目次
1.悟りの奥行き
3.悟りの道標
5.悟りの武者修行
10.「ピンの発見」と「正見」
11.自分のピン・他人のピン
12.阿羅漢の心
13.阿羅漢・不退転そして如心
14.如心と観自在力
16.霊速度とのギャップ
17.神通力
19.如来界の悟りとは
21.釈迦の悟りについて
22.神理学習の時代へ向けて
23.九次元の悟りの三つの条件
24.超能力信仰と読心力
25.九次元霊を順番に出す意味
13.阿羅漢・不退転そして如心
さて、次に如心という段階について話をいたします。このあたりから少し難しくなります。阿羅漢のことについてよく聞いておられる方は、だいたい感じとしてつかめているかと思いますが、如心あたりから、少しわかりにくい感じになってくると思います。
一九八七年の五月の研修において、阿羅漢の少し上にある段階、具体的にいいますと、不退転という段階があるというお話をしたことがあります。阿羅漢の段階では前述のように、まだ心が揺れて逆戻りすることがあるのですが、不退転の段階に入ると、もう逆戻りしなくなります。多少の波風が立っても、もう戻らないという強い部分があります。これが菩薩への第一歩です。
そして、この如心というのは不退転の奥にある境地で、さらに進化した世界です。この如心にも、実はいろいろな段階があり、バラエティーがあるのです。『観自在力』のほうには、如心を如来の悟りとして主に私は話をしてみたのでありますが、実にさまざまな段階があるのです。これは、みなさん全体が阿羅漢のレベルぐらいにならなければ、この如心のバラエティーや段階などを言っても通じないと思います。ですから、みなさんが阿羅漢に到達して、もう菩薩も近いなということになれば、如心の第一段階、第二段階、第三段階というように説明していくとひじょうに勉強になるのでありますが、今の段階では、説明してもあまり意味がないと思います。
ですから大まかに言って、菩薩界の第一段階の如心の感じと、如来界での如心という話をしてゆきたいと思っています。ここではまず、阿羅漢と如心との違いを語ってまいりましょう。
①阿羅漢とは
阿羅漢は、まだ守護霊と交流可能な境地にすぎないということが言われています。したがって阿羅漢へはだれでもいけるということで、ここまでは多くの人びとの共通の目標になっています。自分の守護霊と同通するというのは、本来、自分の到達しうる可能性があるところです。
ここまではもともと可能性があるのですから、ようするに上へあがっていく過程であると考えなくてもよいのです。自分の庭に埋もれているものを掘り出すと考えてもよいのです。そこに宝の箱、あるいは金塊が埋まっていて、浅さ深さはいろいろあるのでしょうが、もともと自分で埋めこんできたところなので、掘ればカチンと当たって出てくるという段階だということです。ですからこれはみなさんにも十分可能性があるということです。しかし、この上は少し難しくなってまいります。
②不退転への心のそなえ
たとえば、真の宗教指導者のもとで、それまで阿羅漢の境地に達した弟子がたくさん育ったとします。けれども、その指導者が死去したときに、そのようなお弟子さんたちであっても勝手なことを言い出して教団がバラバラになったりすることがあるわけです。どこかの団体のことを言っているのではないかと思う人もいらっしゃいますので、あまり深読みされると困るのでありますが、いわゆる特定のところを言うつもりで書いているわけではありません。
さらに『太陽の法』にも書かれておりますように、「ある一つの修行方法を通して、ある程度悟った者が迷いはじめるのは、それ以外の教え、ほかの修行方法に対する心のそなえができていないからなのです。」ということがあるのです。ですから阿羅漢に達するまでの導き方においては、わりに一つのことを教えて連れてくるということも可能なのです。ひじょうに知識的には狭い範囲で修行を与えても、それなりに修行をつんできますと阿羅漢まで来ることは可能なのです。
ですから、禅の修行などでもそうです。神理知識的には大したことを教わっているとは、とうてい思えないのでありますが、とにかく禅寺に何年か行って、心を調和して澄んだ心になるところまでうまく行けば、阿羅漢にまでは来れるのです。それ以上はないのですが、これぐらいまでは可能性があるのです。禅以外の世界でもこれは十分ありえます。
そうしてみますと、その一つの方法論にはとらわれているわけでありますが、先生が亡くなった場合に、その先生の教えの領域外のものがもし出てきたときに、いったいどうすればいいのかさっぱりわからなくなります。価値判断ができないのです。マザー・テレサの話もいたしましたけれども、マザー・テレサに、通訳を通してもいいのでありますが、もし彼女に私たちの話を聞かせたとしても、それが理解できるかと言えば、たぶんわからないと思います。彼女自身はもちろん阿羅漢の悟りではなく、さらに高い菩薩の悟りをじゅうぶん得ていますが、それでもわかるかと言えばやはりわからない部分もそうとうあると思います。
それは幅の狭さの部分です。ですから彼女の弟子ならばさらに何をいわんやで、わからないのです。キリスト教系の人は特にそのようなことがあるようです。ほかの考え方や教えについての寛容さがないのと、理解する材料がそもそも与えられていないということがあります。
それは考えの量が少ないということも原因の一つとしてあるのです。イエス様が三年間説いたけれども、その教えの量が聖書のなかのあの程度になっています。聖書のなかには、いろいろな種類の福音書がありますが、イエスを囲む背景的な描写が多く、一冊に盛られているイエスの説かれた純粋な神理の内容はどのくらいかというと、当然ながら本書の一冊分もないかもしれません。
ですから、そこに書かれている以外のことを読み取るということはひじょうに難しいのです。先生が生きていれば、いろいろなことを聞けば明確な答えが返ってくるのでわかりますし、判断ができるのですが、先生がいなくなればわからなくなるのです。そのようなことがあります。いろいろな教えをはかる心の物差しがじゅうぶんにできていないということです。
③教えの体系化の意義
この点はひじょうによく考えています。はじめたばかりの団体ではありますが、私が死んだあとのことまでもう考えてやっているわけで、死んだあとでそのようにならないようにすでにじゅうぶん考えています。そのためには、教えというものを明確に体系化して、それぞれについての見解をはっきりしておく必要があるということです。
それと、学習方法、指導方法というのを確立しておかなければならないのです。勉強のしかたと指導の方法、これを確立しておけば、あとが混乱しないのです。ここの確立を怠ると、あとで組織がガタガタになってしまいます。それはどこでもいっしょです。一人のスーパーマンだけの意見についていって、いざ、そのスーパーマンがいなくなったときは、あたかも船頭がいなくなった舟のように転覆してしまうのです。
私にはもう最初からそれがはっきりわかっているので、教えのレベルの差、段階として、初級・中級・上級というように分けたり、あるいはもう少し細分化してこれをはっきりどの次元の法、教えであるかということや、そしてそのなかにはどのようなバラエティーがあるのか、ということを明確にしようとしています。また、その学習の方法と教え方をどうするのか、このあたりをかっちりと固めていくつもりでおります。あと何千年はもたないかもしれませんが、二千年くらいはもたせるつもりで考えています。
阿羅漢についての考え方は各種小冊子にもよく出ているので参考にしていただければ幸いです。
14.如心と観自在力
如心について『太陽の法』では、「如心とは、自らの守護霊以上の霊格をもつ高級神霊界の指導を受けられる段階、すなわち、指導霊と霊的交流ができる段階です。この指導霊とは、七次元菩薩以上の高級霊たちであります。」と、このように一応は定義しています。しかし、これは一つの考え方で、もちろんこれ以外に如心についての考え方はたくさんあります。
この如心とは、どういうことかといいますと、心というもの、それは人間の心もあるし、自分の心、他人の心、高級霊の心、神の心もありますが、そのような心というものの全体について、手に取るようにわかってくることを如心というのです。まさに読んで字のごとく、心の如しと書いてありますが、そのようにいろいろな心というものの働きがわかってくる段階のことを如心と言うわけです。自分の心もそうであるし、人の心、それから高級霊の心、神の心、だいたい心というものがどういうものかということが、スーッとわかってくる感じになれば如心に達したと言えるわけです。
この、わかってくるという段階に差があるのは当然でありますが、小さな心だけではなく、全般的な心というものの感じがわかってくるのです。それはちょうどレーダーのように、ずっとはりめぐらせて心とは何かがわかってくる感じです。このような段階が如心の最初の段階なのです。そうなるためには、やはりある程度は菩薩クラスの指導霊たちの影響が出てこないと、なかなかそう簡単には実現しないということです。
阿羅漢の上ぐらいにある如心の説明としては、魔が寄りつけなくなるとか、心がいつも謙虚で高ぶることなく、他人に対する奉仕に生きていますと、このようなことがあげられます。いわゆる菩薩の自覚の部分の如心についていうと、このようになります。
それと如心のもう一つの面も、『太陽の法』では「観自在に近づいてくると居ながらにして、何百キロも離れている人のことが手にとるようにわかるということです。たとえば、ある人の名前を見ただけで、たとえ地球の裏側にいる人であったとしても、その人の現在の心境、悩み、憑依霊、前世、前々世、前々々世、未来世までが一瞬にしてわかるようになります。」と説明されておりますように、このあたりは観自在にだいぶ近づいてきています。如心の段階のなかには、広い意味での観自在が入っているのです。
この関係をどのように感じ取るかということなのでありますが、わかりやすく図示いたしますと、五、六、七、八、九、十次元という段階があります。観自在能力というのは六次元あたりから基点を発して、上へゆくほどだんだん大きくなってまいります。如心というのは、どうかといいますと、図のような範囲で存在しているという感じなのです。観自在能力というのは究極の神に向かって発達していく能力のことをいうので、上へいくほどどんどんと広がってゆくわけです。
この如心がなぜこのあたりの段階にあるかといいますと、やはりこれは多少人間的感覚をさして言っていることは事実なのです。多少なりに、心がわかるという感じであるからなのです。ですから、だいたい七、八次元のこのぐらいの領域にレーダーのように器としての如心という段階が存在します。
観自在能力というのは(狭義の観自在能力というものはこのあたりのことで話をします)、霊的能力のなかで上のはるかなる高次元から縦長にズーッと入っています。如心というのは、主としてだいたいこの七、八次元領域のことを言います。すなわちこのあたりの霊域がいちばん人間の心とは何かというのを考える部分なのです。この七次元の菩薩界、八次元の如来界、このあたりが心とはなにかということを深く考えるところなのです。「正しき心の探究」と言っておりますが、このあたりが心についてのほんとうの中心領域といますか、勉強の中核なのです。
観自在のほうは、心とは何かということではなくて、もう少し多方面にわたった能力的なものを言うのです。このあたりに質的な違いがあります。講師補セミナーくらいになりますと詳しい話もできますので、早く講師補になっていただきたいと思います。
これが第一段階の如心の話です。観自在の話のなかで、次の段階の如心の話をしてみたいと思います。『太陽の法』では「如心というは、霊道をひらいた菩薩の心境だといってもいいでしょう。あるいは、如心とは、如来界の人の悟りだともいえます。」と、こう書いてあります。ここでは、多少矛盾するような言い方をしておりますが、これは最初の段階の如心が、霊道を開いた菩薩の心境をさしていっています。
次の如来界の人の悟りというのは、この如心という言葉が如来の心というような、そのような意味での如心になってまいります。ちょっと違ってくるのです。
15.ネガ・フイルムによる三次元世界の未来予知
さて、この如心、観自在力の話でありますが、これは地上界で悟りを開いた方のことばかりではなくて、あの世においてももちろんそのようなことはあります。
そしてあの世の霊なら何もかもわかるかといいますと、そうではなくて、そのわかる範囲や程度においてはそうとうの差があります。ですから、この点を注意しないと、地上にいる人は混乱をすることになるということです。
その典型的な例として、予知の話があります。一九八九年の四月に『ノストラダムスの新予言』のセミナーを開催いたしましたが、そのときにも予知のことについては、ご説明いたしました。ここでは、未来には確定的事件と流動的事件があるということが大切なところです。すなわち、決定済みのことと、このままいけばこうなるであろうという予測的な段階があるということです。
この流動的事件に関しては、地上人の努力、守護・指導霊の努力で変更が可能な部分であり、この点については天上界の霊の予言もはずれることがあります。
私もいろいろな守護霊と話をしていて、予言のことを考えるときに、だいたい明らかになってきたといいますか、彼らが感じていることと、地上の人間が感じることのイメージの違いというのがわかってきました。この天上界の霊が思っている予知、あるいは未来のビジョンというものは、地上世界にあるものでたとえるならば、写真のネガ・フィルムのようなものなのです。
したがって、あの世の世界から見ていて「あ、こうなる。」というような明日の地上界のビジョンというものが、白黒テレビや白黒写真のネガのように見えるわけです。ところが実際、地上に出てくるときには、これがカラー写真に変わってくるのです。このあたりのところに違いが出てくる原因があるのです。
ですから、彼らにしてみれば、だいたいこのようになるだろうということは印象としてわかるのですが、この写真が具体的に現像されてみるとどうなるかというところで多少違うことがあるのです。このフィルムのネガの一コマ、これを見て「ああ、このようなものだろう。」と思って言ってくるのです。ところがこれを実際に焼いてみますと、いろいろと変わってくるのです。色もカラフルになってきます。これは具体性を帯びてくることを意味しますし、それで、印象の差もずいぶんと大きくなったりします。
このように、いろいろと違いがあるので、彼らに未来のことを聞いたときには、このネガのような感じでビジョンが見えているという推測がつくわけです。ところがこのビジョンであっても、さらに気をつけなければならないことは、時間の座標軸のなかにもズレがあるということです。十年後のことが、彼らにはほんとうにすぐ近くに起きるように感じていることもあるのです。ネガの段階で見てしまうがために、三次元的展開になったときにどのような段階をへて具体性を帯びてくるのかというところが、ひじょうにわかりにくいのです。
はじめてから二年半くらいになります。この間、私も人間的にいろいろと努力して行なったこともありますし、指導霊たちのアドバイスを受けて行なったこともあります。指導霊たちのアドバイスを受けていて、結果はそのとおりにならないことがいくつもありました。それでもおもしろいことに、そのときは予言どおりにならなくても何か月かしますと、別なかたちで必ず実現してくるのです。それは結果的には前よりよかったことのほうが多いのです。最初にこうなればいいと思っていたイメージよりよくなって出てくることのほうが多いのです。
けっきょく、やはりネガの段階での判断であるから、このように出てくるであろうということは予想することができるのではありますが、実際に液を通して、いろいろと焼いてみますと、多少違ってくることがあるということです。いろいろなものが入ってくるという感じなのです。ですから二、三か月のズレはよくあるのです。
16.霊速度とのギャップ
予言とその結果のズレは、霊の個性によってもずいぶんと違います。かえってその霊人の観自在力が強くなりすぎていますと、はずれることもあるのです。あまりにも先のことまでありありと手近に見えてくるものですから、こんなことがまだできないのか、という感じ方であるのです。彼らにしてみればもう、すぐにでも起きるように思うことであっても、それは三次元的には十年かかるなどということがあるのです。
私もだいたい霊の本質がよくわかってきたのでありますが、けっきょく霊的になればなるほど、すぐ答えが出てくるという感じが強くなるのです。霊として純化されてゆき、意識が高くなってきて、肉体意識を離れてほんとうに霊的になってきますと、思ったことがすぐパツと出てこないと間に合わなくなるのです。認識の速度がものすごく早くなり、実現の速度がものすごく早いのです。それゆえに地上の人は混乱するのです。ここに大きな違いがあります。
現在、地上に生きていても、このような混乱はあります。会社でも「一週間もかかってまだできていないのか。一時間でなぜできない。」などと仕事について言うことはいくらでもあるわけで、霊になるともっと激しくなるのです。たった、一秒ぐらいでできてくるのです。
これは本をつくっていると私もよくわかります。いろいろな本をつくっておりますが、守護霊たちは、ほんとうに一冊の本の内容を考えつくのに二、三秒しかかかりません。題名をつけると、高級霊は、一冊の構想がすぐ二、三秒でできてしまうのです。
ところが地上の人間の場合は、作家などでも、構想を練るために旅行をして、ゆかたを着て、落ち着いてから「ウーン」と考えてもなかなか名案が出なくて、いよいよ編集者が来て「先生、もう締切です。もう待てません。だめです!」などと詰め寄られて、「そこを何とか待て!」といい返したりすると、「もう許しません。」なんて脅されてやっと一枚書いたりしていますが、霊界の先生方であれば「こんなのはどうでしょうか。」と題をポンと出します。「いいな」と言えば、もうパッとはじまって、それで、もう本になるのです。
私たちが、たとえば原稿用紙三百枚を書きつらねたならば、ものすごい労働になりますが、彼らであれば想念のかたまりのようなもの、あるいはパッと湧いたイメージをグッとひとつかみでつかむという感じです。そのイメージが実は三次元的に展開されてきて、このような本になるのです。ですから『太陽の法』のイメージというのも、太陽がチラッと輝いたにすぎないくらいで、すぐにパッと本になったという感じなのです。まさしくそうした感じです。
高級霊たちと話していて、霊言集や本をつくるときに、理論書でも一分以上かかることはありません。考えるのも、もう数秒です。それでやることを決めますと、たちまち章立てを書いてくださいます。章と節がありますけれども、すべて一気です。ですからその思考速度になかなかついていけないのです。手で書いていればとうてい追いつきませんし、しゃべってさえも追いつかないのです。一冊の本をしゃべるのに何時間もかかりますが、彼らの思考速度からいきますと、それは数秒のことなのです。それはちょうど、彼らの思想がマイクロフィルムのようにアッというまに完成されて、全体を見てでき上がっているなと感じるのと同じです。しかし、それを三次元的に展開するとなりますと、しゃべる速度でも何時間もかかってしまいます。とてもついてはいけません。それほど霊速度というのは速いのです。
ですから、このような霊人たちにあまり相談してみても、かえっていろいろなことが当たらなくなるのは当然のことなのです。たとえて言えば彼らは、新幹線のように走っていますから、隣の家に新幹線で行こうとすれば、大変なことになるわけです。ブレーキをパッと踏んでも、もう先に行ってしまっている。このような感じなのです。ですから隣の家へは歩いて行くのがいちばんよいのです。その意味では、ほんとうに狐や狸のほうがよく当たるということもあるかもしれません。
この速度というものをひじょうに感じています。そして、私もこの肉体の不自由さを感じています。まさしくそうしたことなのです。高次元の霊が純粋化してきて、ほんとうに霊そのものになればなるほどそうです。まだ地上に近いところの霊は、ゆっくりしているものもおりますが、高次元にいけばいくほどそうなのです。
したがって、彼らはおそらく地上の人の何万倍も仕事ができると思います。パッと思っただけで本一冊分の想念が出てくるのですから、このような能力は地上の人間と比較になるはずもないのです。このようなタイプの人と仕事をしていれば、かなうはずもないのです。
ですから、そのような霊人の予言はほどほどに聞かなければいけない部分もあるわけです。高級霊によっては、「会員がなぜまだ十万人にならないのか。」などと言ってこられることがあります。「もうなってもいいのではないか、二年もたったのだから。」と言われるわけです。私としては、「そんなに簡単になれますか。」と返事をせざるをえないのです。今ごろ、そんな数になっていれば、事務局長などは目を回し、忙しさのあまりに過労で倒れて病院にかつぎ込まれてしまいかねません。二年で十万人にもなれば、会の基礎づくりも、展望も何もできるはずはないのです。地上の人間はそれだけ遅いのですが、あの世の霊からいわせればそういうことなのです。「もう二年もたっているのに、何をやっておるんだ。」という感じですから、ひじょうにその感覚にずれがあります。ようするに時間が違うのです。そのようなことが言えます。
時間の違いがグーッと高速度になってきて、一秒が○・○○○○○一秒ぐらいまで縮まってくればどうなるかといいますと、それが次の一即多、多即一という概念といっしょになってくるのです。時間が縮まってきたときには、私たちの目には同時にいろいろなことができるように見えるのです。
もし千分の一秒、一万分の一秒くらいの間にいろいろなことをできる人が出てくればどうでしょうか。人がまぶたを開けるか開けないかのうちにいろいろな仕事が終わっているということになります。一人で何千人分、何万人分の仕事ができるはずです。普通の人間は止まっているのと同じに見えるわけです。普通の人間が指を動かそうかどうかと考えているうちに、もう講義が終わっているというような、そのような感じになってきます。そういうことなのです。
ですから、地上的にわかるようにいえば、一即多、多即一のところもそのように理解されてもけっこうだということなのです。このような違いがあるのです。
17.神通力
①狭義の観自在力
この一即多に入る前に、もう少し観自在についてお話しいたしますと、狭義の観自在力、あるいは、代表的な観自在力の部分はどこかといえば、梵天界のところがいちおう代表的な部分になっています。大きな意味での観自在はもちろんもっと幅広い領域からあるのですが、代表的なものはこのあたりです。
なぜかといいますと、梵天のあたりにこの六大神通力がいちおうのかたちでそろってくるのです。だいたいこのあたりがわかってくるのです。ここについては、『漏尽通力』のなかでも説明はされてあると思います。
まず、天眼(てんげん・てんがん)という霊視能力です。それから天耳(てんじ・てんに)、霊たちの声を聞く能力です。霊言能力もこれに入れてもよいでしょう。他心(たしん)、いわゆる読心能力のことを言います。宿命(すくめい・しゅくめい)、想念帯を読み取ったりして、その人の過去・現在・未来を見通す能力です。これもレベルによってそうとう差がありますし、はずれることもやはりあるように思います。
②過去世と方便
はずれると言うのでは問題があるかもしれないので、方便と考えたほうがよいかもしれません。釈迦もこの宿命通力にひじょうにたけていました。そして過去世物語をそうとう語っています。これは仏教の物語で、読まれた方もけっこういらっしゃると思いますが、ではそれがほんとうにすべて当たっているかどうかということを考えてみますと、はっきりいって当たっていないのです。
釈迦自身も自分は過去七回生まれ変わって過去七仏といわれていると語っております。そしてその前世物語を話していて、そのときは自分はベナレスに生まれてどうこうだったというように説いているのですが、すべてインドのなかでの話なのです。認識がインドを出ることがないからこのようになるのです。もちろんその当時に、自分はアトランティスに生まれ、ムー大陸に生まれたなどと説いても、わかる人はだれもいませんし、自分もわからなかったのかもしれません。ですから全部インドのなかでの話になっています。
これははたして釈迦が真実を知らなかったのか、あるいは、知っていてそういったのかどうか、このあたりはミソの部分で言えませんが、事実として見ればこれは当たっていないのです。そういうことがいえます。
それからジャータカ物語などでも、動物がたくさん登場してまいります。釈迦の過去世をずっとたどっていくと、鹿になったり、うさぎになったりするのです。それが自分の過去世であったという話も出てくるのです。しかし、このようなことが当たっているはずもありません。これは人を教化するためにそのような話をして、動物をだいじにしなけれぱいけないということを、人間にはそういう立場になる可能性があるという話で諭(さと)しているのです。鹿の王様であったときの話など、いろいろと語っています。これには多少の方便もあったと思います。
③過去世と指導霊
このように、過去世を見通すといってもそうした問題はありますし、特に指導霊がこのあたりは、ある意味で適当なことを言うことがありうるということです。指導霊の認識と、地上の人間の認識とのあいだに、ものすごいズレがあるためなのです。向こうがわかっていても、こちらの人間はもうだいたい自分の生活圏でものごとを考えておりますから、地上側ではこのように考えているから、強くこうあるべきだと思っているようなことがあるとしますと、「まあどちらでもいいことは、難しいことを説明するよりも、そのように答えておこう。」ということがありうるのです。そのようなことがあったと、高橋信次先生がよく言われています。それでずいぶんやられたといっていました。たとえば、自分の車を運転していたのはチュンダカではないかといいますと、「そうだ。」などということがよくあったと言われていますが、そうしたことがいろいろとあるようです。当たっている場合もありますし、そうでない場合もあるわけです。
やはり地上の人間というものは見る範囲が狭いですから、どうしてもその範囲のなかで引き当てをしようとするわけなのです。ところが自分が過去に知っている人の名前の範囲を越えて全然知らない人と引き当てられても何をしていたかさっぱりわからないので困るであろうからということで、その人が知っている名前を言ってくることはあります。
ですからこのあたりはそれほど重視していないと見てもよいのでしょう。指導霊団たちも、過去世があるということがある程度わかればそれで役は終わっていると言っています。実際、そうであろうとも、また違ったものだとしても、それを証明する手立ては何もありませんから、その程度にしか重きを置いていないこともあるようです。ただ、これは指導霊が大ざっぱな指導霊の場合です。
神経の細やかな指導霊の場合は、そうではありません。前者の例としては、具体的な名前を出すと問題があると思いますが、赤色光線の指導霊などが指導しているとそういうこともあったということを聞いています。あまり深く追及するのはよしたほうがいいでしょう。身体が大きくなると、人間はだいたい鷹揚(おうよう)になってきます。
④幽体離脱型の霊視
神足(しんそく)というのは幽体離脱、テレポーテイションだということです。これもいろいろなかたちがあります。ですから霊視能力なども発達してゆき、霊視能力とこの観自在能力、あるいは如心であれば、離れている人のことが千里眼のようにわかってくるという感じも、実は幽体離脱と多少関係があるようです。それは、けっきょくまるごと魂が出ないにしても、魂の一部分がアンテナのように抜けていくのです。そのようにしてわかることがよくあります。
今はもう個人相談はしておりませんが、最初の一年目のうちはしていました。ところが私は具体的に人と会って相談したりしますと一時間も二時間も時間が取られてしまうため、相談者に相談内容を紙に書いてもらって対応させていただいていたのです。読者のなかにも何人か相談された方もいらっしゃるかもしれませんが、名前と相談事項を紙に書いて送っていただいて、直接本人には会わないでもそれを見ると、いろいろなことがわかるのです。
九州のある方でありましたが、ものすごく体の具合が悪いと訴えてこられたことがありました。それで見てみますと、この人に憑いているものがわかってきたのであります。その姿を写生して、このようなものが憑いているよと教えてさしあげたのですが、やはりそのとおりであったそうです。九州のほうで、ある教団の幹部になっていて、たしかに、私が書いたようなものに憑かれているのです。先方も自覚症状があってか、わかりましたと言っていましたが、すぐにいなくなりますよと返事をさしあげたところ、いなくなったとの報告を受けたことがありました。そのようにかなりのところまではわかるのです。
どうして九州にいる人のことが見えるかといいますと、やはりこの神足に少し近いのです。単なる霊視というよりも、むしろ幽体離脱型の霊視に近いと思います。一部分が、かたつむりの角のように、相手のところにシューッと伸びていく感じでわかってくるのです。そのような感じがします。肉体を離れると、おそらくそれがもっとはっきりとしてくると思います。
⑤漏尽
漏尽(ろうじん)というのは、『漏尽通力』という本もすでに出しておりますが、「己の欲するところに従いて、矩(のり)をこえず」と喝破(かっぱ)した孔子の境地で、高度な神霊能力を持ちながら、通常人とまったく変わらない生活をする能力です。「山にかくれたる小聖の境地ではなく、街に住む大聖の境地です。』と説明することもできます。この漏尽は、やはり霊道を開くと、この意味がよくわかってまいりますが、開かなければなかなかわからないようです。霊道を開きますと、この漏尽通力がどれほど偉大なものであり、貴重なものであるかということがよくわかります。
霊道が開いた当初はやはり霊のほうに翻弄(ほんろう)されるようにだんだんなってまいります。これをしっかりとフィルターにかけて判断し、三次元についている自分のこの足を失わないようにするには、やはりそうとう魂的な足腰が強くないと難しいのです。この意味がわかってくる方もいると思います。
以上が狭義の代表的な観自在力で、だいたい梵天ぐらいからこのような感じになってくるということです。ですから、霊といっても四次元・五次元の霊ぐらいであっては、ほんとうは全部はわからないのです。たとえば五次元ぐらいにいるご先祖を呼んで、「私の将来どうなるのでしょうか。」などと聞いても、ほんとうはボヤーッとしかわからないのです。特にそうしたことに興味があって研究している霊であれば知っている場合もあるけれども、霊だから何を聞いてもわかるかといいますと、それほどわからないというのが実状です。やはりそこにも、わかるわからないの差がそうとうあるのです。関心を持っている人でありますとわかることもあるけれども、全然わからないことも多いのです。このあたりがやはり違いなのです。
18.如来界の如心(一即多、多即一)
①複眼的霊能力
それから一即多、多即一、これも高い意味での如心であるといってもいいでしょう。『観自在力』のほうではこうした如心のことを、複眼的霊能力という説明でしていると思います。この前提の梵天界の観自在力というのは、ある程度このように人間的な感じでいろいろなものが見えるという感じでありますが、この高いほうの如心であります。如来界の如心になってきますと、目があっちもこっちもあるかのような感じになってくるということです。
ですから、みなさん方の目は二つしかありませんが、この目がたとえばたくさんあって部屋中に散らばって存在していたとすればどうかというと、自分自身のいろいろな角度の姿が見えるわけです。そういうことなのです。そして目が天井・壁・床に散らばっていて、テレビのカメラのように映していてたくさん姿が映っているのです。このいろいろな画像を見ながら全体のことを感じ取るような能力、これが如来界の如心の感じとなっているのです。まさしくこの感じで、感覚器官が複数ある感じになってきます。ですから一人でも一人ではないような感じがします。
これは受け取る情報でありますが、逆にアクション、活動のほうを見ても、これもまた複数に動きはじめるのです。ひじょうに多様な展開をはじめます。これを地上的にいうならば、前節で述べたような感じです。千分の一秒で仕事を片づけてしまえば、どうなるかということです。一時間かかることを千分の一秒ですませ、無限に縮めていけばどうなるのでしょうか。この動きはもう見えないぐらいの動きです。いわゆる千手観音のように、手が千本あるくらいの感じになってまいります。
したがって、この如来界の如心、ここでは一即多、多即一という言葉で語っておりますが、これはけっきょく、どういうことかと申しますと、数の概念がだいぶ変わってくるということです。これは別な言い方をしますと、自己イメージというのがはっきりと変革することを意味しています。みなさんが自分は一人であると思っているイメージが、一人ではなくていけるという感じです。
みなさんは手が二本しかありませんから、手としては二本の手で感じるものしか感じませんが、もし自分がタコやイカであったらどうかと考えてみてください。タコの足は八本で、イカは十本あります。八本か十本かの手足があると考えてみていただきたいのです。そしてそれぞれがいろいろなものを感じている。目もそのようにたくさんある感じです。このようにして自分が生きている人間という意識で生活すれば、どのような感じがするでしょうか。後ろにも目があるという感じで、足は上にも下にも左右にも自由自在という感じで天井を歩くこともできるでしょう。そのような感じになってくるのです。
②拡大・分化する如来の意識作用
このようになってきますと、人間としてのまとまりの部分がけっきょくなくなってくるのです。なぜそのようになってくるかといいますと、これは意識の数だけ、あるいは作用の数だけ分化するからなのです。思っただけの数に分かれてくるのでありますから、まことに不思議です。意識体として、もう少し具体的にかたちをつけて説明すれば、私がたとえばパッと見て天井のライトが面白いなと思ったとしますと、思った瞬間にどうなるかといえば、私の胴体がキューッとくびれてくるわけです。そして見る間に細くなって、餅のようにパッと切れます。そして頭の上からシューッと足が生えてきて、天井をペタペタッと歩いて、また、そうかと思えば玄関に行きたいと意識しますと、スーッとそちらへ今度は分かれていく感じです。また、ふと駅前に行ってみたいと思えば、いきなり分身が駅前に出てきて通りを歩いている。
あるいは晩ごはんを食べずに夢中になっているうちにおなかがすいたので、あの食堂にしようかなどと思っていますと、そこにスッと分身が現われて食べているという感じになるわけです。このようなことは、人間としているときはできませんが、このかたちになってきますと、もう自由自在になってくるということです。このような感じでありますが、わかっていただければ幸いです。
一つの参考としてはカントの霊訓(『ソクラテスの霊言』所収)のなかで彼が言っておりますが、そのようなことが自己認識として、はたしてみなさんはできるかどうかということです。思いついた数だけの自分が、ようするに分光していって仕事ができるのです。このようにして統一できる自己意識がもしあれば大したものです。これができるようになれば如来の世界なのです。それをどういうように自己の分光を出しながら仕事をするか。この総合仕事率です。いろいろなことをあちこちでやっているのを、中央でキュッとくくってトータルでまとめて管理する能力です。けっきょくはこのあたりが如来の恪になってくるのです。
③梵天如来の自己認識
低い段階の如来、いわゆる梵天の上段階で、梵天如来(ぼんてんにょらい)の場合はどうかといいますと、まだこのあたりの意識のバラツキがありまして、まだじゅうぶんに収拾がついていないということがいえます。いろいろなことができるのはわかるのだけれども、まだ経験の段階にあって、いろいろな経験を積むことが中心になっているのです。「不思議だな、ここで乳を搾るカントあり、あそこでコーヒーを飲むカントあり、そういうことができるのだな、不思議だな。」というような感じです。フッと思うと自分が二人になっている、オヤッと思うともっと増えていて、ほかの仕事をこなしている。そのように活動しているのが、この梵天如来の段階なのです。