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傷だらけの天使 魔都に天使のハンマーを - (2008/07/06 (日) 22:56:24) のソース

*傷だらけの天使 魔都に天使のハンマーを

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題名:傷だらけの天使 魔都に天使のハンマーを
作者:矢作俊彦
発行:講談社 2008.06.19 初版
価格:\1,700



 100%読者の夢を実現させてくれる作品なんてあるはずがない。世の中を切り裂く作品は多くても、長い間ずっと思っていたようなことが実現するなんていうことは、あるわけがない。そう諦めてしまうのが当たり前である時代に、そうした諦念を笑い飛ばすかのように、本書は、まるで奇蹟のように、唐突にぼく等の前に出現する。それだけで、最早、もう涙、だ。

 萩原健一、ショーケン、小暮修という伝説に生きる世代が、日本には確かに存在するはずである。ぼくはこのドラマを人生で最も多感であった高校時代にリアルタイムで経験させられている。日々は『傷だらけの天使』であった、といっていい70年代であった。

 なぜあのドラマがぼくらの世代のバイブルとなってしまったのか。その理由なら、今でもいくらでも語り尽くせる多くのことがある。ぼくらはとにかく学歴偏重主義の教育ママに育てられ、三無主義、進学競争と何かと親の期待を背負わされていた世代であるかと思う。世代という言葉が最大公約数的な意味合いしか持たないので、個々には言い及ぶことができないことはお許し願いたいのだが。

 しかし、確実に世代、その傾向、その独特なる文化というものは存在するものであり、ぼくらの十代に小暮修と乾亨(いぬいあきら)というキャラクターは少なからず影響を与えたものである。まず学歴偏重時代に対し、中学卒業の修と中学中退の亨の生き方はまるでハンディキャッパーのようであった。あの高度成長時代に生きようとする文盲は衝撃ですらあった。

 しかし彼らは当時の青少年の心を捉える。汚れ、貧しい、都会の中で、とても深い情を示し合い、事件を理屈ではなく、天然のハートで受け止めるその青春のデリカシーこそが多くの青年の心を捉えて離さなかったのである。

 今、そうした時代が過ぎ行き、ドラマでも映画でも、あのピュアな、けだもののような若者の熱い塊を、カタルシスいっぱいに描く、エネルギッシュでラジカルなドラマなど、どこを探したって存在しない世の中、世代の代弁者である矢作俊彦という作家以外、このような形で現代と70年代のギャップを小説化できる才能は存在しなかったろうと思われる。

 だからこそ、あれから長い時間が経ち、未だに弟のように可愛がっていた亨の死を自らの罪と担い続ける修の姿が泣けるのである。この小説を今の若い人たちが読んでどう思うのかはわからない。少なくとも矢作が、市川森一の創出した世界を現代に甦らせた功績は言葉では言い尽くせないものがある。

 泣き、笑った。こういう読書は他にはあり得ない。持って歩き、団塊の世代や、ぼくよりも若い世代にも、本を示してどうだ、じゃーん! と見せると、ほとんどの人がえ? え? 何? それ? という驚愕に満ちた反応を示した。ほとんどのドラマファンは矢作を知らないかもしれない。でも表紙のショーケンの画像には、けっこうな反応を示してくれるのである。嬉しい。

 小説は、誰にでも勧められるくらい骨組みも精神もしっかりとドラマを今に受け継いでいる。それでいて知る人ぞ知るという遊びにも満ちている。サブタイトルにもなった「天使のハンマー」は1960年代に主にPPMのカバーで世界を席巻した曲である。

 ホームレスの小暮修が冒頭で食べる牛乳、コンビーフの缶詰、トマト、魚肉ソーセージは、ドラマのタイトルシーンのことである。小暮修が目覚めにかけている水中眼鏡も。

 さらに、手入れを受けるやくざが「七曲署か?」と叫ぶシーン、歌舞伎町の映画館では映画「相棒」の舞台挨拶が行われているシーンなど、どれも小暮修、乾亨ではなく、萩原健一、水谷豊という俳優陣の出演作品のパロディである。

 あの頃のドラマの役者たちは、小説生内でも確実に踏襲されているが、既に鬼籍に入っている西村晃は小説でも故人となっており、岸田森は整形手術を受け人相が変わっている。ホーン・ユキが演じていたキョウコちゃんの運命はちょっとここでは書けない。むしろホーン・ユキがどうしているのか知りたいけれども。

 こうして書くと、やはり改めてのあの時代の俳優陣での映画化をも前提に矢作はこの作品を作ったのではないだろうか。岸田今日子は健在であるし、何しろ、小説ではいろいろな若い世代からの新キャラクターを登場させている。これらを現代の役者であれば、誰に振るのだろうかと想像するだけでも十分に楽しめる作品である。

 ロック世代だが生き方は浪花節、と豪語する昭和の代表者小暮修と、ハイテク、ITヤクザたちとの世界対立構造も、矢作が現代の「傷だらけの天使」構想において一歩も引かなかった証左である。

 うーん、日本の素晴らしい二つの才能が、この本で一つになった。もちろん、矢作とショーケンのことである。まさしく、泣けるぜ!

 今の世代に読んで欲しい、我らの時代のバイブルだ。

(2008/07/07)