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第三章 表象すること - (2006/11/03 (金) 23:51:47) の編集履歴(バックアップ)


“Representer”

三“記号の表象作用 (La Representetion Du Signe)”


古典主義時代における記号 (signe) の変化の重要性(p.83上)

17c.前半に変化し、その変化がきわめて長い期間に影響を与えたものこそ signe の存在 d'etre に他ならない。この時期 signe は類似とは違うものとなる。

古典主義時代の、signe を規定 (difinir) する3つの可変要素 (variables)

1. 結合関係の起源  ― 自然的 or 約束による〔人為的〕
Ex)鏡の中の反映と実物との結合(自然的)⇔ある集団にとってのある観念とそれを指示する特定の語との結合(人為的)
2. 結合関係のタイプ ― 指示対象に属する or 指示対象と切り離されている
Ex)良い顔色と健康との結合(指示対象に属する)⇔旧約聖書の象徴とキリストの化肉と贖罪(l’Incarnation et du Rachat)との遠い結合(指示対象と切り離されている)
3. 結合関係の確実性 ― 確実〔必然的〕 or 蓋然的〔偶然的〕
Ex)呼吸と生命との結合(確実)⇔蒼白い顔と妊娠との結合(蓋然的)

※これらの結合関係はいずれも『相似関係を必然的に含む』ものではない
Ex) 叫びは恐怖を指示するが、二つは似てはいない
この3つの可変要素が、類似関係にかわって経験的認識領域における signe の有効性を規定する。 (p.83下)

一) 結合関係の確実性 (3.) から(pp.84上~85上) signe の配置は世界から認識の内部へ そして知は占いと切り離される

signe はつねに確実もしくは蓋然的なものであるから、認識の内部になければならない。(p.84上)

16c.では signe は物のうえに置かれていた〔signe は認識の外部にあった〕。(p.84上)

17c.以降 signe は確実なものと蓋然的なものとに分割される。(p.84上)

ここにおいて知は 占卜(divinatio) との古い関係を断絶する。(p.84上~下)
占卜のつとめは神によって世界のうちにあらかじめ配分された言語(langage)を拾い集めることであった。(devinatio >> deviner (見抜く) >> divin (神的な))
しかし今では signe が記号として働く(signifiant)のは認識の内部においてであり、signe はその確実性や蓋然性を認識から借り受ける。

二) 結合関係のタイプ (2.) から(pp.85上~86下) 距離の収斂から距離の拡散へ

16c.には相似は、適合と競合と共感、とりわけ共感によって空間と時間に対して勝利を収めていた。(p.85上) なぜなら signe は物を引き寄せ結びつける機能を持っていたから。
しかし古典主義とともに signe は〔結びつける機能とは〕逆に本質的な分散性によって特徴付けられることとなる。(p.85下) 収斂〔収束〕的記号の円環状の世界は無限に展開〔拡散〕する世界に代わることとなる。

signe は要素としてそれが指示する対象の一部をなすか、そのものから(現実には)切り離されるか、この2つのどちらかの立場をとるであろう。ただしこの二者択一は完全なものではない。なぜなら signe が機能するためには、signe は記号であるところのもの (signifie) に挿入される〔一部をなす〕と同時にそこから要素として区別され〔このとき全体全体は分割される〕、漠然と結びついていた全体的印象から取り出され〔切り離され〕なければならないからである。このようにSigne の成立は分析と不可分のものである。(pp.85下~86上)

さて、分析なしに signe が出現し得ない以上、signe は分析の結果である。しかし同時にまた、分析された signe が新しい印象〔全体〕にも適用される以上、signe は分析の手段でもある。精神が分析を行うがゆえに signe があらわれ、精神が signe を手にしているがゆえに分析は際限なく続く。(p.86上)

古典主義時代の思考における signe は距離を消滅させもしなければ時間を廃絶しもしない。逆にそれらをくりひろげ、一歩一歩それらを踏破することを可能にする。Signe によって、ものはたがいに区別されるものとなり、それぞれみずからの同一性のうちにとどまりながら、ほどけ、そして結ばれる。西欧の理性は判断の時代に入るのである。(p.86下)

三) 結合関係の起源 (1.) から(pp.85下~88上) 自然と人為の逆転 要素探求と結合操作の相互依存

16c.にも自然によって与えられたsigneと人間に作られたsigneとの違いはあった。しかし人為的signeは自然的signeへの忠実性に支えられていた。〔人為的 signe < 自然的 signe だった。〕(p.86下)

しかし17c.以降自然的 signe はむしろ人為的 signe の未完成なものと捉えられるようになる。〔人為的 signe > 自然的 signe になった。〕自然的signeは、物から取り出された一要素で認識によって成立せしめられたものであり、強課された融通のきかない不便なものであるとされる。一方人為的signeはいつでも単純で、記憶しやすく、無数の要素に適応できそれ自体分割と合成が可能なように選べる(選ばざるを得ない)ものである。こうしたsigneが人間と動物を区別し、自然発生的想像力を意志的記憶に、注意力を反省に、本能を理性的認識にする。(p.86下~p.87上)

ところで signeを決めるものはその機能であり、signe の規則を決めるのも機能である。signe の恣意的体系は、物をそのもっとも単純な要素に分析しものの起源〔要素〕にまで分解する機能〔分析機能〕と、それらの要素の組み合わせ〔連結〕がいかにして可能かを示し物の複雑性の発生過程を観念の上で理解させる機能〔総合機能〕を持たなければならない。こう考えると、「恣意性〔人為, 記号〕」が「自然性」と対立するのは signe が設定された際の仕方〔要素〕を指示するときであって、結合combinatoireの空間においては対立するものではない。(p.87上)

古典主義時代においてsigneの体系とは、その完成された形において、要素的なものの命名を可能にする単純で絶対的に透明な langue であり、同時にすべての可能な連結を規定する操作の総体に他ならない。この二つの機能は我々からは両立しがたく見える。しかし要素的なものとの探求〔分析〕と普遍的計算〔総合,結合〕とが一つの人為的体系の内部で相互依存の関係におかれることが、古典主義時代を貫くエピステーメー(l'episteme)なのである。Signeを用いることはもはや永遠に語られ語りなおされる言説(discours)の原初的テクストをsigneのしたに再発見しようとこころみることではなく、自然を自らの空間の中で展開させることを可能にする恣意的言語(langage)、自然の分析における最終的な項、そして自然の合成法則を、発見しようと努めることである。知は古い言葉(parole)を未知の場所から掘り起こすのではなく、一つの言語(lange)を創りださねばならない。(p.87下~p.88上)


まとめ


今や signe の体系が古典主義時代の志向に対して指定する道具を規定することは明らかであろう。signe の体系が認識のうちに蓋然性、分析と結合(combinatoire)、体系の正当化された恣意性を導入する。起源の探究と計算可能性、可能な合成物を定める表(tableaux)と、もっとも単純な要素からの発生過程の復元を同時にみたすのもsigneの体系であり、すべての知を一個の言語(langage)に近づけ、既存のすべての言語(langue)に人為的記号(symboles)と論理的性格の操作との体系を置き換えようとするのもsigneの体系である。17c.初頭のSigneと類似との分離が 蓋然性、分析、結合(combinatoir)、体系、そして普遍的言語(la langue universelle)といった新たな形象を、必然性の単一な網目として出現させた。(p.88上~下)

四. 二重化された表象


古典主義時代のエピステーメーにとってもっとも基本的なもの: signe の二元性


signe の二つの要素: あるものの観念(signifiant) と 他のものの観念(signifie) (pp.88下~89上)

cf.ルネッサンスにおける signe についての理論――三元論
  • 標識 (represente) によって示されるもの〔signifie に対応〕
  • 標識となるもの〔signifiant に対応〕
  • 後者のうち前者の標識を認知することを可能にするもの〔後の表象作用に対応 この時点では類似的〕(p.89上)

条件 能記 signifiant の二重性


signifiant は要素として何かを表象しなければならないだけではなく、表象作用も自身の中に表象しなければならない。(p.89上~下)

これは3つの項へ内密に回帰しているわけではない。

第一の帰結 signe の重要性

signe は知を得るための鍵から、表象作用すなわち思考のすべてと同一の広がりを持ち、
それを前提として超えるものとなった。

第二の帰結 意味作用 signification の理論の可能性の排除


意味作用は意識の中で限定された形象ではない。(p.91上)

signe の外部に意味はなく、signe に先立って意味 sens はない。〔ここでは signifiant = signe, signifie = sens となっているように思える。〕体系は、意味の分析よりも signe の理論の側に、ある種の特権を与えている。そのため意味は、signe の完全な《表 tableu》のうちに与えられるはずである。(p.91上~下)

だが一方、signe の《表》は物の〔signifie の?〕《模像》に他ならない。意味の存在l'etre が完全に signe の側にあるとしても、機能は完全に signifie の側にある。〔ここでは意味の存在と signifie が違う意味?〕

第三の帰結 signe の二元的理論が、signe にかかわる一般的理論だけではなく、表象の一般的理論と根本的関係によって結ばれている


関係は表象の一般的な場の内部に設定されるほかない。すなわち、signifiant と signifie が結ばれているのは、両者がともに表彰されている限りにおいて、しかも、一方が現に他方を表象している限りにおいてなのだ。〔signifie が signifiant を表象することもあるということ?〕従って、signe に関する古典主義時代の理論が、それを哲学的に基礎付け正当化するものとして何らかの「観念学」、すなわちすべての表彰形態の一般的分析、を持ったのは当然のことであった。