日本書紀は、
日本の歴史書。伝存最古の正史で神代から持統天皇の治世までを記述する。舎人親王らの撰で養老4年(720)に完成。構成は、漢文・編年体で全30巻・系図1巻。系図は失われている。
概要
- 誰が、誰のために、どういう目的で、どのように作られたか
- どれくらい信頼できて、どんなことがわかるか
構成
文体・用語
各巻によって語彙・語法の奇用や使用されている音韻の違いがみられ、大まかにα群とβ群に分けたうち奇用のないα群を中国人が、そうでないβ群を日本人が編纂を担当したと推定されている。
- 森博達.“日本書紀成立論小結: 併せて万葉仮名のアクセント優先例を論ず”. 国語学. 54(3), 日本語学会, 2003, pp.1-15.
紀年・暦年
日本書紀では、各天皇の即位の年の末尾に「この年大歳」としてその年の干支を記した「大歳記事」があり、太歳紀年法で年を記述する。また、神代を除き各々記事には月朔(干支)日(干支)と記述され、月の一日の干支を基準に日が特定できるようになっている。神武紀の甲寅年十一月丙戌朔から仁徳八十七年十月癸未朔までが儀鳳暦、安康紀三年八月甲申朔から天智紀六年閏十一月丁亥朔までが元嘉暦と一致するという。
依拠史料
- 帝記、旧辞、墓記、風土記、個人の手記、社寺の縁起など
- 三国志、漢書、後漢書、淮南子、百済記、百済新撰、百済本記など
記述の信頼性
考古資料・文献資料との一致
- 百済武寧王の即位記事
- 百済武寧王陵墓誌と王名・生没年
非一貫性
- 神功紀で襲津彦に新羅を攻めさせた内容に、百済記による沙至比跪の行状に対する天皇の怒りを引用。神功摂政中は天皇位はまだ空位
- 皇極記元年(642)二月丁亥朔戊子(21日)条で既に死んだはずの大佐平智積が来朝する
- 制定・施行(647)前の冠位十三階の7位、大錦冠を中臣鎌子連に授ける
- 穴門で白雉について、白雉瑞祥の先例記事が応神紀・仁徳紀に見えず
- 孝徳紀白雉元年(650)二月甲申(15日)条
- 白雉記事は他にも、推古紀七年(599)九月癸亥条・天武紀二年(673)三月丙戌朔壬寅(17日)条に見えるが、場所が異なる(百済・備後)
- 孝徳紀白雉五年(654)十月癸卯朔壬子(10日)で崩御したが、葬儀なく葬られる
- 孝徳紀白雉五年(654)十二月壬寅朔己酉(28日)条
- 伊勢の王は2度死に、なお諸国を巡る
- 斉明七年(661)六月 伊勢王薨
- 天智七年(668)六月 伊勢王与其弟王、接日而薨。未詳官位
- 天武十二年(683)十二月甲寅朔丙寅(13日) 遣諸王五位伊勢王。大錦下羽田公八国。小錦下多臣品治。小錦下中臣連大嶋并判官。録史。工匠者等、巡行天下、而限分諸国之境堺。然是年、不堪限分。
- 天武十三年(684)十月辛巳(3日) 遣伊勢王等、定諸国堺。是日、県犬養連手繦為大使。川原連加尼為小使。遣耽羅。
- 天武十四年(685)十月己丑(17日)伊勢王等亦向于東国。因以賜衣袴。是日。諡金剛般若経於宮中。
- 朱鳥元年(686)正月壬寅朔癸卯(2日)。~中略~。伊勢王亦得実。即賜皀御衣三具。紫袴二具。〓[糸+施の旁]七疋。糸二十斤。綿四十斤。布四十端。是日。摂津国人百済新興献白馬瑙。
- 朱鳥元年(686)六月甲申(16日)遣伊勢王。及官人等於飛鳥寺。~後略。
- 朱鳥元年(686)九月甲子(27日)平旦。諸僧尼発哭於殯庭乃退之。是日。肇進奠。即誄之。第一大海宿禰蒭蒲誄壬生事。次浄大肆伊勢王誄諸王事。
- 持統二年(688)八月丁酉(11日)命浄大肆伊勢王、奉宣葬儀。
- 持統紀朱鳥元年(686)九月戊戌朔丙午(9日)に天武天皇は崩御していたはずで、2年後に葬儀
- 持統紀持統元年(687)正月丙寅朔(1日)にも葬礼?他多数
- 持統紀二年(688年)十一月乙卯朔戊午(4日)条
- 暦日の不存在
- 天武九年(680)五月乙亥朔乙未(21日)条で既に死んだはずの秦造綱手に忌寸の姓を与える
- すでに都として完成している難波を再び作ろうとする
- 孝徳紀白雉二年(651)十二月晦(31日)条 天皇従於大郡遷、居新宮。号曰難波長柄豊碕宮
- 天武天皇十二年(683)十二月庚午(17日)条 故先欲都難波
- 天武天皇の葬儀に遺民が参加
- 朱鳥元年(六八六年)閏十二月、筑紫大宰、献三国高麗・百済・新羅百姓男女、并僧尼六十二人。
矛盾
| 五〇一 辛巳 壬午 武寧王即位・『三国史記』 |
| 五〇二 壬午 癸未 武寧王即位・『日本書紀』 |
| 五二一 辛丑 壬寅 武寧王朝貢・『三国史記』「武寧王二十一年条」 |
| 五二二 壬寅 癸卯 武寧王朝貢・『冊府元亀』「普通三年条」 |
| 五二三 癸卯 甲辰 武寧王没・『日本書紀』『三国史記』 |
| 五二四 甲辰 乙巳 武寧王没・『梁書』「普通五年条」 |
| 五二五 乙巳 丙午 武寧王埋葬(墓碑) |
- 正確だが日本では観測されなかったはずの蝕
- 皇極二年(643)年五月庚戌朔乙丑(16日) 月有蝕之
- 天武九年(680)年十一月壬申朔(16日) 日蝕之
- 正確な蝕記録の中に唯一の誤り
- ○推古36(628)年3月2日
- ×舒明8(636)年正月壬辰朔
- ○舒明9(637)年3月2日
- ○天武9(637)年11月壬申朔
- ○天武10(638)年10月丙寅朔
- 郡評問題
- 大化の改新の詔によって郡制が施行されたはずが、同時期の木簡には「評」と見える
- 筑紫都督府の存在
- 天智6(667)年に(前々年に遣唐使とした)境部石積を、百済(を支配した唐)の鎮将劉仁願が(百済の)熊津都督府の司馬法聰に命じて、筑紫都督府まで送ってきた。
不備
- 逸年号
- 大化・白雉・朱鳥・大宝・慶雲・和銅以外の元号の存在
- 逸事跡
- 記録されなかった日蝕
非合理性
- 持統紀に吉野行幸
- 頻度が異常に多く、かつ集中
- 持統十一年(六九七)六月以降は、ほぼ全然と言っていいほど行幸が見られない
- 奈良の吉野にふさわしくない冬季に多く行幸。
- 蝦夷征伐の順序
最終更新:2010年02月03日 07:16