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drive - (2006/12/17 (日) 19:15:43) のソース

*ドライブ 

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題名:ドライブ
原題:Drive (2005)
作者:ジェイムズ・サリス James Sallis
訳者:鈴木 恵
発行:ハヤカワ文庫HM 2006.9.30 初版
価格:\600 

 本編が180ページに満たない薄さでありながら、無駄なくぎっしりと内容の詰まった高密度な描写。命を賭け金にした騙し騙されの、ぎりぎりの世界。フレンチ・ノワールの美学にも相通じるようなモノトーンの魅力が感じられる。ストーリーのシンプルさ、短さにも関わらず、この作品がひときわ輝いて見えるのは、言葉数の少ない語り口の魅力だろう。

 まるで悪党パーカーシリーズの幕開け描写のようだ。いきなり闇のモーテルで三つの死体。広がりつつある血液の流れ。そこで、すぐさま舞台はフラッシュ・バック。どうだろう。これだけでも十分パーカーを想起させないだろうか? 退屈をいささかも感じさせぬ鋭くスピーディな描写に、いきなりむんずと腕を掴まれて持って行かれる感覚。

 もちろん一晩で一気読みの推進力だ。主人公の心理描写はさしてないのに、どこかでその深淵を覗かせてゆく間合い重視の描写。だからこそノワール。それも間違いなくフレンチ系の。

 フランス・フィルム・ノワールの凄みは、暗黒街に棲息する半端者たちの容赦ないサバイバル・ゲームをアクション活劇として描きつつも、彼らの中に潜む暗い情動、破滅的志向、あるいは運命に翻弄される人生の非情などを、映像と音によって徹底して匂わせてゆくことだ。表現されて説明される種類の美ではなく、表現しないことによって描写されてしまう、間合いの美学だ。

 フランス人が日本文化を好む傾向(北野武映画に対するフランス人らの反応を見よ!)にあるのも何となくこの辺で相通じるものがあるからだと思う。アメリカ映画に見られる饒舌せ説明過多なアジテーション力学などには決して見当たらない間合いの文化である。ちなみに、リュック・ベッソンは映画製作者として非常に好きな監督ではあるが、フィルムノワールの担い手と呼ぶことには無理があるだろう。間合いの文化はむしろ最近のクリント・イーストウッド映画のものだろう。

 さて、そういう意味では無駄のほとんどないリチャード・スタークの悪党パーカー・シリーズとは、ある意味アメリカ的ではなく、間合いの文化であり、説明しない表現を主とするフレンチ・ノワールに傾いたシリーズだったのだろう。説明されるハリウッド映画に対し、説明をしないフレンチ・ノワールと区別すると分かりやすいかもしれない。悪党パーカーは、ペーパーバックの系譜をなぞるものであり、安物店の使い捨てミステリーの産物でもあり、薄くても誰もが楽しめる純度100%の異社会エンターテインメントであったろう。

 本書はそうした悪党パーカーの世界と相通じるモノクロ・トーンの暗黒社会に生きるドライバーの物語だ。生きるためにプロとして仕事を引き受けてゆくタフな一匹狼のドライバー。それがこの小説の主人公であり、物語のすべてであると言っていいかもしれない。ウォルター・ヒルの映画『ドライバー』と同じく、犯罪チームの逃走車両専門ドライバーでありながら、ライアン・オニールのようには華麗かつクールな無敵ヒーローでもなくポーカーフェイスでもなさそうだ。

 プロとして周到緻密に切り抜けてゆく手腕はライアン・オニールの演じたドライバーと変わらない。だけど、イザベル・アジャーニをそばにはべらせてもいないばかりか、彼を取り巻く者たちの空気が違う。

 自らの生への燃えるような執着があり、母への歪んだ思いがある。家出少年をピックアップしてくれたドライバーとの奇妙な友情があり、手ほどきをしてくれた師匠への思いがある。どれ一つとってもクールやドライという言葉とは縁のない多くの人間的関わりを持つ生身の人間が、地獄のような犯罪者たちの世界で生き延びてゆくというタフな人生の物語だ。

 闇の中を疾走するドライバー。人生は疾走することだと言わんばかりに、スピードに乗り、暗く深い夜をどこまでも駆け抜ける。ただそれだけの物語に過ぎないのだ。

(2006/12/17)