目次
2.幸せの基準
1.何をもって幸せとするか
それでは本日は、演題も四日目に入り、「真の幸せ、真の安らぎ」ということで講演させて頂きます。
今まで私は「人生の目的と使命」或いは「反省・瞑想・祈り」「悟りについて」という堅苦しいことばっかりを話してるわけですけれども、いよいよそういう堅苦しいことを離れて、本当の課題、人間、あなた方が一番興味ある課題ですね、これについて取りかかりたいと思うんです。結局、何のための宗教なのか、何のための心の教えなのか、そういうことを考えてみれば、結局「真の幸せ」ですよ。「真の幸せ」どうしたら「幸せ」になるのか、どうしたら心が安らぐのか、まあこういうことですよ。人間はやっぱり幸せになりたいんですね。幸せになりたくない人なんて一人もいません。幸せになりたいから、あっちの宗教、こっちの宗教と次々と遍歴しては、教えを請おうとしているんです。また、心がいつもいらだって怒りっぽくなったり、まあ腹が立ったり、愚痴ったり、こういう、ことするから「真の安らぎ」、こういうものを得たいと思うんです。ですから、今日の課題「真の幸せ・真の安らぎ]というのは、本当の意味で、私たちが目指すものは何か、私たちというのは、あの世の人間も含めて、地上の皆さんがた、一体何を追究しているのか、これに対する答えということになりますね。どうですか。私が一方的にしゃべってもいいんだけれど、今日はこういう情勢ですので、そこで受聴している女性に、真の幸せ真の安らぎについて、御意見をまずお伺いしてから後、私が答えたいと思うのですけれどもどうでしょう。
『私の真の幸せというのは、神の心にかなった自己実現ということで、少しでも神様の御心にかなった自分になれたら、幸せだと思います。今、自分自身では、それがとっても納得できるような状態に、少しずつならせて頂いております。そして、少しずつ段階を追って、神様の御心を理解できるような自分になっていけたら、本当の幸せじゃないかと今は思わせて頂いております。私自身の求めている幸せっていうのは、やはり、本当に神様の御心を心として生きられるような自分になれたら一番幸せではないかと、今は思っております。そのために、毎日、どうしたら、その御心を分らせて頂ける自分になれるのかということが、今の私の課題です。』
まあ、これは答えになっているかどうか。読者の皆さんは如何でしょうか。えー、これで悟れましたでしょうか。幸せになりましたでしょうか。なかなかそうはいかないんではないかと、私は思いますが、幸せっていうのも、非常に多元的な意味があるし、また、その時の環境で、考え方も違うんですね。例えば病気の人にとってみれば、病気が治ることが幸せなんですよ。お腹の空いている人にとっては、お腹が一杯になることが幸せ。結婚したくてしょうがない人は、嫁さんが見つかれば幸せ。ダンナさんが見つかれば幸せ。課長になりたい人は、人より早く課長になれば幸せ。早く停年退職したいと思う人は、停年がくれば幸せ。ポックリあの世へ行きたいと思う人は、ポックリ行けば幸せ。あの世へ行って天国へ来れば幸せ、地獄へ行けば不幸せ。このように、幸せ、不幸せっていうのも、その人の置かれた、大体、環境によって随分ちがうんですよ。
だから、今、そこの女性が、神の心から見て幸せ、なんて言いましたけれども、神の心から見てなんて、なかなか人間できないんです。自分の心から見ているんですよ。やっぱり、病気の人に「いやあー、あなたね、この前インド行ってね、宝の山当てちゃって、ダイヤモンドが出てくる出てくるもうザックザック、掘ればダイヤモンドがもう山ですよ。」なんて言ったってね、病気の人は、そんなこと、ありがたくないんですよ。何かよく効く風邪薬はないかな、なんか風邪薬でいいのないんだったら、東洋医学かなんかでよく効くのないもんかってね。まあ、病気の人の考えるのはこんなもんです。ダイヤモンドを枕元にいくら並べたって、幸せになりやしない。こういうふうに、人間っていうのは勝手なもんでしてね。
2.幸せの基準
幸せの基準っていうのは、その時々に変わるんです。ただ、私たちの目から見るならば何をもって自分の幸せとするか、それを見たら、その人っていうのがどんな人なのか、分るんです。よく言いますね。その人がどういう人かっていうのは、例えば、友達をみなさい、友達を見れば、あなたが分ります。
或いは、あなたがどういう人かを言い当てるには、あなたの蔵書を見せなさい。本を見れば、どういう本を友達にしているかによって、あなたがどういう人間か分ります。こういうことがよく言われますけれども、じゃあ私たちの目から見て、その人がどういう人かっていうのは、結局のところ、何をもって、その人が幸せとしてるか、ということの答えを聞けば、その人の人格なり、人生観が分るんです。霊格まで分ります。まあ、神の心を心として、というのは、これだけで並の人間じゃないということは分るわけですよ。ただ神の心が分っているかどうかで、どれ程並の人ではないかが分るわけです。これが難しいところなんですね。普通はこうなんです。ただ、神の心を心となかなかできなくて、人間の心を心として幸せを考える。これを神の心を心として幸せを感じるようになれば、並の人ではありません。これは天界の人ですけれど、ただ、これが神の心をどこまで理解したか、これが大事なことなんです。
まあ如来界の人であれば、もう神と自分っていうのは一体ですね。もう神の代わりになって、この世に生きている。神の使命を自分自身が遂行する、まあこれは使命でしょうね。
菩薩界の人であれば、要するに、神様が良いと思うことを実現するために、ありとあらゆる援助を借しまない。常々、自分というものを捨てて、人々のために尽くす、こういう無私の気持ち、奉仕の気持ち、これを実践しているかどうか。
まあ、神界の人であれば、並以上の悟りですね。専門家が多いわけですけれども、普通の人に、いろいろなことを教えてあげて、あの世のことも教えてあげて、そこそこ精神的な人ですね。こういう人だったら神界の人です。
こういうふうに段階の差があるんです。自分がどの辺にあるかは、よーく自分自身の心と話してみれば分るんです。まあ、心じゃ分っても、本当のことはなかなか分んないんですよ。
じゃあ、人に奉仕すればみんな菩薩界かっていうと、そんなことないんです。霊界・幽界・地獄界の人だって、人に協力を一杯していますよ。あなた優しい人が一杯いるんですよ。一緒にパチンコ行かないかとか、一緒に競艇やろうよ、大儲けしたらあなた肋かりますよとか、そんなのが一杯いるんです。一緒にマージャンやらないかと誘います。マージャン、でも、いやこれが儲かるんだよ、あなたそれが、マージャンさえやれば、お宅のカミさんも喜ぶよ。小遣い、ねだらなくても自分で小遣い稼げるんだからこれで一ヵ月遊べる、そうすりゃ、あなた、カミさんの怒る顔を見なくてもすむし、自分自身は助かるし、これ以上のことないと、こんなことがあるんです。
だから必ずしも、人助けだけが菩薩ではない。その目的ですね。どういう目的でもって、人助けをしているかどうか、こういうことが大事ですね。さて、それでは、あなたは「真の安らぎ」を言わなかったけれど、「真の幸せ・真の安らぎ」ということについて、まず、私自身の考えを述べさして頂きます。
3.あなたの幸せは、「砂の城」ではないのか
基本的には、この幸せっていうのは、この世の人間的な判断、偽我といいますか、生まれ落ちてから数十年間でつくった、価値基準こうしたものに基づく幸せじゃないことは、うすうす気がついておられることだと思います。なにせ、この世の基準なんていうのは、砂浜で子供がお城かなんか作ったりしてますね。砂のお城とか、言うんでしょ。『砂の城』と書いて、まあ、遠藤周作かなんかも本書いているようだけれども、浜辺でお城作ると、ザーッと波が押し寄せてきて、あっという間に砂が崩れちゃう、砂のお城が崩れてしまいます。
こういうふうに、砂のお城のような幸せというのを、人間はどうしても考えちゃうんです。例えば、ある会社に入りました。そこに入りまして、エリート社員になりました。人よりボーナス一万円多かった。二年すれば二万円多くなるでしょう。五年すりゃあ、五万円多くなるでしょう。これで幸せを感じている人もいます。課長になりました。部長になりました。或いは役員になりました。経営者になりました。嬉しい。経営者になって嬉しい。なんてなったとたんに、会社がちょっと傾いちゃって、役員以上は全員賞与なし、なんて決められたりして、ガクッとくることがあるんです。こういうのを砂の城っていうんです。砂の城による幸せというのは、まあすぐ消えちゃうんですね。こうじゃなくて、こういう幸せは、やっぱり追い求めても、なかなか満足がいくもんじゃありません。
ですから、人間はこんな刹那的なものじゃなくてこの世的なものではなくて、永遠の目から見て幸せとは何か、ということを追求することが大事なんです。それでは、そういう永遠の目から見た幸せとは一体何でしょう。こういうふうにマイク握ってて、カラオケでも歌ってれば幸せだっていう人もいるんです。これは、永遠の目から見た時は、私が歌っている時は本当に幸せです。もうこの時は恍惚です。もう恍惚感、エクスタシーもいいとこ、もう、うっとりしちゃって、自分の歌うのに惹かれちゃって、うっとりしちゃうというような幸せな人もいます。これは永遠の幸せかもしれません、その人にとっては。ただ私らが聞いたら笑っちゃうだけですが。お前の歌声なんか聞きたくもないと、テープになんかにとるなと、何回も回されたんじゃかなわない。近所迷惑だというような、こういう幸せもあるわけです。これは、私たちが考える幸せってそんなもんじゃないんです。
まず、神様の目から見て、恥ずかしくないような幸せとは何か、神様が、一体、何を望んでおられるのか、これを考えなきゃいけないんです。そして私たちは、子供だったら、まあ勉強がよく出来て通信簿で「5」をもらえば嬉しい。これは子供の幸せだけれども、大人の幸せは、悟った人間としての幸せって何かというと、結局、神様から見てね、「よくやったね」と言ってくれるような人間になることです。神様から一番よくやったねと言われることが、これ一番の幸せなんですよ。じゃあ、神様ってどういう人間を一番よくやったねと思ってくれるかということですね。これを考えなければいけないんです。
4.神の本意は完成にではなく教育にある
今度はそうすると、神様は何のために、人間を創ったんだろうか、そして、人間をこんな一人二人じゃなくて、何十億人、まあ、霊界の人口いれれば、何百億人ですよ、こういう人を創ったかです。これを考えてみましょう。神っていうのは、俗に言われているように、完全無欠、もう完全な神と言われています。そうすると、神様はもう完全で、もう完成したものであるならば、神様っていうのは退屈しちゃうわけですね。もう完全で一点の非もない、欠点もない。もう完成したもんだったら。完成という点では、それこそ、神様の究極でしょうけど、そうすると、完成っていうのは、ある意味では、未完成なんですね。完成が未完成っていうと矛盾するように思うかもしれませんけど、完成っていう言葉は、ある意味では、もうでき上ってるということなんです。はたして完全の真理、完全の美、或いは、完全の善、そういったものが、そういうふうにでき上がってしまったものなんでしょうか。もう動きも、どうもしないようなものなのでしょうか。それが本当の意味の完全でしょうか。それは、誰から見て完全なんでしょうか。
でき上がってしまったものを、例えば、神様が完全ということの意味が分らなきゃ、あなた方、ホカホカ弁当に行けばいいんですよ。ホカホカ弁当見て、家へ帰る途中で、「ああ、今日は帰って何作ろうか。何作っていいかわからない。ええ、もうめんどくさい。ホカホカ弁当買おうか」と思って、ホカホカ弁当買おうかと言いつつホカホカ弁当屋さんに入ります。まだ、ごはんも暖かいですよと、フライドチキンもありますと、これレンジで暖めれば二分ですと、そう言われると、「ああ、そんなもんかな。」と思って買います。完成品ですよ、ホカホカ弁当は。これ完成品でしてね、これ、手の加えようがないんです。ちゃんと用器に入って、ポリ用器に入って、フライドチキンも入って、あとキャベツも入り、レタスも入り、お米はなんとあなた、ササニシキですよ。お宅では使ってないでしょう。本当は麦ごはん半分位入れて食べるのを、私知ってるんだから。ホカホカ弁当は、最近のササニシキ、あの産地直売のササニシキを使ってですね、これでホカホカご飯炊いてるんです。プロが炊いているんです。ちょっと冷めるかもしれないけれど、電子レンジがあれば完璧ですね。
こういうふうに、完全な姿、神の完全な姿と言うのは、ホカホカ弁当なんです。まあ言ってみれば。これで果たしてあなた方、いいですか。こういうことなんですよ。ホカホカ弁当だって完全だけれど、いや、こりゃちょっと淋しいんじゃないかとやっぱり、そういうホカホカ弁当みたいに、完成品じゃなくてもいいけれど、下手でもいいけど、自分の手料理であったら、相手の人の好みを聞いて、こういうのでいいかしら、と、いや、ちょっとそれは困ると、塩味がちょっと強すぎるかしらと、こりゃ醤油味がいいな、とか、ちょっと野菜が不足しているようだとか、たまには肉も入れないと怒られるとか、えー、こういうふうに考えていいわけです。
じゃあね、ホカホカ弁当と、そういう手料理と比べて、どっちが完全かと言うと、そりゃあ、完成品という意味では、ホカホカ弁当の方が完成しているんですよ。ただ、完成してるが、何か物足りない、その物足りなさっていうのは何だろうか。それは、融通無碍(ゆうずうむげ)な部分です。融通無碍、千変万化、自由自在に変わっていくもの、これがないんです。完成品っていうのには。そうすると、神様は、ある意味では完全だと言われたけれども、完全で無欠で、しかも、神様っていうのは、全智全能、そのもののはずです。そうすると、神様は、逆に融通無碍でもなかったらおかしいですね。
全智全能の神様であるなら、自由自在に自分を変えられる神様じゃなきゃ、おかしいですね。ですから、どこにでも売ってるホカホカ弁当じゃなくて、幕の内弁当、色々あるけど六百円、八百円あるけど、それだけで、神様つーんとすましてたんじゃ、ことすまないんですよ。神様っていうのは、自分の思いのまま、形に現れないと気がすまないんですよ。
神様っていうのは、ひとつのことを考えたんです。よし、じゃあ、融通無碍のね、自分の思ったような世界っていうのを展開してみようと。その方がおもしろいじゃないかと。そういう何ていうか、固まりきった完成品よりは、自分は永遠の発展をしてゆくような存在でありたい。神様は、そう考えられたんですよ。皆さんの手料理は、まあ、そんなにうまくなくても、死ぬまで手料理を続けていたら、そのうちうまくなるだろうと。こっちの方がいいんじゃないかと、神様は考えたんです、分りやすく言えば。プロの先生が調理して売ってる料理よりは、まあ、塩加減少々違ったり、火加減が強かったりして、料理するけれども、まあ、それでも一生続ければね、そのうち良くなるだろうと、まあ、こういう手料理の方がいいじゃないかと、神様は考えたんですよ。
それでね、あのホカホカ弁当を捨てて、自炊することになったわけです。神様が、自炊すると決め、そして、自炊の手段を色々考えたんです。自分が、こんな完全な神様と言われながら、自分で修行して、自分を変えていくんじゃ、こりゃたまらん。どう考えても。だから、神様って、先生なわけですよ。早い話が、まあ、一流の帝国ホテルのコックですよ。先生が、作れば、天下一品のものができるんです。ところが、先生が、自分が融通無碍であるところを見せたいからといって、失敗品なんか作ったら面白くないでしょう。先生が目玉焼きを失敗したり、コショーかけて失敗したりしたら、カッコ悪いから、そういうわけにいかんと思ったんです。
それじゃ、お弟子さんを入れましょうかと思います。帝国ホテルにお弟子さんを一杯入れるわけです。十人、二十人、なかには、十六、七歳の人もいるんです。まあ、二十歳もいる。そうすると、十六、七歳の人だったら、目玉焼きを失敗したって、まあ、年が若いから仕方ないかな、と。三十になってきたら、フランス料理もそろそろ本領というのを分ってもらわにゃいかん。こういう偉そうなこと言える三十位の人には、「そろそろ君も独立する頃だから、フランス料理の華は何か、フランス料理の本当の命はどこにあるのかを知ってもらわなければいけない。」まあ、三十位の人には、こう言える。十六、七の位の人にはね「君は卵も焼けないのか、もら一回皿洗いからやるか。」と、こういうことが言えます。神様も楽しいんですね。相手に合わしていろんなことが言えますから。
ところが、自分が作ってね、色々失敗してたんじゃかっこつかない、完全ですから。完全であり融通無碍でありたいと、神様は自らが完全であり融通無碍ってんだから、先生になっちゃえば一番いいわけですよ。先生は完全だけれど、自分で失敗はないけれど、人を教えると、まあ、教えられた人の段階によっては、えー、百%成功したり、えー、五十%だったりすると、こういうふうなことにしたわけです。そして、神様は先生として、帝国ホテルに入りまして、料理を教えてるわけです。神様はフランス料理もできるし、日本料理もできるし、中華料理もできます。だから、全智全能なんですね。万能なんです、神様は。それで、いろんな中華料理のコックさん、日本料理のコックさん、こういう人を育ててるんです。そうすると、神様のお弟子さんが作っているものをみてみると、必ずしも完璧じゃないんですね。完璧じゃない。ただ、年季の入った人はうまいもの作る。こういうものなんですよ。で、年季の入ってない人は、失敗品を作るんです。大体、こういうふうな世界観なんです。そうすると、今の例を霊界、魂の世界に置き変えると、三十歳位で、そろそろ独立しなきゃいかんという人が高級霊ですね。まあ、如来界の人、まあ、菩薩界の人です。そして、見習いの人は、魂として若い方ですね。幽界雲界あたりの人なんです。ですから、彼らは失敗品を作ります、時々。失敗品を作るっていうことは、これは、地獄へ行くということなんです。真っ当なコックになるためです。ですから神様が創られた世界というのは、そういうものなのです。
よくクリスチャンなんかで、無神論者の人で、神様が全智全能で、神様が全くの善、全くの真理であるなら、どうして地獄があるのか、どうして地獄霊なんかあるのか、というんです。あるはずですよ神様は先生だから、自分で造れば失敗ないけど、先生はね、それだけじゃ面白くないから、お弟子さんを入れて、そして、教育して造らそうとしているんです。自分の代わりに。だから、失敗もあります。ただ、お弟子さんは着実にうまくなってゆきます。失敗作も、いつまでも続きません。こういう世界になっているんです。
で、こういうふうに、いろんな人達を創って、お弟子さんを入れて教育することによって、先生はまた、それで相対的に自分を磨いているんです。分りますか。先生は先生であって完璧である以上、進歩がないんです。ところが、先生は、お弟子さんを入れて教えることによって、また教えるということを学ぶんです。教わることはないんです。自分が、教わることは、何もないんです。先生というのは完全だからね。ところが、教えるということを通してね、教え方というのを学ぶんです。ここにまた、進歩があるんです。
ですから、神様は、宇宙の森羅万象、宇宙の仕組みを全て知っています。全て知っていますが、つまり、教わることは何もないんです。けれども、教えることによって、それをいろんな人たちに宇宙の仕組みを教えることによって、教えるということを自分が学んでいるんです。教えるといういうのはどういうことかって、自分が学んでいるんです。そういう意味において教わることにおいては、もう完成してても、教えることにおいては無限なんです。無限の進歩が約束されているんです。神様は、こういう世界を良しとされたんです。つまり、自ら教えられることは何もありません。しかし、教えることを無限に続けていける、そういう永遠の発展というのを、神様は考えられたわけです。これが、神の世界観なんです。こういう世界なんです。
5.神の心にかなった幸せとは何か
まあ、真の幸せから、随分話がはずれてきたようですが、こういう世界観として、神が創られたということは、人間の立場に立って、本当の幸せって何か、神様の心から見た幸せって何かっていうと、まあ、大体分るでしょう。
結局、何で、神様は人に応じて、中華料理を教えたり、イタリア料理を教えたり、日本料理を教えたりしているんでしょう。あなたがもし、日本料理を学ぽうとしているなら、日本一の日本料理の調理人になりなさい。そういうことですね。あなたが中華料理を学ぶなら、本場の中国の人にも負けないような中華料理のコックさんになりなさい。あなたがイタリア料理のコックさんになるならイタリアにも負けないような、スパゲッティを作りなさい、ということです。
それが、今のような比喩で言ったわけなんですけど、個人の場合でいうと、例えば、あなたがもし宗教家になるんなら、日本一の宗教家になりなさい。もし、学校の先生になるんなら、日本一の学校の先生になりなさい。ピアニストになるんなら、日本一のピアニストになりなさい。こういうことになります。
これを言い換えると、さらにこれを通訳するとどういうことか。結局、人間というものは、自分がどのような使命をもって生まれて来ているか、ということを、まず悟りなさい。使命がない人なんて、一人もいないんです。全員に使命があるんです。生まれて来た以上、まず、自分の使命を悟りなさい。もちろん、神様の道を説くのが、神様にとって一番いいけど、そういう人ばっかりが、この三次元に溢れても困るんです。勿論、ほら、ニワトリ造っている人もいるし、ニワトリの卵をかき集めている人もいるし、ニワトリの卵を農協へ全部持って行く人もいるんです。農協から、また、工場へ運ぶ人もいるんです。そして、卵を冷やす冷蔵庫を作る人だっているんですから。いろんな人がいるから、神様の道ばかりを説いてるわけにいかないんです。まあ、それぞれの人に自分に合った使命、天命っていうものがあります。これを、自分自身の良心、内なる心と相談して、よく見極めなさい。そして、自分の天性、使命というものを悟ったなら、それで日本一、世界一の人間になるよう、まず、努力しなさい。それが、神様の心に叶っています。
私たちの目から見れば、神様は、日本料理が好きなのか、中華料理が好きなのか、イタリア料理が好きなのか、そんなこと、わかんないんです。神様は、どの料理も上手ですから、本当、どれが好きかわかんないんです。ただ、自分がとにかく日本料理が向いてると思えば、日本料理のコックさんでいいんです。これで、第一級の人に成るべきです。同じくいいですか、会社の人間、ビジネスマンとしてね、自分の天分があるとすれば、その与えられた環境の中で、その会社のために、一生懸命尽くしなさい。そして、自分でやれるだけの日本一のビジネスマンになりなさい。また、実業家、自分で会社を興したような実業家であるなら、日本一の会社に育てていきなさい。また、自分が農家の開拓で一生を送る人間だということが分ったら、日本一の農業家になりなさい。或いは、自分が遠洋漁業のマグロ漁船に乗り込むことに生きがいを感じるなら、日本一のマグロ採りになりなさい。これでいいんです。
ですから、「真の幸せ」ということに対する私自身の解答として、まず、自らの天命を知りなさい。大川隆法さんのように宗教家になるべき人が、会社でペーパー・ワークなんかしてたって、これは、真の幸せは絶対にあり得ないんです。これは、天命が違うところにあるからです。場所が。こういうふうに、全ての人が、自分の天命をまず悟りなさい。そして、その天命を悟ったら、その中において、日本一、世界一を目指しなさい。そして、日本一、世界一になったら、それが真の幸せです。神様が念うのはそこです。そういうことです。
ですから、まず、分を知りなさい。自分の分を知って、その分を極めなさい。ここに、真の幸せがあります。言葉を換えれば、最高度に自分に向いた方向で、最高度に自分を発揮するということです。これが神の心に叶うことであり、真の幸せです。
6.真の安らぎとは、真我なる自分自身の発見にある
では、「真の安らぎ」って何でしょう。安らぎについて考えてみます。真の安らぎというのは、結局、今、日本一の自分になれということを私は言いましたけれど、今度は、ある意味では逆のことなんです。今のは、どちらかというと、要するに、より向上してゆこうとする自分であったと思うんです。この安らぎの方は、どちらかと言うと、次の、明日の話題にもありますが、「足ることを知る」ことに近づいていきますけど、その日、そのままが神の子であることを悟るということです。これが、真の安らぎにつながっていきます。
あなた方は、不完全な存在です。人間っていうのは、私も含めてそうです。不完全な存在であるから、永遠に進歩発展していかねばなりません。その意味において努力が要ります。ただ、努力努力に縛られる必要はないです。人間は先程言いましたように、もともと神が創られたものです。ですから、神が未熟な人間も、年若い人間も考えられて創られたんですから、年若い人間は、目玉焼きを失敗することもあります。ただ、目玉焼き失敗するからと言って、自分がそれでダメなんじゃないんです。それで嘆き悲しむ必要はないんです。その本質において、神と同じなんです。その神と同じ、神と相通じている自分自身を知るということです。ここに、真の安らぎというのがあるんです。
だから、あなた方は、いつも不完全な自分というのを日々反省しておられるようだけど、反省も大事だけど、反省だけじゃいけない面もあります。それはもう一つは、信ずるということです。自分の良い面を信ずるということですね。あなた自身も神の子なんです。自分を罪の子と思っちゃいけない。自分を罪の子、穢(けが)れの子、原罪を負った人間だと思うと、人間はいつまでたっても心の安らぎがないんです。そうじゃないんです。人間は表面的にはね、もちろん罪の子であったり、穢れの子であったりします。禊払(みそぎはら)いも必要です。けれど、本質においては神と同じなんです。神の子なんです。
ですから、人間というのは、ある意味では、自分をつまらない人間として、日々反省、日々謙虚でなければいけませんけれども、別の面からいくと、絶対なる自信を持たなければいけまぜん。なぜなら、自分の本質は、神と一緒だからです。神と一緒の人間として絶対なる自信、勇気、こういうものを持つ必要があります。神とあなたとは一緒なんです。同じもんなんです。
ですから、真の安らぎというのは、自分の真我なるもの、自分の内なる真の我、自我が偽我じゃない真なる我(われ)、真我が神と同じものである、一致したもの、共通したものであると、これを知ること、これが真の安らぎなんです。この時に初めて人間は、本当の意味で心が安らいでくるんです。これを知らないで、自分というものを不完全なものだと思っている時は、どうしても心が安らぎません。
ですから、真の幸せにめがけて、精一杯努力し、そして、その途中で休憩しなさい。真の幸せを求めてね、努力している過程で、旅の途中で、腰をおろしなさい。そして、自分自身をみつめてみなさい。その中に神の、神を目指して歩んでる自分自身が、実は、神の子そのものだということに気づくことがありますでしょう。その時に、本当に真の安らぎというものを得られるんです。
また、言葉を換えて言うならば、永遠のね、神に向って向上の旅を続けているからこそ、途中で休憩して、本当の安らぎを得ることができるんです。神を求めている旅だからこそ、真の安らぎがあるんです。旅でなければ、最初から休んでいるんであれば、真の安らぎはないんです。努力しているからこそ、安らぎを感ずる面もあるということです。以上が私の今日の講演「真の幸せ、真の安らぎ」ということです。