。芽はあるのです。ですから悩んでいる人に、逆にあなた方は一喝(いっかつ)してあげなさい。その悩みを抱きしめなさいと。その悩みを抱きしめたときに、その大いなる悪魔のような悩みが素晴らしい゛女神様゛のようになって輝いてくるでありましょう。病気をしている人には、病気をするだけの何かがあるんです。その病気の中で何らかの人生の糧を得るために、そうした病気というものがあるんです。これはなくなればいいんじゃないんです。寝た切りの方もいるでしょう。これをたとえば、神の光によって、心霊治療とかいって治してしまうことも一つかも知れません。けれども簡単にそうした形で治してしまうということは、それは奇跡ですね、奇跡ということを世に知らしめる。あるいは神の力というものを世に知らせるという意味においては意味があるのですけれど、けれどもその人個人の修行ということにおいてはどうでしょうか。
必ずしも、その人の病気をいっぺんに治してしまうことがその人の魂にとってプラスになるかといえば、そうではないということなんです。病気で悩んでおられるには、それだけの原因があり、それだけの理由があり、その中にその人の悟りがあるのです。ですから、突き放すように聞こえるかもしれないけれど、草鞋がすり切れましたといわれた時に、新しい草鞋を出すだけではなくて、わらじが擦り切れたら旅をやめてもいいですよ。その土地を楽しみなさいというだけの余裕が必要です。おわかりですか。どうか、目的達成だけがあなた方の目的ではないということです。人間もともと仏であります。人間もともと神の子であります。もともと悟った人間なのです。
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**5.深い悩みは幸せの証拠
&bold(){荘子} ですから悟ることだけが目的ではないのです。もともと悟っているんです。ですから、もともと悟った人間がね、様々な衣を着て分からなくなっているだけでその途中もう一回悟りなおす、途中において新たな経験を積んでいくということなんです。ですから悟りという明鏡止水の澄んだ心を得ること、これを目的にすることは結構です。けれども、なにもしないで何も悩まないでじっと人生を終えて悟ったかといえばそうではないんです。人生の意味は苦しまないことではないのです。人生の意味は単に幸福になることではないのです。人生の意味は豊富な経験を積むということなんです。よろしいですか。この豊富な経験を積むということ自体が人間が転生輪廻をするという意味なんです。ですからいろんな苦しみがあるでしょう、悩みがあるでしょう、それはむしろ有難いことなんです。心の中に富を積むということなんです。別に苦しめと言っているのではないんですよ。ただ苦しみのない人生はありません。
それがとっぱらわれたら幸福になるかと言えばそうではないということです。そういうものがなくなるならば、あなた方の人生は非常に安っぽいものになるということなんです。ですから悩んでいる人にこうしたら悩みがなくなりますよという言い方も一つですが、悩んでいる人に突き放して申しわけないけれども、もっと徹底的に悩みなさいと、もっと徹底的に悩んでみなさいと突き放すことも大切です。こうした度量も必要だということです。もっと悩んでみなさいということです。何故そういう悩みがあるのか。その悩みを抱きしめていったときに新たな経験を人間は積んでいくのです。どうも安易に人間というものは救われたい、悟りたい、幸福になりたい、こう思ってしまいますけれども、幸福になったと思った瞬間その幸福はすり抜けていくのです。ですから苦斗していく中(うち)、不幸と闘っていく中にこそ本当は魂の糧というものが貯えられているのです。ですからそれぞれの人に、その人に応じて、いろんな環境が用意されていますが、それはその人のために用意された環境です。他人の環境をうらやんでも仕方ありません。自分の環境の中で魂の糧を得ていくということです。ですからいろんな経験を積むということはむしろ嬉しいこと、素晴しいことだと思って頂きたいのです。
だから大病する人がいるでしょう、その方には言ってあげなさい、そんな貴重な体験は誰もはできないんですよと、いうことなんです。その人が今世においてそれだけの経験を積むということはそれは貴重な体験なんです。交通事故は不幸かもしれません、けれども交通事故に遭うということはね、長い人生の中においても、転生輪廻の過程においてもまた珍らしいことなんです。文明が発達した現代であるからこそ、またそうした交通事故というものがはやってきています。こうした中で人は苦しむわけですけれども、そうした経験を積むということは、どこかにあなた方の糧が築かれていくということなんです。わかりますか、だから幸せになるというととそれ自体は結構ですけれどもそれだけが目標ではなくて、悩みの中において人生の花を咲かせるということです。足がびっこになったとしたならば、びっこの足を治(なお)すということも大事だけれども、びっこはびっこのままで果たして自分はどのように素晴しくなれるかということに心を使うべきであります。女性の方は、美しくなりたいでしょう。美しくなりたいという気持ち自体は、正しいものであります。努力されるといいと思います。ただ美しくない自分であったとしても何らかの美しい花を咲かせるべきだということであります。それは可能なのです。
&aname(6){}
**6.霊障に悩む人、悪霊を溶解(とか)す術(すべ)
&bold(){荘子} それぞれの人間が与えられた環境の中において環境を変えるということも大事だけれど、環境が変わらずとも、その環境の中において、一輪の花を咲かせるという努力が大事だということです。これはあなたにとって、たとえばあなたは今、晩年を迎えております。あなたは言うでしょう、十年前ならあるいは二十年前なら、自分はもっともっと多くのことができたに違いない。人々を救えたに違いない。もっともっと力強く法が説けたに違いない。あるいは体も動けたに違いない。そういった考えはあると思うんです。それはその通りであります。けれどもそれを言ったところではじまらないのであります。現在ただ今の中でいかにして花を咲かせるかということです。こういうことです、ですから、本当の救いは未来にはないということです。人間の本当の救いは目標を達したときにはないということです。人間の本当の救いは現在ただ今の中に、どのような環境におかれようとも、現在ただ今その場において、一輪の花を咲かせるということなんです。ですからあなたが壮年期を過ぎたということは、これはこれで結構であります。この中で花を咲かせるということ、未来にどうなるんじゃないんです。現在ただ今です。あるいは他の方々も一緒です。子供を亡くした方もいるでしょう、夫を亡くされた方もいるでしょう。あるいは病気に悩んだり、あるいは雲障に悩んでいる人もいるでしょう。結構であります。その中にこそ花を咲かせるから素晴しいのではないでしょうか。あるいは悪霊に悩まされている方々もいると思います。結構であります。悪霊に悩まされている中において、どれだけ自分の人格を磨けるかということです。どのように彼らに憑依されようともあなた方が人々から愛されるようになるならば、それは十倍、二十倍の輝きとたってくるでありましょう。苦難があるからこそ、輝きもまた素晴しいのです。苦難を「是(よ)し」としてはいけません。「悪(あ)し」としてもいけないんです。苦難は苦難です。苦難の中において花を咲かせ、輝くということです。この考えを忘れて、ただ努力、精進だけを思っているといけないんです。努力精進を未来に向けての自分の歩みとだけ考えてはいけないんです。歩みを止めた中にも、やるべきことはあるということです。
&bold(){――} お説ごもっともだと思いますけれど、しかしながら、とかく浅い悟りでそのお説をうけたまわっておるようなことになりますと、あるいは一つの運命論的な考え方に陥ってしまうのではないかという惧(おそ)れも窺(うかが)われるのですが。
&bold(){荘子} 運命論ということを悪いようにとればそうなるかもしれませんが、運命とはそこから、逃がれようとすると、どこまでもついてくるんです。運命はそれを抱きしめようとすると消えてしまうものなのです。変わってしまうものなのです。よいですか、夜道を歩いていると、ヒタヒタと後ろから追ってくるものがあるような気がする。それで逃げようとするとそのヒタヒタ追ってくるものもまた同じ速度でついてくる。そうしたものなんです。そこで立ち止まってふり返ってみたら、ヒタヒタと従いてきたものは何もないんです。それは自分の影であります。そうしたものなんです。ですから徒らに逃げようと思うなということです。別に運命をそのまま愛せよと言っているわけではないんです。その時点、その時点で花を咲かせていったならば、あなた方の人生は素晴しい花の道、花道になっているということなんです。未来に花を咲かせようと思っていると様々な現在の悩みに捉(つかま)ってしまうんです。
&bold(){――} 現代風に言うならば、おかれた運命なり環境というものをこれを価値転化することによって、それが生かされてくるというふうに考えてよいですか。
&bold(){荘子} そうです。ですからたとえば自分にある運命、ある環境が与えられた場合に、その環境を呪っちゃいけないんで、そういう環境が与えられた意味をよく考えてみるということです。その中で、自分にしかできない経験が、考えが、人生観が、何か出てくるのではないかということをしっかりと見つめて頂きたいということです。
&aname(7){}
**7.運命から逃げるのではなく、運命を抱きしめること
&bold(){――} そういうご高説を私はつくづくいろんな関係で感ずるのですが、たとえば非常にこの、二重苦、三重苦で苦しんでおられるというような方もおられるし、植物人間になっておられてなお現世に生命を止められているという方の苦しさというもの、こういう人たちはどうして救われるかということについて、ヘレン・ケラーという方がおられますけれども、この方にもお伺い致したいと思いますけれども――その辺のことについて、もっと具体的なお教えをうけたまわれるのではないかと思いますけれども。
&bold(){荘子} 目が見えず、耳が聞こえず、語れないという人は一杯いたんです。ただ彼女らは、ヘレン・ケラーを目指してなかったということですね。結局その中においてね、先程私がいいましたけれども、運命から逃れようとすると、運命はどこまでもついてくるんです。ヘレン・ケラーがその目を治したい。耳が聞こえないのを治癒したり、どうにかなれば自分は幸せになるのにと。その方向に向かって逃げて行ったならば、どこまでも彼女の運命は彼女を追いかけてきたのです。彼女は逃げることをやめたんです。立ち止まって振り返ってその影を抱きしめたんです。そうするとそこに光が出て来たんです。苦難が大きいからこそ、輝き、光が大きかったということです。花が素晴らしかったということです。ですから安易な環境においては素晴しい花は咲かないということです。ですから苦難礼讃受難礼讃はいけませんよ。キリスト教者の中にあるような受難礼讃は間違っています。ただ自分がそうした苦労が多いならば苦労を愚痴(ぐち)るのではなくて、その苦労があるからこそ自分の花はまた素晴しいものになれるんだという気持ち、これを忘れてはいけないということです。これが運命を抱きしめるということです。たとえばいまあなたは人生の殆どを難もなく過ごしてきました。そして今晩年になって宗教的活動を始めようとしています。たとえばですよ、あなたが有名な政治家であって、一国の総理大臣に現在なっているとしましょうか。そうするとそのあなた、このような「神理」の伝道ができるかというとこれは難しいことであります。逆にそのような地位にある方であるならば、かえってできない束縛、制約が多いのです。そういうことです。自分の人生を愛しなさいということです。別な言葉で言うならば自分にしかなかったその個性ある人生を愛しなさいということです。悩んでいる人、苦しんでいる人は自分の人生を愛していないんです、人生を愛するということは大事です。人々には悩みがあります。何で自分はこんなことがあっただろうかと。たとえばあなたではなくて、あなたがたのグループの他の人もそうです。霊位というものがあります、霊能には例えば私のような者の言葉を伝えるというような場合もありますが、悪霊の跳梁、悪霊に妨害されるということ、あるいは憑依されるということもありえるわけです。その時は苦しいんです。ただそればかりを、そこから逃れることばかりを考えていたならば、彼らの人生は不幸なものとなっていくでしょう。しかしそうではないのです。その中において自らの意志を錬え自らをたくましくして行って自らを霊的な巨人としていくならば、それはまた素晴しいものとなるということです。イエスにして然りです。イエス・キリストにして四十日間の悪魔の誘いがありました。荒野に悪魔の呼ばわる声がありました。彼にしてそうです。しかしそうした試練があったからこそ、彼もまた神性が輝いたのではないでしょうか。釈迦にしてもそうです。
&aname(8){}
**8.釈迦の中道の悟りは歩みを止めた時の悟り
&bold(){荘子} 釈迦は六年間の難行苦行をしました。その果てにはじめて中道、中庸の大切さを知りました。悟りは極端な修行の中にはないということ。また栄華に溺れた生活の中にも悟りはない。極端な修行の中にもない。悟りはその日そのままのその生活の中にある。人間として普通の生活をしている中にこそ本当の悟りを見出すことができる。釈迦はそれを考えまた。極端な修行ということは要するに自分の人生から逃れようとしているということです。極端な栄華ということは今度は、自分を甘やかしているということです。どちらも本来の自己というものを失っているんです。そうした両極端を捨てて中道に入った時に、はじめて神の子、仏の子としての自分を悟ることができたはずなんです。ですからその中道ということは、ある意味においては焦って人生行路を歩いている人がその歩みを止めて、はたと、自分自身を振り返ったということなんです。それが中道であります。とにかく前に進まねばならぬと一生懸命歩いているうちには、なかなか悟れないのです。悟りの彼岸に到達しようとして道を急いでおるわけです。そうするとなかなか悟れないんです。ところが、その歩みを止めて、ふと空を見上げて満天の星空を見上げた時に、はじめて自分というものを悟る時があるということなんです。ですから中道という言葉でもいいけれども、本当の悟りの中には静的なるもの、受動的なるもの、受身的なるもの、全ての能動的な歩みを止めて、はたと全てをどめて現在ただ今の自分の心の中を見つめた時に、そこに悟りというものが得られることがあるということです。悩みや苦しみの人は、何とか脱出しよう、脱出しようと焦っておられるのです。その脱出しようという気持ちを止めて、現在ただ今の自分の心を深く見た時に、そこに悟りという名の一輪の花を見出すことができるということなのです。
ですから私が言っていることを要約すると、たとえば努力、これは大事です。人生の基調は努力であります。ただ努力、努力に追い廻されていると努力がまた自分を縛ってしまうということです。努力を捨てたところにまた新たな道、悟りがあるということです。釈迦が六年間の難行苦行をやったのは努力でありましょう。彼は努力によっては悟ることはできなかったのです。それは彼にとっては一つの経験でありましょう。ただそういった努力精進の中に、彼は悟れなかったという事実があるのです。それを捨てた時に彼は悟ることができました。人間は人間としての道がある。誰もかれもが山の中に入って、難行苦行しなければ悟れないのであるならば、人間は生まれてきたこと自体が間違いではないかと、彼は思いました。その通りなんです。山の中に入ってですよ、飲むものも飲まず、食うもの食わず、妻帯もせず、人とも話をせず、坐禅を組んで一日坐っていなければ人間が悟れないのであるならば、そうした人間であるならば、この世の中に生まれてきて集団生活をしている人間こそ間違いであります。そうではないでしょうか。ですからそうした極端な努力の世界の中には悟りはなかったということなんです。悟りは案外平易なところにあるんです。それは自分の運命を抱きしめるということです。運命から逃れるんじゃなくて、それを抱きしめた中に光ら迸(ほとばし)ってくるということです。ですからあなたも人生を愛しなさい。自分の人生を愛しなさい。そう人びとに説きなさい。
&aname(9){}
**9.あなただけの人生を愛しなさい
&bold(){荘子} あなた方に悩みを訴えてくる人々に説きなさい。そのような人生からこういうふうにしたら逃れられますよと。こういうふうに克服したら幸せになりますよと、そう説くのではなくてあなたにはあなたしかない人生があるのです。その人生を愛しなさい。人生を愛するということがどういうことかということを考えてみなさい。あなたはあなたの人生を他人の人生と交換することはできないのです。ですから、あなたにしかない固有の人生なんですから、その人生を愛しなさい。人生は愛しようとした時にはじめて自分の人生がいかに素晴しいものであったかということが分るのです。自分の人生から逃れようとしている時、そこに幸せはないのです。全ての人に言いなさい。あなたはあなたの人生を愛しなさいということです。悩んでいる人に言いなさい。人生を愛しなさい。その時、その人ははじめて立ち止まって考えるでしょう。私はいま逃れよう逃れようとしていたと。逃れようとするんじゃなくてふみとどまって、自分の人生というものをもう一度見つめ直してみよう。この中にも幸せの種はあるのではないか。幸せの種子はあるのではないか。これを考えてみよう。そうしてほしいんです。
人間はともすれば自分の人生を他人の人生とすりかえようとしているんです。それが幸福だと思っているんです。その人の目には幸せに見える他人がたくさんいるんです。お隣は素晴らしい車を購(か)いました。お隣のご主人は非常にいいご主人です。それにひき較べうちの主人はどうでしょうか、酒は飲んで帰る。車は買ってくれない。子供たちには当たる。こんな主人、こんな主人はいやだ。隣の主人のような人と、もし、とり換えることができたら、私はどんなに幸せだろう。こんなことで主婦の方々は悩んでおられるのです。しかし他人の人生とすり換えることはできない。それがあなたに与えられた人生なんです。その人生をいかに愛するかということです。私の人生はこういう人生を与えられたのである。であるならばこの人生の中にいかに素晴しいものを掘り出すか。発掘するかということを考えねばならんということなんです。
だから世の人々に言ってほしいんです。他人の人生とすりかえようとするな。他人の人生をわが人生としようとするな。自分の人生の中に、愛し足りない面があるじゃないかと考えて頂きたいということです。その中にこそ幸せはあるのです。幸せは彼方にあるのではないのです。山のあなたにあるのではないのです、幸せは自分の人生を愛することから始まるんです。不幸な人というのは自分の人生を呪っているんです。人生を呪っていて人生が微笑(ほほえ)みかけることはないのです。人生を愛しなさいという教え、これを説いて頂きたいと思います。他人と同じであることを願ってはいけない、他人と違うことをむしろ喜ぶことが大事なんです。ともすれば人はある人、ある他人を想定してそれと同じでありたいと願うのです。しかし同じであるということを願うよりは違うということを喜ぶことが大切だということです。その個性の煌(きら)めきの違いを喜ぶような余裕が必要だということです。あなたに悩みを訴えてくる人、その人にあなたは言いなさい。自分の人生を愛しなさいと。その時にその人は何かを悟るでありましょう、それは新しい草鞋(わらじ)ばかりを求めてはいけませんよ。ということです。
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2011-01-24T10:53:59+09:00
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第2章 反省、瞑想、祈りについて
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/66.html
**目次
1.[[精神統一を抜きにした宗教はあり得ない>第2章 反省、瞑想、祈りについて#1]]
2.[[人間は何故反省する必要があるのか>第2章 反省、瞑想、祈りについて#2]]
3.[[三歳から五歳ぐらいの間に自我が芽生える>第2章 反省、瞑想、祈りについて#3]]
4.[[五歳から七歳ぐらいの間に、他人との比較を考え始める>第2章 反省、瞑想、祈りについて#4]]
5.[[七歳から十歳ぐらいの間には、人を裁く眼が出てくる>第2章 反省、瞑想、祈りについて#5]]
6.[[十歳から十五歳ぐらいの間に自我我欲の気持ちが強くなる>第2章 反省、瞑想、祈りについて#6]]
7.[[十六歳から十八歳ぐらいの間で、魂の傾向がはっきり出てくる>第2章 反省、瞑想、祈りについて#7]]
8.[[十八歳から二十二歳ぐらいの間に環境に対する苦しみを造る>第2章 反省、瞑想、祈りについて#8]]
9.[[社会に出て男女ともに心の歪みを造っていく>第2章 反省、瞑想、祈りについて#9]]
10.[[職業婦人の地獄へ行く率が増えている理由>第2章 反省、瞑想、祈りについて#10]]
11.[[反省の意義について>第2章 反省、瞑想、祈りについて#11]]
12.[[生まれてくる環境は自分で選ぶのだ>第2章 反省、瞑想、祈りについて#12]]
13.[[心のスモッグを取るとどうなるか>第2章 反省、瞑想、祈りについて#13]]
14.[[日々一刻一刻が悟りである>第2章 反省、瞑想、祈りについて#14]]
15.[[瞑想は充電である>第2章 反省、瞑想、祈りについて#15]]
16.[[祈りはパイプであり、電話である>第2章 反省、瞑想、祈りについて#16]]
17.[[祈りで大事なことは、電話番号を間違わないこと>第2章 反省、瞑想、祈りについて#17]]
18.[[間違った祈りは悪魔の世界に通じてしまう>第2章 反省、瞑想、祈りについて#18]]
19.[[正しい祈りかどうかのチエック・ポイント>第2章 反省、瞑想、祈りについて#19]]
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&aname(1){}
**1.精神統一を抜きにした宗教はあり得ない
今日の演題の中心は、修行の方法にかかっているのです。皆さん、キリスト教系であれ仏教系であれ、或いは神道系であれ、なんらかの修行の方法・修法というのを持っているんです。現代における宗教においても、禅では坐禅があり、生長の家では神想観がありで、やっぱり何らかの修法がいるんです。
では何故、そういう修法・修める方法があるのか考えますと、結局精神統一というものを抜きにした宗教というのはあり得ないということになるのです。根本はここなんです。いいですか。宗教、いわゆる神、仏との交流これが宗教の核心ですけれども、これには精神統一、これが必須だということなんです。これがない宗教だと単なる道徳論になってしまうわけです。
宗教の中にも、もちろん善悪の二元を教える宗教もありますから、そういう意味では宗教と道徳とは重なるところがあるわけです。ところが、宗教が宗教であって道徳でないところ、或いは、宗教が宗教であって哲学でないところ、そこはどこにあるかというと、結局のところ精神統一なのです。これがあるかないかなのです。
哲学でも、もちろん哲学の中には真理を追究した哲学がありますし、或いは神の教えに近い哲学もあります。ソクラテスやプラトソの考え方もそうですし、或いはキリスト教系で宗教者とも言え哲学者とも言えるような人もいます。トマス・アキナスとかアウグスチヌスとか、こういう方々は宗教家でもあるけれど哲学者でもあります。ただ、哲学と宗教とを、もし線引きするとすれば、そこはどこにあるかと言うと、結局精神統一です。これがあるかないかです。哲学の中には精神統一の方法がありません。はっきりしています。道徳の中にもありません。ですから、この精神統一というのは、宗教、少なくとも神との対話を考える方法において是非とも必要だということなんです。その精神統一の内容として様々なやり方があり開発されてきたということです。
ですから、私はその内容について、何が良くて何が悪いとは言いません。様々な方法があって自由ですし、それで結構です。ただ、どのような精神統一の方法を取ろうとしても、結局は目指すところは一つだということ、それは神仏、或いは神仏により近き高級霊たちとの対話をするための精神統一であるということなんです。
ここに、反省・瞑想・祈りという代表的な精神統一の方法があるんです。これについてこれから話していこうと思います。またこれ以外の他の方法論について、今私が考えているところ、他宗の批判にならない程度にやってみたいと思うのです。まず、反省・瞑想・祈りということで話をしてみたいと思います。
&aname(2){}
**2.人間は何故反省する必要があるのか
まず最初に、反省ということが出ましたが、これは、ある意味では先程語った道徳にも関係があることです。何故人間は反省する必要があるのか、まずここから入って頂きたいと思うのです。あなた方、宗教に目覚めた方というのは、どうしてもお弟子さんとかを養成し始めると、まず反省しなさいと言ってしまいます。反省ということは、先見的というか生まれる前、先見とは先に見るということですね。生まれてくる前から反省というのはいいことだと、或いは、反省がいいことか、悪いことかという議論の土俵に載せなくとも、反省自体がいいことだと、こういうふうに思い込むことが多いです。それから、善悪の問題、道徳論的に人間は良いこともするし、悪いこともするから、良いことはいいけれど、悪いことをした時に反省して、そして道を改めるんだと、こういう考えがあると思います。それは、その程度のことは子供でも分っているんです。
ところが、私も著書の中で、随分述べましたけれど、反省の本当の意味というのは、単なる善悪を計る、或いは悪いことを正すためだけの基準ではないのです。人間にとって悪い行い、或いは悪い思い、こういうものが良くないから、これを反省するだけではないんです。反省というのは、本来の自己に立ち返るための、神が子に与えてくれた慈悲なのです。
&aname(3){}
**3.三歳から五歳ぐらいの間に自我が芽生える
よいですか。人間というのは、生まれて、オギァと言ってから物心つくまで、大体十才、或いは十一、二才になってくると、まあ中学生になってくると、世間のことがある程度分るようになります。それ迄にすでに心の歪みを造ってくるんです。まず幼い時、子供が純心無垢かというとそうでもないんですね。まず欲しいという気持ちが子供にも、赤ん坊にもあるんです。ミルクが飲みたい、そのためにオギァと泣く、或いは母親に抱いて欲しい或いはおしっこがしたいとか、こういうものの欲求ですね。幼い子供たちは欲求というものがあります。この欲求をまず外に表わします。そして、その欲求に対する答えを求めます。そして、その答えが自分の思った通りの答えが返ってこなかった時に、彼等は泣いたりします。或いはわめいたりします。この時すでに自我の芽生えがあるのです。ただ、幼い子供たちはコミュニケーションの手段を知らないために、どうしても皆同じようなことをします。自分の欲求に対する答えを求める、答えがこなければ、まあ、暴れてみたり、我儘を言ったりします。しかし、三才ぐらいまでは大抵の人はそうでしょうが、これは三才から五才、五才から七才、このぐらいになる内に、だんだん自我がもっと大きくなってきて、その本人の魂の傾向が露(あらわ)になってきます。
もう五才ぐらいになってくると、例えば、同じ物をねだるにしても、こういうふうにねだれば効果がすぐ出る、というのが分ってくるんです。だから、ミルクが欽みたいと思えば、例えばこういうふうにすれば一番効果が出る。或いは哺乳ビンを投げ捨ててみる。或いはとにかく泣いてみる。色々な方法をみんな考え始めるんです。その中に、もうすでに自我の芽生えが出て来て、例えばどうしても自己中心的な人、或いは控え目な人、というふうにこのあたりで色々出てくるのです。
だから、世の中の人々は、まず三才から五才ぐらいの間の自分について、かすかな記憶はあるはずです。これをもう一度考えて頂きたい。その時にやはり、我儘な自分というので出て来ているんじゃないかどうかを考えてみて下さい。
&aname(4){}
**4.五歳から七歳ぐらいの間に、他人との比較を考え始める
或いは五才から七才、こういう学齢に近づいて来ます。そうすると人間は、他人との比較というのを考え始めます。まず、幼い赤ん坊の時には自分の欲求が答えられるかどうかだけだったのが、五才から七才ぐらいになると他人との比較を考えます。或る時は幼稚園へ行ったり保育所へ行ったりしています。もうそろそろ小学校に上がってくる年代です。他人との比較です。あの子は成績がいい。あの子は走るのが速い。あの子はいつも綺麗な服を着ている。あの子はいつもおやつを貰っている。お小遣いが多いようだ。こういう他人との比較というのが出てくるのが五才から七才です。
ですから皆さんも、この五才から七才というのを振り返る時に、他人との比較という面において自我が出て来たかどうか、これを点検する必要があります。
&aname(5){}
**5.七歳から十歳ぐらいの間には、人を裁く眼が出てくる
又、七才を過ぎて、これが八才、九才、十才になってくるとだんだん世の中のことが分ってきます。小さいながら、小さい自分でありながら、世の中のこと、或いは先生のこと、同級生のこと、或いは兄弟のこと、こうしたことが見えてきます。ですから、自分の兄や姉、或いは弟と自分との関係、父親、母親が弟と自分をどのように扱っているか。それは公平でないとか、兄ばかり可愛がって自分を可愛がってくれないとか、そういう家族の中での自分の置かれた立場というのを考え始めます。
また、この十才ぐらい迄の間には、いわゆる限定的な意味で、社会の仲間入りをしてくるんです。世の中のことが少し分ってきます。学校という所があって先生が居るんだけれど、先生というのもただ神様みたいなんだけでなく、先生にもいろんな人が居る。いい先生が居て、悪い先生が居る、或いは先生もまた上役が居て怒られたりしているらしい。或いはこの先生はピシビシ言ってくれるけど、この先生は言ってくれない。こういう、人を裁く眼が出て来ます。これが大体十才ぐらい迄の間の人なんです。
最初言ったように、まず三才から五才ぐらい迄の間は、自分の欲求が叶えられるかどうか、五才から七才ぐらい迄の間は、人と自分との比較、七才から十才ぐらいの間には、人を裁く眼というのがだんだん出てくるんです。こういうふうに人間というのは、その置かれた環境・教育・思想・習慣によってだんだんにその本来の心というのがねじ曲ってくるわけです。
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**6.十歳から十五歳ぐらいの間に自我我欲の気持ちが強くなる
そして、十才から十二、三才、このくらいになると、非常に自己保存・自我我欲の気持ちというのがはっきりしてきます。十才を過ぎると、他人と自分という区別がはっきりついてくるんです。物心がつくと共に、他人と自分というのがはっきりしてきます。それで他人と較べた自分、これがはっきりしてきます。
例えば、或る家庭に生まれたあの子はこういう扱いを受けてる。あの子は裕福だから塾にも通えるけど僕は通えない。あの子は算数ができるけれど、それはお母さんが教えているからに違いない。或いは、お兄さんが優秀だから教えてくれるに違いない。こういうことは社会の縮図みたいなんです。
年代的に言えば、中学生ぐらいになると社会の縮図みたいになってきて、社会の中、環境と自分というのを考え始めます。それともう一つは、この中学生の時代、十一、二才から十四、五才の間に性への目覚めというのがあります。この部分が今、教育も非常に遅れていて大人たちもどういうふうに扱っていいか分らないために、性に対する考え方、本当に正しい考え方ができない。そのために、子供たちは今、混乱に陥っています。こういう環境の中での自分、社会の中での自分、それから男女の、異性の問題ですね。これを考えるのが大体中学校の頃です。この頃にまた違った考え方を身につけてしまう人がずい分出てきます。ですから、十五才ぐらい迄におかしくなってくる人も現代では相当出てきています。
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**7.十六歳から十八歳ぐらいの間で、魂の傾向がはっきり出てくる
又、十六才から十八才、高校の時代です。これは、単なる男女の性の問題だけでなく、社会的問題まで発展してきます。男女の倫理というものが分らなくて、社会を混乱させていきます。或いは、職業意識です。どのような職業が本当に正しい職業なのかということをも分らなくなってきます。また先程言いました人を裁く眼というのが十六才から十八才の時は非常にはっきりしてきます。そして、昔はまぁ、先生にしてもよく叱る先生とそうでない先生が居る。怖い先生とそうでない先生が居る。というぐらいの意味だったのが、十六才から十八才ぐらいになると、今度は先生を馬鹿にし始めます。あの先生、給料安いんじゃない。今日機嫌が悪いけど、きっと奥さんと喧嘩したに違いないとか、こういうことを言い始めるのが十六才から十八才です。
こういうふうに、社会人の予備軍として心がはっきりしてくるわけですが、この頃にもう、その人の魂の傾向というのが、かなりはっきり出てきます。そして、家庭環境による影響というのが最大限に出てくるのが高校生の頃です。この頃の心のあり方を見れば、その子の家庭環境がはっきりします。どういうふうに影響を受けているか、これは結構大事でありまして、この十八才迄にできた人間というのは、そう簡単に変わるものじゃないんです。一朝一タには変わらないんです。これを戻すためには、あと大変な努力が要るんです。
&aname(8){}
**8.十八歳から二十二歳ぐらいの間に環境に対する苦しみを造る
それから、十八才から十九才、大学人試というものがありますね。或いは、就職というものがあります。まず、高校卒業して就職した方は、また新たな社会の荒波の中で、様々なことを思われます。また、大学入試を受ける人は、志望校、自分の思う通りのところへ行けたかとか、行けなかったとか。或いは、浪人をしたとか、しないとか。或いは、医学部へ行きたかったけど、お金がなかったとか。そういうことで、いろんな、この辺りで苦しみを造っています。現代青年たちは、十八、九才で苦しみを造っています。
そして、ここでドロップアウトした人達が、非行に走ったり、様々な社会の悪の構成要素となっています。また、順調に大学に入った人も、大学の四年間で様々なことを思います。本業の学問をしようとして入った大学であるにも拘らず、自分の思うが儘の放縦な生き方をして、欲しいままの生き方をして、自分というものを腐らせていきます。
いいですか。本来の目的を忘れ、郷里に居る両親は、何も知らずに、まあしっかり勉強しているんだろうと思って、学資を送るわけです。今だと、十万も、十何万も送るんでしょう。ところが、それを当て込んで、遊んでぱっかりいるわけです。マージャンを毎日したり、マージャン大学に行っているようなもんです。そういうようなことをして過ごしていく。そして社会に出ると、また今度は、一流大学を出た人は、一流大学ということを鼻に掛ける。また、二流、三流大学を出た人は、自分が公平に扱われないのは、自分が駅弁大学を出たから、そうなんだとか、三流大学を出たから、自分は能力はあるんだけど世間に遇されないとか、こういうことを考え始めます。そういうふうに自分自身のせいでなくて、自分が、たまたま置かれた環境を理由として、世の中への不満というのが出てきます。これが二十代前半です。
&aname(9){}
**9.社会に出て男女ともに心の歪みを造っていく
それから二十二、三才でまた、社会生活を始めて行きます。この中で上司との関係、同僚との関係、また、オフィスでの男女の出会い、こういったものが絡んで、更に人間性というのが複雑になってきます。まず、社会人になると初めて、上司という存在に気がつきます。学生時代には、上級生というのが居たけれども、上級生は、意見は言われることはあっても、ハイハイと言えばそれで済んでいた。ところが会社の上司になってくると、意見を聴かないと、大変なことになるわけです。これは、上位から、上からの命令であり、これがなかなか耐えられない。まあ、大学で四年生、最上級生であったにも拘らず、社会人になると、最下層になる。コピーもしなさいと言われたり、使い走りをさせられたりします。
或いは、優秀な女子社員になれば、大学の英文科か何かを出て、全優に近いような成績で入って来た女子社員が、じゃあなた、コピー取りしなさい、お茶汲みしなさいと言われて、それでフンと思っちゃうわけですね。「こんなはずじゃなかった。私みたいな優秀な女性を、こんな扱いをするなんて失礼だ。」或いは、「男と女の差が激しすぎる。男子と机を並べて勉強して、頑張って、男子学生より成績も良かったのに、私が何でこんなことさせられるの。ところが、私より成績の悪かった優が三個しかない彼が、まあ海外なんかへ出してもらったりして、エリートコースに乗っている。おかしいじゃないか。」とこう思い始めます。だから女性は、女性で、そこでまた、歪みを造ります。
男性は、男性で出世競争とか、そういうものを既に味わい始めます。同期の中でも、自分より一歩リードしている人達、或いは、自分がどういうふうに置かれているのかを考えます。
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**10.職業婦人の地獄へ行く率が増えている理由
女性は、女性で男女の差別の問題、或いは、結婚の問題を考えます。二十五才位になると、もう結婚しなければいけない、というような風潮になってきて、これで乗り遅れるとどうなるのか。「いいわ、私は、キャリアウーマンで行くんです。」ここで頑張ったところで、同僚たちが次々辞めていくのを見ると、心の中に寂しさが出てくる。不安が出てくる。そして、キャリアウーマソで華やかにやろうと思った夢も、やがて潰(つい)えて、つまらない事務仕事をどうやら私は、二十年も、三十年もやるらしいということが分ってくる。そして心に歪みができてきます。心に歪みができてきて、三十、四十の女性になってくると、今度は、新入男性社員を苛めたりし始めます。いびったりします。「あなたは、去年入った何とかさんに比べて全然駄目だわ、あの人はスッと分ったけど、あなたは五回言っても分らない。同じこと六回言っても分らない。駄目ね。」とこういうふうにして、本当にやる気満々で入った若い男性を潰していきます。こういうことを次第にし始めるんです。こういうのは、自分の気持ちのストレスの吐け口で、日本中至る所で見られます。
だから、女性が、職業婦人が増えてますけれども、職業婦人の地獄へ行く率が増えているんです。なぜ増えるか、まあ、正常な家庭生活ができないということに対する、不満、或いは、その不満を他の人にぶっつけ、そして、心真暗にして、昔なかったような地獄に堕ちて行くんです。昔は、嫁と姑の争いくらいで済んだんです。お姑さんが意地悪をするんで、家にこのまま居ようか、飛びだそうか、大体こんな悩みが主だったんです。ところが今はそうじゃないですね。会社に入って、他の女性との関係、後輩の男性だちとの関係、上司との関係、こういうのが一杯になって、真黒になっちゃうんです。だから心を暗くする理由がもっと増えているのです。
今は、男性にしてもそうです。二十代でやる気満々だったのが、途中で左遷されたり、仕事で失敗したりして。或いは、上司に恵まれなかったりとかいうことで、様々な挫折を味わっていきます。まあ、サラリーマソ男性なら99%挫折を味わっていくでしょう。運良く、社長まで辿り着いたとしても、社長になった途端会社が傾いたりして、うまくいかない。こんなこともあるわけです。
ざっと人生行路を私は、今話してみましたけれど、こういうふうに、人間というものは、生まれ落ちてより、様々な環境に応じて、いろんな心の曇りを造っているんです。そして神の心から離れた自分というものをだんだんに形成していきます。
&aname(11){}
**11.反省の意義について
ですから反省というのは、道徳的に善悪だけの問題じゃないということなんです。善悪だけ考えて生きるなら、人間は、世間に出て働きもせず、山の中に隠(こも)って、いいですか、滝にでも打たれて、山小屋にでも居ればいいんですよ。そしたら何も悪いことしないですよ。落ちている木の実かなんか食べて、草の根でも食べて生きていれば、仙人みたいに生きていれば、何も悪いことしなくて済むんです。マルクス主義じゃないけれど、人から搾取する必要もないし、人を苛める必要もないんです。人間一人で生きて、自然の木の実を採って食べて生きていれば、何も悪いことしなくて済むんです。それなのに、共同生活をして、色々苦しみを造っています。では、みんな人里離れて、一人で住めばいいかというと、そうじゃないんですね、悪をなさないで済むのじゃないのです。悪というのは、必要悪といって、どうしても人間として生きていく過程において、様々な悪をしでかしてしまうのです。ですからこそ、反省というのが大事なんです。
この反省の意義に入りますけれども、反省というのは結局、生まれ落ちてよりできたスモッグ、心のスモッグを自分自身で取り払うということなんです。これは、工場なんかで排水なんかを垂れ流しているけれども、いいですか、川に流し、海に流し、様々な動物たちが死んでいるわけなんです。魚たちが死んでいます。それでは、死ぬのは神様が悪いのか、神様がちゃんと彼らを守らないから、魚たちが死ぬんですか。そうじゃないですね。排水を流している人が居るからでしょう。流している人が、ちゃんと処理をしなければいけないわけです。他の人は処理してくれません。誰もする人はいません。神様のせいじゃないんです。人生が不幸になっていく、原因は自分自身が造ったんです。自分自身が造った原因に基づいて、結果が起きているんです。
ですから、人生は、全て原因と結果の連続なんです。人生を生きる途中に於いて、様々な原因を造る。そして、その結果が現われる、人間が造った、原因と結果の連鎖が人生なんです。ですから、人間が幸、不幸を追うのは、大抵結果です。この結果を見て思うのです。じゃ何故その結果が起きたのか、これを反省せよというんです。そして自分で探究していくと、原因に突き当たるんです。ああ、私はこういう原因を造ったために、こういう結果が現われたんだ。この結果に対する責任は、誰に対してあるのじゃなくて、自分自身なんです。そういうことなんです。
&aname(12){}
**12.生まれてくる環境は自分で選ぶのだ
例えば、こういう家庭環境だったために、自分はひねちゃった、だから両親が悪いんだ、社会が悪いんだ、こういうふうに考えるのは簡単です。
ところが、まったく同じ環境にあっても、違う人は、違うように生きているんです。父無し子で育ったとしても、母無し子で育ったとしても、立派な人生を生きる人は居るんです。じゃ何故、その人は、そう生きられて、あなたはそう生きられなかったんですか。この問いに答えられないんです。ですから、人間というのは、結果に対する責任は、自分自身が造った原因なんです。また、様々な家庭環境様々な社会環境を選んで生まれて来ますけど、それを選んで生まれたのは、外ならぬ本人だということなんです。
哲学者たちは、安易な物の考え方をして、人間は偶然に生まれて来る。盲目的に生まれる。或いは、本人の全然責任がないところに、突如として生まれて来る。そして、生まれ落ちて始めて、色々なことを考える、と思っている人が居ます。完全な間違いであります。人間は、自分が生まれてくる環境を選んで来るんです。自分の最も悟れるような環境を選んで、人間というのは生まれて来るんです。ですから、そのような環境に生まれたということは、あらかじめ、先刻御承知済みなんです。それにも拘らず、それで落第していくのが人間なんです。だから周囲のせいに決してしてはいけないということなんです。自分自身なんです。ですから、その原因と結果、これを正して行きなさい。こうすることによって、先程の汚れじゃないけれども、自分自身の心の曇り、スモッグを取ることができるのです。
&aname(13){}
**13.心のスモッグを取るとどうなるか
そして、心のスモッグを取るとどうなるのか。心のスモッグを取ると神の光が射してくるのです。いいですか、神の光というのは、太陽と一緒です。太陽というのは、万人に対して、善人に対しても、悪人に対しても平等に光を投げ掛けているでしょう。ところが太陽の光を遮(さえぎ)るのは何ですか、それは雲ですね、空に浮かんでいる雲、空が曇ってしまうと太陽の光は射してこない。じゃ曇っているから、太陽は出てないかというと、そんなことはありません。太陽は、雲の奥で燦然と輝いているのです。人間も一緒です。人間は神の子です。そして神の光、これはあらゆる人間を、万遍なく照らしているんです。それは、アフリカの土人であれ、人食い人種であれ、動物であれ、虎であれ、ライオンであれ、象であれ、人間であれ、あらゆるものを神の光は照らしているのです。ただ、それを遮るものがあったなら、どれだけその光が強くても、やっぱり遮ってしまうのです。いくら百万燭光の光があったとしても、それを遮る壁があったなら、その光は届きません。しかもその璧は、自分自身で造っているのであれば、その璧を取り除くのは、自分自身であるはずです。自分自身が璧を取り除かなくて、自分自身が曇りを取り除かなくて、誰が一体取り除くでありましょうか。ですから、反省というものは、本来、いいですか、生まれ落ちた時の自分の純粋な心を取り戻す、そのためにスモッグを取る、そして神の光を受けるという操作なのです。
では、神の光を受けると、どうなるのでしょうか。神の光を受ける、神の光が入ってくる。これがある意味において、あなた方が霊道が開けるという現象なのです。霊道が開けるというのは、神の光が直接射して来るということなんです。今まで間接的に入って来たものが、直接的に入って来る。あなた方雲でも、薄曇りっていうのがありますが、大抵の善人というのは、薄曇りなんですよ。薄らした雲でね、光は射しているんです。なんとなく囲りが明るいんです。これが大抵の善人です。悪人というと、まあ雨雲みたいなもんですね。真黒けです。雲が厚くて、全然光が入って来ません。ところが、大抵いい人というのは、薄曇りで間接的に光が入ってきているんです。これが、この曇りを取り除くことによって、いいですか、燦々たる太陽の光が心の中に射して来るんです。これがいわゆる霊道現象というものです。そしてこれが神の光です。神の光が入って来るわけです。いわゆる高級霊との通信ができるような心の状態になってくるわけです。
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**14.日々一刻一刻が悟りである
ところが、その反省も、その反省によってその曇りを取り除くんですが、一旦反省によって曇りを取り除いたとしても、また暫くすると人間というのは、想念の曇りを造っていくんです。これは丁度、錆た鉄が、磨いても、錆びを取って落としても、暫くほっておくと、また錆びついてきます。酸化鉄です。これができるのです。また、やすりで研かなければいけない、一緒なんです。永遠に悟った人というのは、いないのです。
悟りというのは、日々、日々、一刻、一刻なんです。一刻、一刻の悟りがある。昨日のあなたが美しいあなたであったからといって、今日のあなたが、心が美しいかどうか分らないのです。今日のあなたが、朝一番に妹さんと喧嘩したり、お父さんと言い争ったりして、私と対峙(たいじ)しているなら、あなたの心の中には、私の言葉はストレートに入らないんです。多分、ストレートに入らないはずです。そういうふうに人間というのは、一日一日を積み重ねていくことが大事です。
ですから、反省を毎日、毎日繰り返すことによって、常に心を澄んだ状態に保つということ、これが大事なのです。
ですから、従来の反省観、道徳でいう反省と、私が言う反省との違いは、要するに神の光を、曇りを取り除くことによって、神の光が入ってくる。この理論です。これは非常に簡単な理論のようであって、非常に難しいんです。実際に体得する迄は。結局、古来、いろんな偉人たち、或いは聖者たちが説いて来た悟りの方法というのは、これに過ぎないんです。心が造ったスモッグを取り除いて、神の光を直接受ける、これが悟りなんです。そして今日は、反省だけじゃありませんから他のことも言っておきましょう。
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**15.瞑想は充電である
瞑想というのがあります。瞑想は、何のためにするんですか。これは、瞑想というのは、充電なんですよ。あなた方、プラグを差し込んでひげ剃り用のカミソリに充電したりしますね。瞑想というのは、充電なんです。反省というのは、まあ差し込みのような行為でしょうか。瞑想というのは、充電期間なんです。
ですから、人間余程優れた人なら、一秒神を想えばそれで全て終わるかも知れないけれど、大抵の人間はそうでないんです。大抵の人間は、二十四時間、この世的なことに執われているため、なかなか悟れないんです。ですから反省によって、曇りを取り除いて、その澄んだ心でもって一定時間、あの世の霊流、神の光を受け入れる時間を取る必要があるんです。この神の光を受け入れる時間、これが瞑想なんです。ですから瞑想というのは、十秒や、三十秒では済まないんです。大抵の人が十分、二十分、或いは三十分、一時間瞑想というのをされます。まあ、八時間もやるような奇特な人は別として、普通の人は、せいぜい一時間もやれば充分です。まあ一時間が長ければヽ三十分で結構です。三十分間、要するに神或いは仏、神仏の心と同通する。或いは、高級霊と同通する時間をもつ、こういう時間が充電期間なんです。
この充電ばかり毎日やってたら、電気があふれて来て感電してしまいます。感電死です。ビリビリときて、もうひげ剃りのカミソリなんか、電気カミソリなんか一日中充電していたら感電してしまいます。触っただけで。これはやり過ぎっていうんです。物事やり過ぎちゃいけないのです。
ですから、まず反省というのは、そういう心の曇りを取るための作業であるし、瞑想というのは、充電期間、天上界の神の光を入れるための充電期間なのです。人間は、この世的な波動で毎日、毎日随分荒らされてしまうんです。自分がいくら澄んでいても、心の乱れた人と会うと、そういう人と一時間、二時間会っていると、だんだん心が曇ってきて、嫌な波動を受けるんです。この世というのは、波動の粗い世界ですから、そういう高級霊と通じたとしても、どうしてもその波動に触れると、また心が荒れて来ます。そのために充電期間としての瞑想があるんです。だから瞑想は、そういうふうに思って頂きたいんです。そのための瞑想なのです。充電期間としての瞑想なんです。まあ、この反省、瞑想というのが主として、私が重点を置いて言ったことですが、瞑想については、別途で話す機会があるでしょう。
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**16.祈りはパイプであり、電話である
あと祈りというのがあります。祈りと言うと、どうしてもキリスト数的な物の考えが入ってきます。じゃ祈りというのは、本当は何なんだろうか。祈りって何かな、あなた祈りって何か分りますか。祈りというのは、これはパイプなんですよ。まあ反省というのは、自分自身で曇りを取り除いたら自然と光が入ってくる。こういうことでしたが、祈りというのは、パイプなんですよ。こういうパイプを天上界へ向けてドーンと通す。囲りは、もうスモッグで一杯ですよ。スモッグで一杯だけれど、真空管みたいなもんで、真空のパイプをドーンと通して、神様と自分との間に一本の線を引く、これが祈りです。
或いは、電話と言ってもいい。祈りというのは、電話なんです。いいですか、あなた方間違わずに電話番号を回せば、相手の人は出てくるんです。「もしもし、こちらOOですけど高橋さんのお宅ですか。」「はい。」間違ってなければ「はい高橋です。はい高橋信次です。電話番号変えてません。この番号で合ってます。何か御用でしょうか。」「あ実は、私体操やってるんですけど、生徒が、今減っちゃって、是非来て下さいませんでしょうか。できたら奥様、お嬢様と一緒に来て頂きたいし、近所の人も来て下さると助かるんです。丁度、大広間、五十畳くらいの広間があるんですけど、生徒さんがハ人しか居なくて淋しいんです。ですから、なんとか二十人くらい欲しいんで来て下さいませんでしょうか。」こういう電話があなたから掛かってくる。そしたら私は「しょうがないですね。あなたにはいつもお世話になっているから、やむを得ない行きましょう。」まあ、こういう話をするわけです。これは正しく電話番号を回したからです。電話と一緒です。パイプで分りにくければ、電話なんです。反省は電話ではありません。瞑想も電話ではありません。祈りは電話です。ですから電話である以上、いいですか、正しくダイヤルを回す必要があるんです。正しくダイヤルを回すと、間違いなく相手に通じるんです。そうですね。
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**17.祈りで大事なことは、電話番号を間違わないこと
祈りに対して、特に大事なことは、電話番号を間違わないということなんです。例えば、高橋信次主宰のGLAへ掛けたつもりが、新宿の歌舞伎町に掛かっちゃって「はい、こちらいいとこですよ。あっただ今サービスタイムです。お客様、五時迄に入場の方は、千円ぽっきり。」なんて掛かってくるわけです。こんなところに掛かると大変なことになりますね。GLAに行って高橋先生のお話を聴こうと思ったのに、なんか随分楽しいところに掛かってしまった。「ところで、若い娘は居ますか。」「もうピチピチギャルで一杯です。もう全員二十才未満、十八、九ぱかりですよ。お客様、もう丸ぽちゃも居れば、もう本当、東北美人も居ますよ。」「そうですか。千円ぽっきりですか。」うんそれなら、ちょっとGLAに行っても遠いし、浅草まで行く暇があったら、新宿の方が近いから、ちょっと一遊びして、それから行っても遅くないだろう。それから、また高橋さんのところへ行って、心の洗濯をすればいいんだから、洗濯すれば一緒だ、と。ちょと汚してもいいじゃないか、まあ新宿のナントカ喫茶に寄る、これは電話番号を間違った人ですね。こういうことがあるわけです。ですから正しい電話番号を使うことが大事なんです。正しい電話番号を選ぶって何か、これが正しい祈りということです。
ですから、祈りにとって大事なのは、その祈りが正しいものであるかどうかということなんです。これが一番大事なんです。これが電話番号です。
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**18.間違った祈りは悪魔の世界に通じてしまう
では正しい祈りって何だろうか。祈りの一番危険な点は、人間の自我我欲、自己保存欲のままに祈る人が居ることです。反省は、いいですか、どんな人でも、要するに反省する以上は、自我我欲のままに反省はできないのです。あなたできますか、できないでしょう。「自分は、人を一人殺せばよかったのに、殺さなかった、ああ悪い自分だった。」なんて「あいつ憎かったから、本当は殺したかったのに、しかし殺さなかった自分は、非常にひ弱な自分である。情けない自分である。一思いにぶすっと殺せばよかった。」こんな反省する人居ないんです。ところが祈りでは、あり得るんです。祈りでは「あいつ本当に気に食わない、あんな奴死んでしまえばいいのに。」こういう祈りがあり得るんです。或いは、自分の母ちゃんが浮気をしている。相手の男がくやしくて祈り殺したい。丑三つ時に、わら人形に五寸釘打って、カーン、カーンと徹夜して、こういうのが今でもあるんです。実際にそれで死んじゃった、という人も出たりするわけです。念の力がありますから。
ですから、祈りっていうのは、一歩間違うと、これなんか電話番号間違った例ですが、悪魔の方にも直通電話があるんです。電話は、二階、三階だけに通じてるんじゃなくて、地下室にも通じてるんです。だから、特に祈りは、間違わないことが大事です。
ですから、私が思うに、まず段階ですけれど、まず反省をする。反省をして心の曇りを取る。そして瞑想をして、充電することです。心の充電をして、高級霊界からのエネルギーを受け入れる準備をする、そうして祈るんです。正しい祈り、こうすれば、ほぼ間違いがないんです。まず、曇りを取っておく、曇ったままで祈りをすると、大変なことになってしまうんです。自分は、金が欲しい、金が欲しい、あと一千万あったらもう一回競艇へ行って、ギャンブルができる。もうあと二千万あったらラスベガスヘ行ってやろうとか、アトランティック・シティで大儲けしてやろうとか、こんなことを考えるんです。ところが、心が神様の方へ向いとけば、そういう祈りは、なんか自然に出なくなるんです。
まあ、祈りの特徴としては、他人との関わりということが非常に犬事なんです。祈りは、他人のことを色々考えて祈らないと他人の人生をも変えてしまうことがあります。
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**19.正しい祈りかどうかのチエック・ポイント
ですから、イエス様も前に仰ったようですけれども、祈りというのは、祈りが実現されることによって、その人の人格が高まるか、或いは、その人の祈りが聞かれることによって、他人が幸せになるか、こういうことがチエック・ポイントになると思うんです。自分の人格が高まるという基準も一つだし、少なくとも他人が幸せになるという基準もあると思うんです。
例えばあなたが、これから正法を伝道したい。高橋信次の霊言集、五十万部くらい売れて欲しいと祈る。さあ、これはなかなか難しいですよ。電話番号がこれ、地獄に通じているか、天国に通じているか。「五十万部売れると人気が出るだろう。人気が出ると評判になる。評判になると私たちも偉くなる。偉くなると嬉しい」嬉しいと、どうなるか。祭り上げられる。祭り上げられると、教組様になっちゃって、偉くなっちゃったりして、お賽銭集めちゃったりして、こういうふうになると狂ってきます。しかしこの教えは、真実の教えだから一人でも多くの人に読んで欲しい、知って欲しい、こういう気持ちだったら間違いありません。五十万人に読まれても、百万人に読まれても、神理を知って欲しい。ただそういう純粋な気持ちで行けば、その結果、潮文社さんがちょっと儲かっても悪くない。これならいいわけです。
要するに、ただ売ればいいと言うなら、あなた、私ならもっと違うこと言いますよ。こうすれば金儲け間違いなし、結婚確実、あなたは絶対偉くなります、出世できます、こういう祈りを私が教えてもいいんです。ただ私は、そういう教えはしない。敢えて売れないような、単純な教えをします。
少なくとも、祈りは、やはり、それによって自分自身の魂が向上するか、囲りの人が幸せになるか、そういう積極的な光の方向に、向いているかどうか、このチエックが大事だということです。これが祈りです。まあ本日は、いろんなことを話しました。
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2011-01-24T10:37:00+09:00
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第7章 余録
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/462.html
**目次
1.[[正法、神理流布の具体化について>第7章 余録#1]]
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&aname(1){}
**1.正法、神理流布の具体化について
&bold(){善川} ただいま、日本神道糸の主宰神としてのお立場にある天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)をはじめとし、天津神、国津神の御降臨を得て種々幽遠なお話を伺い、また空海大師からは雄大なる神のご経綸(けいりん)なり、新時代における日本を中軸とする世界の新文明諭についてご高説を拝聴したのですが、その感想を卒直に申し上げますなら、空海さんにつきましては、これは大変な方でありまして、われわれの近づき難いようなお方でありました。お聴き及びのとおり、ご法を伺う折の随所で、厳しいご叱声を受けたような次第でありまして、それはまあごもっともと思うのですよ。あの方は、大変なお仕事をお忙しくしておられるようだし、私どもの充分理解の届かないお説まで承った次第ですが、それはそれといたしまして、私たちのこれからの仕事としては、聖観音とか、清少納言とか、紫式部さんなど、こういう女性の方々の日常生活、天国観などのお話も伺い、こういう方々のお立場、ご自身の生活環境の有り様なども参考とさせていただき、広く霊界、天上界のご様子を現象界の方々にお伝えして、新しい時代の精神世界の心の支桂と申しましょうか、よりどころ、或いは希望とか夢というものにつないでいきたいと思うのですが、まずはここらを第一段階として、今までに皆様方からお教え願った、正法、神理の一端を、世の心ある方々に訴えたいと思うのですがいかがなものでしょうか。
&bold(){日蓮} その考えは間違っておりません。
&bold(){善川} そこで具体的な方策としては、皆様方のうちで、特に中心的なお立場で、私たちをご指導くださっているあなた様のお訓えを、振り返り、取りまとめ、浄記して書物に著わしたいと思うのですが、これを、この方面の理解があり、また多くのこの種の出版物を取り扱っておられる出版社にお願いしたらと思っておりますが、その考えでよろしいでしょうか。
ただ、その出版社ですが、そちらの方で、ご予定の特定の出版社があればお教え願いたいと思いますが。
&bold(){日蓮} そこまでは私たちは言えませんが、あなたが欲するところでやってみて、もし駄目であっても、また他の道が開けるであろうし、そのようなことはあまり心配せずに、そのようなものの中味が出来れば、それなりの流布というものは、もう当然計画の中に入っておりますので、誰かの手を通じて必ず、出されるようになるでありましょう。
&bold(){善川} そこで、いま一つ懸念されることは、これを著わすことになると、どうしても日蓮さんのお言葉なり、親鸞さんなり、或いは空海さんなりのお言葉が出るということになりますが、これはいかがなものでしょうか。
&bold(){日蓮} 名前を出すということですか、それは出さないわけにはいかないでしょう。
&bold(){善川} でないと、これが一体誰のお教えやら分からないことになりますので、またその聖人方のお言葉なり、お教えによって、私たちが悟り、成長していく過程を訴えねば、一般の方々から理解が得られないと思いますので。
&bold(){日蓮} いいでしょう、やむを得ないでしょう。このことは以前にも申しましたが、あくまで方便なのです、あなた方にとっては、当座の方便なのです。やがてあなた方は、私たちの言葉を借りずとも、自らの言葉で自らの力で「法」を説いていかねばなりません、これはあくまで当座の方便なのです。
ただ、これも一度きりで種切れするようなことであっては困るので、先のことまで、十分考えてお作りになるということ、更に何冊分か、五冊、十冊と予定しておいた方がよいと思います。
と、いうのはね、そういう本を出すと、やはり反響があるし、いろんな人が寄ってきますので、そういうことに堪え得るだけの環境ができているかということです。
&bold(){善川} そこで心配されることの一つに、既成宗教というものがありますね。ご承知のように、あなたに関しましては、あなたの過去のお教えを固く守って信じておられる方々がありますね。そしてこういう方々は強大な勢力を持っておられますが、こういう方々からの物すごい反撥とか、攻撃とかいうものが懸念されるのですが……。
&bold(){日蓮} 来るでしょう。迎え受けなければ仕方ありません。必ずそういうものは出てくるのです。仕方ありません。世の人々に判断してもらうよりほか仕方ないではないですか、後世の人に判断してもらうしかないじゃないですか。
&bold(){善川} かつて、また現に、あなたのお教えを―、われわれは何々山系だ、いや、われわれは何々山系の正宗だと言って論争を持ちかけてくる方がありましょうか、これもまたやむを得ないことなのでしょうか。
&bold(){日蓮} イエスにして然り、釈迦にして然りです。それぞれの時に、それぞれの教えを説いた人がたくさんいたのです。釈迦も随分いろんなところから悪口も言われ攻められもしてきたんです。イエスは遂に十字架にかけられて殺されたことはご存知のとおりです。ですから、例えば「日蓮」の言葉として書いた場合に、日蓮宗系の方々から詰め寄ってくることはあるでしょう。―さあ、その日蓮をここに出してみよ、と問い詰めてくる。―さあ、日蓮ならいつ生まれたか、―さあ、その時に生まれてどうしたか、どこそこに行って何を学んだか、―いや何とか経の内容について聴きたい。返事やいかに、という挑戦状が来るかも知れない。ただあなた方が心得ることは、あなた方は、後世に残る事業を興そうとしているのですから、そのような主義、主張や、何といいますか小さな教義の争いに巻き込まれないような、悠然たる自分自身を保つということです。たとえ何をどう言われようと、悠々と生きるということです。批判は絶対に出てきます。ただ、そうであっても、戦う必要はないのです。その是非は後世の人びとが定めるところですので、決して争いの心を起こしてはなりません。
&bold(){善川} しかし、われわれは皆、それぞれの環境で社会生活を営んでおりますが、われわれがこの仕事に、全力投入しなければならないようになるのではないでしょうか。
&bold(){日蓮} まあ、はじめのうちは仕方ないけれど、本も五冊、十冊と出すと、人びとの関心も高まってくるでしょう、そして人びとが集まってくるようになれば、それはもう仕方ないことではないですか。そういう時期を充分見計っていなければいけないのです。本を出す以上は、もうそこまで覚悟をしていかねばなりません。
一つのグループが出来て、集団が出来はじめると仕方ないではないですか、集まる時はアッという間です。一年も経たないうちに、相当の人が集まってきます。だから、そこまでの覚悟は、決めていなければいけないということです。
&bold(){善川} そういうことになると、お互いが社会生活をしているし、あるものは勤務、あるものは業務と、並行的にというわけにはいかないようになりますが。
&bold(){日蓮} ただ、二十年、三十年間、何も書かず、何も喋らずにいるわけにはいかないでしょう。しかし暫くは過渡的な時期がありましょう。私はあなた方に、直ちにどうせよとは申しません。ただこういう本が数(かず)出て、人びとが話を聴きたい、相談に乗ってくれ、講演会をしてくれ、ということになって忙しくなってくると、現状をとおすということはできなくなってくるでしょう。或いは会社に勤めていながら、休日とか、夜とかにそういう会合に出るということで、活勤していくということもありますが、これについては、私どもには私どもの考えを持っております、が、まあ修正も可能なことですし、過渡的な時代も必要でありましょうし、これについては、いまは明言しません。ただ、あなた方以外からも協力者が出てきて、事は推進されるようになりましょう。
&bold(){善川} それでは、どうしても最初の歯車は、われわれの手で動かさねばならないということになってきましょうか。
&bold(){日蓮} 動かすのではなくて、もう動かされているのです。動かすのではなく、動かされているんです。現にあなたはこうして大阪まで来ているでしょう。他に来る必要はないのです。にもかかわらず来ているでしょう。なぜ来ているのか、われわれの意見を聴きたいから来ているのでしょう。これはさせられているのです。
&bold(){善川} 私も、今までのお導きで、これからわれわれが進むべき方向というものは、覚悟しているのですが、しかし事を興すまでには、まだまだいろんな勉強もしなければならないことがたくさんあるし、私自身も、もっともっと実生活の中で鍛えていかなければならないと考えております。
&bold(){日蓮} 本を出し、人びとが寄ってくれば、何かを話し、また何かを書かざるを得なくなるでしょう。自然と書かされるようになるのです。
&bold(){善川} 話は別なことになりますが、最近私たちは、ここにもありますこの本『生長の家』というのに、どういう訳か、大きな影響を受け出してきたのでありますが、これは、何かそちらの方にご計画があってのことでしょうか。
&bold(){日蓮} 計画通りであります。あなた方は、最初、高橋信次先生の「正法」、これを受け売りといいますか、考えとしてはもうこれを受け入れたはずです。これから抜けなければいけないのですが、どうやって抜けていけばよいか分からないのです。他にもこういう教えがあり、これもこれなりの力を持っている。こういう教え二つ、三つと地盤が出来てくると、新たなものが出てくる。これも計画済みです。
なぜなら、高橋信次先生の方は方で一つの問題を持っております。善、悪の二元で捕らえ、悪を反省し、善に戻そうとする過程において、自ら「悪」の中にもがき苦しんでいる人たちは、その中から脱出できないで困っている。愚痴を言う人は、愚痴を止めなさい、と言っても愚痴を止められないから愚痴を言っている。そうです、人の悪口は止めなさい、分かっております。悪口は止めたいんだけれど、言わざるを得ない気持だから悪口が出る。この心をどうするか、このような問題があります。これには、一つは、日本神道糸教団の教えというものも学ぶ必要があります。今後更に新しい教えもあるでしょう。もっとこういうものも吸収していかなければなりません。
&bold(){善川} まあ、ひじょうに個性の強い宗団でありますが、神道糸教団は今日大を成しているわけでありますが、内容につきましては、われわれが、もって範とするところが多々あるのですが、軍備を唱えるところあたり、一面においては納得しがたいというところもあります。これらの点については、われわれが独自の方向を見出してやっていけばよいというわけですね。
&bold(){日蓮} あなたは、かつて聴いたはずです。他人の田があり、自分の田があり、他人の畑があり、自分の畑がある。他人の畑は、他人の畑で敬っておればいいではないか、それに文句をつけることはないのです。自らの田、自らの畑をそれ以上に立派なものにすれば、そうすれば、他のものはみんなそれを見習うはずです。
&bold(){善川} 先程、空海さんからは、ひじょうに含蓄深い、広義なお話を承ったのですが、まだまだ私どもの頭では消化しきれないような内容であったように思いましたが、今後いろいろと、段々と、お教えを賜って自分自身のものにしていきたいと、このように思っております。
&bold(){日蓮} あなた方の仕事に、山場というのはないのです。発展段階しかないのです。いい方向しかないのです。山場はないのです。あなた方の現状を山場とみるのは、それは時間という概念にとらわれているからです。現在、ただいま、未来に解決することを解決しようとすると、それが山場であり、危機であり、問題であるように思うのです。時間の観念だけであります。ともすれば、霊的な能力を持ち、こういうことができるようになると、未来が知りたい、将来が知りたい、先が知りたいと、そういうことになりますが、それを知ったところで何も解決はできないのです、山場でもなんでもありません。普通の人が順調に、そうなるが如くになろうとしているのです。困難は何もないのです。
&bold(){善川} 私は、とかく自分で判断したことを暫く心に溜めておいてから、熟慮してからやがておもむろに行動に移るという性(たち)ではなく、短兵急といった性格でありますので、自分で行っていることに、不安を抱くことが、しばしばあります。私の進んでいる方向が間違っているようなことはないであろうか、度を外していはしまいかと、絶えず思うのですが。
&bold(){日蓮} そのような心配は無用です。あなたは、馬ではないのです。御者によって鞭を打たれねば、真っ直ぐに走れない馬ではないのです。踏み外してもまた元へ戻れば、いいではないですか。そのような窮屈な人生として、自分の進む方向を見ないことです。
神ではないのです、あなた方は。神ではないのです。正しい道を一直線に走るわけではないのです。よいではないですか、たまに道を外しても、また元に戻ればいいではないですか。迷い込んでも戻ればいいではないですか。そのための守護指導霊ではないですか。あなた方が迷うことがあるから、道を間違うことがあるからこそ、守護指導するのではないですか。あなた方が真っ直ぐ走れるなら守護指導霊もいらないのです。真っ直ぐに走れないから、神は守護指導霊というものをつけて、人間を指導させているのではないですか。
&bold(){善川} ありがとうございました。
&bold(){日蓮} 本の出版等についても、時期がくれば、私の方から言います。もう出しなさい―と、私の方から言いますから、これは必ず言いますから、今は準備期間だと思ってください。ここ二、三年は準備期間だと思ってください。あなた方の蓄え、まだ十分蓄えがないのです。「正法」といって独自のものを、十年、二十年、三十年と、説いていくだけの蓄えがないのです。
&bold(){善川} それはそうでありますけれども、この二十年、三十年説くだけのものの貯蓄が出来てから説くというのでは――、
&bold(){日蓮} 出来てからではありませんが、やっと三年、やっと安定してきたところではありませんか。まだあなた方は、この霊的な現象を、自分たちの生活的な悩みとか、小さな悩みを解決するために使おうと思っています。このようなものから脱却しなければいけません。もっと人類のため、他の人びとの悩みを解決するための霊的な現象であり、能力でなくてはなりません。
しかし、そこに至る前には、このような段階があるということであります。
&bold(){善川} こういうどこにでもある、ありふれた会話や質問の中にも、それはそれなりの意義があるのではないかと思われるのですが、高度な神学や哲学、または宗教諭の中にのみ法があって、生身人間の生活苦や精神的悩み、そうした日常的な話題の中にも、それはそれなりの処生の術と申しますか、法というものがあるのではないか、人ぴとは、そういう段階での凡者に対する覚者の応対指導というものの中に、身近な、それはそれなりの訓えがうかがわれるのでないかと思うのであります。大変次元の低い話になって恐縮ですが、その辺のところもご斟酌(しんしゃく)くださってご指導願いたいと存じます。
&bold(){日蓮} 分かりました。
&bold(){善川} ときに、かねてよりわたくしどもの行動を看視し、ことある毎に妨害、いやがらせ、惑わし等々を繰り返してきた、かつての根来(ねごろ)の密教僧、xx法師とまで称せられた、xx氏は、ここのところあまり姿を見せませんが、彼は改心でもしたというのでしょうか。
&bold(){日蓮} 彼は、神道糸の神々に、大分手痛い目に逢い撃退されたようです。
&bold(){善川} ああそうですか、すると神道系の神々は、かなりの力を持っているのですね。
&bold(){日蓮} そうです。彼、××も、これ以上あなた方に憑(つ)きまとって深入りすると、身が危いと思いはじめております。遠ざかっております。彼は、仏教糸の人間であります。仏教に対しては、ある程度、心の準備ができておりますが、神道糸や、他の神々が出てくると、どうしても弱くなってくるのです。多勢に無勢と考えはじめているはずです。
&bold(){善川} あなた方は、××など、いわゆるサタンどもを撃退するだけの力はおありでしょうけれども……、
&bold(){日蓮} そうではなくて、私たちが、あなた方が真実の心の法則に気付くのを待っているのです。心の法則なのです。やはり彼らを呼び寄せるのは、呼び寄せるだけの心があるのです。それは自分の経験を通さずしては、分からないのです。
&bold(){善川} なお、私たちに対し、他に何かアドバイスがありましたらいただきたいと思いますが……。
&bold(){日蓮} 今後とも、私たちが語った言葉を本にする作業を続けてほしいということと、いま一つは、これを体系化していく作業、一体骨格となるようなものは、何であるかというようなこと、これを体系化していく作業を、段々に考えていかなければならないと思います。でも、もう去年の夏ではなかったですか、私どもが、これを記録し残しておきなさい、原稿に書き起こしなさいと言ったのは、そうでしょう。そうして半年余りの間に、もう既に原稿としてなりつつあり、そうして何年かすると、本になって出てきているのです。そうなるのです。
もうこの世界に入った以上、逃げたくとも逃げられません。私たちはもう逃がしません。私たちが天使であろうが、サタンであろうが、もう連れていかれるだけです。もう本人も腹を決めていただかなければ仕方ありません。もし私たちが、悪魔であるなら一緒に地獄に来ていただかなければ仕方ありません。私どもは、そうではないつもりであります。
&bold(){善川} 昨日、お出ましになられた、天之御中主の神が仰せられた、われわれの「神法」勉学の態度は、二十五点と評されましたが。
&bold(){日蓮} 若干きついと思いますが、私どもでも四十点ぐらいしか差し上げられません。まだまだあなた方は、自己というものにとらわれすぎている。自分というものが捨て切れない。神を、全幅的に信じ切れていないということです。わが身が可愛いという気があります。
&bold(){善川} これが人間の弱点だといえば、いえるのではないかと思います。この弱さを払拭したのが、イエス・キリストでありましょう。イエス様は、十字架にかけられるに及び「我れ世に勝てり」と申されましたが、まああれ程の気力は持ち合わせがないと思いますが、また、あなたがご在世中に受けられました数々の法難、特に龍のロにおいて刃を向けられた時の不退転の気持、あの神々しいお姿の中に漲(みなぎ)っていた信念というものは、今の私たちには、及びも寄らぬ世界の精神状態であるように思われます。
&bold(){日蓮} まだそれは、自覚と修行が足りないのです。あなた方が本を出し、それに快く思わない人たちに、詰められようか、どうなろうかと、案じているようなことでは駄目です。私のように斬られ損なったり、島流しに遭うよりは、よほどましです。あなた方の生きている時代は、民主主義の時代で憲法が宗教の自由を認めているような時代です。発言の自由は認められているのです。ただ、人の批判なり陰口なりに、耐えられるかどうかという、自分の内面の心の持ち方だけの問題です。それを発表するからといって、殺されるわけでもなんでもないのです。ただ、人のロ、それが恐いだけではないですか。それはなぜ恐いかというと、まだ自分たちに対する自信がないということです。私たちに対する全幅の信頼がないということです。
私のことを言うなら、日本の歴史の中で、宗教家の中で、私ほど、悪口を言われた人間も居ないのです。大法螺(おおぼら)吹き、大山師、もうありとあらゆる批判、非難が私の頭上に積まれたのです。最後には私も引退しました。私の言った予言、私の言ったことが評価されて、鎌倉幕府から招聘(しょうへい)されても、私はそれを辞退し、最後は淋しく身を退いていったのです。私も傷ついたのです。人生において、ひじょうに傷ついたのです。私は神理を語っていた。しかし世の方々は、私を斬ろうとしたり、襲ったり、島流しに何度もしたり、そのようなことをしてきました。私は相当傷ついたのです。神理の伝道というものは、これだけ苦難なものなのか。しかしながら、考えてみれば、私たちのレベルの魂は、これだけの、これだけの試練を受けないと魂の進化にはならないのかと―これも仕方がないのです。なぜならば、平平凡凡と、凡人としての生涯を生きる生涯ではないからです。恐らくは、あなたの本を読んでも、本当にこれが日蓮か、日蓮なら出してみよ、法論をしたり挑んできたり、法戦を挑んできたりする人が出るでありましょう。それで、いや、そういうことにしたくない、と言えば、「―それ見ろ、やはりインチキではないか、お前が勝手に書いたに違いない―」と、そう彼らは言うのです。しかし、私は、その場に出て彼らの気が済むまで話をする気持は毛頭ないのです。彼らに納得して貰っても、別に何の意味もないからです。私は、私の信ずるところ、私の言いたいことを語るだけです。信ずる人は信じなさい。ついてくる人は、ついてきなさい。あなた方も、その方針でいきなさい。
その本を書いて、これしかないと、これしか信じないとして、他宗を排撃したりすることは止めなさい。
―われ神理を述べる―と、信ずる人は信じてください、ついてくる人は、ついてきてください―と、その方針でいきなさい。
&bold(){善川} ひじょうに気強い、そして心温まるお言葉、ありがとうございました。今後も折を見て、なにかといろいろな問題に突き当ったり、判断に苦しんだり、迷い込んだりしようかとも思いますが、その場合においては、その都度、その都度のアドバイスをお願いしたいと思います。
&bold(){日蓮} 時機が来れば、私の方からも、言うべきことは言います。例えば、こうした現象を記録に取れといったことや、また本を出すようになった時には、出せと、何か大きな節目節日には、アドバイスをするはずです。
何事も一時には、事は成らないものです。少しずつ、少しずつ積み重ねていくということが肝心です。
&bold(){善川} 私は、「正法」を真実、四六時中実践していくということは大変難しいことだと思います。第一に、何が「正」であり何が「邪」であるか、その正邪が定かであるものと認められるものはよいとして、同じように正と認められても、これを実行するに当っては、経過、時間、タイミングというものがあり、それを外すと、これが結果は邪となって現われるという、その刹那(せつな)の判断のタイミングということに苦慮することがありますが―。
&bold(){日蓮} 自らやろうとしてやる段階のことは大したことではないのです。どうしてもやらねばならないという状況、つまり胸のうちの大きなうずきに追い込まれてやる時に、人間ははじめて大きな勇気が出てくるのです。そのことは、真の「神」の意志でもあるからです。
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2010-01-18T13:21:21+09:00
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第6章 シルバー・バーチ霊言集の問題点
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/461.html
**目次
1.[[魂の本体と、五つの分霊説と群魂説について>第6章 シルバー・バーチ霊言集の問題点#1]]
2.[[人類の起源はどこからか。円盤による転移か、進化論によるか>第6章 シルバー・バーチ霊言集の問題点#2]]
3.[[過去のことは歴史学者にまかせておけばよい、要はこれからの人類がいかに生きるかにある>第6章 シルバー・バーチ霊言集の問題点#3]]
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&aname(1){}
**1.魂の本体と、五つの分霊説と群魂説について
&bold(){善川} 私は最近『シルバー・バーチ霊言集』を読みましたがモーリス・バーバネル氏を通して語られた過去五十年間における、インディアンのシルバー・バーチという古代霊の語ったところの記録ですが、その内容においては、私の知る限り、大筋においてその論理は、「正法」、「神理」に沿った線で貫かれていると思いましたが、その間に一、二点、まだ納得し難いものがあると思うのですが、お尋ねしてよろしいか。
&bold(){日蓮} どうぞ――。
&bold(){善川} その一つには、シルバー・バーチは「群魂」説を明らかにし、個々の魂が死後において、類は類によって集まるという法則に従って、群魂となって一つの大きな魂、集団の中へ没入してしまうのだ、ということですが、これは、かつて高橋信次先生が説かれた、魂の兄弟、即ち五体の分身説とはかなり異なる意見と思いますが、死後においても魂は個体と申しましょうか、個別の個性霊として各個に存続するものか、或いは一塊の魂群団を造るのか、これはどうでしょう。
もっとも、その魂の進化程度によっては、或いは動物霊に近いような未発達霊にあっては、一塊の群魂として存続するということは、仮定としては考えられないこともないのですが、この辺いかがでしょうか。
&bold(){日蓮} まず言えることは、今の質問は、あなた方の目指す方向には、さほど意味がないということです。
どちらかと言うならば、興味本位に近い質問です。どちらでもよいのです。そんなことは。あなた方は、現在生き、これから生きていく人類のための哲学を作っていくことです。群魂であろうが、分身であろうが、そんなことは言って分かる人は居ないのでありますし、高橋さんは、いろいろ説いたかも知れませんけれど、あまり本質的なことでもないのです。分身があろうがなかろうが、みんな「神」から分かれた魂でありますから、あまり関係ないのです。
そもそも、創り方がどうであるかということ、みんな一体なんです。すべてが魂の兄弟であり、すべてが神から分かれてきているのです。果たしてそれが五人でできているか、群魂でできているかというようなこと、それは追いおいに、明らかになっていきます。そのためには、あなた方は、もっと、もっとケース・スタディが必要なのです。さまざまな霊たちを通じて、さまざまなことを学んでいく必要があります。それにもう一つは、霊界の法則、霊界の科学法則というもの、まだまだ、あなた方は、基本公式を充分に知っていないために、その公式に基づいたさまざまな現象が理解できない。そうしたことを一つひとつ、学んでいってもらわねばなりません。
群魂とか、分身、本体ということについて私が言うこと、そういうこともあり得ます。どちらか一つが真理で、どちらか一つが真理でないということでもあります。
もっと大きな視点に立って、真理が分かった人なら、そうした質問さえ出てこないということです。
あなたは、まだ三次元的発想にとらわれているんですが、残念ながら私は、あなたにそれを充分に理解させることはできません。
なぜなら、あなたはそちらの世界に居るからです。あなたが私たちの世界に来たならば、そういう質問も出なくなるのです。
&aname(2){}
**2.人類の起源はどこからか。円盤による転移か、進化論によるか
&bold(){善川} いま一つ問題点として残り、納得しかねることは、人間の起源についてでありますが、一体人間は、どこから来たのであるか、或いはまた、何から進化してきたものであるか、という点です。
一つには、人間の魂は、神によって神に似せて創られたものであって、この地球上に現われたのは今から数億年前に、他の惑星から何回か集団で円盤により飛来したものであるという説と、いま一つには、進化論が説く、最初はアメーバから、魚類、両棲類、爬虫類へと進み、哺乳類から漸次進化して今日の人類の祖先に至ったとする説。その肉体の進化過程において魂もまた進化してきたものであるという考え方をとる両論がありまして、シルバー・バーチをして語らしめているハイ・スピリットの意見としては、後者の進化論をとっているようでありますが、果たして、前者説による他惑星からの転移説が正しいのでしょうか。それとも後者の進化論が正しいのでしょうか、お伺いします。
&bold(){日蓮} これも、私は、単純に今、結論を申しません。なぜなら、あなた方は、ひじょうに単純にものごとを考えすぎる。これしかない、と考えてしまうというところがあるから、もっと勉強してみてください。もっと動物霊なら動物霊、或いはいろんな人間がおりましょう。霊たちと接している時に、段々に分かってきます。"日蓮" が言ったら信じるわけですか。私が「進化論」をとれば、そうなんですか、私が反対すればそうなんですか、どうでしょう……?
&bold(){善川} それはそうですが、まあいずれにしても、このシルバー・バーチの説く法は、合理性が高いように思われるわけなんです。
例えば、何百、何千万、或いは、何億という人間が、肉体を持って異星から転移してきたというようなことは、およそ考えられないような状況なので、あなた方一部の人びとが、いわゆる光の天使といわれる方々が転移してきて、後は下等動物から進化してきた人間、或いは堕落すればまた、元の動物霊に返されるのだというような人間がいると、理解されるのですが。
&bold(){日蓮} どちらに答えても、やがて後世に害を及ぼす答えとなってしまいます。どちらに答えても害を及ぼす答えとなります。
もし、私が今、進化論をとり、それに賛同することを言うならば、あなた方は、いろいろな宗教の排撃をうけることになります。
もしまた、進化論を排除して、円盤飛来説をとるなら、さてまた困ることがいろいろと、起きるでありましょう。私たちは、そこまで考えております。
それと、もう一つは、今の質問は、菩薩には、関係のない質問だということです。これは私の上にある「法」なのです。
&bold(){善川} それは、そうでしょうけれども、私たちが、この現象界に生存することの根元的な起源の証を求めたいという心は、私ならずとも、人として自然の願いとなるのではないでしょうか―。
&bold(){日蓮} では、どちらを言えば、あなたは納得するんですか。
&bold(){善川} 私はやはり真実性があるとすれば……。
&bold(){日蓮} どちらでも結構です。あなたがそう思えば、そう思ってください。進化もあれば、移住もあるんです。当然のことです――。そんなことは、大人が目くじらを立てて言うようなことでもないし、言ったところで証明ができることでもないし、世の人びとを納得させることができるわけでもないのです。
どうでもよいのです。そんなことを言っていると、SFかなんかのように思われて、あなた方が眉つばをつけてみられるのが落ちです――。あなた方、一方においてはキリスト教会と全面戦争するつもりはないでしょう。止めておきなさい。
&bold(){善川} しかし、いま一点、これだけはどうしてもはっきりと明らかにしておかなければならぬ問題としては、私は人間の輪廻転生の法則というもの、これは神がわれわれ人間に、厳然と課しておられる霊的進化の法則だということを――。
&bold(){日蓮} 言わねばなりません。当然のことです。もうそんなことは、あなたが考えて、あらゆる機会に、あらゆる表現方法で人びとに説きなさい。
&aname(3){}
**3.過去のことは歴史学者にまかせておけばよい、要はこれからの人類がいかに生きるかにある
&bold(){日蓮} ――要は、こういうことです。地球の歴史は、たかだか三十億、四十億年です。それ以前にも「神」はあり、神の分けみ魂があり、人類に相応するものは、あったということです。しかし、地球ができてから、地球にも生命が誕生したということ、この二つを考えてみるならば、結論は見えるはずです。しかしそれは証明ができない。あなた方には、証明の材料はないのです。私が言ったところで、権威もないのです。それをどうとるかは、あなた方のご自由です。しかしながら、本質的なことでないと、私は思っているということです。
円盤で来ようが、進化しようが、いいのです。どちらでも。それは、歴史学者みたいな、魂の歴史学者にまかせておけばよろしい。あなた方のやるべきことは、既に済んだことではなくて、これからの社会をどうするか、ということにあります。一生つくしても時間は足りないんですよ。
&bold(){善川} そういう意味では、先般インドのマハトマ・ガンジー翁から、これから二十一世紀に向かっての世界の政治経済のあるべき姿等についてご意見をお聴きしましたが、今後も、政治経済担当の天上界の諸霊からのお教えを伺いたいと思っております――。
&bold(){日蓮} 私の言いたいことの本音が、まだあなたには分かっていない。例えば、進化論というものをとって、人間は動物から進化して、そこに魂が入ったものだと考えるとしたら、あなた方の宗教もそういった一つの宗教になってしまう。
これを論証するために、さまざまなことを、やっていかねばならぬようになるのです。
円盤飛来説をとったら、また、この論証もできないのです。これもまた敵を一杯つくります。そういう証明できないことのために、わざわざ問答を起こし、論戦を起こすよりは、もっと建設的なことのために、力を使いなさいということです。そんなことは、どちらでもよいことなのです。
また、魂の進化論をとったら、動物から人間に来たと、あなた方が言ったら、それはまた、さまざまな宗教者たちとの軋轢(あつれき)を起こすでしょう。
円盤飛来説もまた然りであります。これもまた、あなた方が言っていることが、絵空事であって、全然根も葉もないことだというふうに、言われるようになるのです。それがもう見えているのです。
あまり気にされないことです。本質的なことでない枝葉に、あまり入らぬこと。枝葉の争いで、さまざまな、将来あなた方の意見を信ずるべき人が、それを聴いただけで信じなくなるような、そういうような枝葉の争いは捨てておくことです。
そうではないですか、地球が無い前だって神はおられたし、神の魂、神の創られた生命というものは、宇宙にあったのです。あたりまえのことです。
地球が出来た時に、すべての生物が地球に飛来したわけではない。地球を一つの霊場として、いろんなものが生まれたのはあたりまえです。考えれば分かることです。けれども、そうしたことに深入りすると、違った道に進んでしまうということです。
円盤飛来説を言っても、証明できません。絶対にできないのです。しようがないんです。それを聴いただけで、アレルギーを起こす人が出てきます。進化論にして然りです。俺は、ゴリラから出てきたのかという人が出てきます。宗教家の中で、それだけで、あなた方が説いていることすべてが、否定されるようなことも出てくるのです。そうであるなら、そうしたことにあまりかかずらわないことです。
そもそも、この地球自体が、「神」の生命から生まれたものなのです。
他に何かあなたの意見があって、私に、いま少し聞きたいということはありませんか。
&bold(){善川} まだ、いろいろ考えてみたいこともあるのですが、今は、特にありません。今までのお訓えを静かに、自分自身の中で、充分咀嚼(そしゃく)してみて、私自身の血肉とていきたいと考えますので……。
&bold(){日蓮} 結構です。結構です。それが私の願いでもあります。私は、まだまだあなた方が選択のとれるような言い方をしているんです。私としては、こうしなさい、ということが言いたいのです。けれども私は、それを言いません。あなたが、いろんな選択のとれるような言い方をしているのです。それも斟酌(しんしゃく)しておいてください。
先程も申しましたが、「日蓮」がこう言ったから、あなた方がこうしたというのはできるだけ避けたいのです。根本的な精神論、規範論については、私の意見を申しましょう。しかしながら、あなた方の行動の中において、いちいち私が具体的な指針を出すことは、これは避けるに越したことはないのです。
そうしないと、くどいようですが、これはもう何年も前から、私が繰り返し言っているように、あなた方自身の学習と自らの体験によって獲得した、神理把握の力とはなっていかないからです。
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2010-01-13T11:56:50+09:00
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第5章 高次元の精神世界について Part2
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/460.html
**目次
1.[[一定の時空間内での実存者は実在>第5章 高次元の精神世界について Part1#1]]
2.[[三次元世界が空なら、四次元以上の世界も是空>第5章 高次元の精神世界について Part1#2]]
3.[[四次元、五次元世界の生活様式は、三次元世界の延長である>第5章 高次元の精神世界について Part1#3]]
4.[[人間死後、他次元への移行は一律ではない。その人の心性の高低による>第5章 高次元の精神世界について Part1#4]]
5.[[過去世の記憶の消去は死後復活する>第5章 高次元の精神世界について Part1#5]]
6.[[本体、分身の概念について>第5章 高次元の精神世界について Part1#6]]
7.[[物質世界と霊との関係について>第5章 高次元の精神世界について Part1#7]]
8.[[物理学者は三次元の解明のために生まれてきている>第5章 高次元の精神世界について Part2#8]]
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&aname(8){}
**8.物理学者は三次元の解明のために生まれてきている
&bold(){日蓮} 物理学者は、三次元を解明しているのです。私たちは、四次元、五次元、六次元、七次元、八次元、それを解明しているのです。学問のレベルが違うのです。彼らは、ひじょうに幼稚な段階に現在あるのです。現在の物理学を通して、われわれの世界は解明できないのです。われわれの霊的認識は彼らの学問を遥かに凌駕(りょうが)して、彼らの学問などは足元にも及ばない子供の学問なのです。彼らの学問をして、われらを認識することは不可能です。
それをたとえて言うならば、小学生が大学生の学問を理解できるか、ということであります。できないのです。
彼らはひじょうに幼稚な段階なのです。まだ物理学という学問は、たかだか一世紀の学問であります。ひじょうに幼稚なものです。物質を勉強することによって、一体何が分かりますか、幼稚な、ひじょうに幼稚な段階にあるのです。
あなた方にとっては、今、三次元世界にあるあなた方にとっては、ひじょうに先端的な学問かもしれないけれども、私たちの世界からみたら、ひじょうに幼稚な、幼稚な世界なのです。たとえて言うならば、箱庭を造って箱庭の中を研究している研究者たちなのです。われわれはこの地球の広さを知っているのです。この世界の美しさを知っているのです。この地球、この海、太陽、そして山、このような世界を知っているのです。物理学者というのは、一日中箱庭に接して、箱庭の世界を分析しているような人たちなんです。非常に学問のレベルが幼稚なのであります。彼らの学問がどれだけ進もうと、われらの世界からみれば、その認識なり研究なりは、ひじょうに幼稚なものなのです。取るに足りないものなのです。踏みつぶしてもどうということもないのです。分子も、原子も、素粒子もどうというものではないのです。それらはすべて三次元の内における現象学であります。ひじょうに程度の低い学問であります。そのようなものを通しては、本来の「神」というものをつかむということはできないのです。
それは、あなた方の身体の細胞の一部を取り出して、それを拡大鏡、顕微鏡で見て、それをいくら分析したところで、人間が分かりますか、人間が一体どんなものか分かりますか、分からないのです。彼らがやっている仕事は、その程度のものなのです。これは強化さるべきものでありますけれども、それ程大したことでもないのです。私どもは、全然問題にしていないのであります。
ただ、この地上的な学問、文化が発達するということに合わせて、そういうものも出てくるし、それは、それなりで立派なものでありますが、今後とも、伸びていってもよいのでありますが、霊的な観点、神的な観点からみたならば、物理学というようなものは、幼稚園のお絵かきです。その程度なレペルであります。問題外であります。
彼らの学問能力、彼らの学問レベルを通して、われらが世界、われらが思想をつかむことも、斬ることもできないのです。ひじょうにレベルが低いのです。
陽子も、中性子も、反陽子も、そのようなことは、レベルが低いのです。ただ、神の心の現象化にすぎないのであります。それがどのような形で出ようとも、われらは何とも思っておらんのです。
それで、世界が分かったかと思ったら全くの誤りです。
あなた方の細胞をいくら分析したところで、それで人間が分からないと同じように、細胞を分析して人間が分からないというよりも、人間の本質が分からないのであります。
細胞を分析して、そこから類推して、人体というものはある程度分かるかも知れません。しかし、人体が分かったら人間が分かったことになりますか、そうではないはずです。物理学には限界があるのです。ひじょうに幼稚な段階にあるのです。あなたが言っているようなことは非常に物理学が進んできて、われらの世界を解明するところまで来ているような錯覚に陥っているけれども、そうではないのです。全部幼稚な段階であります。そのようなものをもって、われらの世界は解明できないのです。
&bold(){善川} 湯川博士も、また、アインシュタイン博士も、その専門家であったわけでありますけれども、他界されると、霊の世界へ入って、自分たちがやってきたことを振り返っていろいろ考察していることだと思いますが。
&bold(){日蓮} 彼らは、三次元世界の進歩、進化ということを促すために出た霊であります。彼らは「正法」そのものを説くために出た霊ではないのです。この三次元、現象世界を進化させるという目的のために、出た霊であります。そういう意味で違いがあるのです。
ですから、アインシュタイン博士なら、アインシュタイン博士の本来の面目というものは、彼の学問の中には出ていないのです。あくまでも、彼の学問は、この三次元世界を一層進歩させるという、そのことにかかずらわっているのであります。
彼の「相対性理論」というもの、その原理そのものは、われわれの世界では常識論なのです。それだけの学問なり、「世界観」の落差があるということです。三次元で説くから不思議な理論と言われるのです。われわれの世界においては、不思議でも何でもないのであります。
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2010-01-12T15:42:24+09:00
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第5章 高次元の精神世界について Part1
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/459.html
**目次
1.[[一定の時空間内での実存者は実在>第5章 高次元の精神世界について Part1#1]]
2.[[三次元世界が空なら、四次元以上の世界も是空>第5章 高次元の精神世界について Part1#2]]
3.[[四次元、五次元世界の生活様式は、三次元世界の延長である>第5章 高次元の精神世界について Part1#3]]
4.[[人間死後、他次元への移行は一律ではない。その人の心性の高低による>第5章 高次元の精神世界について Part1#4]]
5.[[過去世の記憶の消去は死後復活する>第5章 高次元の精神世界について Part1#5]]
6.[[本体、分身の概念について>第5章 高次元の精神世界について Part1#6]]
7.[[物質世界と霊との関係について>第5章 高次元の精神世界について Part1#7]]
8.[[物理学者は三次元の解明のために生まれてきている>第5章 高次元の精神世界について Part2#8]]
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&aname(1){}
**1.一定の時空間内での実存者は実在
&bold(){善川} 先般、空海大師からお教えを賜った際、大師は、「人間は、人間としての生活をすべきだ―」と、言われたのですが、そのお言葉の中には、ひじょうに、われわれ肉体人間にとって、含蓄深い示唆がかくされているように思われましたのですが、結局、われわれが、この現象界に生まれたということは、生まれ、現に生きているこの肉体人間というものは、その肉体という「衣」を通して、衣を着た、いかにも人間らしい生き方をしなければいけない、というふうに解したのでありますが、そのことは、一面において、その闇なり、氷なり、というものを、一時は認めざるを得ないというふうに、受け取ったのですが、そういう考えでよろしいでしょうか――。
&bold(){日蓮} ―たとえていうなれば、光一元、善一元、という考え方は、こういう考えなのです。ここに氷塊があるとします。私の掌の中に、氷の塊があるとします。氷はあるように見えて、本来は無いのであるという説き方があります。
これは解けて流れて消えてしまうからです。そうでしょう。解けて水になりやがて蒸発して、空気の中に混り見えなくなるでしょう。実在するものなら、無くならないはずです。それが、無くなるように見えるのは、水が実在しないという考え方が、一つにはあるのです。これが善一元、光一元の考えです。それは、ある意味においては正しいのです。
しかし、現に氷が、氷として私の掌の内にあることは、できるのです。これが、やがて、氷でなくなるからといって、氷が無いというわけではない。そうではありませんか。
ここが、ものごとの話の分かれるところです。
一定の時間の中で、一定の形をとる場合、そのものを、「実在」として認めるか、認めないか、ということが議論の分かれ目です。
「氷」も一定の条件の枠の中で、一定の形をとっているということを「実在」と認めるなら、氷は実在でありますが、しかしながら、やがて無くなっていく「無常」なものであるから、氷は氷と仮に見えたとしても、それは仮の相であって、本来そういうものは無いのである。氷は、実在しないのだ、という考えがあります。無常観であります。
そして、「空」といいますか、空、或いは、「無」の思想、そういう考え方があります。その立場に立てば、氷は無いのであります。
ただ、あなた方が、生身の人間として、生きていくうちに、水は実在するか、しないかというなら、ある一期間、やはり「実在」するといわざるを得ません。
しかしながら、永い、永遠の時間の中、物事の本質の問題として考えた場合は、「氷」という形は、今あってもやがてなくなっていくもの、もともと、氷ではなかったものである。そういう大いなる輪廻の相を考えれば、"氷" というものは、仮の相であって、実在でない、という捕え方もあります。
つまり、問題は、永遠不変のもののみが実在なのか、それとも、一定の時間の中に、一定の形をとるものも、実在と認めるかどうかということであります。
一定の期間、一定の時間、一定の形をとるものを、実在とみる見方でやれば、あなた方、肉身の人間も実在です。
しかしながら、本来無いものから、あなた方の肉体人間が生まれ、そして、やがて消えていくものは無常の相であって、一定永遠のものでないということから、実体でないというなら、そうもいえましょう。
本来肉体無し、という考えは、本来「氷」無し、という考え方と同じであります。
しかしながら、氷というものの形、それは、万人が認めることができ、万人が感じることができるものです。
万人が見、万人が感じ、万人が存在を認めるものが存在しない、実在しない、と言い得るかどうかということ、ここも一つの議論です。私の言っていることが分かると思います。
一元論、二元論の分かれ目の時間であります。大きな時間というものからみたならば、善、悪、の二元論はないのです。光一元、善一元、これが真実です。
しかしながら、永遠の時間、というものではなくて、一定の時間というものをとってみた場合には、善も、悪もあるように見え、その一定の時間の中に、同時に存在しているものにとっては、実在であります。
本来、説明している地盤なり、基盤なり、立場、が違うもの同士であるから、互いに論破できるものではありません。
&aname(2){}
**2.三次元世界が空なら、四次元以上の世界も是空
&bold(){善川} そういうお説からするならば、これを仏教的に解釈すると、「色即是空」「空即是色」、「有」即「無」、「無」即「有」ということに要約換言されてよいことになるのでしょうか。しかして「色」は「空」の、「有」は「無」の、根本「法」観の認識に立っての「実在」感としてとらえらるべきだという考えでよろしいでしょうか――。
&bold(){日蓮} もう一度考えてほしいのです。従来の仏教の思想というものは、単に、三次元是空、三次元是無、という思想ではなかったでしょうか。そして四次元以上の世界が、真実の世界であって、三次元は、「空」の世界、仮の世界であるという考えであります。
ところが、四次元の世界も五次元の世界からみたら、空であり、無であります。
五次元の世界も、六次元からみたら、空であり、無であります。そうではありませんか。そうであるなら、本来すべてが「無」い、と言えますが、私たちの住んでいるこの世界、七次元、八次元の世界を「実在」の世界と認めるならば、三次元の世界もまた実在、二次元の世界もまた実在、であります。
私たちの住んでいる世界も、われわれより一段上の世界からみれば、空であり無であるならば、同じことではありませんか。
四次元が実在であり、三次元が空であり無であるならば、四次元も五次元も、六次元から見たら空であり無であるはずです。
そうして、われわれの世界からみた、四次元、五次元、六次元も空であり無であります。
われわれの世界も、また一歩、一段上の世界からみたら、空であり無であるはずです。
それであるなら、私の存在、こう語っている私の実在、それも実在ではなく影であり迷いであり、仮の姿であると言えないこともありません。
そうではありませんか。いずれにせよ、どこに基本の軸をおくかということ、どこにその語るものの立場があるか、ということによって異なるわけです。
四次元が実在であり、或いは、五次元、六次元、七次元がもし実在であるというならば、三次元もまた実在であり、四次元、五次元、六次元、七次元も実在でないというなら、三次元もまた実在でないといえると思います。
それは、どういうことかといえば、神のみ、神のおられる世界のみが実在である。それ以外は、すべて仮といえば仮といえるということです。
だから、あなた方の世界からみて、あなた方の生きている世界が空の世界、無の世界であって、私たちの世界が実在かも知れないというけれど、そういう私たちの世界も神の世界からみれば、空であり無であり仮の世界であります。
何が実在で何が実在でないか、これはひじょうに難しい問題であります。われわれの世界が、神の世界からみて実在であるなら、われわれからみたあなた方の世界も、また実在であります。
&bold(){善川} そこでお尋ねしたいのですが、あなた方は、今、八次元にお出でになるとして、十次元の世界を認識することができる。或いは、六次元の方は、七次元の世界を認識することができる。その認識する方法というものが、明らかにされているのではないでしょうか。
&bold(){日蓮} 明らかとはいかなることでしょう。
&bold(){善川} ―認識できる能力を保有することができるようになるのではないでしょうか。
&bold(){日蓮} あなた方も、私たちのことを認識し得ています。同じような方法であります。
&bold(){善川} いや、私たち肉体人間の場合は、ごく限られた、少数の特異能力を持つものだけでありますが――。
&bold(){日蓮} 同じです。あなた方は、われわれと、話することによって、低次元があるということを認識し得ております。あなた方自身は、生きていながら、われわれの世界に来ることもできなければ、そのような経験を積むこともできないはずです。あくまでも、われわれが三次元で話をしているのです。あなた方がこちらに来ているのではない、そうでしょう。同じように、六次元の人間であっても低次元、七次元、八次元の人間が来て、語ることはでき、彼らの世界を理解することはできるけれども、彼らが、七次元、八次元、に昇っていけるわけではないのです。そういう意味では不自由です。
&bold(){善川} しかし、そうではありますけれども、あなた方、八次元、の方が、直接五次元以下の世界へお出でになって、講習会を開いたり、或いは、説法をされて、同時に不特定多数の人間が認識できるというようなシステムをとられているにかかわらず、この三次元世界の人間だけにはそういうシステムがないということは、いかがなものでしょうか、
&bold(){日蓮} あるのです。システムはあります。光の天使たちがこの地上に出ております。肉体を持つという一つのハンディは負っております。しかし光の天使たちは、肉体を持って、「法」を説いております。同じであります。五次元の人間に対して、六次元、七次元の人間が降りていって、「法」を説いております。同じなんです。
下の次元の人間にとっては、上の次元の人間の生活は分かりにくいのです。彼らが一体どのようなことを考え、何をしようとしているのか分からないのです。
四次元の生活、四次元は幽界、霊界以前と申しましょうか、彼らは、肉体人間界と同じような生活をしております。
しかし、彼らの生活は、われわれの世界からみれば、仮の世界であります。彼らからみたら、われわれの世界は、天上界の世界であります。同じようなことなのです。
&aname(3){}
**3.四次元、五次元世界の生活様式は、三次元世界の延長である
&bold(){善川} ただしかし、例えば、五次元あたりの世界の方であれば、高次元の方のお話される内容が、われわれの世界でいう、テレビとか、そういった形のもので放映されていて、その認識の範囲が広く行き届くというシステムがとられているということですが、この三次元世界では、高次元世界の説法をそういう方法で聞くことができないという不自由さがありますが――。
&bold(){日蓮} ――そうでもありません。同じなんです。四次元の人間も、四次元の中に、神社、仏閣を持っております。彼らも休みの日には、神社へ行ったり、仏閣へ行ったり、或いは教会へ行ったりして、神様のことを祈っておるのです。彼らも分からないのです。神様がどういうものか分からない、仏様がどういうものなのか分からないのです。そして時折、指導者と名乗る者が出てきて、彼らに説教をし、四次元の人間に五次元、六次元の世界を説いているのだけれど、あなた方に私たちが説いているのと同じようで、「ほう、そういう世界があるのかなあー」ということであって、はっきりしないのです。各世界に居る人たちは、自分たちの居る世界が実在であって、それはやむを得ないのです。
高次元の話をしても、やはり、夢、まぼろしのように聞こえてしまって、実感としては分からないのです。
&bold(){善川} ――ところが、先般、紫式部さんをお招きして、この方の現在お住まいになっている世界の模様をお尋ねしたのですが、その時に、式部さんは、「実は先日も、日蓮さんのお話をテレビでお伺いしていたところです――」というようなことなど、いろいろお話したのですが、それをお聞きする限り、私は、その次元が高まるにつれて、その高次元の認識の程度というものが、克明にもっと明確にされる仕組みになっているのではないかと考えたのですが。
&bold(){日蓮} 程度の問題であります。テレビで観るといっても、現象界であなた方が、時代劇で私なり空海さんなりの伝記物を、テレビ番組で観ているように、これも、紫式部の住んでいる世界で創ったテレビ番組かも知れません。あなた方も偉人伝や、歴史物のテレビや映画を観ているはずです。同じようなことかも知れません。
&bold(){善川} それでは、実際に五次元に降りていって、テレビで説法されたという訳ではないのですか。
&bold(){日蓮} ――それは愚問です――。霊界、天上界にも、ひじょうに厳しい段階の差があって、それぞれ、別個の世界になっておって、その断絶は、また激しいのです。例えば幽界の人間がまとっている、幽体とでも申しますか、その霊的な体は、われわれの霊的な体とひじょうに違っているのです。
彼らの霊的な体は、たとえていうならば、われわれから見るとあなた方の肉体と同じなのです。彼らから見れば、私たちは、空気だか、霧だか、霞だか分からないような、そんな体を持っているように感じてしまうのです。それだけの差があるのです。
この現象界と霊界、というふうに二つに分かれるのではないのです。三次元から四次元へ、四次元から五次元へ、それぞれ近いけれども差があります。同じ程度の差があるのです。そういう意味で、三次元がもし空であり無であるとすれば、四次元、また空であり無であるわけで、五次元もまた然り、そういうことが言えるわけです。それぞれ、その立場に立ってものを言うからです。
―あの世―と、ひと言でいうけれど、それは、あなた方がたまたま三次元に居るからそうであって、五次元に居る人間にとっては、六次元以上もまたあの世です。会えないのですから、仕方がありません。似たような生活をしている人たちだけが集まっているのです。そして、上の世界があるということさえも知らない人たちが、一杯いるのです。
現に、四次元に住んでいる人たちなどは、そうです。四次元以上の世界があることなど、知らないのです。彼らは、彼らで、地上生活を営んでいるつもりでいるのです。そして、時折、神様の話とか、仏様の話とかを聞いて、そういう世界が天上にあるのかなあ、と想像しているのです。
&aname(4){}
**4.人間死後、他次元への移行は一律ではない。その人の心性の高低による
&bold(){善川} いま一つ、お尋ねしたいのですが、私たちは、この世の寿命が尽きて他界しますと、まずは四次元の世界へ入って、そこである一定の修行をして五次元へ、そしてまたここである一定の期間修行して六次元の世界へと、こういう過程をとるのでしょうか。
&bold(){日蓮} それは、あなたがどのような一生を送ったか、ということによって変わってくるのです。どのような一生をあなたが送り、どのような心の状態でこの世を去ったかということが肝要です。
&bold(){善川} 人間は、死と同時に、一旦は一様に四次元世界に留まるのではないのですか。
&bold(){日蓮} そうではありません。一直線に如来界に還ってくる人もいるのです。ゴーーダマ・ブッダがそうであったように、イエス・キリストがそうであったように、一直線に彼らは如来界に還ってきました。もう彼らは人間として生きながら、すべてのことを知っているからです。或いは私のように、人間として生きた時に、多くの過ちを犯したたために、こちらで修行をした人間もおります。
&bold(){善川} 天上界において、修行の時期というものもあるのでしょうか。
&bold(){日蓮} そうです。それは各人によって違います。私が十分だと思う期間、私はこの地上での過ちを正すために修行しました。
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**5.過去世の記憶の消去は死後復活する
&bold(){善川} この現象界へ、つまり現時点の三次元の世界へ、あなた方のような高次元の方々が降りてきて指導されるということは、これは特別な意味があるのでしょうか。
&bold(){日蓮} それはもうご承知のはずです。
&bold(){善川} これは、聖人さんが進んでお出でになられるばかりでなしに、その上段階の方々のご指命もあるわけなんでしょうか。
&bold(){日蓮} 私たちが計画したことです。あなた方も計画したのです。一緒に。あなた方も一緒に計画して、地上に出てきているのです。あなたも私に、「しっかり指導を頼む―」といって、六十数年前に生まれてきているのです。その約束を、今、私は果たしているのです。私は約束を違えていないのです。こうして、私が出て、あなたと話をしなければ、あなたが他界して天上界に還ってきてから、「約束が違うじゃないか、ちゃんと指導してくれなかったじやないか―」といって、私はあなたに文句を言われるでしょう。私は、こうしてあなたとの約束を果たしているのです。
&bold(){善川} そういう記憶というものは、私は現在、全く喪失しているわけですが、これは他界すると、再び甦(よみがえ)るのでしょうか。
&bold(){日蓮} 本来の世界へ戻ってくれば、そのとおりです。けれども、地獄や、或いは、幽界あたりで迷っていると戻ってきません。
&bold(){善川} あなたは、私にとって、かつて地上にあった時には、お師匠さんであられたということですが、その時の私の前任者である日朗という人と、現在の私とでは、性格的には、何か開きがありましょうか。
&bold(){日蓮} 性格的には、よく似ております。
&bold(){善川} 一途なところは持っておるのですが、どうも今世においては、効率の悪い生涯で終ってしまうように思うのですが。
&bold(){日蓮} 「日朗」もまた、そう効率のよい生涯を送っているとは言えません。
&bold(){善川} 効率の高い生涯を送られるという方は、これは特殊な人なんでしょうか、
&bold(){日蓮} 私も、今だからこのように、「日蓮」という一定の評価をされていますが、当時は、いろんな山に棲(す)んでいる僧侶のうちの一人にしかすぎなかった。当初は、やま気の多い、僧侶の一人といわれていたわけです。或いは、政治に口を出したり、血の気の多い僧侶だと、思われていました。日朗という人も、そういう血の気の多い坊さんらしくない坊さんに、ただ、この人を信じていこうと思ってついてきただけのことです。当時、それ程、名前のあった人ではありません。
ただ、何百年か経ってみると、私の言ったことの中にも、それなりの、何か酌(く)むべきものがあったという評価が定まってきて、それなら、日蓮という人間の弟子たちも、また、そこそこの考えを持っていた人たちであろうと思われているということです。日朗といわれた方が、どれだけの精神生活を送っていたかということは、そう分かるものではありません。ただ、あなたの、今のあなたの方が、「日朗」の時代よりも恵まれた環境にあるということは確かです。
あなたは、いろんな教え、いろんな如来や菩薩たちの教えを総合して、今勉強できるチャンスを与えられております。しかしながら「日朗」として生まれた時は、単に、日本の国の一地方に生まれて、そこで仏の教えの一派を学んで一生を送ったというに過ぎませんでしたが、今のあなたの経験なり、知識なりは、一層広がっているはずです。
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**6.本体、分身の概念について
&bold(){善川} いま一つ、お尋ねしたいのですが、人間には、本来、本体と分身とがあるという方と、分身、即ち五人の魂の兄弟があって、それらのうちの一人が、交互に現象界に出て魂の修行を積む、ということを聴きますし、また、ある人は、それは数人のように思えるが実は一人であって、その人が名を変えて、ある時代、時代に転生してくるのであって、本来同一人であるというお説もあるのですが、その点についてはいかがでしょうか。個性を持った個別の霊というものがあるのでしょうか。
&bold(){日蓮} これも、今のあなた方の感覚からいくと、ひじょうに理解し難いことです。
どのように説明していいか、それぞれの、地上生活を送った時のあなたは、個性的な魂のあなたとして、大いなる魂の記憶の中には残っているということであります。
日朗としてのあなた、善川三朗としてのあなた、それは、あなたは今、時間としての系列でみているから、その時間の流れの中で、同じものであろうか別なものであろうか、そのように考えているのですけれど、われわれの世界においては、時間はあって、時間は無いのです。それが分かれば、その本体、分身を解く一つの鍵が握れるのです。「日朗」という人は、この現世においては、何百年か前に肉を持った人かも知れません。そういう意味では、あなたと別の人間でありますが。
では、われわれの世界ではどうでしょう。昨日が「日朗」で、今日が「善川三朗」かも知れません。そうでしょう。昨日のあなたと今日のあなたは、同じあなたですか、この質問に答えられますか、明日のあなたと今日のあなたが、同じあなただという証明がつきますか? できないはずです。そういうことです。
&bold(){善川} 次に魂の兄弟、という概念についてお伺いします。実は先般、天上界に私の魂の兄弟で「エビウス」という、今から二千年程前のイスラエルで、イエス様のお弟子の一人として当時のイエス様と行動を共にしたという方がありまして、この方が私の少、青年期の守護霊を務めていてくれた方だとして、いろいろ「法」についての話もしていただいたのですが、このことは、かつてGLAの高橋先生が、本体と五人の分身、つまり、魂の兄弟があると説かれていた概念に相当すると思うのですがいかがでしょうか。
&bold(){日蓮} 私は、そういうものがあるかどうかということを、あなたに語ったとは思っておりませんが、彼を、あなたの魂の兄弟、分身と思うかどうか、それはあなたの自由です。
&bold(){善川} 本人が、私があなたの魂の兄弟だというわけですが。
&bold(){日蓮} それは、証明のできないことです。例えば、私があなたの魂の兄弟だと言ったらどうしますか。
&bold(){善川} それは、今の私には分からないことです。
&bold(){日蓮} 分からないはずです。みんな魂の兄弟なのです。そういう意味においては、元が一つなのですから。一つの親から分かれてきたんですから、一つの親から生まれたんですから、みんな魂の兄弟なんです。私とあなたも兄弟なのです。なぜなら、われわれの父であり、母である神は、われわれすべてを創られたからであります。すべては兄弟であります。
その意味において、魂の兄弟という言葉を、どのように使うかということです。兄弟であるということは、事実であります。すべてが兄弟であります。恐らく、あなたが考えている魂の兄弟というものは、また違う意味での魂の兄弟だろうと思われます。たとえて言うならば、こういうことです。日本に生まれている人間は、すべて魂の兄弟なんですけれども、その中で、特に密接な人がいるかどうかということです。あなたが考えている魂の兄弟というのは、元々創られた時から、あなたに密接な魂として、創られた魂があるかどうかということなのです。
すべてが魂の兄弟なのです。けれども、その中で「善川三朗」という人間が、一つの目的を果たすために必要な、ひじょうに密接な魂の兄弟、仲間たちがいるかいないか、ということだと思います。すべてが魂の兄弟ですから間違いはないのです。絶対に間違いはないのです。
&bold(){善川} それでは、高橋先生の説かれた魂の兄弟論というのも、その個別の生命体があるというのではないのですね。
&bold(){日蓮} 生命体の認識そのものが、今のあなたの認識では理解できないのです。作用としてみることもできます。これは、ある方から、あなたはもう説明を受けているはずです。
存在として五個のりんごがあるように見えるが、物が五つに分かれているように見えることが許されているのか、作用として五通りの作用を出すことが許されているのか。それとも、五個存在するのかどうかというような議論となるのです。例えて言うなら、手の五本の指を、これを五本とみるか、指は指ではないか、指という概念において一つであると、例えばあなたという、指という概念でくくれば、指は一つであります。しかしながら、生き方というものを見たら、五本あると、別々のものだな、しかし指という概念、本質からいえば一つだな、作用の仕方は五つだな、このような違いがある。指としては一つ、指は指なのです。あなたの指ということにおいては、一つなんです。しかしながら親指としての作用、中指としての作用、いろんな作用があるわけです。
同じように、あなたの魂も、あなたの魂としては一つだけれども、働きの仕方としては、幾種類かの働きがあるかも知れない。これは比喩でしか語れません。比喩としてしか語れませんが、そのようなものであります。
&bold(){善川} そうしたら、われわれはこのように現象界に居るために、そういう差別知でものをみる習慣がありますが、けれども、あなたご自身も、あなたご自身の魂の兄弟を差別知で理解してみるということはしないのでしょうか。
&bold(){日蓮} ――一人と思えば、一人なのですし、五人居ると思えば、五人居るのです。そういう捕らえ方です。
&bold(){善川} その五人居ると思えば、五人とおっしゃる、その各人にはみんな、個有名詞があるんでしょうか。
&bold(){日蓮} ですから、八百年前、九百年前のあなたの前任者とあなたとは、ひじょうに時間が離れていると思うから、別の個性だと思うし、今のあなたではないと思うのだけれどもどうだろうか、というけれども、私たちの世界では、七百年前もつい昨日のことであります。それであるなら、昨日のあなたと明日のあなたは、別々のあなたであって、昨日、今日、明日をとっただけで、あなたは三人居るのです。この三人は、どれがあなたですか?、分からないでしょう。
それが、どういうことかというと、昨日という場に現われたあなた、明日という場に現われたあなた。今日という場に現われたあなた、そういうあなたがあるということです。あなたは一つだけれども、働く場と、時によって、あなたは別のものであります。分かるようで、分からないと思います。
これは、難しいはずです。なぜなら、認識のレベルがそこまで来ていないからです。分かり易く言うとするならば、「善川三朗」として、その魂として、目的を果たすために、あなたの魂の兄弟というのは、それだけの作用の数があるということです。そういうふうに考えていいのです。人間のような形をしたものが、五人、六人居るという考え方もできるならば、千手観音のように、千本もの手を持っているというふうに考える場合もあるのです。千手観音は、千人の魂の兄弟があるといえるかも知れません。けれど、一つであります。この作用という考え方は、あなた方の世界からは、ひじょうに分かりにくいことかも知れません。
&bold(){善川} その作用ということについては、今のお説で分かるのですが、私の場合、現に、天上界において、エビウスという、イスラエル時代の、イエス様のお弟子が、図書館様(よう)の役所の館長、もしくは記録係のような仕事をしている魂の兄弟があるということですが、そういう彼の言葉を信ずるということになりますと、これは私とは別個の個性を持った魂が生き、かつ活躍しているのではないかと思われるのですが、これはいかがなものでしょう―。
&bold(){日蓮} それなら、こういう考えはどうしますか、あなたの一〇パーセントの意識が肉体舟を支配して、この人生航路を歩んでいて、本来のあなたの九〇パーセントの意識は天上界に残っている。あなたの本来の意識の九〇パーセントは天上界にあるということ、これをどう理解するかということです。肉体舟をもって修行しているあなたは、あなたの意識の一〇パーセントにしかすぎないということであって、あなたの一部分が、今のあなたと思われる肉体舟で修行をしている。
肉体舟から、あなたが何であるかを逆に推論するから間違っているのです。
あなたは、器の、入物の大きさで計っています。
あなた、そういっているあなた自身は、百パーセントのあなたではないのです。あなたの一部が、あなたと思われる体に入って、あなたのことを語っているのです。
たとえて言えば、あなたはトカゲの尻尾の部分なのです。尻尾のトカゲが、私だけでトカゲなのか、残りの部分もトカゲなのかと言っているようなものです。あなたは自分の意識の残りを天上界に置いてきているのです。意識という形では、難しいかも知れないけれど、あなたは、自分の本来の生命体の一部を使って、いま肉体修行をしているのです。何人かが居るのじゃなくて、何人かが居るのじゃないかと思っているあなた自身が、あなたの一部なのです。あなたのすべてが、そう思っているんじゃないのです。あなたの一部が、そう判断しているのです。
たとえて言うならば、手には手の意識があり、足には足の意識があり、頭には頭の意識がある、と思えばいいのです。そして、あなたという人間は、人間としての意識を持っております。だからあなたは、今それを考え、判断し、私の話を聴こうとしているあなたが、百パーセントのあなただと思っているから、そのような誤解があります。それを思っているあなたは、あなたの一部分のあなたなのです。
&bold(){善川} 今のお話で、本体、分身というこの問題の輪郭が分かりかけたような気がします。今まで何人かの方々が、本体分身の関係について、語ってくれたのですが、各人によってお話のニュアンスが違うように受け取られましたが、それは理解者の理解度によって異なったそれぞれの意味にもとれるのだと思われましたが、そういうことでいいのでしょうか。
&bold(){日蓮} 今話しているあなたが、百パーセントのあなたであるならば、あなた以外に、エビウスという人が居るならば、別の個性であります。別の個性であるのに、魂の兄弟で、一つだというのが分からない、と、あなたはおっしゃることができます。けれども、今、語っているあなたが、あなたの百パーセントではないのです。あなたの一部が語っているのですから、残りの部分があるのは当然です。お分かりになりましたか。
&bold(){善川} 現象界に出て、肉体舟を持っている私の魂が、全休の一〇パーセントとするならば、天上界に残された私個人の、九〇パーセントの本体との交通を、いわゆる魂の肉体離脱という方法で、行うことはできないでしょうか。
&bold(){日蓮} その必要はありません。やがて還るのですからみんな、あなたは三次元という枠の中に今降りてきて、肉体に入っているのですから、三次元の法則の中で生きていかねばならんのです。こういうことは例外なんです。こういうことは、答えを見せられて、問題集を解いていることと同じなんです。本来は邪道です。
こういう私の言葉を聞かずして、あなたはわれわれの世界のことを感じとらなければいけないのです。それが修行であります。答えを教えているのです、私は今。だからあなたは、今、問題を解く力がひじょうになくなってきているんです。
それはそうでしょう。私たちの話を現に聴いて信じるのと、聴かないで信ずるのと、一体、どちらが難しいかといえば、眼にも見せず、聴きもせず、触れもせずして、信じることの方が、遥かに難しいのです。
もう、これ以上何を望まれるのですか、あなたのように、宗教心もあり知識もある人間が、それでまだそのようなことを知ったり、そこまで行かなければ、なかなか確信がいかないというのであるなら、一般の方々はどうですか、彼らはどうですか。どうして神を信じ、仏を信じることができましょうか。彼らよりは、遥かに恵まれております。
&aname(7){}
**7.物質世界と霊との関係について
&bold(){善川} しかし、私たちは、この「精神世界」を、現代人が理解できるように説明しなければならない立場にあるように思うのですが、端的に言って、そのためには、物質の構造なり、物体はいかなる因果律によって、存在しているのであるか、などについて、お尋ねし、それを私の知識に加えたいと思うのです。すべて物質万能と考えている現代人は、恐らく九割を超えるのではないかと思いますが、彼らを説得するためにも、その知識を得たいのですが。
&bold(){日蓮} ――私は、あなたの言葉を聞いて悲しい……。まだ、そんなところで迷っておるのか、まだ、そんな段階で迷っておるのか! われらが、三年以上にわたって説いてきたことを、あなたは、少しでも学んでいるのか。全く分かっていない。今の発言は、全く迷っている。どうして、そちらの方向へ行ってしまうのか、まだ、そんなことを言っている。魂の向いている方向が、違うんじゃないでしょうか、と私は言いたいのです。
下を向いては、上のことは分かりませんよ。
地面を眺めても、太陽は見えませんよ。
霊を知るには、霊しかないのです。
霊のみが、霊を知るのです。
物質は、霊を知らないのです。
霊のみが、霊を知るのです。
&bold(){善川} ありがとうございました―。
&bold(){善川} わが国の湯川秀樹博士は、世界的な物理学者でありますが、この方は、晩年、宗教的なというよりは「精神世界」の存在について、ひじょうな興味を持っておられたということですが、この湯川博士にいろいろお尋ねしたいのですが、お呼び願えましょうか、このお方は今、どこの霊域におられましょうか、
&bold(){日蓮} ちょっと、お待ちください。――湯川博士は、やはり、われわれと同じ世界、菩薩界に居ます。
&bold(){善川} この人は物理学者ですが、亡くなる前に、自分の研究ももうこれから先は神の存在を認めざるを得ない、というところまで達せられたようで、その意味からして、湯川先生に、物理学者としてのお立場からみた宇宙の構造―マクロの世界なり、物質の構造―ミクロの世界なりについて若干お話を伺いたいと思うのですが。
&bold(){日蓮} ―彼はまだ、われわれの霊的世界に充分にはなじんでいない。まだまだ現象界の考えや、物事を取り除くという作業のための修行中であります。まだまだあなた方に、このような形で法を説くような立場にはないということです。まだこちらへ来て日が浅いというあなたの言葉、そのとおりであります。彼もまだ、われらの世界では一年生です。勉強をもっとしなければいけないのです。
&bold(){善川} それでは、物質の最究極の存在とみなされている "陽子" の問題、"クオーク" の問題等について、なおこれらを包括し、存在たらしめている霊の世界、神の存在というものを、論理的にお話しいただけるような方がおられましたらお願いしたいのですが。
&bold(){日蓮} 私は適当な任にないようです。私には充分に答えられる自信がありません。
&bold(){善川} 磁場の問題とか、重力の問題、そして、今、現代物理学が当面している「統一理論」について、どなたかお話願えたらと思いますが。
&bold(){日蓮} ――しかし、あなたに対話、対談するだけの力がおありですか?
&bold(){善川} もちろん私は素人ですが、その私にでも分かるように、それなりのお話が願えたらと思うのですが、要するに現世において、物理学者として、ミクロの世界からマクロの世界にわたって研究しておられていて、他界後天上界に昇られたという方で、現在のお立場で過去世、つまり現象界ですね、この現象界で自分たちが勉強しておられた学問なり研究なりの課題が、今、自分が霊的世界に入って、その立場に立たされて、過去の自分の学問なり研究を顧みて、その畢生(ひっせい)の仕事に対する所見、位置づけがどういう言葉でなされるのかということであります。
&bold(){日蓮} 私の知り合いの方には、それに適した方がおられませんが。
&bold(){善川} 私が案じますには、霊と申しましても、四次元の幽界とか、五次元の霊界とかにおられる方と、七次元以上の菩薩界、如来界に居られる方とでは、相当霊的バイブレーションが違うと思いますが、その下の段階におられる方々については、いわば、荒い波動を出しておられると、それは物質的な表現を用いるならば、エクトプラズム体(電子体)とでも申しますか、何かそういう体を保有して日常を経過しておられるのではないか、また、天上界の方々は、更に高度に精妙な体を持っておられると思うのですが、それがどういう精度の高い霊体を持っておられるのか、そこのところをお聴きしたいのですが。
&bold(){日蓮} あなたは今、大変な誤解をしています。あなたは今自分の五官知、五官知によってこの世界を感じとろうとしています。超えたものなのです。あなたの五感による認識を超えたものなのです。今あなたは、精妙なという言葉を使いました。精妙なという言葉を使って分かったような気分にはなりますけれども、これ以外の説明はできないのです。実際にあなたが、あなたの世界へ来なければ分からないし、またそれ以上の世界へは、行ってみなければ分からないのです。分からない人は永遠に分からないのです。
われわれは、われわれより下の世界は分かります。それより以上の次元の世界は分かりません。あなた方はまだ、三次元におります。三次元に居ながらにしてどこまで認識ができるでありましょうか。
&bold(){善川} しかしまあ、私たちが、今後いろいろな人びとに法を述べ伝えるということになってきますと、いろんな角度からの質問もあり、また私自身も知りたいし、認識したいという希望もあり、また強い意欲もあるのですが。
&bold(){日蓮} 私は、イエス様のお弟子様のペテロという方から、こういうことを聴きました。
彼らは学問がなかったために、イエス様のお教えを人びとに説くのにひじょうに苦労をしました。そして彼ら、ペテロをはじめ他の弟子たちがイエス様に伝道に行きなさいと言われて、「一体イエス様、何を言ったらいいのでしょうか。私たちは何も知らないんです。何も知りません。何も分かりません。先生のお言葉だけを信じて、お伴してきたのです。どうしたらいいのでしょう」とペテロという人はいったそうです。そうしたら、その時にイエス様が、ペテロという人にこうおっしゃったそうです。「汝ら、案ずることなかれ、その場、その場で言うべき然るべき言葉が出てくる。どのように人びとに説教するかというようなことを汝ら案ずることなかれ―」とイエス様に言われたと、ペテロという人は私に語っておられました。同じではないでしょうか。
分からないものは、分からないでいいではないですか。恐らく私たちが語ったところで、例えば専門家の物理学者があなたに質問したら、あなたは答えることはできないでありましょう。私はそう思います。それはそれでよいではないですか。
&bold(){善川} ただ、しかし、私の考えますのは、宗教者として神、仏を説くなら、神仏の位置というものがどこにと……。
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2010-01-12T15:41:37+09:00
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