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風の王国 - (2007/01/08 (月) 23:30:05) の1つ前との変更点

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*風の王国 題名:風の王国 第一巻 翔ぶ女 第二巻 幻の族 第三巻 浪の魂 作者:五木寛之 発行:アメーバブックス 2006.12.20 初刷 価格:各\1,000  クリスマス・プレゼントなどに似合いそうな赤・青・緑というスタイリッシュな装丁の3巻セットだ。横組での製本は「若い世代にも読みやすい」ためだそうだ。若い世代ではない私には、教科書を読んでいるようで、正直、かえって読みにくいくらいだった。しかし、作品の内容はとりわけクリスマス・プレゼント向きでもなければ、特別若い世代向きというわけでもない。  テーマは、むしろ大きく、重い。一言で言うなら、サンカ、あるいは山窩と呼ばれる漂泊の民にフォーカスした物語である。映画では萩原健一・藤田弓子主演の『瀬降り物語』で取り上げられたのが有名である。定住をベースとする日本民族のマジョリティに背を向けて、定住地を持たず、国家に属そうとしない漂泊のマイノリティが、つい戦前まで存在したことを、今の日本で果たしてどれだけの人が知っているだろうか。  日本は農耕民族と一口に言うが、イヌイットなど海洋民族、アイヌなど山岳民族の生活圏であった。かれらの生活圏域を支配階級が侵したことによって、日本の統一・単一化という強引な歴史の上にこの国の民族支配の現在は立っているわけである。いわばどこの国とも変わらない少数武力による謀略の歴史だ。日本史の教科書で我々が叩き込まれるのは、支配者の側の歴史でしかないのだが、当然それらはわが国の血の略奪という暗い流れを、奇麗ごとへとすり替えたものだ。  支配階級による土地の領地支配を基にした年貢による経済基盤構築が封建国家のよって立つところであるが、多くは皇族・武族による地域支配とその拡大こそが建国の歴史であった。そうした支配・被支配のシステムに組み込まれることを徹底的に拒否し、定住・所属を嫌い、山河を漂流したのが山窩(サンカ)と呼ばれる山の民であった。  彼らは自らをサンカではなく、ケンシと呼ぶ。その謂れは、人の住む世界であるこの世と、この世ならざる山の界とを行き来する、即ち世の間を往来する「世間氏(セケンシ)」だった。誇りある名であるセケンシ・ケンシを、支配側は山窩と呼び、差別・迫害した。  そのような山の民の末裔を、現代を背景に伝奇小説のスタイルで描写し、大きな問題提起を含んだ作品として作り上げたのが本書なのである。  トラベル・ライターである主人公は、二上山で驚異的な早足で歩く美女に出会う。またその夜、仁徳天皇稜で、謎の一族の密かな祭祀を目撃する。彼の出生の秘密と、建国の昔より時代に絡み合って続いてきた漂泊の一族の歴史との関わりが、作品の過程で徐々に明らかになってゆく。  ページを繰る毎に日本古代史の光の当たらなかった部分が改めて照射される構造になっている本書は、ノンストップなエンターテインメントとしても一級であり、ある意味で大スケールの冒険小説でもある。肥大化して分派となってゆく一族の末裔たちによる資本主義支配・自然破壊など、経済立国ゆえに噴出する国家的不条理にまで、サスペンスの軸を滑り込ませて行くことにより、錯綜する現代日本が抱える問題の重要さを、改めて浮き彫りにしてみせた作者渾身の作品であると思われる。  五木寛之という作家を、実は高校時代にずいぶんと読み漁った。『風に吹かれて』『海を見ていたジョニー』『鳩を撃つ』『朱鷺の墓』『さらばモスクワ愚連隊』『蒼ざめた馬を見よ』『涙の河をふり返れ』『こがね虫たちの夜』『わが憎しみのイカロス』等々……。感受性の鋭い年代だったせいか内容も未だに印象に強いが、そういう世代を的確に捉えて離さないテーマを常に提供してくれる作家だったのだと思う。この作家はどちらかと言えば短編小説が好きだったので、むしろ『青春の門 自立篇』あたりで頓挫した口である。  そう思うと30年ぶりくらいの五木寛之体験である。今の時代に読むと、この作品も1985年に初版上梓の作品だから、テーマの大きさの割りに若干物足りなさを感じないではない。しかしそれにしてもノンストップで一気読みさせるストーリーテリングの才は、かつて私がずっと若かった頃に受けた印象そのままだった。読書におけるこうした再会のドラマというのも、それなりに感慨の深いものである。 (2007/01/08)
*風の王国 #amazon(4344990420,text,image)#amazon(4344990439,text,image)#amazon(4344990447,text,image) 題名:風の王国 第一巻 翔ぶ女 第二巻 幻の族 第三巻 浪の魂 作者:五木寛之 発行:アメーバブックス 2006.12.20 初刷 価格:各\1,000  クリスマス・プレゼントなどに似合いそうな赤・青・緑というスタイリッシュな装丁の3巻セットだ。横組での製本は「若い世代にも読みやすい」ためだそうだ。若い世代ではない私には、教科書を読んでいるようで、正直、かえって読みにくいくらいだった。しかし、作品の内容はとりわけクリスマス・プレゼント向きでもなければ、特別若い世代向きというわけでもない。  テーマは、むしろ大きく、重い。一言で言うなら、サンカ、あるいは山窩と呼ばれる漂泊の民にフォーカスした物語である。映画では萩原健一・藤田弓子主演の『瀬降り物語』で取り上げられたのが有名である。定住をベースとする日本民族のマジョリティに背を向けて、定住地を持たず、国家に属そうとしない漂泊のマイノリティが、つい戦前まで存在したことを、今の日本で果たしてどれだけの人が知っているだろうか。  日本は農耕民族と一口に言うが、イヌイットなど海洋民族、アイヌなど山岳民族の生活圏であった。かれらの生活圏域を支配階級が侵したことによって、日本の統一・単一化という強引な歴史の上にこの国の民族支配の現在は立っているわけである。いわばどこの国とも変わらない少数武力による謀略の歴史だ。日本史の教科書で我々が叩き込まれるのは、支配者の側の歴史でしかないのだが、当然それらはわが国の血の略奪という暗い流れを、奇麗ごとへとすり替えたものだ。  支配階級による土地の領地支配を基にした年貢による経済基盤構築が封建国家のよって立つところであるが、多くは皇族・武族による地域支配とその拡大こそが建国の歴史であった。そうした支配・被支配のシステムに組み込まれることを徹底的に拒否し、定住・所属を嫌い、山河を漂流したのが山窩(サンカ)と呼ばれる山の民であった。  彼らは自らをサンカではなく、ケンシと呼ぶ。その謂れは、人の住む世界であるこの世と、この世ならざる山の界とを行き来する、即ち世の間を往来する「世間氏(セケンシ)」だった。誇りある名であるセケンシ・ケンシを、支配側は山窩と呼び、差別・迫害した。  そのような山の民の末裔を、現代を背景に伝奇小説のスタイルで描写し、大きな問題提起を含んだ作品として作り上げたのが本書なのである。  トラベル・ライターである主人公は、二上山で驚異的な早足で歩く美女に出会う。またその夜、仁徳天皇稜で、謎の一族の密かな祭祀を目撃する。彼の出生の秘密と、建国の昔より時代に絡み合って続いてきた漂泊の一族の歴史との関わりが、作品の過程で徐々に明らかになってゆく。  ページを繰る毎に日本古代史の光の当たらなかった部分が改めて照射される構造になっている本書は、ノンストップなエンターテインメントとしても一級であり、ある意味で大スケールの冒険小説でもある。肥大化して分派となってゆく一族の末裔たちによる資本主義支配・自然破壊など、経済立国ゆえに噴出する国家的不条理にまで、サスペンスの軸を滑り込ませて行くことにより、錯綜する現代日本が抱える問題の重要さを、改めて浮き彫りにしてみせた作者渾身の作品であると思われる。  五木寛之という作家を、実は高校時代にずいぶんと読み漁った。『風に吹かれて』『海を見ていたジョニー』『鳩を撃つ』『朱鷺の墓』『さらばモスクワ愚連隊』『蒼ざめた馬を見よ』『涙の河をふり返れ』『こがね虫たちの夜』『わが憎しみのイカロス』等々……。感受性の鋭い年代だったせいか内容も未だに印象に強いが、そういう世代を的確に捉えて離さないテーマを常に提供してくれる作家だったのだと思う。この作家はどちらかと言えば短編小説が好きだったので、むしろ『青春の門 自立篇』あたりで頓挫した口である。  そう思うと30年ぶりくらいの五木寛之体験である。今の時代に読むと、この作品も1985年に初版上梓の作品だから、テーマの大きさの割りに若干物足りなさを感じないではない。しかしそれにしてもノンストップで一気読みさせるストーリーテリングの才は、かつて私がずっと若かった頃に受けた印象そのままだった。読書におけるこうした再会のドラマというのも、それなりに感慨の深いものである。 (2007/01/08)

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