目次
2.本来悪霊なし
(1989年8月29日の霊示)
1.悪霊の発生原因は陰(かげ)を見つめること
谷口雅春です。
さて、この『悪霊(あくれい)撃退法』という本は、まことに変わった本であって、各諸霊相集って、いかにして悪霊を撃退するかという方法論を展開しているのである。
しかし、私は本来この書物の著者の意図に反して、谷口雅春の言葉を一章つけ加えてもらうことにした。本来、こうした『悪霊撃撃退』の主旨は、悪霊そのものが実往し、それが人間を害するので、何とかしてこれを追い払いたいという思念がもととなっている。それゆえ、こうしたテーマで本をつくるときには、我が光一元の思想は、まったく畑違いのように思われることが多い。
もちろん、生前私は、「本来悪霊なし。本来地獄なし。本来闇なし。光のみ実在」という教えを説いてきた。その考えは現在でもいっこうに変わってはいない。ただ、この点について、生前の私の書物を学んだ者にも、まだ十分得心(とくしん)のいかぬ者もあると思うので、実在界に還(かえ)った私の考え方、これを補足しながら、この悪霊問題について答えておきたいと思う。
これは、生的、五十数年、真実の教えを説き続けた私ではあったが、この霊界の実相部分について、まだまだ言葉足らぬところは残っていると考えるので、この点について我が理論との整合性を十分に考えながら、どのようにしていけばよいのか、これを述べておきたいと思うのである。
私は、悪霊に苦しんでいる人が、この地上には数多くいることを知っている。もちろん、生前にもそれは知っていた。人間が霊的なる存在であり、そしてそのなかに不調和な者、不快な者、いろいろな悩み事を持っている者、こうした者がいることは事実。それゆえに、これになんらかの霊的作用があることも真実であり、霊的な作用あって病になったり、事故になったり、不運になったりすることが多いことも真実。これも、私は知ってはいた。
しかしながら、私はそういうことについて、極力、話をしないようにしてきた。それは、教育的見地からの考えである。人は影に脅(おび)えるという習性がある。不安なことが、少しでも起きると、早くも死ぬのではないか。あるいは自分の人生が真っ暗になるのではないか。そうしたことに脅える。なにゆえに、こうした不安に脅えるという本性があるのであろうか。
それは、あなたがたは動物とか、あるいは魚、虫、こうしたものの習性を見るがよい。秋の空を悠々(ゆうゆう)飛んでいるトンボ、それが草の葉に止まって、そして憩(いこ)っているように見えても、人間が近づけば、彼らはたちまちに飛び去るであろう。それは、彼らは本能的に人間というものに、トンボをつかまえようとしたり、石をぶつけたり、追い払ったりする習性があるものだ、ということを気づいており、そして恐れるがゆえに飛び立つのである。他の魚にしても同じである。悠々と泳いでいても、石ころ一つ、池の中に投げ込まれると慌てて逃げ出す始末となる。
こうしたことは、本来彼らがそういうふうに思って正当である場合と、そうでないものがあることはあなたがたも知っているとおりだ。池に来て、魚を獲ろうと思って行く場合と、単に景色を見に行っている場合と両者ある。したがって、魚たちの取り越し苦労は、半分はイエス、半分ノーというのが正解だ。トンボにしてもそう、子供たちがトンボをとる場合もあれば、いい人人になればトンボをとろうとはしない。しかし、トンボたちは人間が近寄って来たら一律飛び去ろうとする。
こうした動物の本能というものが、人間にも多少残っているらしい。そうして、何か自分に危害を加えるものがあるのではないかという恐れを持つにいたる。それは、ちょうどいま言った例と同じであって、他の人間が多ければ多いほど、近寄ってくればくるほど、自分に何らかの害を与えるのではないか、という考え方を持つのである。したがって、人口密度の多い都会にいればいるほど、そうした悩みの波動、疲労の波動というのは強くなる。他の者が自分を害するのではないか、そういう考え方を持つにいたる。
そもそも、悪霊の発生原因というものは、こうしたものなのである。他の人間を、自分を害する者があるのではないか、自分を悪くするのではないか、と見る、そうしたものの考え方によって、悪霊というものは発生してくるのである。こうした考え方が、人を見たら、それは自分を害する者であると思い、そして人の言葉を聞いては、自分は害される、また人の判断を見ては自分が不利に追いやられる、そのように考えるに至るのである。
こうして、数十年の人生を生きてきて、まさしく自分は他の人に害される人生を生きてきたのである、というふうに思って地上を去る者がある。そして、人間は永遠の生命を生きているから、そうした思いでもって地上を去ったら、いったいどのようになるか、あなたがたはわかるであろうか。地上を去った人間が、そうした思いで地上を去って、しかも幸福に生き続けると思うであろうか。そうではあるまい。生きていたときに、他の人が自分を害し続けていると思った人が地上を去って、そしてあの世に還(かえ)ってきても、他の人びとは自分を幸せにしてくれる、こんな幸福なことはないという悟りを、はたして開くことができると、あなたがたは思うであろうか。そんなことは、けっしてありえないことである。
2.本来悪霊なし
このように、悪霊というものは本来実在するものではないのだ。本来悪霊はない。本来悪霊はなくて、心得(こころえ)違いをしている人間がいるだけなのである。あるいは考え違いをしている霊が存在するだけなのである。そういう霊が、考え違いをして生きているがゆえに、これを悪霊と称する。悪というものは、本来存在するものではないのだ。悪というものは、人と人との間に起きる衝突であり、悪とは間違った時間に現われる現象であり、悪とは間違った場所に現われる現象を言うのである。
たとえば、包丁(ほうちょう)というものがある。この包丁は、主婦が台所にて料理を作るときには、この包丁の役割は善である。しかし、ひとたびこの包丁が子供の遊びに使われたりすると、これが悪になることはわかるであろう。これは、その場所が違うのである。
また時間というものがある。昼間、おまえたちは会社で一生懸命働いていることをもってよしとするであろう。それはよい。ところが、夜中になったら働きたくなり、昼間になったら一日眠くなったら、それはどうであろうか。そうした生活の者もいるであろう。夜中に働くというような生活を持っている人である。こうした人であるならば、そうした生活パターンも善であろうが、通常の会社生活であれば、それは悪となるであろう。このように、すべてものごとは時間というものを間違ったときに悪となるのである。
あるいは人である。ひじょうにフランクな性格であって、他の人とひじょうに仲良く交わり、言葉をかけあって、そして陽気に生きていることをよしとする人もいるであろう。それはそれで、ひじょうによい性格である。善なる性格である。私はそのように思う。しかし、そうした性格であっても、立場をわきまえなければ、これは悪となることは当然である。
たとえば、そこに社長がいるのに、新人社員が、社長を自分の友人と話すとまったく同じように、そのように声をかけ、「やあ、社長、おはようございます。どうですか、きょうは一緒にお昼ごはんでも食べませんか」と、もしそのような言葉をかけたとしたら、その言葉自体には善悪はない、しかしながら、人間関係を考えたときに、その言葉そのものは悪となる。私はそのように思う。
このように、本来悪というものは実在するものでなく、その場所を取り違え、その時間を取り違え、その人を取り違えたときに生ずるものであると言ってよいだろう。また、悪を発生させるその心のあり方においても、その方向性を間違えたときにありうる、発生しうることであると考えてよいだろう。
3.取り越し苦労と持ち越し苦労の愚を悟れ
私は、悪霊の発生原因は主として、まず取り越し苦労と、持ち越し苦労にある、と、この二点を言っておきたいのである。
まず取り越し苦労というのは、゛何かよからぬことが今後起きてくるのではないか。何か悪いことが起きて、そして自分を害するのではないか。このままいくと、何か危険になるのではないのか。たとえば、ばい菌が空中にあるとすれば、そのばい菌を吸うことによって、自分は病気になるのではないか。子供が帰ってくるのが遅ければ、子供はもしかしたら何か事故にあったのではないのか。人さらいにさらわれたのではないのか゛こういうふうに考えるということは、これはまことに取り越し苦労で、母親が一般的にする考えであるが、そうした考えによって、けっして世の中がよくなることはないのである。世の中はけっしてよくならない。
むしろ、その逆であって、みずからの思いがいいものを呼んでくる。すなわち、゛もっと世の中はよくなるしかないのである。もっと幸福になるしかないのである゛そうした考えを持っていると、次第しだいにそのような現象が現われてくるのである。むしろ、母親の思念としては、そうした悪いことが起きることを考えるのではなくて、善きことが起きてくるということを構想すること、これがすばらしいことであるのである。
こうした取り越し苦労が、いかに人類に悪をまいているか、ばい菌をまいているかということは、考えれば考えるほど大きな害である。これが、人類の魂をだめにした例は、あの先の大戦において使われたところの、原爆によって人びとが殺され、あるいは病になった数を、遥(はる)かにしのぐのである、遥かにそれ以上の数の人びとが、こうした取り越し苦労によって狂わされ、また死に追いやられているのである。
もう一つどうしても言っておかねばならないこと。それは、あの有名な持ち越し苦労である。だいたい、そもそも「一目一生」という言葉があるではないか。「その日の苦労は、その日にて足れり」と言うではないか。然るに、人間はその日の苦労をその日で終えることはできない。昨日の苫労を、おとといの苦労を、半年前の苦労を、一年前の苦労をひきずっているのが人間である。あるいは、現在にいたるまでの数十年の人生をそのままひきずっているのが人間であるのだ。そのようにして生きているのだ。
さて、ここで私はあなたがたに問うてみたいのだ。いったいどちらが得であるかを。どちらが神の意にかなっているかというようなことを、私は問わない。いったい、どちらがあなたがたにとって得であるか、そのことを考えてもらいたいと思うのだ。まず、もし三十年間あるいは五十年間、そうした事実があったということ、たとえば自分が不幸になるような事実があったとして、それでもって昨日までの自分が不幸であったから、今日もまた自分は不幸である。そう考えることが、はたして今日一日のあなたを幸福にするであろうか。幸福にするかどうかを、よく考えていただきたいのだ。
そう考えたときに、私は必ずしもそうではないと思う。けっして幸福にはしない。そのような考え方、すなわち今日の一日というものは、神によって新たに与えられた一日であるのだ。神によって与えられた一日が、なぜ、なにゆえに昨日までのそうした思いや思念、出来事によって左右されねばならないのか。もちろん、逆の場合はあるであろう。昨日までひじょうに調和に富み、喜びに満ちた人生を生きてきた人が、その人生の延長として、現在もまた、今日もまたすばらしい日が続くと思うことは悪いことではない。しかし、その逆に、今日もまた悪い日が起きるというならば、それはひじょうに情けない考え方である。私は、そのように思う。
そもそも人間を苦しめている最大の原因は何であるか。それは、人間とは有限の存在であるという考えだ。有限の力しか持っていないという考えだ。自分は肉体の人間であって、肉体人間には限界があるという考えだ。このような考え方が、多くの人間を苦しめ、そしてその力を奪っていく。
4.肉体人間という縛りを解き放て
生前の私のことを、もう一度ここで語ることを許していただこう。私は、結核二期生と言われたようなひ弱(よわ)な体であった。そして胃腸はつねに虚弱であった。そして、何か心配事があると、食べ物を食べることさえできなかった。食べ物を食べればすぐ下痢をするという、そうした私であった。食べ物にさえ恐怖を持つ、そういうことが今のあなたがたに考えられるだろうか。あなたがたはいろいろ悩み事があるであろうが、食べ物を見て恐怖を起こすということは、おそらくないであろう。しかし、我、谷口雅春は食べ物を手にすることさえ恐れるような、そのようなひ弱な男であった。そんなものを食べたら、すぐ体を悪くするのではないか。また胃腸が弱るのではないか。また下痢を起こすのではないか。こんなことを、取り越し苦労し、また体は痩(や)せて細く、生命保険にも入れてくれないような体であったのだ。
その私が、二千数百回という講演会を連綿として続け、また三百冊とも四百冊とも言われる著作を、一生にわたって出し続けてきたのである。この力はいったいどこから出てきたのであるか。それが、諸君にはわかるだろうか。それは、自分はもはや肉体的存在ではない、ということを悟ったことによって、無限の力が渾々(こんこん)、渾々、渾々と湧(わ)き続けてきたのである。
私は、今、ほんとうにそう思う。すなわち、悪霊の発生原因というのは、自分を肉体人間だと限る考え方にある。自分を肉体人間だと思う人間が、地上を去ってのち、いまだ自分は肉体人間だと思っているから、肉体人間として満たされない思いが、次から次へと湧いてきて、そして生きてレる人間を困らせるようなことをするのであろうと思う。もはや肉体もないのに、体が病気であると思ったり、もはや肉体もないのに地位や名誉が欲しいと思ったり、もはや肉体もないのに情欲を起こしたり、もはや肉体もないのに食欲を催したり、このようなことで、彼らは得られないという苦しみで苦しんでいるのだ。
すべて地獄の発生原因は、人間を肉体と見るところにある。このように、肉体人間と見、また自らの能力を、また自らの力を、有限のものとして限るところに、そうした地獄の発生原因があると、私は思うのである。
ゆえに、もし迷える兄弟があなたがたのところに現われて、゛自分はいま悪霊となっている。自分はいま地獄に苦しんでいる。そして、あなたがたにとり憑(つ)いて、あなたがたも苦しめたいと思う。あなたがたを病気にし、あなたがたの事業を破産させ、あなたがたを死に至らしめるようにしたいと思う。そのような死に神の役割を果たしたいと思う゛と、もしそうした迷える兄弟が、あなたがたに語りかけてくることがあったとしても、断々乎(だんだんこ)としてその考え方を排除ぜねばならん。私は、そのように思う。
それは、彼らの間違った考え方にあるのである。あなたがたは一喝せねばならん。本来肉体はないということを知らねばならん、と一喝せねばならん。
あなたがたは、死んだあなたがたは、まだ自分たちは肉体に宿っていると思うのか。そういう考えこそが、あなたがたが地獄霊になったその原因であるのだ。本来肉体はないということを悟れ。本来肉体がないとすれば、あなたがたの存在は何であるか。それは魂のみではないか。魂しか存在しないのではないか。魂はけっして傷つくことがないということを知っているのか。魂が傷つくことがないということは、魂は病むことがないということなのだ。おまえたちの大部分は、病気で苦しみながら死んだと思っているかもしれないが、それは物質の我であって、魂の我はけっして病によって傷つき苦しむことはないのである。
今、おまえは心臓病で苦しいんだと言い、今おまえは交通事故で死んだといい、今おまえはけっして治らない不治の病の結果地上を去ったといい、癌(がん)で死んだといい、さまざまなことで自分は苦しいんだと言う。その苦しみを救って欲しいから、地上の人間に救いの手を差し延べて欲しいと頓んでいるのに、それを頼むことのいったいどこが悪いのか、というかもしれない。
しかし、私は言おう。それは間違っているのだ。それは、自分を有限な人間だと思い、肉体人間だと思っているからこそ、間違っているのだ。そういう間違った考えのもとに苦しんでいるということは、大宇宙の法則からいっても、しごく当然なことであるのだ。みすがらが、その人時処(にんじしょ)、すなわち人と時と場所を間違えて、悪をつくり出した場合に、その悪そのものは実在しないのであるが、一見存在するように見えることはある。しかし、そうした、それは場所の取り違えなのである。考え方の履(は)き違いなのである。それは、本人自身が自覚するしか、方法はないではないか。
ゆえに、悪霊の撃退法の最善のものは、私はけっして彼らを取り払うことにはないと思える。彼らをお祓(はら)いしたり、除霊したり、そんなことによって悪霊を最終的に撃退できるとは思わない。私はむしろ彼らに人間としての、本当の生き方に目覚めさせることが大事だと思える。人間として、ほんとうにどのように生きねばならないのか。どのような心がけで生きてゆかねばならないのか。人間とは本質的にどのようなものであるのか。それを悟ることこそが大事なことだと思えるのである。
5.まずみずからが確固たる霊的人生観を打ち立てること
そうしてみると、こうしたことを知らせるということは、悪霊あるいは地上を去った人間に知らせることのみが大事なことではない。むしろ、生きている人間自身がそのことにいち早く気づく必要がある。もし、悪霊を撃退したいと思っても、その願っている人自身が、こうした生命の真実、霊の真実、神理の真実を知らないならば、いかにしてそれを、彼らに諭(さと)すことができるであろうか。まず地上に生きているあなたがたが、神理を知ることだ。
一日のうち、心に去来する思いを点検せよ。そして、その思いのうち、肉体に発する思いが多いならば、それはひじょうに地獄的なる思いであるということを反省しなさい。もちろん、肉体がある以上、これに影響されることはあるであろうが、できうるかぎり肉体的な意識、肉体的な思いというものを最小限にし、霊の思いを全開していくこと。可能なかぎり、百パーセントに近づけていくこと。これこそが、大事なことであるのだ。霊の思いを百パーセントに近づけていくこと、これこそが可能なことであるのだ。
こうすることによって、私がまず大事であるということは、悪霊予備軍をなくしていくことだと思う。やがて地上を去ったときに、悪霊となるのは、他ならない地上に現在生きているあなたがたであるのだ。あなたがたのうち、いかなる人びとがそうした悪霊になるであろうか。それをあなたがたはわかるであろうか。私はあなたがたに言っておく。そうした悪霊になる人びとは、すなわち心のなかにおいて、肉体こそ我と思っている人間なのだということだ。
それで、簡単に言うならば、まず二点を心がけてほしい。
まず第一点は、自分が悪霊にならないための心がけだ。それは、本日より肉体人間ではないという考え方を強く打ち出すことだ。霊的な人間としての人生観をまず持つことだ。
第二点は、悪霊とおぼしきものがみずからにかかってきたとしても、彼らの間違いは、みずから、が肉体人間だと思い、そのことに思いわずらっているからなのだということなのだ。
6.みすがらの思いに敏感であれ
そうして、一応これが大事な大事な出発点であり、八割、九割の人ができていない出発点であるのだが、さらに次に大事なことは、霊波と霊波の感応(かんのう)というものの考え方であるのだ。悪霊というものを引きつけているその原因は、間違いなく地上の人間の思いの波動にある。あなたがたは、ひょっこりとある場所で、そうした迷いの霊波にひっかかることがある。たとえば道を歩いていて、たとえば雑踏で、たとえば職場で、たとえば神社仏閣で、いろいろな所を歩いていて、ふとそうした迷いの想念があなたがたに伝わってくることがある。それは、あなたがたに少しでも弱みがあると、すなわちそうした迷いの想念を引き入れるだけのものがあると、そうした素地(そじ)があると、彼らによってつけ込まれてくるのである。
ところが、悲しいことに、こうした迷いの想念が自分を現在惑(まど)わそうとしているにもかかわらず、その者の考えを自分自身の考えであると、このように考えがちなのだ。これが、まことに怖(こわ)いところなのだ。あなたがたのうち、よくよく考えてみられたらよいが、ある時突然に自分の考えが変わってしまったように思えることがあるだろう。突然に物悲しくなる。突然に悲観的になる。突然に人生が暗く見える。突然、何もかもがいやになる。突然、やる気がなくなる。突然、体がだるくなる。突然、ほんとうに自分自身がなくなる。こうしたことが出てこないだろうか。それも、ある日突然であり、一日のうちのある時突然である。
なぜそういうことになるか。これをよくよく考えてみられるがよい。これは、空中にさまよっているところの、そうした迷いの想念の一切れが、一片が、ちょうどあなたの頭にかかってきたのだ。そして、その雲が、通り過ぎることなく、粘着質であなたがたの頭に付着しているのだ。そう思わねばならない。あなたのなかにも、そうした迷いの想念を引きつけるだけの、そうした蝿取(はえと)り紙のような接着作用があったということなのだ。
ゆえに、こうした迷いの想念を受けぬようにせねばならない。突如悲しくなったり、突如ほんとうに自分自身に自信がなくなったり、突如、何もかも投げ出したくなったときには、これは目分自身の考えではないということを、明確に心のなかに思わなければならない。これは自分の考えではない、これは他の者が来て、自分をそう思わせているのだ。そういうことを、知らねばならない。他の者から来た考えと、自分自身の考えとを明確に峻別(しゅんべつ)せねばならない。そのことを知ったということが、まず第一歩である。
さすれば、次にどうしたらよいのか。迷いの想念を引き受けるのは、それだけの波長を自分も一部に持っているということだ。その波長が、迷いの想念を受けることによって、増幅され、人生が暗く見え、不幸に見えてきているということなのだ。
さすれば、そうした迷いの想念を断々乎(だんだんこ)として排除するために、立ち上がらねばならない。そうするためにはどうすればよいのか。迷いの想念とまったく逆の思いを出すということが大事だ。そのまったく逆の思いとは、いったい何であるか。
7.未来への希望と人生の自信を把握せよ
私はまず言おう。自分の人生に自信を持ちなさい。自分はすばらしい人間だと思いなさい。なぜならば、自分は神の子だからです。すばらしい自分である。そして、自分には能力があふれているのである。自分には知恵があふれているのである。自分には叡智(えいち)があふれているのである。自分は勇気にあふれているのである。自分は希望にあふれているのである。自分の前途は、未来は光に輝いているのである。これよりのち、よきことしか起きないのである。悪しきことは、けっしてこないのである。まずこれを断々乎として思うことだ。
そして、自分は神より偉大な力をいただいているのだ。この力は、使い減りするということは、けっしてないのだ。使えば使うほど出てくる力なのだ。肉体の疲れということは、けっしてない。病など、絶対にかからない。かかったかに思うが、それは、思いの間違いである。真実の神の光を受け続けたならば、勇気凛々(りんりん)として、日々力強く生きていくことができるのである。
たいてい、こうした光の実相を曇らせているのは、地上の人間の怠惰(たいだ)な心であったり、臆病(おくびょう)な心であったり、また現状維持をよしとする心であったり、むざむざこうした迷いの想念を受け入れて、それをよしとしている心であるのだ。迷いの想念を受け入れてよしとしている心は何であるか、というと発展を思わない心である。それは、自分が生きやすく、楽になりたいという心である。こうした心が、迷いの想念を受け入れて、それをよしとしているのである。
現状維持をよいと思うな。現状は打破せねばならん。あの蝉(せみ)でさえ、羽化登仙(うかとうせん)してゆくではないか。何年も土のなかにあって、やがてあるときにこの土中を出て、木に登り、そして木の途中において止まり、その殼を脱いで大空を飛び舞うではないか。また蝶(ちょう)にしてもそうだ。あのみじめな青虫が、やがてさなぎとなり、さなぎとなって休眠していたかに見えて、やがてさなぎからは見事な蝶が現われてくる。そして、大空を飛んでいくではないか。
青虫は自分の姿を鏡に映して、「自分はこんなに醜い姿だ。世にも醜い動物だ。自分には醜い足がいっぱいある。自分の顔は醜い。自分のこの皮膚の色、この縞(しま)模様、どれをとっても醜い。この地上でいちばん醜いものだ」と考えることもできるであろう。しかも、「自分は動くことさえこれだけ困難な体をしている。自由自在の力がない。ほんとうに不自由であり、ぶざまであり、この世で最悪の存在だ」と、彼らは自分のことを思うことができるであろう。
そうした青虫が、やがてもっと気の滅入るような事実に出くわす。青虫はやがてさなぎになる。さなぎになる過程によって、彼らはもっとショックを受けるであろう。青虫のときは、自分は世界最低の存在だと思っていたが、じつはもっと悪くなってしまった。すなわち、さなぎになって、今度は手足さえなくなってしまった。動くことさえできなくなったのである。さなぎはひじょうに見苦しい形である。しかも動くことさえできない。外から攻撃を受けたら、ひとたまりもない。そんな存在になってしまうのだ。世界最悪と思っていたものが、もっと悪くなる。
そして、ああこれで自分の人生ももう終わりかと思えば、そのときに、やがて自分の体のなかに、大きな変化が起きてくる。その変化とは何か。脱皮だ。そのさなぎの殼を破って、次第しだいにあやしげなものが背中に出てくる。この背中から出てくるものは、いったい何であろうか。まだ、さなぎには十分にわからない。そして、やがて頭の部分が割れて、自分の頭が出てくる。このさわやかな空気はいったい何なのだろうか。そして胴体が出てくる。足が出てくる。外の空気は新鮮だ。ひじょうにおいしく感じる。何だろう、この気持ちのよい香りは。何だろう、この暖かい、この陽射しは。何だろう、この心地好い花の蜜の香りは。その蜜の香りがする方に行きたいと念ずる。すると背中についていた羽が、いつしかパタパタと空をたたき、そしてその身をはるかなる青空へと持ち上げていく。
こうして自分が蝶になったことを知ったさなぎは驚く。青虫だと思って、あれだけ自分をいじめていた、またさなぎになって人生を絶望した、その私が今、大空を飛び、花から花へと蜜を取って歩くようになった。ああ、自分の今までの自己イメージはまったくの間違いであった。こういうことを悟るようになるのである。
すなわち、蝶でさえ、これだけの幸福を満喫しているのである。しかるに、万物の霊長である人間が、なぜそれほどみじめな生き方ができるであろうか。もし、あなたがたが、現在の自分を見て、青虫のようだと思ったなら、あるいは現在の自分を見て、これがさなぎのようだと思ったならば、諦(あきら)めてはならない。必ずや、羽化登仙する日がくるのだ。その至福(しふく)の時がくるのだ。
8.光明思想で闇(やみ)を打ち消せ
それは、地上に生きているあなたがただけではない。悪霊と言われている霊人たちもそうだ。自分たちは、醜いみのむしだと思っているかもしれない。醜い青虫だと思っているかもしれない。しかしながら、自分たちは、必ずやいつの日か、この殼を破って大空に飛べる人間となる日が来るということを知らねばならない。
それゆえに、もしあなたがたのなかで、霊的な能力を持って、霊人たちに語ることができる人がいるならば、彼らが来たときに、彼らを単に撃退するのみならず諭(さと)してやるがよい。
「あなたがたは、いま醜い姿をとっているが、それを自分自身のほんとうの姿だと思って自暴自棄(じぼうじき)になってはならぬ。断じてなってはならぬ。それは一時期の姿なのだ。過渡期の姿なのだ。あなたがたもやがては、すばらしい人間となって、すばらしい霊となって、霊天上界にはばたくようになるのである。それを私は知っている。確信している。どうか、心改めよ。迷いの時期はそう長くは続かない。みすがらが、そうした希望の時代に入ろうとして、努力するときに、決意するときに、道は開けていくのだ。どうか、おまえたちは、これ以上自分たちをいじめてはならない。惨(みじ)めに思ってはならない。自分たちが惨めであるから、他の人間まで巻き添えにしようなどと思ってはならない。人間の本質は善であり、光であり、光明であり、希望である。それは人間である以上、あなたがたもそうであるということだ。今、そうした皮をかぶっていたとしても、ぶよぶよとした皮膚を持っていたとしても、必ずや大空を飛ぶようになるであろう。私はそれを信ずる。兄弟よ、友よ、先祖よ、わが言葉をよく聞け。あなたがたは、必ず希望に満ちた旅立ちをするであろう。私も、そうした旅立ちをするつもりである」
こうしたことを、力強く言うことだと私は思う。
そうして、まず明るく人生を考えることだ。この光明の思念こそあれば、悪霊に悩まされることはないであろう。悪霊、が来るときには、必ず光明思念をもって闘え。
闇(やみ)を消そうと思っても闇は消えない。闇を消そうとして、聞をたたいても闇は消えないのだ。開を消そうと思ったならば、光を掲げよ。ローソクを掲げよ。炎を掲げよ。さすれば、闇は消えるのだ。
あなたがたは、闇を消そうとして奔走しすぎているように、私には見える。
まず光を灯(とも)せ、みずからの内に。まず光を灯せ、みすがらの家庭のなかに。まず光を灯せ、あなたの職場に。光を灯せ、あなたの社会に。あなたの国家に。
さすれば闇は消えていくであろう。
闇と闘うより、ローソクの本数を一本一本と増やすことに努力せよ。さすれば、必ず世の中はよくなっていくであろう。
家庭のなかに悪が満ちているならば、病人が出、事故が出、そうして悩みに満ちているならば、ローソクを点(つ)けよ。明るいことを、一つでも二つでも重ねていけ。さすれば必ず闇は退散するであろう。
これこそが究極の悪霊の撃退法であると、私は信ずるものである。