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『動物化するポストモダン』東 浩紀 - (2008/02/21 (木) 11:41:05) のソース

**問題点
-オタク=一群のサブカルに耽溺する人々として、それらの作品の製作者=オタクとしていいものか?

-オタクに対する肯否における世代別問題は、90年代以降は別に考える必要がある。&br()大澤の終わらない日常に適応できる者と適応できないものの区分が必要

-人間関係の有効性を現実/虚構との選択指標とするのは不適。&br()なぜなら、現実/虚構の選択後にしか人間関係が形成されないから。だとすれば、すでその時点で、現実親和性/虚構親和性というようものがそのような選択をさせたのではないか

-「大きな物語」と呼んだものの内部では、すでに矛盾、軋轢が生じて、その発展が、ある一つの事件をきっかけに崩壊まで行き着いたと考えるのが自然じゃないか?

-HTMLなどのプログラム言語と「大きな物語」との区別は何か?&br()プログラム言語=自然言語 「大きな物語」はHTML言語層とWebページの間の層と考えればいいのか? (でもこれは錯綜してる)

-作者のいう「データベース」のイメージがわかりにくい。&br()一方では、ただのデータの集積と考える節もありつつ、&u(){「データベース」との距離}を言うときに、そうでもないようなイメージも見えてくる。

**視点
-オタク系作品がもつ日本的イメージの親和性 東西のハイブリッド性&br()敗戦でいったんそれまでアイデンティティ否定され、続くには、アメリカ的様式の植え付け。その様式を引き受けつつ、明治あるいはその前の江戸時代まで遡ってアイデンティティを取り戻そうとした結果。

-「大きな物語」を必要としない世代の出現!=(終わらない日常に適応できる者?)

-大きな物語の喪失→虚構→虚構すらやめてしまう

-虚構の時代において、人々は生きることに意味があるという見かけを信じなければならなかった

-大きな物語とその断片としての小さな物語との乖離的共存

-人間的欲望は本質的に他者を必要とする!